シリアの建築
ARCHITECTURE of SYRIA

第1章

シリアの建築
神谷武夫

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 フリー・ジャーナリストの安田純平さんが2015年にトルコ南部からシリアに潜入した時に、過激派の「アル・ヌスラ戦線」に (?) 拘束され、以来3年以上もシリアで監禁されてきましたが、このたび(2018年10月23日)解放され、帰国しました。実に長期間にわたる監禁や拷問に耐えた精神力と耐力は驚嘆と称賛に価します。日本政府が身代金を払ったのかどうかは不明のままですが、裏では多くのかけひきがあったことでしょう。(フリー・ジャーナリストの活動と邦人保護に冷淡な日本政府が、身代金を払ったとは 考えにくいですが。)
 私は中東に10回近くも調査・撮影旅行に行ったとはいえ、危険度の高い時期、地域は避けてきたので、大きなトラブルに巻き込まれることは ありませんでした。私の「ミッション」は 政治状況を伝えることではなく、あくまでも建築家として、イスラーム諸国の文化と建築遺産を この目で見て 評価し、撮影し、伝えることです。このたびの安田さんの帰還を記念して (?) 、6年前に作成した「シリアの建築」のページに手をいれて増補し、地図を付加した「新装版」として、その2年半後に作成した「ヨルダンの建築」のページとともに、『神谷武夫とインドの建築』のサイトの『世界建築ギャラリー』のディヴィジョンから、今回 『世界のイスラーム建築』のサイトに新設した『中東の建築』と題するディヴィジョンに 移すことにしました。

(2018 /12/ 01)




シリアという国

 2010年に始まった 中東における「アラブの春」は、チュニジア、エジプト、リビアで市民革命が成就し、独裁政権が倒されたが、シリア では アサド大統領が退陣せず、内戦となって 泥沼状態が続いている。先月(2012年 8月 21日)、日本の女性ジャーナリスト、山本美香さんが アレッポで戦闘に巻き込まれ、死亡された。このTVニュースによって、初めてシリアが身近に感じられた日本人も 多かったことだろう。しかし日本人で シリアに行ったことのある人は 稀であろうし、戦闘のニュースでしか シリアという国を知らない人が ほとんどだと思う。

 そこで、シリアというのは、平和な時代に、文化的には(建築的には)どんな国だったのか ということを、今から 26年前の写真をスキャンして、「世界建築ギャラリー」の1ページとして 紹介しておくことにした。紛争さえなければ、シリアというのは 歴史的に、文化的に、大変に魅力的な地域である。それが この1年間の市街戦や爆撃で、歴史的建築遺産 も ずいぶんと被害を受けたのではないかと、危惧される。「世界建築ギャラリー」の 他のページは、それぞれ ひとつの建物を扱っているが、ここでは、ひとつの国の 建築遺産全体を 歴史順に記録、紹介する。

 私が初めてシリアに行ったのは 1980年なので、今から 32年も前のことである。シリアには きわめて良い印象を受けたのに、カメラ(当時は ニコン F2)が故障して シャッターが下りなくなってしまい、ダマスクスじゅうを 駆けずり回ったが、シリアには修理できる所が ないとわかった。安いカメラを買ったが PCレンズは使えず、どうにもならなかった。是非とも写真を取り直しに行きたいという思いにかられ、その6年後の 1986年に再度訪れた。

シリアの地図
シリア共和国の建築地図

破壊された ハマーの旧市街

 当時は 現在のアサド大統領の父の ハーフィズ・アル・アサドが大統領で、2000年に死去するまで、ほぼ 30年間もの長きにわたって在任した。当然、強権的性格を強め、1982年には、反乱をおこした ムスリム同胞団を殲滅するために、その拠点だった シリア第5の都市、ハマーの旧市街を爆撃し、徹底的に破壊した。犠牲となった市民は2万人とも4万人とも言う(ハマーの虐殺)。
 初めて訪れた時に歩き回った 魅力的な古い街並みが、2度目に行ったときには 完全に消滅していることに 唖然としたものである。大モスクは失われ、アゼム宮殿は大々的に修復中で、ハマーの町の象徴である、町を流れるオロンテス川に多く点在する ノリア(水車)群以外は、ほとんど ハマーの建築の写真を撮ることができなかった。

ノリア
ハマーのオロンテス川のノリア

 アゼム宮殿の修復に携わっていた 現地の建築家のひとりは、大モスクや街並みの 復元を目指すと語っていた。しかし 図面はない と言っていたから、写真のみを頼りにしたはずで、どのような復元になったのか、私は確かめていない。

 当時のシリアも 警察国家の印象があり、私もダマスクスで写真を撮っていて 警察に連行されたことがある(といっても、こういうことは 途上国では珍しくなく、インドのカシュミールや イランなどでも連行されて、フィルムを没収されそうになったことがある)。
 そういう政治体制もあって、治安はよく、安全に楽しい旅行ができた。それ以上に、シリア人というのは 実に親切で、旅人を歓迎してくれる。その建築的魅力とあいまって、現在の悲惨な混乱状態にもかかわらず、シリアには 今も 良い感情を持ち続けている。

アパメアの家族
シリアの一家族

 中東のほとんどの国と同じように、シリアはイスラーム国と言ってもよいが、建築的遺産は イスラーム一色というわけではない。
 「シリア」と言った場合、古代、中世におけるシリアというのは、現在のシリア・アラブ共和国よりも、ずっと大きな範囲を意味する。ちょうど、「インド」という言葉が 文化史的には、古代、中世においては、現在の国境で囲まれたインド共和国よりも ずっと広いエリア、ほとんどインド亜大陸全体を指すのと 同様である。つまり、現在のパキスタン、バングラデシュを含み、時にはネパールやブータンまでを含む。
 シリアというのも、現在の レバノン、パレスチナ、ヨルダン、イスラエルまでを含んだ、地中海の東部エリアを指す(トルコ南部を含めることもある)。しかし このページでは、現在の国境に基づく、シリア・アラブ共和国の建築 のみを扱うことにする。

 「大シリア」は、地中海に面する地の利と、大国ローマとペルシアにはさまれる困難な地勢、そしてユダヤ教、キリスト教、イスラーム教という諸宗教の発祥の地として、政治的にも宗教的にも軍事的にも 有為転変の、大変に複雑な歴史を閲(けみ)してきた。シリアという名の独立国家を形成したのは 近代のことであって、それ以前は、シリアというのは国家名ではなく、ある広範な地域をさす言葉であった。
 地中海寄りの西部と違って、東側の内陸部は 乾燥した 広大なシリア砂漠なので、歴史の舞台とはなりにくく、その伝統的な建築は 日乾しレンガによる「土の家」であった。

土の家
ハラン近傍の 土の家

 逆にシリアの西部は肥沃な農耕地であり、古来、さまざまな文明が展開し、衝突した地であって、その「有為転変」こそが、シリア建築の魅力の源泉である 多様性を育んできた。その成果は「土の家」ではなく、高度な石造建築である。

 石造建築を最も早く発展させたのはエジプト文明であり、次いでペルシア文明であったと言うことができる。シリアの名が由来するアッシリア文明は、現在のイラクを中心とするメソポタミア地方に栄えたが、建物は土、つまり日乾しレンガで作られたので、文明が滅びると遺跡としても残りにくく、ほとんどは崩落して土に還ってしまった。

歴史上のシリアの建築

 シリアの地中海東岸地方には、フェニキア人が都市国家を築いた。その遺跡はわずかであるが、アムリトの神殿などは、シリアの石造建築の元祖であると言えるかもしれない。

 ローマはギリシア建築をもととしながら、ペルシアなどのオリエント建築の影響を受けて、ギリシアにはなかった アーチやドームの構造を駆使して、大規模な石造建築を発展させた。これをヘレニズムの建築という。シリア地方もローマ帝国に支配されたので、ヘレニズムの都市遺跡であるパルミュラやボスラ、アパメアなどに、東方的なローマ建築が 多数残されている。

 キリスト教が勃興すると、シリア・パレスチナから 次第にローマ帝国に広まっていき、その聖堂建築は、古代ローマのバシリカの形式を借りた。つまり柱が2列、大規模なものでは4列立ち並ぶ 長方形の建物で、その一辺の中央に半円形のアプスが張り出すものである。ローマでは市民の集会場や裁判所などに用いられた建築形式であったが、そのアプスに祭壇を置く宗教建築となった。

 そうした初期キリスト教の聖堂建築およびその信者の住む集落が、シリアに数百も作られ、それらは廃墟となって残っている。特にカラト・セマーンの聖シメオン聖堂やカルブ・ロゼの聖堂などは、11〜12世紀のヨーロッパで発展するロマネスク建築と非常によく似ており、アルメニアの建築とともに、ロマネスクの源流のひとつと見なされている。しかしキリスト教が東西に分裂すると、東方であるシリアのキリスト教建築は、ビザンティン建築に分類されることになる。

ウマイヤのモスク
ウマイヤのモスク

 7世紀にはアラビアで 預言者ムハンマドによるイスラーム教が生まれ、シリアも たちまちのうちに その支配下に置かれる。ムハンマドの死後、その直接の後継者による「正統カリフ(ハリーファ)」時代(632−661)に ペルシア、シリア、エジプトを征服して「アラブ帝国」となるが、ウマイヤ家が政権を握ると、シリアのダマスクスを首都とする ウマイヤ朝を建てた。
 これ以後ダマスクスは 中東のイスラーム文明の中でも重要な拠点であり続けたので、歴史上最初の本格的なモスク建築である『ウマイヤのモスク』を始めとして、多くのイスラーム建築を今に伝えている。そこには 東ローマ帝国の首都であったコンスタンチノープルの、モザイク装飾に代表されるビザンティン美術の影響が、色濃く残っている。

 ヨーロッパのロマネスクの時代に、突如、十字軍がシリアに来襲し、イェルサレム・ラテン王国を建国して植民した。各地の城塞や聖堂、修道院は そのロマネスク様式で建てられた。最も保存のよいヨーロッパ中世の城塞としての、クラック・デ・シュヴァリエの城は、地中海を見はるかすシリアの山上にある。城内の建物はたえず手をいれられたから、13世紀の増築部分はゴチック様式である。
 その十字軍を打ち破ったのが、アイユーブ朝を創始したサラーフ・アッディーンである。彼は勇敢な武人であるだけでなく、英明にして公正な君主として、敵方のヨーロッパ人からもサラディンと呼ばれて尊敬された。アイユーブ朝時代の建築作品は、特にシリア第二の都、アレッポに多い。

 しかし このあとシリアは独立国家として立つことができず、13世紀からはエジプトのマムルーク朝に、15世紀からはトルコのオスマン朝に支配された。したがって建築的にも、マムルーク朝時代のものはエジプト的であり、オスマン朝時代のものはトルコ的である。オスマン朝の最大の建築家(ミマル)シナンの作品も ダマスクスに残っている。

 このように シリアの建築は 絶えず周囲の文明の影響のもとに 有為転変をとげた。しかし、それらを通して見ると、表面の種々な様式の奥に、一貫した「シリア建築」の存在が認められる。それは、何よりも石造技術の見事さである。必ずしも規模は大きくなくとも、隅々まで貫徹した石造建築の繊細なディテールで造られた精緻な建築だと言えるだろう。

(2012 /09/ 02)




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フェニキアの建築

アムリトの遺跡 AMRIT

メルカルト神殿址 Al Melqart Temple, 6th c. BCE

アムリト  アムリト

紀元前15世紀ころから地中海の東岸(シリア西部からレバノン)にフェニキア人が都市国家を形成した。アムリトはその宗教センターで、アケメネス朝ペルシアの建築の影響を強く受けた神殿などの遺跡がある。アレクサンドロス大王が前 330年に訪れた時には まだ神殿として機能していたという。メルカルト神はギリシア時代にはヘラクレスと同一化されていたが、ローマ時代までには アムリトは放棄された。


ヘレニズムの建築(ローマ時代)

パルミュラの遺跡 PALMYRA

列柱街路野外劇場  Colonnaded Street
& Amphitheater, 1st−3rd c.
 

パルミュラ  パルミュラ

パルミュラ  パルミュラ

パルミュラの町はシリア砂漠の中央にあって、東西交易の隊商路の中継地として、前2世紀ころから繁栄した。インドのタール砂漠の中央にあって交易都市として栄えたジャイサルメルを思い起こさせるが、現在まで生き続けたジャイサルメルとちがって、はるかに古いパルミュラは ローマ帝国からも独立を保ったものの、後3世紀、パルミュラ王国の女王 ゼノビアの時代に、ローマに滅ぼされた。現在に残る壮大な都市遺跡はその頃のものである。現在は、古名の タドモルが地名になっている。保存と復原が進められてポンペイのような見ごたえのある古代都市遺跡となっていたが、2015年に IS(イスラム国)によって 重要なものの大半が 爆破・破壊されてしまった。



ベル大神殿
Temple of Bel, 1st c.

パルミュラ  パルミュラ

パルミュラ  パルミュラ

セム族の豊穣の神 ベルを祀った大神殿は、約 200m角の正方形の境内に建つ周柱式の神殿だが、三方の周柱は失われていた。主神ベルのほかにパルミュラの太陽神 ヤルヒボル Yarhibol、月神 アグリボル Aglibol を祀っている。
壮大な神殿だったが、2015年8月に「イスラム国」(IS)によって 爆破されてしまった。

平面図
平面図 (From "Monuments of Syria" by Ross Burns, 1992)




バール・シャミン神殿
Temple of Baalshamin, 132

パルミュラ  パルミュラ

小規模だが密度の高い バールシャミン神殿。創建は紀元17年に遡るが、全体としてはハドリアヌス帝が訪ねた直後の132年の建設という。規模といい単室型平面の形式といい、全面ポーチといい、インドのサーンチーやティガワーの初期石造神殿(5世紀)とよく似ている。バールシャミンはセム人の雨と豊穣の神。5世紀にキリスト教聖堂に転用されたので、破壊されずに済んだが、内部は聖堂用に作り変えられた。

平面図
特異なプラン (From "Syrie" by Gerard Degeorge, 1983)




塔墓と地下墳墓
Tower tombs of Jamblichus & Elahbel, 1-2nd c.

パルミュラ  パルミュラ

パルミュラの町の西方には「墓の谷」 (Valley of Toms) と呼ばれるネクロポリスがあり、数十の塔墓や 地下墳墓が散在している。 20世紀に修復されて保存のよいのは、ヤンブリク(イアムリク)家の塔墓と エラーベルの塔墓。内部は1〜5層になっていて、1階がメインの墓室、上階にも遺体群を収容した。屋根は無い。「三兄弟の地下墓室」にはフレスコ画が残っている。


アパメアの遺跡 APAMEAA

列柱街路(カルド) Cardo, 2nd c.

アパメア  アパメア

アパメアは、ギリシア・ローマ都市の基本形をよく示している。都市(ポリス)を南北に一直線に貫く壮大な列柱街路(メイン・ストリート)があり、これを「カルド」という。これと直交する数本の東西街路は「デクマノス」と呼ばれる。都心には公共広場(アゴラ)があり、丘(アクロポリス)の上に城塞(シタデル)、丘の下に野外劇場(テアトロン)がある。
アパメアでは、撮影を始めて間もなく 気分が悪くなってダウンしてしまったので、十分に撮影ができなかった。

アパメア
アパメアの都市図(ウィキペディアの図版に加工)



ボスラの遺跡 BOSLA

野外劇場  Amphitheater, 2nd c.

ボスラ

ボスラ  ボスラ

ボスラには、最も保存のよい、完全な形の大規模なローマ劇場が残る。



市門と城塞  City gate & citadel, 2nd c.,14th c.

ボスラ  ボスラ

ペトラ(現・ヨルダン)を首都とする ナバタイ王国の 北の都 ボスラは、現在のヨルダンとの国境の近くにあり、ローマ時代からイスラム時代まで多くの建物の遺構があるが、野外劇場以外はあまり保存がよくない。
「風の門 」(Bab al-Hama) と呼ばれる西門は最も保存のよい市門である。
城塞(シタデル)はアラブ時代のものであるが、実はこれは、アイユーブ朝の13世紀初めに 十字軍に対する備えとして、上掲の野外劇場を囲むようにして建てられた。外周には濠がめぐっている。城塞建物の一部が、現在は民俗博物館として用いられている。

ボスラ
ボスラの劇場を囲む城塞 平面図
(From "Monuments of Syria" by Ross Burns, 1992)


初期キリスト教の建築(ビザンティン)

カラト・セマーン QALAAT SEMAAN

聖シメオン修道院址 Saint Simeon's Monastery, 5th c.

聖シメオン

聖シメオン  聖シメオン

ローマ帝国がキリスト教を公認するのは 313年のミラノ勅令であって、最初期のキリスト教建築は シリア・パレスチナや コンスタンチノープルに建てられた。 これは5世紀のシリアの柱頭行者 聖シメオンの死後に、その独立柱を囲むようにして建てられたキリスト教の聖堂である。
詳しくは、『イスラーム建築の名作』のサイトの 「カラト・セマーンの 聖シメオン聖堂」のページを参照。そこで用いた写真とは別のものを ここに掲載しておいた。

聖シメオン  聖シメオン



カルブ・ロゼ QALB LOZEH

聖堂(バシリカ) Basilical Church, 5-6th c.

カルブ・ロゼ

カルブ・ロゼ  カルブ・ロゼ

アレッポの西方、カルブ・ロゼは 前項の 聖シメオン聖堂よりもはるかに人里離れた印象の、ロシアのイコンの背景に描かれるような荒涼とした岩山が延々と続く先にある。聖堂は 聖シメオンと同じく、これより6世紀も後のヨーロッパのロマネスク様式を先取りしている。ファサードと、主身廊の天井は木造だったので当然だが、石造のファサードが失われたことは惜しまれる。


キルク・ビゼ KIRK BIZEH

町と聖堂の遺跡  Christian Town and Church, 4-6th c.

キルク・ビザ  キルク・ビザ

アレッポの西方の丘陵地帯には、いくつもの初期キリスト教時代の都邑と聖堂の遺構がある。概ね4世紀から6世紀のもので、土や木の町は消滅してしまうが、石の町は廃墟となって残る。キルク・ビゼは前項のカルブ・ロゼ聖堂の北1kmぐらいの丘上にあり、多くの建物が残骸に近い形で残っている。どれが何の建物なのかも判然としないが、1200~1300年前の、灰色になった石だけで構成された集落には、一種神秘的な趣がただよっている。こうした町や聖堂の廃墟となった遺跡が、イグナツィオ・ペーニャの本には たくさん収録されている。


ルサファ RUSAFA

聖セルギオス聖堂と、北の市門
Basilical Church of St Sergius, 559

ルサファ  ルサファ

ルサファは、ローマ帝国がササン朝ペルシアと戦うための最前線の町だった。ルサファの古名 セルギオポリスが示すように、聖セルギオスを祀る聖地でもあり、聖セルギオス聖堂は多くの巡礼者を集めた。セルギオスは305年にローマ皇帝ディオクレティアヌスの迫害されて殉教した。キリスト教公認後に聖地となり、その聖域は城塞のように広く城壁で囲まれ、ローマの駐屯地ともなった。31m×20mのバシリカ型大聖堂は、おそらく5世紀に建てられ始め、6世紀に現在の規模となり、559年に献堂された。大理石で建てられていて、今でも白い雲母片がキラキラ輝いている。失われた屋根は木造だったろう。

ルサファ

聖域を囲む市壁の北門は コリント式の円柱や装飾的なアーチ列で飾られ、小規模ながら実に豪華な門となっている。まわりが廃墟なのに、なぜこの門だけがこれほどよく残ったのだろうか? ほとんど再建ということか?


カスル・ブン・ワルダン QASR IBN WARDAN

宮殿と聖堂 Church & Palace, 6th c.

カスル・ブン・ワルダン

カスル・ブン・ワルダン  カスル・ブン・ワルダン

アレッポの南方約 100kmの地にあるカスル・ブン・ワルダンの遺跡は、ビザンティン聖堂と宮殿と兵舎からなる。聖堂はバシリカ式だが、かつては高さ 20mのドーム屋根が架かっていた。レンガの層と黒っぽい玄武岩の層が 幅の広いストライプをなす外観が印象的である。


初期イスラームの建築(ウマイヤ朝)

ダマスクス DAMASCUS

ウマイヤのモスク Umayyad Mosque, 706−15

ウマイヤのモスク  ウマイヤのモスク

ウマイヤのモスク  ウマイヤのモスク

ウマイヤのモスク  ウマイヤのモスク

7世紀にアラビアでイスラームが誕生すると、たちまちのうちにエジプトからイランまで征服し、アラブ帝国となった。661年に始められた 最初のイスラーム王朝である ウマイヤ朝は、シリアの ダマスクスを首都とし、ここに最初のイスラーム建築というべき「ウマイヤのモスク」を建てた。
詳しくは、『イスラーム建築の名作』のサイトの「ウマイヤのモスク」を 参照。そこで用いた写真とは別のものを ここに掲載しておいた。

平面図

平面図 (From "Damascus" by Gérard Degeorge, 2004, Flammarion)



アレッポ ALEPPO

大モスク(ジャーミ・アル・カビール) Great Mosque, 715

アレッポ  アレッポ

このモスクは 上掲のダマスクスの大モスクと同じく、ウマイヤ朝の ワリード1世(674-715)が建立した 最初期のモスクである。プランも似ていて、大きな中庭をとり、礼拝室は南側(マッカ側)にいっぱいに寄せて きわめて横長のものとした。ミナレットは 1本だけで、現在のものは 後のセルジューク朝時代のものである。大モスクには、ダマスクスと違って モザイク装飾がない。

アレッポ
平面図 (From "Monuments of Syria" by Ross Burns, 1992)



ボスラ BOSRA

ウマル2世のモスク Mosque of Umar II, 720-1

ボスラ  ボスラ

シリアを征服したウマイヤ朝のウマル2世(717-720)が創建し、次のハリーファ、ヤジード2世(720-724)が完成させた、イスラーム 最初期のモスク。 しかしモザイク装飾はなく、質実剛健なモスクである。現在、中庭に鉄骨屋根が架けられているのは、修復中ではなく、中庭をも屋内の礼拝スペースにしているためらしい。


カスルアルハイルアッシャルキーアルガルビー
QASR al-HAYR al-SHARQI & al-GHARBI

東と西のハイル宮殿
Al-Hayr Palace East & West, 728/9

アルハイル  アルハイル

ヨルダンのカスル・アル・ハラーナなどと並ぶ砂漠の城館、パルミュラの東方と西方に、東のハイル宮殿と西のハイル宮殿がある。東のハイル宮殿の平面図からわかるように、ローマの城塞建築を模した本格的な防御設備を整えていた。全体を 櫓つきの高い城壁で囲い、広い中庭を擁している。(筆者未訪のため、ジェラール・ドゥジョルジュの写真を借用)

アルハイル
平面図 (From "The Umayyads" Museum with no Frontiers, 2000)



ラッカ RAQQA

市壁とバグダード門 Walls and Gate, 8-10世紀

ラッカ  ラッカ

ラッカは 772年頃 アッバース朝初期のハリーファ、マンスールによって市壁で囲まれた。現在はその一部と門のみが残る。レンガ造で、門のアーチの上階を多くの盲らアーチが装飾している。筆者の訪問時には市壁が大々的に修復中で、撮影できなかった。2014年以降の「イスラム国」の全盛時代には、この町を首都としていた。


十字軍時代のロマネスク建築(ラテン王国)

クラック・デ・シュヴァリエ KRAK DES CHEVALIERS

十字軍の城塞
Crusader's Castle, 1170−1250

クラック・デ・シュヴァリエ  クラック・デ・シュヴァリエ

クラック・デ・シュヴァリエ  クラック・デ・シュヴァリエ

十字軍は、第1回が 1095年、最後の第 8回が 1270年で、シリア・パレスチナを侵略して、イェルサレム・ラテン王国(1099-1291)などを築いて植民した。ヨーロッパにはロマネスク時代(11−12世紀)の城郭が残っていないのに、シリアには十字軍の城として、いくつも残存している。その中で最も保存の良いのが、このクラック・デ・シュヴァリエの城塞で、西洋建築史の本では、中世の城郭建築として、常にこの城塞の写真が載せられる。 クラック・デ・シュヴァリエとは「騎士たちの城」の意。


タルトゥス TARTUS (TORTOSA)

カテドラル
Cathedral (Notre-Dame de Tortose) 12th−13th c.

タルトゥス

タルトゥス  タルトゥス

十字軍によって創設されたラテン王国は、イェルサレムをはじめとする シリア・パレスチナ各地に聖堂、カテドラル、修道院を、当時のヨーロッパにおける建築様式であるロマネスク(後期にはゴチック)様式で建てた。タルトゥス(トルトーザ)のカテドラルは 外観は城郭的であるが、内部は完全なロマネスク聖堂である。1851年にモスクに転用されたが、現在は アムリトの発掘品などの 博物館として用いられている。


アイユーブ朝のイスラーム建築

アレッポ  ALEPPO

城塞の門楼
Monumental Gateway of the Citadel, 13th c.

アレッポ城塞  アレッポ城塞

アレッポ城塞  アレッポ城塞

スンナ派の サラーフ・アッデイーン(サラディン)が打ち建てた アイユーブ朝(1169−1250)は、十字軍を破ってイェルサレムを奪回し、エジプト、シリアに繁栄をもたらした。十字軍の城に対抗する 最も有名なイスラームの城が、このアレッポの城塞である。アレッポの町の中央に古代から存在する丘に城塞を築き、丘の周囲を濠で囲み、ただ一か所の入り口としての橋に 大規模な門楼を建てて、城を守った。中世の軍事建築の 最高傑作といえよう。1209年に創建され、1292年に再建された。

アレッポ城塞
平面図(アンリ・スチールラン『イスラムの建築文化』 1987 より



フィルダウス学院
Firdaus Madrasa, 1233

フィルダウス学院

フィルダウス学院  フィルダウス学院

フィルダウス学院(楽園のマドラサ)という名前にしては、アレッポの他のマドラサと同様、外観および中庭まわりには ほとんど装飾がなく、緑もない。しかし その石造技術は実に見事で、ヨーロッパのシトー会の修道院建築を思わせる。スルタン・ガージーの未亡人の ダイファ・ハートゥーンが寄進した。正面ファサードに大きなイーワーンがあり、それと背中合わせの もう一つのイーワーンが中庭に開いているという、不思議なプランをしている。

フィルダウス学院
平面図 (From "Syrie" by Gerard Degeorge, 1983)



ダマスクス  DAMASCUS

ヌール・アッディーン廟と病院
Maristan and Mausoleum of Nur al-Din, 1154, 1172

ヌール・アッディーン  ヌール・アッディーン  ヌール・アッディーン

厳密に言うと、これはアイユーブ朝の建物ではなく、セルジューク朝の王子の後見人であるアタベク王朝の一つで、ヌール・アッディーンが建てたザンギー朝(1127−1251)の建物。シリアのザンギー朝は、サラーフ・アッディーンの没後に アイユーブ朝に併合された。このマリスタン(病院)は1154年にヌール・アッディーンによって設立され、今はアラブ医療・科学史博物館に用いられている。病院と廟の二つの塔が目を引くが、これは塔ではなく、ムカルナス天井の外形である。細かな彫刻を施さずに幾何学形態だけで構成しているのが珍しい。プランは、大きな水盤のある中庭を諸室とイーワーンが囲む 典型的な四イーワーン型。
ヌール・アッディーンの廟とマドラサは1172年

マムルーク朝時代のイスラーム建築

アレッポ ALEPPO

アルグンのビマリスタン Arghun Bimaristan, 1354

ビマリスタン

ビマリスタン  ビマリスタン

歴史上、白人奴隷出身の軍人が政権をとった王朝は 二つある。デリーを首都とした インドの奴隷王朝(1206-90)と、カイロを首都とした エジプトのマムルーク(奴隷)朝(1250-1571)である。アイユーブ朝を倒したマムルーク朝は カイロの絶頂期を築き、マッカ、マディーナを含む アラビア東部から シリアまで支配した。
ビマリスタン(ビーマーリスターン、略して マリスタン)とは病院だが、ここでは癲狂院(精神病院)のことで、イスラーム世界における病院建築がヨーロッパよりもずっと進んでいたことを示している。特に精神病院はイスラーム世界各地に数多く設けられた。奥の、小中庭を囲む独房型クラスターが癲狂院。

ビマリスタン
平面図 (From "Syrie" by Gerard Degeorge, 1983)


オスマン朝時代のイスラーム建築

ダマスクス DAMASCUS

スレイマンのテッケとセリミエ学院
Tekkiye Mosque & Madrasa, 1554, 1566

スレイマンのテッケ  スレイマンのテッケ

スレイマンのテッケ  セリミエ学院

アナトリアを支配した トルコのオスマン朝は、ついに1453年にコンスタンティノープル(現 イスタンブル)を陥落させて東ローマ帝国を滅ぼし、東欧からシリア、エジプト、アラビアにまで版図を拡大して 大帝国となった。
その最盛期のスレイマン大帝に仕えたトルコ最大の建築家 シナンは、シリアにも作品を残した。ダマスクスのテッケ(テキーイェ)がそれだが、東側に隣接するマドラサは、その 10年後に別の建築家によって建てられた。テッケというのはスーフィーの修道場で、このテッケのように、しばしば救貧所を兼ねる。


アレッポ ALEPPO

バフラミーヤ・モスク Bahulamiya Mosque, 1583

バフラミーヤ・モスク  バフラミーヤ・モスク

アレッポの知事だったバフラーム・パシャが建立した、アレッポ最後の大きなモスクで、上記のシナンの作品もそうだが、オスマン朝支配時代のシリアの建築は、白、黒、黄土色の石によるストライプ模様の外観を原則とするようになった。


アル・ワジールのキャラバンサライ Khan al-Wazir, 17th c.

アル・ワジール

アレッポは商業都市だったので、多くのキャラバンサライがあり、トルコと同様 ハーン (Khan) と呼ばれる。都市のハーンは隊商の出発地であり、最終地点であったから、主用途は宿泊よりも輸送してきた物資の売買取引であった。商品とともに ラクダや馬、ロバをつなぐ広い中庭があり、それを囲む建物の2階、3階には小割の事務所と宿泊室が並んでいた。中庭の中央には小モスクがあった。


ダマスクス DAMASCUS

カイマリーイェ・モスク Qaimariye Mosque, 1743

モスク  モスク

ウマイヤ・モスクの東門からカイマリーイェ道路を150mほど行ったところにあるのが カイマリーイェ・モスクで、壁もアーチもドームもすべて 黒、クリーム、黄土色の3色の石のストライプで建てられているのが目を引く。こうした石のストライプは近世のシリア建築の特色であるが、このモスクは特に鮮やかで目を引く。 オスマン時代の1743年に ファトヒ・エフェンディが建立したので、ファトヒ・モスク とも呼ばれる。 単室型モスクに中庭とミナレットを付したもので、仕上げを別にすれば、基本的にはオスマン型モスクである。このあたりをカイマリーイェ地区といって、同じ名を冠したマドラサとハンマームもある。


アゼム宮殿  Azem Palace, 1749−52

アゼム宮殿  アゼム宮殿

アゼム宮殿

ハマーにも、やや小規模ながら同名の宮殿があり、どちらもオスマン朝のダマスクス総督、アッサード・パシャ・アル・アゼムが建てたもの。現在は民俗博物館に転用されている。1930年代に2度 修築が行われた。イスタンブルのトプカプ宮殿と同じく、豪壮なものというよりは、小さなスケールの住宅的に造られている。


ハーン・アッサード・パシャ Khan Assad Pasha, c.1750

ハーン

ハーン  ハーン

上掲宮殿と同じく、ダマスクスの太守 アッサード・パシャ・アル・アゼムが建てたキャラバンサライ(隊商宿)。キャラバンサライはアラビア語やトルコ語ではハーンという。街道沿いのサライは主に宿泊施設だが、都市にあるのはその最終地で、キャラバンが運んできた商品をそこで売却するための商談・取引をする商業施設でもある。このハーンは、通常の中庭に9つの大ドーム屋根をかけて壮大な内部空間とした 豪壮なものである。

ハーン
平面図 (From "Architecture of the Islamic World" by George Michell (ed), 1978)



アレッポ ALEPPO

ハンマーム・アン・ナーシル Hammam al-Nasil, 14th c.

ハンマーム

ハンマーム  ハンマーム

シリアには、今も使われている 古いハンマーム(公衆浴場)が諸所にある。ハンマーム・ヤルブガーとも呼ばれる このハンマームの創建は 14世紀だが、20世紀に工場として用いられて かなり荒廃していたのを、1985年に修復工事を始めた。すっかりもとの姿を回復した シリア最大のハンマームは、実際に公衆浴場として使われているので、観光客も 入浴することができる。私も撮影を済ませた後、特別浴客として一人ではいり、湯夫に洗ってもらった。


アルメニア人地区の住居
Traditional Houses in Armenian quarter, 17th−18th c.
住居  住居

住居  住居

アレッポの城塞の北部にはキリスト教徒地区があり、200年以上前からの伝統的な中庭住居(バイト)を、アルメニア人が守り住んできた。いずれも邸宅であるが、さらに規模の大きなものは 学校や博物館に転用されている。



シリア建築を知るための本

● 専門家も一般の人も楽しめる、シリア建築のヴィジュアルな本を紹介しておきます。



シリアの建築

SYRIE, Art Histoire Architecture
(シリアの美術・歴史・建築)

Written and photographed by Gerard Degeorge, 1983, Hermann, Paris, 29cm-260pp.
フランスの建築家 ジェラール・ドゥジョルジュが、シリアの美術と建築の歴史を、シュメール文明からイスラーム時代まで、著者自身の撮影による豊富なカラー写真と、少なめだが図面を添えて叙述する。主要な建築作品は だいたい登場するので、シリア建築史の概略を知るのに 打って付けの本。 本文仏文。


シリアのビザンティン

THE CHRISTIAN ART OF BYZANTINE SYRIA
(シリアのビザンティン・キリスト教美術)

Written and photographed by Ignacio Pena, Translated by Eileen Brophy, 1997, Garnet Publishing, 31cm-256pp.  シリアのキリスト教建築は通常 ビザンティン様式に分類されるが、この本で扱われるのは 初期キリスト教時代の遺跡であって、後のギリシア正教の建築様式のものは、シリアには ほとんど無い。これは 知られざるシリア各地の古代キリスト教聖堂の遺跡を扱う大型本で、著者自身の撮影になる多数のカラー写真を載せる。イグナツィオ・ペーニャによる スペイン語の原著からの英訳版。著者の写真の腕は いまいちだが、類書がないので貴重。


聖地のロマネスク

TERRE SAINTE ROMANE (聖地のロマネスク美術)

Written by Paul Deschampt, 1964, Zodiaque, L'Abbeye Sainte-Marie de la Piere-Qui-Vire, Yonne, 22cm-328pp. ヨーロッパのロマネスク美術を網羅する、フランス・ゾディアック出版所の『ラ・ニュイ・デ・タン叢書』の一冊で、十字軍時代の シリアやイスラエルのロマネスク(城塞と教会堂)を扱う特別版。テール・サント(Terre Sainte)とは、英語ではホーリー・ランド(Holy Land)で、キリスト教が生まれた「聖地」つまり、現在のパレスチナを含むシリア地方を指す。中型本で、カラー写真はわずかだが、豊富なモノクロ写真は、当時まだ可能だった グラヴュール印刷が素晴らしい。 本文仏文。


ダマスクス

DAMASCUS (ダマスクス)

Written and photographed by Gerard Degeorge, translated by David Radzinowicz, 2004, Flammarion, Paris, 32cm-320pp.  上記『シリアの美術・歴史・建築』の著者で、長くシリア建築の研究をしてきた建築家 ジェラール・ドゥジョルジュが、首都 ダマスクスの歴史と建築(ほとんどが イスラーム建築)について書いた 新しい本の英訳版。オールカラーの豪華本で、著者自身による写真も素晴らしい。


アレッポ

ALEP (アレッポ)

Written by Jean-Claude David & photographed by Gerard Degeorge, 2002, Flammarion, Paris, 32cm-320pp.  前掲書の姉妹編で、シリア第2の都 アレッポの建築(ほとんどが イスラーム建築)を扱う豪華本だが、ドゥジョルジュは写真のみで、テキストは ジャン・クロード・ダヴィッドによる仏文(英訳版は出ていない)。オールカラーの写真に、図面も多く載せている。


シリア建築案内

MONUMENTS OF SYRIA, An Historical Guide
(シリア建築案内)

Written by Ross Burns, 1992, New York University Press, New York, 25cm-320pp.
この本だけ、ヴィジュアルな本ではなく、写真はまったくない。その代り、重要な遺跡には すべて地図や図面が添えられていて、シリアじゅうの遺跡・建築を、地名のアルファベット順に 細大もらさず配列して 解説を加えている。「シリア建築辞典」とも言うべき、非常に便利な本。 単一の著者による労作である。初版は高価だったが、その後よく売れて廉価版になった(ジャケットのタイトルを白抜き文字にして区別)。

(2012 /09/ 02)


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