PROFILE of TAKEO KAMIYA
神谷武夫

かみや たけお 建築家 プロフィール

Takeo Kamiya
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1965  東京芸術大学 入学(美術学部・建築科 )
1968  「富士高原に建つ別荘」設計競技入選
1969  東京芸術大学 卒業(昭和 44年 )
1971  山下和正 建築研究所に勤務(〜1976)
    フロムファースト・ビル(1976年度 日本建築学会賞 受賞)
     等の設計・監理を担当
1976  最初のインド建築研究・撮影旅行( 3ヵ月間 )
     以後、世界各地の建築文化を訪ねて 46回、延べにして 1500日以上を旅する
1980  神谷武夫 設計事務所 設立(一級建築士事務所 )
1983  神奈川建築コンクール 最優秀賞 受賞(横浜の町家
1987  訳書 イスラムの 建築文化を出版(原書房 )
      SD レビュー入選(クロイスター
1989  訳書 楽園のデザイン ― イスラムの庭園文化 』 を出版(鹿島出版会 )
1990  GID コンペ入賞(『 クロイスター』)
     訳書『イスラムの 建築文化 』の 普及版を出版(原書房 )
1991  GID コンペ入賞(パラダイス・ガーデン
1992   『 at 』誌の懸賞論文で 優秀賞受賞(『 文化の翻訳 ― 伊東忠太の失敗 』)
      マフィアによる迫害が始まり、建築雑誌に作品が載らなくなる
1993  訳書ヒンドゥ教の建築を出版(鹿島出版会 )
     デルファイ研究所刊の『 at 』誌で、ジャイナ教の建築について連載( 〜1994)
     (『素晴らしきインド建築 ― ジャイナの小宇宙 』)
1994  12回目のインド旅行をして、インド建築の撮影を完了する
1995  建築学会の機関誌『 建築雑誌 』に「あいまいな日本の建築家 」を執筆する
     マフィアによる迫害が激化し、工事妨害、出版妨害、家宅侵入が行われる
1996  妨害と闘いながら、著書インドの建築を出版(東方出版 )
     同じく、著書インド 建築案内を出版( TOTO出版 )
1997  JIA 建築事情視察団『インド建築巡礼の旅 』の団長をつとめる
     『ユネスコ 世界遺産 』第5巻「インド亜大陸編 」の建築監修とリライト(講談社 )
      10月にホームページ「 神谷武夫と インドの建築 」を立ち上げる
1998  TBS テレビ『ユネスコ 世界遺産』の「タージ・マハル廟とアーグラ城」の監修
     『 まちなみ 建築フォーラム 』誌で 創刊号から「インドの木造建築 」を連載するも、
      マフィアの圧力で雑誌がつぶされ、連載は5回で中断する
1999  JIA 建築事情視察団『インド建築視察・世界遺産の旅 』の団長をつとめる
     TBS テレビ『ユネスコ 世界遺産 』の「ラホール城と シャーラマール庭園 」の監修
      東京大学 非常勤講師(「インド建築史 」)
      専修大学 非常勤講師(「 芸術学 A - 建築 」〜2007 )
2000  朝日カルチャーセンター(東京)で「インド建築史 」の講座をもつ
     日本建築学会『建築雑誌』9月号に「末端肥大症の建築」を執筆する
2001  世界考古学 発掘アカデミー(東京)で「インドの都市と建築 」の講座をもつ
     東大助手(後に教授)の村松伸から依頼されて、論文「ジェイムズ・ファーガスン
     と インド建築 」を書くが、20年経っても 本は出版されず(風響社)
2002  事務所の名称を 神谷武夫 設計事務所 から 神谷武夫 建築研究所 に変更
      TBS テレビ『ユネスコ 世界遺産 』の「パハールプル 仏教寺院遺跡 」、
      および「デリー(フマユーン廟 とクトゥブ・ミナール)」の監修をする
     『 建築東京 』誌に「インド・ヒマラヤ建築紀行 」を連載する
2003   『インド 建築案内 』の 英語版 が インドで出版される
     『 伊東忠太を知っていますか 』に「 伊東忠太のインド建築行脚 」を書く(王国社)
     『 EURASIA NEWS 』に「 世界の建築ギャラリー」を連載する( 〜2004)
2004  『 中外日報 』紙に「 世界の 宗教建築 」を連載する( 〜2005)
2005  著書インド古寺案内(「インドの宗教建築」)を出版する(小学館 )
2006  著書イスラーム建築を執筆するが、マフィアの圧力で 出版されず(彰国社 )
2007  この年より日本・中国・韓国 建築学会の 英文論文集 "Journal of Asian
     Architecture and Building Engineering" の建築史関係の 応募論文の査読
2009  TBS テレビ『 THE 世界遺産 』の「タージ・マハル廟と アーグラ城 」の監修
      4月に ホームページをインド関係とイスラーム関係の二つに分け、
     後者を「 世界のイスラーム建築 」と名づける
2010  TBS テレビ『 THE 世界遺産 』の「コナーラクの 太陽神殿 」の監修
2013  3番目の ホームページ「アルメニアの建築 」を立ち上げる
2014   「 幻の本 」となった 著書『イスラーム建築 』の「 私家版 」を 100部 制作



事務所   神谷武夫建築研究所       E-mail:kamiya@t.email.ne.jp
       〒114- 0023 東京都北区滝野川 3-1-8 -506       地図
       Tel:03- 3949- 9409
会員    日本建築学会々員
研究    設計のかたわら、インドの建築文化、イスラームの建築文化、
       アルメニアの建築の 研究をする
ウェブサイト 「 神谷武夫とインドの建築 」 http://www.kamit.jp/  
       「 世界のイスラーム建築 」  http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/
       「 アルメニアの建築 」    http://www.asahi-net.or.jp/~wu3t-kmy/


マハーヴィーラ

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MEMORIES OF BOOKS AND PAINTINGS

本の思い出、絵の思い出

神谷武夫

(府立九中・都立北園高 60周年記念誌『時計台の見た青春』1989年)

 暗く 鬱屈した青春時代を過ごした者にとって、高校時代が楽しかった と回想することはできない。生まれて来なければよかった、と早くから考えるような人間であった。けれど そうした苦悩や不安にさいなまれながら、なお 未知への憧れを心に抱きつつ生きるというのもまた、青春時代の 一つの形であるのかもしれない。外界との違和感を 常に感じながら 内向していく若者が、しばしば 読書や芸術に救いを求めるように、私もまた 毎日 美術室に入りびたって 絵を描き、そうでない時には(授業中も)小説ばかり読んで過ごしていた。母校に対して 何よりも感謝しているのは、そうした生活を可能にさせてくれるような「自由」にあった。管理されることを嫌い、集団で行動することを苦手とする故に、今もなお宮仕えせずに フリーでいるくらいだから。

 三年間の担任は 国語の内田先生であったが、美術部では ずっと林先生の指導を受けた。建築家になろうと決心した直接のきっかけは 林先生の勧めであったが、文学の方の影響も少なくなかった。当時愛読していた立原道造が、詩人であると同時に 建築家でもなかったら、建築家になろうとは 思わなかったかもしれない。また 北園へ入って最初に読んだ小説『ジャン・クリストフ』に深く感動したあまり、自分も ジャン・クリストフのように生きねばならぬ、などと心に決めたりしたのだった。貧乏芸術家の道と 独身生活は、ここに胚胎しているわけである。

 一方、美術と文学を結びつけた大きな出会いは、国語の教科書に載っていた「窓の少女」という一文である。これは 美術史家、矢代幸雄が欧州に留学し、ロンドンのダリッチ画廊にある レンブラントの『窓の少女』という絵に寄せて内面を語ったもので、高校時代に出会った文章の中では、中勘助の『銀の匙』と並んで 最も美しいものであった。文章の美しさばかりではない、そこに論じられている レオナルド、ボッテイチェリ、レンブラントを通して語られる その芸術論と人生論とに深い共感と、暗い人生における慰めさえ覚えたのである。

窓の少女   太陽を慕ふ者

 その「窓の少女」は 矢代幸雄の最初の美術評論集『太陽を慕ふ者』に収められていると知ると、戦前に改造社から出たその本を 神保町や本郷、早稲田の古書店をどれだけ捜しまわったことだろうか。いくら尋ねても見つからずに 半ばあきらめかけていた頃、別の本を捜している時に 不意に眼にした時の驚きと喜び。それは 美術評論集というよりは、若き日の芸術の徒が、遥かな異国の地でつづった 魂の漂泊の日記であった。真摯な学問と芸術の探求に ないまぜにされた感傷主義の故に、著者はそれを絶版にして 人目から遠ざけてしまったのだが、若い私にとってその本は 一種の精神的な救いと慰謝であった。

 「あくがれなくて 如何して人の生きられやう。是は太陽を慕ふものの声である」と書き出されたこの書を読み終わった時、私の心の中には 勃然として、「自分もこのような本を作ろう」という気持ちが 湧き起こったのである。それからは 日に夜を継いで本作りに熱中し、あちこちに書き散らした原稿や詩、日記、手紙の類まで動員して文章を集め、用紙を選んで清書し、たくさんの図版を貼り込み、製本して キャンバス装の表紙をつけ、北園の校舎のスケッチを描いた函まで造ったのだった。こうして私の初めての本、美術評論集『ルノワールの涙』限定1部が できあがったのである。当時 少数の師友に見せ、その時書いてもらった感想文は 今でも保存してある。しかし その本自体は、書棚にしまったまま 10年以上も 手を触れていない。その文章の多くが あまりにも幼く感傷的であるために、顔から火が出るようで 読めないからである。
 内田先生の手から いつのまにか坊城先生の手に渡って、思いがけない感想文とともに 著書を贈られたことも思い出である。印象深かった内田先生の感想文には、
  「一つの道によせる想いは 自分のもので、他の誰の為にするものでもない。
   問うものがあれば、自分の心 そのもののほかにない。」

とあった。 その内田先生も 昨年亡くなられた。高校時代の本好きを引きずって、昨年は拙訳『イスラムの建築文化』を原書房から出版したのだが、私の2冊目の本を、先生は眼にすることなく 逝ってしまった。

イスラム

 『窓の少女』 に関しては、いつか英国に行くことがあったら きっとこの絵を訪ねよう、という当時の願いが、その 10年後に叶えられた。ロンドン郊外のこの画廊のことは 知る人少なく、苦労の末に やっとたどり着いて、私の青春時代の象徴のような その絵と対面したのである。その時、何だか 私の心に漂い続けていた青春の想いに 別れを告げられたような気がした。それが、私にとっての「歌のわかれ」だったのだろうか。


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An ARTICLE in NIHON KEIZAI SHIMBUN
インド建築 撮った2万枚

シカンドラ

日本経済新聞の 紹介記事(1996年12月13日 朝刊)

 タージ・マハルとも呼ばれる、インド・ムガル朝の王妃の廟。タマネギ型の白いドームを載せたこの廟は、だれでも写真を見たことがあるだろう。インド建築はとかく、このペルシャ風の廟建築や仏教の石窟寺院だけで語られがちだ。しかし日本の面積のおよそ9倍、公用語が 16もあり、多数の宗教をかかえるインドには、もっと多様な建築文化がある。

木造的原理の石造主体

 21年前に初めてインドを訪ね、その多彩な建築群に圧倒された私は、以来、全土とインド文化圏のバングラデシュ、ネパール、パキスタンやスリランカの建築を写真に収めてきた。通算 12回の旅で撮影したのは古代から現代まで 2,000以上の建物、枚数は2万枚に及ぶ。なにしろ広い国なので、全貌(ぜんぼう)は無理としても、その豊かな表情の一部をここで紹介しよう。
 気候や風土、宗教によってデザインは異なるが、インド建築の全体を見てみると二つの大きな特性が挙げられる。彫刻的なこと、そして石造が主体であるにもかかわらず木造的な原理で建てられていることだ。インド人は造型芸術のなかで彫刻をもっとも好む。そして建物の内も外も神々や動物の彫刻で覆うばかりでなく、建築自体をも彫刻のように造ったのだ。柱と梁の架構からなる日本の骨組み的建築に比べると、「かたまり的」な建築文化といえよう。
 そうした中で、白大理石造りで、床以外のあらゆる部分を細かく彫り込んだアーディナータ寺院は、インド建築の最高傑作といえる。北西部ラージャスターン州のラーナクプルにあるジャイナ教の寺院で、1439年に建造された。ジャイナ教とは、仏教と同じ紀元前5、6世紀ころに誕生し、主流になったヒンドゥ教の影で細々と現代にいたるまで続く宗教である。

ジャイナ教に強く興味

 初めてインド旅行をしたとき、何よりもジャイナ教の建築を訪ねてみたいと思った。埴谷雄高氏の小説『死霊』にも登場するこの宗教には、たいへん興味をひかれていた。しかし教徒の数は全人口のわずか 0.5%。はたして見るべき建物などあるのだろうかと思いながら、その聖地の多い西インドに向かった。
 ウダイプルからバスに4時間半も揺られ、山奥の秘境に降り立つ。ラーナクプルにはいくつかの小寺院と巡礼宿があるだけで、町も村もない。そこにアーディナータ寺院は巨大なパレスのごとく、忽然(こつぜん)と姿を現したのだ。外観の素晴らしさに目を見張る。「かたまり的」なヒンドゥ寺院では、内部に入ると洞窟のような狭い空間にがっかりすることも多い。ところがこのジャイナ寺院は三層吹き抜けの大空間を擁し、高く低くドーム屋根がかかる。その間から、柔らかな日差しが、至るところを埋め尽くす優雅な彫刻を照らし出す。回遊式の寺院の中で、私は夢中でシャッターを押し続けた。

日本に多い「入母屋」も

 古代のインドには木造建築が多かった。しかし樹木が減るにつれ、寺院は石造が主流となる。南端のケーララ州と北部のヒマーチャル・プラデシュ州は、かろうじて木造の建築文化が残る珍しい地域だ。特にヒマラヤ杉が密生するヒマーチャル・プラデシュ州の東部には、日本人にとって懐かしいような風景が広がる。雨が多い地帯なので、建物には勾配屋根がかかる。これが直線でも「むくり」(膨らみ)でもなく、日本のように「反り」がある。外観は質素に見えるが、近づいて目を凝らすと、網のように繊細な紋様の木彫りが見てとれる。

ビーマカーリー

 標高 1,900メートルの山上にそびえるサラハンの ビーマカーリー寺院は、日本の神社のような「入母屋(いりもや)造り」をした、18世紀から 19世紀の建造物である。木と石を交互に積んだ壁は整然とした縞模様(しまもよう)を描き、「反り」のついた屋根を二列に並べたり、交差させたりした塔状の本殿が、深い緑の山を背にそびえている。凛(りん)として荘厳な姿はいつまで見ていても飽きない。
 インドでは宗教上の理由から撮影を禁じる寺院もあり、あの手この手を使って撮影した貴重な写真もある。ケーララ州では上半身裸、はだしになり、ルンギ(腰巻き)をまとって中に入れてもらっても、カメラの持ち込みは許されない。町なかで三脚やアングルファインダーを使って撮影していると、黒山の人だかりができて困ったことも、今ではよい思い出だ。撮りためた写真を整理して、この度 インド建築案内TOTO出版) を刊行した。 インドの多様で奥深い建築の世界を知る道しるべになれば幸いである。


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DAILY INDO-BUSINESS on the Net

神谷武夫先生へのインタビュー

(「日刊インド・ビジネス」2003年10月14日号 )
インタビュアー:佐藤雅子(インド舞踊家)

 1996年9月、TOTO出版より、全インドの 612の建築物を紹介した、オールカラーの『 インド建築案内 』が出版されました。 著者は、建築家の神谷武夫先生。 20年間に亘ってインド建築を研究された集大成は 国際的にも高い評価を受け、2003年に、『 インド建築案内・英語版 』(" The Guide to the Architecture of the Indian Subcontinent ")が、インドで発行されました。
 プレス・リリースは、9月3日に インド政府の 文化・観光省により ニューデリーの アショカ・ホテルで行なわれ、その後、9月13日には ムンバイで出版記念会が開催され、各地で たいへんな話題を呼んでいます。 今回のインタビューは、日本でインド建築についての ご研究をしていらっしゃる わずかな一人である 神谷先生に、インド建築についての お話を うかがいました。

ヒマチャル
インドの新聞 "THE HINDU" の Book Review

--------------------------- 神谷先生 談 ---------------------------

 1970年代初頭、日本の建築界で活躍する建築家の間には、アメリカやヨーロッパに留学し、設計事務所で 1〜2年間働いた後に、日本に戻って事務所を開設して、欧米の最新流行の建築物を造る ということが流行していました。
 当時、私は、東京芸術大学の美術学部・建築科を卒業後、山下和正建築研究所に入り、青山の フロムファースト・ビル の設計を担当していましたが、アジア的感覚が すっぽりと抜けてしまう建築界の風潮に 多少の反発を覚えていました。何かアジア的な 新しいものを作ることはできないか? と、考えていたところ、「インド」という国が突然 頭に浮かびました。
 子供時代に親しんだ 花祭りや三蔵法師、手塚治虫の漫画など、仏教を通じたものが 日本の文化に根付いていること、敬愛する埴谷雄高や 高橋和巳が インドのジャイナ教に興味を持っていたこと、当時はFM放送が始まった頃で、小泉文夫による「NHK 世界の民族音楽」を聴いて 日本人の若者がインドに行き始めていたこと などが重なりました。

 早速 インドに関する文献を集めましたが、仏教の本は多いものの、建築に関する本は ほとんどなく、観光ガイドブックも インド、ネパール,スリランカを一緒にした 薄い本一冊のみ。とにかく この目でインドの建築物を見なければならないと、フロムファースト・ビルの竣工後、事務所を辞め、1975年1月に、3ヶ月の滞在予定で インドの地を踏みました。
 当時一番安かったのは、エア・サイアムという タイの航空会社でした (当時は エア・インディアは 高級航空会社でした)。これに乗ってバンコクまで行き、カルカッタまでの往路を購入して、カルカッタ空港に降り立ったのですが、乞食や 物乞いをする子供、悪臭、汚さに たいへんなカルチャーショックを受け、すぐに 日本に戻りたくなってしまいました。
 が、「ここで戻っては 男の沽券に関わる」と、その夜、夜行列車で ブバネーシュワルへと向かいました。 しかし、お祭りで ホテルが空いておらず、さらに コナーラクまで足をのばして トゥーリスト・バンガローに宿をとり、初めての インドの夜を過ごすことになりました。
 翌日には インドにも少し慣れてきましたが、1週間も経つと、ビックリ仰天するようなことが 連続して起こるインドが おもしろくてしょうがない と思うようになりました。苦労して現地まで辿りつくと、突如として 思いもよらぬ凄い建物が 忽然と現れるのです。

 「何でも 人と同じことをしなければならない」日本に比べ、「思いのままで OK」 というインドは、どんな格好をしても OK、自己主張をして波風をたてても OK、「生きていること」を まったくもって実感でき、次から次へと 新しい発想が沸いてきました。3ヶ月後に日本に戻りましたが、この時のインド旅行は たいへんなインパクトを与え、さらに深くインド建築を調べてみよう と思ったのです。
 インドに史跡として現存する建築物は、古代の仏教建築、中世のヒンドゥ教や ジャイナ教の建築、近世のイスラム教建築に 大まかに分類されます。ヒンドゥ教の建築は、建物全体を あたかも彫刻作品のようにつくる「彫刻的建築」で、素晴らしい装飾とともに、その外観が 見る人々を圧倒しますが、内部の空間は狭く、薄暗くて、あまり 魅力があるとは 言えません。イスラム教の建築は、外部の表現よりも、内部空間を素晴らしく作る ということに重点をおいた「皮膜的建築」です。対して、日本におけるような木造建築は、外観を彫刻的にしたり 内部空間を 囲みとったりすることよりも、柱と梁の架構だけを残して 内外の空間を連続させる「骨組み的建築」です。
 一方、西インドに多く現存する ジャイナ教の建築には、それら三つの性格の建築を一つに統合しているものが見られ、表情豊かな魅力に溢れています。インドで最も有名な建築物である タージ・マハル廟は、イスラム教を絶対視した シャー・ジャハーン帝によって 建設されました。もっぱら ペルシャの建築要素で造られた このイスラム建築は 純粋なインド建築とは言えませんが、外観を重視したがゆえに、イスラム建築でありながら 皮膜的建築であるよりは 彫刻的建築となっています。 内部空間は比較的単純で「謎」や「影」というものが無く、やや魅力に乏しく感じられます。

アーディナータ寺院
ラーナクプルのアーディナータ寺院

 インド建築の代表として 私が一番に挙げたいものは、西インドのラーナクプルにある ジャイナ教の「アーディナータ寺院」です。内外部を装飾する彫刻の造形美は ヒンドゥ寺院のそれには及びませんが、寺院全体の壮麗さは 他の追随を許しません。それは、先ほど述べた、三つの建築形式の総合性からきています。ウダイプルから車で4時間の山中にあり、あまり知られていない寺院ですが、訪れるたびに 感動を覚えます。インド建築の 最高傑作でしょう。
 インドでは、「宗教」が 建築の発展に多大な寄与を及ぼしてきました。 ヒンドゥ教のお寺は、「神の住まい」として造られています。寺は、擬人化された神が住まう場所であり、人々が それを礼拝し、お供えをし、もてなす場所として 作られていますので、「聖室+拝堂」という、極めてシンプルな構成をしています。これに対し、ジャイナ教の寺は、聖人が教えを説く場所 として造られています。より多くの民衆に救いを与えることができるよう、本尊(聖人)は4体が背中合わせになっている チャトルムカ(四面像)となることが多く、その場合には 四方に伸び広がる 曼荼羅的な寺院構成になります。
 ジャイナ教から発した この曼荼羅的プランの寺院建築は 仏教にも大きく影響を与え、バングラデシュから 東南アジアへと伝わり、アンコール・ワットにまで その影響を及ぼしました。 数百年をかけて、インドから東方へ発した文化の変遷の 壮大な歴史を感じずにはいられません。

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書棚の一部

 2003年 6月 25日、東京都北区にある 神谷武夫先生の建築研究所を訪れました。インドやイスラムの建築関係の出版物で埋め尽くされた事務所の壁面から、神谷先生は、「ごく珍しい書籍」として、今から 170年前の 1834年に出版されたという ラームラーズの著した 『 ヒンドゥ建築論 』を取り出して見せてくださいました。中を拝見すると、とても石版画とは思えない緻密な寺院建築の図面や鳥瞰図、外観などが美しく印刷されており、イギリス統治時代の 先駆的なインド人の素晴らしい仕事に たいへん驚かされました。

 今から7年前に発行された『 インド建築案内 』には、神谷先生がそれまで 20年間に渡って撮影した2万枚もの写真の中から 1800枚が選ばれ、収集した資料の中から 300枚の地図と図面が使用されています。既に初版1万部、第2版 5,000部が売り切れ、第3版がこの春に刊行されました。
 神谷先生が、仕事の合間に 取り得る限りの 長期休暇を取られ、行かれたという「インド建築行脚」は、既に十数回を数えられるそうですが、心に深く残っていらっしゃるのは、やはり、初めてのインド旅行。カルカッタから入り、東 →南 →北上 →西 →最北 といった旅順で 各地を廻られたそうですが、ジャイプルを訪れた際、その南に位置する サンガーネルという村への道を リキシャで往復した時のことが 今もって記憶に鮮明に残っていらっしゃるそう。
 果てしなく続くように思われる小道を 滑るように進むリキシャから上方を見上げると、木々の緑のアーチから 木漏れ日が洩れ、その他は、時折牛車と行き交うだけ といった牧歌的な情景。それまでの3ヵ月近くにわたるインド各地の旅の思い出が 走馬灯のように頭の中に浮かび上がり、うっとりと 至上の恍惚感を感じられたそうです。

ヒマチャル
ヒマ-チャル・プラデシュ にて

 ラーナクプルの アーディナータ寺院を インドで最も優れた建築と絶賛していらっしゃる神谷先生の、その他の お薦めのインド建築は、北インドのヒマーチャル・プラデシュ州にある 木造寺院群。 多雨で緑が多く、また複雑な地形から 観光化が殆ど行われていない ヒマラヤの山岳地帯は、他地域とは異なる文化を呈示し、建築学的に見ても たいへん興味深いのだそうです。
 日本では見ることのできない「石彫寺院」では、エローラーのカイラーサ寺院を、「世界の七不思議の 1つに数えられるほどの巨大な 手彫り寺院」、ムンバイとプネーの間にある カールリーのチャイティヤ窟を「仏教の石窟寺院としては最高傑作、内部空間が素晴らしい」と絶賛されています。

 お好きなインド料理は、タンドーリ・チキンと バター・ナーン。インドに行くと必ず 各地で召し上がるそうです。 お薦めは コルカタの リットン・ホテルの ビーフステーキ。インドでは最高なのだそう。 お好きな言葉は、

  「 私は、我々をとりまく全世界が たとえ滅びようと、その中に 救いを見いだし得るような、独立した 自主的な生活を始めるように 忠告しているのだ。
   (アレクサンドル・ゲルツェン(ロシアの思想家・文学者)の言葉) そして、

  「 サイの角のように ひとり歩め(ブッダの言葉)

 黙々とご自身のお仕事に専心されてきた 神谷先生の生き方を表しているような言葉 にも感じられます。 毎日心がけていらっしゃることは、

  「 規則正しい生活 」。

 インドの建築にふれることによって、それまで 欧米と日本という二元論で考えていた世界を、多元的に見るようになり、世界は多様性に満ちている という認識を深めるようになられたという 神谷先生。 現在は、ご自身の研究とお仕事の他に、専修大学の非常勤講師として、芸術学と 建築を教えていらっしゃいます。

 19世紀の建築の理念は「様式」、20世紀の建築の理念は「空間」と言われています。 現代建築は、幾何学で作られ 内部空間の美しさを重視する 皮膜的建築(イスラム建築)と相性が良く、講義などをしても人気があるそうですが、これとは趣を異にして 外観の「彫刻性」を重視したインド建築は、現代には なかなか受け入れられにくい要素を持っています。
 しかしながら、21世紀を迎え、インドが「開かれたインド」に発展していく時代、神谷先生の著された『 インド建築案内 』は、インド建築界のみならず、世界の建築界に 新たな視点を与えていくに 違いありません。


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QUOTATIONS FROM BOOKS
(本からの抜粋)

アリアス
(クリック:高校時代の美術活動)

若い頃に、本を読んでいて、その時々 心に響く文章に出会うと、それをカードにとって書き写す という習慣がありました。時には それを暗記したりも したものですが、それらの文章ばかりか、そのような習慣をもっていたことさえも 忘れていました。ところが そうした昔のカードが 机の奥底から出てきて、読み返すと、一種の感慨を覚えました。若いときの自分は こうした文章に心を惹かれたのか という、なつかしいような 感慨です。それらの「語録」を 日本と西洋と東洋の3つの項目に分けて、ここに入れておく ことにしました。興味のある方は、それぞれの項目を クリックして ご覧下さい。   ( 1999 /10/ 28 )

日本の語録 西洋の語録 東洋の語録



ガネシャ

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MEMORIES OF A DOG
犬の思い出 ( 昭和30年頃の 犬の飼い方 )

タロ
記憶のタロに そっくりな犬、福ちゃん

 2023年の秋に、それまで「建築」という 静的な芸術の世界に浸っていたのが、ふと 小動物の世界に関心が広がり、思いもかけず、それに熱中するようになりました。そうしているうちに、昔 うちで飼っていた タロという雑種犬のことを 思い出すことが多くなり、時には 何時間も、タロのことや、あの時代の事を 想起したり 考えたりしているので、それを「犬の思い出」と題するページに 書いておくことにしました。ユーチューブなどの動画のチャンネルに見る、現今のペットの飼い方とは ずいぶん違う、その頃の様子を描いて、「昭和 30年代の 犬の飼い方」という 副題を付けました。今の ペット・ラバーたちからすれば、驚いたり 呆れたりするようなことが 多いでしょう。 興味のある方は、ここをクリック して お読みください。   ( 2024 /04/ 01 )

 

MEMORIES OF A CHIPMUNK
リスの思い出、その他の小動物

リス
シマリス、チャキーの子供

 今から 58年も前の 1966年(昭和41年)、私が大学2年生の秋に、3ヵ月くらいだけ、リス を飼っていたことがあります。愛らしい 小さな シマリス ですが、偶然に飼うことになり、短期間でもあったので、名前も付けていませんでした。「思い出」シリーズのひとつとして、「猫」と「犬」に続いて「リス」の思い出も、わずかですが、書き留めておくことに しました。 これは短文ですので、飼ったことはないけれど 見たことのある小動物や、その他の興味深いペットについても触れ、それらについての 動画チャンネルの紹介も することにします。 興味のある方は、ここをクリック して お読みください。   ( 2024 /06/ 01 ) 

 

NOSTALGIA FOR THE CHIPMUNK
シマリスへの 懐旧の情

リス

 前回の「リスの思い出」を書いている頃から 毎日、リスを写したユーチューブなどの動画を見ています。「思い出」を書き終わって HP にアップしてからも、昔飼っていた シマリスへの「懐旧の情」が起こって 収まらず、ますます 強くなって、最も可愛い動物は、やはり「シマリス」だなぁ という思いが 大きくなる一方です。もう一度、シマリスを飼おうか とも考えましたが、もう 年齢的に、リスを 最後まで面倒見ることは できそうもないので、思いとどまりました。 シマリスへの愛着は 止まりませんが、ネットで リスの動画を見るだけで 満足することにして、毎日1時間ぐらい 見たり、そこから「静止画」を作ったりしています。動画で見るシマリスたちも、可愛くてなりません。 ここをクリック すると『シマリスへの 懐旧の情』のページに飛びます。   ( 2024 /12/ 01 )

リス

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BANK NOTES & COINS in SHOWA
昭和 戦中・戦後の 少額貨幣

50銭紙幣
昭和23年の50銭紙幣

 「犬の思い出」を書いている間、昔のことを あれこれ思い出していた時、父が生前に、名刺用の青いプラスチックの箱をくれたのを思い出しました。その中には 昭和の 戦中・戦後 の 紙幣と硬貨が、わずかな量ですが、たたんで入っていました。特に コレクションをしたというわけではなく、折々に 余った小銭を、なぜか 取っておく気になったらしく、今から見れば珍しい アンティークの「近代日本の お金」です。そんなものを、私なら 多少興味をもってくれるだろう と思って、くれたのでしょう。 机の中を さがしたら 出てきましたので、あまりに少なすぎる分量の「少額貨幣」ですが、物珍しく思う方もいるでしょうから、それらをスキャンして、載せておくことにしました。 ここをクリック すると『 昭和 戦中・戦後の 少額貨幣』のページに飛びます  ( 2024 /05/ 01 ) 



WRITINGS for MAGAZINES & BOOKS
雑誌や本への寄稿

 ここに あった「雑誌や本への寄稿」は 大きな分量に なりすぎましたので、
『 神谷武夫の著訳書 』のサイトに移しました。  ここをクリック すると
『 雑誌や本への寄稿 』のページに飛びます。  ( 2024 /12/ 01 )



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