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シリアの隠修士と 柱頭行者
当初はローマ帝国によって迫害されたキリスト教も、313年には公認され、350年には国教となり、次第に国家権力と一体化して 教会制度を確立していった。 それによって信者や聖職者は 都市内で平穏に暮らせるようになるのだが、しかしその世俗的生活に背を向け、「キリストに倣いて」 真の信仰生活を送ろうとする 敬虔な苦行者たちがいた。 聖アントニウスに代表されるそうした 「隠修士」 たちはエジプトの砂漠へ、シリアの山奥へと隠棲の地を求めた。 4世紀半ばには共住修道院も設立されていたが、彼らはひとり荒野や砂漠の中で 苦行の道を歩むことを選ぶのである。
聖シメオン聖堂、4世紀、平面図
( from "Orient Byzantin" by Henri Stierlin, 1988 )
中でも特異なのは、シリアの柱頭行者・シメオンであった。 350年頃に生れたシメオンは修道院生活なども体験したあと、アレッポの町から山奥に分け入って、そこに石の円柱を建て、毎日柱の上に登っては 神を礼拝した。 柱の上に立つというのは、少しでも神に近い位置にいるということであり、また彼の祝福を受けようと集まってくる人々に 修行の邪魔をされないためでもあった。 柱は何度か建て直され、そのつど高さを増していき、最後の柱は高さ 16mとも 19mともいう。 柱上には、台のまわりに木の柵をめぐらして そこに立ったというから、かなり太く、また地面に深く埋め込んで 安定を保ったことだろう。
聖シメオンを描いたフレスコ画
それは宗教施設としての建物ではなかったが、聖シメオンの評判は 遠くペルシアからスペインまで広まり、ここに集う群衆の列は引きもきらず、そうした 「参詣者」 や 「巡礼者」 たちのための木造の施設が 多く建てられたはずである。 隠修生活を求めたシメオンにとって、本来それは望むことでは なかったにちがいない。
聖シメオンの聖堂と修道院
シメオンが 459年に柱上で世を去ると、ここは ずっと後のサンチャゴ・デ・コンポステラにも匹敵する聖地となり、シメオンの柱を囲むようにして 石造の大聖堂の建立が、時のローマ皇帝によって開始された。 その意味では、これは国家的なモニュメントでもあったわけだが、しかし既存の宗教を口実とした 権力誇示ではなく、直接的に聖人の聖性を讃えて建てられた聖堂である。 その境内には 修道院の施設も建設されたが、これらの正確な建設年や 施設の使われ方は今もわかっていない。
北のバシリカから中庭を通して南のバシリカを見る
聖堂は、シメオンの柱を中心とする八角形の中庭から 四方に伸びるように 3廊式のバシリカが配され、全体が巨大な十字架のプランをなす 記念堂であった。 これが最初ではなかったにせよ、以後十字架平面は 重要な建築的シンボリズムを形成することになる。
バシリカというのは 古代ローマ建築の集会堂の形式で、初期のキリスト教聖堂は この形式を借用したのである。 ここでは東側のバシリカが メインの礼拝堂であり、2列のアーケード (列柱の上に架かるアーチの連なり) が並ぶ 長方形の広間の端部には、祭壇の置かれたであろう 3連のアプス (後陣) がある。
八角形の中庭には 木造のドーム屋根が架けられて 中央ホールをなしていたとも言われるが、定かではない。 現存する石の遺構は、この 5世紀後にヨーロッパで開花する ロマネスク様式を先取りしていたような 石造技術と美学を達成していて、当時のシリアが、アルメニアと並ぶ偉大な建築文化地域であったことを よく示している。 これが 4〜5世紀におけるキリスト教建築の最高傑作であることは疑いない。
聖シメオン聖堂、東のバシリカのアプス
しかし 「宗教と建築」 という観点から眺めるならば、これは前回見た アッシジのサン・フランチェスコ聖堂と同じく、その聖人の意志に 必ずしも一致しない建設活動であった と言うこともできる。 宗教的純粋さへの意志と、モニュメンタルな建築を求める意欲とは、常に相反する危険をはらんでいる。 けれども この聖堂と修道院は 11世紀前半にエジプトのファーティマ朝によって破壊され、今は廃墟となって ひっそりとたたずんでいる。 廃墟のたたずまいというのは、そこはかとなく 宗教的純粋さを印象づけるもののように見える。 ここを訪れると、これは信仰のあかしとしての 偉大な 「宗教建築」 である との思いを禁じえないのである。
(2004年 2月 「中外日報」)
< 付言 >
この聖シメオンをモデルにした小説がある。 アナトール・フランスの 『舞姫タイス』 (白水社刊) で、エジプトの遊女・タイスを改心させて 敬虔なクリスチャンに育て、ついには聖女へと導く修道士・パフニュスとして描かれている。 しかしこのアイロニカルな小説は 信仰の文学ではなく、エピキュリアンによる、宗教への揶揄小説である。 そこではパフニュスが、信仰心とタイスへの渇愛とに引き裂かれ、ついには狂ってしまうのである。
これをマスネーが作曲したオペラは 今ではほとんど上演されないが、その中の 「タイスの瞑想曲」 だけは、そのメランコリックなメロディーを好む人が多く、今でもコンサートで演奏されている。
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