『 新建築 』 特集記事「 建築と環境 」 1972年1月号 |
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● 『 新建築 』誌は、1972年の1月号で、「建築と環境 」という特集記事を企画しました。20代の若手の建築家を10人ばかり集めて、それぞれに 有名な建築作品をあてがって、当時流行の「環境」という観点から ルポルタージュをさせようというものでした。私は、前川国男建築設計事務所の作品の「埼玉会館」(浦和市)を担当しました。
『 建築知識 』 「 私のエスキース作法 」 1976年11月号 |
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● 日本ハウジングセンター(現・エクスナレッジ)の『 建築知識 』が 1976年11月号で「私のエスキース作法」という特集をし、私は 編集担当で 意欲いっぱいの石原さんに依頼されて、建築学会賞をとった「フロム・ファースト・ビルの場合」を書きました。全部、私のスケッチです。
『 新建築 』 「 海外ネットワーク 」 1976年 7月号 |
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● 『新建築』の「 海外ネットワーク 」欄を担当していた 若い安田さんから、1974年に「ヨーロッパ建築視察団」に参加した時に、その原稿を書かないかと誘われましたが、その時は人に譲り、1976年に 初めてインド建築行脚の旅をした時に、書かせてもらいました。
『 新建築 』 「 サンスイ保育園 」 1982年 11月号 |
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● 独立して最初に設計した小さな建物『サンスイ保育園』を、『 新建築 』の 編集部の 渕上さんが、雑報の「 ニュース欄 」に1ページで 載せてくれました。東京外語大の仏語科出身で 英仏語がペラペラの渕上さんとは、「ヨーロッパ 建築視察団」で ご一緒しました。
『日経アーキテクチュア』「 横浜の町家 」1984年 1月30日号 |
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● 独立して最初に設計した住宅『横浜の町家』が、伝統ある「神奈川県 建築コンクール」で 最優秀賞をとったら 反響が大きく、当時 新興の建築雑誌だった『 日経アーキテクチュア 』が、本誌の 住宅作品の記事として載せたいと 電話をくれました。この時に 撮影をしてくれた、若手の建築写真家だった 斎部功さんとの 長い付き合いが始まります。
『 ハウス&ホーム 』 「 横浜の町家 」 1984年6月号 |
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● 住宅雑誌の『 ハウス&ホーム 』も、カラー4ページを使って「横浜の町家」を 紹介してくれました。住み手の家族写真まで載っています。
『 ぐっどりびんぐ 』 「 横浜の町家 」 1984年 6月号 |
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● トーヨーサッシの PR 誌『 ぐっどりびんぐ 』も、モノクロ写真ですが 3ページを使って、「横浜の町家」を 紹介してくれました。
『 空間 』 第7号 特集 「 アジア 」 1984年 4月 |
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● 東京芸術大学 建築科 学生機関誌 『 空間 』 第7号 特集「 アジア 」。 私が芸大を卒業したずっと後に、建築科の学生機関誌『 空間 』が作られたようです。
この年、まだ学生だった ヨコミゾ マコト (横溝真) 君から依頼されて、「アジア建築への視点、比較建築学へ」という、長文の随想を書きました。まだ『イスラムの建築文化』も『インド建築案内』も出版していなかった頃の「若書き」です。 表紙が 少々グルーミーですが、インドのカジュラーホの寺院のミトナ彫刻の写真をあしらっています。
『 季刊ストーンテリア 』 特集「石と遊ぶ 」 1986年3月 |
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● 茂木(もてぎ)真一と 佐々木秀子夫妻 (?) が編集し 発行していた、石についての季刊雑誌が、「ストーン」と「インテリア」を合成して 『 季刊ストーンテリア 』と名づけられていました。建築史家の渡辺真弓さんの紹介で、その第5号の特集「 石と遊ぶ 」に、「インド建築における遊び」を書きました。「建築における遊び」というのは、珍しいテーマです。
『 季刊ストーンテリア 』 特集「石と風呂 」 1986年 6月 |
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● 『 季刊ストーンテリア 』の第6号の特集「 石と風呂 」に依頼されて、「タンクとハンマーム」という記事を書きました。インドとイスラーム圏を合わせた、7ページにわたる 種々の水利施設の紹介です。私の撮りためたカラー写真を用いた ヴィジュアルな記事は、『 ストーンテリア 』が 始まりです。
『 SD 』「 NICE SPASE 」「ジャイナ教の寺院」 1986年 7月号 |
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● 鹿島出版会 『 SD(スペ−ス・デザイン)』 1986年 7月号、定番記事「 NICE SPASE(ナイス・スペ−ス) 」に、ラーナクプルのアーディナータ寺院を載せました。私がインドに たびたび旅行して インド建築の研究をしていると、知られ始めていました。元 広島大学教授でインド哲学の 宇野惇さんにも 参加してもらいました。
『 季刊ストーンテリア 』「アレッポの石の家 」1986年9月 |
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● 『 季刊ストーンテリア 』の第7号の「海外情報」に、「アレッポ(シリア)の石の家」を書きました。古都アレッポの アルメニア地区に残る 伝統的中庭住宅群ですが、イスラーム建築とキリスト教建築とが融合した住宅とも言えます。
『 建築設計資料 』 19号 「店舗併用住宅 」 1987年 冬 |
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● 建築思潮研究所・編の『 建築設計資料 』 第19号の「店舗併用住宅ー商住建築」に、「梅屋ー横浜の町家」が載りました。建築思潮研究所というのは、鹿島出版会から独立した平良敬一さんが興した、建築書、建築雑誌の編集・出版事務所です。
『日経アーキテクチュア』「クロイスター」1988年2月22日号 |
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● 名古屋に設計した中庭住宅、『 クロイスター(小川邸)』が、『 日経アーキテクチュア 』の 1988年2月22日号に載りました。後に編集長となる 山本恵久さんが記事を書いています。
『 時計台の見た青春 』「本の思い出、絵の思い出」1989年3月 |
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● 府立九中・都立北園高校卒業生六十年の記録として作られた『 時計台の見た青春 』に、世話役の 佐藤健也君に乞われて、「本の思い出、絵の思い出 」という短文を書きました。 この記事は、この「プロフィール」のページの、一番上のほうに載せてあります。
『 みのり 』 ’89 冬 特集「 庭」 1989年 12月 |
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● ジョン・ブルックスの『楽園のデザイン ー イスラムの庭園文化』の翻訳出版は 反響が大きく、多くの書評、取材、原稿依頼がありました。これは その一つです。
『 KAJIMA 』 「 中庭の美学、その様式美」 1991年 4月号 |
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● 鹿島建設の月刊 PR 誌『 KAJIMA 』からの依頼で、「中庭の美学、その様式美」という記事を載せました( A4版、カラー写真とも2ページ )。 これも、『楽園のデザイン ー イスラムの庭園文化』を翻訳出版した反響ですが、私へのインタビューを、編集部で(談)としてまとめたものです。
『 JIA Bulletin 』「何をプロフェスするのか」 1991年4月号 |
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● 新日本建築家協会・関東甲信越支部 機関誌『 JIA Bulletin 』では、「 私の職能 」というシリーズ記事を 毎月掲載していました。「職能」というのは、JIA が旧・建築家協会時代から「プロフェッション」の訳語として使用していた言葉です。1991年4月号では、私の論文「何をプロフェスするのか」が その欄に載りました。"「本当の仕事」は「精神の促し」のため" という副題が 付けられています
『 建築設計資料 』33号「アーバンスモールビル」1991年6月 |
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● 建築思潮研究所・編の『 建築設計資料 』 第33号の「アーバン スモール ビル、オフィス編 」に、「幸栄ビル」が載りました。もと『都市住宅』の編集スタッフだった 津端宏さんが、建築思潮研究所に移ってから ライフワークとした出版シリーズ、『建築設計資料』の一冊です。発行は建築資料研究所。
『 建設通信新聞 』 「アジアの建築」 1991年8月 5〜8日 |
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● 『 新建築 』の編集部から相模書房、そして『 建設通信新聞 』へと移った神子久忠さんが、「建築」の欄に 何か書かないかと声をかけてくれましたので、日ごろ考えていた「アジアの建築」への思いを書きました。神子さんには このあとも、時々お世話になります。
『 新建築 住宅特集 』作品「 空中庭園の家 」1991年10月号 |
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● 『 新建築 住宅特集 』の 1991年の10月号に、作品『空中庭園の家 』が載りました。東京の岩本町に建つ「森田ビル」ですが、その5、6階のオーナーの住宅に イスラーム風の中庭のようなテラスを作ったので、『空中庭園の家 』と名付けました。
『 建設通信新聞 』 「北インド 宗教建築の旅」 1991年 10月 |
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● 『 建設通信新聞 』(略称「建通新聞」)の神子さんから、インド建築について何か書かないかと誘われましたので、今度は「北インド宗教建築の旅」を書きました。 第1回「明るい神性、アムリトサルの黄金寺院」、第2回「石造と木造の融合、サラハンのビーマカーリー寺院」、第3回「密教の僧院、ラダックのティクセ・ゴンパ」です。
『 at 』 懸賞論文 '92 入選 「 文化の翻訳 」 1992年 11月号 |
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● 1989年にデルファイ研究所が創刊した 建築雑誌『 at 』が、創刊4周年記念に「懸賞論文」の募集をしていたので、JIA(新日本建築家協会)に 握りつぶされた 私の論文「文化の翻訳、伊東忠太の失敗」を応募したところ、最優秀なしの優秀賞に選ばれました。しかし おそらくマフィアを恐れたのでしょう、授賞式やパーティなどの派手な行事は 一切行われませんでした。
『 at 』 連載 「 ジャイナの小宇宙 」 1993年5月〜1994年8月 |
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● 建築雑誌『 at 』の「懸賞論文」で優秀賞を取って親しくなった編集部から、インド建築についての連載を依頼されました。1993年5月号からの1年間の隔月連載で、ジャイナ教の建築について書くことにしました。編集部が付けた題は、「 素晴らしきインド建築・ジャイナの小宇宙 」というものです。日本で ほとんどまったく知られていない ジャイナ教について、その宗教と建築を どのような順序で 少しずつ 回を追って書くか、熟考を要しました。
『 燎 』 第22号 「 文献再録 」( 文化の翻訳 ) 1994年6月 |
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● INAX が発行していた 建築のミニコミ誌で、長老格の建築評論家・宮内嘉久氏の編集による『 燎 (りょう、かがりび)』は、少部数ではあっても、建築界の主要な人たちには 良く知られていました。毎回、前川国男や 村野藤吾、白井晟一、谷口吉郎などが かつて書いた論文や談話の「文献再録」をしていましたが、第22号(1994年)では、私の「文化の翻訳、伊東忠太の失敗」が再録されました。発表されてから わずか1年しか経っていないエッセイを「文献再録」するというのは、異例のことでした。
『 at 』 書評 竹澤秀一の「 空間の生と死 」 1994年9月号 |
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● 『 at 』誌から、建築家の竹澤秀一さんが インドの石窟寺院、アジャンターとエローラについて書いた『空間の生と死』(「建築巡礼」27. )について、書評を依頼されて、書きました。
『 商店建築 』インテリア「 ヒサゴ東京支社 」1994年11月号 |
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●『 商店建築 』1994年11月号に、「 ヒサゴ東京支社 」のショールーム(インテリア・デザイン)が、奇妙なレイアウトで載りました。
『 建築雑誌 』 特集「建築家・そのあるべき姿」 1995年7月号 |
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● 日本建築学会の機関誌『 建築雑誌 』から、1995年7月号の特集「 建築家・そのあるべき姿とありうる姿」に論文を求められ、「あいまいな日本の建築家、アーキテクトの訳語をめぐって」を 特集の巻頭に書きました。 これで、 プロフェッション、アーキテクチュア、アーキテクトの「 翻訳論3部作 」が 出そろうことになります。
『 at 』 特集「 驚異の砂漠都市・ジャイサルメル 1995年7月号 |
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● 突然『 at 』誌で、進行中の企画が ポシャってしまったとかで、私が その穴埋めをすることになり、わずか3週間で 30ページの特集記事「 驚異の砂漠都市・ジャイサルメル」を書くことになりました。多忙をきわめましたが、やり甲斐のある仕事でした。脱稿を待っている間、本当にできるかどうか、編集の土田さんは 少し不安だったようです。
『 インド建築案内 』 TOTO出版 その反響 1996年9月 |
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● 『 インド建築案内 』が1996年の秋に TOTO出版から刊行されると、大評判になり、多くの新聞や雑誌に 書評や新刊案内が載りました。その反響のいくつかを紹介します。朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞、TOTO出版の広告、芸術新潮、八重洲ブックセンター、など。
『 日刊建設工業新聞 』 紹介記事 1996 /10/ 11 |
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● 『建設通信新聞』から 今度は『日刊建設工業新聞』へ移った神子さんが、インド建築の本の たて続けの出版ついて、私へのインタビュー 記事を「建築へ」という欄に載せてくれました。
『 建築フォーラム 』 創刊 準備号
1997年7月 |
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● 『新建築』の編集部から独立した駒見宗信さんが 1997年の3月に電話をくれ、「建築フォーラム」という新しい会社(市ヶ谷出版社の子会社)を作り、同名の新しい建築雑誌を創刊することになった と告げられました(前年の10月に 構想は聞いていましたが)。 創刊号は12月に出版される運びとなりますが、その前、7月に「創刊準備号」が作られました。そこに 駒見さんの依頼で「インド建築への いざない」と題して、写真 10枚を付けた6ページの記事を載せました。 しかし、この新雑誌と神谷との関係を知ったマフィアから、『建築フォーラム』と 駒見さんは 種々の妨害をされ、苦難の道を歩むことになります。
『 ユネスコ世界遺産 』第5巻 「インド亜大陸」 1997年11月 |
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● 「ユネスコ世界遺産」がブームとなって、多くの出版社が、世界または日本の登録遺産について本にしました。その代表が 講談社の この全12巻のシリーズで、その第5巻が「インド亜大陸編」でした。私は、スペインで書かれた原稿の和訳をもとに、建築関係の章を監修し、リライトするのと、写真 20数枚の貸与を求められました。これだけの分量をリライトするのは 大仕事でした。
『 建築フォーラム 』連載「インドの木造建築」1997年 12月〜 |
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● 建築フォーラム社によって 新しい建築雑誌『まちなみ建築フォーラム』(編集人 駒見宗信)が 1997年12月から出版され、私は創刊号から 「インドの木造建築」を連載しました。これは好評でしたが、しかし マフィアの圧力によって、雑誌は わずか半年で つぶされてしまいます。この「幻の建築雑誌」のことを知る人は、今や 建築界でも 少数でしょう。そして 会社解散となった建築フォーラム社の沢崎社長は、建築・建設界が いかに腐敗堕落した 怖い世界であるかを、身にしみて知ったことでしょう。
『 SD 』 書評 「アンコールの神々」鹿島出版会 1998年 2月号 |
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● 鹿島出版会の『 SD 』 1998年2月号に、中川武・監修、BAKU斎藤・撮影の『 アンコールの神々 BAYON 』(B4判、小学館、1997、5,040円)の書評を依頼されて 書きました。
『 明治健康ファミリー 』 タージ・マハル特集 1998年 5月 |
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● 明治乳業の月刊 PR誌『 明治健康ファミリー 』 が 1998年5月に「世界文化 タージ・マハル、遺産の旅」という特集をし、その中に 神谷の1ぺージのインタビュー記事が載りました。
『世界美術大全集 東洋編 』第14巻「インド (2)」1999年1月 |
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● 小学館の『 世界美術大全集 東洋編 』が 1999年1月に「 インド (2) 」という巻を出し、私は 17点の写真を求められて 貸与しました。本の p.457に「写真提供」のリストがあります。編集担当は、「一ツ橋美術センター」の澤田洋二郎さんで、この3年後に『 世界美術大全集 東洋編 』全18巻の仕事が終わるとともに停年退職し、一ツ橋美術センターも 同年に 小学館の他の組織と統合されて、社名がなくなりました。
『 TRADEPIA 』 特集 「 庭園願望」 1998年 9月 |
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● 日商岩井の月刊 PR 誌『 TRADEPIA 』 (トレードピア)が 1998年9月に「 庭園願望」という特集をし、私は「イスラムの庭園」という記事を依頼されました。
『 季刊文化遺産 』 特集 「 インドの建築伝統 」 1999年 春号 |
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● 島根県 並河萬里 写真財団が発行する季刊誌『 季刊文化遺産 』が 1999年春号で、小西正捷 監修の「 インドの建築伝統」という特集をし、私は「インドのイスラム建築、異文化受容と変容」という記事を依頼され、他の人の記事への 多数の写真提供も しました。
『 日刊建設工業新聞 』 紹介記事 1999 /04/ 14 |
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● 『日刊建設工業新聞』の神子さんが、私の東大文学部での講義「インド建築史」について、私にインタビューをして 記事にしてくれました。
『 都市史図集 』 図集編集委員会 1999年9月 |
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● 都市史図集編集委員会(代表 曽根幸一)の編集によって世界の歴史上の都市を集めた『都市史図集』が 1999年に彰国社から出版されました。(B5判,294ページ,ソフトカバー,4,600円 )その内、私は南アジアの中の 次の3項を書きました。 「インドの宗教都市」 / 「伝統的都市−1,北インド」 / 「伝統的都市−2,南インド」
『 建築雑誌 』「ヒマラヤの寺院塔」 建築学会 1999年 11月号 |
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● 日本建築学会の機関誌『建築雑誌』で、1999年に 藤森照信編集長が「建築奇想天外」という1ページのヴィジュアルな連載を企画し、そこに原稿を依頼されたので、「ヒマラヤの寺院塔、チャイニのヨーギニー寺院」を11月号に書きました。
「建築奇想天外」という巻頭のグラビア記事、24回連載のうち 私の時だけ、後ろのほうのページにまわされ、しかも後ろ向きに(つまり 目立たないように )載せられました。マフィアの差しがねです。
『 旅行人 』「旅のショートエッセイ 100本勝負」 1999年 12月 |
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● 蔵前仁一さんが 奥さんの小川京子さんと編集・刊行していた旅行雑誌『 旅行人 』は、若者に大きな人気を得ていて、1999年 12月の 創刊100号記念号 では「 旅のショートエッセイ 100本勝負!」という特集を組み、私に「遺跡」という題を与えました。小さな雑誌の、わずか半ページ足らずのミニ・エッセイです。
『 伊東忠太 その実績と資料 』 日本建築学会 2000年7月 |
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● 1997年4月より 2000年3月まで、日本建築学会の「伊東忠太未発表資料 特別研究委員会」の委員をつとめ、インド関係部分を担当しました。 このたび委員会の報告書として、『 特別研究 18. 伊東忠太 その実績と資料 』が出版されました(A4判、2,000円.日本建築学会)
● 遺族より建築学会に寄贈された伊東忠太の フィールドノート の解題を 各委員が分担執筆していますが、明治 36年から 37年にかけてのインド調査旅行の分については 神谷が書きました。 『 6. 印度 自緬旬至孟買 』、 『 7. 印度 西方印度及カシュミール 』、 『 8. 印度 南印度及錫蘭 』 の3巻です。
『 ビジュアル版・建築入門 』 第1, 2巻 2000年 |
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● 彰国社が、『新建築学体系 全50巻』が あまり売れないので、若者向けに『 ビジュアル版・建築入門 全12巻』(布野修司 編集代表)というシリーズを企画し、私は 藤森照信 編集担当の第1巻に「エローラーのカイラーサ寺院」と、中川武 編集担当の第2巻に「ヒンドゥ建築」の原稿を依頼されました。2000年の 10月に原稿を渡してから、もう 22年になりますが、彰国社は 嘘をつくばかりで、一向に出版しません。上の写真は第10巻の「建築と都市」です。
『 建築雑誌 』 特集 「 人の空間・場所論 」 2000年9月号 |
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● 日本建築学会の機関誌『 建築雑誌 』で、若山滋編集長の 2000年9月号の特集「 人の空間・場所論 」に論文を求められ、「 末端肥大症、あるいは、全体を構成する要素の自立性 」を書きました。 マフィアによって 写真の印刷を 劣悪にされたので、その「修正版」が作られました。 日本建築学会でさえ、マフィアに逆らえないのです。
『 世界宗教建築事典 』 中川武 監修 東京堂出版 2001年 |
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● 早稲田大学の 中川武教授の監修のもとに、世界の宗教建築を集成して解説した『 世界宗教建築事典 』が、2001年9月に出版されました。( A4判,380ページ,ハードカバー,東京堂出版 発行,13,000円 )
その内、「ボードガヤーのボーティガラ・マハーボーディ寺院」以下、南アジアの中の9項を 私が書きました。
『 建築史家たちのアジア「発見」』 未刊 (2001年予定) |
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● 2000年に 東京大学教授・村松伸(当時は東大・生産技術研究所・助手)から、『建築史家たちのアジア発見』という本を 風響社(石井雅 社長)から出版するので、インド建築とファーガソンについての論文を執筆してほしい、と 依頼されました。そこで「ジェイムズ・ファーガソンとインド建築」という論文を書いて 2001年の7月に原稿を渡したにもかかわらず、それから23年たった今も、出版されていません。何度も催促したにもかかわらず、村松はそれを無視し、しかも、この東大教員の無法行為について相談した 当時の生産技術研究所の 西尾茂文所長も、当時の東大・佐々木毅 学長も、村松准教授を擁護しました。戦時中に 大政翼賛会を主導した東大は、現在もなお 言論抑圧に手を貸している というわけです。
『 建築設計資料 』 84号 「店舗併用住宅 2 」 2001年 12月 |
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● 建築思潮研究所・編の『 建築設計資料 』 第84号の「店舗併用住宅=商住建築2」に、「塩川屋・関新仏具店」が載りました。編集の 津端宏さんとは『都市住宅』時代からの付き合いでした。
『 建築東京 』連載 「ヒマラヤ建築紀行」 2002年 1〜7月号 |
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● 東京建築士会の機関誌『 建築東京 』に、山下事務所で同僚だった紫冨田さんの紹介で 2002年1月号から半年間、「インド・ヒマラヤ建築紀行」として、ヒマーチャル・プラデシュ州の木造建築について連載しました。毎回 A4 見開き2ページだったので、やや ぎゅう詰めのレイアウトです。
『 建築雑誌 』「インド・サラセン様式」建築学会 2002年2月号 |
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● 日本建築学会の機関誌『建築雑誌』で、2002年に 布野修司編集長が「建築のアジア」という1ページのヴィジュアルな連載を企画し、そこに原稿を依頼されたので、「インド・サラセン様式の確立、アジュメールのメイヨー・カレッジ」を、2月号に書きました。
『 アート・トップ 』 インド特集 芸術新聞社 2002年 |
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● 伝統ある隔月刊の美術雑誌『 アート・トップ 』が 2002年6月刊の第 186号で、「インド、不思議パワーをたずねて」という巻頭特集をしました。私は 「 近代インドの建築 」という文を書いて、19世紀後半から現代までのインド建築の流れを簡略に描きました。大型の雑誌で、 芸術新聞社発行、B4判 112ページ、2,350円。
『 週刊 朝日百科 』 デリーとアーグラー 朝日新聞社 2002年 |
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● 朝日新聞社が『 週刊朝日百科 』で『 世界百都市、ここに行きたい 』というシリーズを刊行しました。2002年 10月には 第 46号「デリーとアーグラー、ムガル帝国の栄華と愛の記憶」が出ました。私はその中に「砂漠に浮かぶ栄華の記憶、ラージャスターンを訪ねて」という記事を2ページ書きました。(A4判、32ページ、オールカラー、560円)
『 ザ・ネイバー 』 YKK 連載「快適私考」2003年 1月〜6月号 |
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● YKKグループの B5判の PR 誌『 ザ・ネイバー 』は
32年も続く長寿雑誌となっています。そこに「私流私考」という既設のコラム欄 がありますが、その中の 「快適私考」という小欄に2003年の 1月号から半年間 連載をしました。おもに中庭について書きました。
『 日刊インド・ビジネス 』インタビュー記事 2003 /10/ 14 |
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● インドでの日本人の活動を伝えるネット上の新聞『 日刊インド・ビジネス 』(小和田宏明 主催)で、『インド建築案内』の英語版がインドで出版されたのを機会に、インド舞踊の佐藤雅子さんのインタビューを受けるという、変わったものでした。(インタビュー自体は 6月25日になされたのに、ネット出版されたのは、なぜか4か月後です。マフィアの圧力?) このインタビュー記事は、この「プロフィール」のページの、上のほうに載せてあります。
『 伊東忠太を 知っていますか 』 鈴木博之編 2003年 |
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● 『 建築家 伊東忠太の世界 展 』が 2003年の4月12日から8月31日まで、青山のワタリウム美術館で開かれたのを記念して、伊東忠太を 広く世の中に紹介する本が、展覧会の会期に あわせて出版されました。東京大学の建築史 教授・鈴木博之 編著の『 伊東忠太を知っていますか 』(2003年4月発行、B6判、王国社)です。私は 鈴木さんの依頼で、「第4章 伊東忠太の世界旅行」の中の インド編、「伊東忠太のインド建築行脚」を書きました。
『 EURASIA 』連載「世界の建築ギャラリー」2003年11月号〜 |
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● ユーラシア旅行社のA4判オールカラーの月刊旅行 PR誌『 EURASIA(ユーラシア) 』に、世界各国の建築探訪記、「 世界の建築ギャラリー 」の連載を依頼されたので、毎月2ページの見開き記事を1年間 連載しました。旅行会社の PR誌なので、旅行シーズンとの関係があり、編集長の富永さんから (0819)、最初の4回がインドで、次の2回はイスラム、あとはヨーロッパで書いてほしいという要望でした。
『 中外日報 』イランのバム、地震の報道記事 2004 /01/ 17 |
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● 『 中外日報 』というのは「仏教新聞」だと思われがちですが、実は すべての宗教を対象とする「宗教新聞」です。そこで、インド建築やイスラム建築を研究していた私にも声が かかりました。編集担当は 若い 高橋由香里さんでした。この記事は、次の連載が始まった直後でしたが、イラン大地震は前年末の12月26日です。
『 中外日報 』「世界の宗教建築」の連載 2004年1月3日号〜 |
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● 『 中外日報 』という明治時代から続く日刊の宗教新聞に「中外アート」という欄があり、2004年1月から 月に1回、「世界の宗教建築」という1ページの記事の連載をし、キリスト教やイスラム教、ヒンドゥ教、ジャイナ教など、さまざまな宗教の建築を採り上げました。
『 旅行人 』 「 チャンディーガル建築案内 」 2004年 夏号 |
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● 2004年 夏号の『 旅行人 』は、「 民家そして人工都市 」という特集をして、そこに 私の「チャンディーガル建築案内」という記事を載せました。『神谷武夫とインドの建築』の「インドのユネスコ世界遺産」のディヴィジョンに「ル・コルビュジエの建築作品」というページがあり、チャンディーガルの都市と建築を扱っていますが。それを「旅行人」の蔵前仁一さんが多少編集して、少し短くしたものです。
『 芸術新潮 』 特集 「スペインの歓び」 2004年 8月号 |
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● この頃『 芸術新潮 』は、毎年8月にヨーロッパ諸国の国別に一冊特集をやっていて、2004年は スペインでした。スペインにはイスラーム建築があるので、8ページにわたって「イスラム建築を楽しむために」という記事を載せました。私へのインタビューを、編集部の伊熊さんが まとめたものです。
『 中外日報 』「インドの新登録世界遺産」2005年2月10日号 |
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● 『 中外日報 』に、 2005年に登録された「インドの新登録 世界遺産」を2回 寄稿しました。1回目は2月10日号に チャンパーネルの「イスラーム都市と その建築」 (西インド)、2回目は3月10日号に ムンバイ(ボンベイ)の「チャトラパティ・シヴァージー駅舎」 (中インド)です。
『 カ-サ・ブルータス 』 特集「そろそろインド」 2005年 3月号 |
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● マガジンハウス(旧・平凡出版)の 『 カーサ・ブルータス 』という雑誌の 特集 「そろそろインドに 呼ばれてみませんか」に、「インドとモダニズムの邂逅」という記事を書きました。インドにおける シュースミス、レイモンド、ライト、コルビュジエ、カーンと続く モダニズムの系譜を概観していますが、編集者からは ひどい扱いを 受けましした。
『 建築家のメモ U』 JIA 監修 丸善 2005年 12月 |
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● 日本で活躍する建築家 100人の、設計中のメモやスケッチを集めた 『建築家のメモ(メモが語る100人の建築術)』と題する本が、2004年に丸善から出版されました。その好評に気をよくした出版社は、翌年末にその第2集 『建築家のメモ U』を出版しました。今回は 故人となった有名建築家も 10数人いれて 100人とし、厚みを増そうというわけです。私的なメモやスケッチを見ると、その建築家が豪放な人か神経質な人か、といったようなことがよくわかりますが、概して建築家には几帳面な人柄が多いようです。私は「パラダイス・ガーデン(倉持別邸)」のスケッチを載せました。
『 KAJIMA 』「風景のかけら、ジャイサルメル」2006年3月号 |
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● 鹿島建設の月刊 PR 誌(社内報)『 KAJIMA 』からの依頼で、「 飾窓(ジャイサルメル)」という原稿を書きました( A4版、カラー写真とも2ページ )。 伊藤清忠氏の連載「風景のかけら」の第3回「 ジャイサルメル」への寄稿です。
旅行誌『 NEUTRAL 』の「インド特集」 白夜書房 2006年 |
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● 雑誌のような、書籍のような「NEUTRAL」(ニュートラル)の第7号が「美しきインドのこころ」と題するインド特集をしています。 この中の 106, 107ページに インドの宗教建築の代表作を 写真と解説で紹介しました。 (白夜書房、2006年 5月 26日発行)
文化・デザイン誌『 PEN 』の 「インド特集」 2007年 |
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● 月2回発行の人気の雑誌 「PEN」 の 12月1日号が、「新しいインド・永遠のインド」と題するインド特集をしました。全 70ページにわたる特集で、「いまこそ訪れたい魅惑の大国」というサブタイトルが付いています。 この中の 72, 73ページに、インドの建築について記事を書きました。
(阪急コミュニケーションズ、2007年 11月15日発行 )
『ACT 4』特集「新・トルコの肖像」インプレザリオ 2008年1月号 |
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● 2007年12月3日に『 ACT 4 』という隔月雑誌の編集部の 朝岡さんという人から、「トルコ大使館と商工会議所の支援を受けて、2008年1月号で 「新・トルコの肖像」という 50ページの特集をするので、ミマール・シナンの作品と人生に関しての寄稿をしてほしい という Eメールが来て、『 カーサ・ブルータス 』の時と同じように、原稿は書きましたが、私の写真は使わずじまいでした。
『 建築と社会 』特集「建築と石」日本建築協会 2010年7月 |
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● 関西の建築関連団体に「日本建築協会」というのがあります。大正 6年に「関西建築協会」として設立された、100年の歴史をもつ老舗団体です。 当初は 関西の建築家を大同団結しようとする組織でしたが、次第に 広く建築・建設関係のゆるい団体となったようです。その機関誌『建築と社会』の 7月号が、「建築と石」という特集をしました。私は「インドの石」と題して、インド最初の石窟寺院である バラーバル丘の石窟寺院と、タージ・マハル廟などの 白大理石のドーム屋根 について書きました。
『 新潮 世界美術辞典 』 の 改訂稿 執筆 2010年 |
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● 2010年の冬、新潮社の『新潮世界美術辞典』の ごく一部の項目の 改訂稿を執筆しました。 この辞典が出版されたのは 1985年のことですから、もう 25年も前のことです。世界的に見ても 優れた美術辞典だと思いますが、25年間 まったく改訂をしていなかったので、少々内容が 古くなってしまいました。特にイスラーム美術やコロニアル美術の項は、当時は十分な扱いを受けていません。私は インドの イスラームと その後の 建築の項の改訂を担当しました。
『 イスラーム建築 』 彰国社 2007年、 私家版 2014年 |
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● 『イスラーム建築、その魅力と特質』は 彰国社から執筆依頼されたにもかかわらず、出版直前になって その彰国社が出版拒否し、また他のどこの出版社も、マフィアの圧力で、あるいはマフィアが怖くて、出版できない、という「幻の本」となってしまいましたが、たった一部だけ残った ゲラ刷りを両面コピー(印刷)して 100部限定の私家版『イスラーム建築』として、2014年の夏に 典雅な布装本の 実際の書物にしました。
■■■ 以上 書いてきましたように、私に原稿依頼をした出版社や雑誌社は、マフィアから圧力が かかったり、嫌がらせを されたりするので 嫌気がさし、あるいは恐ろしくなり、以後は 私に原稿を依頼しなくなります。また 私の設計業務も 工事も 妨害されるので、設計活動を続けることも 困難になりました。 マフィアについて、2009年9月1日に「お知らせ」欄に書いた文を、以下に再録しておきます。
私のHPにおいて、マフィア というのが 何のことか解らない、というお便りをいただくことがあります。日本のマフィアと言えば、暴力団のことを思い浮かべる人が多いでしょう。しかしながら、私のいうマフィアは、暴力団とは 直接の関係はありません。
マフィアの定義は 人によって いろいろですが、社会の暗部で、さまざまな(反社会的な)秘密工作 をする組織を、ここでは マフィアと呼んでいます。たとえば、坂本弁護士一家を殺したり、地下鉄サリン事件を起こしたりしたのは、ある宗教マフィアです(あとで オーム真理教と わかりました)。朝日新聞の神戸支局を襲撃して 記者を殺害したのは 政治マフィアでしょうが、日本の社会には 大小さまざまな マフィアがあります。
戦後の日本で 特に発達したのは 業界マフィアで、多くの業界にあります(談合などをします)。巨大な業界マフィアは、政界に多大の政治献金をしたり、官庁からの天下りを 多数受け入れたりすることで、 政治家も官僚も、そしてジャーナリズムも あやつり、またその業界利益を守るためには、CIAや戦前の特高のような 秘密機関によって、業界の不利益になる言動をする者(つまり、正しいことを言う者)を迫害し、言論を封じる(抹殺する)のです。
『 中欧・東欧文化事典 』 丸善出版 2021年 9月 |
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● 2018年に 丸善出版から、翌年の 2019年秋に出版する予定の『 東欧文化事典 』という本に、「ブルガリアのイスラーム建築」についての原稿を依頼されました。翌年春に原稿を送りましたが(マフィアによる妨害も あったりして)、編集は遅れに遅れ、編集担当者も交替し、本の題名も『 中欧・東欧文化事典 』と変更になり、2021年9月になって、やっと本ができたようです。私の原稿の内容は、この HP上の『 東欧のイスラーム建築 』のダイジェスト版です。
『 佳人の奇遇 』 明治 18年 東海散士 2022年3月 |
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● 最後に、これは 雑誌や本への寄稿ではありませんが、この HP で長いこと続けている「古書の愉しみ」のシリーズに書いたもののサンプルを一つ、明治時代に東海散士が書いた『佳人の奇遇』についての 長編紹介記事を ここに入れておきます。
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