MY PERSONAL COMPUTERS

私のパソコン年代記

神谷武夫

IBM
最初に買った、IBM の一体型 ホーム・パソコン
"PS/V ヴィジョン 2408-NTC"、1994年


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パソコンの思い出

  「思い出」シリーズの一つとして、今度は「パソコンの思い出」を書いておくことにしました。パソコンは 現在も毎日 朝から夜まで使っているわけですから、「思い出」というのも変かと思い「私のパソコン年代記」というタイトルにしましたが、これは パソコンついての、何ら専門的知見でもなく、資料的価値もない、単なる、私とパソコンとの つきあいの「パースナル・ヒストリー」ですので、読むに値するほどのものではありません。パソコン歴が 30年になる私自身が、今まで買って使ってきた 過去のパソコンについての記憶が あいまいになってきましたので、それらを全部 きちんと、正確に整理して、いつでも見返せる記録にしておきたいと 思うようになったのです。
 かなりの時間を要しましたが、机の中の 古い手帳や電話ノートや日記を丹念に調べ、それらの断片的記述を頼りに ウェブ検索などをして、どうにか ほとんどが明らかになり、それらの画像も ウェブで手にいれました。ですから これは「パーソナル・コンピュータ」についての 批評や一般論ではなく、たまたま 私が使ってきた、わずかな数のパソコンについての「記録」というか、「随筆」でしかありません。私の個人史に興味のない方は、このページを 飛ばしてください。もしも ご自分のパソコン歴と比較しながら読んでみよう という方がいらしたら、(金額まで 赤裸々に書いていますので)多少は面白いかもしれませんが。


私が現在使っているパソコンは、通算8台目です。最初に その一覧をしておきますと、


 1 1994年12月 IBM ホームパソコン PS/V ヴィジョン 2408-NTC 秋葉原で 24.5万円
 2 1997年 2月  IBM アプティバ B65 池袋ビックP館で 33.7万円
 3 1999年11月 ソニー バイオ PCV-R51VTD 池袋ビックP館で 21.8万円
 4 2001年10月 ソニー バイオ PCV-RX53 池袋ビックP館で 22.2万円
 5 2004年10月 デル Dimension 8400 31万円 (トラブル多発で、12月に返品)
   2004年12月 NEC VALUE STAR 秋葉原で 15.5万円 + モニター ベンQ 14万円
 6 2011年 7月 エプソン Endeavor MR6900 17.5万円 + モニター 三菱 4万円
 7 2016年 9月 エプソン Endeavor MR7400 16万円 + モニター エイサー 2万円
 8 2022年11月 エプソン Endeavor MR8400 22万円 + モニター 富士通 2.3万円 



 私は文科系の人間であって、絵を描いたり、小説を読んだり、音楽を聴いたり、映画を見たりするのが もっぱらでしたので、学生時代に 先端的科学技術(テクノロジー)というような分野には あまり興味がなく、コンピュータの発展にも無関心でした。それに対して 理科系の若者たちは、子供時代にはトランジスタ・ラジオなどを組み立てる「トランジスタ少年」だったり、学生時代には 秋葉原で部品を買ってきてコンピュータを自作するような、マニアックな「コンピュータおたく」だったりしたわけですが、私の興味は「工学」ではなく、もっぱら「芸術」にあったと言えます。それがどうして 30年ものパソコン歴をもつようになったか、ということを書いていくことにしますが、技術的内容ではなく、私の生活との関連における、表層的なことばかりになります。

 私のパソコン年代記を語る前に、「ワープロ専用機」というものについて 触れておかねばなりません。ところが 1988年以前の「手帳」が 全然残っていないので、はっきりしない部分もありますが 記憶を頼りに 関連のネット記事を調べながら、推測しつつ書きます。

タイプライターとワープロ

オリベッティ
オリベッティのタイプライタ-「レッテラ・ブラック」
マリオ・ベリ-ニのデザイン Lettera DL, 1965年
1973年1月15日に購入、3万5千円
形の美しさと 指の感触の良さ、音の静かさに満足

 私が初めてパソコンを買ったのは、上の表にあるように、今を去る 30年の昔、1994年の末のことでした。それまでは「ワープロ専用機」の時代で、1980年代の半ばに「ワープロ」を買って 文字を打っていましたので、それ以外の使い方のコンピュータに手を出す必要は 何も感じていませんでした。1980年代には、単に「ワープロ」と言えば「ワープロ・ソフト」ではなく、文章を作ることに特化したコンピュータである「ワープロ専用機」のことを指していました。90年代になって、パソコンにインストールされる「文章作成ソフト」を指すようになるのです。

 私は 20代半ばに 英語の勉強のために、「オリベッティ」のタイプライター(イタリアの建築家で プロダクト・デザイナーだった マリオ・ベリーニ がデザインした名器「レッテラ・ブラック」)を買って 英文タイプを自習したので、キーボードは5本指で(ローマ字のブラインド・タッチで)楽に打つことができました。それだから、一世を風靡した富士通の「親指シフト」の打ち方などには 興味を持たなかったし、「かなキー」でキーボードを打ったこともありません。
 ところが ずうっと後に、60代半ばで脳出血を起こして 左半身が一時的に麻痺してからは、その後遺症として 左手の 小指と薬指が 以前のように完全には動かなくなり、タイプ・ミスをすることが多いので、今では 人差し指の「一本指」打ちをすることも 多くなりました(左手の 小指と薬指というのは、一番よく使う「a」と「s」の位置ですからね)。
 私より 10歳ぐらい上の ピアニストの 舘野 泉(たての いずみ)さんも、 私と同じように 60代半ばに脳出血になり、舘野さんは 左脳に出血したので、右手の小指と薬指が ほんの少し麻痺しているようです。私と同じく 日常生活には何の支障もなく指が動くので、人に不思議がられるそうですが、些細な失敗も許されないピアノのような芸術表現では、ピアニストとしては致命傷で、自分で満足できる演奏に ならないそうです。いくらでも修正できる キーボード打ちなどとは 大違いです。
 そこで舘野さんは 猛訓練をして、左手だけで演奏をする「左手のピアニスト」になり、世界的な成功を収めました。どんなに苦労されたことでしょうか。そういう名人芸と違いますから、脳出血以後の私は(商売ではないので 猛訓練も しなかったので、細々と リハビリ はしていますが)ワープロで文章を書くのに、以前の 2〜3倍の時間が かかります。

ブラザー
ブラザーの「日本語パーソナルライター」
「ピコワード 300」、1985年、8万8千円

 世界初の 日本語ワープロ(ワードプロセッサ)は 東芝の JWー10 という製品で、1978年に発売された時の売価は、何と 630万円だったそうです。もちろん個人ではなく、企業が相手です。大きな事務机のようなものでした。これを最初にコンパクト化したのは、1982年に出た シャープ WD-1000 でした。売価が最初に 100万円を切ったのは 同年、富士通の「My OASYS」でしたが、1984年にはシャープの「ミニ書院 WD-500」が 33万円と、それまでより ずっと安い製品を出して、ワープロのパーソナル化を 促進したそうです。

 私が最初に買ったワープロ専用機は、当時一番売れていた(らしい) シャープの「書院」だとばかり思っていましたが、それは記憶違いで、日記の中の一節に「ブラザーの ピコワード 300」という記述を見つけました。そうです、タイプライターの 老舗メーカーである「ブラザー工業」の製品で、「ワ−プロ」と言わずに「日本語パーソナルライター」と名付けられていました。
 ブラザーというのは、創業者のあとを継いだ息子兄弟の「安井ミシン兄弟商会」に発していて、後に 兄弟を意味する「ブラザー」に社名変更をしたのだそうです。ミシンとタイプライターの代表的メーカーでしたが、ワープロ開発に乗り出し、1984年に 業界初の 10万円を切るワープロを売り出しました。定価8万8千円の「ピコワード 100」です。安いからという理由と、上述のように 私はオリベッティの「レッテラ・ブラック」で「フィンガリング」を覚えたので、タイプライター的仕様のブラザーのワープロには「手」の親近感があったので、翌 1985年の改良版「ピコワード 300」を買いました。定価は据え置きだったのではないかと思います。しかし これと競うように、他のパソコン・メーカーたちも「〇〇ワード」というようなワープロ機を出してゆき、次第にブラザーは後れをとるようになりました。

 当時のワープロのミニ画面の液晶表示は、12〜16文字1行のみで、まだタイプライターのイメージでした。だんだん 液晶画面が大きくなり、フロッピーディスク(FD)を差し込んで、打った文章を全部記録できるようになり、次第にパソコンのイメージに近くなります。世の中には 急ピッチでワープロが普及していきましたが、人々が それを最もよく使ったのは、「年賀状」の作成のためだったようです。 私がワープロ専用機を買った一番の目的は「清書用」でした。
 「古書の愉しみ」のサイトの『イスラムの建築文化』のページに書いたように、1983年に 出版の当てもなく、アンリ・スチールランの本を翻訳したものの 一向に出版されないので、少しでも編集者に読みやすく 良い印象の原稿にして出版しやすくしようと、1985年にワープロ専用機を買って、その夏(8月〜9月)に、 清書していったのです。まだメモリーが付いていなかったのか、あるいは 付いていたのに 必要を感じなかったのか、1ページずつ清書して プリントアウトするごとに、保存せずに、消してしまいました。あとになって、もったいない話だったと思いもし、人にも そう言われましたが、当時は まだ中小出版社は「DTP」(デスクトップ・パブリッシング)で編集をしていず、「文選工」や「植字工」が 手作業で活字を拾って組版をしていた時代だったのです。
 『イスラムの建築文化』は 1977年の11月に出版されましたが、その2年後の 1989年6月に鹿島出版から出した訳書『楽園のデザイン、イスラムの庭園文化』の原稿でも、編集の吉田さんに、「400字詰めの原稿用紙」に手書きした 分厚い束で 渡した覚えがあります。翌年の 1990年になると、どこの出版社も DTP 編集になり、本や雑誌の原稿は ワープロかパソコンで書いて保存した、「電子データ」の FD で要求されるようになります。これだと 文選工や 植字工による活字拾いという工程が無いので、「校正作業」が 非常に楽になるのです。私のような 几帳面な著者の場合には、本文の「校正」が ほとんど不必要になるくらいです。

ワープロ
シャープ「ミニ書院」WD-A720 1990年、14万円

 最初に買ったワープロ、ブラザーの「ピコワード 300」が5年も経って古くなったので、1990年8月に もっと進歩した ワープロに買い替えました。シャープの「ミニ書院」WD-A720 という機種で、価格は 14万円でした。形が のちのパソコンに似てきましたが、巾は 41cm、高さは 31.5cmと 小型です。液晶画面は 10インチになり、以前に比べれば ずっと大きく、A4の文書全体を たやすく見ることができたでしょう。それでも、ひたすら 文字を打つための機械であって、画像は扱えませんし、カラーでもありません。別売りの「類語辞書」を1万円で買ったと 手帳に書いてありますが、どんなふうに使ったのでしょうか ?
 フロッピー・ディスク(FD)は2枚差し込めたようです。ワ−プロで打った文字列が、手書きの 数百枚の原稿用紙に書いたものよりも はるかに薄く小さな 記録媒体に収まるということ、つまり本一冊分の原稿が 小さなフロッピーディスク1枚に記録されてしまう というのは、本当に驚異でした。

 私は高校時代から、大学ノートに「読書記録」と「映画記録」を 鉛筆で書いていました。本を1冊読むごとに、読んだ日付、本の題名、著者名、訳者名、本の発行年、出版社名などを1行か2行に書くのです。映画の場合は 制作国、制作年度、監督名、主演者名、原作者や脚本家などの情報です(特に良かったものには 〇印、特にダメなものには X印を 付けておきます)。そのノートを 全部 「ミニ書院」で清書して、それぞれ1枚ずつのフロッピーディスクに保存して、いつも それに書き加えていました。パソコンの時代になると「ワード」に移して ハードディスクに入れましたので、いつ どんな本を読んだか、ある映画を見たのは いつ だったか、ある著作家の本は いつ何を読んだか、というようなことを、パッと調べられます。図書館から 映画の ビデオや DVDが借りられるようになると、たくさん見るので、ネットで借り出しの予約をする時に、すでに見たものでは ないかどうかを、この記録でサッと確認します(見た映画の題名など、すぐに忘れてしまいますから)。
 さらに「旅行記録」も作っていました。46回の海外取材旅行の すべての旅程が1日1行で記録されていますから、建物のスライドフィルムを探すのにも 役立ちます。これら三つの記録、「読書記録」と「映画記録」と「旅行記録」は 実に有用で、自分の過去の何かを調べる時はもちろん、世の中の何かを調べる時にも 種々の「手がかり」を 与えてくれます。



初代のパソコン

   IBM

@ ● IBM の モニタ一体型 ホーム・パソコン、PS/V ヴィジョン 2408-NTC
1994年5月発売、  1994年12月に秋葉原 T-Zone で購入、24.5万円
PC/AT 互換機(DOS/V機) 13インチ CRTカラー、HDD 340MB、メモリー 8MB
TVチューナー付き、下の黒い部分がスピーカー、このページの 一番上の写真も これ

 当時の最大のコンピュータ・メーカー IBM の、企業向けコンピュータ PS/55 の後継 であり、 個人向けの 最初の 廉価版パソコンでもありました。本体とモニターを一体化し、様々なコストダウンを図って、パソコンの大衆化の一歩を踏み出した と言えます。同種の競争相手は「コンパック」という会社で、どちらも カラー画面のモニターと セットで 30万円以下で売り出したというのは、画期的なことでした。それまでは コンピュータを自作するには(特にカラーのモニターだと)100万円くらい かかったのではないでしょうか。
 「PS/V ヴィジョン」の 標準価格は 32.8万円ということでしたが、実売価格はずっと安く、秋葉原では 20.5万円でした。これにメモリーを8MB(メガバイト)増設して 16MBとし、ハードディスク(HD)を 200MB増設して 540MBとして、合計で、税込み 24.5万円となりました。

 上の写真では「マウス」がついていますが、これは1年後の製品ではないかと思います。私の時には ありませんでした。当初、IBMの PCには マウスが無く、パソコン開発は アップルが先行していて、IBMは 後れを取っていたのです。アップル社のパソコンは「マッキントッシュ」という名で、「マック」と略し、後にそれが正式名称となります。操作性とグラフィックは マックが進んでいましたので、デザイナーは 大体 マックを買ったようです(そもそも この名称は、アール・ヌヴォの建築家 マッキントッシュ からきているのではないでしょうか?)。私は迷いましたが、世の中全体では PC/AT 互換機のほうがずっと優勢で、将来性も考えて IBM のパソコンを選んだのでした。マックを使っていた人からは、IBMのパソコンに マウスが付いていないことを 不思議がられたものです。どうやって作業するのか? と。 (画面のテキスト表示によってです!)

 私が設計した名古屋の住宅『クロイスター』の建て主の 小川さん(パソコン・ソフトの開発に携わっていました)に、「これからは コンピュータの時代だ、パソコンを始めるべきだ、安価なものが 出始めたから 買うべきだ」と 勧められて(全然 関心が無かったのですが、小川さんからは 設計監理料をもらっていましたので、これくらいの出費は やむをえないか、と 腹をくくり)『ヒサゴ東京支社』の工事の終り頃に、「初代パソコン」、IBM の「PS/V ヴィジョン」を 買いました。1994年の 12月です。その前年に IBM と、当時競り合っていた コンパックから、似たような リーズナブルな 一体型ホーム・パソコンが 初めて売り出されていたのです。

 マイクロソフトの「ウィンドウズ 95」は、まだ「シカゴ」というコード名で 開発中でした。「PS/V ヴィジョン」の基本ソフトの「DOS/V」というのは 非常に難しかったので(テキストによる「コマンド」を覚えるのも大変で)さっぱり できるようにならず、飛躍的な進歩を遂げるらしい「シカゴ」の製品化を 心待ちにしていたものです。翌年の 1995年8月に、「シカゴ」即ち「ウィンドウズ 95」がリリースされ、その日本語版が 11月に発売されると、その後 20年も 世の中で使われることになります。IBM やコンパックの ホームパソコンに搭載されたのは、翌年だったでしょう。この 使いやすい 画期的な「ウィンドウズ 95」の出現によって、これを基本ソフトとする「PC/AT 互換機」が 業界の主流となり、そうでない、それまで日本で「わが世の春」を謳っていた NEC や富士通のパソコンは 沈下して行き、次第に IBMの互換機に 変身するのを余儀なくされていきました。

 それまでも「ウィンドウズ」というのは 存在していて、私も 3.1 のヴァージョンを使っていた記述が残っています。これは「MS-DOS」に上乗せするようなものだったらしく、「PS/V ヴィジョン」にも入っていたのです。 翌年に それとは 次元が違う、完全な「オペレーティング・システム (OS) 」として、非常に使いやすい「ウィンドウズ 95」ができると 爆発的な売れ行きで、みんな すぐに買ってインストールしたようですが、初心者の私がインストールしたのは、1996年も 9月15日になってからです。ネット記事によれば、「3.1」からのアップグレード版は、通常版の半額の 13,800円だったということです。

 私は、なにしろ初めてコンピュータの世界に入ったのですから、そういった用語も、「マイクロソフト」や「アップル」といった会社名も、「ソフト」や「インストール」や「ハードディスク」も、「プログラミング」や「メモリー」や「MS-DOS」というような言葉も、すべてが ゴッチャになって、チンプンカンプンでした。また、あまり熱心に勉強しようとも しなかったのですが。

 今は 誰でも写真を撮りますし、レトロな「フィルムカメラ」に凝る男女も多くいるらしいですが、昔は(フィルムカメラの時代には)写真を撮るのは 男性 だったのです。その理由は「女はメカに弱い」ということで、女たちも そう口にしていました。しかし 写真を撮る人が知っているべき「メカ」のことなど たいして無いのです。それよりも「感性」が問題なのであって、写真工学について知っている必要など、ほとんど 何もなかったのです。コンピュータも同じで、私はコンピュータのアーキテクチュアについて ほとんど何も知りませんが、毎日 朝から晩までパソコンを操作し、膨大なホームページも作っています。それでも、ごく基本的な知識と訓練は 必要でした。

パソコンとインターネットの勉強

 1994年(平成6年)も 終わろうという 12月に 初めてパソコンを買ったわけですが、何の予備知識もないままに 小川さんに勧められて買ったので、何に使おうという目的もなく、また使い方も解らなかったので、「テレビも見られるし、ゲームもできる」という、販売パンフレットの宣伝文句にあったとうりに、そうしました。ゲームといっても、ウィンドウズの「アクセサリー」についていたような、トランプ・ゲーム「ソリティア」とか、「マイン・スイーパー」のような ごく単純なものですが、それでも物珍しかったので、暇な時に よくやりました。
 テレビもそうで、前に書いたように、大学を出た翌年に 独立してアパート生活を始めましたが、その時にテレビを買わず、それ以来 20年以上 ずうっとテレビを見ていなかったので 物珍しく、わずか 13インチという 小さな画面でしたが、色々な番組を見てみました( NHKの「大河ドラマ」というのも 初めて見ました )。私は映画が好きで よく映画館に出かけていましたが、映画に比べると テレビドラマというのは 作りがチャチで、ご都合主義で、演技がわざとらしく、半年もしないうちに 飽きてしまい、ほとんど ニュース番組しか見なくなりました。

 本来のコンピュータの使用となると、DOS/Vと言うのは難しく、色々な「命令」(コマンド)を覚えるのも煩わしく、そもそも 目的がないのですから、少しも進歩しません。それでも 図書館から 一般向けの「コンピュータ文化論」的な本を借りてきては、ポツリ ポツリと 読んだりしていました。「読書記録」を調べると、読んだのは次のような本です。日付順に並べると、

941214 コンピュータ文化の使い方:室謙二、津野海太郎編著,1994,思想の科学社
941225 はじめてかじるマッキントッシュ:秋山公良,1992,明日香出版社
941225 スーパーパソコンの時代[岩波科学ライブラリ]:石田春久,1994,岩波書店
950201 WINDOWS の窓を開くヒント集:藤田英時,1994,ナツメ社
950205 最新パソコン&素朴な疑問大特集:1994,実業の日本社・エスカルゴ・ムック23
950218 パソコン・ソフト入門〔再〕:高橋三雄,1993,岩波新書
950412 コンピューターの宇宙誌:紀田順一郎、荒俣宏,1992,ジャストシステム
951230 WINDOWS入門(新しい知的ツール):脇英世,1995,岩波新書
960104 パソコンをどう使うか:諏訪邦夫,1995,中公新書

 しかし、パソコンに対する 私の受け身の 態度、思考が一変したのは、そのころ 急速に人々の話題になり始めていた「インターネット」について 知り始めたことによって でした。その旗振り人は、慶応大学の 村井純さんとか、東大の 西垣通さんたちだったと思います。インターネットとは 一体何なのか、ということを知るために 彼らの本などを読んでいるうちに、どうも これは大変なシステムなのだ と解ってきて、「産業革命に次ぐ 情報革命」という言葉は 何十年も前から しきりに使われてきても 実感が薄かったけれど、これこそ本当の「情報革命」なのだと 悟りました。

960115 マルチメディア:西垣通,1994,岩波新書
960405 インターネット:村井純,1995,岩波新書
960411 インターネットのすべて:前野和久編,1996,PHP研究所
960513 インターネット探検:立花隆,1996,講談社

 私はマフィアに迫害されていて、雑誌に原稿を書くのも、本を出すのも、妨害され始めていましたから、今に、世の中に 私の言説は、本とか 新聞とか 雑誌とかいう「既成のメディア」では 発表できなくなるかもしれない、であってみれば、これから先は インターネットという手段を 最大限 利用していくのが 良いのではないか、と 思い至りました。

 そこで 心を入れ替えて、これから当分の間は「パソコン」と「ウィンドウズ」と「インターネット」について熱心に 勉強し、1年後には 自分の「ウェブサイト」(ホームページ)を作ろう、と 決心しました。そのためには、IBM の初心者向けの「モニター一体型」ホーム・パソコン「PS/V ヴィジョン」では 能力不足だ と判断し、上級パソコンに買い替えることにしました。 パソコンの進歩のスピードは まことに激しく、製品の性能は「日進日歩」で、買ってから「一年たてば、ただの箱」と 言われたものです。パソコンをやる人は 新しい性能に追いつくために、2年ごとぐらいに買い替えることを 強いられました。私も、大して使ってもいなかった「初代パソコン」を2年少しで買い替えることにしたので、まだ使用可能な それは、これからパソコンを習ってみよう という姉夫婦が 欲しいと言うので、あげました。

 パソコンにインストールする「ワープロ・ソフト」としては、マイクロソフトの「ワード」が標準になります。日本語のソフトとしては、ジャストシステムが開発した「一太郎」が かなり用いられていましたが、「ワ−ド」の日本語版ができてからは、次第に姿を消したようです。私も最初に「一太郎」と「ワード」の両方を インストールしましたが(前者は 95年2月4日に ver 6 で 1.8万円、後者はその4日後に「マイクロソフト・オフィス乗換えキャンペーン」で 41,200円)、「一太郎」は 400字詰めの原稿用紙に文字を埋めて行くような感じなので、日本語と英文を共存させて打つなら、「ワード」の方が圧倒的に使いやすいので、すぐに「一太郎」は 捨ててしまいました。


2代目のパソコン

IBM

A ● IBM のパソコン、アプティバ 2159-B65、ビックP館で 33.7万円
17インチ CRT カラー、1996年11月発売、 1997年2月11日 購入
ウィンドウズ 95、HDD 2.5GB、メモリー 32MB

 今度は単なる「格安」ではなく、「本格的」パソコンにしようと、池袋の ビックカメラに行くと、同じ IBM の「アプティバ」を勧められました。高級 (?) パソコンとして、IBM ダイレクトでの価格は 40万円だったらしい。前の 13インチから 17インチに大きくなった画面は「ブラウン管」なので(当時の テレビと同じように)、奥行きが 44cmもあり、パソコン用の机などが売られていたものです。私の机は大きかったので大丈夫でしたが、パソコンは まだ使いこなせなかったので、月に何回も「初期化(リカバリー)」したこともあります。メモリーは 32MB という、今から見れば ほんのわずかであって、4月に 32MB 増設して 64MBにしました。
 「ビックカメラ」というのは 名前の通り、カメラとその関係機材を販売する会社でしたが、池袋に進出して 池袋駅のすぐ近くに店を構えてから、総合的な 電気製品の量販ショップとして大発展しました。 かつて私は 電気製品は 秋葉原で買っていましたが(特にオーディオ製品)、巣鴨に転居してからは 近くの池袋、特にビックカメラで買うようになりました。そして池袋の本店の近くに「ビック・カメラ館」ができると、毎年 海外に撮影旅行をしていましたから、カメラ機材と、毎回数十本のフィルムを購入し、現像も ここに出しました。次第にカメラよりも パソコン関連の商品のほうが商売の主になると、本店の向かいに「ビック・パソコン館」(P館)もでき、ほとんどのパソコンと関係機材、ソフトを ここで購入しました。

 その年(1997年)3月には インターネット接続と Eメールの「プロバイダー」に申し込んで ID番号を取得し、ネット利用を始めましたが、まだ 見るに足るようなサイトやホームページは あまり無かった時代です(「ゴミ」みたいな HP ばかりだと、揶揄されていました)。前年の、森田芳光監督の映画『(ハル)』(1996) に見られるように、まだ「パソコン通信」のほうが盛んでした。まことに、インターネットの「草創期」だったのです。

 私は、2代目パソコンの「アプティバ」によって パソコンの使い方も 何とかマスターし、ウィンドウズという OS のことも理解し、インターネットの理解も進むと、いよいよ ホームページ作りに入りますが、それまでに「ワード」と、PC に初めからインストールされていた簡易版・無料ソフトの「フォトショップ LE 」(という名前だったか)を使って、画像処理の初歩を学び、画像と文章の入り混じったページを 作れるようになりました。私が撮っていた写真は ポジ・フィルムのスライドでしたから、それをスキャンして ウェブ用の 「ジェイペグ」( JPG ) 画像にするために、ニコンの「フィルム・スキャナー」を6月に7万円で、また それをハード ディスクに接続するための「スカジーボード」を3万円で買いました。「フラット ベッド」のスキャナーは「ヒューレット・パッカード」製の Scan Jet 5Pで、これも T-Zone ミナミ で4万円でした。

スキャナー
ニコンのフィルム・スキャナー「スーパー・クールスキャン」
NIKON SUPER COOLSCAN LS-5000 ED、T-Zone ミナミで7万円

 当時の「ワード」には、写真や図表やリンクを含めて、ワードで自分が書き、作ったページを「HTML」のソース表示に変換してくれる機能がありました(名称は忘れましたが)。これによって、カラーの 疑似ホームページを、ハードディスク上に作成することができたのです。これを基本にしながら HTML の「タグ」を少しずつ覚えてゆき、修正しながら 次第に きれいなページにしてゆきましたので、私は「パソコン教室」に通ったことも無ければ、「ホームページ作成ソフト」を使ったこともありません。すべて 本による自習と、モニター画面上の試行錯誤によって習得していきました。一番よく使った参考書は『 HTML タグ辞典』(アンク著、翔泳社)でしょうか。
  HTML というのは「Hyper Text Markup Language」の略ですが、適切な訳語が無いようです。まあ「ウェブ・ページ言語」とでも理解すれば 良いのではないかと思います。各ページの「ソース表示」において、ホームページの作成には不可欠の「タグ」群からなり、これらによって文字の書体(フォント)や大きさ、太さや色から始まって、段落の区切りや、横線、行内の位置まで、何でも指示できます。図版の入れ方から 大きさ、タイトルの枠の設定、ページ・レイアウト、その他 ありとあらゆることが「タグ」で決定されますが、とりわけ興味深かったのは、文字や 図版を 他のページや、他人のウェブサイトとも結びつけて、マウスでクリックするだけで そこへ飛べるという、忍術のようなことまで指示できる「リンク」には、ほとほと 感心してしまいました。世の中に こんな面白い言語があるのか、と思いましたが、「タグ」の一文字でも間違えたり、失われたりすると うまくいかなくなり、その部分を見つけ出すのに 何時間も費やしたりすることがあります。

 私の HP の主テーマは「インド建築」だったので、写真はいくらでもありましたが、「LE」を卒業して購入した 本番の「フォトショップ」を使いこなすのは 大変でした。特に色の調整というのは、色を決める6桁の各数字が「16進法」なのでむづかしく、現在のような「中間色」が作れるようになるのは、ずっと先のことです(いや、これはフォトショップではなく、HTML の「カラーコード」の話ですね)。
 アドビの「フォトショップ」は、今では 毎月 定額の使用料(今は 1,180円)を払うようなシステムになっていますが、昔は 丸ごと CD に入ったパッケージ・ソフトを買うシステムでした(ぶ厚い「使用説明書」の本が付いていました)。10万円ぐらいしたと思いますが、学校の教員や学生には「アカデミック版」と言ったか、7万円ぐらいの割引価格で提供していました(私も それを買いました)。
 私のウェブサイトのように 写真を主とするためには、スキャンした画像をトリミングしたり、縮小したり、サムネールを作ったり、明暗や色味を調整したりするために 必須のソフトですが、それらに習熟するのは容易でなく、長い年月を必要としました。

 1997年の10月22日に、ついに最初のホームページ『神谷武夫とインドの建築』をアップロードして、ネットで公開することができました。「2代目のパソコン」は、よく期待に応えて 働いてくれたと思います。そのトップページを、現在のものと比較すると、

ホームページ   ホームページ

 当初は 彩度の高い色しか 出せませんでした。これを たえず改良して、現在のような「中間色」を使った スマートなデザインに していったのです。
 このパソコンは2年半しか使っていなかったので、 これからパソコンを始めようという人には十分に使えたので、次の3代目パソコンに買い替えたあと、欲しいという知人に あげました。


3代目のパソコン

ソニー

B ● ソニーのパソコン Vaio PCV-R51V7D、ビックP館で 21.8万円。
17インチ CRT トリニトロン、TVチューナー内蔵、1999年11月23日購入
ウィンドウズ 98、HDD 17GB、メモリーを 64MB増設して 128MBにした

 前述のように、当時は パソコンは2、3年で買い替えるもの という「常識」があったので、2年半使った「アプティバ」も、「最初のホームページを作る という役割を終えた」というわけで、新しいものに買い替えることにしました。ビックカメラに見に行くと、ソニーの「バイオ」が 脚光を浴びていました。1990年代前半に ソニーの経営陣が パソコンの大発展を見透せずに、その開発競争に参加しなかったのですが、このままでは大変なことになると分かり、パソコン市場に 遅ればせの参加をしました。大幅な遅れをとっていたために、後発のソニーが 既成のパソコン市場に食い込むためには、得意の 画質(トリニトロン)と 音響に力を入れて それを売り物にしましたが、何よりも 低価格にせざるを えませんでした。
 バイオ (Vaio) というブランド名は、「Video Audio Integrated Operation」が語源で、その頭字語だと言います。AV機能の重視ということです。それに引っかけた「紫色」(バイオレット)を メイン・カラーにしました。まだ CRT(ブラウン管)だったので、奥行きが 40cmという図体でしたが、全般的に 洗練されたデザインだったと言えます。何より 2代目の IBM「アプティバ」(33.7万円)に比べれば ずっと安い価格だったので(21.8万円)、3代目のパソコンは ソニーにしました。

スピーカー

 ソニーのパソコン Vaio の付属のスピーカーは 小型ながら高品質で、単独で売られていた多くの小型スピーカーよりも ずっと音質が良いものでした。次のソニーのPCにも同じスピーカーがついていましたので、一組を10年くらい使い、もう一組を 現在に至るまで8年以上 愛用しています。


4代目のパソコン

ソニー

C ● ソニーのパソコン Vaio PCV-RX53、ビックP館で 22.2万円
19インチ 液晶トリニトロン、2001年 10月31日購入
ウィンドウズ XP、TVチューナー内蔵、HDD 80GB、メモリー 256MB

 バイオを買ってから2年足らずの 2001年7月に、パソコンがしばしばフリーズしたり、立ち上がらなくなったりしたので、ビックカメラで メモリー128MG(11,340円)を買い足して256MGにしましたが、改善されません。ソニーに問い合わせると、人によって 違うことを言い(システム・リソースの問題で、それはマイクロソフトが決めている、とか、インストールしているソフトが多すぎるのではないか、とか)らちがあきません。また、この PC にウィンドウズ 2000を入れると、ドライバーが用意されていないので 不具合が起きるだろうと言いいます。百科事典の「ブリタニカ」をインストールしたのも原因かもしれない。7月30日にリカバリーしました。
 なぜ、わずか2年で買い替えたのか、はっきり覚えていませんが、同じ ソニーのバイオを買ったのですから、基本的に 性能やデザインには 満足していたのだと思います。しかし、電話記録にも 手帳にも、何も 買い替えの理由が書いてないのは、奇妙です(トラブルがあったとも書いてありません)。
 今 思うに、2001年の 10月31日に ビックP館に買いに行っていますから、それまでの「ウィンドウズ 98」を、同年の9月に発売されたばかりの「ウィンドウズ XP」を装備したものにするのが 主目的だったのでしょう。 ソニーのバイオも この頃までは 低価格で突っ走っていて、前回と たいして変わらない価格だったのも、理由の一つだったかもしれません。

 私はずうっと自宅を仕事場にしていたので、ノート・パソコンの必要性を感じたことは あまりなく(海外撮影旅行の時も、重いカメラ機材を抱えるので、パソコンまで持っていこうとは思いませんでした(今だったら 小さなスマホで済むでしょうが)。それだから、私が買ったパソコンは 全て デスク・トップのパソコンで、タワー型本体と、なるべく大きな画面のモニターでした。それでも モニターが液晶になって 薄くなり、机の上の占有率が小さくて済むようになったのは 大歓迎でした。しかし このソニーのパソコンも初期不良で、モニターのみ 11月9日に取り替えたと思ったら、本体も初期不良で、11月28日に取り替えになりました。どうも 私が買うパソコンは、なぜか「初期不良」が多いのです。

 この頃までのパソコンには、テレビチューナーが組み込まれているのが普通でした。前述のように、私はニュース番組以外は あまり見ませんでしたが、このパソコンで見ていた連続ドラマを二つ覚えています。NHKで放送していたアメリカのドラマの日本語 字幕版(だったような気がします)で、たまに見た日本のドラマとは まったく レベルが違い、ほとんど 映画に近いと感じました。それは『 ER 緊急救命室』と『 Xファイル』で、特に前者は 心に訴えるようなストーリーと 描き方が多く、本当に感心してしまいました。長く続いたので全100話以上になるようですが、それを全部収録した DVD のボックスセットがあるということなので、いつか買って、全部見てみようかと思っています(かつて私が見たのは、その 1/3 くらいでしょうか)。

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 このパソコンを使っていた 2003年の8月に『アレクサンドル・ゲルツェンとロシアの風景』というエッセイを書き、それを新しいサイトとして アップロードしました。当時は ゲルツェンに関するウェブサイトは 日本に無かったので、検索エンジンに「ゲルツェン」と書けば、このサイトだけが出たものです。


5代目のパソコン

DELL

D ● デルのパソコン DELL Dimension 8400、ビックP館で 31万円
24インチ液晶、ウィンドウズ XP、HDD 80GB、メモリー 256MB
2004年10月に購入したが、トラブル続きで、12月に返却

 またまた3年でパソコンを買い替えることになりましたが、ソニーのバイオは すでに市場で安定した地位と人気を得て、価格が えらく高くなってしまったので、それならと、ビックカメラに勧められて(黒いデザインを 望んでもいたので)、「デル」の PC にしました。デルというのは 私は知りませんでしたが、アメリカの コンピュータを主とする、世界最大級のテクノロジー企業です。
 初めて買ったデルの、大型で非光沢のモニターには 魅せられました。初めて知った「非光沢」の画面は、電灯や窓の光が映りこまないし、その落ち着いた色調にも満足して、以後は 非光沢のモニターしか 買わなくなりました。また 24インチの大型サイズは、ウェブサイトや ワード画面が A4で2面並べられるので 非常に便利でした。特に、HP 作成ページと そのソース表示を 並べて作業できるのは、便利この上なかったです。
 ところが 本体はトラブル続きで、たまたま不運だったのか、キチンと使えません。当時は まだ電話サポートを必要としていましたが、「テクニカル・サポート」に電話をすると 中国のステーションにつながるらしく、きちんと意思疎通ができない ということもあり、12月にビックに返却、引き取ってもらいました。


5代目のパソコン

   NEC     ベンキュウ

D ● NECのパソコン VALUE STAR、秋葉原ラオックスで 15.5万円
ウィンドウズ XP、HDD 250GB、メモリ- 512MB、 2004年12月購入。
モニターは ベンキュー FP231W、ビックP館で 14万円もした
23インチ液晶ワイド、非光沢

 今回からは、タワー型デスクトップ本体と モニターを 別メーカーにして、それぞれ 私の要望にかなうものを選ぶことにしました。タワー型本体は 数社が出していましたが、なぜか 白っぽいものが多く、私の部屋には合いません。NEC の「ヴァリュースター」だけが、前面が黒で 側面がグレーという、私の好みに かなうものでした。モニターとセットでも、本体だけでも 販売していたので、注文仕様ができる 本体だけを買いました。なぜか、池袋ではなく、秋葉原に買いに行きました(池袋では セット販売しか していなかったのかも しれません)。
 ところがトラブルがあって(Windows XP の Professional 版を注文したのに 店員が間違えてHome Edition 版を配送してきてしまいました)、取り替える段になって、この旧モデルは 完売して もう在庫が無いので、すぐに発売になる新モデルの 「VALUE STAR G」(タイプ TX)にすると言って、翌年の1月19日に届きました(差額 2.7万円はサービスです)。ところが、新モデルの基盤に不具合があったとかで、2月3日に NEC フィールディングの人が 新しいのを持ってきました。ところが これにも不備があり、2月12日に 再度 別のものを届けてきました。さらにまた不備があったということで、2月15日に NEC フィールディングの人が修理に来たと思ったら、実は またしても 新しいものに取り替えです。NECの一連の良心的行動だとは思いますが、開発・製造部門に 技術的衰えがあったのかも しれません。

 モニターは デルの時と同じように、ウェブ・ページや ワードの作業面が A4で2面並ぶような大きさにしようと思ったら、えらく高価なので驚きました。今、ネットで調べると、当時の新聞記事には、ベンキューが 23インチ・モニターを「7月下旬より発売、価格はオープンプライスで、店頭予想価格は 238,000円前後の見込み」 とあるのには 驚きます。秋葉原で NEC の本体を買ったのと同じ 12月21日に、池袋に戻って価格を確認し、ビックP館に ベンキューのモニターを 14万円で注文して、28日に入荷したのを 自分で持ち帰りましたが、なんで そんなに高価に なっていたのでしょうか? 当時は まだ 大型モニターの製造は 難しかったのでしょうか?
 ついでに、モニターの下部に取り付けられる 別売りのスピーカーを買ったら 4,500円で、これは良質だったし 邪魔にもならないので、このモニターのあいだは ずっと使いました。また、時に まだ古いフロッピーディスクを見ることもあったので、USB 接続のフロッピーディスク・ドライブを本体に付けてもらいました。今も使えますが、今では 古い FD を見ることは ありません。

NEC

NECのパソコン VALUE STAR 付属キーボード: PS/2 小型キーボード
左右 39cm × 上下 17cm × 高さ4cm、キー・タッチが 非常に良い。

 この NECのパソコンに付属していたキーボードは、使い勝手もデザインも 満点でした。巾が小さめなのが、扱いやすくて 非常に良く、普通は テン・キーがついてなくても、このくらいの巾になります。今は役に立たないボタンが いくつも付いていますが 邪魔になるわけでもなく、何度か 他のキーボードを使ってみましたが、いずれも きゃしゃで キー・タッチが悪く、色なども気に入らないものが多く、これに勝るものは無かったので、20年近くになる 今も 愛用している、堅固なキーボードです。要するに 私は、最初に タイプライターでフィンガリングを覚えたので、キー・タッチが フニャフニャした キーボードは 好きになれないのです。

NEC

 最初に何度も 不具合、取替えがありましたが、その後 この NEC の本体は とても優秀で、それまで2、3年ごとに買い替えていたのに、このパソコンは 2005年2月から 2011年7月まで、修理不能になるまで6年半も使えました。
NEC とは、Nippon Electric Company(日本電気株式会社)の略を会社名にしたもの(NEC Corporation)で、日本を代表するコンピュータ・メーカーでした。1990年に「日建設計」の設計による本社ビルが完成した時は 大いに話題になりました(あれが 日建設計の代表作では ないでしょうか)。しかし 1995年に、私は 次のように書いたことがあります(「あいまいな日本の建築家」)。

パソコンの世界では、日本語で動かせるコンピュータ という特殊性によって、つい最近までNECの製品が、世界から孤立した日本市場を ほぼ独占していた。
 ところが 基本ソフトとして「ウィンドウズ」の日本語版が急速に普及するにつれて、もはや 日本は特殊な市場ではなくなり、国際規格のコンピュータが 自由に使えるようになった。NECの製品も 次第にIBMの互換機となりつつあり、国際規格への変身を迫られている。
 こうした国際化の時代にあって、我が国だけが あいまいで特殊な「建築家−建築士」の制度をとり続けるのは もうやめにして、世界に通用する アーキテクトの制度を確立すべきである。

 その後 NEC は次第に業績不振となり、その本社ビルを不動産会社に売却してしまい、 それを一括賃借して 現在も使っていますが、NEC は 現在では 富士通とともに 中国の ITメーカー Lenovo(レノボ)の傘下に入っています。日本の PC産業は 壊滅的になってしまいました。

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 私のホームページの『神谷武夫とインドの建築』は 容量(ページ数)が大きくなり過ぎたので、このパソコンを使っていた 2009年に、イスラーム関係の項だけ抜き出して分離させ、『世界のイスラーム建築』という新しいサイトにしました。『アレクサンドル・ゲルツェンとロシアの風景』は それほど長い話ではないので、『神谷武夫とインドの建築』の中の1ディヴィジョンにして、そのアドレスを こちらに使うことにしました。このあと『世界のイスラーム建築』は、どんどん大きなサイトになっていきましたので、最初と現状とを並べて 比較しておきます。


 

6代目のパソコン
   エプソン   三菱

E ● エプソンのパソコン、ENDEAVOR MR6900、ビックP館で 17.5万円
ウィンドウズ 7、HDD 250GB、メモリー4GB、2011年7月に購入
モニターは 三菱 MDT243WGII、RDT233WX、池袋ヤマダ電機で4万円
Diamondcrysta、23インチ液晶ワイド、非光沢 

 6年半も使えたNEC パソコンが故障を起こし、修理に出すと「修理不能」で戻ってきたので、もう寿命だなと思い、新しいものに買い替えることにしました。また NEC にしようと思ったら、その頃のものは 本体もキーボードも 真っ白になっていたので ヤメました。それが流行だったのか、ほかのメーカーも 真っ白が多く、店に相談すると、「エプソン」を勧められました。エプソンというブランドは、後に プリンター(スキャナー)で ひどい目にあうのですが( 2014年に『私家版 イスラーム建築』の印刷時に)、同じ「時計の精工舎」を母体にするとはいえ、コンピュータ部門とプリンター部門の両社は まったく別物らしく、コンピュータのほうのエプソンは 優秀で誠実な企業のようです。(またまた 初期不良で8月4日に取り替えましたが)。
 パソコンのエプソンの 特に良いところは、アフターサービスとしての「エプソン・コール・センター」での「電話 テクニカル相談」の充実です。今は たまにしか電話することはないですが、1台目のときには よく電話しました(今でも フリーコールです)。性能にも 電話相談にも おおむね満足していましたし、長持ちも したので(1台めは5年、2台めは6年以上、3台めは 現在3年目)この時から3台続けてエプソンです。

 モニターは 前回と同じ23インチなのに、各社とも 非常に安くなっていたので 驚きました。前回 14万円だったのが、4万円前後です。評判の良い三菱にしました。本体と同日に、展示品が多かった 池袋ヤマダ電機で 選んで購入。でも、これも初期不良で2日後に交換になりましたが。

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 前のパソコンを使っていた 2008年に「アルメニア建築・写真ギャラリー」というページを作って、120枚のアルメニア建築の写真を公開しましたが、その4年後に このパソコンを使っていた 2012年には、それを大巾に拡大して 写真の数を 600枚に大倍増し、アルメニア中の建築遺構を網羅する『アルメニアの建築』という 独立したウェブ・サイトにしました。私のウェブサイトは、基本的に インドと イスラームと アルメニアの3本立てとなったわけです。


7代目のパソコン

  エプソン   エイサー

F ● エプソンのパソコン Endeavor MR7400、ビックP館で 16万円
ウィンドウズ 10、HDD 1TB、メモリー 8GB、2016年
モニターは エイサー LCD Monitor KA270H、アマゾンで2万円
27インチ液晶ワイド、非光沢、2017年

 パソコンは もう買い替えの時期だなと思って 2016年の8月にビックカメラに行きましたが、特にこれは という 新しい機種はなく、5年使ったエプソンに 不満もなかったので、今回もエプソンにしました。メモリーを8GBにした以外は、私のほうからの特別な注文はありませんでしたが、「ハイスペック・キャンペーン」で 2.5万円値引きしてくれ、しかも 旧 PCが ビックP館の地下の「ソフマップ」で 2.1万円で売れましたので、これだけ高性能のパソコンと大型モニターが 合計 18万円ほどで手に入いり、しかも6年3ヵ月も使うことになります。2代目の PC「アプティバ」に比べれば、半額以下の費用で、2倍以上の年月を使えたわけです。パソコンの開発と製造の技術的進歩には、驚きと敬服を禁じえません。
(ただし これもまた初期不良で、9月に新品に取替えとなりましたが)。

 モニターは、三菱が モニターの製造を やめてしまっていたので アマゾンで調べたら、27インチの大型モニターが わずか2万円ぐらいになっていたのには、またしても驚きました。台湾の世界企業「エイサー」 (Aser Inc.) の 27インチ モニターを選び、2017年 11月に アマゾンでネット注文しました。

 NEC の付属品だった キーボードと 、ソニーの付属品だった スピーカーは、この代にも使い、今もなお 使い続けています。


8代目のパソコン

  エプソン   富士通

G ● エプソンのパソコン Endeavor MR8400、エプソン直販 22万円
ウィンドウズ 11、HDD 1TB、メモリー 16GB、2022年
モニターは 富士通の 27インチ液晶ワイド、非光沢、
高さ 角度調整可、2023年、アマゾン 2.3万円

 これは 現在使っているパソコンです。今回もエプソンのタワー型 デスクトップパソコンで、2022年11月、エプソン・テクニカル・センターで電話注文しました。
 買い替えの第一の目的は、フォトショップが 改訂を繰り返すにつれて どんどんメモリーの使用量が大きくなったので(今では 最低 32GBは必要、64GBが推奨という記事もあります)、これをスムーズに動かすためには メモリーを大幅に増加させたほうが良い、ということであり、そして前の機種はもう6年以上使ったので 十分 元を取り、買い替え時期になったというわけです。
 ですから、フォトショップさえ使わなければ、まだ十分に使える PC でしたが、なにぶん古いものなので、前回のように「ソフマップ」に売ろうとしたら、見積価格は0円だったので、「廃棄」しました。また、前回のような「ハイスペック・キャンペーン」というのも無く、直接 エプソンに電話で買い替えを注文すると割引されるという話でしたが、それは わずか1万円でしたから、メモリー以外は 前回のものと ほとんど同じスペックにしたのですが、諸物価の値上がりの あおりでか、前回より 大きい出費になりました。
 ただ、私は「ゲーム」や「動画編集」を やっていませんので、その分 メモリーと CPU は少なくてすみ、価格も抑えられている とは言えます。

 DVDドライブは BD(ブルーレイ・ディスク)も見られるようにしておきましたが、これは値段が高いばかりでなく、しばらくBDを見ないでいると すぐに調子が悪くなるので、DVDとBDドライブは、次からは USB接続による 外付けのものを 別に買ったほうが良さそうです。

 27インチの モニターは、本体より1年遅れの 2023年 10月に買い直しましたが、今度は「富士通」にしました。このモニターは左右に 90度回転できると宣伝文句にありましたが、これはウソで、左右合わせて90度でした。毎日 食事の時に食卓に向けて動かしていると、本体と結ぶケーブルが 緩んで はずれてきます。画質には 満足しています。

 *   *   * 

 世の中は すっかり「スマホ」の時代になっているので、私のように 何でもデスクトップのパソコンでやるという人間は 次第に希少種になりつつあるようです。パソコンは長持ちするようになりましたし、果たして9代目のパソコンを買うことがあるかどうか わかりません。

                               ( 2025 /02/ 01 ) 


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TAKEO KAMIYA
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