西洋の語録 |
神谷武夫・編
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ぼくらが 30歳だということを 共に忘れましょう。 それは 人が金持ちでも有名でもないことに絶望する年齢であり、過去を認めず 未来を侮辱することしかしない故に、まさしく不実な年齢です。
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自分の感動を、愚劣、弱点、無用、愚昧、欠陥と見なすこと ... 船酔いとか、高所でおこす目まいのように 屈辱的なことがらと見なすこと ... 我々の中の、あるいは私の中の何かが、精神に対して魂がふるう創造力に反撥する。
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言ってくれたまえ、君はこの町を散歩するとき、町にむらがる建物の中で、あるものは黙し、あるものは語り、またあるものは、これが一番稀なのだが、歌う、ということに気づきはしなかったか。 |
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抽象的なこととか、私には あまり高級なこととか聞かされていても、私は退屈しません。 ほとんど音楽を聴いているような喜びが感じられるのです。 魂の中には、理解しなくても楽しめる 美しい場所が かなり大きいのです。
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どうしたのか、おお そこで |
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Ecoutez la chanson bien douce |
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なぜなら、あらゆる芸術のなかでも建築は、太古の人びとがコスモスと名づけた宇宙の秩序を、最も果敢に おのれのリズムのうちに取り入れて再創造することを めざすものであり、いわば おのれの四肢の完璧な均衡の上に 燦然と輝いて立ち上がる巨大な生き物にも似せて、それが造られることを めざすものであったからだ。
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認識と同じように歴史も、人間の完全な理想状態の中に 完結点を見出し得るものではない。 完全な社会、完全な国家とは、空想の中にしか存在し得ない。 |
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おそらく、聖者となりうるか、もしくは聖者にあこがれる少数の人々は、人間らしくありたいという気持を あまり感じたことがないのだろう。 |
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人間的であることの本質とは、完全さを求めないことであり、誠実たらんがために 時には実際に進んで罪を犯そうとすることであり、親しい交友を不可能にしてしまうほど 禁欲主義を推し進めたりしないことであり、他の個々の人間に対して 愛情を注いだ当然の代償として、ついには人生に、敗れて破滅する覚悟をもっていることなのだ。
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自分の自然、自分の歴史、自分の言葉をもった民族は、そのまま一つの詩も胎んでおり、それ故に一つの建築を胎んでいるのです。 一篇の歴史もなく、一つの伝統もないのでは、建築は胎外に出ることなく、そして存在することもなく、もちろん創意も存在しません。
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結婚するがいい、そうすれば君は後悔するだろう。 結婚しないがいい、そうすれば 君はやはり後悔するだろう。 結婚するかしないか、いずれにしても君は後悔するだろう。 |
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だから、絶望を選ぶがいい! 絶望はそれ自体 ひとつの選択なのだから。 疑うことは、それを選ばないでもできるが、絶望することは、それを選ばないでは できないからである。 |
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私もルツィエも 荒廃した世界に生きていた。 そして私たちは荒廃した事物や自分たち自身を傷つけながら、それから目をそらしていたのだ、と。 |
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私は、世界と喧嘩しろなどとは言わぬ。 |
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私は 明日死にたいとも思わないし、非常に長く生きたいとも思わない。 終わりは、始まりと同じように、偶然に、無意味に訪れるがいい。
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というのは、われわれは 人間がまず先に実存するものだということ、すなわち 人間はまず、未来にむかって みずからを投げるものであり、未来のなかに みずからを投企することを意識するものであることを 言おうとするのだからである。 |
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神のものは神の事柄であり、人間のものは 「人間の」 事柄である。 |
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と、涙の眼で花を見つめ、うら淋しいその香りを吸いこんでいた この短い一刹那、何故か アクシーニャには、若き日や喜びの少なかった これまでの長い生活が、すっかり思い返された .... きっと アクシーニャは年をとったのだろう .... |
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さんざしもなしに! さんざしとは ロシアでは愛の花である。 春になると、それは庭や生垣に生えひろがり、小川沿いに 芳香を放つ茂みをなして開花し、若草を 春の瑞々しさで染めあげる ....
わたしたちの愛も同じこと |
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皆から離れて、ただ目に見えない相手と小声で話をするだけの 一人の女の患者が座っている。 今、夏か冬か気がつかない。 食事に呼んでも聞こえない。 彼女は平和の象徴で、この 「カップル」 は 和合の中に睦まじく暮らしている。 |
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人類文化は 変化する存在であり、変化するものとして、それは現存の形態の発展であると同時に その解体であるから、あらゆる変化は、流動的概念の相互転入によってのみ 把握することができるからである。
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― 今仮にだね、他ならぬお前が 究極において人間を幸福にし、ついには平和と安らぎを与える目的をもって、人類の運命の建築物を築いているとするよ。
― いいえ、承諾しないでしょう。
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壁の上には澄みわたった青空が、そして すべてに降りそそぐ陽の光が見える。 生は美しい。 未来の世代に属する人たちが、人間の生活から、すべての悪、すべての抑圧、すべての暴力を拭い去り、そして そのすべてを享受するように。
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人生は容易ではない .... もし、自分を個人的悲惨から、また弱さ、すべての裏ぎり、愚かさからふるい立たせるような、自分を超えた偉大な理想を心に抱いていなかったら、虚脱やシニスムに陥ることなく、それを生きることはできまい。
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わずかのことが われわれを悲しませるので |
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私が自分を中心に ものごとを考えたりしたりしている限り、人生は 私にとって耐えられないものでした。 |
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正義をして存立せしめよ |
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しかし、もし諸科学が、このように 客観的に確定しうるものだけを真理と認めるのだとしたら、また歴史の教えるのが、精神的世界のすべての形態や人間生活を支え拘束するもの、すなわち理想や規範は、つかのまの波のように形作られては また消えて行くものだということ、それは これまでも常にそうであったし、今後も常にそうであろうということ、いつも理性が無意味に転じ、善行がわざわいになる というようなことでしかないとしたら、世界と、世界に生きる人間の存在は、真に意味をもち得るであろうか。
歴史的出来ごとが、幻想にすぎない高揚と 苦い幻滅の、たえまのない連鎖以外の何物でもないような、そういう世界に 我々は生きることができるであろうか。
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人間の自由とは、人間の個体としての存在、また普遍的人間としての存在に 理性的意味を与えるという、人間の可能性にほかならない。
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若い頃に若々しかった者は幸せである。
人生を儀式のように思いなし、 |
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余の興味を惹きそうに思われる娯楽が いろいろあることは明らかであるが、しかし余の畢生の目的に至っては、唯の一つしかない。 余の生涯は、これを挙げて、ある大計画の完成に向けられている。 |
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意識を持つ存在者にとって 存在するとは変化することであり、変化するとは成熟することであり、成熟するとは 限りなく自分で自分を創造することである。
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いつの時代も 美しい世界にあこがれる。 昏迷の生活に打ちのめされ、現在に深く絶望すればするほど、そのあこがれは深まる。 中世末葉、生活の主調音は、きびしいメランコリーであった。 それでは、この時代の人びとの生活は、他の時代にくらべて、事実、より不幸だったのであろうか。 おそらく、ひとは そう信じるにちがいない。 この時代が のちに伝えた言葉をたどってみれば、ただもう、争い、憎しみ、悪意、貪欲、野蛮、悲惨の記憶ばかりである。
しかし、いつの時代とて、たしかに、幸福の跡を少なく、悲しみの跡を多く、のちに伝えている。 書きつづられるのは、大いなる不幸の歴史なのだ。 |
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このように、倦怠した貴族たちは、彼ら自身の求める理想を、自ら嘲笑う。 |
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いとしい人がとついでゆくと しあわせそうにとついでゆくと
小鳥はやさしく甘い声で 緑の野原に歌いやまない |
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われに慕わしきは 眠ること |
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水しぶきが朝の陽光を受けて きらきら輝き、水玉は半開の ばら色や青色の水仙のうえに留まって、なお暫くふるえています。 それなのに なぜわたしの心は悲しいのでしょうか。 |
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何を信じ、誰に祈ればいいのか。 私は奴隷たちの祈りを欲しない。 たとえキリストが ことばによって灯をともしたとしても、私に静かな灯はいらない。 たとえ愛が世界を救おうと、私に愛はいらない。 |
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いつの日にか 息子たちよ おまえたちにも
泣かないで 息子たちよ もうおまえたちは
喜びと緑にみち 息子たちよ 新しい世界が
学びなさい 息子たちよ 築くのです |