PROFILE of TAKEO KAMIYA
神谷武夫

かみや たけお 建築家 プロフィール

神谷武夫

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1965  東京芸術大学 入学(美術学部・建築科 )
1968  「富士高原に建つ別荘」設計競技入選
1969  東京芸術大学 卒業(昭和 44年 )
1971  山下和正建築研究所に勤務(〜1976)
    フロムファースト・ビル(1976年度 日本建築学会賞受賞)
     等の設計・監理を担当
1976  最初のインド建築研究・撮影旅行( 3ヵ月間 )
     以後、世界各地の建築文化を訪ねて 46回、延べにして 1500日以上を旅する
1980  神谷武夫設計事務所 設立(一級建築士事務所 )
1983  神奈川建築コンクール 最優秀賞受賞(横浜の町家
1987  訳書 イスラムの建築文化を出版(原書房 )
      SD レビュー入選(クロイスター
1989  訳書 楽園のデザイン−イスラムの庭園文化』 を出版(鹿島出版会 )
1990  GID コンペ入賞(『クロイスター』)、『イスラムの建築文化』の普及版 を出版
1991  GID コンペ入賞(パラダイス・ガーデン
1992   『 at 』誌の懸賞論文で優秀賞受賞(『文化の翻訳−伊東忠太の失敗』)
    マフィアによる迫害が始まり、建築雑誌に作品が載らなくなる
1993  訳書ヒンドゥ教の建築を出版(鹿島出版会 )
     『 at 』誌でジャイナ教の建築について連載(『インド建築−ジャイナの小宇宙』)
1994  12回目のインド旅行をして、インド建築の撮影を完了する
1995  建築学会の機関誌『建築雑誌』に「あいまいな日本の建築家」を執筆
     マフィアによる迫害が激化し、工事妨害、出版妨害、家宅侵入が行われる
1996  妨害と闘いながら、著書インドの建築を出版(東方出版 )
     同じく、著書インド建築案内を出版( TOTO出版 )
1997  JIA 建築事情視察団『インド建築巡礼の旅』の団長をつとめる
     『ユネスコ世界遺産』第5巻「インド亜大陸編」の建築監修(講談社 )
1998  TBS テレビ『ユネスコ世界遺産』の「タージ・マハル廟とアーグラ城」の監修
     『まちなみ建築フォーラム』誌で 創刊号から「インドの木造建築」を連載するも、
      マフィアの圧力で雑誌がつぶされ、連載は5回で中断する
1999  JIA 建築事情視察団『インド建築視察・世界遺産の旅』の団長をつとめる
     TBS テレビ『ユネスコ世界遺産』の「ラホール城とシャーラマール庭園」監修
      東京大学 非常勤講師(「インド建築史」)
      専修大学 非常勤講師(「芸術学 A - 建築」〜2007 )
2000  朝日カルチャーセンター(東京)で「インド建築史」の講座をもつ
2001  世界考古学発掘アカデミー(東京)で「インドの都市と建築」の講座をもつ
2002  事務所の名称を 神谷武夫設計事務所 から 神谷武夫建築研究所 に変更
      TBS テレビ『ユネスコ世界遺産』の「パハールプル仏教寺院遺跡」、
      および「デリー(フマユーン廟 とクトゥブ・ミナール)」の監修をする
     『建築東京』誌に「インド・ヒマラヤ建築紀行」を連載
2003   『インド建築案内』の 英語版 が インドで出版される
     『伊東忠太を知っていますか』に「伊東忠太のインド建築行脚」を書く(王国社)
     『 EURASIA NEWS 』に「世界の建築ギャラリー」を連載( 〜2004)
2004  『中外日報』紙に「世界の宗教建築」を連載( 〜2005)
2005  著書インド古寺案内を出版する(小学館 )
2006  著書イスラーム建築を執筆するが、マフィアの圧力で 出版されず(彰国社 )
2007  この年より日本・中国・韓国 建築学会の英文論文集 "Journal of Asian
      Architecture and Building Engineering" の建築史関係の応募論文の査読
2009  TBS テレビ『THE 世界遺産』の「タージ・マハル廟とアーグラ城」の監修
2010  TBS テレビ『THE 世界遺産』の「コナーラクの太陽神殿」の監修
2014   「幻の本」となった 著書イスラーム建築の 私家版を 100 部 制作


事務所   神谷武夫建築研究所       E-mail:kamiya@t.email.ne.jp
       〒114- 0023 東京都北区滝野川 3-1-8 -506      地図
       Tel:03- 3949- 9409
会員    日本建築学会々員
研究    設計のかたわら、インドの建築文化、イスラームの建築文化、アルメニアの修道院
      の研究をしている
ウェブサイト 「神谷武夫とインドの建築」 http://www.kamit.jp/  
       「世界のイスラーム建築」  http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/
        「アルメニアの建築」     http://www.asahi-net.or.jp/~wu3t-kmy/


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INDIAN ARCHITECTURE

インド建築 撮った2万枚

日本経済新聞の紹介記事(1996年12月13日朝刊)

 タージ・マハルとも呼ばれる、インド・ムガル朝の王妃の廟。タマネギ型の白いドームを載せたこの廟は、だれでも写真を見たことがあるだろう。インド建築はとかく、このペルシャ風の廟建築や仏教の石窟寺院だけで語られがちだ。しかし日本の面積のおよそ9倍、公用語が 16もあり、多数の宗教をかかえるインドには、もっと多様な建築文化がある。

木造的原理の石造主体

 21年前に初めてインドを訪ね、その多彩な建築群に圧倒された私は、以来、全土とインド文化圏のバングラデシュ、ネパール、パキスタンやスリランカの建築を写真に収めてきた。通算 12回の旅で撮影したのは古代から現代まで 2,000以上の建物、枚数は2万枚に及ぶ。なにしろ広い国なので、全貌(ぜんぼう)は無理としても、その豊かな表情の一部をここで紹介しよう。
 気候や風土、宗教によってデザインは異なるが、インド建築の全体を見てみると二つの大きな特性が挙げられる。彫刻的なこと、そして石造が主体であるにもかかわらず木造的な原理で建てられていることだ。インド人は造型芸術のなかで彫刻をもっとも好む。そして建物の内も外も神々や動物の彫刻で覆うばかりでなく、建築自体をも彫刻のように造ったのだ。柱と梁の架構からなる日本の骨組み的建築に比べると、「かたまり的」な建築文化といえよう。
 そうした中で、白大理石造りで、床以外のあらゆる部分を細かく彫り込んだアーディナータ寺院は、インド建築の最高傑作といえる。北西部ラージャスターン州のラーナクプルにあるジャイナ教の寺院で、1439年に建造された。ジャイナ教とは、仏教と同じ紀元前5、6世紀ころに誕生し、主流になったヒンドゥ教の影で細々と現代にいたるまで続く宗教である。

ジャイナ教に強く興味

 初めてインド旅行をしたとき、何よりもジャイナ教の建築を訪ねてみたいと思った。埴谷雄高氏の小説『死霊』にも登場するこの宗教には、たいへん興味をひかれていた。しかし教徒の数は全人口のわずか 0.5%。はたして見るべき建物などあるのだろうかと思いながら、その聖地の多い西インドに向かった。
 ウダイプルからバスに4時間半も揺られ、山奥の秘境に降り立つ。ラーナクプルにはいくつかの小寺院と巡礼宿があるだけで、町も村もない。そこにアーディナータ寺院は巨大なパレスのごとく、忽然(こつぜん)と姿を現したのだ。外観の素晴らしさに目を見張る。「かたまり的」なヒンドゥ寺院では、内部に入ると洞窟のような狭い空間にがっかりすることも多い。ところがこのジャイナ寺院は三層吹き抜けの大空間を擁し、高く低くドーム屋根がかかる。その間から、柔らかな日差しが、至るところを埋め尽くす優雅な彫刻を照らし出す。回遊式の寺院の中で、私は夢中でシャッターを押し続けた。

日本に多い「入母屋」も

 古代のインドには木造建築が多かった。しかし樹木が減るにつれ、寺院は石造が主流となる。南端のケーララ州と北部のヒマーチャル・プラデシュ州は、かろうじて木造の建築文化が残る珍しい地域だ。特にヒマラヤ杉が密生するヒマーチャル・プラデシュ州の東部には、日本人にとって懐かしいような風景が広がる。雨が多い地帯なので、建物には勾配屋根がかかる。これが直線でも「むくり」(膨らみ)でもなく、日本のように「反り」がある。外観は質素に見えるが、近づいて目を凝らすと、網のように繊細な紋様の木彫りが見てとれる。

ビーマカーリー寺院

 標高 1,900メートルの山上にそびえるサラハンの ビーマカーリー寺院 は、日本の神社のような「入母屋(いりもや)造り」をした、18世紀から 19世紀の建造物である。木と石を交互に積んだ壁は整然とした縞模様(しまもよう)を描き、「反り」のついた屋根を二列に並べたり、交差させたりした塔状の本殿が、深い緑の山を背にそびえている。凛(りん)として荘厳な姿はいつまで見ていても飽きない。
 インドでは宗教上の理由から撮影を禁じる寺院もあり、あの手この手を使って撮影した貴重な写真もある。ケーララ州では上半身裸、はだしになり、ルンギ(腰巻き)をまとって中に入れてもらっても、カメラの持ち込みは許されない。町なかで三脚やアングルファインダーを使って撮影していると、黒山の人だかりができて困ったことも、今ではよい思い出だ。撮りためた写真を整理して、この度 インド建築案内TOTO出版) を刊行した。 インドの多様で奥深い建築の世界を知る道しるべになれば幸いである。


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QUOTATIONS
語録 (本からの抜粋)

アリアス(石膏デッサン), 1963

若い頃に、本を読んでいて、その時々心に響く文章に出会うと、それをカードにとって書き写す という習慣がありました。時には それを暗記したりも したものですが、それらの文章ばかりか、そのような習慣をもっていたことさえも忘れていました。ところが そうした昔のカードが机の奥底から出てきて、読み返すと一種の感慨を覚えました。若いときの自分は こうした文章に心を惹かれたのか という、なつかしいような感慨です。それらの「語録」を 日本と西洋と東洋の3つの項目に分けて、ここに入れておくことにしました。興味のある方は、それぞれの項目をクリックして下さい。   (1999/10/28

日本の語録 西洋の語録 東洋の語録


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A MEMORY OF BOOKS AND PAINTINGS

本の思い出、絵の思い出

(府立九中・都立北園高 60周年記念誌『時計台の見た青春』1989年)

神谷武夫

 暗く 鬱屈した青春時代を過ごした者にとって、高校時代が楽しかった と回想することはできない。生まれて来なければよかった、と早くから考えるような人間であった。けれど そうした苦悩や不安にさいなまれながら、なお 未知への憧れを心に抱きつつ生きるというのもまた、青春時代の 一つの形であるのかもしれない。外界との違和感を 常に感じながら 内向していく若者が、しばしば 読書や芸術に救いを求めるように、私もまた 毎日 美術室に入りびたって 絵を描き、そうでない時には(授業中も)小説ばかり読んで過ごしていた。母校に対して 何よりも感謝しているのは、そうした生活を可能にさせてくれるような「自由」にあった。管理されることを嫌い、集団で行動することを苦手とする故に、今もなお宮仕えせずに フリーでいるくらいだから。

 三年間の担任は 国語の内田先生であったが、美術部 では ずっと林先生の指導を受けた。建築家になろうと決心した直接のきっかけは 林先生の勧めであったが、文学の方の影響も少なくなかった。当時愛読していた立原道造が、詩人であると同時に 建築家でもなかったら、建築家になろうとは 思わなかったかもしれない。また 北園へ入って最初に読んだ小説『ジャン・クリストフ』に深く感動したあまり、自分も ジャン・クリストフのように生きねばならぬ、などと心に決めたりしたのだった。貧乏芸術家の道と 独身生活は、ここに胚胎しているわけである。

 一方、美術と文学を結びつけた大きな出会いは、国語の教科書に載っていた『窓の少女』という一文である。これは 美術史家、矢代幸雄が欧州に留学し、ロンドンのダリッチ画廊にある レンブラントの『窓の少女』という絵に寄せて内面を語ったもので、高校時代に出会った文章の中では、中勘助の『銀の匙』と並んで 最も美しいものであった。文章の美しさばかりではない、そこに論じられている レオナルド、ボッテイチェリ、レンブラントを通して語られる その芸術論と人生論とに深い共感と、暗い人生における慰めさえ覚えたのである。

『窓の少女』   『太陽を慕ふ者』

 その『窓の少女』は 矢代幸雄の最初の美術評論集『太陽を慕ふ者』に収められていると知ると、戦前に改造社から出たその本を 神保町や本郷、早稲田の古書店をどれだけ捜しまわったことだろうか。いくら尋ねても見つからずに 半ばあきらめかけていた頃、別の本を捜している時に 不意に眼にした時の驚きと喜び。それは 美術評論集というよりは、若き日の芸術の徒が、遥かな異国の地でつづった 魂の漂泊の日記であった。真摯な学問と芸術の探求に ないまぜにされた感傷主義の故に、著者はそれを絶版にして 人目から遠ざけてしまったのだが、若い私にとってその本は 一種の精神的な救いと慰謝であった。

 「あくがれなくて 如何して人の生きられやう。是は太陽を慕ふものの声である」と書き出されたこの書を読み終わった時、私の心の中には 勃然として、「自分もこのような本を作ろう」という気持ちが 湧き起こったのである。それからは 日に夜を継いで本作りに熱中し、あちこちに書き散らした原稿や詩、日記、手紙の類まで動員して文章を集め、用紙を選んで清書し、たくさんの図版を貼り込み、製本して キャンバス装の表紙をつけ、北園の校舎のスケッチを描いた函まで造ったのだった。こうして私の初めての本、美術評論集『ルノワールの涙』限定1部が できあがったのである。当時 少数の師友に見せ、その時書いてもらった感想文は 今でも保存してある。しかし その本自体は、書棚にしまったまま 10年以上も 手を触れていない。その文章の多くが あまりにも幼く感傷的であるために、顔から火が出るようで 読めないからである。
 内田先生の手から いつのまにか坊城先生の手に渡って、思いがけない感想文とともに 著書を贈られたことも思い出である。印象深かった内田先生の感想文には、
  「一つの道によせる想いは 自分のもので、他の誰の為にするものでもない。
   問うものがあれば、自分の心 そのもののほかにない。」

とあった。 その内田先生も 昨年亡くなられた。高校時代の本好きを引きずって、昨年は拙訳『イスラムの建築文化』を原書房から出版したのだが、私の2冊目の本を、先生は眼にすることなく 逝ってしまった。

『イスラムの建築文化』

 『窓の少女』 に関しては、いつか英国に行くことがあったら きっとこの絵を訪ねよう、という当時の願いが、その 10年後に叶えられた。ロンドン郊外のこの画廊のことは 知る人少なく、苦労の末に やっとたどり着いて、私の青春時代の象徴のような その絵と対面したのである。その時、何だか 私の心に漂い続けていた青春の想いに 別れを告げられたような気がした。それが、私にとっての「歌のわかれ」だったのだろうか。




シカンドラ
最初のインド旅行にて

「建設工業新聞」 紹介記事 11/10/1996、14/04/1999

「中外日報」 ・ バムのサイト 紹介記事 17/01/2004

「インド・ビジネス」 のインタビュー記事 14/10/2003


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マハーヴィーラ
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