QUOTATIONS

日本の語録

神谷武夫・編

赤いセーターの女(油絵), 1964

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石川淳
「白描」


地球上、どこへ行こうと 私に選択はありません。 どこにも郷愁をもたず、どこにも感動をつかみます。 ただ願わくは、人間の住む土地の上に、建築あれかし ...
おゝ、かならずしも 自分の仕事には係わりません。 民衆が、土地柄が、 偉大なる建築を生まずには おかないようなところ。 そんなところが 世界のどこかにありそうに思われます。 私の夢でしょうか。
しかし、夢でない事は、偉大なる建築が この世に樹立されるためには、ひとびとが まず心の中に、建築というものについて、絶えず もやもやした かたまりを 抱いていなければならぬ という単純な約束です。
その約束の中に生きることを求めつつ、 私は今、一介の旅行者です。 そして、私の仕事も ...



饗庭孝男
「石と光の思想」


私は アシジの春の深い沈黙の中で、窓の外の星を眺めながら、人間の歴史は、すべて そうした戦慄的な決意の美しさと、彼らの内面の断念の重さによって形づくられてきた とさえ考えるのである。
真に生きることは、自分の中から 多くのものを捨て去って行くことであり、削りとり 棄て去ったあとに残ったものは、もはや 自分のものだけではないもの、自分であるとともに 人間すべてに通じるもののようにさえ思われる。
しかもそれを、誇りではなく、平明に、無名に徹して さし出すことができたら どんなによいことであろうか。



饗庭孝男


建築は つくった人間の思想の もっとも具体的な反映である。 建築を見るとは、その思想を読むことだ。 思想の透し絵として 建築はあらわれる。



片山敏彦


現実が 夢よりも美しいということは、存在の論理的発展が 主観的憧憬の論理よりも美しいことである。 真に美しいものとは、私にとって、理性的であると同時に 偶然的、驚嘆的なものである。
しかし、実際の夢は理性的でなく、生理的な匂いをもっている。 主観の連鎖が 客観的なものにさえぎられ破られることは 主体にとって苦しいことである。



片山敏彦


灯の下で、妻の頭に 幾筋かの白毛が銀いろに光っていたが、顔には若々しい静かさがあった。 私たちに一つの成熟が恵み与えられた ... あヽ夫婦生活の幸福は、もはや若くはないことの幸福に似ていると、私は いくらか悲しい、しかし快活な気持で考えた。



鎌田忠良
「霧と話した」


わたしの頬はぬれやすい わたしの頬がさむいとき
あの日 あなたが書いたのは なんの文字だかしらないが
そこは いまでもいたむまま

そこは いまでもいたむまま 霧で濡れた ちいさい頬
そこは すこし冷たいが ふたりは いつも霧の中
霧と一緒に恋をした

霧と一緒に恋をした 見えない あたたに抱かれてた
だけど それらがかわいたとき あなたは あなたなんかじゃない
わたしは やっぱり泣きました

わたしの頬はぬれやすい  わたしの頬がさむいとき
あの日 あなたが書いたのは なんの文字だかしらないが
そこは いまでもいたむまま



神谷美恵子
「生きがいについて」


平穏無事な 暮らしに恵まれている者にとっては、思い浮かべることさえ むつかしいかもしれないが、世の中には 毎朝 目がさめると、その目ざめるということが 恐ろしくてたまらない人が あちこちにいる。

あゝ、今日もまた一日を生きていかなければならないのだ という考えに打ちのめされ、起き出す力も出てこない人たちである。

耐えがたい苦しみや悲しみ、身の切られるような孤独と淋しさ、はてしもない虚無と倦怠、そうしたものの中で、どうして 生きていかなければならないのだろうか、何のために、と 彼らは いくたびも自問せずにいられない。



神谷美恵子


クリスチャンであることの いやな点の一つは、思索の自由を 束縛されることにある。 すべてについて すでに解答がでてしまっている場合、人は もう頭を使う余地もない。 ただ きめられた通りに、自動的に考えるよりほか ないわけだ。 それは ちょうど フロイディアンたちの場合と同様だ。
こういう人たちの書きものの退屈さは 耐え難いものだ。 結論が さきにわかっているのだから。



北原白秋


からりこと 音がしてるよ  からりこは 下の谷間よ
からりこの 窓は日和よ  からりこよ 菊のさかりよ

からりこと おさがはずむよ  からりこと こだましてるよ
からりこよ 誰れか見えたよ  からりこの 音がやんだよ



霜山徳爾
「素足の心理療法」


ある人が中年にさしかかって ミザントロープにならないのは、かつて一度も 人間を真に愛したことのない証拠である。
またある人が 老年にさしかかって ミザントロープになるのは、かつて一度も 人間に真に愛されたことのない証拠である。
前半が 判りにくいかもしれないが、それが生の機微である。



高田博厚
「フランスから」


私にとっては、それは 尽きることなく繰りかえしながら 友達と話し合うことであった。 若かった日々を燃やした熱情を もう一度新たにし、そして私達の出発のあの時に 自らにかけた誓いを、ふたたび誓えるかと願いながら。


ラオコーン(石膏デッサン), 1964



高橋和巳
「我が心は石にあらず」


もし 築き上げたことの成果で、ものの価値がはかられるのなら、私たちの愛情は まことに価値少ないものであった。
また、もし純粋さということが 第一に尊重されねばならぬ倫理であるのなら、私たちの関係は その第一義的な真実にも欠けていたことになる。
情念の唯一性、献身の美しさ、共に耐えることの連帯、そういった幻想的なベールを、何ひとつ 私たちは もたなかった。



高橋和巳


いけない、孤立無援の姿で本当のことを言ってはいけない。
あなたの言いたがっていることを 白日の下に曝すには、錯綜した準備と手続が必要なのだ。



高橋和巳
「悲の器」


過去はつねに、回想するその人にとって 都合よく整理されるものであるゆえに、整理されれば 個別的存在者の、もっとも奥深い存在論的意味を失う。 その空しい整理作業、欺瞞に満ちた退行を、必要にせまられて、私もまた やらねばならないのだった。
すべての行為者は、その行為を弁明しようとするその瞬間に、行為者としての栄光を失う。



高橋和巳
「悲の器」


― 人は、その心理のひだによって偉く、また愚劣であるのではなく、この世に生きて、彼が客観的に成し遂げたことの価値によって評価されれば いいんです。 それでいいんです。
― その人が、自分はこうだと押し出している姿、見えている姿だけでいい とおっしゃいますのね。 たとえ、客観的に価値ある仕事の影に 誰かが人知れず、どんな代償によっても消えない傷を背負わされて泣いていてもいい とおっしゃいますのね。 男の人って、勝手だわ、勝手すぎる。



立原道造
「さびしき野辺」


いま だれかが私に
花の名を ささやいて行った
私の耳に 風がそれを告げた
追憶の日のように

いま だれかがしずかに
身をおこす 私のそばに
もつれ飛ぶ ちいさい蝶らに
手をさしのべるように

あゝしかしと なぜ私はいうのだろう
その人は だれでもいいと

いま だれかがとおく
私の名を呼んでいる・・・あゝしかし
私は答えない
おまえ 誰でもないひとに



立原道造
「夏花の歌」


あの日たち 羊飼いと娘のように
たのしくばっかり過ぎつつあった
何のかわった出来事もなしに
何の新しい悔いもなしに

あの日たち とけない謎のような
ほほえみが かわらぬ愛を誓っていた
薊の花や ゆうすげにいりまじり
稚い いい夢がいた ― いつのことか

どうぞ もう一度帰っておくれ
青い雲の流れていた日
あの昼の星のちらついていた日

あの日たち あの日たち 帰っておくれ
僕は大きくなった 溢れるまでに
僕は かなしみふるえている



中井正一
「土曜日」


手をあげよう、どんな小さな手でもいい

花は 鉄路の盛り土の上にも咲く

爽やかな 合理のこころを持ちつづけて

星を越えて、人間の秩序は、その深さを加える

どんな小さな土の一塊でもよい、手に取って砕こう

野にすみれが 自由に咲く時である



中原中也
「帰郷」


柱も庭も乾いている
今日は良い天気だ
  橡 (えん) の下では蜘蛛の巣が
  心細そうに揺れている

山では 枯れ木も息を吐く
あゝ 今日は好い天気だ
  路傍の草影が
  あどけない愁 (かなし) みをする

これが 私の故里だ
さやかに風も吹いている
  心おきなく泣かれよと
  年増婦 (としま) の低い声もする

あゝ お前はなにをして来たのだと ...
吹き来る風が 私に言う



夏目漱石
「三四郎」


馬券であてるのは、人の心をあてるより むずかしいじゃありませんか。 あなたは 索引の付いている人の心さえ、あててみようとはなさらない 呑気な方だのに。



花田清輝
「楕円幻想」


我々の周囲には、二点の間を彷徨し、無為に毎日をすごしている連中か、二点のうちの一点だけは見ないふりをし、相変らず 円ばかりを描いている あつかましい連中かが 見あたるにすぎない。 転形期における 錯乱の痛烈な表現を また誰一人与えてはいないのだ。 自分の魂の周辺が いかなる曲線を描いているかを示すということは、それほど困難なことであろうか。



林達夫
「歴史の暮方」


こうして私は、時代に対して 完全に真正面からの関心を喪失してしまった。 私には、時代に対する発言の大部分が、正直なところ空語、空語、空語!としてしか感受出来ないのである。
私は たいがいの言葉が、それが美しく立派であればあるほど、信じられなくなっている。 余りに見え透いているのだ。 私は、そんなものこそ有害無益な 「造言蜚語」 だと、心の底では確信している。 救いは 絶対にそんな美辞麗句からは来ないと 断言してよい。



林達夫
「新スコラ時代」


私は あまりにペシミスティックなことばかり 語ったかもしれない。
だが、正直のところ、哲学者ならば、プラトンのようにユートピアを書くか、ボエティウスのように 「哲学の慰め」 を書くか する外には手がないような時代のさ中にあって、威勢のよいお祭りに、山車の片棒かつぎなどに乗り出す気などは一向に起こらぬ。
絶壁の上の 死の舞踊に参加する暇があったなら、私ならば エピクロスの小さな園を せっせと耕すことに努めるであろう。 これは 現実逃避ではなくして 生活権確保への行動第一歩なのである。



福沢諭吉
「文明論の概略」


近日に至ては 政府より全国の僧侶に 肉食妻帯を許すの令あり。
此令に拠れば、従来僧侶が肉を食はず 婦人を近づけざりしは、其宗教の旨を守るがためには非ずして、政府の免許なきがために 勉めて自ら禁じたることならん。 是等の趣を見れば、僧侶は 啻(ただ)に政府の奴隷のみならず、日本国中 既に宗教なしと云ふも可なり。



松田道雄
「私の読んだ本」


いつか もっといい日は来るだろう。
しかし、それまでのあいだ、この絶望的な日々を生きるためには、人間は もっと聡明でなければならぬ、おたがいに 人間のデリカシーを大切にしようではないか、チェーホフは そう言っているように思えた。


女生徒(鉛筆デッサン), 1964



三好達治
「測量船」


さう、さうだ、笛の心は慰まない、如何なる歌の過剰にも、笛の心は慰まない、友よ、この笛を吹くな、この笛はもうならない。 僕は、僕はもう疲れてしまった、僕はもう、僕の歌を歌ってしまった、この笛を吹くな、この笛はもうならない、―― 昨日の歌はどこへ行ったか? 追憶は帰って来ない! 春が来た、友よ、君らの歌を歌って呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。

昨日の歌はどこへ行ったか? 思出は帰ってこない! 昨日の恋はどこへ行ったか? やさしい少女は帰ってこない! 彼女はどこへ行ったか? 昨日の雲は帰ってこない! ああ、いづこの街の黄昏に、やさしい彼女の会話があるか、彼女の窓の黄昏に、いかなる会話の微笑があるか、僕は、僕はもう知らない、春が来た、友よ、君らの歌を歌って呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。

僕は今日、春浅い流れに沿って、並樹の影を歩いたのだ、空は曇っていた、僕は、野景に、遠い畑や火の見櫓を眺めたのだ、森の梢に鶫が光って飛んでいた。 風に、高圧線が鳴っていた。それから、いろいろの悲しい憧憬れが、僕に、僕の頬に、少し泪を流したのだ、僕は、僕は疲れて帰って来たのだ、僕はもう追憶の行方を知らない、友よ、春が来た、君らの歌を歌って呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。



三好達治
「少年」


夕ぐれ
とある精舎の門から
美しい少年が帰ってくる
暮れやすい一日に
てまりをなげ
空高くてまりをなげ
なほも 遊びながら帰ってくる
閑静な街の
人も樹も色をしづめて
空は 夢のように流れてゐる



矢代幸雄
「太陽を慕ふ者」


あくがれなくて 如何して人の生きられやう。 是は 太陽を慕ふ者の声である。 日照りて紅花緑草と人はよろこぶ。 けれどもまた或時に 悲しき眸に、遠き光のあるのかないのかと薄れ行く。
太陽を慕ふ者、慕ふて得ざるが故に なほも慕ひやまぬ、輝く国への思郷である。



吉原幸子


けふはなんだか
つかれちゃったのに
かなしむのは
もう いやだなあ



吉本隆明


胸のあいだからは 涙のかわりに
バラ色の私鉄の切符が くちゃくちゃになってあらわれ
ぼくらはぼくらに または少女にそれを見せて
とほくまで行くんだ、と告げるのである
とほくまで行くんだ ぼくらの好きな人々よ ...


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Mahavira