第6章
ラーナクプルアーディナータ寺院
THE ADINATHA TEMPLE at RANAKPUR

神谷武夫

ラーナクプル


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ラーナクプルの寺院の魅力

 「これこそインド建築の最高傑作だ。」インドの3カ月の旅の終盤近くになって、アーブ山から 汽車とバスを乗り継ぎ、町でもなければ村でもない、山奥のラーナクプルに 忽然(こつぜん)と聳えるジャイナ寺院を訪ねた時、興奮のうちに寺院内を歩きまわりながら、そう確信したものだった。東インドから始まった建築巡礼の旅で、北インド、南インドを へめぐって、ヒンドゥやイスラムの数々の傑作に圧倒されながら、それにも増して 深い感銘とともに旅のハイライトとなったのが、初代ティールタンカラのアーディナータに捧げられた この寺院である。
 このような傑作が大都市にではなく、有名な観光地でもない、人里離れた交通不便な山奥にあるというのは、実に不思議なことだった。当時は まだトゥーリスト・バンガローもなく、ただ この大寺院と いくつかの小寺院の他には、「ダルマシャーラー」と呼ばれる巡礼宿があるばかりだった。

 それから9年ずつへだてて、3たび ここを訪れることとなったが、そのつど 新しい感動をおぼえずにはいない。建築と彫刻や工芸との幸福な結合、変化に富んだ空間体験、白一色の純粋な美しさ、繊細きわまりないドーム天井をいただく 高い吹き抜けの浄土感覚、その他、筆舌に尽くしがたい美しさとは、このことである。最初の訪問以来、なぜ このような寺院が誕生したのかを調べるにつれ、ますます この寺院の魅力のとりことなってしまったのであった。

図面 1. ラーナクプルの アーディナータ寺院 15世紀 平面図
(From George Michell:The Penguin Guide to the Monuments of India, vol. 1, Buddhist, Jain, Hindu, 1989)
 中央部の本堂を「ムーラ・プラーサーダ」、その内部を「ガルバグリハ」(聖室)、本尊を「ムーラナーヤカ」という。アーブ山の場合とちがって、チャトルムカ形式の場合には「グーダ・マンダパ」(礼堂)、「トリカ・マンダパ」(前堂)がなく、四方の扉口の前にすぐ4つの「ランガ・マンダパ」( A , 会堂)が面し、さらにその前に3層吹き抜けの「メガナーダ・マンダパ」( B, 高堂)が つながる。
 本堂の対角上の 四方には、2方向に開かれた「マハーダラ・プラーサーダ」(二面堂)があって、全体で「パンチャーヤタナ」(五堂形式)を形成している。これに加えて 南北に2つずつ「バドラ・プラーサーダ」(側堂)があるので、全体の構成を複雑にしている。外周部には「バマティー」(周廊)に面して「デヴァクリカー」(小祠堂)が一列に並んでいる。これらすべての祠堂には ティールタンカラ像(ジナ像)が祀られていて(四面堂には4体、二面堂には2体)全部で 100体をこえる。

 寺院は大規模で(図面1)、全体が 60m× 62m(*1)の、まるで要塞のような基壇の上に建ち上がり、中央の入口階段の上には3層の「バラーナカ」(エントランス・ホール)が、ドーム屋根を戴いている。 前回説明したような 防御姿勢で、入口の扉は小さめである。これをくぐって なおも暗い階段を登ると、不意に 明るい大空間が劇的に現れ、その華麗さには 思わず息を飲む。

ア-ディナ-タ寺院、メガナ-ダ・マンダパ見上げ

 林立する柱の群れは 細かく彫刻されて、同じ彫刻パターンの柱は2本とない という。 そして2層、3層に吹き抜けた空間に、高く低く大ドームや小ドームが架かり、そのドーム天井の彫刻がまた 途方もない密度である。天井の高低差の間や 中庭からは光があふれ、相互貫入する空間と、いたるところの繊巧な彫刻を浮かび上がらせる。 華麗といっても、床から天井までの一切が 白大理石で造られているので、実に清浄な華麗さであり、これもまた 浄土の世界の現前なのだろう。
 内部を歩きまわれば、次から次へと 変化に富んだヴィスタが展開し、いくら写真を撮っても 撮り尽くせない。それは あたかもバッハの『フーガの技法』が結晶化したかのようであり、これほどの豊饒な空間体験は、インドのどこにおいても 得られなかった。

 建築的に 最も印象の近い例を思い浮かべるなら、フランク・ロイド・ライトの 中期の『エニス邸』と『帝国ホテル』であろうか。あの2作は 独特なコンクリート・ブロックやテラコッタ、そして大谷石が繊細な彫刻要素となり、その反復と展開を 通奏低音として、複雑にからみあい流れゆく、一種 非現実的な空間構成の魅力を創り出していた。そしてラーナクプルでは、外周壁以外に 内外をへだてる壁が ほとんどないために、空間の流動性が いっそう深まっているのである。
 この寺院を設計したデパーカというのは、天才的な建築家だったにちがいない。これほど統一のとれた巨大な建物が、単なる職人芸の寄せ集めで造られたとは 信じられない。ひとつの確固とした構想力と美意識に貫かれなければ、このような傑作は実現しないことだろう。

建築家・デパーカの像


ジャイナ建築の総合的性格

 この建築作品は 美術史家からは 過小評価されていると思われるが、そのわけは、個々の彫刻を独立的に眺めた時に、ヒンドゥのものよりも劣る という点にあるだろう。しかしジャイナ建築においては、彫刻は 独立価値を主張するのではなく、おびただしい彫刻が すべて建築要素の枠を はみ出さずに、全体的な建築空間に奉仕するのである(そのことがまた ライトの建築を彷彿(ほうふつ)とさせる点である)。次に、シカラを初めとする建築要素のほとんどが、ヒンドゥ建築と共通であって、独自のものを打ち出していないという点にある。
 それは確かに弱点ではあるが、ジャイナが ここで到達した独自な価値は、その「総合性」にある。それを説明するためには、やや独断的ではあるが、建築というものを 大きく3つに分類してみねばならない。

四面堂形式のシカラ、ア-ディナ-タ寺院

 まず第1は「彫刻的建築」である。おそらく ヒンドゥを初めとするインド建築の本質は彫刻性にあって、細部彫刻の豊かさは もちろんのこと、建物全体が ひとつの彫刻作品のような趣を呈することが多い。これを「かたまり的建築」と呼ぶこともできる。
 第2は これと対照的な「皮膜的建築」であって、外観の彫刻性よりも、内部空間を覆いとり、囲みとることを 第一義に考える。中東のイスラーム建築が、その代表と言ってよい。イスラーム建築には、重要な建物であるにもかかわらず、町並みに埋もれてしまっていて ファサードというものが無く、ただ内部に入ると、そこには素晴らしい空間がある、というような実例には事欠かない。
 第3は「骨組的建築」で、これは 日本の建築を初めとする木造建築を 思い浮かべればよい。彫刻性も希薄なら、近代的な空間性にも乏しい。そこにあるのは、場の設定と架構の魅力であって、内部と外部は はっきり区別されずに連続する。

 このように、あらゆる建物は この3種の建築術(アーキテクチュア)に分類することができるだろう。
 そこで ラーナクプルのアーディナータ寺院を見直すと、その3種の建築術が 総合されていることがわかる。一般のヒンドゥ寺院が、外観は堂々としているのに、内部に入ると その貧弱な空間にガッカリしてしまうことが多いのに対して、ここには 素晴らしい内部空間の連続がある。逆にアーブ山のデルワーラ寺院群は、内部の魅力に比して 外観が みすぼらしかったものだが、ここには 外観や本堂シカラなどの彫刻的魅力も備えている。
 さらに寺院全体の構造は 石造であるにもかかわらず軸組的であり、これはインド建築の木造的起源をよく示している。構造は あくまでも柱と梁の架構であって、壁やアーチではない(ドームもまた イスラームのドームではなく、インド式 持ち出し構造のドームである)。こうして3種の建築術が 混然一体となった総合性こそが、ついにヒンドゥ建築が達しなかった地点にまで、この寺院を昇華させたのである。

西メガナ-ダ・マンダパより奥を見る


ジャイナ寺院の意味

 では、そうした総合性を ジャイナ建築が獲得しえた原因は何だったのだろうか。それこそが、今までも たびたび登場した「チャトルムカ」(四面)堂形式なのである。ラーナクプルの寺院の中央部を、アーブ山のデルワーラ寺院群の中で 一つだけ異なった平面形をしていた カラタラ寺院の平面(第1章参照)と比べてみれば、両者がそっくりであることに 気付かれるだろう。そこでは 中央祠堂が四方に開かれていて、それぞれの前面にドーム天井の「マンダパ」(ホール)を備えている。

 ところで、ヒンドゥ寺院の基本形は<聖室+マンダパ>であって、聖室(ガルバグリハ)は 常に前面にのみ扉口を持つから、四方にマンダパを備えることは ありえない。ヒンドゥ寺院における「ガルバグリハ」(*2) とは「神の住まい」なのであって、1軒の家のように 戸締まりがなされねばならない。昼は神像に食事が備えられ、オイル・ランプの光でもてなされるが、夜はそこで神が眠るべく、扉が閉ざされる。

   
サマヴァサラナにおける マハーヴィーラ
(From "Kalpa-Sutra" c. 1475-1500, Detroit Institute of Art)
ジナが全智になると、インドラ神が 彼のために 説教場としてのサマヴァサラナを用意する。
四方に開かれたサマヴァサラナは、円形の場合もあれば 矩形の場合もある。

 これに対してジャイナ寺院というのは、神の住まいなのではなく、「ティールタンカラ」(祖師、ジナ)が 教えを説く場所なのである。それを「サマヴァサラナ」と呼ぶが、ジナの教えは四方(世界)に説かれねばならない。ジャイナ教の本尊形式で特徴的なのは、しばしば4体のティールタンカラ像が(立像あるいは座像で)背中あわせになっていることで、これを「チャウムカ」、あるいはチャトルムカ」(四面) 像 と呼ぶ。このチャトルムカ像を本尊とした場合に、その聖室(ガルバグリハ)もまた 四方に開かれ、各面に 礼拝場であるとともに説教場である「マンダパ」を備えることになるのである。

アーディナータ寺院、西ランガ・マンダパ

 ジャイナ教のチャトルムカ像は3世紀のものがマトラから出土しているから、古くから四面堂が建てられていたらしいが、それらは現存していない。寺院の主流は、ヒンドゥにならった<聖室+マンダパ>であって、中世になってから「四面堂形式」が 次第に独自の展開をとげるのである。
 このように、ヒンドゥ寺院は四方に広がることが できなかったので、寺院が大規模化する場合には、堂の数を増やすことが行われた。たとえば ブバネーシュワルの巨大なリンガラージャ寺院や プリのジャガンナータ寺院では、<聖室+マンダパ>の手前に さらに2つの大きな堂を加えて、一直線に並べている。

          
リンガラージャ寺院、ブバネーシュワル    五堂形式の寺院、シンナール

 もう一つの方法は、本堂寺院の対角上の四方に4つの小祠堂を建てることで、この全体を「パンチャーヤタナ」(五堂形式)と呼ぶ。これはヒンドゥに限らず、仏教やジャイナ教でも 広く行われ、実は このラーナクプルの寺院も一種の「五堂形式」をとっている。ここでは それら対角上の4つの祠堂が「二面堂」形式をとり、さらに 南北両端に4つの「側堂」を加え、外周を 86の小祠堂が取り囲んで 伽藍の全体を作っているのである。

 これがヒンドゥの「五堂形式」と異なるのは、ちょうどアーブ山で、「ムーラ・プラーサーダ」(中央祠堂)の手前に「ンガ・マンダパ」を作って周廊と連結させ、一気に全体をインテリア化したように、ここでも これら全ての要素が、ドーム天井を戴くマンダパ群によって連結され、いくつかの中庭を囲みとりながら、全体が一続きのインテリア空間となったのである。いわば この寺院は、伝統的なインド建築の あらゆる要素の集大成であって、しかもそれを きわめて高い完成度にまで もっていったのであった。

アーディナータ寺院の西側正面


チャトルムカ形式の発展

 記録によれば、ラーナクプルの寺院の直接のモデルとなった「四面堂」形式の大寺院が シッダプラ (*3) にあって、「ラージャ・ヴィハーラ」(王の僧院)と呼ばれていた。 残念なことに、これは破壊されて、今はない。ラーナクプルの寺院は、ソーランキー朝のラーナー・クンバ王の治世の 1439年に、ダラナー・シャーが寄進した(*4)
 碑文によると、設計を命じられた建築家の デパーカは、「私はシャーストラに則って、雄大な寺院を創りましょう」と答えたという。「シャーストラ」というのは、『ヴァーストゥ・シャーストラ』や『シルパ・シャーストラ』などの 建築技芸書をさしていて、わが国の「木割り」の書に似ている。古来 各地で さまざまなヴァーストゥ・シャーストラが書かれ、西インドでは『ヴリクシャールナヴァ』という論書(シャーストラ)が、ジャイナ寺院の「チャトルムカ形式」について 詳しく解説をしている。その記述に基づいて P・O・ソーマプラが作図したプランがあり、これはジャイナ寺院の理想的平面図と見なせるだろう(図面2)。

図面 2. ジャイナ寺院の理想的平面図 ( P・O・ソ-マプラの作図に基づく)
 基本的には「五堂形式」の本堂を 外周部の回廊が囲む構成であるが、ラーナクプルのように全体が連続し、一体化している。五堂はすべて「チャトルムカ」であり、その 四方にそれぞれ「ランガ・マンダパ」をもつ。五堂を結びつける直交軸上には さらに大きな「メガナーダ・マンダパ」があり、四方のエントランス・ホール(バラーナカ)に連なる。外周部には4つの二面堂と8つの側堂があり、その間に 92の小祠堂が並んでいる。ティールタンカラ像の合計は1階だけで 124体となる。すべての祠堂の上には「シカラ」(搭状の屋根)と幟(のぼり)を備え、「マンダパ」の上にはドーム屋根か「サンバラナー屋根」が架かる。通常のスパンを当てはめると、全体の規模は約 100m角となり、アンコール・ワットの第2回廊にほぼ等しい。

 この理想プランは ラーナクプルの寺院を さらに大規模にした形をとり、通常のスパンを当てはめれば、全体で約 100m角という壮大な規模の寺院となる。それを可能にさせるのが「チャトルムカ形式」であることは言うまでもないが、この平面図は一種の「マンダラ」であって、仏教のマンダラと同じく、一つの宇宙観の表現であるともいえる。しかしながら、これほどに大規模なマンダラ的寺院は、インドでは ついに建てられることがなかった。それが実現するのは、むしろインド圏の 東南アジアだったのである。

ロロ・ジョングラン寺院、ジャワ島、インドネシア

 東南アジアでは、ジャワ島(インドネシア)の ボロブドールや ロロ・ジョングラン、クメール(カンボジア)の プノム・バケンから バーヨンに至るまで、壮大な寺院計画がなされた。けれど、単に平面的な境内の広さだけでなく、建築的にラーナクプル ないしジャイナの理想プランに比較しうるのは、11〜 12世紀に建てられた アンコール・ワットであろう。

図面 3. カンボジアのアンコール・ワット 12世紀 平面図
(From Claude Jaques:ANGKOR CITIES AND TEMPLES, 1997, Bangkok)
 第2回廊から内側の図面であるが、この外側に さらに大きな第1回廊がある。寺院全体は メール山を模しているので、中央部は 第2回廊とは切り離されて、13m もの高さにある。したがって 空間的に連続しているのは、中央祠堂と第3回廊のみである。基本的には 五堂形式をとっているが、五堂を結びつけるのは 直線的な廊下であって、「マンダパ」(ホール)ではないことが、ジャイナ寺院との 大きな違いである。

 (図面 3) に示すのはアンコール・ワットの第2回廊から内側であって、この外側には 第1回廊がある。第2回廊の規模は約 100m× 120m(*5)であるが、その構成は ジャイナの理想プランと たいへんによく似ている。しかも、アンコール・ワットの中央祠堂もまた 四面堂であった、ということに気がつくのである。つまり、四方に広がる大規模な寺院計画では、その本堂がチャトルムカ的であることが 必然的に要請されてくる。

 さて、ジャイナの「四面堂」とアンコール・ワットの間の 橋渡しをするのは、現在のバングラデシュのパハールプルに 廃墟として残る仏教寺院、8〜9世紀建立の ソーマプラ大僧院(マハーヴィハーラ)である (*6)。これは 300m× 300mもの広大な境内の中央に聳える寺院であって、これは まぎれもない四面堂である。

図面 4.パハ-ルプルの ソ-マプラ大僧院(バングラデシュ)
8-9世紀 発掘平面図と、その図式
(From Nazimunddin Ahmed: Discover the Monuments
of Bangladesh, 1984, Dhaka)

南アジアの地図

 どうやら仏教は ジャイナ教の影響を受けて「チャトルムカ像」を造り始めたらしく、古いものでは7世紀のものが、仏教の聖地 ボードガヤーから出土している(ネパールでは もっと早くから造られていたようであるが)。そして パハールプルの地には、もともと ジャイナ寺院があったらしい。こうして インドの仏教寺院で唯一の作例である パハールプルを通して、四面堂形式が東南アジアに もたらされた。それが クメールやジャワの マンダラ的な大伽藍のプランを発展させたのである。

ア-ディナ-タ寺院、西マンダパ屋根

 インドのヒンドゥ寺院は「四面堂」を発展させることが なかったが (*7)、イスラーム時代になると、ムガル朝の墓廟建築は「チャトルムカ形式」をとることが多かった。インドのイスラーム建築の源流はペルシャにあり、庭園構成もまた ペルシャの「四分庭園(田の字形の幾何学庭園)」が もたらされた。デリーのフマユーン廟 は、そうした大規模な四分庭園(チャハルバーグ)の中央にあり、必然的に 四面堂形式 をとっている。
 しかし 本来のペルシャ庭園では、建物が庭園を囲むのであって、庭園が建物を囲むのではない。四分庭園の中央に、四方に開かれた建物を置くというのは、インド式チャトルムカ形式の、イスラームへの適応である。そこでは、ペルシャの中庭を囲んで向かい合う4つの「イーワーン」(四角く枠どられた大きなアーチ開口に続く半外部空間)を、逆に背中あわせにして、外向きの「四面堂」に反転させてしまったのである。

 こうして見てくると、ジャイナ教が生み出した四面堂形式は、インド圏を通して ずいぶんと大きな役割を果たしたことがわかる。その実例は 多数に及ぶが、しかし その四面堂プランによって生み出された 空間の豊かさを比較するとき、ラーナクプルの寺院は 比類がないように思われる。
 たとえば アンコール・ワット(図面3)は、平面の広がりこそ大きいが、第1回廊、第2回廊ともに 中央部とは切り離されているので、空間的に連結しているのは 最上部にある第3回廊と中央祠堂だけである。これは ラーナクプルのように五堂形式(パンチャーヤタナ)をつなぎあわせて 連続体としているものの、ドーム天井を戴く大きなマンダパ という考えがなく、五堂は単に直線的な廊下で つながれているに過ぎない。空間的魅力に乏しいという点では、ムガル朝の墓廟も同様であった(それは イスラーム建築でありながら、インド化して「彫刻的建築」となってしまったのである)。

ア-ディナ-タ寺院、メガナ-ダ・マンダパ・柱


相対主義と四面堂

 さて こうした「四面堂(チャトルムカ)形式」を、特にジャイナ教が発展させてきたのは なぜだったのだろうか。こうした問いに対する完全な答というものは ありえないから、その宗教的内容に即して 仮説を立てる以外にない。ここでの仮説は、ジャイナ教の論理学に基づくものである。
 それを一言でいうなら、ジャイナの「相対論」あるいは「不定主義」ということになる。それは どういうことかというと、多くの宗教と異なって、ジャイナ教では 教条(ドグマ)をきらい、「これこそ真理なり」という 独善的な主張を排除する。あらゆる物事は多面的であり、どんな宗教にも、主義主張にも、一面の真理がある。したがって 事物に関して一方的、あるいは絶対的な判断を 下すべきではない。何らかの判断を下すときには、「ある点から見ると(スヤード)」という条件をつけなければならない。これを「不定主義(スヤードヴァーダ)」と呼ぶのである。

 多くの宗教が 自分の神や世界論をのみ 真理と主張し、時に 他の宗教と 宗教戦争まで引き起こしてきた歴史を かえりみる時、これは ずいぶんと近代的な考え方では ないだろうか。インドにも 宗教紛争が 数多くあり、現在もなお 引き続いているが、ジャイナ教は 武力闘争をしたことは一度もない。 すべての宗教が こうした観点に立てば、世界は どれほど平和になることだろうか。
 そして その相対主義こそが、ジャイナ寺院の「チャトルムカ像」や「四面堂」形式を発展させた 原動力だったのではないだろうか。 唯一絶対の神を想定するのでなく(ジャイナ教は無神論の宗教である)( cf.「いわゆる 永遠なるものを提示する者があっても、神の欺瞞を信じてはならない。 信のある者は これを認識し、一切の幻を振り払え」)、救い主である 24人のティールタンカラ(ジナ)さえも、それぞれ多面的に眺められる存在であるとする態度が、4体の像を背中あわせにした チャトルムカ像を生んだのであり、そこから 四面堂の建築形式が発展したのである。

4体が背中合わせになった ティ-ルタンカラ像

 そもそも ジャイナ教が 24人ものティールタンカラ(祖師)を想定したということ自体が、私には不思議であった。キリスト教や仏教のように、開祖は一人で十分なのではないだろうか。おそらくジャイナは、その場合の マハーヴィーラへの個人崇拝を避けるために、そして 絶対者の存在を否定するために、マハーヴィーラ以前に 23人ものティールタンカラを想定して、それらに同等の価値を与えたのであろう。

 インドで生まれ育ったから、ジャイナ教もまた 偶像崇拝のスタイルをとってはいるが、キリスト教やヒンドゥ教の偶像群と異なって、ジャイナ教のティールタンカラ(ジナ)像には 個性的表現というものがない。24人のどれをとっても ほとんど 同じ姿勢の立像か座像 の姿をしていて、まるで 見分けがつかない。それは 彫刻作品としての、美術史の研究対象とは なりにくいし、極端に言えば、それは 一種の 記号に過ぎないように思われる。そこで礼拝されるのは、キリストだとが シヴァ神だとかいったような 人格や神格ではなく、記号の形をとった 世界の秩序、あるいは 宇宙の多様な真理 なのではないだろうか。

 そのとき、ジャイナ教は 不意にイスラーム教に類似してくるのである。形の上では 両者は全く対照的で、イスラームは絶対的一神論であるが、その唯一神とは 人格神ではなく、宇宙の秩序 そのものと同義ともいえる。またイスラームでは 偶像が一切禁止されているが、ジャイナのティールタンカラ像も 一種の記号に過ぎないとすれば、両宗教の礼拝は 結局 同じことのようにも思える。共に階級制度を否定し、イスラームでは、神の前には「すべての人間が平等」であり、ジャイナ教では、輪廻の相のもとでは「すべての生物が平等」なのである。

  
白大理石の柱の彫刻と、パ-ルシュヴァナ-タ像

 イスラームは 偶像崇拝を否定したがゆえに 絵画や彫刻は あまり発展せず、その造形意欲は ひたすら建築に集中した。ジャイナでは 偶像彫刻に人格的表現や 物語性を与えなかったから、ジャイナ寺院もまた 建築に打ち込み、彫刻は イスラームのアラベスクと同じように、建築要素の枠組みの中での装飾に 専念させたのである。おそらく このことが、今までの美術史家が ジャイナやイスラームの美術を 高く評価してこなかった 大きな原因であり、同時に 私のような建築家は、ジャイナやイスラームの建築に ひときわ 感銘を受けることになるのであろう。

 ついでに もう一つ 似たような例を挙げておくなら、ヨーロッパのシトー会の修道院が それである。ベネディクト会の華美に反発して、絵画や彫刻による虚飾を排除しようとしたシトー会は、従って ひたすら建築の構成と 空間の美しさの開拓に没頭したのだった。それによって、美術史家の評価とは違って、われわれ建築家が深く感動する ル・トロネや フォントネーの修道院建築を生んだ。ジャイナ教の建築、なかんずく ラーナクプルのアーディナータ寺院は、こうした文脈においてこそ 価値づけられるのである。

近代のジャイナ寺院

 ジャイナ教の建築が ラーナクプルの寺院で絶頂に達したあと、ジャイナに限らず、インドの伝統的建築様式の発展は 終わりを告げ、以後 凋落の一途を たどることになる。外来のイスラーム建築の時代に入ったのである。南インドを除けば、独立を保ったヒンドゥ王朝の建築でさえも、イスラーム建築の影響を強く受けた。
 18世紀になると、インドは全面的に 大英帝国の植民地となっていき、寺院破壊の恐れがなくなるにつれて、ジャイナも 大都市に寺院を建てるようになる。 その代表が、アフマダーバード市内に 富裕な商人のシェト・ハティーシングによって寄進された寺院である。ここには多弁形アーチの多用など、イスラーム建築の影響も見てとれるが、中世の「ソーランキー様式」をリバイバルさせて、伝統的な石彫技法を よく伝えている。しかし平面的には、ラーナクプルで完成をみたチャトルムカ形式は棄てられ、<聖室+マンダパ>という、アーブ山以前のスタイルに後退してしまった。

  
アフマダ-バードのハティ-シング寺院と カルカッタのシ-タラナ-タ寺院

 カルカッタにも同時代の シータラナータ寺院 がある。英領時代に発展した大都会の中では 異彩を放つ建物ではあるが、近世のシカラ寺院と ムガル宮殿、それにイタリア・バロック様式を結びつけたようなスタイルには、かつてのラーナクプルのような偉大さは見られない。
 ジャイナ教が 今後どのように存続していくのかは わからないが、ウタム・C・ジャインのような ジャイナの現代建築家が、チャトルムカ形式に基づいた 新しいジャイナ寺院を創造できないものだろうかと、私はひそかな期待を抱いているのである。

(『 at 』誌 1994年1月号)



  1. ジョージ・ミシェルは "The Penguin Guide to the Monuments of India", vol. 1, 1989 において、平面の規模を 100m× 100m以上と記しているが、それは誤りであって、クーセンスによる古くからの実測値 60m× 62m が正しい。

  2. 「ガルバグリハ」とは本来「子宮」を意味する言葉なので、「胎蔵室」と訳すこともできる。ヒンドゥ教における、暗く奥ぶかい洞窟的なイメージがこめられているが、ジャイナ教の開放的な聖室の場合にも、この呼び名を用いている。

  3. シッダプラはラーナクプルの南西約 230kmにある、現在のシドプルの町である。シッダプラのチャトルムカ寺院の建立は 12世紀前半というから、アンコール・ワットと ほぼ同時ということになる。

  4. サリュー・ドーシは、寄進者の名を ダルナ・シャーとし、ラーナクプルの寺院を「ダルナ・ヴィハーラ」と呼んでいる。

  5. アンコール・ワットは本殿が3重の回廊に囲まれていて、第2回廊の規模は約 100m× 120mである。ところが日本で出版された本のほとんどが、図面の縮尺を誤っていて、約 140m× 170mの大きさに書いている。最初の学者が誤ると 後続の研究者も皆誤ってしまうことの実例である。

  6. ミャンマー(ビルマ)のパガンにも、四面堂形式を示す 11世紀の仏教寺院、アーナンダがあり、その中央部では4体の仏像が背中あわせになっている。ついでながら、大僧院(マハー・ヴィハーラ)とも呼ばれる パハールプルのソーマプラ・ヴィハーラの平面図は、ペリカン美術史の図版が 方位を逆に示してしまったために、和書のほとんどが その誤りを踏襲している。

  7. ヒンドゥの「四面堂」がまったくなかったわけではない。シヴァ・リンガを祀るチャトルムカ形式の祠堂が、北のカシュミール地方にはパーヤル(11世紀)に、南のボンベイ近くにはエレファンタ島の窟院(6世紀)にある。 また西インドのエクリングジには4面のシヴァ像を本尊とし、3面に開口をもつエカリンガ寺院(15世紀)があるが、マンダパは正面にしかない。


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