ジャイナ教の 山岳寺院都市 |
神谷武夫
今から 18年前に初めてインドを旅した3ヵ月間は、毎日が新しい驚きと発見の連続であった。風俗や習慣は もちろんだが、それまで私の知っていた日本の建築とも欧米のそれとも まるで異なった建築風景に、肝を抜かれることも たびたびだった。その中でも ひときわ強烈な驚きを味わったのが、西インドにあるシャトルンジャヤ山の「寺院都市」である。 グジャラート州のパーリターナの町から、夜明け前に、当時は馬車(トンガ)で2キロほどの山のふもとに行くと、すでに僧侶や巡礼、そして掃除人たちは山を登り始めている。サボテン以外に ほとんど立木のない荒涼とした山を、2時間近く歩き続けて 山頂にたどり着くと、その向こう側に広がる風景に アッと息を飲んだ。ジャイナ教の石造寺院の 920に及ぶ堂塔が、山頂から なだれを打つように ひしめきあっている姿は、何とも幻想的な光景であった。
シャトルンジャヤの山岳寺院都市の平面図 (From "A.S.I. Report Impereial Series, vol. XLV, 1931")
この聖山には、24人の「ティールタンカラ」(祖師)に捧げられた寺院群以外に 何ものもなく、僧侶も巡礼も 日の出と共に山に登り、日没前に下山する。山道が危険となる 雨季の4ヵ月間は、山全体が閉ざされて ゴーストタウンとなるのである。
この南峰のトゥークの門をくぐると、両側に 大小さまざまな寺院群が立ち並ぶメイン・ストリートが続き、その変化に富んだシークエンスは、地中海の集落を思わせる。このメイン・ストリートの一番奥にある アーディシュワラ寺院が、今では断然 他と差をつけて美化され、巡礼者 にぎやかに集まって聖歌を歌う境内となっている。逆に北峰の寺院群の方は 忘れられたようにひっそりとしてしまった。
ジャイナ教はこうした「山岳寺院都市」を、規模の差はあれ、インドの各地に作った。ティールタンカラの多数が涅槃(ねはん)にはいったとされる パーラスナート(サンメタ・シカラ)山は東インドにあるが、ソナーギリ や ムクタギリ など、西インドにあるものが多い。
そうやってたどり着いた寺院都市の眺めが また驚きであった。寺院の数こそ シャトルンジャヤよりもずっと少ないものの、650メートルの断崖の上に屹立する寺院群の姿は、空想科学映画の宇宙基地のようでもあり、ガウディのグエル公園を思い出させもする。というのも ここでは ほとんどのマンダパが、サンバラナー屋根ではなくドーム屋根であって、しかも それらは白を基調とした色鮮やかなタイル・モザイクで覆われているからである。
ツイン・ド-ムの寺院と、全面モザイクの小祠堂
それに対してギルナールでは、一番汚れやすいドーム屋根を、いつまでも鮮やかなモザイクで仕上げるという、新手法を開発したのである。中にはドームだけでなく、壁面も塔も すべてがモザイクで覆われている 実験的な寺院もある。これは風土に合った建築術であると思われるが、実は こうした仕上げが始められたのは、そう古いことではない。 ギルナール山で一番古いのは、1128年建立の堂々たる ネミナータ寺院 であるが、その東側にあるパールシュヴァナータ寺院 (*1) は 特異なプランをしている。基本形は通例の<聖室+マンダパ>であるが、マンダパの左右に2つの円堂がつらなっている。それぞれのドーム天井の下には3層の壇が築かれ、頂部に「チャトルムカ」(四面堂)が乗っている。これは メール山とパーラスナート山を模したもので、信者はこの壇を順次回りながら登っていって、頂上のティールタンカラ像にお参りをすると、聖山に巡礼をしたのと 同じ功徳になる。日本の「富士塚」を思い出させて興味深い。
パ-ルシュヴァナ-タ寺院のプランと、内部の “メール山” さて ジャイナ教徒は なぜ このような「山岳寺院都市」を作ることに熱心だったのだろうか。その第1の原因に 山岳信仰をあげることができよう。インドでは 古来山岳信仰が盛んであり、寺院の構成を、神々の住処(すみか)としての 聖山になぞらえることを好んだ。宇宙の中心をなすというメール山(須弥山、 しゅみせん)や、シヴァ神の住まいとしてのカイラーサ山を その代表とするが、ジャイナ教では そうした伝説上の山のほかに、現実の聖山に巡礼するのを功徳とし、そうした聖地(ティールタ)(*2) には古くから寺院を建立してきたのである。
もう一つの原因は、異教徒による寺院破壊を 逃れるためであった。デリーのガズナ朝のスルタン、マフムードによる 11世紀の侵攻以来、多くのジャイナ寺院やヒンドゥ寺院、仏教寺院が ムスリムに破壊された。これを宗教的迫害ととらえると、いささか 事実を見失うこととなる。イスラームは 概して異教徒に寛容であった。しかし軍事的に征服した土地を略奪するのは 戦争の常であり、また現実的な必要として ムスリムの礼拝の場を確保する必要があった。そこで征服地の石造寺院を解体して、その部材をモスクに転用したのである。
こうして 北インドの都市に建っていた多くのジャイナ寺院が取り壊されたために、古い寺院は大きな町に残っていない。そして 新しい寺院の建立には、破壊される恐れの少ない 山奥の地が選ばれたのである。それでも デリーのハルジー朝を初めとする侵攻は シャトルンジャヤにも及び、寺院はたびたび破壊された。
ジャイナには、人里離れた山奥の地に心を寄せる、独特なメンタリティーがあった。それは 言わば、現世離脱の思想である。古来 インドには 現世を苦界と見なす傾向があり、しかも人の生は一度では終わらず、幾たびも生まれ変わっては、なおも苦しい生を 生き直さねばならない という「サンサーラ」(輪廻)観があった。しかも 次回も人間に生まれるとは限らない。死ぬまでに積んだ「カルマ」(業)の程度によって、獣になったり 虫になったりするかもしれなかった。
レイチェル・カーソンは『沈黙の春』において、自然界を破壊して鳥獣や植物を殺戮する 農薬や殺虫剤などの「公害」を告発した。 環境問題のバイブルとも見なされる その本を書いた時、彼女の心性は きわめてジャイナ教的であったと言えるだろう。しかし その問題を突き詰めて考えるならば、動物や植物にとっては、農薬ばかりでなく、人間存在そのものが「公害」なのである。
精神医学者の岸田秀によれば、人間とは 本能の壊れた動物なのだという。自然界の生物が、本能に従って生きている限り、そこには 一定の平和共存の秩序が保たれるが、人間存在は、何かしら 他の動物や植物とは決定的に異なった、そして 他の生物にとっての公害とならざるを得ないような、逸脱的な性向がある。それこそが 人間の原罪性なのであって、そのために人類は 地球上の動物や植物たちに、さんざん迷惑をかけてきたのである。 (『 at 』誌 1993年11月号)
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