MEMORIES OF A DOG

犬の思い出
(昭和 30年頃の、犬の飼い方)

神谷武夫

犬
ウェブサイトで見つけた、記憶の中のタロに
よく似ている 雑種犬(里親募集サイト より


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保護犬の動画

 3年前に「 猫の思い出 」という、昔 書いた超短編を ここに載せたことが あります。その中に、私は 猫派ではなく 犬派です、と書いたのは、私の子供時代に 家で犬を飼っていたことと、私が 戌年(いぬどし)の生まれだ ということに よります。 昨年の秋から ネットの「ユーチューブ」などで、毎日のように 小動物の「動画」を見ています。そのきっかけは、ある日 偶然に、ホームレスの子犬の 保護チャンネルを見たことです。何があったのか 親を失い、ひとりで 全身汚れて 雨と寒さの中で 震えている子犬を、Chibi Teddy さんという女性を中心とする 小動物保護グループが 連絡を受けて現場に行き、その子犬を保護して連れ帰り、体を洗い、食べ物を与え、その子犬を元気にさせて行く過程を 逐一撮影し、動画チャンネルの ひとつに 公開していたものでした。

 後に、そうした「ユーチューバー」と言われる人たちによって作成された、犬や猫の動画のチャンネル(ホームページの「サイト」ではなく、動画の「チャンネル」と称します)が 沢山あることを知りますが、これは 初めて見るものだったので たいへん興味深く、保護された子犬が 生き延びていくプロセスも面白く、繰り返し 毎日のように見ていました(今は この動画(Chibi Vlog)は、アップロードしたユーザーにより 削除されたということですが、その数場面を「静止画」にして取っておいたので、冒頭と最後の画像を 下に掲載しておきます)。

子犬の保護  子犬の保護
子犬の保護動画(Chibi Vlog)の冒頭場面と 最終場面

 そうした犬や猫の「保護」動画に始まり、種々のペットの 生活や 可愛さを 飼い主が撮影したもの、さらには、私にとっては 珍しい、様々な種類の小動物の 紹介動画を 見るように なりました。それまで「建築」という 静的な芸術の世界に浸っていたのが、一気に 小動物の世界に 関心が広がり、思いもかけず、それに 熱中するように なりました。そうしているうちに、昔 うちで飼っていた 雑種犬の「タロ」を思い出すことが多くなり、時には 何時間も、タロのことや、あの時代(昭和 20年代後半〜 30年代前半)の事を 想起したり 考えたりしているので、それを 今度は「犬の思い出」と題するページに 書いておくことにしました。
 動画のチャンネルに見る、現今のペットの飼われ方とは ずいぶん違う、その頃の様子や事情を描いたので、簡単に「昭和 30年頃の 犬の飼い方」という 副題を 付けました。今の ペット・ラバーたちが読めば、驚いたり 呆れたりするようなことが 多いと思います。

発端(ほったん)

 私が 小学校の2年生か3年生の時だったと思いますが、ある日、成犬になりかけた子犬(1歳弱 ? )が 狭い路地に迷い込み、うちの庭木戸の下をかいくぐって、庭に入り込んできました。私を末っ子とする子供たちが 喜んで この犬と遊ぶので、母が ご飯を与えました。しかし 父が 勤めから帰宅すると、「そんな野良犬は、収集車に引き渡しなさい」と言います。
 当時は、野良犬や 野良猫が 沢山いたのです。いわば「戦争孤児」や「交通遺児」、そして もっと大きい「捨て犬」や「捨て猫」が、 草ぼうぼうの「空き地」(戦後は どこにでも ありました)で 生き延び、妊娠して子供を産み、家々の「ゴミ箱」で 餌を あさったり、鳴いたり 吠えたりするので、(狂犬病の危険もあり)、野良犬や野良猫を 捕獲して「処理場」へ連れて行く「犬 猫 収集車」が、町を巡回していました。野良犬や 野良猫に迷惑している市民が 保健所に連絡すると、「捕獲」に 寄ってくれます。手に負えなくなった飼い犬や、老衰した飼い猫の「引き取り」も です。車はオート三輪で、ケージや 檻(おり)を たくさん積んでいました。もちろん、野良犬を収集車に引き渡すのではなく、自分の飼い犬にする「心優しい人たち」も 大勢いましたが。

回収車
 回収車のプレート例(ウェブサイトより)

 「犬を捨てなさい」と 父に 強く言われるので、やむなく この犬を、何度も 追い出しました。しかし 犬は 必ず戻ってきて、木戸の下をくぐって、再び 庭に入ってきます。 遠くの空き地まで持って行って 置いてきても、やはり戻ってきます。 父は「保健所に 連れて行きなさい」と言うのですが、子供たちは「そんな 可哀そうなことは できない」と言い張って、従いません。とうとう 犬の努力が実って、父が折れ、家で飼っても良い ということになりました。
 昔から、「犬は3日 飼われると3年 恩を忘れず、猫は3年の恩を3日で忘れる」と言いますから、この子犬は、最初の日に ご飯をもらった恩を 忘れずに、何度 追い出されても、この家を離れようとは しなかったのでしょう!

犬を飼う

 昔は 土地代が安かったので、父は 35歳くらいにして(借金をして)ささやかな土地を買い(1950年頃)、家を建てて、南側を小さな庭に していました。植木と盆栽の愉しみに 目覚めた父は、それに熱中していましたが、ここに「番犬」がいても いいかな、と思ったのでしょう(戦後は「空き巣狙い」や「夜盗」が多かったので、小さな犬しか飼っていないのに、「猛犬注意」という張り紙をしている人も よく いました)。 庭には 柿の苗木を1本植え(柿の木は8年で 大きくなって 実をつけます)、庭のまん中に 小さな 池を 手作りして、縁日の「金魚すくい」で取ってきた 金魚やメダカを 泳がせていました。庭の東側半分に 植木と盆栽用の棚を並べていたので、西側半分を 自由に歩けるだけの長さの 鎖(くさり)で、この犬を 家の壁につなぎました。

 ですから 我が家は、「犬を飼おう」などとは 思っても みなかったのに、偶然の成り行きから、思いもかけず 飼うことになったのです。それだから、家族が 犬を「お迎えする」などという意識は 毛頭(もうとう)なく、「溺愛(できあい)」するということもなく、何の準備もないところに、いつのまにか、犬の方が 勝手に居ついてしまったような 塩梅(あんばい)でした。

 それまで 幸運にも「収集車」に捕らえられずに、たぶん親と死に別れた 雑種の野良犬が、どんな風に生きてきたのか 分かりませんが、四つ上の兄は「太郎」と名付けました。しかし誰もが「タロウ」と呼ぶよりは「タロ」と呼んだので、「タロ」という名になりました。兄が教育係も務め、まず「お座り」と「お手」を教え込みました。タロが間違えると、兄がタロの頭を ポカリと叩くので、タロは すぐに覚えました。現今は、次に「待て」というのを教えるのが通常らしいですが、当時は あまり そういう風習がなかったので、タロには「待て」というのは 教えたことが ありません。それに、何かを待たせる必要というのは、あまり無かったような 気がします。 (「ポカリと叩く」というのは「軽く叩く」(しばしば 笑いながら)という意味であって、「殴る」わけでは ありません。)
 次いで、庭の隅を タロのトイレに決めました。これも、守らないと 頭を ポカリとやられるので、すぐに覚えたようです。庭のまん中で オシッコをすることなど ありませんでした。タロは、もとは野良犬だった にもかかわらず、まあ 何と言うか、「聡明」で「謹直」な 雑種犬だったのです (タロの糞尿は、父が 時々 シャベルで すくって、我々の便所の マンホールを開けて 落とし込み、それは 週に1回だったか、月に1回だったか、バキュームカーが 汲み取りに来ました。水洗化するのは、もっと後です)。

  父は家具職人だったので、会社の廃材をもらってきて、「犬小屋」を造ってくれました。そこに、いらなくなった古い毛布を たたんで敷いて タロの寝床にしたので、もう タロは、雨に濡れずに 寝ることができるように なったのです(それまでは「縁の下」で寝ていました)。 それで分かるように、タロを 家の中に入れたことは ありません。あくまで「外飼い」の「番犬」であって、人間と犬の主従関係は 明瞭でした。タロは毎晩、犬小屋で 丸くなって寝るのであって、死ぬまで 一度も、畳の上に上がったことは 無かったのです。
 また、タロを 風呂場に入れたこともありません。どうやって洗ったかというと、父が 植木用の水栓に ホースをつなぎ、先を指で絞りながら、 水を 勢いよく タロに 吹きかけるのです。顔も 体も 脚も シッポも、まんべんなく吹き付けると、汚れは すべて落ちます。乾かすのに ドライヤーなど無かったので、タロが ブルブルッと水気を弾き飛ばした後は、太陽の天日干しです。ですから これは、暖かい、快晴の日でないと できません(夏は気持ちよかっただろうけど、冬は不可です)。

タロの食事

 食事はと言うと、もちろん「ぶっかけご飯」です。犬は 人間と同じものを食べるものだと 誰もが思っていたので、考える余地もなく、毎日 我々が ご飯と 味噌汁と 漬け物で 食事をしていたように、タロにも、ご飯に みそ汁をかけた「ぶっかけご飯」を あげたのです(多分 漬け物も添えて)。当時「ドッグフード」などというものは 知られていなかったので、見たことも ありませんでした。もし見たら、あんな形をした 丸薬(がんやく)みたいな物が、犬の食べ物だとは 信じられなかった ことでしょう。 当時、庶民が犬を飼うと言えば、それは雑種犬であり、外飼いにするのが普通でした。「上流階級 (?) 」の家だけが「白いスピッツ」などを飼って 得意になっていましたから、あるいは スピッツたちは「ドッグフード」を 食べていたのかも しれませんが。
 犬には「ドッグフード」を食べさせるべきだ、などと言う人は、ドッグフード・メーカーの 手先では ないでしょうか? 飼い犬は、何百年にも わたって、人間と同じものを 食べてきたのです。犬の 口 の 形と 大きさと 歯を見れば、ドッグフードなどに適したものではない ことが、すぐに わかります。 ウサギの 口 とは 違うのです。

 ご飯には「おかず」が付きましたから、その余りものを、タロの「ぶっかけご飯」にも トッピンッグとして 付けたことでしょう。当時の 最もポピュラーな「おかず」は「コロッケ」でした。コロッケは 日本全国 どこでも、1枚5円です。私が好きだった漫画家・杉浦茂の『猿飛佐助』には、「コロッケ五円之助」という忍術使い (?) が出てくるほどです。

コロッケ
(杉浦茂傑作選集 4. 『猿飛佐助』2012年、青林工芸社 より

 どこの商店街にも コロッケ屋さんがあり、目の前で どんどん コロッケを あげていましたから、家庭の主婦には 実にありがたく、5円のコロッケを5枚とか 10枚とか買って帰り、すぐに家族に アツアツのコロッケを食べさせることが できたのです。その時には タロの ぶっかけご飯 にも、コロッケが一枚 乗せられました(飼い犬というのは、飼い主家族が食べているのと 同じものを 食べたがるもの ではないでしょうか)。 巷(ちまた)には、「今日もコロッケ、明日もコロッケ・・・」という、やるせない流行歌 が流れていましたが。
 さて「秋の味覚」と言えば、何といっても、大根おろし を添えた「秋刀魚(さんま)の塩焼き」です。サンマは コロッケほど安くは ありませんが、尾頭(おかしら)付きの魚としては とても安かったので、これも5本とか 10本とか買ってきて、庭で、七輪(しちりん)の炭火で 焼きます。その匂いと 煙は 向こう三軒両隣りまで たなびきますが、それを 目の前で見ているタロも、「おっ、今日は サンマだぞ」と 舌なめずりをしていると、ぶっかけご飯に サンマの塩焼きが 一匹か 半匹 添えられます。ごちそうです。

さんま
七輪の炭火で さんま を焼く
(よみうりランド「東北生さんま祭り」より

 「ぶっかけご飯」と言っても、バカにしては いけません。人間もまた、しばしば、ご飯に何かを ぶっかけて 食べるのを 好んでいたのです。特に2杯目のご飯には 味噌汁や 生卵をかけましたが、一杯目の時にポピュラーだったのは、「納豆」でした。私が小学生だった頃には、毎朝、藁(わら)で 大きめの 平たい(一辺が 20センチくらいの)三角形に包んだ、大粒の「水戸納豆」を、「ナットー、ナットー」と声を出して 売り歩く人が 来ましたから、これを よく買って、みんなで ご飯に かけました(朝食時に その声を 父が聞きつけると、必ず 私に 買いに行かせました)。はたして タロが 納豆を好んだかどうかは、覚えていませんが。 たまには 擂鉢(すりばち)と 擂粉木(すりこぎ)で擂(す)った「トロロ」も かけましたが、夏に 一番 おいしかったのは、「やたら」でした。
 「やたら」と言っても 知らない人が多いでしょうが、私の両親の生まれである 信州(長野県)の郷土料理です。きゅうり と なす と みょうが を主として(これだけでも いいですが)、様々な夏野菜、たくあん や おくら、さらには唐辛子でも、ありあわせの材料を やたらと入れ、母が 汗だくになって、やたらと細かく(3〜5ミリ角に)大量に切り刻み、どんぶりに入れて、塩と 醤油をかけて かきまぜるだけという、ごく単純な料理です。それを大きなスプーンで すくって 炊きたてのご飯に かけると、クーラーなど無かった 暑い夏に、あまりにも爽やかで サッパリして おいしく、食が進み、ご飯をお替りしますが、「やたら」は 皆の大好物なので、すぐに無くなってしまいます。多分、タロの分まで 残らなかったことでしょう。 そのかわり、犬専用の食べ物として、母が 時々、お使い のついでに 肉屋さんで もらってくる「骨」がありました。タロは 大喜びで かじります。
 (生まれた時から ドッグフードばかり 食べさせられている犬が、不憫(ふびん)でなりません。 まるで、昔の空想科学漫画に よく出てきた、未来のロボットのようで。)

今では ネットで、犬に食べさせてはいけない物は ネギ類と チョコレート類であると、すぐに分かりますが、当時は そんなことは 誰も知りません。タロが 何度か 吐いていたのを覚えていますから、あれは、みそ汁に ネギが入っていたのかも しれません。チョコレートに関しては、人間の子供でさえ たびたびは食べられなかったお菓子なので、まして タロにあげるなどということは、ありえませんでした。
 そもそも、犬や猫に「おやつ」を与える などという習慣は、 無かったのです。たまに お菓子や果物の「もらい物」があった時に、少し おすそ分けをする程度でした。今の、ペットとしての 犬や 猫たちは、毎日 何度も「おやつ」をもらって、「食べ過ぎ」「太り過ぎ」になっているのでは ないでしょうか。それも 自然の果物なら まだ良いですが、商業的な 工業生産品を与えていると、今に「ペットの紅麹(べにこうじ)問題」のようなことが 起きるのではないかと 危惧されます。

 そしてまた、「ぬいぐるみ」などの、犬用の「おもちゃ」というものも、あげたことがありません。犬が「おもちゃ」で遊ぶなどとは、考えたことも ありません(そこらに転がっている「廃物」で 遊んだりは しましたが)。現今の「お犬様」、「お猫様」のような ペットの飼い方からすれば、信じられないような話ばかり だったかもしれませんが、昔の犬の飼い方というのは、こんな風だったのです。

 余談ですが、しばらく前に、エレベーターに乗り合わせた 高校生の女の子が、60センチは あろうかという、大きなミッキーマウスの ぬいぐるみを 腰にくっつけているのを見て 驚きました。こんな格好で 街を歩くのかと。(ディズニーランドで買ったそうです。) 知恵遅れの子には 見えませんでしたが、昔の高校生だったら、夏目漱石とか ヘッセの本でも 抱えていたのでは (?) 。 どうも、日本人全体の幼児化が、ペットの扱いにまで及んでいるのかと、老人は 驚いたりするのです。 妄言多謝。 (犬が、動物の姿の ぬいぐるみを 口に咥(くわ)えて ブンブン振り回している動画など見ると、あまり 良い気持ちが しません。)

タロの散歩

 昔のことで まったく覚えていませんが、私が小学生の時には しょっちゅう タロと遊んでいたでしょうから、毎日のように タロを 散歩に連れて行ったかも しれません。しかし 私が 次第に「本の虫」になるにつれて 外に行くのが億劫(おっくう)になり、散歩に連れて行く回数も少なめになって、母に押し付けがちになっていったようです。
 通常の散歩のコースは、家の近くが「環七(かんなな)」(東京 環状七号線道路)で、国鉄(現在の JR )の 東十条路線区の 何十本という線路を またぐ「平和橋(へいわばし)」の近くだったので、その たもとの 石垣で囲まれた階段を登って環七道路に上り、眺めのよい平和橋を渡って行ったり、その反対側の坂を下って飛鳥山(あすかやま)の方へ行って来たり することでした。

コロッケ
環七への 石垣の階段( From Google Maps )
当時はコンクリートではなく、土と木の段々だった。
左側が、長い平和橋の下の、道路を またぐガードの端部

 散歩していると、時々 タロの鎖がピンと張るので 振り向くと、タロが 街路樹の足元にとどまって、クンクン 匂いを かいでいます。おそらく 他の犬の匂いが あまり付いていない樹を選ぶのでしょう、その選んだ樹に、片足を上げて オシッコを引っかけます(家では 座ってしますが)。そして別の「選ばれた」樹の 根もとに 糞(ふん)をします。当時は、飼い主が 犬の糞を 袋にいれて 家に持ち帰る という、習慣も「条例」も 無かったので、あの時代の犬は どこでも、オシッコも 糞も「し放題」でした。でも タロは 決して道のまん中では せず、いつも 街路樹の根もとに していました。糞は 雨で流れて地面に沁みこみ、樹木の肥やしになる というわけです。散歩の目的は、タロの運動のためと、外で「用足し」をしてくることでした。

 タロは「ドッグ・ラン」に連れて行ったこともないので(当時 そんなものはありませんが)、運動不足だったであろうにもかかわらず、至って健康で、(ドッグフードなど食べたことがなく、いつも人間と同じものを 食べていたからか)、病気になったことは なかったし、他の犬と喧嘩してケガをするということも 無かったので、保健所で 狂犬病の予防注射をする以外、動物病院に連れていったことは 一度もありません。動物病院がどこにあるのか ということすら 知りませんでした。
 以上の すべてで分かるように、タロは ほとんど お金のかからない(かけなかった)犬でした。犬を飼うことによる「経済的負担」なるものは、「ぶっかけご飯」など ごく わずかだったのです。

 (蛇足) 考えてみれば、私なども そうでした。「戦後」すぐの「貧しい日本」でしたから、幼時に 絵本や「おもちゃ」を買ってもらった記憶が、ほとんど ありません。 三輪車も 自転車も 無く、「塾」にも 行ったことが無く、長じては「苦学生」というほどでは ありませんが、当時の国立大学は「入学金」が 1,500円、「授業料」は 月に 1,000円という安さだったので、私立大学に比べれば タダみたいなものでした (浪人しなかったので 予備校にも行かず、「滑り止め」の大学を受験するということも 無く、自宅通学だったので 下宿代も かからず、東十条 〜上野間 の通学定期券も 安いものでした。30前は 酒もビールも 飲まなかったし)。 あとは 自分で本やレコードを 買うために、せっせとアルバイトをしたものです。 大学を出た翌年には、独立してアパート生活を 始めましたが、その時に テレビを買わなかったので、今に至るまで テレビは 持たず、「NHK 受信料」というのは、払ったことが ありません。

忘れられない出来事

 厳密に いつの事か 覚えていませんが、ある時、事件が起こりました。父と私が 喧嘩をして、「こんな犬は 捨ててこい!」と 命令されたのです。売り言葉に 買い言葉で、「ああ、捨ててくる」と 答えたのでした。タロが、父の大切な盆栽の棚でも 引っくり返したのかもしれませんが、私にも 何か原因が あったのでしょう(反抗期)。もちろん 本当に捨てる気など ありませんが、これは1日か2日、タロをどこかに置いて来ないと、父の怒りは解けそうもない と思ったので、タロを連れて行こうとしました。ところが タロは、人間の言葉は 分からないながら、その場の雰囲気、父と私のしゃべる語調、タロを見る眼付き から、「自分は捨てられるかもしれない!」と たちまち理解して、一歩も 歩こうとはしません。
 私が 鎖 を引っぱっても、タロは しゃがんで体を縮め、四本足を前に突き出して 地面に突っ張り、1センチたりとも 動こうとしません。それだから、私は 鎖で タロの体全体を、ズルズル 引きずって行かざるを得ません。例の 石垣の階段に来ると、一段ずつ引きずり上げるのが大変だったと思いますが、タロも 体じゅう 痛い思いをした ことでしょう。環七に上ると、さらにズルズル 引きずりながら、平和橋を渡っていきます。

 平和橋の向こうには 雑木林の 小さな崖地があったので、1本の木に 鎖を結わえ付けて、帰って行こうとすると、突然、タロが、ビックリするほど大きな声で、キャンキャン、キャンキャン 吠え始めたのです。あの おとなしいタロの、どこに そんなエネルギーがあったのか と思う程 大きな声で、キャンキャン、キャンキャン 絶叫するのです。「少しの間 ガマン してろよ」と念じながら、平和橋を渡って 家に帰り着きましたが、部屋に入っても、タロの 休みなく キャンキャン、キャンキャン泣き叫ぶ声は、すぐ隣りからのように 聞こえます。おそらく 500メートル四方に 轟(とどろ)き渡って いたのでしょう。
 その 悲痛な絶叫は、一向に 止みそうに ありません。さすがに 父も参ってしまい、(「捨ててこい と言うから、捨ててきたんだ」と言って、私は父を 責めようとしましたが )、これでは 近隣から 強い苦情が出る、警察沙汰になるかもしれない、と思ったのでしょう、とうとう、父と私は 和解しました。タロの、死に物狂いの 泣き叫びが 功を奏して、犬を連れ戻しても良い、ということになったのです(1日か2日と思ったのが、1時間たらずで 済みました)。

 私は 再び 石垣の階段を登り、平和橋を渡って、雑木林に行きました。私を見た時の タロの喜びは いかばかりだったかと思いますが、細かいことは 何も覚えていません。ただ 近くの人たちの 非難の眼差しに耐えながら、鳴きやんだ タロを連れて 平和橋を戻るのですが、おそらく タロは 嬉しさのあまり、今度は ピョンピョン跳びはねるように 歩いたことでしょう。 どうして それほどまでに、うちに住み続けたかったのか、少し不思議な気も するのですが、ともかく 環七道路から下に降りて 家に帰り着くと、タロは 何事も無かったかのように、庭の地面に、ノンシャランとした顔つきで 寝そべるのでした。 でも、この1時間あまりの間の、「捨てられる!」という 激しい恐怖感は、タロの心に 大きなトラウマとして 残ったに ちがいありません。

タロの容姿

 まだ カメラを持っていなかった時代なので、残念ながら、タロの写真は 一枚も ありません。それでも 7〜8年間も 毎日 見たり撫でたりしていたのですから、タロの顔や姿は 忘れようがありません。タロは、茶色の短毛で 立ち耳、鼻筋が通って パッチリ目の、スッキリした顔をしていました。これが 私の「犬の顔」の原イメージです。当時は まだ「イケメン」などという言葉は無かったので、母は 古い言葉を使って、この犬は「器量好し」だよ と言っていました。そこで、記憶の中のタロと よく似た犬の写真・映像をネットで探すと、下の「柴犬の ハチ君」や「豆柴の おまめちゃん」のように、しばしば 柴犬(しばいぬ)と出会います。人為的な「ミックス犬」とちがって、自然の「雑種犬」というのは、その国、地方の伝統的な犬種の血が 濃く流れ込みますので、日本の 雑種犬には、国産種の 柴犬や 秋田犬の血が多く入り、姿・形も似てくるのは 当然のことです。

ハチ    おまめ

記憶の中のタロの顔立ちと よく似た犬の写真をネットで探したら、
柴犬の ハチ君と、豆柴の おまめちゃんに行き当たりました。
(「よりめの はちくん (@yorimenohachikun.) 」より )、
( 「豆柴の おまめちゃん (@wolfie.omamechan) 」より

 私が子供時代によく見た「東映時代劇」の女優では、お姫様役の ぽっちゃりした顔立ちの 高千穂ひずる などよりも、町娘役の、細面(ほそおもて)で キリッとした顔立ちの 千原しのぶ が好きでした。そういえば、ウェブ上で タロに似ていると 私が思った犬は みな、千原しのぶに 似ているようです。

千原しのぶ
東映時代劇の女優、千原しのぶ
ワイズ出版,『千原しのぶ』, 2000年, 表紙

 ユーチューブなどの動画を見ていると、よく「〇〇の 飼い方」とか「〇〇を飼う上での 注意事項」といった記事があり、そこには、犬でも 猫でも、ウサギでも リスでも、インコでも カワウソでも、ペットに噛まれるということ、「甘噛み」ならよいが、「遊び噛み」や「本気噛み」になると 非常に痛い思いをし、ときには 出血や 骨折までして、病院で治療を受けることになる 危険性が 述べられています。ペットの犬や猫の「噛み癖」で 困っている人は、少なからず いるらしい(飼い主の約3割に達する という 調査結果もあります)。昔だったら、噛み癖の治らない 犬や猫は すぐに収集車に 引き渡されたのでしょうが、今は そうもいかず、また 普段の可愛さと てんびんにかけながら、どうするか 悩んでいる飼い主も 多いらしい。

 私は タロに噛まれたことが ありません。少なくとも、噛まれた記憶が ありません (小学生の頃に タロと じゃれていて 甘噛みされたりしたのを、覚えていないだけ かもしれませんが)。 今でも「甘噛み」とか「本気噛み」というのが どんな感じなのか、実感としては よく知りません。タロは 実に 聞き分けのよい犬で、何かをして 頭をポカリと叩かれると、「あゝ、こういうことをしては いけないのだ」と、すぐに理解したようです。人に 吠えかかりもせず、噛みつきもせず、「無駄吠え」も「夜鳴き」もしない、賢くて 温和な「雑種犬」でした(頼れる「番犬」だったかどうかは 別として)。 犬を飼うなら、賢い雑種犬が いいと思います。

 このごろ 思うに、タロは 上記のトラウマを別にすれば、全体としては 幸福だったのでは ないだろうか? ご飯は「ぶっかけご飯」だし、「おやつ」も「おもちゃ」も もらえなかったけれど、あの時代の野良犬なのに 虐待もされず、「収集車」に引き渡されもせず、まあ そこそこ 可愛がってもらえ、自分の小屋で いつでも、誰にも気遣い無しに 寝ることができ、時々 散歩にも連れて行って もらえました。これ以上 何を望むことが あるでしょう? 「上を見れば 切りがない」と言うけれど、これより上の生活など、タロも 私たちも 知らなかったのですから、野良犬時代に比べれば、ここは タロにとっての「楽園」だったのです。

 とはいえ、タロは 不慮の死を 遂げました。私が 高校1年生の時でしたが、学校へ行っている間に、古くなった首輪が ゆるくなって はずれたのでしょう、タロは 外へ飛び出して行って、車に轢かれてしまったのです。即死だったそうです。うちには 車が無かったので、タロは 自動車に慣れていなかったし、高齢になって、運動神経が鈍っていた かもしれません。犬や猫は、走るものに興味を持って 後を追いかけて行く癖があります。そうやって 車に轢かれて死んだ 犬や猫は 多かったのです。「動物愛護法」ができる前には、車は みな「ひき逃げ」です。兄と二人で、庭の、池のうしろに埋めて 築山を作り、お墓にしたことを 覚えています。

犬の老化と死

 タロと似た犬の写真を ネットで探していた時、ふと アマゾンで「雑種犬」に関する本を調べてみたら、あまり無いですが、『雑種犬 タロー ストーリー』という本が あるのを見つけて 驚きました。タロと同じ名前の雑種犬がいたのです。しかも 本にまでなって。 太田英恵(はなえ)さんという方が 旦那さんと共に、生まれて間もない雑種犬を買って、タローと名付けて 溺愛し、タローが 17歳まで長生きして 病気と老衰で死ぬまで、愛犬と一緒に暮らした生活や思いを綴って 自費出版されたものです。 

犬

太田英恵 文・絵 『雑種犬 タロー ストーリー』
2005年、中央公論 事業出版、1,200円

 うちのタロは やや小ぶりの中型犬でしたが、太田さんのタローは 大型犬になりました。 10歳を過ぎると 老犬となり、最後の2年間は 体が弱って「寝たきり」となるので、種々の病気で苦しむ タローを、太田さんが 手を尽くして、献身的な「介護」をしてゆきます。 ホームレスの 子犬や子猫を「保護」する過程を写した動画は、ネット上に沢山ありますが、老犬や老猫の「介護」の様子を写したものは 見たことが なかったので、この本の記載からは、いろいろな事を 知りました(動画ではなく 文章ですが)。
 現今では「老犬ホーム」が 各地に作られつつあり、寝たきりの老犬を 介護する動画も 見られるように なりました。たとえば、18歳の老犬となった柴犬、虎鉄(こてつ)君の介護を 動画にしたチャンネル【高齢犬の1日】などがあります。家族みんなで協力して、本当に大変です。人間を介護するのと、なんら 変わりません。少し意外だったのは、人間は 年を取るほど 顔の皺(しわ)が増えて 老顔になりますが、犬は ほとんど 皺ができないので、顔だけ見ると 若く見えます。

 うちのタロは 8歳か9歳で 車に轢かれて 死んでしまいましたので、言ってみれば「ピンピンコロリ」でした。雑種犬の平均寿命は12歳で、8歳か9歳くらいから老犬(シニア犬)になると 言われます。タロは、人間でいえば「前期高齢者」に なりかけていたのでしょうが、毎日見ていると、タロが年とったとは 全く感じません。タロが シニアになって 病気で苦しんだり ボケたりするところは、見ることが ありませんでした。もしかすると タロは、家族に「介護」の苦労をかけさせまいと、元気なうちに 自分から 車に飛び込んでいったのではないか、と 妄想するほどですが、私はタロの元気な姿にしか 接しませんでした。

  ** 天国の タロー と、虎鉄 と、タロ に、平安 あれかし!

タロの撫で方

 タロは いつも 満足げな表情を浮かべて、庭の地面に寝そべって(伏せて)いました。私は日に何度か その前の廊下を通るので、2日に一回くらい、その廊下 兼 縁側(えんがわ)に 腰をおろすと、タロは すぐに起き上がって、シッポを振りながら 寄ってくるので、頭や体を撫でて、あごの下を くすぐりました。タロが 一番 気持ちよさそうにするのは、タロの頭に手を置いて、親指で 眉間を撫であげることでした。これを ずっとやっていると、いつしか 私は タロのことを忘れて ボンヤリ物思いにふけり、機械的に 親指を動かすだけと なるのですが、タロは身動きせず(物思いにふけっていたかどうかは わかりませんが)、気持ちよさそうに、いつまでも眉間を 撫でられ続けているのでした。

 この習慣は 私の体に しみこんでいたので、何十年も後に 中国南部に旅した時、三江(さんこう)の町の 丘の上の 古いホテル(旧・人民政府招待所)に宿をとり、翌朝、近くの「旅行社」と看板のある 小さな店で、その日一日の タクシーの手配を頼んだら、その家の おばさんが あちこちに電話をかけて、30分後に車が来るので、あそこの椅子で待っててくれ と言うので、その「安楽椅子」に座って その日のコースなど考えていて、ふと 気がつくと、中型犬が 私のすぐそばに立って、私の顔を見ているのでした。
 この家の飼い犬だな と思って、犬の顔の前に指を出すと、ペロペロッと舐めます。そこで 犬の頭に手を置いて、親指で眉間を撫で上げると、驚いたことに、犬は 頭の位置を動かさずに ちょこちょこ 足を動かし、体を ぐるっと90度回転させて、私の脇に座り込んでしまったのです。そこで「安楽椅子」に深く座ったまま 犬の眉間を撫で続けていると、昔のように 犬のことは忘れて、ボンヤリ物思いにふけり、機械的に 親指を動かし続けるだけと なりましたが、犬は 身じろぎもせずに 眉間を 撫でられ続けていました。
 だいぶ時間がたった時、「殺気」のようなもの(視界の外からの 強い視線)を感じて 我に返り、人のいない細長い部屋を グルッと見渡すと、一番奥の大きな机で 娘さんが勉強をし、その後ろに おばさんが立っているのですが、2人とも あっけにとられたような顔をして、こちらを じっと見つめています。なんだか 極まりが悪くなって、もう少し続けてから 眉間を撫でるのを やめると、犬は ゆっくり立ち上がります。私が指を出すと ペロリと舐めて、音も立てずに ゆっくり 出口の方に 歩いて行きました。

 その日一日、やとった車で トン族の「風雨橋」を見て回って、夕方 ここに戻ってくると、ちょうど 店の前で、その おばさんが、犬に ご飯を(地面にドサッと置いて)与えているところでしたが、何やら 犬に文句を 言っているらしい。おばさんが 一歩犬に近づくと、犬は あとずさりをし、もう一歩近づくと 逃げていきます。 中国語なので 完全には分かりませんが、どうやら、

「おまえに いつも食べ物をあげてるのは 私じゃないか。それなのに、あの 日本人には 頭を撫でられているのに、私には 一度だって 体を触らせやしない。 おまえは 何という 恩知らずの犬だ。」

 とまあ そんなことを 言っていたらしい。その犬は この家の飼い犬ではなく、この界隈(かいわい)をウロウロしている 野良犬だったのです。しかも、あちこちで エサをもらうのに、誰にも 体を 触らせないそうです。それが、なぜ、呼ばれたわけでもないのに 店の中に入り込み(初めてのことらしい) 私のそばに来て 座り込んで、頭に手を置かれて、ずっと じっとしていたのか、不思議です。もしかしたら、あの犬は タロの 生まれ変わり ではないかと、また妄想したりしましたが、そんなわけも ありません。




福助

記憶の中のタロとよく似た犬の写真を、なおも ネットで
探したら、この柴犬の「福助」君に行き当たりました。
そっくりです。( Hint-pot、福ちゃん (@fuku_shiba29) より
タロと同じように 福ちゃんも、千原しのぶ に似た「器量好し」です。
日本の雑種犬には 柴犬の血が濃かったので、似るのです。




犬を写した、私の好きな動画チャンネルを、いくつか紹介します。

● 大型犬と 子猫の交わり
(子猫が ゴールデンレトリバーに 夢中になる)

● チワワとダックス・フンドのミックス犬、チワックスの ポテト君
(豆柴 うに&ゴールデンレトリバー おから)

● 三度の飯より 歯磨きの好きな 豆柴のソラちゃん
(歯磨きが 大好きすぎる犬)

● どうしても お風呂に入りたい柴犬(でも、足が短くて 入れない)
(もふもふ パラダイス)

( 2024 /04/ 01 )

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TAKEO KAMIYA
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