ヨルダンの建築
ARCHITECTURE of JORDAN


第2章

ヨルダンの建築
(含・ヨルダン川西岸地区)
神谷武夫

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 「ヨルダンの建築」は『世界建築ギャラリー』のテリトリーから、今回 新しく設けた『中東の建築』のテリトリーに 移すことにしました。そして「パレスチナ国」(ヨルダン川西岸地区およびガザ地区)をここに含めます。といっても ガザ地区には建築的に見るべきものはないので、そのかわりに、この地域への建築的理解のために、イスラエル領である カファルナウム(カペルナウム)とラムラを <参考> として加えました。しかし メインは 何といっても、ユダヤ教、キリスト教、 イスラームにとっての共通の「聖都」であるイェルサレムです。
 パレスチナとは「大シリア」の南部地域の総称でしたが、1948年にイスラエルが建国されて以来、ユダヤ人と区別して、パレスチナ在住のアラブ人を「パレスチナ人」と呼ぶようになり、その居住区もイスラエルから区別して「パレスチナ地方」と呼ぶようになりました。4回にわたる中東戦争を経て、政治的に独立した「パレスチナ自治区」ができ、1988年には 国家としての独立宣言を行いました。東イェルサレムを首都としていますが、イスラエルがイェルサレム全体を実行支配しているので、イェルサレムの北10kmにあるラーマッラーを 暫定首都にしています。大多数の国は この「パレスチナ国 (the State of Palestine)」を承認していて、イスラエルへの大使館は、地中海に面した テルアヴィヴをイスラエルの首都とみなして、そこに置いています。日本政府は「将来の承認を予定した パレスチナ自治政府」として扱っていて、外交関係を結んでいます。イェルサレムをイスラエルの首都とは認めていません。
 ところが2018年になって、 アメリカのトランプ大統領が 突然、イェルサレムをイスラエルの首都だと宣言し、テルアビブから大使館を移したので、新たな混乱の火種を作りました。このサイトで ヨルダンの章にパレスチナ国を併せ、イェルサレム全体をも加えたのは、トランプへの 抗議 の意味もあります。(「博物館都市」イェルサレムを加えたことによって、ユダヤ建築とキリスト教建築が増えたので、この章におけるイスラーム建築の比率は やや減少しましたが)

(2018 /12/ 01)




「イスラム国」と ヨルダン

 「イスラム国」の人質となった後藤健二と湯川遥菜の両氏は日本政府から見殺しにされ、2015年1月24日と31日に殺害された。この一連の事件報道で、ヨルダンという、それまで多くの日本人はその存在すら知らなかった国に、その視線を釘づけにされた。
 今から2年半前の 2012年には、日本の女性ジャーナリスト 山本美香さんが シリアのアレッポで戦闘に巻き込まれて死亡した時、シリアというのは 文化的には どういう国かを、 建築史の面から伝えた。(前章の「シリアの建築」) 今回の後藤・湯川事件についての 政治・外交問題については、『世に倦む日々』のブログ記事「後藤健二とNHKと外務省の真実」や「後藤健二とメールの謎をめぐる捏造と隠蔽」などを読んでもらうこととして、ここには 建築史の立場から、ヨルダンというのはどんな国かを、シリアの時と同じように、私が撮影してきた写真を用いて 歴史順に紹介しておこうと思う。

ヨルダンの建築
首都アンマンの市街地

 「シリアの建築」に書いたように、中東の、地中海の東部地域は 古来 シリアと呼ばれてきた。そこには 現在のシリア共和国だけでなく、レバノン、パレスチナ、イスラエル、ヨルダン、(ときにはトルコ南部まで)含まれるので、その歴史上のエリアを 現在のシリア共和国と区別して、「大シリア」と呼んだりもする。ヨルダンは 文化的には(建築的には)シリアと連続している地域なので、ローマ時代から近代までの建築史的変遷過程は、シリアと ほとんど全く同じである。
 ヨルダンという国名は『聖書』の時代から広く知られるヨルダン川に由来し、国土の、川に沿った西半分が農業も行われる豊かな地で、東半分の内陸部は、大部分が砂漠である。イェルサレムやイェリコを含むヨルダン川西岸地区は、かつてはヨルダン領であったが (1950-67)、第三次中東戦争によってイスラエルに占領された。1993年にパレスチナ暫定自治区となり、2011年に「パレスチナ国」として国連に加盟申請した。現在、国連および多くの国から国、あるいは準国家として認められているが、イスラエルとの紛争は絶えない。

ヨルダンの建築
ヨルダンとパレスチナの 建築地図

歴史上のヨルダンの建築

 ヨルダンの建築的遺産は、ローマ時代のジェラシュや ヘレニズムのペトラをはじめとして、多くが西半分にあるが、初期イスラームのウマイヤ朝時代の「砂漠の城館」と呼ばれる一連の建物が、砂漠地域の諸所に残っていて、「イスラーム建築」のスタイルが成立する以前の、最初期のイスラーム建築として、「イスラーム建築史」では必ず言及される建物群である(シリアのパルミュラから遠からぬ地にも「東のハイル宮殿(カスル・アルハイル・アッシャルキー)」と「西のハイル宮殿(カスル・アルハイル・アルガルビー)」がある)。

 ヨルダンの建築で最も人を驚かせるのは、ペトラの遺跡だろう。岩山の裂け目のような、スィークと呼ばれる狭い通路を1キロメートル以上歩いていくと、突然ヘレニズムの神殿建築のような巨大な建物が、それも石を積んだのではなく、インドの石窟寺院や石彫寺院のように岩壁を彫刻した姿で現れるのには、度胆を抜かれる。さらに歩いて廃都の中央に出れば、周囲の岩山には無数の石窟墓が彫刻されていて、初めてインドのアジャンターやエローラーを訪れた時のように 興奮したものである。
 中世、近世の建築としては、シリアにおける ダマスクスやアレッポのような「博物館都市」がないので、ピックアップすべきモニュメントも少なく、いささか物足りないが、現代建築では エジプトのハッサン・ファティの後継者と見なされる建築家のラセム・バドランが活躍しているので、シリアよりも欧米から注目されている。

(2015 /03/ 01)

聖都 イェルサレム

 ヨルダン王国には「博物館都市」がないので、建築的にはいささか物足りないと3年前に上記したが、今回、超の字がつく「博物館都市」イェルサレムをヨルダンに加えることになったので、古代も 中世も 現代も 一気に充実した。イスラームとキリスト教とユダヤ教が複雑にからみあう史跡、建築の扱いに苦労したほどである。
 歴史上「大シリア」の南半分は「パレスチナ」と呼ばれ、ムスリム、ユダヤ人、キリスト教徒が平和共存してきた。ナチスによって迫害・殺戮されたユダヤ人のことを想うとき、第2次大戦後ここに、離散の民・ユダヤ人のための新生国家「イスラエル」が建国されたことに 祝福の気持ちがないではないが、次はそのイスラエル人自身がパレスチナ人を抑圧するようになり、「共存」が「闘争」へと変わったのは不幸なことである。大元の原因が 欧米列強の帝国主義と植民地獲得競争にあったのは 南アジアやアフリカ、南アメリカにおけるのと同じであるが、「パレスチナ問題」は数度にわたる「中東戦争」を引き起こした。軍事的には、アメリカの援助を受けたイスラエルが圧倒的な勝利を得たが、道徳的には世界を戸惑わせた。

ヨルダンの建築
イェルサレムの旧市街

 聖都イェルサレムは 4,000年とも5,000 年ともいわれる歴史を閲(けみ)し、現在は人口約100万の大都市である(といっても 東京都世田谷区の2倍くらいの面積)。建築的に見るべきものは、市壁で囲まれた「旧市街」に集中しているが、それは 19世紀半ばまでの市街全体で、面積的には ごく小さく(外苑を含めない皇居の敷地面積の約8割)、旧市街の西側に広がる 現在の大きな市街がユダヤ人地区で、東側がアラブ人地区(パレスチナ国の名目的首都)である。現代建築は もっぱら西側にある。
 イェルサレムの語源はアラビア語の「アッサラーム al-Salam」で、平和を意味するサラームに、定冠詞アル(エル)がついたもので、アラビア語の挨拶「アッサラーム・アレイクム」とは「あなたの上に平安あれかし」という意味である(ヘブライ語では「シャローム」)。しかしこの都市が平和だった時代はあまり多くなく、占領や破壊、紛争に明け暮れてきたと言える。

 都市の起源は、紀元前30世紀頃にカナンと呼ばれていた土地にできた セム系民族の集落という。前1000年頃にヘブライ王国が成立し、第2代の王 ダヴィデが最盛期を築いて 都にしたので、今でもイスラエル人は イェルサレムを「ダヴィデ王の都 (City of David)」と言うことが多い。3代目のソロモンが モリアの丘に神殿(第一神殿)を築いたので、この都市の建築史は ソロモンの神殿と切り離しがたい。この「神殿の丘 (Templ Mount)」に 後の「第二神殿」(ヘロデ神殿)が建てられ、さらにはムハンマドがマッカから「夜の旅」をしたという場所にアクサー・モスク (Masjid al-Aqsa) が、また「旧約聖書」の預言者アブラハムが 息子イサクを犠牲に捧げようとした岩、後にムハンマドがここから天馬ブラークに乗って昇天した (Miraj) と伝えられる聖なる岩の上に、イスラームのモニュメント「岩のドーム (Dome of the Rock)」が建てられた。一方 市内にはキリストが磔刑にされたゴルゴタの丘があり、「聖墳墓聖堂 (Church of the Holy Sepulchre)」が建てられ、これまた破壊、奪還、再建、諸宗派の闘争の場となる。その他、三宗教の聖跡や記念建造物は 枚挙にいとまがない。旧市街の建築地図は、「イェルサレムの市壁、城塞、市門」のところに載せてある。


 なお ヨルダンのページでは、スコットランドの画家、デイヴィド・ロバーツ (1796-1864) の『聖地(ホーリー・ランド)画集』の絵を諸所に転載させてもらった。その画集というのは、"The Holy Land, Syria, Idumea, Arabia, Egypt & Nubia” で、ロバーツが1838年から40年にかけてシリア、パレスチナ、アラビア、エジプトを旅して描きためたスケッチをもとに 水彩画を作成し、それを石版画(リトグラフ)にした画集で、長辺が63cmもある大型3巻本である。1842年から49年にかけてロンドンのF・G・ムーン社から出版された。のちに縮小印刷・復刻版は何種か出ているが、筆者所有のものは、"THE HOLY LAND" 123 Colored Facsimile Lithographs and The Journal from his visit to The Holy Land, 1982, Wellfleet Press, New York, 34cm-360pp. である。

(2018 /12/ 01)



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ローマ帝国の建築


ジェラシュ(ゲラサ) JERASH (Gerasa)

都市遺跡 Remains of the city

ジェラシュの谷あいは太古の時代から人が住んでいたようであるが、ローマ帝国のトラヤヌス帝(在 98-117)の時代に(パクス・ロマーナ)寒村から都市へと発展し、多くの公共施設が建設された。シリア南部のデカポリス(十都市同盟)のうちの一つ。古名はゲラサ。8世紀半ばに大地震で大きな被害を受け、以後、都市は衰亡した。長く忘れ去られていたが、1923年から 34年にかけてアメリカ隊によって発掘され、有数のローマ都市としての全貌が明らかになった。



フォルム(広場)と カルド(列柱街路)
Forum and Cardo, 3rd c.

ヨルダンの建築

ジェラシュ  ジェラシュ

都市の南部に楕円形をした大きな広場(フォルム)があり、イオニア式の柱頭をもつ壮大な列柱で囲まれていた。都市の広場はギリシアではアゴラといったが、ローマではフォルムと呼んだ。都市生活の中心であり、政治の場でもあり宗教的祭儀の場でもあった(公開討論の場を意味する英語のフォーラムは、これに由来する)。初期には自然発生的な不整形のものであったが、共和制末期から整形で荘厳なものになった。ここから都市の中心街路である「列柱街路」が、北へ長く伸びる。ローマ都市は2本の直交する大通りを基準に碁盤目状の都市計画がなされるのを常とし、その2本のメイン・ストリートを カルドとデクマヌスという。



ハドリアヌス帝の凱旋門と南の劇場
Hadrian's Triumphal Arch and Amphitheater, 1-2 c.
ヨルダンの建築  ジェラシュ

ハドリアヌスの凱旋門は市の南側にあり、まさに都市に凱旋するための門であった。市内の北と南に野外劇場があり、文化的にも成熟していたことを示す。南劇場は A.D 90年頃の建設とされ、約 5,000人の観客を収容した。



アルテミス神殿ニンファエウム
Artemis Temple and Nymphaeum, 2nd c.

ヨルダンの建築  ジェラシュ

女神アルテミスに献じられたローマ神殿。十字軍によって破壊されて 屋根はないが、12本のコリント式円柱が残る。
ニンファエウムというのは、泉の神・ニンフを祀る神殿のことだが、祭事よりは憩いの場とされたらしい。191年の建立とされ、アプスまわりが華やかに装飾されている。

ナバテア + ヘレニズムの建築


ペトラの遺跡 PETRA (Wadi Musa)

ペトラ遺跡は約2千年前に繁栄したナバテア王国の首都。現在の地名はワディ・ムーサー。106年にトラヤヌス帝のローマ帝国に併合されアラビア州の州都となった。2世紀から3世紀にかけて都市建設および無数の岩窟墓が造営された。363年の大地震以後 組積造の建物はほとんど失われてしまったが、岩窟墓は半壊しながらも多くが残り、インドに次いで、エチオピアと並ぶ石彫建築を伝える。1812年に再発見されてから主にイギリス隊が発掘調査をした。19世紀半ばにデイヴィド・ロバーツが訪れて描いた 『THE HOLY LAND(聖地)』 におけるペトラのリトグラフ(石版画)がヨーロッパ人を魅了した。



ファラオの宝庫(石彫建築)
Al Khazneh, 1st c. B.C.

ヨルダンの建築   ペトラ

ペトラ  ペトラ

ファラオの宝庫(アル・ハズネ)はナバテアの王・アレタス4世が紀元前1世紀に造営したという。遺跡全体の入口から、スィークと呼ばれる長さ1.2kmにおよぶ岩山の裂け目を歩いていくと、その終わりに突然この石彫建築が現れる。幅 28mに高さ 43mという大きさと合わせて、その劇的効果は抜群である。葬祭殿であったろうと言われている。

平面図  ペトラ



市街(石造建築) City Center, 1st c.

ヨルダンの建築  ペトラ

都市の中央部は岩山に囲まれた小盆地のような平地で、ここには列柱街路があり、かつてはこの周囲に多くの石造建物があった。

ヨルダンの建築  ペトラ



摩崖墓群(石彫建築)
Rock Carved Tombs, 1st c.

ヨルダンの建築  ペトラ

都市の中央部は岩山に囲まれた小盆地のような平地で、ここには列柱街路があり、かつてはこの周囲に多くの組積造の建物があった。床は大理石。

ヨルダンの建築   ペトラ   ペトラ



デイル(僧院)(石彫建築)
Al Deir (The Monastery), 1st c.

ヨルダンの建築  ペトラ

ペトラ

ペトラ遺跡の最奥部、山あいに孤立して聳えるのが石彫墓のアッデイル。ペトラで最大規模を誇るが、細部の仕上げは「ファラオの宝庫」に及ばない。ローマとは異なった ナバテア式の柱頭やエンタブラチュアをもつ。

古代ユダヤ教の建築


 イェルサレム JERUSALEM

アブサロムの墓(塔)と ザカリヤの石彫墓
Tombs of Absalom & Zachariah, 前1世紀

ヨルダンの建築

神殿の丘の東、ケデロン(キドロン)の谷はダヴィデやソロモンをはじめとする古代イスラエルの諸王が埋葬されたと信じられ、「王家の谷」とも呼ばれる。ここにはインドにおけるような石窟墓や石彫建築があるのが興味深い。これらが造営されたのは前2世紀とも 後1世紀とも言われる。南側のザカリヤの墓は ピラミッド屋根の単純な形態をしていて、これが古代ユダヤの貴顕の墓の定型である。ここでは それがインドとエチオピアに並ぶ「石彫建築」として造られ、地面から屋根の頂までが ひと続きの岩である。インドにおけるように、岩山の斜面を 上部から掘削して彫刻した。
ユダヤ教では これを預言者ゼカルヤの墓としてきたが、キリスト教では 新約聖書をもとに、これを洗礼者ヨハネの父 ザカリヤと 母 エリサベトの墓と見なしている。
ザカリヤの墓の両側にある石窟墓の形式は、エジプトの石窟墓の影響であろう。左側は 富裕な商人のベネイ・ヘジール (Benei Hezir) 家の墓と言われる。前面に2本の円柱が彫り残された石窟は 奥行が浅く見えるが、奥には多くの墓室が掘削されている。ザカリヤの墓の左側の岩壁に穿たれた開口から、階段が ここに通じている。

ヨルダンの建築  ザカリヤ"
平面図 (関谷定夫『聖都エルサレム』東洋書林 2003 より)

北側に少し離れて立つ独立塔墓は ダヴィデ王の息子のアブサロムの墓とされ(アブサロム自身が自分のために建てたとも言われる)、石彫の立方形の上に、上すぼまり曲面の特異な石造屋根を戴いている。小品ながら この造型のゆえに、岩のドームと並んで人々の記憶に残る。この内部の高い所に小墓室がある。塔の背後には切妻屋根形ファサードの石窟墓があり、そこから階段で地下の墓室に降りる。

ヨルダンの建築  アブサロム




<参考> カファルナウム(カペルナウム)
KAFARNAUM (CAPERNAUM)

シナゴーグ Synagogue, 3, 4 世紀

ヨルダンの建築  シナゴーグ

ユダヤ教の「神殿」は「ソロモンの神殿」であるが、それが3次にわたり破壊されて以後は 神殿(礼拝所)はなく、信者の「集会所」のみが各地に建てられた。これをシナゴーグという。その最も古い遺跡が、カファルナウム(英語でカペルナウム)に残る。ガリラヤ湖の北3kmの地であるが、イスラエル領なので<参考>として掲げる。
カファルナウムは ローマ帝国の属州ユダヤにおける、ローマ軍の駐屯地だった。イエスはこの町を本拠にしてガリラヤ伝道をしたので、このシナゴーグでも説教をしたという。10世紀頃に都市が滅び、シナゴーグも廃墟となった。発掘平面図によると、奥行24mの大型シナゴーグで、イェルサレムに面していた。3廊式の「ガリラヤ型」で アプスは無く、隣りに回廊で囲まれた中庭(アトリウム)がある。東西の壁にはベンチが設けられていた。

ヨルダンの建築
平面図  (From "Ancient Synagogues Revealed"
by the Israel Exploration Society, 1981)




 イェルサレム JERUSALEM

市壁、城塞(ダヴィデの塔)、市門
City Wall, Citadel (David's Tower), City Gates
古代、中世、近世

イェルサレム  イェルサレム

イェルサレム  イェルサレム

古代ヘブライ王国の第2代ダヴィデ王が紀元前10世紀に最盛期を築いて イェルサレムを都にしたので、イェルサレムは「ダヴィデ王の都 (City of David) 」と言われ、ヤッファ門に接する西の城塞地区も「ダヴィデの塔 (David's Tower)」と呼ばれている。3代目のソロモン王が 東のモリアの丘に神殿(第一神殿)を築いて以来、そこは「神殿の丘(Templ Mount)」と呼ばれ、両者の周壁は、都市全体(現在の旧市街)を取り囲む市壁と連続している。 現在見られる市壁と市門は、古代ユダヤ教の建築というわけではなく、おおむねオスマン朝のスレイマン大帝が1534〜40年に建設したものであるが、古代イスラエルに端を発するものとして、ここに入れておく。
旧市街を囲む市壁は614年にササン朝が攻囲して破壊したあと、ウマイヤ朝がビザンティンから受け継いだ技法で修復、その後 十字軍の侵入、ファーティマ朝、マムルーク朝、そしてオスマン朝と、市街の占拠、破壊、再建を繰り返した。現在の旧市街は、神殿の丘を別として、宗教別に4つの地域(ムスリム地区、キリスト教徒地区、ユダヤ人地区、アルメニア人地区)に住み分けられている。
ヤッファ門に接する城塞(シタデル)は、紀元前1世紀に ユダヤのヘロデ大王が 市街の西側、市壁の内側に作った砦を起源とするが、ここに第2代ダヴィデ王の宮殿があったという伝説があることから、後に「ダヴィデの塔」と呼ぶようになったらしい。
旧市街を囲む市壁には8つの門があり、最も壮大なのは 北のダマスクス門である。 現在 旧市街へのメインの入口となっていて、キリスト教徒地区とムスリム地区の境に出る。1世紀にローマのハドリアヌス帝が建てたものが一部残るが、現在の門は16世紀の建設である。神殿の丘への直接の入り口となっていた「黄金の門 (Golden Gate)」のみ 長く閉ざされていて、その分 保存がよい。

イェルサレム地図

イェルサレム旧市街の建築地図


初期キリスト教の建築


イェルサレム JERUSALEM

聖墳墓聖堂
Church of the Holy Sepulchre, 335年

  ヨルダンの建築    聖墳墓聖堂
聖墳墓聖堂、左は創建時の復元平面図、右は現状平面図
(左は アンリ・スチールラン『イスラムの建築文化』1987 より)
右下は、ハドリアヌス帝がゴルゴタの丘に建てたとされるユピテル神殿の
想像復元図。その跡地に 聖墳墓聖堂が建てられた。

ヨルダンの建築  聖墳墓聖堂  聖墳墓聖堂"

ローマ帝国がキリスト教を公認したのは 313年であり、国教にしたのは350年である。その間に、キリストが磔刑になったゴルゴタの丘に、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の命で聖堂が建てられた。中庭をはさんで西側に聖墳墓を祀る円堂(ロトンダ)、東側にに5廊式のバシリカ形式で 復活(アナスタシス)聖堂が建てられ、335年に献堂式が行われた。その後イスラームに奪われたり、奪還したりするうちにバシリカは失われ、円堂も半壊した。何度も再建、修復、増築され、現在は 「聖墳墓聖堂」として カトリック、ギリシア正教、アルメニア教会、コプト教会などが共同管理している。どのキリスト教徒にとっても 最も神聖な聖堂であり、巡礼地である。
現在の入り口となっている南側ファサードは、1009/10年にファーティマ朝によって破壊された後、十字軍時代の12世紀にロマネスク様式で再建された聖堂(1149年に献堂式)の、唯一の残存部である。



ベツレヘム BETHLEHEM

降誕聖堂
Church of the Nativity, 4, 6, 11, 12, 19th c.

ヨルダンの建築    平面図
降誕聖堂の平面図、黒が4世紀の創建時、紫が6世紀の改築時を示す。
(『人類の美術』 アンドレ・グラバール 「キリスト教美術の誕生」 1967、新潮社 より)

今ではイェルサレムの郊外というほど近い、南10kmの地 ベツレヘムは、キリストの生誕の地とされる。ベツレヘムの降誕聖堂は、処女マリアがイエスを産んだとされる厩の場所に建てられた。その場所(洞窟)は2世紀に「発見」され、そこをクリプト(地下聖堂)として、その真上にローマのコンスタンティヌス大帝の母ヘレナが4世紀に創建したのは、イェルサレムの聖墳墓聖堂のロトンダと同じように八角円堂であった。その前面には イェルサレムの復活聖堂(アナスタシス)と同じように5廊式のバシリカ型大聖堂を建て、339年に献堂式を行った。その後 暴動などで荒廃していたのを、6世紀にビザンティン帝国のユスティニアヌス帝が再建すると 円堂は失われ、トリコンク(三葉形、すなわち3アプス式)の大きな内陣となった。トリコンクの内陣というのは古代ローマやエジプトで行われ、後にはヨーロッパのライン沿岸のロマネスク聖堂にも見られる。(エジプトのトリコンクについては、「世界建築ギャラリー」の中の「ソハーグの白修道院と赤修道院」を参照。)
ベツレヘムの降誕聖堂には 何度も後世の手が入いり、現在見られるのは 十字軍時代に改修されたものであるが、徹底的に改変されたイェルサレムの聖墳墓聖堂と違い、全体的には 初期キリスト教時代の古式を保っている。

ヨルダンの建築   クロイスター"




ジェラシュ JERASH

カテドラル  Cathedral , 4th c.

ヨルダンの建築  カテドラル

ジェラシュには 15余りの聖堂があるが、多くは6世紀頃の建設。カテドラルは4世紀後半とされ、初期キリスト教の建築と言えるが、当時一般的だったバシリカ式聖堂。建築的に目を引くのは、カテドラルの入口をなす門である。アーチ開口ではなく まぐさ式としているが、実は3個の石をつないだ水平アーチである。



マダバ MADABA

聖ゲオルギオス聖堂のモザイク画
Mosaics of the Church of St. George , 6th c.

ヨルダンの建築  マダバ

アンマンの東南 35kmのマダバで、ギリシア正教の聖ゲオルギオス(ジェルジオ)聖堂を 1896年に改築したところ、 パレスチナの地図を描いた巨大な床のモザイク画が発見された。 残存していたのは全体の 1/4 ほどだが、イェルサレムの市街の地図が 特に注目された。

初期イスラームの建築(ウマイヤ朝)


イェルサレム JERUSALEM

岩のドーム
Rock of the Dome, 7世紀

ヨルダンの建築  岩のドーム

マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)に次いで、イスラーム世界3番目に重要な聖地が イェルサレムであり、そこに象徴的に建つのが 岩のドームである。聖都イェルサレムには「聖域」(ハラム・アッシャリーフ)と称される モリアの丘があり、そこは かつてユダヤ教のソロモンの神殿が建立された「神殿の丘」でもあった 。ウマイヤ朝の時代、1世紀のユダヤ戦争でローマによって神殿が破壊されて以来 長く廃墟になっていた丘には、地面に岩盤が露頭している所があった。この岩(サフラー)こそ、ムハンマドが天馬ブラークに乗って昇天をした場所であるとされる。
ウマイヤ朝の第5代ハリーファ(カリフ) アブド・アルマリクは この岩を聖遺物のように見なして、この上にドーム屋根を架けて イスラームを代表する記念堂とすることを命じた。それは キリスト教の殉教者廟(マルチリウム)のような八角円堂のイスラーム聖堂であった。
イスラームにとっては 最初の記念的な建物であるだけに、まだイスラーム建築のスタイルは確立していず、ビザンティンの技法を大幅にとりいれた。その華麗なモザイクで飾られた円堂は、信者たちに 天上の楽園を象徴するような豪華さを感じさせたにちがいない。金色のドームの外観とあわせて、イスラーム世界の求心的なモニュメントを実現したのだった。

ヨルダンの建築

建築的構成は、市内のキリスト教の聖墳墓聖堂との深い類似性が指摘されている。二重の周歩廊をそなえた円堂(ロトンダ)であること、ドームの直径が 20.4mであること、中心に 聖なる岩を置いていること、円堂の向かいに バシリカ式の礼拝堂を設けていること(一方は復活聖堂、他方はアクサー・モスク)等である。  つまり、この岩のドームは 建築的構想から細部の装飾に至るまで、シリア・ビザンティン美術と建築の深い影響下にあり、そのことは 建築家からモザイク職人に至るまで、先行文明のスペシャリストを招聘したことをうかがわせる。

● 詳しくは『イスラーム建築の名作』のサイトの「岩のドーム」のページを参照。



アクサー・モスク
Al Aqsa Mosque, 7世紀

ヨルダンの建築  アクサー・モスク

ヨルダンの建築
モリアの丘(神殿の丘)の配置図
(アンリ・スチールラン『イスラムの建築文化』1987 より)

岩のドームと向かい合って建つのがバシリカ型の平面をもつアクサー・モスクで、岩のドームを建てたアブド・アルマリクの息子の第6代ハリーファ、ワリード1世が705年から715年の間に建設した。『クルアーン』第17章「夜の旅」にいう「遠隔(アクサ−)のモスク」である。しかし長い時代に幾たびも増築、改築を繰り返し、地震の被害にもあったので(1969年には放火によってミフラーブとミンバルが失われた)、創建当時の面影はミフラーブ前のスペースと数本の柱に残るばかりである。
といっても、ムハンマドの時代にはワリード1世によるモスクはなかったわけで、ここの地下をなす細長い建物(平面図の緑色部分)が、「古 アクサー・モスク」とされている。平面図で「アクサー・モスク」の字の左が,地下への階段である。
八角円堂の岩のドームとアクサー・モスクを向かい合わせているのは、ワリード1世が 市内にあるキリスト教の「聖墳墓聖堂」の構成に倣ったと考えられる。モスクは6回建て直されたと言われるが、現在の形になったのは1345-50年のことという。一度に 3,000人が礼拝できるが、それほどの大モスクにしては、なぜミナレットを建てなかったのだろうか。中庭(前庭)がないことも、後のモスク型に比べれば 異例である。

平面図

ウマイヤ朝時代のアクサー・モスクの平面図(15廊式)
 (From "A Short Account of Early Muslim Architecture"
by K.A.C. Creswell, 1989, Scolar Press) キブラ壁は、
神殿の丘の南擁壁とは一致していなかったという。

ところで十字軍の時代、岩のドームはアウグスチノ会のキリスト教聖堂に転用され、アクサー・モスクはラテン王国のボードゥアン王の宮殿にされたという。K.A.C.クレスウェルは、それ以前(ウマイヤ朝の時代)には、アクサー・モスクは今の2倍くらい幅広(現在の7スパンの2倍の15スパン)だったということを、ムカダッシー (945/6- 991) の記述などをもとに 推定している。それほど幅広で 奥行も大きいモスクというのは、ジェンネ(マリ)の大モスクぐらいしか思いつかない。カイロのイブン・トゥールーン・モスク は 梁の方向が違うが 17廊式となる代り、奥行はずっと浅く、「ダマスクス型」と言える。アクサー・モスクのプランは「T字型」で、中央身廊と キブラ壁に沿った3連アーチの列を強調して、その交差部にドームをいただく。これに類した「T字型」のプランは マグリブ地方で広く用いられることになる。(カイラワーンの大モスクを参照)
アクサー・モスクが現在の大きさに建て直されたのは、ファーティマ朝の時代 (909-1171) のことである。

ヨルダンの建築




カスル・アル・ハラーナ QASR al-HARANA

砂漠の城館  Desert Castle, 710

ヨルダンの建築  カスル・ハラーナ

ヨルダンのワーディ・ブトムの谷あいの砂漠には「砂漠の宮殿」と呼ばれるウマイヤ朝時代の一連の建物が残っていて、その中のカスル・アル・ハラーナの小城は、古代末期になお東方の国境地方に存在したローマの駐屯都市の古典的構成をとっている。方形プランに円形の櫓をともなったこのウマイヤ朝の建物は、ローマの軍団によってアラビア地方に導入された防御技法に範をとっている。
砂利の詰め物をしたぶ厚い塁壁で囲まれていて、ローマ帝国の軍営都市である「駐屯都市(カストルム)」の流れを汲んでいる。隅部の円形の櫓や城塞化した門が、ローマの形式を彷彿とさせよう。中央部には中庭があって、二層にわたる住居に通じている。ヴォールトの方法および 付け柱状の3本の小円柱の束の上に立ちあがるアーチは、メソポタミアのササン朝の影響であろう。アーチ型スキンチの造型が面白い。
砂漠の宮殿とも、農業経営の基地(スチールラン)ともみなされたが、実際の機能は キャラバンサライであったらしい。今ではアンマンから立派なハイウェイが砂漠の中を、カスル・ハラーナとカスル・アムラを通ってサウジ・アラビアに抜けているので、簡単に訪れられる。

ヨルダンの建築  カスル・ハラーナ




クサイル・アムラ QUSAYR AMRA

砂漠の城館(浴場) Desert Palace, 715

 alt=  クサイル・アムラ

アンマンの東 80kmの砂漠の中にあるクサイル・アムラは、イスラームの現存最古の浴場建築である。クサイルというのは 小型のカスル(城館)のことで、ハリーファ(カリフ)・ワリードT世の治世、715年に建設された。この城館は、そのプランといい、飾り気のない外壁といい、アンジャールの浴場に似かよっている。今は砂漠となっているこの地方も、当時は「肥沃な三日月地帯」であって、その農業経営のための諸施設のひとつであった。内部には謁見ホールと熱浴室、炉室があり、かたわらに 深さ40mの井戸がある。内部空間をそのまま表したような半円筒形ヴォールトとドーム屋根が並ぶ外観は、飾り気のない謹厳な姿であるとはいえ、カスル・ハラーナが矩形のプランを分割しているのに対して、こちらは要素の連結式プランであるので、機能主義的な立体造形となった。今は砂漠の中に忽然と現れる 積み木細工のような 愛らしい建築作品であるが、近年 近くに発掘された建物とともに農業経営の施設であった。
内部の壁・天井はすべてフレスコ画で埋められていて、そこには水浴びする裸婦と当時の貴人たちが隣りあって、狩りの場面や音楽家たちとともに描かれている。イスラームでは、偶像崇拝につながりうる 形象彫刻や絵画は駆逐されてきたが、イスラーム初期のウマイヤ朝の時代には、まだイスラーム建築の性格が 確定していなかったので、 形象による装飾を 先行文明から受け継いでいた。カスル・アムラの入浴する女性の姿は、周囲の人々が眺めていることからすると、これは踊り子の絵だったのかもしれない。

  カスル・アムラ




<参考> ラムラ RAMLA

アビヤド・モスク(白モスク)と 大貯水槽
Jami'a el-Abyad (White Mosque) & Cistern

ヨルダンの建築  ラムラ

「パレスチナ国」の暫定首都のラーマッラー (Ramala) と混同してはならない。ラムラはパレスチナ国のすぐ西であるが イスラエル領なので、<参考>として掲げる。
ラムラはウマイヤ朝の第7代ハリーファ(カリフ)スライマーンが716年にパレスチナ州の首都として造営し、アビヤド・モスク(白モスク)を創建した。モスクはダマスクスのウマイヤ・モスクのようなプランをしていて、礼拝室がマッカ側に細長く寄せられていた。地震と十字軍によって破壊され、19世紀半ばにデイヴィド・ロバーツが訪れて絵を描いた時には ミナレットだけ残して、モスクはほとんど失われていた。 ミナレットは もとも白塔と呼ばれる軍事的な塔で、マムルーク朝が1318年に建立し、16世紀にミナレットに転用された。
モスクは 1948年に全面的に発掘された。93m×84mの中庭の地下には、ハールーン・アッラシードが8世紀に建造したという大貯水槽がある(「ラムラの水槽」)。深さ9mで、15本の十字柱による2層のアーケードが4列のヴォールト天井を支えている。 装飾は無い。

ヨルダンの建築    大貯水槽

          ラムラの 大貯水槽 平面図
(From "A Short Account of Early Muslim Architecture"
by K.A.C. Creswell, 1989, Scolar Press)





イェリコ JERICHO

ヒルバト・アルマフジャール宮殿と浴場
Khirbat al-Mafjar, c. 744

ヨルダンの建築  マフジャール

イスラム国のイェリコ近郊3kmにあるヒルバト・アルマフジャールの遺跡は、おそらくウマイヤ朝の第10代ハリーファ(カリフ)・ヒシャーム(在 724-743)によって、クサイル・アムラの 20年後、739年から 744年の間に建てられた。宮殿は当初のプランから 相次ぐ拡大の産物として、数ブロックの集合体となっている。最初の部分は、南側に一辺が70m近くにもなる塁壁で囲まれた矩形をなしていて、円形あるいは半円形の櫓をその側面にともなっている。その基本構想は、ローマがシリアやパレスチナ、アラビア地方に移植した砦に直接範をとっている。

ヨルダンの建築

ヒルバト・アルマフジャール、ヒシャームの宮殿 平面図
(アンリ・スチールラン『イスラムの建築文化』1987 より

建設の第二段階では、古代風の浴場の 巨大で豪華な施設が加えられた。そこにはローマ風の浴場の特徴的な諸室や、床暖房の設備が見られる。この浴場は方形の大広間が16本の剛柱を持ち、各辺には3連のアプスをともない、中央の採光ドームへと高まっていく複合ヴォールトの屋根でおおわれていた。その床は、幾何学文様のみごとなモザイクが、まるで絨毯のように床を覆っていた。謁見室の床のモザイク画は保存がよく、初期イスラームなので 生き物(ライオンやガゼル)が描かれていて、イスラーム絵画として著名である。

ヨルダンの建築  マフジャール




アンマン AMMAN

アンマンの城館 Umayyad Palace, 8th c.

ヨルダンの建築  アンマン

アンマンの城塞内に、正方形に内接するギリシア十字のプランの建物が残り、アンマンの城館と呼ばれている。やや尖頭形をしたアーチでヴォールトを架けた2か所の入口通路と、それとは直交する軸上に向かい合う2基のイーワーンをそなえ、これら四つの要素が面する中央広間には、今は失われているが、ドームが載っていたと考えられる。ここにはササン朝の玉座の間におけるのと似た内部イーワーンが使用されている。また建物の内周壁全体にわたって 付け柱や半円柱をともなったニッチによる装飾があり、クテシフォンの宮殿を思い起させる。イスラーム以前のガッサーン朝時代(6世紀)の玉座の間であるという説もあるが、ウマイヤ朝時代(8世紀)の建物らしい。

ヨルダンの建築


十字軍時代の建築(イェルサレム王国)


ケラック・ド・モアブ  KERAK DE MOAB

十字軍の城塞  Crusader's Castle, 1161

ヨルダンの建築

十字軍の城はシリアに最も多いが、ヨルダンにもいくつかあり、ケラック・ド・モアブの城塞が最もよく往時の姿を伝える(シリアのクラック・デ・シュヴァリエの城塞ほどではないが)。
 モアブとは古代イスラエルに隣接した地域の古代名で、旧約聖書のロトの息子のモアブに由来する。ケラック(クラック)の城塞は、十字軍がつくったイェルサレム王国の臣下・パヤンが 1142年から 61年にかけて建設した。地形的に難攻不落を誇ったが、アイユーブ朝のサラーフ・アッディーン軍に攻囲されて、1188年に陥落した。以後はイスラーム側の城砦となったので、城内には十字軍の聖堂もあれば マムルーク朝のモスクもある。
 アンマンでの、ヨルダン川西岸への入域許可をとるのに えらく時間をとられて、とうとうケラックを訪ねる時間がなくなってしまったので、ここには借用写真を掲げる。

ヨルダンの建築  ケラック




イェルサレム JERUSALEM

聖アンナ聖堂  St. Anne Church, 1140

ヨルダンの建築  聖アンナ聖堂

イェルサレム市内に十字軍が建設した唯一のキリスト教聖堂だが、今はアラブ人地区に位置する。聖母マリアの母・聖アンナに献じられたロマネスクの聖堂である。聖墳墓聖堂が、さまざまな宗派が競い合うように飾り立てて、一種猥雑な印象を生んでいるのに対し、この小さな 聖アンナ聖堂は装飾が少なく、正確な切り石積みだけで成る純粋な聖堂として保存され、まるで シトー会の修道院のような佇まいをしている。この静謐な聖堂内に座していると、信者だけでなく観光客も 自ら深く沈黙して 祈りの気分に浸り、あるいは自己の内面に思いをはせるようである。そのようにして 暗く静かな聖堂に座していると、欧米からの二人の若い娘が 感極まって、恥じらいながら小さな声で聖歌を歌い始めたのだった。無伴奏の静かな声は石の天井にこだまして、深く浄らかに響き、この聖堂に一層美しい印象を残した。

ヨルダンの建築  アブー・ゴーシュ




アブー・ゴーシュ ABU GHOSH

十字軍の聖堂 Crusader Church, 1141

ヨルダンの建築  アブー・ゴーシュ

イェルサレムの郊外、といっても西10kmほどのアブー・ゴーシュ村にある ロマネスクの聖堂。十字軍が築いた聖堂のうち、最も保存がよい。アブー・ゴーシュは、『新約聖書』のルカ伝に出てくるエマオ ( Emmaus、復活したイエスが現れたという) に同定され、ホスピタル騎士団がこの村を占領した1141年に、泉の上に建っていたクリプトの上に建設した。市内の聖アンナ聖堂と同じく、よく保存修復され、装飾が少ないので、シトー会の修道院聖堂のような印章を与える、清廉な聖堂である。

ヨルダンの建築  アブー・ゴーシュ


近代のイスラーム建築


アンマン AMMAN

大フセイン・モスクアブー・ダルウィーシュ・モスク
Grand Hussein Mosque, Abu Darwish Mosque, 20th c.

  アンマン

アンマンは 国民の大多数がムスリムの国・ヨルダンの首都なので、当然多くのモスクがあるが、建築史的に特別重要なモスクはない。ここでは 特に目立つ2つのモスクを採りあげよう。アンマンの古地区に建つのは 大フセイン・モスクで、アル・フセイニー・モスクともいう。 現在のものはトランス・ヨルダン時代の初代国王、アブドゥッラー1世(1882−1951)が1924年に建てた。マムルーク風の礼拝室の両脇に、オスマン風のミナレットが2本立つ。もともとは、ビザンティン時代に建てられたフィラデルフィアの大聖堂を、正統ハリーファ(カリフ)時代の 640年にモスクに改築したと伝えられるが、20世紀まで どれだけ原型をとどめていたのか、定かでない。

アブー・ダルウィーシュ・モスクは、アンマンの 七つの丘の中で 最も高いアシュラフィーヤの丘に建つ、アンマンで最も目立つモスクである。1961年に建てられた現代のモスクだが、ストライプ状の 二色の石によって、ガウディを意識したかとも思わせる不思議な造形をしている。 この土地の所有者であった、1903年グルジアのアブハジアに生まれ、シリアで育ち、ヨルダンに定住したアブー・ダルウィーシュ(ムスタファ・ハッサン)という人が自分の土地を提供し、費用も出して建設した。デザインも彼自身が行ったという。シリア建築の愛好者だったというから、シリアに多い2色のストライプを採用したのだろう。ミナレットの高さは36mという。

現代建築


イェルサレム JERUSALEM

イスラエル 国立博物館
Israel Museum, 1965 年

ヨルダンの建築  イェルサレム博物館

イスラエル 国立博物館はアルフレッド・マンスフェルド (Alfred Mansfeld, 1912-2004) の設計。世界有数の大規模な博物館で、考古学から現代美術、ユダヤの歴史と文化、さらにはヘロデ神殿の大復元模型まで展示している。マンスフェルドはロシア生まれのユダヤ人で、ドイツとフランスで建築を学び、フランスでは オーギュスト・ペレーの門下生だった。23才でイスラエルに移住し、60年にわたって建築家として設計と教育に従事した。代表作のイスラエル博物館は、正方形の集合体として 巨大さを巧みにプランニングしているが、形態的には典型的な箱型の「近代建築」で、やや魅力に欠ける。




聖書の殿堂 Shrine of the Book, 1965 年

ヨルダンの建築  聖書の殿堂

イスラエル博物館の本館と対照的に、同じ敷地内で特異な形態で目を引くのは、20世紀有数の考古学的発見である「死海文書」 (the Dead Sea Scrolls) を収蔵するための展示館「聖書の殿堂」である。「死海文書」あるいは「死海写本」というのは、死海のほとりのクムランの洞窟で発見された ヘブライ語の「旧約聖書」の写本群である。ユダヤ系アメリカ人の総合芸術家・フレデリック・キースラー (Frederick John Kiesler, 1890-1965) と 建築家・アルマンド・バルトス (Armand Phillip Bartos, 1910-2005) との 7年間にわたる共同設計。全ヴォリュームの 2/3 を地下に埋めて、地上には白いドームのみが 池に浮かぶように建つ。表現主義的なドームの形状は、発見時に写本を収納していた壺の蓋に基づいているという。この殿堂が完成した 1965年に キースラーは この設計によって米国建築家協会からゴールド・メダルを授与され、そして その年末に、彼は75年の生涯を閉じた。
日本では、昔は The Shrine of the Book を「本の神殿」と訳していたが、"the Book" というのは『聖書』のことであり、神を祀っているわけではないのに神殿と呼ぶのも奇妙なので、ここでは「聖書の殿堂」と訳しておく。一般的には「死海写本館」としているようである。この脇に黒い玄武岩の独立壁が立っているのは、クムラン集団の終末思想による、光の子との戦いで敗れる闇の子を表わしているという。白いドームは「光の子」である。
死海写本はイスラエル政府が所有しているが、ヨルダン政府が領有権を主張して 返還要求をしている。

死海写本死海写本




ラモト・ポリンの集合住宅
Ramot Polin Housing Complex, 1972-75 年

ヨルダンの建築  ラモト・ポリン

ツヴィ・ヘッカー (Zvi Hecker, 1931- ) は ポーランドのクラコフで生まれたユダヤ人建築家。クラコフ工科大学で建築を学び、19歳でイスラエルに移住し、イスラエル工科大学でアルフレッド・ノイマンについて学ぶ(後に共同で設計事務所を開く)。さらに アヴニ美術大学で学び、兵役のあと 1960年頃から設計活動を始める。建国したばかりのイスラエルには 仕事は十分にあった。彼を広く有名にしたのは ラモト・ポリンの集合住宅である。
きわめて幾何学的で、五角形のパネルを組み合わせた12面体 720個を積層して、蜂の巣のような造形をしている。構造的にも実用的にも不思議なハウジングに見えるが、実は各住戸の前面バルコニーをこうした核で覆い(天井は無い)上階を少しずつセットバックさせているに過ぎない。といっても、それをこれだけの全体に纏めるには、大変な苦労と才覚を要したろう。
筆者未訪なので、写真は ウェブサイトより借用させていただく。

ヨルダンの建築



大シナゴーグ Jerusalem Great Synagogue, 1982 年

ヨルダンの建築

イスラエル最大のシナゴーグで、ホロコーストで犠牲となった600万人のユダヤ人を悼む記念施設。設計はドイツ出身のユダヤ人建築家、アレクサンダー・フリードマン (Aldxander Friedman, 1935-1980, ロシアの宇宙物理学者とは別人) 。シナゴーグには伝統的な様式というものがないので、フランク・ロイド・ライトの ベス・ショロム・シナゴーグ (1959) のように 自由に設計できる。その23年後の現代建築にしては、このファサードは 宗教建築というよりは、役所の庁舎のように見える。実はヘロデ神殿の復原ファサードをモチーフにしたのだという。となりのヘチャル・シュロモ・ユダヤ遺産センターも似たデザインで、同じくフリードマンの設計。
それにしても、さまざまな分野で目覚ましい業績をあげたユダヤ人が、建築においてだけは「ユダヤ建築」というものを生まなかったことが不思議で、同じような「離散の民」でありながら、アルメニア人とは対照的である。



アンマン ANMAN

ALIA オフィスビル・コンプレクス  Al-Iskan Bank Building, 1982

ヨルダンの建築  ALIAビル

ヨルダンの首都 アンマンの北東の新市街、内務省ビルの近くに建つ21階建のビルで、現在は アル・イスカン銀行ビルと呼ばれているが、以前は ALIAオフィスビル・コンプレクスといい、住宅金融公庫やロイヤル・ヨルダン航空の本社、そしてホテルもはいっていたらしい。今でこそアンマンには高さ 200m級の超高層ビルがいくつも建っているが、1980年代から 90年代には この 98mのビルがヨルダンで一番高い建物だった。外観的にもアンマンのシンボルのような役割を果たしていたが、その設計者を調べると、明らかにならない。70年代末に、主としてアメリカの大設計事務所ばかり6者(NBBJ, Gensler, HOK, WZMH, SOM, WATG)を招待して指名コンペを行なったようだが、不明朗な結果に終わったらしい。
真四角なビルに比べて、やや凹曲線を描きながら積層する階段状のバルコニーが、緑で包まれながら雁行するというのは、なかなか魅力的なデザインである。



ラセム・バドラン(建築家) RASEM BADRAN

設計活動・理論  Works, 20th c.

ヨルダンの建築  ラセム・バドラン

中東出身で世界的に知られている現代建築家といえば、イラク出身の ザハ・ハディッド(1950年 バグダード生まれ)と、ヨルダンの ラセム・バドラン(1945年 イェルサレム生まれ)である。ハディッドがヨーロッパの前衛建築家として活動しているのに対して、バドランは西ドイツのダルムシュタット工科大学で建築の教育を受けたことと、父親がヨルダンの伝統的工芸家であることを反映して、現代建築の技術と方法を用いながら、中東におけるイスラームの建築的伝統を積極的に取り入れようとしている。その成果によって、彼はエジプトの近代建築家、ハッサン・ファティ (1900-89) の後継者と見なされ、イギリスの老舗出版社 テムス&ハドソンから作品集が出版された (2005)。その立ち位置はインドのバルクリシュナ・ドーシ (1927- ) に似ていると言えようか。
1995年にリヤドの大モスクと旧市街の再開発計画で、アーガー・カーン賞を受賞している


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