西行
「山家集」
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・限りあれば 衣ばかりを脱ぎかえて 心は花を慕ふなりけり
・唐衣 そでに人目はつつめども こぼるるものは 涙なりけり
・忘れじの行末までは難ければ 今日を限りの命ともがな
・あしよしを 思ひわくこそ苦しけれ ただあらるれば あられける身を
・思ひ出づる 過ぎにしかたを はづかしみ あるにものうき この世なりけり
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葉隠
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恋の至極は忍恋なり。 「恋い死なむ 後の煙にそれと知れ、終にもらさぬ中の思いを」 かくの如きなり。
命の中にそれと知らするは 深き恋にはあらず。 思い死にのけだかきこと 限りなし。 たとへ、向より 「かようにてはなきか」 と問われても、「全く思いもよらず」 と云いて、唯 思い死に極むるが 至極の恋なり。
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鉢叩
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何事も皆偽りの世の中に、死するばかりぞ 誠なりける。
あれを見よ、鳥辺の山に立つ煙、立ちつづけても 立たぬ日もなし。
あだし野の、露は はかなきたとえなり、露にも劣る人の命ぞ。
思えば浮世は 夢の世ぞかし。
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源信
「往生要集」
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罪人 偈(げ)を説き、閻魔王を恨みて言えらく、何とて悲の心 ましまさずや、我は悲の器なり。 我において、何ぞ 御慈悲ましまさずやと。
閻魔王答えて曰く、おのれと愛の羂(あみ)に誑(たぶら)かされ、悪業(あくごう)を作りて、いま 悪業の報いを受くるなり。
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(詠み人知らず) |
我、よき道を知り、これを認むれど、 悪しき道をば 歩むなり。
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ベナレスの説法
「パゴダの国へ」
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比丘たち、とうとい真実としての 苦(苦諦)とは これである。 つまり、生れることも苦であり、老いることも苦であり、病むことも苦である。 悲しみ、 嘆き、 苦しみ、 憂い、 悩みも苦である。 欲求するものを得られないのも苦である。 要するに、人生のすべてのもの ―― それは 執着を起こすもとである 五種類のものの集まり(五取蘊)として存在するが ―― それが そのまま苦である。
比丘たち、とうとい真実としての 苦の生起の原因(集諦)とは これである。 つまり、迷いの生涯を くりかえすもととなり、喜悦と欲情とを ともなって、いたるところの対象に愛着する渇欲と、固体の存続を願う渇欲と、権勢や繁栄を求める渇欲である。
比丘たち、とうとい真実としての 苦の消滅(滅諦)とはこれである。 つまり、その渇欲をすっかり離れること。 すなわち それの止滅である。 それの棄捨であり、それの放棄であり、それから解放されることであり、それに対する執着を去ることである。
比丘たち、とうとい真実としての 苦の消滅に進む道(道諦)とは これである。 つまり八項目から成る とうとい道、すなわち正しい見解、正しい思考、正しい言葉、正しい行為、正しい暮らしぶり、正しい努力、正しい心くばり、正しい精神統一である。
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「思想の自由と
ジャイナ教」
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生きものは 生きものを苦しめる。 見よ! 世間における大なる恐怖を。 生きものは じつに苦しみが多い。
人間は愛欲に執着している。 かれらは 無力な脆い身体をもって 破滅におもむく。
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同
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想に耽り、修行に撓まず、賢くて徳の深い出家たちは、さらに苦行に身を呈し、断食に身を委ね、苦行によって痩身となる。
苦行を修する出家たちは、頬の肉が落ち、眉と口がすっかり歪み、眼は窪んでいるが、ダルマをまもる美しさで満ちている。
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同
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勇士とは だれであるか。 美女の視線の矢に 動じない者である。
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ジャイナ教
「印度古代精神史」
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げに、この世に 我が身を長らえることに飽きた、との思いに達した比丘は、常に食事の量を減ずるべきである。 ...こうして彼は、村か町に行かねばならない。 ...敷藁を乞い求めて、寂廖の地に行き、孚や虫、種や芽、霜や水、亀裂、粘土、そして蜘蛛の巣のない所で、これを確かめて あたりを払ったあと、藁を広げ、時が来たら、身体と四肢の運動と歩行とを 断念すべきである。
以下に 離脱の方法を順次に説いていこう。それによって、教えの岸に達した賢哲が、生死を超越して、目的を成就した所のものである。
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同
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情欲を減ずるためには、小食に耐えねばならない。 比丘が 小食のために病いをえた時には、生を求めるべきではなく、死を求めるべきではない。 生死のいずれにも 執着してはならない。
冷静に、ただ業(カルマ)を除くことに専心し、敬虔なる態度を保つべきである。 内となく外となく、繋縛を離れ、もっぱら浄心を求めよ。 そのために、暫時 おのれの生命を支える手段を見い出したならば、すみやかに これを用いるべきである。
比丘は 村または森に場所を選び、生類がいないことを知ったのちに、藁を敷き広げよ。 そこに飲食せずして宿り、艱難や誘惑があっても、これを耐えねばならない。
そして人事に触れることがあっても、村里に入ってはならない。 空を飛び 地を這う鳥獣が血肉を食っても、これを殺さず、血を拭うことがないように。 鳥獣が身を傷つけても、座を去ってはならない。 雑多な威虐に苦しめられても、堅忍すべきである。
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同
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こうして、多数の束縛を離れて、生涯の終わりに至る。 けれども 有為にして賢明な者は、むしろ 次のようになすべきである。 これは、大雄(マハーヴィーラ)が 加上して説いた実践である。
すなわち、二重の三事(身口意の三業と、自己の行為によって他をなさしめ、また他に同意するをいう)において、自己の生命のためでなければ、四肢の運動を放棄すべきである。
生きた草の上に伏してはならない。 飲食をせず、排便をすませたのちに、用意の座に着くように。 これに艱難を感じても 堅忍すべきである。
飢えの感がとおり過ぎたならば、初めて食うように。 感ずることがなく専念するのは、もとより非難されない。
身体を霊魂と結んでおくために、前後に進退したり 身を屈伸したりするのもよい。 あるいは そこに暫く忘我の境にあるのもよい。
座に倦怠したならば 遊歩するのもよく、一定の姿勢をとって これに熱中するのも可とする。 苦行の姿勢に疲れたならば、座にかえってもよい。
着座したら、比べるもののない死の方法に 感官を集中すべきである。 杖に虫が集ってきたら、そうならないように求めよ。
避けるべき事が起こりうるものには、身をまかせてはならない。 そこから去って、むしろ艱難に耐えるべきである。
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同
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けれども 更に進んで努力する者は、次の行をすべきである。
四肢を完全に制して、自己の座から動いてはならない。 これは 前に優る最上の行である。 信のある者は、遠くを探さず、立ち留まるべきである。 生類のいない場所を見い出したならば、そこに 姿勢を定めるべきである。 我に 何ら肉体の誘惑なしと考えて、身を全く放棄すべきである。
人は生涯 誘惑と攻撃を受けると考えたが、今や、肉体の消滅のために有効であるから、これを孤独に、また聡明に忍ぶのである。
どれほど数多く生じても、無常なる物への情欲に 執着してはならない。 永遠なるものを追求するからには、要求と熱望に 身を委ねてはならない。
いわゆる 永遠なるものを提示する者があっても、神の欺瞞を信じてはならない。 信のある者は これを認識し、一切の幻を振り払え。
何物によっても眩惑されず、彼は生涯の終わりに達する。 あくまでも持続が主要事であると認識する時、何ぴとであれ 解脱に適する。
これが 我が主張である。
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鸚鵡七十話
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虚偽と無思慮と欺瞞と愚昧、
浮気と不純と無慈悲とは、
生れながらに備えたる
女の持てる悪徳なり
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マハーバーラタ
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シュクラ師は 娘を慰めようとしたが だめだった。 デーヴァヤーニーは 深く カチャを愛していたし、それに、この世始まって以来、死別による心の痛手を 格言が癒したということは 今だかつて一度もない。
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テオグニス
「エレゲイア詩集」 |
人間にとって最善のことは 生れてこないこと、
次善のことは すみやかに死ぬこと。
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聖書
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禍いなるかな、偽善なる学者、パリサイ人よ。
汝らは白く塗りたる墓に似たり。 外は美しく見ゆれども、
内は死人の骨とさまざまの穢れとにて満つ。
斯くのごとく 汝らも 外は人に正しく見ゆれども、
内は 偽善と不法とにて満つるなり。
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ハンス・ヨナス
「グノーシスの宗教」
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われわれはエイレナイオスとともに、これらの見解の説教者たちが 自らの主張どおりに生きたかどうかを疑問に思う。 人びとを憤慨させるのは、常に反抗者の誇りとするところだ。 しかし、その誇りの大半は、行為そのものによらずとも、その教説の挑発性によって 満たされるものである。
とは言え、この時代の精神的危機がつくり出した価値の真空のなかで、革命的反抗と自由の眩暈(めまい)が到達しえたであろう極限を、過小評価してはならない。 従来のあらゆる規範を廃棄する 新しい展望の発見そのものが、一つの無政府状態を作り出したのだ。 そして思想と生活における過剰は、この展望の重要性と広がりとに対する 最初の反応だったのである。
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ボエティウス
「哲学の慰め」
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人間の身体というのは、汚いものが たくさん詰まった
汚物袋 にすぎない。そんな 汚物袋を、人はどうして
抱きたがるのか、私は理解できない。
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ワット
「イスラーム・
スペイン史」
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現在でも イスラームを偏見なしに見うる西洋人は 数少ない。
しかし 美しいものについての われわれの評価は、その源となった文化の過小評価に 影響されてはいないであろうか。 逆に 美しいものの評価が、異質の文化を評価する鍵であるということは 正しくないのであろうか。 美しいものは 文化の尺度、確証ではないのであろうか。
コルドバの大モスクや グラナダのアルハンブラのような 魅力的な建築のゆえにこそ、イスラーム・スペインは 偉大な文化であるに 相違ないのではないか。
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