神谷武夫 |
1965 東京芸術大学 入学(美術学部・建築科 )
事務所 神谷武夫建築研究所 E-mail:kamiya@t.email.ne.jp |
QUOTATIONS from BOOKS
語 録(本からの抜粋) |
日本の語録 | 西洋の語録 | 東洋の語録 |
本の思い出、絵の思い出 |
暗く 鬱屈した青春時代を過ごした者にとって、高校時代が楽しかった と回想することはできない。生まれて来なければよかった、と早くから考えるような人間であった。けれど そうした苦悩や不安にさいなまれながら、なお 未知への憧れを心に抱きつつ生きるというのもまた、青春時代の 一つの形であるのかもしれない。外界との違和感を 常に感じながら 内向していく若者が、しばしば 読書や芸術に救いを求めるように、私もまた 毎日 美術室に入りびたって 絵を描き、そうでない時には(授業中も)小説ばかり読んで過ごしていた。母校に対して 何よりも感謝しているのは、そうした生活を可能にさせてくれるような「自由」にあった。管理されることを嫌い、集団で行動することを苦手とする故に、今もなお宮仕えせずに フリーでいるくらいだから。
三年間の担任は 国語の内田先生であったが、美術部では ずっと林先生の指導を受けた。建築家になろうと決心した直接のきっかけは 林先生の勧めであったが、文学の方の影響も少なくなかった。当時愛読していた立原道造が、詩人であると同時に 建築家でもなかったら、建築家になろうとは 思わなかったかもしれない。また 北園へ入って最初に読んだ小説『ジャン・クリストフ』に深く感動したあまり、自分も ジャン・クリストフのように生きねばならぬ、などと心に決めたりしたのだった。貧乏芸術家の道と 独身生活は、ここに胚胎しているわけである。
一方、美術と文学を結びつけた大きな出会いは、国語の教科書に載っていた「窓の少女」という一文である。これは 美術史家、矢代幸雄が欧州に留学し、ロンドンのダリッチ画廊にある レンブラントの『窓の少女』という絵に寄せて内面を語ったもので、高校時代に出会った文章の中では、中勘助の『銀の匙』と並んで 最も美しいものであった。文章の美しさばかりではない、そこに論じられている レオナルド、ボッテイチェリ、レンブラントを通して語られる その芸術論と人生論とに深い共感と、暗い人生における慰めさえ覚えたのである。
その「窓の少女」は 矢代幸雄の最初の美術評論集『太陽を慕ふ者』に収められていると知ると、戦前に改造社から出たその本を 神保町や本郷、早稲田の古書店をどれだけ捜しまわったことだろうか。いくら尋ねても見つからずに 半ばあきらめかけていた頃、別の本を捜している時に 不意に眼にした時の驚きと喜び。それは 美術評論集というよりは、若き日の芸術の徒が、遥かな異国の地でつづった 魂の漂泊の日記であった。真摯な学問と芸術の探求に ないまぜにされた感傷主義の故に、著者はそれを絶版にして 人目から遠ざけてしまったのだが、若い私にとってその本は 一種の精神的な救いと慰謝であった。
「あくがれなくて 如何して人の生きられやう。是は太陽を慕ふものの声である」と書き出されたこの書を読み終わった時、私の心の中には 勃然として、「自分もこのような本を作ろう」という気持ちが 湧き起こったのである。それからは 日に夜を継いで本作りに熱中し、あちこちに書き散らした原稿や詩、日記、手紙の類まで動員して文章を集め、用紙を選んで清書し、たくさんの図版を貼り込み、製本して キャンバス装の表紙をつけ、北園の校舎のスケッチを描いた函まで造ったのだった。こうして私の初めての本、美術評論集『ルノワールの涙』限定1部が できあがったのである。当時 少数の師友に見せ、その時書いてもらった感想文は 今でも保存してある。しかし その本自体は、書棚にしまったまま 10年以上も 手を触れていない。その文章の多くが あまりにも幼く感傷的であるために、顔から火が出るようで 読めないからである。
『窓の少女』 に関しては、いつか英国に行くことがあったら きっとこの絵を訪ねよう、という当時の願いが、その 10年後に叶えられた。ロンドン郊外のこの画廊のことは 知る人少なく、苦労の末に やっとたどり着いて、私の青春時代の象徴のような その絵と対面したのである。その時、何だか 私の心に漂い続けていた青春の想いに 別れを告げられたような気がした。それが、私にとっての「歌のわかれ」だったのだろうか。
BANK NOTES & COINS in SHOWA
父が生前にくれた 名刺用の青いプラスチックの箱の中に、昭和の 戦中・戦後 の 紙幣と硬貨が、わずかな量ですが、たたんで入っていました。今から見れば珍しい アンティークの「近代日本の お金」です。あまりに少なすぎる分量の「少額貨幣」ですが、物珍しく思う方もいるでしょうから、それらをスキャンして 載せておくことにしました。 ここをクリック すると『 昭和、戦中・戦後の 少額貨幣』のページに飛びます。 ( 2024 /05/ 01 ) |
インタビュアー:佐藤雅子(インド舞踊家)
プレス・リリースは、9月3日に インド政府の 文化・観光省により ニューデリーの アショカ・ホテルで行なわれ、その後、9月13日には ムンバイで出版記念会が開催され、各地で たいへんな話題を呼んでいます。 今回のインタビューは、日本でインド建築についての ご研究をしていらっしゃる わずかな一人である 神谷先生に、インド建築についての お話を うかがいました。
当時、私は、東京芸術大学の美術学部・建築科を卒業後、山下和正建築研究所に入り、青山の フロムファースト・ビル の設計を担当していましたが、アジア的感覚が すっぽりと抜けてしまう建築界の風潮に 多少の反発を覚えていました。何かアジア的な 新しいものを作ることはできないか? と、考えていたところ、「インド」という国が突然 頭に浮かびました。 子供時代に親しんだ 花祭りや三蔵法師、手塚治虫の漫画など、仏教を通じたものが 日本の文化に根付いていること、敬愛する埴谷雄高や 高橋和巳が インドのジャイナ教に興味を持っていたこと、当時はFM放送が始まった頃で、小泉文夫による「NHK 世界の民族音楽」を聴いて 日本人の若者がインドに行き始めていたこと などが重なりました。
早速 インドに関する文献を集めましたが、仏教の本は多いものの、建築に関する本は ほとんどなく、観光ガイドブックも インド、ネパール,スリランカを一緒にした 薄い本一冊のみ。とにかく この目でインドの建築物を見なければならないと、フロムファースト・ビルの竣工後、事務所を辞め、1975年1月に、3ヶ月の滞在予定で インドの地を踏みました。
「何でも 人と同じことをしなければならない」日本に比べ、「思いのままで OK」 というインドは、どんな格好をしても OK、自己主張をして波風をたてても OK、「生きていること」を まったくもって実感でき、次から次へと 新しい発想が沸いてきました。3ヶ月後に日本に戻りましたが、この時のインド旅行は たいへんなインパクトを与え、さらに深くインド建築を調べてみよう と思ったのです。
インド建築の代表として 私が一番に挙げたいものは、西インドのラーナクプルにある ジャイナ教の「アーディナータ寺院」です。内外部を装飾する彫刻の造形美は ヒンドゥ寺院のそれには及びませんが、寺院全体の壮麗さは 他の追随を許しません。それは、先ほど述べた、三つの建築形式の総合性からきています。ウダイプルから車で4時間の山中にあり、あまり知られていない寺院ですが、訪れるたびに 感動を覚えます。インド建築の 最高傑作でしょう。
今から7年前に発行された『 インド建築案内 』には、神谷先生がそれまで 20年間に渡って撮影した2万枚もの写真の中から 1800枚が選ばれ、収集した資料の中から 300枚の地図と図面が使用されています。既に初版1万部、第2版 5,000部が売り切れ、第3版がこの春に刊行されました。
ラーナクプルの アーディナータ寺院を インドで最も優れた建築と絶賛していらっしゃる神谷先生の、その他の お薦めのインド建築は、北インドのヒマーチャル・プラデシュ州にある 木造寺院群。 多雨で緑が多く、また複雑な地形から 観光化が殆ど行われていない ヒマラヤの山岳地帯は、他地域とは異なる文化を呈示し、建築学的に見ても たいへん興味深いのだそうです。 お好きなインド料理は、タンドーリ・チキンと バター・ナーン。インドに行くと必ず 各地で召し上がるそうです。 お薦めは コルカタの リットン・ホテルの ビーフステーキ。インドでは最高なのだそう。 お好きな言葉は、
「 私は、我々をとりまく全世界が たとえ滅びようと、その中に 救いを見いだし得るような、独立した 自主的な生活を始めるように 忠告しているのだ。」 「 サイの角のように ひとり歩め 」 (ブッダの言葉) 黙々とご自身のお仕事に専心されてきた 神谷先生の生き方を表しているような言葉 にも感じられます。 毎日心がけていらっしゃることは、 「 規則正しい生活 」。 インドの建築にふれることによって、それまで 欧米と日本という二元論で考えていた世界を、多元的に見るようになり、世界は多様性に満ちている という認識を深めるようになられたという 神谷先生。 現在は、ご自身の研究とお仕事の他に、専修大学の非常勤講師として、芸術学と 建築を教えていらっしゃいます。
19世紀の建築の理念は「様式」、20世紀の建築の理念は「空間」と言われています。 現代建築は、幾何学で作られ 内部空間の美しさを重視する 皮膜的建築(イスラム建築)と相性が良く、講義などをしても人気があるそうですが、これとは趣を異にして 外観の「彫刻性」を重視したインド建築は、現代には なかなか受け入れられにくい要素を持っています。
メールはこちらへ kamiya@t.email.ne.jp
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