第9章
『 カルパ・スートラ 』 写本
THE MANUSCRIPT of "KALPA SUTRA"

神谷武夫

Ranakpur drawing
Drawing by Andrea Marcolongo


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ジャイナ教の聖典『カルパ・スートラ』


1A  カルパ・スートラ
『カルパ・スートラ』より、A面の文字ページ


1B カルパ・スートラ  胎児の交換
『カルパ・スートラ』より、 「王妃トリシャラーの胎児の移動」


 ジャイナ教徒にとって 最も親しい お経というのは『カルパ・スートラ』ではあるまいか。なぜなら、それは 開祖のマハーヴィーラの伝記であり、そこに 多数の絵が添えられた写本が多くつくられ、人々、特に子供の教化のために使われてきたので、ジャイナ教徒なら 誰もが『カルパ・スートラ』に親しみ、その細密画を通じて 開祖をイメージしているからである。
 このサイトでは ジャイナ教の建築を紹介し 論じてきたが、この章では ジャイナ教の絵画を扱う。ここに紹介するのは、私が所有する 細密画入り『カルパ・スートラ』の写本である。宗教的意味よりは ジャイナ美術の絵画作品として示すのであるが、そもそも『カルパ・スートラ』とは何なのか ということから説明していきたい。

 ジャイナ教には、ユダヤ教の『旧約聖書』、キリスト教の『新約聖書』、イスラーム教の『クルアーン』(コーラン)のような、一冊の「聖書」というものはない。 仏教における仏典の体系にも似て、さまざまな種類の「経典の集成」となる。聖典の成立史は省略するが、ジャイナ教の聖典として通常準拠する 白衣派の聖典は、「シッダーンタ」(悉檀多)、あるいは「アーガマ」(阿含)と称される。 その内容は 必ずしも一定していないが、おおむね次節に記す通りで、その数は伝統的に 45編と言われているものの、実際には 45〜50編ある。
 名称表記はプラークリット語であるが、カッコ内に サンスクリット名称を示す。これらの経典は、紀元前3世紀から紀元前後に成立したと言われている。しかし 現在の形にまとめられたのは、マハーヴィーラの没後 980年(5世紀中葉か、6世紀初頭)、西インドのヴァラビーで もたれた 結集(けつじゅう)においてである。したがって 各文書の権威の確定は、5世紀以前には遡れないことになる。

2A  カルパ・スートラ 2A
『カルパ・スートラ』より、A面の文字ページ


2B カルパ・スートラ  誕生
『カルパ・スートラ』より、「王妃トリシャラーからのマハーヴィーラの生誕」


 そもそも、根本的な教義である 14編の「プッヴァ」は、まったく失われてしまった。「プッヴァ(プールヴァ)」というのは、マハーヴィーラが 自ら 弟子の学頭(ガナダラ)たちに教えたものである。それらは、現在に伝わる聖典群に 間接的に盛り込まれているはずだが、オリジナルの文献や知識は 失われているのである。
 その間を結ぶのが、このサイト「ジャイナ教の建築」の第4章 で登場した 聖賢 バドラバーフである。彼は『カルパ・スートラ』の著者(あるいは編者)であるとされているので、それは伝統的に「バドラバーフのカルパ・スートラ」とも呼ばれてきた。白衣派では、バドラバーフは マハーヴィーラの没後 170年に死去した としているが、しかし空衣派では、バドラバーフは二人いたと している。一人はマハーヴィーラの没後 162年(紀元前 356年)に没し、もう一人は マハーヴィーラの没後 515年(紀元前 12年)に死去したというのである。

 白衣派の伝承が伝えるところは、こうである。バドラバーフは、マハーヴィーラの没後 94年に プラティシュターナプラで生まれた。バラモンの家柄であったが、マハーヴィーラ没後 139年の 45歳のときに、ジャイナ教の アーリヤ・ヤショーバドラ師のもとに入門した。すべてのアンガを学んで ケヴァリン(大智者)となり、マハーヴィーラ没後の 148年には阿闍梨となった。同年に 教団長の サンブータヴィジャヤが世を去ると、その跡を継いで6代目の教団長(テーラ)になった。
 ビハール地方に大飢饉が起きていた 12年間、彼はネパールでヨーガの修行をしていたが、その間の紀元前 300年頃に、パータリプトラ(現在のパトナー)で 聖典編纂の結集(けつじゅう)が行われた。 北インドで教団長をしていた ストゥーラバドラは、マハーヴィーラの教えをすべて知っていたバドラバーフのもとに遣わされて、教えを乞うた。 この時 バドラバーフは、その教理を「14編の プッヴァ(プールヴァ)」として伝授し、さらに幾編かの「チェーヤ・スッタ(チェーダ・スートラ)」を書いた。そのチェーヤ・スッタの中に、『カルパ・スートラ』もあった とされている。
 バドラバーフは、マハーヴィーラ没後 170年に、南インドのシュラヴァナベルゴラで涅槃に入ったという。


聖典体系の中の『カルパ・スートラ』


3A  カルパ・スートラ  施与
『カルパ・スートラ』より、「財産を分け与えるマハーヴィーラ」


 ジャイナ教の聖典群は、仏教の聖典群と同じように ピダガ、あるいは ピタカ(蔵)と呼ばれることがある。 仏教では その全体を 経蔵、律蔵、論蔵に分類して、三蔵(トリ・ピタカ)と総称するが、ジャイナ教では 次の 6種に分類している。
  A. 12編の アンガ 根本の古い教義を伝える 最も重要な部分で 「肢」と訳す
  B. 12編の ウヴァンガ(ウパーンガ) アンガを補助して、A と同数編から成る「副肢」
  C. 10編の パインナ(プラキールナ)「雑纂」 種々の論考の集成
  D. 6編の チェーヤ・スッタ(チェーダ・スートラ)「裁断経」教団の規律書(仏典の律蔵 に相当)
  E. 2編の独立経典 ナンディーと アヌオーガ・ダーラーイム 入門書としての百科全書
  F. 4編の ムーラ・スッタ(ムーラ・スートラ)「根本経」 出家の心得を説く文学作品

 このうち、D の「チェーヤ・スッタ(チェーダ・スートラ)」に属する経典群は、僧の生活規定 および贖罪と懺悔の苦行に関する法規で、教団の戒律全般を扱っている。チェーヤ(チェーダ)というのは 裁断という意味で、破戒者への罰則として、それまでの修行年間を 裁断・無効にすることから 名づけられたらしい。 次の6編から成る。
   1. ニシーハ(ニシータ) 日常生活における 違反の処罰規定
   2. マハー・ニシーハ(マハー・ニシータ) 告白と懺悔に関する諸規定
   3. ヴァヴァハーラ(ヴィヤヴァハーラ) 僧侶と尼僧の生活の規則
   4. アーヤーラ・ダサーオー(アーチャーラ・ダシャース)「行儀に関する 10章」
   5. カッパ(ブリハト・カルパ) 僧侶と尼僧の教団生活の規則
   6. パンチャ・カッパ(パンチャカルパ) 現存せず、別のスートラが充てられることもある。

3B  カルパ・スートラ  出城
『カルパ・スートラ』より、「城を出発するマハーヴィーラ」


 このうち番目の「アーヤーラ・ダサーオー」は「ダシャーシュルタ・スカンダ」 あるいは「ダサー・カッパ・ヴァヴァハーラ」とも呼ばれ、前述のように バドラバーフの著作だという伝承がある。しかし その証拠はなく、またそのすべてに彼が関係したとは考えられない(ヴィンテルニッツ)。これは全部で 10章から成るが、その内の第6章、第7章、第8章の3章が ひとくくりにされ、通常 『カルパ・スートラ』と呼ばれているのである。 その章分けが示すように、もともとは3つの異なった経典が合体したものなので、全体は3部に分かれている。『カルパ・スートラ』の内容は次の通り。

 第 部 (第6章) は 「ジナ・チャリヤ(ジナ・チャリタ)
      すなわち勝者(ジナ)たちの伝記で、次の 5節から成る
   第1節 第 24代 ジナ(ティールタンカラ)、マハーヴィーラの伝記
   第2節 第 23代 ジナ(ティールタンカラ)、パールシュヴァナータの伝記
   第3節 第 22代 ジナ(ティールタンカラ)、アリスタネーミ(ネーミナータ)の伝記
   第4節 それ以前(中間期)の ジナ(ティールタンカラ)たちの伝記
   第5節 初代 ジナ(ティールタンカラ)、リシャバ(アーディナータ、アーディシュワラ)の伝記
 第 部(第7章)は「テーラーヴァリー(スタヴィラーヴァリー)
       すなわちマハーヴィーラの 直弟子、長老、学派、各学派の長 のリスト
 第 部(第8章)は「サーマーヤーリー(サードゥ・サマーチャーリー)
       すなわち雨季(安居期)における出家者の戒律

 この中では 第3部が最も古く、教義の上からは このグループの中核をなすものである。この部分があるので、『カルパ・スートラ』は「チェーヤ・スッタ」に組み込まれているのだが、第 1、2部の ジナ(ティールタンカラ)の伝記というのは、教団の規律書であるところの「チェーヤ・スッタ」の中では異質である。これら3部は 本来は別物であり、ジナの伝記は なんらかの偶然で、ここに組み込まれたものと考えられよう。

4A カルパ・スートラ
『カルパ・スートラ』より、A面の文字ページ


4B カルパ・スートラ  剃髪
『カルパ・スートラ』より、「頭髪を毟り取るマハーヴィーラ」


 ジャイナ教美術の観点からは、「チェーヤ・スッタ」と言えば、何よりも第1部、とりわけ第1節の マハーヴィーラ伝をさすことが多い。この部分のテキストが『カルパ・スートラ』全体の6割近くを占め、第1部の「ジナ・チャリヤ」に対しては その8割近くを占めていて、大多数の細密画が、この 第1節の マハーヴィーラ伝に充てられているからである。テキスト上も、他のティールタンカラ伝は 付け足しに近く、マハーヴィーラ伝の内容を 簡略に なぞっているにすぎない。
 正確に言うと、『カルパ・スートラ』の全体は 291スートラ(句)からなっていて、第1部の 「ジナ・チャリヤ」 は 200スートラ、第2部の「テーラーヴァリー」は 23スートラ、第3部の「サーマーヤーリー」は 68スートラであるから、『カルパ・スートラ』の3分の2は ティールタンカラの伝記に充てられているのである。
 歴史的には、最初の『カルパ・スートラ』が成立したのは 紀元前かもしれないが、現在の形になったのは 5〜6世紀よりも早くはない と見られている。

 美術上『カルパ・スートラ』が重視されるのは、キリスト教の『福音書』や 仏教の『ジャータカ(本生譚)』のように、開祖の物語として絵画化されやすいからである。(「ジャイナ教の建築」の)第6章で書いたように、ジャイナ教の彫刻では ティールタンカラ像にまったく物語性を与えずに記号化してしまったが、それとは対照的に、『カルパ・スートラ』の写本では、祖師の生涯が 一連の物語絵として描かれる。マハーヴィーラの生涯は そのままジャイナ教の教えの真髄であるから、その一連の物語絵は 民衆の教化の材料となるし(とりわ け文盲の人や子供には)、また 画家の表現意欲の発揮場所でもあった。(ただし、マハーヴィーラをはじめとする ティールタンカラたちの描かれ方は、彫刻の場合と同じように、直立姿勢か 結跏趺坐像の どちらかであることが多いが。)


カルパ・スートラ とは何か


サマヴァサラナ

12年にわたる苦行と黙想の後、悟りに達したマハーヴィーラは
勝者(アルハット)となる。 全智となったマハーヴィーラは、
インドラ神が用意した サマヴァサラナで教えを説く。
仏伝における ブッダの「初転法輪」に相当する。
(From "Kalpa-Sutra" c.1475-1500, Detroit Institute of Art)


 「スートラ」というのは「経 きょう」のことである。原義は「たて糸」で、花を貫いて花輪とするように、教法を貫く綱要をも そう呼ぶようになった。古代の『ヴェーダ』を伝承する綱要書で用いられた形式が 仏教やジャイナ教でも用いられ、その 教理綱要 もまた スートラと呼ばれる。
 では、「カルパ」というのは何か。ヒンドゥ教の プラーナ文献では、ブラフマー神の一日をカルパ(劫 こう)といい、一生の期間を マハー・カルパ(大劫 だいこう)という。「マヌ法典」の年数計算を当てはめると、1カルパは 86億 4000万年に相当するという。この周期で世界は生成・消滅を繰り返す。
 カルパは 14期に分けられ、その一つ一つにマヌがいる。第7のマヌは ヴィヴァスヴァット(太陽神)の息子なので、ヴァイヴァスヴァタ・マヌ といわれ、現在の世界の始祖となる。マヌとは人間の意なので、人間の始祖である。「シャタパタ・ブラーフマナ」では、大洪水で人類が滅亡した際に 一人だけが生き残って、魚に引かれて北方の山に着き、人間の始祖として子孫を増やしたという。
 しかし、これらはヒンドゥ教の説話であって、世界の始まりというものを想定しない(つまり、世界を創造した神というものを認めない)ジャイナ教とは無関係である。 それでも、こうした妄想的な宇宙論 ないし時間論は 古代インド一般で行われたので、仏教やジャイナ教でも、神話の中の巨大な時間的単位として「カルパ」が用いられた。

 ジャイナ教の経典においては、カルパというのは、「品行」や「礼節」、「徳行」、「責務」、「戒律」 を意味するようになった。したがって カルパ・スートラというのは、僧の行動規範や戒律を定めた経典 ということになる。
 『カルパ・スートラ』はまた「パジョサヴァナー・カルパ」、あるいは「パッジョサマナ・カルパ」の名でも知られる。「パッジョサヴァナー」とは「雨季に一所で過すこと」 を意味し、「パッジョサマナー」は「許し」を意味する。したがって「パジョサヴァナー・カルパ」とは 雨安居(うあんご)期の生活規範、「パッジョサマナー・カルパ」は 許し(寛容)に基づく行動規範 を意味する。
 つまり『カルパ・スートラ』とは、比丘たちの 安居期における 寛容で正しい行動規律(戒律)ということであるが、本来 これが指すのは、『カルパ・スートラ』の中の第3部(第8章「サーマーヤーリー」)であることがわかる。それが 元々は別の経典である第1部、第2部と結合して、その全体の名前が『カルパ・スートラ』となってしまったのである。

 「チェーヤ・スッタ(チェーダ・スートラ)」の第5編もまた『カルパ・スートラ』であるが、バドラバーフの『カルパ・スートラ』と区別するために、「ブリハト・カルパ・スートラ」(大カルパ・スートラ)ともいい、比丘と比丘尼の戒律に関する 主要経典であるという。本来のカッパ(カルパ)は修道僧や修道尼に許された正当なことがらを集めたもの だという。(ヴィンテルニッツ p.401 中野註)
 つまり、マハーヴィーラの伝記がここに入ったのは、誤り あるいは偶然のなせる業であった。本来、「カルパ・スートラ」という名称は、あくまでも 規律や規則、あるいは戒律のことであって、伝記の意ではない。古代バラモン教にも『カルパ・スートラ』という経典があるが、これも伝記ではなく 宗教儀礼の綱要書であって、「祭事経」と訳されている。

5A カルパ・スートラ  高弟
『カルパ・スートラ』より、「全智に達した高弟、インドラブーティ・ガウタマ」


5B カルパ・スートラ
『カルパ・スートラ』より、B面の文字ページ


 さて ジャイナ教では雨季の6月に8日間、盛大に行われる パリュシャナー祭の間、『カルパ・スートラ』が読誦される。 その期間は宗派によって異なるが(8日間から、最長 70日間)、パリュシャナーとは パッジョサマナーの転訛で、雨季あけを祝う祭礼である。マハーヴィーラの伝記が この祭礼に読誦されることから、「サーマーヤーリー」と一緒にされるように なったのかもしれない。 そして独立した「経典(スートラ)」とみなされるにつれ『パリュシャナー・カルパ・スートラ』と呼ばれたのが、単に『カルパ・スートラ』と略されるようになった。(プラークリット語で『カッパ・スッタ』とは 言わないようであるが。)
  どこの村でも、ジャイナ・コミュニティがあれば パリュシャナー祭で朗誦されることから、『カルパ・スートラ』は 12世紀以来、数百の写本が制作されたという。細密画入りの古写本も少なからずあるが、それらは 西インドの ジャイナ・バンダーラ(古文書館)や、各地の美術館(欧米も含めて)で保存されている。

 バンダーラ(バンダール)というのは、『砂漠の都市・ジャイサルメル』の「ジャイナ寺院」の節に書いたように、古刹の寺院に付属する文書庫で、敬虔で裕福な信者が聖典の写本を作らせては 奉納した。名高いものでは パータン、キャンベイ、ジャイサルメル、アーブ山 などにおけるものがあり、異教徒による破壊や略奪から守るために その多くが地下に設けられ、そのおかげで 聖像や聖具とともに、貝葉(ばいよう)や紙葉に書かれた多くの古写本が 現代にまで生き延びることができた。特に ラーナクプルのバンダーラでは、北のマンダパの床石の一枚が 秘密の扉になっていて、ここから下に降りると 広大な地下室が伸び広がっているのを見て 驚いたことがある。
 バンダーラを保護した君主としては、ソーランキー朝の シッダラージャ・ジャヤシンハ王(位1093-1143)と クマーラパーラ王(位1143-72)が知られている。彼らは数百人の写字生を養っていたという。

バンダーラ入口
ラーナクプルにおける、地下のバンダーラ入口

 『カルパ・スートラ』の第1部「ジナ・チャリタ」には ティールタンカラたちの伝記が書かれていると述べたが、その記述の8割は 第1節のマハーヴィーラに充てられている。マハーヴィーラは 24人目の、そして最後のティールタンカラであるから、彼の前にも 23人のティールタンカラがいたことになっている。それらは(後世に成立したと考えられる)伝説上の人物であるから、特段の物語があるわけではない。したがって、その伝記は おおむねマハーヴィーラのそれを なぞるだけになるので、同じことを繰り返し書いても仕方がない。
 そこで、「ジナ・チャリタ」の第2節では、第 23代 ジナ(ティールタンカラ)とされる パールシュヴァナータの伝記を 短く書き、第3節では 第 22代ジナ(ティールタンカラ)である アリスタネーミ(ネーミナータ)の伝記を さらに短く書き、あとは 十羽一からげに 第2代ジナ(ティールタンカラ)までを ごく簡単に 第4節に載せ(ほとんど名前の列記)、最後に 初代ジナ(ティールタンカラ)のリシャバ (アーディナータ)を 第5節に書いて、「歴史」の朔行を終えるのである。

 ティールタンカラの生涯には 決まったパターンがあり、5つの主要なできごとを通して描かれ、それらが細密画の主題ともなる。一番目は「天界からの降下」、2番目は「誕生」、3番目は「出家」、4番目は「成道」、そして5番目が「涅槃」である。仏教における仏伝と よく似ているが、各ジナの 天界からの降下が重視されるところが異なっている。特にマハーヴィーラの場合には、後述のような、インドラ神の指図による「胎児の交換」というのが 独特である。
 無神論のジャイナ教に 神々が現れてくるのは 奇妙に思われるかもしれないが、これは 世の中で一般に崇められているヒンドゥ教の神々を、それとは まったく別の意味合いで用いているに過ぎない。とりわけ シャクラ(インドラ)神というのは、古ヒンドゥ教では 天界を司る最高神であるのに、ジャイナ教においては常に、マハーヴィーラに奉仕する存在として描かれる。
  「アーヤーラ・ダサーオー」の第1章には、「いわゆる永遠なるものを提示する者があっても、神の欺瞞を信じてはならない。信のある者は、これを認識し、一切の幻を振り払え」(金倉円照訳)と書かれている。ジャイナ教にとって、神々とは 世界の創造者でもなく 支配者でもなく、いわば 飾り物にすぎない。ヒンドゥの神々を ティールタンカラへの奉仕者に貶(おとし)めたのは、「胎児の交換」において バラモン階級をクシャトリア階級よりも劣ったものとして 貶めたのと同様である。

 ところで、マハーヴィーラの生涯を描いた「経」は、『カルパ・スートラ』だけではない。第1アンガの「アーヤーランガ・スッタ(アーチャーランガ・スートラ)の第 15講が マハーヴィーラ伝を簡潔に描いているし(ヤコービ 英訳)、また第5アンガの「バガヴァティー・ヴィヤーハパンナッティ」(聖なる解説の教え)では、マハーヴィーラの生涯と行跡が 他のいかなる作品においてよりも、いっそう 生き生きと描かれている、という。(ヴィンテルニッツ p.28)


第 23代ジナの パールシュヴァナータ伝


6A カルパ・スートラ  ナーガの救出
『カルパ・スートラ』より、「カマタの五火の受難」


6B カルパ・スートラ
『カルパ・スートラ』より、B面の文字ページ


 第 23代ティールタンカラ、つまりマハーヴィーラの一代前の パールシュヴァナータは、歴史上、実在の人物だとされる。マハーヴィーラの両親は その教えを実践していた、いわば「パールシュヴァ教徒」だったとも言える。とはいっても 彼が実際にどのような人間で、どのような人生を送ったのかについては 何も知られていないので、『カルパ・スートラ』における記述としては、マハーヴィーラのそれに重ね合わせるほかはない。すなわち「天界からの降下」、「誕生」、「出家」、「成道」、そして「涅槃」である。
 両親は やはりクシャトリアで、バナーラスのアシュヴァセーナ王と その妃のヴァーマーであったとされる。王妃は やはり 14の夢を見るが、しかし マハーヴィーラ以外のティールタンカラでは、「胎児の交換」は 行われない。彼はパールシュヴァの名を得て、30歳で出家し、100歳の時に 東インドのサンメタ・シカラ山上で 1ヵ月の断食をして 涅槃に達した(それ故に、この山は パーラスナート(パールシュヴァナータ)山と 呼ばれるようになった)。

 そして 彼については ある説話がうまれ、これが 彫刻であれ 絵画であれ文学であれ、常に彼のイコノグラフィーの中心をしめるようになった。それは 蛇(コブラ)との関わりである。蛇はキリスト教でも特別な扱いを受け、エデンの園で アダムとエヴァに知恵の木の実をさずけた、知能のある動物として描かれる。インドでは ナーガと呼ばれ、水辺に住むことから、インドでは水辺が生命の源として神聖視されるので、ナーガ(龍王)もまた神力をもつ動物として描かれる。これが中国に伝わると、龍(ドラゴン)と同一化されることになる。

 ジャイナ教の説話としての パールシュヴァ伝は、こうである。 彼の前世において、正と邪の 2つの種があって、邪はバラモンの苦行者 カマタとなり、正は王子 パールシュヴァとなった。ある日 パールシュヴァは、カマタが 4つの火と太陽に焼かれる「五火の受難」にあっているのを見つける。 燃えている丸太の1本には 蛇(ナーガ)の家族が閉じ込められているのを見て、カマタの抗議にもかかわらず、パールシュヴァは 従者に丸太を割らせて 蛇の一家を助け出す。
 人々は喝采するが カマタは激怒する。後に パールシュヴァが出家して修行しているときに、阿修羅 メガマーリンに生まれ変わったカマタは、野獣や激しい嵐とともに パールシュヴァに襲い掛かった。しかし、パールシュヴァに助けられた蛇は 地底のナーガの王 ダラナ(ダラネンドラ)に生まれ変わっていて、7頭を広げてパールシュヴァの頭を覆い、防護した。そしてカマタに その邪悪さと パールシュヴァへの忘恩を諭した。メガマーリンのカマタは悔悟して 正しい道をいくことを決心し、パールシュヴァはバナーラスに戻って大智者となった。


7A カルパ・スートラ  パールシュヴァナータ
『カルパ・スートラ』より、「シッダとしてのパールシュヴァナータ」


7B カルパ・スートラ
『カルパ・スートラ』より、B面の文字ページ


 『カルパ・スートラ』の第2部「テーラーヴァリー」では、マハーヴィーラ没後の人脈が語られる。まずマハーヴィーラの直弟子(ガナダラ)11人のリストがあげられるが、その筆頭が インドラブーティーである。特に詳しく語られるわけではないので、他の経典や説話からの引用をもとにしながら、しばしば 彼の細密画が描かれる(5A)。
 第3部の「サーマーヤーリー」では、安居期の行動規範が定められている。 インドは乾季と雨季がはっきりわかれ、6月から8月の3ヶ月間は ほとんど毎日スコールがある。ジャイナ僧は一所定住を許されず、町から村へ、村から森へと遊行(托鉢)の生活を送る。ただし雨季の間は それが困難になるので、その間だけ一所定住が許される。その間、世俗の快楽的生活に囚われずに 修行生活を送るには どうすべきかが書かれている。そういう内容であるから、当然、写本においては あまり細密画が描かれないわけである。

 『カルパ・スートラ』のテキストは プラークリット語で書かれている。ジャイナ教の聖典語は アルダマーガディ語(半マガダ語、ジャイナ・プラークリット)と言い、雅語としての文語 サンスクリットに対して、各地で自然の変化をとりいれた民衆語であった。マハーヴィーラやブッダが活動したマガダ国の方言を マーガディーと言うが、現存の聖典語は そうした古語そのものではなく、他の方言的要素をも含んでいるものなので、これをアルダ(半)マガダ語と呼ぶのである。マハーヴィーラやブッダが説教に用いたのは、聖典が書かれているものよりも古い段階の「古アルダ・マーガディー語」であったと言われている。そのために、ジャイナ教の聖典が書かれている言語は、マハーラーシュトリー語の影響も受けた、「ジャイナ・プラークリット語」とも称される。


細密画(ミニアチュール)入りの写本

 インドの古代、中世の経典というのは、宗教の如何をとわず、古くは 貝葉(ばいよう)、あるいは 少数だが樺の樹皮に書き、それを紐でくくった。 貝葉というのは、まだ紙のなかった時代に、椰子の葉を短冊形に切ったもので、表面を平滑に均して文字を書いたのである。短冊がばらばらにならないように、各短冊に一つあるいは二つの穴を開けて、ゆるく紐を通す。短冊は細くて長い形をしている。これをめくるには、左から右へでもなく 右から左へでもなく、下から上へとめくる。したがって 裏面は、表面とは 天地逆に、文字や絵が描かれている。(本稿では レコードのように、A面とB面 と呼ぶことにする。)そして 経典を保護するために、最初と最後に木の板で表紙をつけて、しばしば そこに絵を描くのである。
 貝葉に代わって紙が用いられるようになると、次第に紐を通すことが なくなっていった。おそらく、紙が破れやすいためであったろう。

カバー付き写本
仏教の写本(現代の模作)カバーの板絵と 紙の本文 Size=11×30cm

細密画の比較
上の写本の一枚

 たびたび書いてきたように、インド人は彫刻的民族であるので、彫刻作品は 古代から現代まで山のように制作されてきたが、絵画作品は まことに少ない。古代では アジャンターの石窟に見事な壁画を残したにもかかわらず、その後のインド美術史では 近世におけるムガル朝とラージプートの細密画(ミニアチュール)の時代を迎えるまで、絵画作品の少ないこと、まことに淋しい(ジャイナ教では、7世紀の シッタンナヴァーシャル の窟院の天井画が、かなり剥落しながらも わずかに残されているが)。

 古代の石窟と 近世に盛んとなるミニアチュールの間を かろうじて埋めるのが、東インドの仏教経典と、西インドのジャイナ教経典の写本に描かれた細密画である。(したがって ヒンドゥ教の神々の姿は、おびただしい数の彫刻に描かれているのに比して、絵画は 古代、中世を通じて ほとんど残存しないのである。絵は貝葉や紙に描かれるので、石の彫刻に比べて滅しやすくは あったが。)
 東インドの仏教経典の写本としては、ベンガルとビハール地方で栄えた パーラ朝(800-1200頃)の元で多くが制作され、特に 12世紀に流行した『八千頌 般若波羅蜜多経』(アシュタサーハスリカー・プラジュニャパ-ラミタ-)が有名で、細密画入りの貝葉写本が 英米の美術館や図書館などに収蔵されている。しかし パーラ朝とともにインド仏教が滅びると、東インドの細密画の伝統も途絶えてしまった。それは紙の普及以前であったので、インドには、紙に書かれた仏教写本は 無い。

仏教の写本

東インドの 仏教の貝葉写本『八千頌般若経』11世紀、大英図書館蔵
(From "The Art of the Book in India" by Jeremiah P. Losty, 1982, British Library)

 一方西インドでは、14世紀〜16世紀の グジャラートとラージャスターン地方で 多くの写本が制作された。その最盛期は 15世紀後半である。西インドで最も盛んとなった原因は、そこにジャイナ教徒が集中し、彼らは商人や金融業者となって裕福だったので、寺院に立派な『カルパ・スートラ』を献じるために、それら制作工房のパトロンとなったからである。ジャイナ教の寺院建築が 西インドで最も発達したのと同じ理由である。
 敬虔なジャイナ信者は贅沢をせず、寺院の建立や修復、経典の絵入り写本の制作が功徳になり、業(カルマ)を軽減して、死後に上界に行けることが期待された。また、イスラームによる支配が強まるにつれ、派手な寺院建立が避けられ、その分、寺院や家庭内で見る 小型の写本のほうに援助が振り向けられる という事情もあった。

 最初に貝葉に描かれたジャイナ教の細密画は、サラバイ・M・ナワブによると 1060年ということだが、細密画入りの『カルパ・スートラ』が 最初に制作されたのは、チャンドラマニ・シングによれば ずっと後の 1278年で、次の 1279年の写本と共に パータンの サンガヴィーナー・パーダーナのバンダールで発見された。 どちらも 後述の「カーラカ師の物語(カーラカーチャーリャ・カター)」が一緒になっていて、そうした初期の写本では 細密画の数は 5、6点であったという。
 紙が使われ始めたのは 13世紀で、B・S・ケシャヴァンによれば 最も古い紙の写本は 1231年であるというが、細密画は 14世紀半ばまで貝葉に描かれ続け、それ以前に紙に描かれたものは 残っていない。紙の細密画入り写本で現存する 最古のものは、シングによれば 1367年の制作である。『カルパ・スートラ』の絵入り写本は、50部以上が現存しているという。

 さて、今回 このサイトに掲載した写本は、今から 20年ほど前に デリーの古美術商で購入した、『カルパ・スートラと カーラカーチャーリャ・カター』の8葉の写本断片である。相当に古く、おそらく 1500年頃に制作されたのものと見なされる、ミュージアム・ピースである。
 『マールグ』 美術シリーズの "MASTERPIECES OF JAIN PAINTING" には、著者のサリュー・ドーシ女史の撮影になる マハーヴィーラ像が 大きく掲載されている。1500年頃の西インド(ラージャスターン地方か グジャラート地方)で制作された『カルパ・スートラ』だという。サリュー・ドーシは ラーナクプルの寺院の優れた本でも知られている美術史家で、特にジャイナ教美術を深く研究している。(私の『インド建築案内』英語版のプレス・リリースの折、ムンバイでの講演会に来てくれた)。この絵と、私の所蔵するパールシュヴァナータ像とを比較すると、同一の工房で制作されたであろうことが 見てとれる。

細密画の比較
写本の細密画の比較

 今回の写本の縦横比が 2:5 とずいぶん横長なのは、もともと貝葉に描かれた時代の 材料的制約からきているだろう。 貝葉での縦横比は 1:5 から 1:7 、極端なものは 1:10 を超え、長さが 80cmに達するものもある。
 貝葉も紙も貴重であったから、両面使用が原則である。 そのために、文字のインクが裏面に滲み出ていることがある(3A、4A など)。そして細密画は、A面に描かれている場合もあれば、B面に描かれている場合もあり、両面の場合もある。もちろん一番多いのは、両面とも文字だけのものである。
 写本の各面に、青と赤で縁取られた 小さな黄色い菱形の飾りが描かれているが、中央に1つだけ描かれている側がA面で、3つ描かれている側がB面である。かつては金が使われていたが、今では劣化して ほとんど黄土色だけが残っている。金の層が薄かったのだろう。このマークは、本来は(特に貝葉の時代には)ここに穴をあけて、紐を通したことの名残りである。14世紀までは 赤い丸型が多かったが、15世紀から次第に、青い櫛形飾りで縁取られた菱形となった。

 写本の制作過程は、文字の線や 絵の具の重なり具合を検討すると わかる。 まず構図を決めて、細い線で区画する。次いで 書家(写字生)の僧が 経文のテキストを書き、後から 画家の僧が細密画を描いた。 欄外の 小さめの字の文は 最後に書かれたことがわかるが、プラークリット語が読めないので、その文節の役割は 不明である。時として、書家と画家とが 同一人であることもあった。ジャウンプルでは、ヒンドゥ教徒の画家が ジャイナ教の写本の細密画を描いた例もあるという。しかしながら、仏教の写本もそうだが、寄進者の名は記されても、画家の名前が書かれることは 決してなかった。

 各地のジャイナ・コミュニティで制作された『カルパ・スートラ』のうち、15、16世紀の西インドで制作されたものが最も有名なのは、その画風が洒脱であり、達者であり、ユーモアもあるからである。また動きがあって、ダイナミックでもあった。
 写本における金の使用も、この時期に盛んとなった。金や銀が用いられるようになったのは、ペルシアの細密画の影響であろうという(ムガル朝以前の 13〜14世紀)。 他にも 高価な顔料である ラピス・ラズリによる鮮やかなウルトラマリン(群青色)や クリムゾン(深紅)、そして銀も用いられた。

 細密画を描く手順としては、まず絵に割り当てられたスペースに薄い金箔を貼る。その上に黒の細線で線画を描き、不透明の青、赤、白で彩色をする。残された部分が、金色の人体や その他のオブジェクトになるのである。
 西インド様式の細密画では、正面を向いているティールタンカラ以外の人物の細長い目が、ほとんど空中に飛び出しているような描法が特徴で、初めて見る人は奇異に感じることだろう。ジャイナ教では 絵でも彫刻でも、眼というものに 特別に重要性を与えるのを常とする(彫刻では、しばしば ガラスや宝石が眼に嵌められる)。これは、教義の「三宝」(正見、正智、正行)の「正見」を表わしていると考えられるが、インド美術史家のステラ・クラムリッシュは、この絵画上の描法の源流を、アジャンターやエローラーの壁画の中に見出している( 特に アジャンター第1窟の「マハージャナカ本生」や、「カリヤーナカーリン王子物語」など )。

マンドゥ本
マンドゥの『カルパ・スートラ』 1439、デリー国立博物館蔵
(From "The Art of the Book in India", 1982, British Library, London)

 西インド様式は マンドゥや グヮーリオル、ジャウンプルなどにまで広まった。最盛期の先頭を切ったのはマンドゥで、デリーの国立博物館にある 1439年の『カルパ・スートラ』と、おそらく同時期の『カーラカーチャーリャ・カター』(アフマダーバードの L・D・研究所蔵)では、テキストが 赤地の上に金文字で書かれ、細密画はステレオタイプでない、独自の画風を見せている。最も華やかな『カルパ・スートラ』は、アフマダーバードの デーヴァサーノ・パード・バンダールで見出されたもので、現在はデリーの国立博物館にある。制作は 1475年頃と言われ、ペルシアのティムール朝のミニアチュールの影響が認められる。

 ところで これらの細密画は、必ずしも『カルパ・スートラ』のテキストの内容を 説明する絵ではない。マハーヴィーラの誕生に関するエピソードを除けば、テキストは むしろ簡潔で、あまり詳しい物語にはなっていない。しかし それでは絵にならないので、さまざまな説話を盛り込んで 細密画が描かれている。したがって、絵は 絵としての独立した作品に近くなっている。
 それらは次第にパターン化していき、1400年頃には 各場面の形式が完全に確立したので、どの『カルパ・スートラ』の細密画も、似たような主題と 似たような構図で描かれるのを常とした。

 西インドがデリー・スルタン朝の支配下にはいると、ジャイナ寺院などで高度な建築の技術を達成していた建築家や石工のギルドは イスラーム政権のもとでモスクや墓廟をつくり、インド的なイスラーム建築、すなわちグジャラート様式を創りあげた。それと同じように、西インドの細密画の伝統もまた インド・イスラームのミニアチュールを発展させるのに大いに貢献したことだろう。近世の ラージプートやムガル朝のミニアチュールの隆盛は、そのようにして準備されていったのである。


ジャイナ教の説話『カーラカ師の物語』


カーラカ阿闍梨
『カーラカ師の物語』の一場面 1400年頃、西インド
サーハがモンゴル帽をかぶっているのは、ペルシアのミニアチュールの影響
(From "The Art of India", Prince of Wales Museum of Western India)

 『カルパ・スートラ』は、「カーラカ師の物語(カーラカーチャーリャ・カター)」と組み合わせられることが多い。1巻の長さは、ワシントンのフリーア美術館蔵のものに例をとると、全部で 124葉(40〜150)から成り、そこに 50点(7〜125)の細密画が描かれている。「カルパ・スートラ」が 43点で、「カーラカーチャーリャ・カター」が7点である。これが一冊の標準的な数量であろう。全体の枚数は、各ページあたり 何行の本文が書かれているかによる。
 今回のものを含め、人体は金、または黄色で表現されているものが多いが、中には白く着色されているものもある。その場合は 上の例のように、背景を赤にするようである。


8A カルパ・スートラ  カーラカ師
『カーラカ師の物語』より、「サーヒ王に助力を請うカーラカ」


 『カルパ・スートラ』と並んで、最も好まれた白衣派の説話は『カーラカーチャーリャ・カター(カーラカ阿闍梨の物語)』である。アーチャーリャは阿闍梨(あじゃり)、カターは物語の意である。しばしば『カルパ・スートラ』の付録のように扱われ、単独でより も、『カルパ・スートラ』と一緒に写本が作られた。 そのひとつの原因は、前述のパリュシャナー祭 で『カルパ・スートラ』とともに朗誦されるからである。というのも6世紀に、パリュシャナー祭の行われる日付を1日前倒しに変更したのが、このカーラカ阿闍梨だと 伝えられているからである。しかしながら 歴史上、カーラカという人物は数人いて、それらが混同されて一つの物語になったらしい。パリュシャナー祭の日取りが変更されたのは6世紀であるが、西インドに サカ(シャカ)族が侵入したのは1世紀のことである。

 『カーラカーチャーリャ・カター』は、時には「アーヤーラ・ダサーオ」の第9章とみなされる。 第8章の「サーマーヤーリー」に ほとんど細密画がつかないので、そのかわりに この説話を組み込んで「挿絵物語集」としたのである。両者がつなげられたのは 13世紀のことで、1250年から 1550年にかけて 多くの細密画が制作された。

 しかし、これはあくまでも説話であって、聖典ではない。さまざまなヴァージョンが サンスクリット語、プラークリット語、アパブランシャ語、古グジャラーティ語、古マールワーリ語などで書かれてきた。一説には マヘーサラ・スーリが著者であるというが、著者(語り手)も いろいろなので、その語りのスタイルも さまざまである。とはいえ、全体の構成と主題は一定している。
 いくつかの説話が結び付けられて全体が成立したのは 12世紀であろうと、ノーマン・ブラウンは推測したが、成立年代は 1250年以降であっても、説話自体はもっと古くからあり、いくつもの話が総合されたろうという。実際に存在した3人のカーラカに基づいているのかもしれない。サーカ族の話がジャイナ教説話に結び付けられたのは、10世紀より古くはないとされている。
 全体は次の4部からなる。

   1.  グナーカラ師への カーラカの入門。 ウジャインのよこしまな王ガルダビッラ
      との対峙。 サーヒ(シャーヒ、シャカ)族の指導者たちの到着。
   2.  バラミトラ王とバーヌミトラ王子の宮廷、パリュシャナー祭の最終日の変更。 
   3. カーラカ師が その尊大な孫 サーガルチャンドラ(サーガラダッタ)を叱る。
   4. 師がシャクラ神に、ニゴダ原理について詳しく説明する。

 説話の内容は こうである。バーラタヴァンシャ国の ダラヴァサの町に、王子カーラカがいた。ある日 森の奥で グナカラ師がジャイナ哲学を説教しているのを聴いて 感銘を受け、両親の許しを得て入門する。後に ウジャインに弟子をひきつれて滞在していたとき、妹のサラスヴァティーが、彼女に横恋慕したガルダビッラ王に拉致されてしまう。カーラカの救助を求める嘆願に、王は耳を貸さない。カーラカは 王の打倒を決意する。
 しかし その努力も実らないので、インダス川の西岸の サガクラに来て、サーヒ朝のサハヌ・サーヒ(シャーハン・シャー)王が統治する国に来る。ここで臣下のサーヒたちを助けて、サウラーシュトラ半島の各地に住まわせる。いよいよ彼らの力を借りて ウジャインに攻め上ろうとすると、彼らには 資金がないという。そこで レンガの窯場に行って、レンガに魔法の粉をかけて金に変え、資金とする。サーヒたちは出発してウジャインに行き、ガルダビッラの軍を打ち破る。カーラカは王を追放して、妹をとりもどした。シャカ族はここに定住しヴィクラマーディチャを王に仰いだ。


8B カルパ・スートラ  カーラカ師
『カーラカ師の物語』より 「レンガを金に変えるカーラカ」


 カーラカ師の物語 (金倉 p.37)

 前1世紀頃、ウジャインのガルダビッラ王が、ジャイナの美しい尼僧を略奪した。尼僧の兄でジャイナ僧になっていたカーラカが シャカ族の君主シャーハン・サーヒに助けを求めた。この王は ガルダビッラを倒してウジャインを占領し、ジャイナ教を敬った。しかし、ほどなくガルダビッラの王子の ヴィクラマーディチャ(超日王)がこれを転覆した。彼もまたジャイナ教徒で、ヴィクラマ暦を創始したと伝えられる(グプタ朝のヴィクラマーディチャ すなわちチャンドラグプタ2世とは別人)。


現代の 彩色画

 『カルパ・スートラ』をはじめとする彩色画譜は、常につくられ続けてきた。 時代により、地方により、そのスタイルを変える。特に インド独立以後は ヨーロッパ文明の影響が社会全体に及んだので、細密画のスタイルも ずいぶんと西洋的になった。その多くは 子供向けの絵本や 教化のカード、そして室内に飾るための額絵である。


C1  マハーヴィーラ物語   C2 トリシャラー
現代の「マハーヴィーラ物語」のカード絵
どちらも 「マハーヴィーラを産む前の 王妃トリシャラー」 の場面



● このサイトに掲げた 写本 1A から 8B までの断片に書かれた プラークリット語を読める方がいらして、もし日本語に翻訳していただけたら、メールで お送りいただけると幸いです。各ページの下に、解説とともに掲載して、読者の理解に供したいと思います(訳者の紹介とともに)。




参考文献

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-- THE DOCTRINE OF THE JAINAS, Described after the Old Sources : Walther Schubring, translated by Walfgang Beurlen, 1962, Motilal Banarsidass, Delhi
-- THA KALPA SUTRA, AND NAVA TATVA, Two Works Illustrative of the Jain Religion and Philosophy : Bhadrabahu, John Stevenson (tr.), 1848, London
-- KALPA SUTRA OF BHADRABAHU SVAMI : Kastur Chand Lalwani (translation and notes), 1979, Motilal Banarsidass, Delhi
-- KALPASUTRA : Mahopadhyaya Vinayasagar (ed. and tr. to Hindi), Mukund Lath (tr. to English), Chandramani Singh (on Paintings), 1977, Prakrit Bharati Academy
-- JAINA ART AND ARCHITECTURE : A. Ghosh (ed.), 1974, Bharatiya Jnanpith, New Delhi, 3vols,
-- JAINA ART : Ananda K. Coomaraswamy, 1994, Munshiram Manoharlal, New Delhi
-- JAIN ART FROM INDIA, The Peaceful Liberators : Pratapaditya Pal, 1995, Thames and Hudson, London
-- MASTERPIECES OF JAIN PAINTING : Saryu Doshi, 1985, Marg Publications, Bombay
-- THE JAIN COSMOLOGY : Colette Caillat, Ravi Kumar, 1981, Jaico Publishing House, Bombay, Delhi
-- MINIATURE PAINTINGS OF THE JAINA KALPASUTRA [Oriental Studies 2.] : W. Norman Brown, 1934, Freer Gallery of Art, Washington
-- THE STORY OF KALAKA [Oriental Studies 1.] : W. Norman Brown, 1933, Freer Gallery of Art, Washington
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-- NEW DOCUMENTS OF JAINA PAINTINGS : Moti Chandra & Umakant P. Shah, 1975, Shri Mahavira Jaina Vidyalaya Publication, New Delhi
-- JAIN PAINTINGS, vol.1 [ Jain Art Publications Series 2.] : Sarabhai M. Nawab, 1980, Messrs Sarabhai Manilal Nawab, Ahmadabad
-- MORE DOCUMENTS OF JAINA PAINTINGS and Gujarati Paintings of Sixteenth and Later Centuries : Umakant P. Shah, 1976
-- TREASURES OF JAINA BHANDARAS : Umakant P. Shah, 1978, L.D. Institute of Indology, Ahmedabad

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-- 印度古代精神史 : 金倉円照, 1939, 岩波書店
-- 印度精神文化の研究 (特にヂャイナを中心として): 金倉円照, 1944, 倍風館
-- ジャイナ教文献[インド文献史 4.] : ヴィンテルニッツ、中野義照訳, 1976, 日本印度学会
-- 思想の自由とジャイナ教 : 中村元選集(決定版)第 10巻, 1991, 春秋社
-- ジャイナ教(非所有・非暴力・非殺生−その教義と実生活): 渡辺研二, 2006, 論創社


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