PROFILE of TAKEO KAMIYA
神谷武夫

かみや たけお 建築家 プロフィール

Takeo Kamiya
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1965  東京芸術大学 入学(美術学部・建築科 )
1968  「富士高原に建つ別荘」設計競技入選
1969  東京芸術大学 卒業(昭和 44年 )
1971  山下和正 建築研究所に勤務(〜1976)
    フロムファースト・ビル(1976年度 日本建築学会賞 受賞)
     等の設計・監理を担当
1976  最初のインド建築研究・撮影旅行( 3ヵ月間 )
     以後、世界各地の建築文化を訪ねて 46回、延べにして 1500日以上を旅する
1980  神谷武夫 設計事務所 設立(一級建築士事務所 )
1983  神奈川建築コンクール 最優秀賞 受賞(横浜の町家
1987  訳書 イスラムの 建築文化を出版(原書房 )
      SD レビュー入選(クロイスター
1989  訳書 楽園のデザイン ― イスラムの庭園文化 』 を出版(鹿島出版会 )
1990  GID コンペ入賞(『 クロイスター』)
     訳書『イスラムの 建築文化 』の 普及版を出版(原書房 )
1991  GID コンペ入賞(パラダイス・ガーデン
1992   『 at 』誌の懸賞論文で 優秀賞受賞(『 文化の翻訳 ― 伊東忠太の失敗 』)
      マフィアによる迫害が始まり、建築雑誌に作品が載らなくなる
1993  訳書ヒンドゥ教の建築を出版(鹿島出版会 )
     デルファイ研究所刊の『 at 』誌で、ジャイナ教の建築について連載( 〜1994)
     (『素晴らしきインド建築 ― ジャイナの小宇宙 』)
1994  12回目のインド旅行をして、インド建築の撮影を完了する
1995  建築学会の機関誌『 建築雑誌 』に「あいまいな日本の建築家 」を執筆する
     マフィアによる迫害が激化し、工事妨害、出版妨害、家宅侵入が行われる
1996  妨害と闘いながら、著書インドの建築を出版(東方出版 )
     同じく、著書インド 建築案内を出版( TOTO出版 )
1997  JIA 建築事情視察団『インド建築巡礼の旅 』の団長をつとめる
     『ユネスコ 世界遺産 』第5巻「インド亜大陸編 」の建築監修とリライト(講談社 )
      10月にホームページ「 神谷武夫と インドの建築 」を立ち上げる
1998  TBS テレビ『ユネスコ 世界遺産』の「タージ・マハル廟とアーグラ城」の監修
     『 まちなみ 建築フォーラム 』誌で 創刊号から「インドの木造建築 」を連載するも、
      マフィアの圧力で雑誌がつぶされ、連載は5回で中断する
1999  JIA 建築事情視察団『インド建築視察・世界遺産の旅 』の団長をつとめる
     TBS テレビ『ユネスコ 世界遺産 』の「ラホール城と シャーラマール庭園 」の監修
      東京大学 非常勤講師(「インド建築史 」)
      専修大学 非常勤講師(「 芸術学 A - 建築 」〜2007 )
2000  朝日カルチャーセンター(東京)で「インド建築史 」の講座をもつ
     日本建築学会『建築雑誌』9月号に「末端肥大症の建築」を執筆する
2001  世界考古学 発掘アカデミー(東京)で「インドの都市と建築 」の講座をもつ
     東大助手(後に教授)の村松伸から依頼されて、論文「ジェイムズ・ファーガスン
     と インド建築 」を書くが、20年経っても 本は出版されず(風響社)
2002  事務所の名称を 神谷武夫 設計事務所 から 神谷武夫 建築研究所 に変更
      TBS テレビ『ユネスコ 世界遺産 』の「パハールプル 仏教寺院遺跡 」、
      および「デリー(フマユーン廟 とクトゥブ・ミナール)」の監修をする
     『 建築東京 』誌に「インド・ヒマラヤ建築紀行 」を連載する
2003   『インド 建築案内 』の 英語版 が インドで出版される
     『 伊東忠太を知っていますか 』に「 伊東忠太のインド建築行脚 」を書く(王国社)
     『 EURASIA NEWS 』に「 世界の建築ギャラリー」を連載する( 〜2004)
2004  『 中外日報 』紙に「 世界の 宗教建築 」を連載する( 〜2005)
2005  著書インド古寺案内(「インドの宗教建築」)を出版する(小学館 )
2006  著書イスラーム建築を執筆するが、マフィアの圧力で 出版されず(彰国社 )
2007  この年より日本・中国・韓国 建築学会の 英文論文集 "Journal of Asian
     Architecture and Building Engineering" の建築史関係の 応募論文の査読
2009  TBS テレビ『 THE 世界遺産 』の「タージ・マハル廟と アーグラ城 」の監修
      4月に ホームページをインド関係とイスラーム関係の二つに分け、
     後者を「 世界のイスラーム建築 」と名づける
2010  TBS テレビ『 THE 世界遺産 』の「コナーラクの 太陽神殿 」の監修
2013  3番目の ホームページ「アルメニアの建築 」を立ち上げる
2014   「 幻の本 」となった 著書『イスラーム建築 』の「 私家版 」を 100部 制作



事務所   神谷武夫建築研究所       E-mail:kamiya@t.email.ne.jp
       〒114- 0023 東京都北区滝野川 3-1-8 -506       地図
       Tel:03- 3949- 9409
会員    日本建築学会々員
研究    設計のかたわら、インドの建築文化、イスラームの建築文化、
       アルメニアの建築の 研究をする
ウェブサイト 「 神谷武夫とインドの建築 」 http://www.kamit.jp/  
       「 世界のイスラーム建築 」  http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/
       「 アルメニアの建築 」    http://www.asahi-net.or.jp/~wu3t-kmy/


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神谷武夫

MEMORIES OF BOOKS AND PAINTINGS

本の思い出、絵の思い出

(府立九中・都立北園高 60周年記念誌『時計台の見た青春』1989年)

 暗く 鬱屈した青春時代を過ごした者にとって、高校時代が楽しかった と回想することはできない。生まれて来なければよかった、と早くから考えるような人間であった。けれど そうした苦悩や不安にさいなまれながら、なお 未知への憧れを心に抱きつつ生きるというのもまた、青春時代の 一つの形であるのかもしれない。外界との違和感を 常に感じながら 内向していく若者が、しばしば 読書や芸術に救いを求めるように、私もまた 毎日 美術室に入りびたって 絵を描き、そうでない時には(授業中も)小説ばかり読んで過ごしていた。母校に対して 何よりも感謝しているのは、そうした生活を可能にさせてくれるような「自由」にあった。管理されることを嫌い、集団で行動することを苦手とする故に、今もなお宮仕えせずに フリーでいるくらいだから。

 三年間の担任は 国語の内田先生であったが、美術部では ずっと林先生の指導を受けた。建築家になろうと決心した直接のきっかけは 林先生の勧めであったが、文学の方の影響も少なくなかった。当時愛読していた立原道造が、詩人であると同時に 建築家でもなかったら、建築家になろうとは 思わなかったかもしれない。また 北園へ入って最初に読んだ小説『ジャン・クリストフ』に深く感動したあまり、自分も ジャン・クリストフのように生きねばならぬ、などと心に決めたりしたのだった。貧乏芸術家の道と 独身生活は、ここに胚胎しているわけである。

 一方、美術と文学を結びつけた大きな出会いは、国語の教科書に載っていた「窓の少女」という一文である。これは 美術史家、矢代幸雄が欧州に留学し、ロンドンのダリッチ画廊にある レンブラントの『窓の少女』という絵に寄せて内面を語ったもので、高校時代に出会った文章の中では、中勘助の『銀の匙』と並んで 最も美しいものであった。文章の美しさばかりではない、そこに論じられている レオナルド、ボッテイチェリ、レンブラントを通して語られる その芸術論と人生論とに深い共感と、暗い人生における慰めさえ覚えたのである。

窓の少女   太陽を慕ふ者

 その「窓の少女」は 矢代幸雄の最初の美術評論集『太陽を慕ふ者』に収められていると知ると、戦前に改造社から出たその本を 神保町や本郷、早稲田の古書店をどれだけ捜しまわったことだろうか。いくら尋ねても見つからずに 半ばあきらめかけていた頃、別の本を捜している時に 不意に眼にした時の驚きと喜び。それは 美術評論集というよりは、若き日の芸術の徒が、遥かな異国の地でつづった 魂の漂泊の日記であった。真摯な学問と芸術の探求に ないまぜにされた感傷主義の故に、著者はそれを絶版にして 人目から遠ざけてしまったのだが、若い私にとってその本は 一種の精神的な救いと慰謝であった。

 「あくがれなくて 如何して人の生きられやう。是は太陽を慕ふものの声である」と書き出されたこの書を読み終わった時、私の心の中には 勃然として、「自分もこのような本を作ろう」という気持ちが 湧き起こったのである。それからは 日に夜を継いで本作りに熱中し、あちこちに書き散らした原稿や詩、日記、手紙の類まで動員して文章を集め、用紙を選んで清書し、たくさんの図版を貼り込み、製本して キャンバス装の表紙をつけ、北園の校舎のスケッチを描いた函まで造ったのだった。こうして私の初めての本、美術評論集『ルノワールの涙』限定1部が できあがったのである。当時 少数の師友に見せ、その時書いてもらった感想文は 今でも保存してある。しかし その本自体は、書棚にしまったまま 10年以上も 手を触れていない。その文章の多くが あまりにも幼く感傷的であるために、顔から火が出るようで 読めないからである。
 内田先生の手から いつのまにか坊城先生の手に渡って、思いがけない感想文とともに 著書を贈られたことも思い出である。印象深かった内田先生の感想文には、
  「一つの道によせる想いは 自分のもので、他の誰の為にするものでもない。
   問うものがあれば、自分の心 そのもののほかにない。」

とあった。 その内田先生も 昨年亡くなられた。高校時代の本好きを引きずって、昨年は拙訳『イスラムの建築文化』を原書房から出版したのだが、私の2冊目の本を、先生は眼にすることなく 逝ってしまった。

イスラム

 『窓の少女』 に関しては、いつか英国に行くことがあったら きっとこの絵を訪ねよう、という当時の願いが、その 10年後に叶えられた。ロンドン郊外のこの画廊のことは 知る人少なく、苦労の末に やっとたどり着いて、私の青春時代の象徴のような その絵と対面したのである。その時、何だか 私の心に漂い続けていた青春の想いに 別れを告げられたような気がした。それが、私にとっての「歌のわかれ」だったのだろうか。


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シカンドラ


An ARTICLE in NIHON KEIZAI SHIMBUN
インド建築 撮った2万枚
日本経済新聞の 紹介記事(1996年12月13日 朝刊)

 タージ・マハルとも呼ばれる、インド・ムガル朝の王妃の廟。タマネギ型の白いドームを載せたこの廟は、だれでも写真を見たことがあるだろう。インド建築はとかく、このペルシャ風の廟建築や仏教の石窟寺院だけで語られがちだ。しかし日本の面積のおよそ9倍、公用語が 16もあり、多数の宗教をかかえるインドには、もっと多様な建築文化がある。

木造的原理の石造主体

 21年前に初めてインドを訪ね、その多彩な建築群に圧倒された私は、以来、全土とインド文化圏のバングラデシュ、ネパール、パキスタンやスリランカの建築を写真に収めてきた。通算 12回の旅で撮影したのは古代から現代まで 2,000以上の建物、枚数は2万枚に及ぶ。なにしろ広い国なので、全貌(ぜんぼう)は無理としても、その豊かな表情の一部をここで紹介しよう。
 気候や風土、宗教によってデザインは異なるが、インド建築の全体を見てみると二つの大きな特性が挙げられる。彫刻的なこと、そして石造が主体であるにもかかわらず木造的な原理で建てられていることだ。インド人は造型芸術のなかで彫刻をもっとも好む。そして建物の内も外も神々や動物の彫刻で覆うばかりでなく、建築自体をも彫刻のように造ったのだ。柱と梁の架構からなる日本の骨組み的建築に比べると、「かたまり的」な建築文化といえよう。
 そうした中で、白大理石造りで、床以外のあらゆる部分を細かく彫り込んだアーディナータ寺院は、インド建築の最高傑作といえる。北西部ラージャスターン州のラーナクプルにあるジャイナ教の寺院で、1439年に建造された。ジャイナ教とは、仏教と同じ紀元前5、6世紀ころに誕生し、主流になったヒンドゥ教の影で細々と現代にいたるまで続く宗教である。

ジャイナ教に強く興味

 初めてインド旅行をしたとき、何よりもジャイナ教の建築を訪ねてみたいと思った。埴谷雄高氏の小説『死霊』にも登場するこの宗教には、たいへん興味をひかれていた。しかし教徒の数は全人口のわずか 0.5%。はたして見るべき建物などあるのだろうかと思いながら、その聖地の多い西インドに向かった。
 ウダイプルからバスに4時間半も揺られ、山奥の秘境に降り立つ。ラーナクプルにはいくつかの小寺院と巡礼宿があるだけで、町も村もない。そこにアーディナータ寺院は巨大なパレスのごとく、忽然(こつぜん)と姿を現したのだ。外観の素晴らしさに目を見張る。「かたまり的」なヒンドゥ寺院では、内部に入ると洞窟のような狭い空間にがっかりすることも多い。ところがこのジャイナ寺院は三層吹き抜けの大空間を擁し、高く低くドーム屋根がかかる。その間から、柔らかな日差しが、至るところを埋め尽くす優雅な彫刻を照らし出す。回遊式の寺院の中で、私は夢中でシャッターを押し続けた。

日本に多い「入母屋」も

 古代のインドには木造建築が多かった。しかし樹木が減るにつれ、寺院は石造が主流となる。南端のケーララ州と北部のヒマーチャル・プラデシュ州は、かろうじて木造の建築文化が残る珍しい地域だ。特にヒマラヤ杉が密生するヒマーチャル・プラデシュ州の東部には、日本人にとって懐かしいような風景が広がる。雨が多い地帯なので、建物には勾配屋根がかかる。これが直線でも「むくり」(膨らみ)でもなく、日本のように「反り」がある。外観は質素に見えるが、近づいて目を凝らすと、網のように繊細な紋様の木彫りが見てとれる。

ビーマカーリー

 標高 1,900メートルの山上にそびえるサラハンの ビーマカーリー寺院は、日本の神社のような「入母屋(いりもや)造り」をした、18世紀から 19世紀の建造物である。木と石を交互に積んだ壁は整然とした縞模様(しまもよう)を描き、「反り」のついた屋根を二列に並べたり、交差させたりした塔状の本殿が、深い緑の山を背にそびえている。凛(りん)として荘厳な姿はいつまで見ていても飽きない。
 インドでは宗教上の理由から撮影を禁じる寺院もあり、あの手この手を使って撮影した貴重な写真もある。ケーララ州では上半身裸、はだしになり、ルンギ(腰巻き)をまとって中に入れてもらっても、カメラの持ち込みは許されない。町なかで三脚やアングルファインダーを使って撮影していると、黒山の人だかりができて困ったことも、今ではよい思い出だ。撮りためた写真を整理して、この度 インド建築案内TOTO出版) を刊行した。 インドの多様で奥深い建築の世界を知る道しるべになれば幸いである。


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DAILY INDO-BUSINESS on the Net

神谷武夫先生へのインタビュー
(「日刊インド・ビジネス」2003年10月14日号 )

インタビュアー:佐藤雅子(インド舞踊家)

 1996年9月、TOTO出版より、全インドの 612の建築物を紹介した、オールカラーの『 インド建築案内 』が出版されました。 著者は、建築家の神谷武夫先生。 20年間に亘ってインド建築を研究された集大成は 国際的にも高い評価を受け、2003年に、『 インド建築案内・英語版 』(" The Guide to the Architecture of the Indian Subcontinent ")が、インドで発行されました。
 プレス・リリースは、9月3日に インド政府の 文化・観光省により ニューデリーの アショカ・ホテルで行なわれ、その後、9月13日には ムンバイで出版記念会が開催され、各地で たいへんな話題を呼んでいます。 今回のインタビューは、日本でインド建築についての ご研究をしていらっしゃる わずかな一人である 神谷先生に、インド建築についての お話を うかがいました。

--------------------------- 神谷先生 談 ---------------------------

 1970年代初頭、日本の建築界で活躍する建築家の間には、アメリカやヨーロッパに留学し、設計事務所で 1〜2年間働いた後に、日本に戻って事務所を開設して、欧米の最新流行の建築物を造る ということが流行していました。
 当時、私は、東京芸術大学の美術学部・建築科を卒業後、山下和正建築研究所に入り、青山の フロムファースト・ビル の設計を担当していましたが、アジア的感覚が すっぽりと抜けてしまう建築界の風潮に 多少の反発を覚えていました。何かアジア的な 新しいものを作ることはできないか? と、考えていたところ、「インド」という国が突然 頭に浮かびました。
 子供時代に親しんだ 花祭りや三蔵法師、手塚治虫の漫画など、仏教を通じたものが 日本の文化に根付いていること、敬愛する埴谷雄高や 高橋和巳が インドのジャイナ教に興味を持っていたこと、当時はFM放送が始まった頃で、小泉文夫による「NHK 世界の民族音楽」を聴いて 日本人の若者がインドに行き始めていたこと などが重なりました。

 早速 インドに関する文献を集めましたが、仏教の本は多いものの、建築に関する本は ほとんどなく、観光ガイドブックも インド、ネパール,スリランカを一緒にした 薄い本一冊のみ。とにかく この目でインドの建築物を見なければならないと、フロムファースト・ビルの竣工後、事務所を辞め、1975年1月に、3ヶ月の滞在予定で インドの地を踏みました。
 当時一番安かったのは、エア・サイアムという タイの航空会社でした (当時は エア・インディアは 高級航空会社でした)。これに乗ってバンコクまで行き、カルカッタまでの往路を購入して、カルカッタ空港に降り立ったのですが、乞食や 物乞いをする子供、悪臭、汚さに たいへんなカルチャーショックを受け、すぐに 日本に戻りたくなってしまいました。
 が、「ここで戻っては 男の沽券に関わる」と、その夜、夜行列車で ブバネーシュワルへと向かいました。 しかし、お祭りで ホテルが空いておらず、さらに コナーラクまで足をのばして トゥーリスト・バンガローに宿をとり、初めての インドの夜を過ごすことになりました。
 翌日には インドにも少し慣れてきましたが、1週間も経つと、ビックリ仰天するようなことが 連続して起こるインドが おもしろくてしょうがない と思うようになりました。苦労して現地まで辿りつくと、突如として 思いもよらぬ凄い建物が 忽然と現れるのです。

 「何でも 人と同じことをしなければならない」日本に比べ、「思いのままで OK」 というインドは、どんな格好をしても OK、自己主張をして波風をたてても OK、「生きていること」を まったくもって実感でき、次から次へと 新しい発想が沸いてきました。3ヶ月後に日本に戻りましたが、この時のインド旅行は たいへんなインパクトを与え、さらに深くインド建築を調べてみよう と思ったのです。
 インドに史跡として現存する建築物は、古代の仏教建築、中世のヒンドゥ教や ジャイナ教の建築、近世のイスラム教建築に 大まかに分類されます。ヒンドゥ教の建築は、建物全体を あたかも彫刻作品のようにつくる「彫刻的建築」で、素晴らしい装飾とともに、その外観が 見る人々を圧倒しますが、内部の空間は狭く、薄暗くて、あまり 魅力があるとは 言えません。イスラム教の建築は、外部の表現よりも、内部空間を素晴らしく作る ということに重点をおいた「皮膜的建築」です。対して、日本におけるような木造建築は、外観を彫刻的にしたり 内部空間を 囲みとったりすることよりも、柱と梁の架構だけを残して 内外の空間を連続させる「骨組み的建築」です。
 一方、西インドに多く現存する ジャイナ教の建築には、それら三つの性格の建築を一つに統合しているものが見られ、表情豊かな魅力に溢れています。インドで最も有名な建築物である タージ・マハル廟は、イスラム教を絶対視した シャー・ジャハーン帝によって 建設されました。もっぱら ペルシャの建築要素で造られた このイスラム建築は 純粋なインド建築とは言えませんが、外観を重視したがゆえに、イスラム建築でありながら 皮膜的建築であるよりは 彫刻的建築となっています。 内部空間は比較的単純で「謎」や「影」というものが無く、やや魅力に乏しく感じられます。

 インド建築の代表として 私が一番に挙げたいものは、西インドのラーナクプルにある ジャイナ教の「アーディナータ寺院」です。内外部を装飾する彫刻の造形美は ヒンドゥ寺院のそれには及びませんが、寺院全体の壮麗さは 他の追随を許しません。それは、先ほど述べた、三つの建築形式の総合性からきています。ウダイプルから車で4時間の山中にあり、あまり知られていない寺院ですが、訪れるたびに 感動を覚えます。インド建築の 最高傑作でしょう。
 インドでは、「宗教」が 建築の発展に多大な寄与を及ぼしてきました。 ヒンドゥ教のお寺は、「神の住まい」として造られています。寺は、擬人化された神が住まう場所であり、人々が それを礼拝し、お供えをし、もてなす場所として 作られていますので、「聖室+拝堂」という、極めてシンプルな構成をしています。これに対し、ジャイナ教の寺は、聖人が教えを説く場所 として造られています。より多くの民衆に救いを与えることができるよう、本尊(聖人)は4体が背中合わせになっている チャトルムカ(四面像)となることが多く、その場合には 四方に伸び広がる 曼荼羅的な寺院構成になります。
 ジャイナ教から発した この曼荼羅的プランの寺院建築は 仏教にも大きく影響を与え、バングラデシュから 東南アジアへと伝わり、アンコール・ワットにまで その影響を及ぼしました。 数百年をかけて、インドから東方へ発した文化の変遷の 壮大な歴史を感じずにはいられません。

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 2003年 6月 25日、東京都北区にある 神谷武夫先生の建築研究所を訪れました。インドやイスラムの建築関係の出版物で埋め尽くされた事務所の壁面から、神谷先生は、「ごく珍しい書籍」として、今から 170年前の 1834年に出版されたという ラームラーズの著した 『 ヒンドゥ建築論 』を取り出して見せてくださいました。中を拝見すると、とても石版画とは思えない緻密な寺院建築の図面や鳥瞰図、外観などが美しく印刷されており、イギリス統治時代の 先駆的なインド人の素晴らしい仕事に たいへん驚かされました。

 今から7年前に発行された『 インド建築案内 』には、神谷先生がそれまで 20年間に渡って撮影した2万枚もの写真の中から 1800枚が選ばれ、収集した資料の中から 300枚の地図と図面が使用されています。既に初版1万部、第2版 5,000部が売り切れ、第3版がこの春に刊行されました。
 神谷先生が、仕事の合間に 取り得る限りの 長期休暇を取られ、行かれたという「インド建築行脚」は、既に十数回を数えられるそうですが、心に深く残っていらっしゃるのは、やはり、初めてのインド旅行。カルカッタから入り、東 →南 →北上 →西 →最北 といった旅順で 各地を廻られたそうですが、ジャイプルを訪れた際、その南に位置する サンガーネルという村への道を リキシャで往復した時のことが 今もって記憶に鮮明に残っていらっしゃるそう。
 果てしなく続くように思われる小道を 滑るように進むリキシャから上方を見上げると、木々の緑のアーチから 木漏れ日が洩れ、その他は、時折牛車と行き交うだけ といった牧歌的な情景。それまでの3ヵ月近くにわたるインド各地の旅の思い出が 走馬灯のように頭の中に浮かび上がり、うっとりと 至上の恍惚感を感じられたそうです。

 ラーナクプルの アーディナータ寺院を インドで最も優れた建築と絶賛していらっしゃる神谷先生の、その他の お薦めのインド建築は、北インドのヒマーチャル・プラデシュにある 木造寺院群。多雨で緑が多く、また複雑な地形から 観光化が殆ど行われていない ヒマラヤの山岳地帯は、他地域とは異なる文化を呈示し、建築学的に見ても たいへん興味深いのだそうです。
 日本では見ることのできない「石彫寺院」では、エローラーのカイラーサ寺院を、「世界の七不思議の 1つに数えられるほどの巨大な 手彫り寺院」、ムンバイとプネーの間にある カールリーのチャイティヤ窟を「仏教の石窟寺院としては最高傑作、内部空間が素晴らしい」と絶賛されています。

 お好きなインド料理は、タンドーリ・チキンと バター・ナーン。インドに行くと必ず 各地で召し上がるそうです。 お薦めは コルカタの リットン・ホテルの ビーフステーキ。インドでは最高なのだそう。 お好きな言葉は、

 「 私は、我々をとりまく全世界が たとえ滅びようと、その中に 救いを見いだし得るような、独立した 自主的な生活を始めるように 忠告しているのだ。 (アレクサンドル・ゲルツェン: ロシアの思想家・文学者) そして、

 「 サイの角のように ひとり歩め(ブッダの言葉)

 黙々とご自身のお仕事に専心されてきた 神谷先生の生き方を表しているような言葉 にも感じられます。 毎日心がけていらっしゃることは、

 「 規則正しい生活 」。

 インドの建築にふれることによって、それまで 欧米と日本という二元論で考えていた世界を、多元的に見るようになり、世界は多様性に満ちている という認識を深めるようになられたという 神谷先生。 現在は、ご自身の研究とお仕事の他に、専修大学の非常勤講師として、芸術学と 建築を教えていらっしゃいます。

 19世紀の建築の理念は「様式」、20世紀の建築の理念は「空間」と言われています。 現代建築は、幾何学で作られ 内部空間の美しさを重視する 皮膜的建築(イスラム建築)と相性が良く、講義などをしても人気があるそうですが、これとは趣を異にして 外観の「彫刻性」を重視したインド建築は、現代には なかなか受け入れられにくい要素を持っています。
 しかしながら、21世紀を迎え、インドが「開かれたインド」に発展していく時代、神谷先生の著された『 インド建築案内 』は、インド建築界のみならず、世界の建築界に 新たな視点を与えていくに 違いありません。


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QUOTATIONS FROM BOOKS
(本からの抜粋)

アリアス
(クリック:高校時代の美術活動)

若い頃に、本を読んでいて、その時々 心に響く文章に出会うと、それをカードにとって書き写す という習慣がありました。時には それを暗記したりも したものですが、それらの文章ばかりか、そのような習慣をもっていたことさえも 忘れていました。ところが そうした昔のカードが 机の奥底から出てきて、読み返すと、一種の感慨を覚えました。若いときの自分は こうした文章に心を惹かれたのか という、なつかしいような 感慨です。それらの「語録」を 日本と西洋と東洋の3つの項目に分けて、ここに入れておく ことにしました。興味のある方は、それぞれの項目を クリックして ご覧下さい。   ( 1999 /10/ 28 )

日本の語録 西洋の語録 東洋の語録



ガネシャ

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MEMORIES OF A DOG
犬の思い出 ( 昭和30年頃の 犬の飼い方 )

タロ
記憶のタロに そっくりな犬、福ちゃん

 2023年の秋に、それまで「建築」という 静的な芸術の世界に浸っていたのが、ふと 小動物の世界に関心が広がり、思いもかけず、それに熱中するようになりました。そうしているうちに、昔 うちで飼っていた タロという雑種犬のことを 思い出すことが多くなり、時には 何時間も、タロのことや、あの時代の事を 想起したり 考えたりしているので、それを「犬の思い出」と題するページに 書いておくことにしました。ユーチューブなどの動画のチャンネルに見る、現今のペットの飼い方とは ずいぶん違う、その頃の様子を描いて、「昭和 30年代の 犬の飼い方」という 副題を付けました。今の ペット・ラバーたちからすれば、驚いたり 呆れたりするようなことが 多いでしょう。 興味のある方は、ここをクリック して お読みください。   ( 2024 /04/ 01 )


 

MEMORIES OF A CHIPMUNK
リスの思い出、その他の小動物

リス
シマリス、チャキーの子供

 今から 58年も前の 1966年(昭和41年)、私が大学2年生の秋に、3ヵ月くらいだけ、リス を飼っていたことがあります。愛らしい 小さな シマリス ですが、偶然に飼うことになり、短期間でもあったので、名前も付けていませんでした。「思い出」シリーズのひとつとして、「猫」と「犬」に続いて「リス」の思い出も、わずかですが、書き留めておくことに しました。 これは短文ですので、飼ったことはないけれど 見たことのある小動物や、その他の興味深いペットについても触れ、それらについての 動画チャンネルの紹介も することにします。 興味のある方は、ここをクリック して お読みください。   ( 2024 /06/ 01 ) 


 

BANK NOTES & COINS in SHOWA
昭和 戦中・戦後の 少額貨幣

50銭紙幣
昭和23年の50銭紙幣

 「犬の思い出」を書いている間、昔のことを あれこれ思い出していた時、父が生前に、名刺用の青いプラスチックの箱をくれたのを思い出しました。その中には 昭和の 戦中・戦後 の 紙幣と硬貨が、わずかな量ですが、たたんで入っていました。特に コレクションをしたというわけではなく、折々に 余った小銭を、なぜか 取っておく気になったらしく、今から見れば珍しい アンティークの「近代日本の お金」です。そんなものを、私なら 多少興味をもってくれるだろう と思って、くれたのでしょう。 机の中を さがしたら 出てきましたので、あまりに少なすぎる分量の「少額貨幣」ですが、物珍しく思う方もいるでしょうから、それらをスキャンして、載せておくことにしました。 ここをクリック すると『 昭和 戦中・戦後の 少額貨幣』のページに飛びます  ( 2024 /05/ 01 ) 



ジナ

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WRITINGS for MAGAZINES & BOOKS

雑誌や本への寄稿

このページの一番下に、いくつかの新聞記事や 寄稿 などのことを載せてありましたが、ふと それを見て、もう少し多く載せるべきだなと思い、いくつかを書き足したら、あれも入れよう、これも入れよう と次第に増え、ついには 今まで種々の雑誌や本に寄稿したものを、すべて整理して 年代順に並べることにしたら、これは 大変な仕事になりました。まさか こんなに数が多かったとは。   ( 2023 /02/ 01 )


新建築  特集記事「 建築と環境 」  1972年1月号

新建築

● 『 新建築 』誌は、1972年の1月号で、「建築と環境 」という特集記事を企画しました。20代の若手の建築家を10人ばかり集めて、それぞれに 有名な建築作品をあてがって、当時流行の「環境」という観点から ルポルタージュをさせようというものでした。私は、前川国男建築設計事務所の作品の「埼玉会館」(浦和市)を担当しました。

建築知識  「 私のエスキース作法 」 1976年11月号

建築知識

● 日本ハウジングセンター(現・エクスナレッジ)の『 建築知識 』が 1976年11月号で「私のエスキース作法」という特集をし、私は 編集担当で 意欲いっぱいの石原さんに依頼されて、建築学会賞をとった「フロム・ファースト・ビルの場合」を書きました。全部、私のスケッチです。

新建築  「 海外ネットワーク 」   1976年 7月号

新建築

● 『新建築』の「 海外ネットワーク 」欄を担当していた 若い安田さんから、1974年に「ヨーロッパ建築視察団」に参加した時に、その原稿を書かないかと誘われましたが、その時は人に譲り、1976年に 初めてインド建築行脚の旅をした時に、書かせてもらいました。

新建築  「 サンスイ保育園 」   1982年 11月号

新建築

● 独立して最初に設計した小さな建物『サンスイ保育園』を、『 新建築 』の 編集部の 渕上さんが、雑報の「 ニュース欄 」に1ページで 載せてくれました。東京外語大の仏語科出身で 英仏語がペラペラの渕上さんとは、「ヨーロッパ 建築視察団」で ご一緒しました。

日経アーキテクチュア「 横浜の町家 」1984年 1月30日号

日経

● 独立して最初に設計した住宅『横浜の町家』が、伝統ある「神奈川県 建築コンクール」で 最優秀賞をとったら 反響が大きく、当時 新興の建築雑誌だった『 日経アーキテクチュア 』が、本誌の 住宅作品の記事として載せたいと 電話をくれました。この時に 撮影をしてくれた、若手の建築写真家だった 斎部功さんとの 長い付き合いが始まります。

ハウス&ホーム 「 横浜の町家 」    1984年6月号

ハウス

● 住宅雑誌の『 ハウス&ホーム 』も、カラー4ページを使って「横浜の町家」を 紹介してくれました。住み手の家族写真まで載っています。

ぐっどりびんぐ 「 横浜の町家 」   1984年 6月号

ぐっど

● トーヨーサッシの PR 誌『 ぐっどりびんぐ 』も、モノクロ写真ですが 3ページを使って、「横浜の町家」を 紹介してくれました。

『 空間 』  第7号  特集 「 アジア 」    1984年 4月

「空間」

● 東京芸術大学 建築科 学生機関誌 『 空間 』 第7号  特集「 アジア 」。  私が芸大を卒業したずっと後に、建築科の学生機関誌『 空間 』が作られたようです。 この年、まだ学生だった ヨコミゾ マコト (横溝真) 君から依頼されて、「アジア建築への視点、比較建築学へ」という、長文の随想を書きました。まだ『イスラムの建築文化』も『インド建築案内』も出版していなかった頃の「若書き」です。 表紙が 少々グルーミーですが、インドのカジュラーホの寺院のミトナ彫刻の写真をあしらっています。

季刊ストーンテリア 特集「石と遊ぶ 」 1986年3月

ストーンテリア

● 茂木(もてぎ)真一と 佐々木秀子夫妻 (?) が編集し 発行していた、石についての季刊雑誌が、「ストーン」と「インテリア」を合成して 『 季刊ストーンテリア 』と名づけられていました。建築史家の渡辺真弓さんの紹介で、その第5号の特集「 石と遊ぶ 」に、「インド建築における遊び」を書きました。「建築における遊び」というのは、珍しいテーマです。

季刊ストーンテリア 特集「石と風呂 」 1986年 6月

ストーンテリア

● 『 季刊ストーンテリア 』の第6号の特集「 石と風呂 」に依頼されて、「タンクとハンマーム」という記事を書きました。インドとイスラーム圏を合わせた、7ページにわたる 種々の水利施設の紹介です。私の撮りためたカラー写真を用いた ヴィジュアルな記事は、『 ストーンテリア 』が 始まりです。

SD「 NICE SPASE 」「ジャイナ教の寺院」 1986年 7月号

SD

● 鹿島出版会 『 SD(スペ−ス・デザイン)』 1986年 7月号、定番記事「 NICE SPASE(ナイス・スペ−ス) 」に、ラーナクプルのアーディナータ寺院を載せました。私がインドに たびたび旅行して インド建築の研究をしていると、知られ始めていました。元 広島大学教授でインド哲学の 宇野惇さんにも 参加してもらいました。

季刊ストーンテリア「アレッポの石の家 」1986年9月

ストーンテリア

● 『 季刊ストーンテリア 』の第7号の「海外情報」に、「アレッポ(シリア)の石の家」を書きました。古都アレッポの アルメニア地区に残る 伝統的中庭住宅群ですが、イスラーム建築とキリスト教建築とが融合した住宅とも言えます。

建築設計資料 19号 「店舗併用住宅 」   1987年 冬

設計資料

● 建築思潮研究所・編の『 建築設計資料 』 第19号の「店舗併用住宅ー商住建築」に、「梅屋ー横浜の町家」が載りました。建築思潮研究所というのは、鹿島出版会から独立した平良敬一さんが興した、建築書、建築雑誌の編集・出版事務所です。

日経アーキテクチュア「クロイスター」1988年2月22日号

日経

● 名古屋に設計した中庭住宅、『 クロイスター(小川邸)』が、『 日経アーキテクチュア 』の 1988年2月22日号に載りました。後に編集長となる 山本恵久さんが記事を書いています。

時計台の見た青春「本の思い出、絵の思い出」1989年3月

北園

● 府立九中・都立北園高校卒業生六十年の記録として作られた『 時計台の見た青春 』に、世話役の 佐藤健也君に乞われて、「本の思い出、絵の思い出 」という短文を書きました。 この記事は、この「プロフィール」のページの、一番上のほうに載せてあります。

みのり   ’89 冬 特集「 庭」      1989年 12月

みのり

● ジョン・ブルックスの『楽園のデザイン ー イスラムの庭園文化』の翻訳出版は 反響が大きく、多くの書評、取材、原稿依頼がありました。これは その一つです。

KAJIMA 「 中庭の美学、その様式美」  1991年 4月号

KAJIMA

● 鹿島建設の月刊 PR 誌『 KAJIMA 』からの依頼で、「中庭の美学、その様式美」という記事を載せました( A4版、カラー写真とも2ページ )。 これも、『楽園のデザイン ー イスラムの庭園文化』を翻訳出版した反響ですが、私へのインタビューを、編集部で(談)としてまとめたものです。

JIA Bulletin「何をプロフェスするのか」 1991年4月号

JIA

● 新日本建築家協会・関東甲信越支部 機関誌『 JIA Bulletin 』では、「 私の職能 」というシリーズ記事を 毎月掲載していました。「職能」というのは、JIA が旧・建築家協会時代から「プロフェッション」の訳語として使用していた言葉です。1991年4月号では、私の論文「何をプロフェスするのか」が その欄に載りました。"「本当の仕事」は「精神の促し」のため" という副題が 付けられています

建築設計資料33号「アーバンスモールビル」1991年6月

設計資料

● 建築思潮研究所・編の『 建築設計資料 』 第33号の「アーバン スモール ビル、オフィス編 」に、「幸栄ビル」が載りました。もと『都市住宅』の編集スタッフだった 津端宏さんが、建築思潮研究所に移ってから ライフワークとした出版シリーズ、『建築設計資料』の一冊です。発行は建築資料研究所。

建設通信新聞 「アジアの建築」  1991年8月 5〜8日

アジア

● 『 新建築 』の編集部から相模書房、そして『 建設通信新聞 』へと移った神子久忠さんが、「建築」の欄に 何か書かないかと声をかけてくれましたので、日ごろ考えていた「アジアの建築」への思いを書きました。神子さんには このあとも、時々お世話になります。

『 新建築 住宅特集作品「 空中庭園の家 」1991年10月号

空中庭園

● 『 新建築 住宅特集 』の 1991年の10月号に、作品『空中庭園の家 』が載りました。東京の岩本町に建つ「森田ビル」ですが、その5、6階のオーナーの住宅に イスラーム風の中庭のようなテラスを作ったので、『空中庭園の家 』と名付けました。

建設通信新聞 「北インド 宗教建築の旅」 1991年 10月

建通新聞

● 『 建設通信新聞 』(略称「建通新聞」)の神子さんから、インド建築について何か書かないかと誘われましたので、今度は「北インド宗教建築の旅」を書きました。 第1回「明るい神性、アムリトサルの黄金寺院」、第2回「石造と木造の融合、サラハンのビーマカーリー寺院」、第3回「密教の僧院、ラダックのティクセ・ゴンパ」です。

at 懸賞論文 '92 入選 「 文化の翻訳 」 1992年 11月号

文化の翻訳

● 1989年にデルファイ研究所が創刊した 建築雑誌『 at 』が、創刊4周年記念に「懸賞論文」の募集をしていたので、JIA(新日本建築家協会)に 握りつぶされた 私の論文「文化の翻訳、伊東忠太の失敗」を応募したところ、最優秀なしの優秀賞に選ばれました。しかし おそらくマフィアを恐れたのでしょう、授賞式やパーティなどの派手な行事は 一切行われませんでした。

at 連載 「 ジャイナの小宇宙 」 1993年5月〜1994年8月

ジャイナ

● 建築雑誌『 at 』の「懸賞論文」で優秀賞を取って親しくなった編集部から、インド建築についての連載を依頼されました。1993年5月号からの1年間の隔月連載で、ジャイナ教の建築について書くことにしました。編集部が付けた題は、「 素晴らしきインド建築・ジャイナの小宇宙 」というものです。日本で ほとんどまったく知られていない ジャイナ教について、その宗教と建築を どのような順序で 少しずつ 回を追って書くか、熟考を要しました。

第22号 「 文献再録 」( 文化の翻訳 )  1994年6月

燎

● INAX が発行していた 建築のミニコミ誌で、長老格の建築評論家・宮内嘉久氏の編集による『 燎 (りょう、かがりび)』は、少部数ではあっても、建築界の主要な人たちには 良く知られていました。毎回、前川国男や 村野藤吾、白井晟一、谷口吉郎などが かつて書いた論文や談話の「文献再録」をしていましたが、第22号(1994年)では、私の「文化の翻訳、伊東忠太の失敗」が再録されました。発表されてから わずか1年しか経っていないエッセイを「文献再録」するというのは、異例のことでした。

at 書評 竹澤秀一の「 空間の生と死 」  1994年9月号

at

● 『 at 』誌から、建築家の竹澤秀一さんが インドの石窟寺院、アジャンターとエローラについて書いた『空間の生と死』(「建築巡礼」27. )について、書評を依頼されて、書きました。

商店建築インテリア「 ヒサゴ東京支社 」1994年11月号

ヒサゴ

●『 商店建築 』1994年11月号に、「 ヒサゴ東京支社 」のショールーム(インテリア・デザイン)が、奇妙なレイアウトで載りました。

建築雑誌 特集「建築家・そのあるべき姿」 1995年7月号

学会誌

● 日本建築学会の機関誌『 建築雑誌 』から、1995年7月号の特集「 建築家・そのあるべき姿とありうる姿」に論文を求められ、「あいまいな日本の建築家、アーキテクトの訳語をめぐって」を 特集の巻頭に書きました。 これで、 プロフェッション、アーキテクチュア、アーキテクトの「 翻訳論3部作 」が 出そろうことになります。

at 特集「 驚異の砂漠都市・ジャイサルメル 1995年7月号

ジャイサルメル

● 突然『 at 』誌で、進行中の企画が ポシャってしまったとかで、私が その穴埋めをすることになり、わずか3週間で 30ページの特集記事「 驚異の砂漠都市・ジャイサルメル」を書くことになりました。多忙をきわめましたが、やり甲斐のある仕事でした。脱稿を待っている間、本当にできるかどうか、編集の土田さんは 少し不安だったようです。

インド建築案内 TOTO出版 その反響 1996年9月

インド建築案内

● 『 インド建築案内 』が1996年の秋に TOTO出版から刊行されると、大評判になり、多くの新聞や雑誌に 書評や新刊案内が載りました。その反響のいくつかを紹介します。朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞、TOTO出版の広告、芸術新潮、八重洲ブックセンター、など。

日刊建設工業新聞  紹介記事     1996 /10/ 11

建工新聞

● 『建設通信新聞』から 今度は『日刊建設工業新聞』へ移った神子さんが、インド建築の本の たて続けの出版ついて、私へのインタビュー 記事を「建築へ」という欄に載せてくれました。

 建築フォーラム  創刊 準備号      1997年7月 

建築フォーラム

● 『新建築』の編集部から独立した駒見宗信さんが 1997年の3月に電話をくれ、「建築フォーラム」という新しい会社(市ヶ谷出版社の子会社)を作り、同名の新しい建築雑誌を創刊することになった と告げられました(前年の10月に 構想は聞いていましたが)。 創刊号は12月に出版される運びとなりますが、その前、7月に「創刊準備号」が作られました。そこに 駒見さんの依頼で「インド建築への いざない」と題して、写真 10枚を付けた6ページの記事を載せました。 しかし、この新雑誌と神谷との関係を知ったマフィアから、『建築フォーラム』と 駒見さんは 種々の妨害をされ、苦難の道を歩むことになります。

ユネスコ世界遺産第5巻 「インド亜大陸」 1997年11月 

ユネスコ

● 「ユネスコ世界遺産」がブームとなって、多くの出版社が、世界または日本の登録遺産について本にしました。その代表が 講談社の この全12巻のシリーズで、その第5巻が「インド亜大陸編」でした。私は、スペインで書かれた原稿の和訳をもとに、建築関係の章を監修し、リライトするのと、写真 20数枚の貸与を求められました。これだけの分量をリライトするのは 大仕事でした。

建築フォーラム連載「インドの木造建築」1997年 12月〜 

建築フォーラム

● 建築フォーラム社によって 新しい建築雑誌『まちなみ建築フォーラム』(編集人 駒見宗信)が 1997年12月から出版され、私は創刊号から 「インドの木造建築」を連載しました。これは好評でしたが、しかし マフィアの圧力によって、雑誌は わずか半年で つぶされてしまいます。この「幻の建築雑誌」のことを知る人は、今や 建築界でも 少数でしょう。そして 会社解散となった建築フォーラム社の沢崎社長は、建築・建設界が いかに腐敗堕落した 怖い世界であるかを、身にしみて知ったことでしょう。

SD 書評 「アンコールの神々」鹿島出版会 1998年 2月号

SD

● 鹿島出版会の『 SD 』 1998年2月号に、中川武・監修、BAKU斎藤・撮影の『 アンコールの神々 BAYON 』(B4判、小学館、1997、5,040円)の書評を依頼されて 書きました。

明治健康ファミリー タージ・マハル特集  1998年 5月

明治健康

● 明治乳業の月刊 PR誌『 明治健康ファミリー 』 が 1998年5月に「世界文化 タージ・マハル、遺産の旅」という特集をし、その中に 神谷の1ぺージのインタビュー記事が載りました。

世界美術大全集 東洋編 』第14巻「インド (2)」1999年1月

美術大全集

● 小学館の『 世界美術大全集 東洋編 』が 1999年1月に「 インド (2) 」という巻を出し、私は 17点の写真を求められて 貸与しました。本の p.457に「写真提供」のリストがあります。編集担当は、「一ツ橋美術センター」の澤田洋二郎さんで、この3年後に『 世界美術大全集 東洋編 』全18巻の仕事が終わるとともに停年退職し、一ツ橋美術センターも 同年に 小学館の他の組織と統合されて、社名がなくなりました。

TRADEPIA 』 特集 「 庭園願望」    1998年 9月

TRADEPIA

● 日商岩井の月刊 PR 誌『 TRADEPIA 』 (トレードピア)が 1998年9月に「 庭園願望」という特集をし、私は「イスラムの庭園」という記事を依頼されました。

季刊文化遺産 特集 「 インドの建築伝統 」 1999年 春号

文化遺産

● 島根県 並河萬里 写真財団が発行する季刊誌『 季刊文化遺産 』が 1999年春号で、小西正捷 監修の「 インドの建築伝統」という特集をし、私は「インドのイスラム建築、異文化受容と変容」という記事を依頼され、他の人の記事への 多数の写真提供も しました。

日刊建設工業新聞  紹介記事    1999 /04/ 14

● 『日刊建設工業新聞』の神子さんが、私の東大文学部での講義「インド建築史」について、私にインタビューをして 記事にしてくれました。

都市史図集 図集編集委員会      1999年9月

都市史

● 都市史図集編集委員会(代表 曽根幸一)の編集によって世界の歴史上の都市を集めた『都市史図集』が 1999年に彰国社から出版されました。(B5判,294ページ,ソフトカバー,4,600円 )その内、私は南アジアの中の 次の3項を書きました。 「インドの宗教都市」 / 「伝統的都市−1,北インド」 / 「伝統的都市−2,南インド」

建築雑誌「ヒマラヤの寺院塔」 建築学会 1999年 11月号

学会誌

● 日本建築学会の機関誌『建築雑誌』で、1999年に 藤森照信編集長が「建築奇想天外」という1ページのヴィジュアルな連載を企画し、そこに原稿を依頼されたので、「ヒマラヤの寺院塔、チャイニのヨーギニー寺院」を11月号に書きました。
「建築奇想天外」という巻頭のグラビア記事、24回連載のうち 私の時だけ、後ろのほうのページにまわされ、しかも後ろ向きに(つまり 目立たないように )載せられました。マフィアの差しがねです。

旅行人「旅のショートエッセイ 100本勝負」 1999年 12月

旅行人

● 蔵前仁一さんが 奥さんの小川京子さんと編集・刊行していた旅行雑誌『 旅行人 』は、若者に大きな人気を得ていて、1999年 12月の 創刊100号記念号 では「 旅のショートエッセイ 100本勝負!」という特集を組み、私に「遺跡」という題を与えました。小さな雑誌の、わずか半ページ足らずのミニ・エッセイです。

伊東忠太 その実績と資料 』 日本建築学会 2000年7月

伊東忠太

● 1997年4月より 2000年3月まで、日本建築学会の「伊東忠太未発表資料 特別研究委員会」の委員をつとめ、インド関係部分を担当しました。 このたび委員会の報告書として、『 特別研究 18. 伊東忠太 その実績と資料 』が出版されました(A4判、2,000円.日本建築学会)
● 遺族より建築学会に寄贈された伊東忠太の フィールドノート の解題を 各委員が分担執筆していますが、明治 36年から 37年にかけてのインド調査旅行の分については 神谷が書きました。 『 6. 印度 自緬旬至孟買 』、 『 7. 印度 西方印度及カシュミール 』、 『 8. 印度 南印度及錫蘭 』 の3巻です。

ビジュアル版建築入門  第1, 2巻    2000年 

彰国社

● 彰国社が、『新建築学体系 全50巻』が あまり売れないので、若者向けに『 ビジュアル版・建築入門 全12巻』(布野修司 編集代表)というシリーズを企画し、私は 藤森照信 編集担当の第1巻に「エローラーのカイラーサ寺院」と、中川武 編集担当の第2巻に「ヒンドゥ建築」の原稿を依頼されました。2000年の 10月に原稿を渡してから、もう 22年になりますが、彰国社は 嘘をつくばかりで、一向に出版しません。上の写真は第10巻の「建築と都市」です。

建築雑誌 特集 「 人の空間・場所論 」 2000年9月号

学会誌

● 日本建築学会の機関誌『 建築雑誌 』で、若山滋編集長の 2000年9月号の特集「 人の空間・場所論 」に論文を求められ、「 末端肥大症、あるいは、全体を構成する要素の自立性 」を書きました。 マフィアによって 写真の印刷を 劣悪にされたので、その「修正版」が作られました。 日本建築学会でさえ、マフィアに逆らえないのです。

世界宗教建築事典 中川武 監修  東京堂出版 2001年

宗教建築

● 早稲田大学の 中川武教授の監修のもとに、世界の宗教建築を集成して解説した『 世界宗教建築事典 』が、2001年9月に出版されました。( A4判,380ページ,ハードカバー,東京堂出版 発行,13,000円 ) その内、「ボードガヤーのボーティガラ・マハーボーディ寺院」以下、南アジアの中の9項を 私が書きました。

建築史家たちのアジア「発見」 未刊 (2001年予定)

アジア発見

● 2000年に 東京大学教授・村松伸(当時は東大・生産技術研究所・助手)から、『建築史家たちのアジア発見』という本を 風響社(石井雅 社長)から出版するので、インド建築とファーガソンについての論文を執筆してほしい、と 依頼されました。そこで「ジェイムズ・ファーガソンとインド建築」という論文を書いて 2001年の7月に原稿を渡したにもかかわらず、それから23年たった今も、出版されていません。何度も催促したにもかかわらず、村松はそれを無視し、しかも、この東大教員の無法行為について相談した 当時の生産技術研究所の 西尾茂文所長も、当時の東大・佐々木毅 学長も、村松准教授を擁護しました。戦時中に 大政翼賛会を主導した東大は、現在もなお 言論抑圧に手を貸している というわけです。

建築設計資料 84号 「店舗併用住宅 2 」 2001年 12月

設計資料

● 建築思潮研究所・編の『 建築設計資料 』 第84号の「店舗併用住宅=商住建築2」に、「塩川屋・関新仏具店」が載りました。編集の 津端宏さんとは『都市住宅』時代からの付き合いでした。

建築東京連載 「ヒマラヤ建築紀行」 2002年 1〜7月号

建築東京

● 東京建築士会の機関誌『 建築東京 』に、山下事務所で同僚だった紫冨田さんの紹介で 2002年1月号から半年間、「インド・ヒマラヤ建築紀行」として、ヒマーチャル・プラデシュ州の木造建築について連載しました。毎回 A4 見開き2ページだったので、やや ぎゅう詰めのレイアウトです。

建築雑誌「インド・サラセン様式」建築学会 2002年2月号

学会誌

● 日本建築学会の機関誌『建築雑誌』で、2002年に 布野修司編集長が「建築のアジア」という1ページのヴィジュアルな連載を企画し、そこに原稿を依頼されたので、「インド・サラセン様式の確立、アジュメールのメイヨー・カレッジ」を、2月号に書きました。

アート・トップ インド特集  芸術新聞社    2002年

アートトップ

● 伝統ある隔月刊の美術雑誌『 アート・トップ 』が 2002年6月刊の第 186号で、「インド、不思議パワーをたずねて」という巻頭特集をしました。私は 「 近代インドの建築 」という文を書いて、19世紀後半から現代までのインド建築の流れを簡略に描きました。大型の雑誌で、 芸術新聞社発行、B4判 112ページ、2,350円。

『 週刊 朝日百科 デリーとアーグラー 朝日新聞社 2002年

朝日百科

● 朝日新聞社が『 週刊朝日百科 』で『 世界百都市、ここに行きたい 』というシリーズを刊行しました。2002年 10月には 第 46号「デリーとアーグラー、ムガル帝国の栄華と愛の記憶」が出ました。私はその中に「砂漠に浮かぶ栄華の記憶、ラージャスターンを訪ねて」という記事を2ページ書きました。(A4判、32ページ、オールカラー、560円)

ネイバー 』 YKK 連載「快適私考」2003年 1月〜6月号

YKK

● YKKグループの B5判の PR 誌『 ザ・ネイバー 』は 32年も続く長寿雑誌となっています。そこに「私流私考」という既設のコラム欄 がありますが、その中の 「快適私考」という小欄に2003年の 1月号から半年間 連載をしました。おもに中庭について書きました。

日刊インドビジネスインタビュー記事 2003 /10/ 14

英語版

● インドでの日本人の活動を伝えるネット上の新聞『 日刊インド・ビジネス 』(小和田宏明 主催)で、『インド建築案内』の英語版がインドで出版されたのを機会に、インド舞踊の佐藤雅子さんのインタビューを受けるという、変わったものでした。(インタビュー自体は 6月25日になされたのに、ネット出版されたのは、なぜか4か月後です。マフィアの圧力?) このインタビュー記事は、この「プロフィール」のページの、上のほうに載せてあります。

伊東忠太を 知っていますか 鈴木博之編   2003年

伊東忠太

● 『 建築家 伊東忠太の世界 展 』が 2003年の4月12日から8月31日まで、青山のワタリウム美術館で開かれたのを記念して、伊東忠太を 広く世の中に紹介する本が、展覧会の会期に あわせて出版されました。東京大学の建築史 教授・鈴木博之 編著の『 伊東忠太を知っていますか 』(2003年4月発行、B6判、王国社)です。私は 鈴木さんの依頼で、「第4章 伊東忠太の世界旅行」の中の インド編、「伊東忠太のインド建築行脚」を書きました。

EURASIA連載「世界の建築ギャラリー」2003年11月号〜

ユーラシア

● ユーラシア旅行社のA4判オールカラーの月刊旅行 PR誌『 EURASIA(ユーラシア) 』に、世界各国の建築探訪記、「 世界の建築ギャラリー 」の連載を依頼されたので、毎月2ページの見開き記事を1年間 連載しました。旅行会社の PR誌なので、旅行シーズンとの関係があり、編集長の富永さんから (0819)、最初の4回がインドで、次の2回はイスラム、あとはヨーロッパで書いてほしいという要望でした。

中外日報イランのバム、地震の報道記事 2004 /01/ 17

バム

● 『 中外日報 』というのは「仏教新聞」だと思われがちですが、実は すべての宗教を対象とする「宗教新聞」です。そこで、インド建築やイスラム建築を研究していた私にも声が かかりました。編集担当は 若い 高橋由香里さんでした。この記事は、次の連載が始まった直後でしたが、イラン大地震は前年末の12月26日です。

中外日報「世界の宗教建築」の連載 2004年1月3日号〜

中外日報

● 『 中外日報 』という明治時代から続く日刊の宗教新聞に「中外アート」という欄があり、2004年1月から 月に1回、「世界の宗教建築」という1ページの記事の連載をし、キリスト教やイスラム教、ヒンドゥ教、ジャイナ教など、さまざまな宗教の建築を採り上げました。

旅行人 「 チャンディーガル建築案内 」 2004年 夏号

旅行人

● 2004年 夏号の『 旅行人 』は、「 民家そして人工都市 」という特集をして、そこに 私の「チャンディーガル建築案内」という記事を載せました。『神谷武夫とインドの建築』の「インドのユネスコ世界遺産」のディヴィジョンに「ル・コルビュジエの建築作品」というページがあり、チャンディーガルの都市と建築を扱っていますが。それを「旅行人」の蔵前仁一さんが多少編集して、少し短くしたものです。

芸術新潮 特集 「スペインの歓び」  2004年 8月号

芸術新潮

● この頃『 芸術新潮 』は、毎年8月にヨーロッパ諸国の国別に一冊特集をやっていて、2004年は スペインでした。スペインにはイスラーム建築があるので、8ページにわたって「イスラム建築を楽しむために」という記事を載せました。私へのインタビューを、編集部の伊熊さんが まとめたものです。

中外日報「インドの新登録世界遺産」2005年2月10日号

中外日報

● 『 中外日報 』に、 2005年に登録された「インドの新登録 世界遺産」を2回 寄稿しました。1回目は2月10日号に チャンパーネルの「イスラーム都市と その建築」 (西インド)、2回目は3月10日号に ムンバイ(ボンベイ)の「チャトラパティ・シヴァージー駅舎」 (中インド)です。

カ-サブルータス 特集「そろそろインド」 2005年 3月号

ブルータス

● マガジンハウス(旧・平凡出版)の 『 カーサ・ブルータス 』という雑誌の 特集 「そろそろインドに 呼ばれてみませんか」に、「インドとモダニズムの邂逅」という記事を書きました。インドにおける シュースミス、レイモンド、ライト、コルビュジエ、カーンと続く モダニズムの系譜を概観していますが、編集者からは ひどい扱いを 受けましした。  

 『 建築家のメモ U』 JIA 監修   丸善  2005年 12月

メモ

● 日本で活躍する建築家 100人の、設計中のメモやスケッチを集めた 『建築家のメモ(メモが語る100人の建築術)』と題する本が、2004年に丸善から出版されました。その好評に気をよくした出版社は、翌年末にその第2集 『建築家のメモ U』を出版しました。今回は 故人となった有名建築家も 10数人いれて 100人とし、厚みを増そうというわけです。私的なメモやスケッチを見ると、その建築家が豪放な人か神経質な人か、といったようなことがよくわかりますが、概して建築家には几帳面な人柄が多いようです。私は「パラダイス・ガーデン(倉持別邸)」のスケッチを載せました。  

KAJIMA「風景のかけら、ジャイサルメル」2006年3月号

KAJIMA

● 鹿島建設の月刊 PR 誌(社内報)『 KAJIMA 』からの依頼で、「 飾窓(ジャイサルメル)」という原稿を書きました( A4版、カラー写真とも2ページ )。 伊藤清忠氏の連載「風景のかけら」の第3回「 ジャイサルメル」への寄稿です。

旅行誌NEUTRALの「インド特集」 白夜書房 2006年

ニュートラル

● 雑誌のような、書籍のような「NEUTRAL」(ニュートラル)の第7号が「美しきインドのこころ」と題するインド特集をしています。 この中の 106, 107ページに インドの宗教建築の代表作を 写真と解説で紹介しました。   (白夜書房、2006年 5月 26日発行)

文化・デザイン誌PENの 「インド特集」    2007年

PEN

● 月2回発行の人気の雑誌 「PEN」 の 12月1日号が、「新しいインド・永遠のインド」と題するインド特集をしました。全 70ページにわたる特集で、「いまこそ訪れたい魅惑の大国」というサブタイトルが付いています。 この中の 72, 73ページに、インドの建築について記事を書きました。  (阪急コミュニケーションズ、2007年 11月15日発行 )

ACT 4特集「新・トルコの肖像」インプレザリオ 2008年1月号

ACT4

● 2007年12月3日に『 ACT 4 』という隔月雑誌の編集部の 朝岡さんという人から、「トルコ大使館と商工会議所の支援を受けて、2008年1月号で 「新・トルコの肖像」という 50ページの特集をするので、ミマール・シナンの作品と人生に関しての寄稿をしてほしい という Eメールが来て、『 カーサ・ブルータス 』の時と同じように、原稿は書きましたが、私の写真は使わずじまいでした。

建築と社会特集「建築と石」日本建築協会 2010年7月

建築と社会

● 関西の建築関連団体に「日本建築協会」というのがあります。大正 6年に「関西建築協会」として設立された、100年の歴史をもつ老舗団体です。 当初は 関西の建築家を大同団結しようとする組織でしたが、次第に 広く建築・建設関係のゆるい団体となったようです。その機関誌『建築と社会』の 7月号が、「建築と石」という特集をしました。私は「インドの石」と題して、インド最初の石窟寺院である バラーバル丘の石窟寺院と、タージ・マハル廟などの 白大理石のドーム屋根 について書きました。

新潮 世界美術辞典 の 改訂稿 執筆      2010年

新潮社

● 2010年の冬、新潮社の『新潮世界美術辞典』の ごく一部の項目の 改訂稿を執筆しました。 この辞典が出版されたのは 1985年のことですから、もう 25年も前のことです。世界的に見ても 優れた美術辞典だと思いますが、25年間 まったく改訂をしていなかったので、少々内容が 古くなってしまいました。特にイスラーム美術やコロニアル美術の項は、当時は十分な扱いを受けていません。私は インドの イスラームと その後の 建築の項の改訂を担当しました。

イスラーム建築 彰国社 2007年、 私家版 2014年

イスラーム

● 『イスラーム建築、その魅力と特質』は 彰国社から執筆依頼されたにもかかわらず、出版直前になって その彰国社が出版拒否し、また他のどこの出版社も、マフィアの圧力で、あるいはマフィアが怖くて、出版できない、という「幻の本」となってしまいましたが、たった一部だけ残った ゲラ刷りを両面コピー(印刷)して 100部限定の私家版『イスラーム建築』として、2014年の夏に 典雅な布装本の 実際の書物にしました。



■■■ 以上 書いてきましたように、私に原稿依頼をした出版社や雑誌社は、マフィアから圧力が かかったり、嫌がらせを されたりするので 嫌気がさし、あるいは恐ろしくなり、以後は 私に原稿を依頼しなくなります。また 私の設計業務も 工事も 妨害されるので、設計活動を続けることも 困難になりました。 マフィアについて、2009年9月1日に「お知らせ」欄に書いた文を、以下に再録しておきます。

私のHPにおいて、マフィア というのが 何のことか解らない、というお便りをいただくことがあります。日本のマフィアと言えば、暴力団のことを思い浮かべる人が多いでしょう。しかしながら、私のいうマフィアは、暴力団とは 直接の関係はありません。
マフィアの定義は 人によって いろいろですが、社会の暗部で、さまざまな(反社会的な)秘密工作 をする組織を、ここでは マフィアと呼んでいます。たとえば、坂本弁護士一家を殺したり、地下鉄サリン事件を起こしたりしたのは、ある宗教マフィアです(あとで オーム真理教と わかりました)。朝日新聞の神戸支局を襲撃して 記者を殺害したのは 政治マフィアでしょうが、日本の社会には 大小さまざまな マフィアがあります。
戦後の日本で 特に発達したのは 業界マフィアで、多くの業界にあります(談合などをします)。巨大な業界マフィアは、政界に多大の政治献金をしたり、官庁からの天下りを 多数受け入れたりすることで、 政治家も官僚も、そしてジャーナリズムも あやつり、またその業界利益を守るためには、CIAや戦前の特高のような 秘密機関によって、業界の不利益になる言動をする者(つまり、正しいことを言う者)を迫害し、言論を封じる(抹殺する)のです。


中欧東欧文化事典   丸善出版    2021年 9月

東欧事典

● 2018年に 丸善出版から、翌年の 2019年秋に出版する予定の『 東欧文化事典 』という本に、「ブルガリアのイスラーム建築」についての原稿を依頼されました。翌年春に原稿を送りましたが(マフィアによる妨害も あったりして)、編集は遅れに遅れ、編集担当者も交替し、本の題名も『 中欧・東欧文化事典 』と変更になり、2021年9月になって、やっと本ができたようです。私の原稿の内容は、この HP上の『 東欧のイスラーム建築 』のダイジェスト版です。

佳人の奇遇 明治 18年  東海散士     2022年3月

佳人の奇遇

● 最後に、これは 雑誌や本への寄稿ではありませんが、この HP で長いこと続けている「古書の愉しみ」のシリーズに書いたもののサンプルを一つ、明治時代に東海散士が書いた『佳人の奇遇』についての 長編紹介記事を ここに入れておきます。




愛用パイプ
 煙草を吸っていた頃に愛用した、シャコムの バーズアイの パイプ



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