南インドの ジャイナ建築 |
神谷武夫
ジャイナ教の開祖はマハーヴィーラであるが、仏教における「過去仏」と同じように、それ以前に 23人もの「ティールタンカラ」(ジナ、祖師)がいて、マハーヴィーラは 第 24代の、そして最後のティールタンカラであるとされている。
マハーヴィーラは 30歳で出家すると、すべての財産を棄て、身につけていた一切の衣類も貧者に施し、裸形となって托鉢の修行を始めた。そのことは、中世のイタリアにおける托鉢修道会の祖、アッシジの聖フランチェスコが すべての財産を棄て、裸形になって修行を始めた場面を思い出させる(彼の生涯を描いた映画『ブラザー・サン、シスター・ムーン』では、その場面にボカシがはいっていたものだ)。
マハーヴィーラの死後数百年たって、ジャイナ教誕生の地である 北インドのビハール地方は 12年間に及ぶ大飢饉に襲われたと伝える。生存をおびやかされたジャイナ教徒たちは 聖賢バドラバーフに率いられて、現在の南インドの カルナータカ州に落ちのびた。マウリヤ朝の祖チャンドラグプタは、バドラバーフを師と仰ぐジャイナ教徒であったので これに従い、最後はシュラヴァナベルゴラで 断食による大往生をとげたという。(チャンドラギリ丘の名は、チャンドラグプタに由来するという。)
伝説によれば、バドラバーフが北インドに戻った時、北インドにとどまっていたジャイナたちは 白衣を着するようになっていて 堕落の兆候を見せていたために、これと袂を分かち、裸行の厳格派たる空衣派を 南インドに確立したのだという。フランチェスコの行為が「キリストにならいて」であったとすれば、バドラバーフのそれは「マハーヴィーラにならいて」であったろう。
マ-ナ・スタンバと ゴマテ-シュワラ像
南インドのジャイナ教の中心地となったのは、バンガロールの西方にあるシュラヴァナベルゴラであった。ここには町と 矩形の貯水池(タンク)をはさんで、チャンドラギリとヴィンディヤギリという ふたつの奇怪な岩山が向かい合う、シュールレアリスティックな地である。ヴィンディヤギリの頂上には、その場所に立っていた岩を彫刻した ゴマテーシュワラ像が、17メートルの高さに聳えている(*1)。
前回紹介した「北方型」のカジュラーホの寺院では、聖室の真上の「シカラ」が 上へ上へと高く伸び上がって、垂直線を強調していたのに対し、ここでは むしろ水平線が強調されている。複雑な刳形や装飾が並ぶ 水平の層を階段状に積み重ねることによって 寺院本体を形成しているので、全体の形は むしろ ずんぐりして見える。 そうしたことが反映してか、南インドでは「シカラ」という言葉は聖堂の上部構造全体をさすのでなく、その頂部の冠状の屋根部分のみを「シカラ」と呼ぶのである。
こうした南方型の石造寺院は、主として現在のタミルナードゥ州で発展した。この地の言語の タミル語が日本語のルーツではないか というのは、言語学者の大野晋氏の説である。また人種的にも 北インドのアーリア系とはまるで異なるドラーヴィダ系の人種なので、これら南方型の寺院をも「ドラーヴィダ様式」と呼んだりする(*3)。
シュラヴァナベルゴラに並ぶ 南インドのジャイナ教の聖地は、西海岸寄りの ムーダビドリである。この小さな町には 18ものジャイナ寺院があり、ある通りには まるで日本の「寺町」のように、両側に ずらりとジャイナ寺院が並び、そのいずれもが 前面にマーナ・スタンバを立てている。同じ南インドでありながら、西海岸では寺院のスタイルは タミルナードゥ州とはまるで異なっていることに驚く。
ケーララ州とタミルナードゥ州の間には西ガーツ山脈があるために、この細長い海岸沿いの土地は年間を通じて降雨量が多く、豊かな緑に恵まれている。そのために乾燥したタミルナードゥ州とは まるで異なった文化を育んできた。
かつて、インド建築史を初めて体系化した ジェイムズ・ファーガスンは、南インドとネパールの木造寺院の間には 何らかの影響関係があるにちがいないと推測した。しかし その後のベルニエなどの研究では、どうやら土地の気候や風土が 似たような建築様式を生んだのであって、両者の間の明らかな影響関係というのは 認められなかった。ネパールの寺院は 原則的に方形あるいは寄棟屋根であって、装飾的な切妻屋根は ほとんど無い、ということがそれをよく示していよう。 けれどもムーダビドリには 今ひとつ不思議な建物群がある。それは、まるでネパールの多層塔のような形を、木ではなくラテライト(*4) で作ったもので、これはジャイナ教の聖人たちの墓なのだという。 そもそもインドでは ヒンドゥ教でもジャイナ教でも、生あるものは必ず生まれ変わるという「輪廻」の思想をもっているので、墓を建てるという習慣はなかった。 それが この地のジャイナ教に限って墓を建て、しかもネパールの塔やバリ島の「メール」のような形をしているというのは、解けない謎である(*5)。
南インドの「ディガンバラ」(空衣派)は 厳格派とも呼ばれ、マハーヴィーラの教えを より忠実に守るべきことを唱えた。ところが その公言とはうらはらに、実際はむしろ 僧侶たちがより世俗的な生活をしたものであるらしい。その原因は、南インドでは ジャイナ寺院のそばには僧院を作って、定住生活を送るようになったことにある。 ムーダビドリの僧院(マタ)で会ったジャイナ僧も、妻帯こそしていないが、橙色の衣をまとい、ずいぶん 世俗化しているように見受けた。本当の空衣派の僧に私が出会ったのは、北インドのデオガルである。ちょうどその日、デオガルの古寺では 高徳の僧(グル)が弟子と共にやって来て講話をするというので、近在のジャイナ教徒が 大勢詰めかけていた。その尊師は 既に世俗の執着をほとんど捨て去っているので、孔雀の羽で作ったハケを一本持つ以外に 何も身につけない(*6)、まさに空衣なのであった。そのかみの バドラバーフのように、そしてアッシジの 聖フランチェスコのように。
空衣派のグルとその弟子たち、デオガル (『 at 』誌 1993年9月号)
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