西インドの砂漠都市 ジャイサルメール
ジャイサルメル
神谷武夫


西インドのラージャスターン州に、タール砂漠という巨大な砂漠が、パキスタン国境まで広がっている。 その砂漠の中央に、あたかも 中世の砂漠都市が タイム・カプセルに乗って忽然と現れたかのような、驚くべき都市がある。市壁に囲まれ、寺院といわず宮殿と言わず、民家から墓廟に至るまで、すべてが地面と同じ黄色い砂岩で造られたラージプートの都市、ジャイサルメルの全貌をここに紹介する。    ( デルファイ研究所刊 「at」誌 1995年7月号の特集 )

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砂漠の中世都市

タール砂漠の中に忽然と都市が現れる

 私が初めてジャイサルメルを訪れたのは 1976年のことだから、もう、ふた昔も前ということになる。今でこそ この町は、インドのガイドブックに必ず載せられているが、当時は ほとんど世の中から忘れ去られ、眠っているような町であった。巨大なタール砂漠の入口にある ジョードプルという町から、日に1本、ジャイサルメル行きの夜行列車が出ていて、それは いつもガラ空きであった。1等のコンパートメントを一人で占領すると、持参の寝袋にくるまって、一路ジャイサルメルへ向けて 10時間の旅についた。
 そして朝、目が覚めると コンパートメントの中は、床といわず、寝袋といわず、ヴェールをかぶったように白っぽい。何かと思ったら、それはピッタリ閉めた窓の隙間から、走っている間に しのびこんだ、ごく細かな砂粒が積み重なって,膜のように覆っていたのだった。寝ている間に走ってきたのは、270キロもの砂漠だったのだと、改めて気が付くのである。

 朝の 8時に ジャイサルメルの終着駅に着くと、すべてが黄色い土に覆われた 荒野の真ん中にプラットフォームが伸び、平原から立ち上がる城塞が 遠くに眺められた。町は 駅から2キロほどの距離にある。ところが驚いたことに、プラットフォームから そのまま続く道には、タクシーはおろか、1台の車もないのである。
 それまで3ヵ月近く旅したインドの どんな町でも、駅前には リキシャやトンガ(馬車)が待っていて、客を奪いあっていたものだが、ここには どんな乗り物もなかった。いったい町まで、どうやってスーツケースを運ぼうかと考えていると、そばに やって来た子供が、あそこに荷物を置けと 指さす先を見ると、そこには畳3帖ほどの木製の台車が何台か並んでいる。列車で着いた人々は、思い思いに 荷物を台車の上にほおり投げている。これが町までの運搬手段なのだった。それぞれの台車は 道筋が決まっていて、荷物を満載した台車を 子供たちがガラガラと押して行く。自分の家の近くにくると、人は荷物を取って、子供に小銭を与えるのである。

   
城塞と、その下に広がる城下町

 当時、旅行者が泊まれる 唯一の宿泊施設は「トゥーリスト・バンガロー」という、州政府の経営する 簡素なホテルで、それは 駅とは反対側にあったから、私は一番遠い道のりの旅人であった。この、すべての建物が 地面と同じ 黄色い砂岩で造られた都市を横断しながら、子供たちが押す台車の脇を歩き、そして荷物が少なくなると台車の上に あぐらをかいて座り、町や城塞、居並ぶ町家をながめながら、どんなに深い驚きに包まれたことだろう。

 まるで 死んだように眠る その町のたたずまいは、中世の砂漠都市が、まるでタイム・カプセルに乗って、忽然と出現したかのようで、いまだ夜行列車の中の夢から さめやらないかと思われるほどに 幻想的な世界だった。半円形の櫓を並べて うねるように連なる城塞が、街並みの中からスックと立ち上がり、蛇行する道筋に面する両側の建物は、宮殿といわず 寺院といわず、小さな民家に至るまで すべて黄砂岩で造られ、しかもそのファサードは、どの家も細かく彫刻されている。それらが紺碧の空をバックに、朝日を浴びて金色に輝いているさまは、まさに夢のような世界だったのである。

城下町の迷路のような街並み

 このような町を訪ねることになるとは、まったく知らなかった。それまで、この町に関する情報はほとんどなかったし、銀座にあるインド政府観光局で ジャイサルメルについて尋ねたときに得られた情報は、「その町にいく前に、核実験の有無を デリーで問い合わせたほうが良い」ということだけだった。というのも、インドはタール砂漠で核実験をすることがあり、そのニュースは「ジャイサルメル発」となることが多かったので、観光局の人も、ジャイサルメルといえば 核実験のことしか思い浮かばなかったのである。では、なぜ私がそんな町に行ったかというと、じつは目的は町ではなく、ジャイナ寺院なのだった。

 前にも書いたが、インドを3ヶ月旅するにあたって 目標の一つにしたのは、できるだけ多くの ジャイナ教の聖地を訪ねることだった。その情報も なかなか得られなかったが、幸運なことに この 1975年が、ちょうどジャイナ教の開祖マハーヴィーラの生誕 2,500年を記念する年であった。そこで 政府の刊行する 薄っぺらい観光雑誌で、今はない “YATRI”(ヤートリ)が、“JAIN SHRINES IN INDIA” (インドのジャイナ教寺院)という 特集号を出したのである。運良く それを手にいれて、私は ジャイナ教の聖地を訪ねて回ることができた。その中の一つが、このジャイサルメルだった というわけである。

 この町の中には 車が1台もなかった。砂漠の中のコンパクトな都市だから、人々はどこへでも歩いていくことができ、乗り物を必要としなかった。町から遠くへ行くには、市役所とトゥーリスト・バンガローが それぞれ1台ずつのジープを持ち、あとは 昔ながらに ラクダに乗って行くのであった。砂漠という海に浮かぶ、陸の孤島。 車のない、中世の たたずまいの、しかも絢爛たる町は、まさに インドのヴェネツィアであった。かつて栄えた商業都市が、今や観光を主産業とする博物館都市になったという点においても、ふたつの都市は兄弟格である。


ジャイサルメルの歴史

 この驚異的な都市が、なぜ砂漠の中に取り残されるようにして 私達の前に出現したのかを知るには、まずラージプートの概念を知らなければならない。西インドは、北のラージャスターン州と 南のグジャラート州からなるが、ラージャスターンとは、「ラージプートの国」という意味である。

 5世紀以降、中央アジアから進出して来た種族と、西インドの土着の民とが融合して,尚武の氏族が形成された。彼らはヒンドゥ化して、古代クシャトリヤ(王侯・武士階級)の子孫と称し、西インド各地に 王国を打ち立てた。なかには中部インドにまで進出して、カジュラーホに素晴らしい寺院群を残す チャンデッラ王朝のような種族もあった。しかし我々の『千一夜物語』風のインドのイメージを最もよく見せてくれるのは、ラージャスターン地方における、ラージプート諸族の 乾燥した文化である。

チャトライル村の 土の民家と少女

 今回の主人公である バッティ・ラージプート族は、もともとはパンジャーブ地方の出身であって、その王朝の起源は6世紀に遡る(伝説では クリシュナ神の子孫であるという!)。第5代の バッティ王の 623年に、バッティ族の名が始められた。イスラムの東征に押されて パンジャーブを離れ、西インドのタール砂漠を転々とした。10世紀になると、砂漠の中央部の旧都 ロデルヴァを奪取して、ここに定着する。ところが 1026年には ガズナ朝のマフムードが、グジャラート地方の ソムナートへの進攻の途上に ロデルヴァを攻略。1103年には ゴール朝のムハンマドが グジャラートへ進攻する途上に攻略し、ロデルヴァの町を破壊してしまう。

 たびたびの侵略をうけた バッティ族の王 ラーワル・ジャイサルは、防衛上ひよわで、また水源にも不足するロデルヴァの町を放棄することにし、新しい都の地を求める。ロデルヴァから 15キロ離れたところに、格好の要所があった。 そこは砂漠の平原の中にありながら、大きな窪地と、小高い丘があった。窪地は水源となり、岩山は要害堅固な城塞となる。1156年に新都市を建設して 住民をここに移すと、町は王の名をとって「ジャイサルメル」と名付けられた。以後 800年にわたって、砂漠という地の利と、難攻不落の城塞とで、次第に発展していくのである。

 ラージプートは、ラトール族のジョードプルをはじめとして、ブンデールカンド、メーワール、マールワール、ビーカーネルなどの王国を造り、次第に相争うようになる。この「ラージプート戦争」は、西インドの諸地方を不安定にしたので、インドと西方を結ぶ東西貿易にとっては、タール砂漠が比較的安全な通商路となった。一方ジャイサルメルは 16世紀から 17世紀に、大きな戦争には巻き込まれずに 平和を享受したので、各地の商人や銀行家が、ジャイサルメルを安全な避難地として移住するとともに、多くの資産をも移した。それはヨーロッパにおけるスイスのような役割であって、西インドの金融の一つの中心地となったのである。

城塞より城下町を眺める

 デリーのムガル朝のイスラム政権が 北インド全体を支配するようになると、ラージプートのヒンドゥ王国群も 次第にムガル朝に臣従するようになる。ジャイサルメルも 1570年には アクバル帝のムガル帝国に服従し、ハラージ王(1560〜1577)はその娘を、アクバル帝の妃のひとりとして差し出した。イスラムとヒンドゥが融和した、この平和な 17世紀から 18世紀にかけて、ジャイサルメルは東西貿易の中継地として、絶頂期を迎えるのである。

 そのムガル朝の没落は また、ジャイサルメルの斜陽化の始まりであった。英国が開くボンベイやカルカッタなどの港湾都市と 海洋貿易が急速に発展して、砂漠の隊商ルートの重用性が 低下していくからである。1818年には ムールラージ2世王が英国の東インド会社と条約を結び、以後 1947年にインド共和国が独立するまで、イギリス保護下の ジャイサルメル藩王国となった。さらに大英帝国による鉄道網の建設が、デリーやボンベイとシンド地方(現在のパキスタン南部)とを結び付けると、ジャイサルメルは 陸上貿易の中継地としての地位も失ってしまう。
 インドが英国から独立したときには、ジャイサルメルの 70キロ先に パキスタンとの国境線が引かれ、東西を結ぶ通路でさえもなくなってしまった。こうして 外界からまったく忘れ去られてしまったこの町が、再びよみがえり始めるのは、私が初めてこの町を訪れた 20年前(1976)ほどからであった。タール砂漠から 石油が採掘されるようになったのである。


黄金の都市、ジャイサルメル

 ジャイサルメルの市民が最も好む この町の形容は、「黄金の都市(The Golden City)」である。近郊から採れる砂岩は良質で黄色く輝き、その黄砂岩で 宮殿から町家に至るすべての建物が造られた この町の眺めは、その華麗なファサード彫刻とあいまって、「黄金の都市」と呼ぶにふさわしい。
 それは アクバルによるムガル朝の新都市、アーグラの近くの ファテプル・シークリー の都と好対照をなす。というのは、後者は宮殿も大モスクも、すべてが赤砂岩で造られた赤い都だからである。ファテプル・シークリーは水源の不足のために放棄され、そっくりそのまま後世に残された。けれどもそれは、人の住まないゴーストタウンであって、一方ジャイサルメルは 現在もなお人々が暮らし活動をする、生きた都市である。この、いずれ劣らぬ魅力を持つ両者のうち、ファテプル・シークリーばかりがインド建築史に登場して、ジャイサルメルの町が無視されてきたのは、不公平というほかはない。

 ジャイサルメルの位置は、インド砂漠とも呼ばれる タール砂漠の中央にあり、デリーからは 600キロ、ジョードプルから 270キロの距離で、狭軌の鉄道が連絡している。 広大な砂漠には 1本の川もないが、モンスーンの雨がせきとめられて、各所に小さな湖を造り、これが砂漠の民にとっての 唯一の水源となる(それも 乾季には干上がってしまうのだが)。

城内町の民家と寺院

 ジャイサルメルが栄えたのは、ラクダの隊商による 東西貿易の通商ルート上にある オアシス都市だったことである。シルクロードとも結ばれ、絹や香料、インディゴ、そして阿片などを運ぶ中継地として発展し、貿易の相手国はペルシャ、アラビア、イラク、エジプト、そしてアフリカやヨーロッパに及んだ。隊商はこの町で一息つくとともに物資を仕入れ、多額の通行税を納めて 都市と宮廷をうるおした。
 そうした状況は、シリア砂漠の隊商都市、パルミュラ を思い出させる。ヘレニズムの時代に東西貿易の中継地として、パルミュラはあまりに栄え、ローマ帝国から独立するほどになったために、ついにローマに滅ぼされ、女王ゼノビアは捕えられて、ローマの町を引き回されたという。破壊されたパルミュラは、今では砂漠の中の、廃墟の都市遺跡となっているが、ジャイサルメルは(パルミュラほどに古くはないにしても)すべての建物がすっかり残る、生きている町である。

 かつてこの町が引きつけたのは、商人や金融業者ばかりではない。ムガル帝国が北インドを征服するにつれて、ジャイサルメルは ヒンドゥ教徒やジャイナ教徒の避難所となったし、ラージプート相互の争いは、ここを学者や文化人、芸術家の集積地ともした。 建物のファサード彫刻や内部の壁画などは、各地から集まったクラフトマンや石工、画家たちが大いに貢献している。一方 隊商たちは、雨季の間はジャイサルメルで暮らし、雨季があけると家族を離れて 諸国へ旅立つ者が多かった。そのために、家族との離別の歌や望郷の詩、そして 遠く離れた愛の歌などの文学を 多く生んだのである。

 さて都市の構造はというと、まったく中世的である。 街路は自然発生的で、直線的な道路区画や バロック的な都市計画は見られない。同じラージプートでも、ジャイプルの町が碁盤目状の都市計画をしているのとは対照的である。インドでは、古文献には理想的な都市として 幾何学的な図形が提示されているものの、実際には ほとんどその実例がない。インドに都市計画が始まるのは、イスラム文化の到来後であると思われる。それでも ジャイサルメルの城内町と城下町では多少の違いがあり、城下町のほうが やや碁盤目状をしていて、時代の差を示している。

市街図
ジャイサルメルの市街図

 城下町が発展するのは アカイ・シング王の治世の 1722年からであって、城下の建物は すべて 18世紀以降に属する。それまでは 中世的な城塞都市で完結していたのだが、都市が栄えるとともに人口が増え、城内町では 納まりきらなくなったのである。城下町全体を囲む市壁(シティ・ウォール)ができたのは 1750年で、ムールラージ王によって建造された。 そこには4つの門が造られ、ガディサル門、アマルサーガル門、マルカ門、バロン門と名付けられている。残念ながら、市壁の多くは建設資材として持ち去られてしまい、あまり残っていない。

 インドの他の都市と比較して ジャイサルメルが際立っているのは、その密集性である。砂漠の都市として、外敵から身を守るために 都市の境界をはっきりさせて壁で囲むので、平面的に広がることを制約された建物は、高層化していかざるをえない。アーチを用いずに、木造的な軸組み構造の石造建物が、4階、5階と積み重なっているのは 驚くべきことである。
 黄砂岩の石切り場は、ロデルヴァやムールサーガルの近くにあった。砂岩は細工しやすく、しかも陽光に晒していると硬化する という特徴がある。建築は、造形的にはラージプートとイスラムの混合であり、ヨーロッパの影響はほとんどない。家々は、雨があまり降らないので フラットの屋根をしている。

 都市の人口は、1815年に 3万 5,000人だったのが、1960年代の初めには1万人以下にまで落ち込んでいた。しかし 1965年と 1971年の印パ戦争は、ジャイサルメルの重用性を再認識させた。タール砂漠からの石油の採掘もあり、ラージャスターン運河や国道なども 建設されるようになった。ジャイサルメルへの鉄道は 1968年に開通し、トゥーリスト・バンガローは 1974年にオープンした。70年代半ばから、インデラ・ガンディー首相のきもいりで、荒廃していたジャイサルメルの町の 保存と復興計画が始まり、1981年には人口 2万 2,000人にまで回復した。近年は観光都市として、急激な変貌をとげつつある。


城塞(シタデル)

 中世の建築技芸書『シルパ・シャーストラ』では、インドの城は 9種に分類されている。 (1)山の城、(2)水辺の城、(3)砂漠の城、(4)森の城、(5)土の城、(6)人の城、(7)複合型の城、(8)神の城、(9)人工の城 である。
 後半はやや神話的な分類であるが、砂漠といえばタール砂漠のことであり、「砂漠の城」が33番目に置かれているということは、そこがインドと西方との接触面であり、インド防衛の城の必要性も高かったということだろうか。その「砂漠の城」の形を最もよく伝えるているのが、このジャイサルメルの城である。ラージャスターン州に残る城のなかでは、チトルガルの城 に次いで、2番目に古い。

   
ジャイサルメルの城塞と、カルカソンヌの城塞

 ジャイサルメルの城は、軍事施設と支配者の宮殿だけでなく、市民が住む城内町まで組み込んだ「城塞(シタデル)」として、シリアのアレッポの城塞と、フランスのカルカソンヌの城塞を 思い起こさせる。アレッポの街並みの中に スックと聳える岩山の城塞は、ジャイサルメルの城塞とよく似た構図であるが、城内の街並みはまったく残っていず、モスクや宮殿などが散在するのみである。バグダードの古都も残らない今、城郭都市の姿を最もよく伝えるのは、ジャイサルメルとカルカソンヌが東西の双璧ではないだろうか。日本には城下町はあっても城内町はないから、こうした城塞は見ることができない。

 ジャイサルメルの城塞は 1156年に、平地から 76メートルの高さに聳える トリクータの丘に建設された(トリクータとは、「3つの峰」の意である)。ロデルヴァから移された住民は すべて城内に家を建て、当初はカーストごとに 地区を決めて住み分けたという。1577年から 1623年にかけて、スラジ・ポル(太陽の門)、ガネシャ・ポル(象神の門)、ハワ・ポル(風の門)が建造された。スラジとはスーリヤ(太陽の神)であり、朝日の昇る側、つまり東門に名付けられる。入口の上部には太陽の円盤と、トラナ・アーチが装飾として刻まれている。

 城壁は高低 2重に作られ、その間に衛兵の巡警路がとられている。 R・A・アガラワーラによれば、城壁の石積みはモルタルを用いずに、正確な切石で積まれているという。城郭の造形を印象的なものにしている、半円形の稜保の数は 99。そのうち 92は砲台を設けるために、1633年から 47年にかけて建造された。稜保の内部は、衛兵の住居や武器庫として用いられている。城壁の上には 丸い石が並べられているが、これは飾りではなく、大砲が発達する以前の キャノンボール(砲弾)で、城壁まで迫った敵兵の上に 投げおろしたのである。

   
スラジ・ポルと、宮殿の一室から見た城塞

 城内へは、スラジ・ポルを通ってから 180度方向転換をし、すぐにガネシャ・ポルをくぐって、坂道を登って行く。城内町の入口がハワ・ポルだが、その上部は王宮である。日本の感覚でいけば、王宮は城内の一番奥にありそうなものだが、インドでは、まず最初に宮殿があるというのが珍しくない。トンネル状の門を出ると、そこが王宮広場である。イタリアの広場のような造形性はないが、ここは王の謁見からキャラバンの市まで、さまざまな用途に使われる不定形の広場である。道はここから四方に延びて、市民の住居地区や寺院へと続く。


王家と宮殿

 ジャイサルメル王国の王族は、マールワール地方(ラージャスターン地方中西部)を制圧した ラトール・ラージプート族の流れをくみ、王族をラーワルという。国王はよそと同じように<マハー・ラージャ(大王の意)>と呼んでいたが、第 11代のデーヴラージ王のときから<マハー・ラーワル>と称するようになった。ジャイサルメルから 15キロメートルの ロデルヴァに居を定めたのは、この王である。

 12世紀に第 17代のジャイサル王が、現在のトリクータの丘に城塞を築き、城内町を建設した。当然、王宮も造られたはずだが、それは今は残っていない。現在、王宮広場のまわりに見ることのできる宮殿は、16世紀から 19世紀に至るまで順次建設され、絶えず手をいれられた建物群である。それぞれが独立した建物ではなく、お互いにくっつきあっているので、むしろ、絶えず増築され続けたと言ったほうがよいかもしれない。それらを年代順に並べると、次のようになる。
  1. ゼナーナ・マハル (女子の館) 16〜17世紀
  2. サルヴォッタム・ヴィラス アカイ・シング王の治世 (1772〜62年)
  3. ラング・マハル> (色彩の館) ムールラージ 2世王の治世 (1762〜1820年)
  4. モティ・マハル (真珠の館) 1813年(?)
  5. ガジ・ヴィラス (ガジの館) ガジ・シング王の治世 (1820〜46年)

   
城内の古王宮、ガジ・ヴィラス

 広場に面して、城塞の中で最も華麗な姿を誇示している建物が、ガジ・ヴィラスである。足元の2層分の高さは堅固な壁とし、その上の階には<チャトリ(小亭)>を配置し、さらに上の階には 小曲面の庇が連続するバルコニーをめぐらせ、頂部は独立した曲面屋根の あずまやで飾っている。けれども、この華やかな姿を宮殿がまとったのは 19世紀になってからであって、それまでは もっと質実な外観をしていた。 このガジ・ヴィラスは、その奥に古くからある <マルダナ(男子の館)> の手前に増築されたものなのである。写真をよく見ると、ファサードの一段奥の壁面、および右側の<ゼナーナ(女子の館)>のファサードがずっと控え目であるのがわかる。
 ラージプートの宮殿を研究した G・H・R・ティロットソンによれば、ゼナーナ・マハルの裏手に連なる 簡素な 4階建ての建物が、最も古い宮殿 (ジューナ・マハル) ではないかという。またモティ・マハルのファサードは、ほとんどガジ・ヴィラスのレプリカなので、建設順序は ガジ・ヴィラスの後であろうと推測している。

 こうして宮殿を年代順に見ていくと、17世紀末に スタイルの変更があったことがわかる。それまでの剛健なものから 装飾的な表現へと変化していったのは、ジャイサルメルの都が 東西貿易の中継地として発展し、その通行税によって 経済的に豊かになったのと符節しているのである。宮殿群が増築を重ねて形成されていったのも、そのことと関連している。したがってこの宮殿群は、ムガル朝の宮廷地区のように一気に計画されたものではない。デリーや アーグラ に見られるような 四分庭園(チャハルバーグ) や回廊もなく、軸線に沿った配置もない。けれども全体計画の不在ということはまた、城内のジャイナ寺院群にも見られるように、イスラム以前のインドの伝統でもあったと言えるだろう。

 19世紀の後半になると、英国の保護下におかれたラージプート諸国は、次第に ヨーロッパの文化を取り入れるようになる。それまでの宮殿が 新しい生活のスタイルとあわなくなるにつれて、各地で洋風の新宮殿を建てるようになった。ジョードプルやバローダのように、英国の建築家を招いて設計を依頼したケースも 珍しくない。ジャイサルメルもまた 城内の宮殿を捨てて、城下町に新宮殿を建てることになるのだが、他に比べると、洋風化の度合は小さく、伝統的な建築様式を大切にしていたように見える。
 19世紀末から 20世紀初頭にかけて アマル・サーガル門の近くに建設された新宮殿は、ジャワハル・ヴィラスとバダル・ヴィラスのふたつの部分からなる。今も王族が住んでいるが、インド共和国に組み込まれて藩王国を失った王族は、経済的に楽ではなく、多くの王族が その宮殿を博物館として公開したり、ホテルに転用したりしている。ジャイサルメルも例外ではなく、ジャワハル・ヴィラスと、次に述べるジャワハル・ニワスが、今では宮殿ホテルとして営業している。

     
新宮殿、ジャワハル・ニワスと ジャワハル・ヴィラスと タジア・タワー

 新宮殿のなかで一番目につくのは、バダル・ヴィラスの5層の望楼であろう。イスラムのシーア派が ムハッラムの祭りに街を引き歩く<タジア(ハッサンとフサインの墓の写し)>と形が似ていることから、「タジア・タワー」と呼ばれる。実は、これを建てたのはムスリムの職人たちであって、ムスリム・コミュニティから ヒンドゥの王に献上されたのだという。これはジャイサルメルの建築のスタイルと同じく、ヒンドゥとイスラムの融合がかなり行われていたことを示している。
 ジャワハル・ニワスは バイリサル・シング王が、英国のインド総督代理(レジデント)のために 1900年頃に建設したもので、全体としてインド・サラセン様式ではあるが、ヨーロッパ建築の影響が強く、ティロットソンはこれを「ラージプートのカントリー・ハウス」と呼んでいる。市壁の外に位置し、建設当時は「イシャル・バンガロー」という名であった。1982年からホテルとなっていて、私も泊まったものである。夕食には、こちらの注文どおりの中華料理を作ってくれた。



ジャイナ寺院

 ジャイサルメルの王族は、代々ヒンドゥ教徒であった。ところがジャイサルメルには ヒンドゥ寺院にたいしたものがなく、建築的に見るべきものは、いずれもジャイナ寺院である。このことは歴代の王が、ジャイナ教であれイスラム教であれ、異教徒に寛容であったことを意味している。そしてまた、東西貿易や金融を通じて、この都市の経済的実権を ジャイナ教徒が握っていたことを示してもいる。

 以前に書いたように、ジャイナ教は 2,500年の伝統をもち、「アヒンサー」(非殺生、非暴力)をその中心的な教義としている。マハーヴィーラを開祖とし、仏教と同じく東インドに生まれたが、紀元前後の大飢饉のときに 南インドや西インドに移住したと伝えられている。現在では 西インドに最も教徒の数が多く、建築的な傑作も集中している。
 非殺生、非暴力の教義をつらぬくために、ジャイナ教徒は農業や漁業、軍事などに従事せず、もっぱら商工業を生業とした。特に商業や金融業での成功は著しく、全人口の 0.5パーセントしか信者がいないにしては、経済的に大きな力を手にしてきた。そうした商人が寺院を寄進するので、信者数と不つりあいなほどに、立派な寺院を多く建立してきたのである。

   
ジャイナ寺院群と、パールシュヴァナータ寺院のトラナ

 ジャイサルメルの城内町には、<シュエターンバラ(白衣派)>のジャイナ寺院が8院あって、これはヒンドゥ寺院の数の2倍であるから、都市におけるマイノリティであるにもかかわらず、いかにジャイナ教徒の商人が王家に対して力を持っていたかを示している。しかしそれゆえにジャイナ教徒の側にも遠慮があり、寺院内の彫刻にはヒンドゥ教の神々の像をも多く作って、ヒンドゥとの融和をはかったものと思われる。

 マハーヴィーラ寺院が離れて建っているほかは、7つの寺院が一か所に集まっている。しかしこれらは同時に建立されたわけではなく、次のような順序で建てられた。
  1. パールシュヴァナータ寺院 1417年
    (ラクシュマナ・ヴィハーラともいい、建築家の名前はダーナと伝える)
  2. サンバヴァナータ寺院 1431年 (1420年の説もある)
  3. チャンドラプラバ寺院 1452年
  4. クントゥナータ寺院 1479年 (アシュターパディ寺院 ともいう)
  5. リシャバナータ寺院 1479年
  6. シャンーンティナータ寺院 1526年
  7. シータラナータ寺院 1547年

     
サンバヴァナータ寺院とパールシュヴァナータ寺院のインテリア

 王宮と同じく一院づつ、時をへだてて順次建設され、しかも城内町の限られた敷地であるので、(おそらく そのつど、敷地が買い足されたのであろう)完全な形式を整えた寺院は少なく、それぞれに 寺院形式が変形されつつ適用されている。そのことが、同じ集合寺院群ではあっても、アーブ山やクンバリアーとは大いに異なった、都市型のジャイナ寺院群となっている(それらの設計者は、現代日本の建築家と同じような苦労をつんだことだろう)。特に道路をへだてた寺院が 上部ではつながっていたりするので、それぞれの寺院の相互関係が まことにわかりにくい。そのことが、エローラーのジャイナ窟院群 にも似た、変化にとんだ空間体験を与えてくれもする。その相互関係を明らかにすべく、3回目にここを訪れたとき、私は実測を試みたのである。

ジャイナ寺院群
城内町のジャイナ寺院群、平面図

 最も形式の整っているのは、最初に建てられた パールシュヴァナータ寺院である。しかし敷地が狭いために、入口の前面に せっかくの<トラナ>(記念門)が建てられているのに、あまりにも引きがなさすぎる。この寺院の両側には敷地いっぱいに、ごく細長い寺院が 増築のような形で建立された。こうしたプランは、他に類例がない。
 もうひとつの異例は、クントゥナータ寺院の上に 別の寺院、シャーンティナータ寺院が あとから増築されたことで、これもまた過密都市ならではの工夫である。最も密度の高いデザインを見せているのは、チャンドラプラバ寺院であろう。小規模ではあるが、その吹き抜けたランガ・マンダパ とチャトルムカ形式のガルバグリハ(聖室)は、ラーナクプルの寺院 を思い出させる。

 様式的には いずれも、10世紀から 13世紀にかけてグジャラート地方で発展した「ソーランキー様式」を踏襲していて、アーブ山のデルワーラ寺院群 と基本的には同じである。アーブ山では すべてが白大理石で造られていたが、ここでは すべてが黄砂岩で建造され、また異なった味わいを見せて魅力的である。それにしても、西インド全体で何百年も同じスタイルで建てられた寺院を見るにつけ、インド人の保守性を強く感じるのである。

   
チャンドラプラヴァ寺院の天井と、パールシュヴァナータ寺院のトラナ・アーチ

 建築と離れて注目すべきは、サンバヴァナータ寺院の地下にある「ギャン・バンダール」である。<バンダール>というのは、経典や細密画をはじめとする古文献を納める ジャイナ教の書庫で、グジャラート州、ラージャスターン州の各地に作られた。ギャン・バンダールは ジーナバドラ師が 1443年に設立したもので、同師による他の2か所は破壊されてしまったらしい。ここからは ジャイナ教の写本のほかに、仏教関係のサンスクリット経典が 多数発見されたことでも知られている。砂漠の中の孤立したバンダールであるがゆえに、純粋な保存が可能となったのであろう。古い写本は 11世紀に遡り、写本の数は約 3,000、そのうち 500が貝葉(ばいよう、椰子の葉)に書かれている。

 ところで ジャイサルメルには、独立前に 2,700家族のジャイナ教徒がいたというが、今ではわずか 17家族しか住んでいない。ジャイサルメルが 東西貿易の中継地としての役割を終えるにつれて、ジャイナ商人もボンベイやその他の都市に移住していったのである。北方のビーカーネルでは、今もジャイナ教徒が人口の 35パーセントだというのに、ジャイサルメルでは 60パーセントがヒンドゥ、40パーセントがムスリム(イスラム教徒)となってしまった。それでもこの町が気持ちよいのは、昔からの伝統をひいて 宗教紛争がなく、異教徒どうしが友好的なことである。

   
ロデルヴァの パールシュヴァナータ寺

 ジャイサルメルに移る前の古都 ロデルヴァは、1152年と 1615年に破壊されて、今はほとんど跡形もない。パールシュヴァナータに献じられたジャイナ寺院もまた破壊されてしまったが、1675年にタール・シャーハという人物によって再建された。20年前には修復工事の真っ最中であったが、今はトラナ(記念門)まで含めて、見事な姿を砂漠の中に見せている。


ハヴェリー(邸宅)

 ジャイサルメルでは 宮殿や寺院のような モニュメンタルな建物ばかりでなく、街並を構成する都市住居までが、そのファサードを華麗に構成している。黄砂岩の壁面からは、必ずといってよいほど バルコニー が突き出し、小柱で支えられた庇が架かる。そして隅から隅まで緻密に彫刻されているさまは、すべての建物が宮殿ではないか と錯覚させるほどである。
 そうした民家のなかでも 特に立派なものを ハヴェリーと呼ぶ。ハヴェリーは必ずしも石造とは限らず、アフマダーバードやバローダには 木造のハヴェリーも残っていて、英語の マンション(邸宅)に相当するが、ジャイサルメルでは いずれも黄砂岩で建てられている。

   
城下町の パトウォンのハヴェリー

 都市住居は稠密な街区に密集しているので、2階か3階、時には 4、5階建てのものも珍しくない。そして敷地は細長く、間口が狭いので 採光のために中庭を持っている。それは京都の西陣などの町家を思わせる。ただしプランとしては、西陣のような通り庭の構成ではなく、中庭が生活の中心をなして、半戸外のリビングルームのようになっている。ひとつには あまり雨が降らないこと、そして気温が高いので、内外の区別があまりないことによる。

 1階は 原則的に道路から半階分高くなっていて、道の砂ぼこりやごみ、時には砂漠の砂嵐から 生活を守るとともに、住居のプライバシーをも保護する。その構成は ロンドンのタウンハウスの街並みを思わせよう。こうした住居形式は ジャイサルメルだけの特徴ではなく、西インドに広く見られる。なかでも、ジャイサルメルの北の ビーカーネルのオールド・タウンには、赤砂岩によるこうした街並みが多く残っている。
 道路に面して高くなった半階分は、倉庫やごみ置き場となって都市の美観と公共の用に役立っている。そのドアをあけると更に半地下となって、かなりの部屋になっていることもある。上部のプラットフォームは<オター>と呼ばれ、町と家との間の緩衝地帯であり、日本の縁側のような役割をも果たしている。家人はここに座り込んで仕事をし、通りがかりの人と語り合うのである。ジャイサルメルの人々は人なつこいから、私が歩いていると、だれかれとなく話しかけてくる。

 ジャイサルメルで特に有名なハヴェリーが3軒ある。最大、最美のハヴェリーは5階建の「パトウォンのハヴェリー」である。1805年頃、ジャイナ教徒のパトゥアー・グマン・チャンドが5人の息子たちのために建てた5連の家である。パトゥアー家は金銀細工の商人から始まり、手広く貿易商や金融業を営んで、その勢力範囲は西インド全体に及んだ。やはり敷地は狭いから、道路いっぱいに建ち、中世ヨーロッパ同様、上部が街路に迫り出して、一部は道路をまたいでいる。壁面がすべて出窓になって、曲面の庇と細かい彫刻が施されている眺めは壮観で、その豪華さは王宮をも凌ぐ。
 ジャイサルメルの凋落と共に、住み手がよそに移住して空き家となってしまったので、政府が買い上げて一般公開するようになった。上部はサンスクリットの学校ともなっているが、観光化が進むにつれて、下階は観光客相手の店となっている。

   
ナトマルのハヴェリーと、そのインテリア

 「ナトマルのハヴェリー」は、王の大臣 ナトマルによって 1885年に建てられた(バダル・ヴィラス宮殿と同時期)。その バイリサル王が建てて 大臣に与えたのだともいう。今もヒンドゥが住んでいるが、大邸宅にふさわしく 24人の大家族である。やはり5階建で、部屋数は約 40。建てたのは ハティーとルルという、ムスリムの兄弟建築家で、建物の左右を それぞれ担当したと伝える。2階の居間は、壁画でカラフルに飾られている。敷地の裏側も道路に接していて、そちらは主にサービス口、作業場の中庭と ラクダ小屋がある。

   
サリーム・シングのハヴェリー

 もうひとつの豪華ハヴェリーは「サリーム・シングのハヴェリー」といい、王家の世襲の主席大臣 モフタ家の住居である。サリーム・シングは王にまさる権力を乱用し、圧政を敷いたので、多くの住民が町を逃げ出したという。 その苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)のために、1827年に毒を盛られて暗殺された。
 その権力を体現するべくデザインされたこのハヴェリーは、パトウォンのハヴェリーの 10年後、1815年頃の建設で、王権に対抗する高さをもち、バロック的な過剰、デカダンスを示している。最上階が浮かんでいるかのような 大胆なデザインのゆえに、ジャハーズ・マハル(船の宮殿)とも呼ばれる。近年の強風で、東側の端部が破壊されてしまった。

 こうしたハヴェリーをはじめとする、ジャイサルメルの建築の特徴をなす要素は3つある。まず<ジャーリー>と呼ばれる石の格子スクリーンがあげられる。日本の連子窓とも似て 風通しのある壁面を作るが、はるかに細かい彫刻をほどこす。特に<プルダー>(女子部屋)の女たちが 外から見られずに外をのぞき見る壁面に重用される。
 次に<ジャロカー>と呼ばれる 装飾的な出窓が大活躍をする。パトウォンのハヴェリーには、全部で 66ものジャロカーがつけられている。ここにも繊細な彫刻が施されているわけだが、<ジャーリー>もあわせ、これらの部材は ある程度プレファブ化されていたのではないかと思われる。一般庶民の家でさえもファサードを飾りたてることができたのは、こうしたプレファブ化された部材を組み立てて、あとから足していくことができたからではなかったろうか。

   
パトウォンのハヴェリーの ジャロカー

 もうひとつ特徴的なのは、屋根の造形である。とりわけ バルコニーの庇に顕著なのだが、両端部が大きく垂れ下がった曲面屋根が 至る所に見られる。その起源は、実は はるか遠く、東インドのベンガル地方の 民家(バングラー)の屋根にある。今のバングラデシュも含め、ベンガルには雨が多いので、こうした形の草葺き屋根が一般的であり、それは寺院にも採りいれられた。

  
ベンガル地方の民家とヒンドゥ寺院

 ベンガル地方は ムガル帝国にとっての穀倉であったので、ベンガルを征服したムガル朝は、この屋根形態をも デリーやアーグラに持ち帰って、宮殿建築に用いた。ラージプートはこの<バンガルダール屋根>を愛好して、ジャイサルメルにまで伝えたのである。多雨地帯の機能的な形態が、砂漠の建築の造形要素になったというのは、皮肉な話である。余談だが、英語のバンガローもまた「ベンガル風の住宅」を意味しているのだが、そこでは曲面屋根を前提とは していないようである。
 こうした様々な建築要素を ふんだんに用いて 華麗に飾りあげた街は、一種、超現実的な造形の世界を形成して、旅人を驚かせる。 これに最も近いスタイルの建物は、ジャイプルの「ハワ・マハル(風の宮殿)」であろう。


サーガル(人造湖)

 タール砂漠は、およそ 800キロメートルの長さに 320キロメートルの巾がある。砂漠を旅する上で、水場は貴重なオアシスである。その最大のオアシスが ジャイサルメルであるが、その近郊にも 小さなオアシスが点在する。多くは村となっているが、王室によって、砂漠の中の庭園や離宮、あるいは墓園、さらには耕作地とされたところもある。雨水をためて造った人工の池や湖を<サーガル>と呼ぶが、砂漠のことであるから、乾季には すっかり干上がってしまうところが多い。それでも そうした所には地下水があるのだから、多少の植物は育ち、それだけで砂漠の民にとっては「オアシス庭園」となるのである。地下水位は場所によって、30から 130メートルの深さであるという。
 砂漠といっても、すべてが砂地(砂丘)であるわけではない。デザートを「砂漠」と訳したのが間違いなのであって、本来「荒地」の意味である。タール砂漠の大部分も、地下水のおかげで多少の潅木が生え、ヒツジたちは そうした刺のある潅木も ムシャムシャ食べるので、牧畜は可能である。最近は 「土漠」 などと訳す人もいるが、それも おかしな言葉である。どうしても砂丘の砂漠を体験したい人は、ジャイサルメルから ラクダ・サファリで、サーム砂丘まで行くのが良い。

   
ガディサル湖と、湖中のパビリオン

 ジャイサルメルの水源は ガディサル湖(タンク)といって、市壁の外にある。これでは外敵に攻められたとき、水源を絶たれてしまいそうであるが、じつはこの町の下にも地下水があり、城下町にも城内町にも 井戸が設けられている(とはいえ、乾季には井戸の水も涸れがちであった)サル湖は ラーオ・ジャイサル王が、城塞とともに 1156年に造営し(窪地をさらに掘り、堤防を造って 雨水を溜めた)、1367年に ガルシ・シング王が再建した。ガディサルの名は「ガルシのサーガル」が縮まったものである。

 独立後 インド政府は「ラージャスターン運河プロジェクト」を進め、砂漠を緑化しようとしている。1987年には インディラ・ガンデイー運河が完成した。ジャイサルメルには 1965年以来、15キロ先のダーバラ村から 飲み水が引かれているが、今でも毎日 女達が頭に金色の瓶を乗せて、ガディサル湖に水を汲みに来る。1993年からは 40キロ先のデーハ村から水道が引かれたので、この湖は 乾季にも涸れることがなくなった。

 町からガディサル湖へ行くには、ティーロンの門(ポル)をくぐる。これは宗教心の厚い娼妓 ティーロンが、その資産を社会に役立てるべく寄進した。彼女はハイダラーバード(現在のパキスタン領)に住んでいたが、毎雨季には 故郷のジャイサルメルに戻るのを常とした。廷臣たちは、娼妓によるこの行為を快く思わず、この門を取り壊そうとした。これを防ぐために彼女は、門楼の上階にサティヤ・ナーラーヤナ神の像を設置して 寺院のごとくにしたので、誰もこれを壊そうとはしなかったという。
 ガディサル湖の周囲には寺院や廟などが建ち並び、湖中には いくつものパヴィリオンが 浮かぶように建っている。人々はここにボートを浮かべて舟遊びをし、パヴィリオンで憩ったことだろう。砂漠の民にとって、これは楽園のイメージだったにちがいない。

   
アマル・サーガルの ジャイナ寺院

 ジャイサルメルから7キロの地には アマル・サーガルの離宮と庭園がある。 アマル・シング王が 1688年に造営したことから、そう名付けられた。人造湖に接する緑豊かな庭園は、イスラム風に四分庭園(チャハル・バーグ)の形をとっている。
 けれども今では、アマル・サーガルで一番興味深いのは ジャイナ寺院である。 最初の建設年代は諸説紛々であって、よくわからない。私が初めて訪れた 20年前には 工事中であった。その9年後に訪れると、またしても工事中であった。 さらに9年後に訪れると、やはり工事中だったのである。ところが驚いたことに、それは9年前より規模を拡大して建て直しているのだった。その内部は城内の寺院と違って、広々とした矩形のホールをもっている。そして 細部の彫刻の繊細さと密度は大変なもので、スペインのアルハンブラ宮殿を髣髴とさせるものがある。アーグラから連れてきた石工たちが工事をしているという。

 ジャイサルメルから9キロの地、ムール・サーガルのオアシスにも 離宮がある。18世紀末にムールラージ王が造営した。広い中庭を囲んで 回遊式に作られた離宮は、魅力的な空間構成をしているが、建築的程度はあまり高くない。


王家の墓園

 ヒンドゥ教には輪廻転生の思想があり、死んだものは必ず 49日後に生まれ変わることになっていたから、死者のために墓を建てるという習慣はなかった。ところがイスラムがやってくると、王侯のために墓廟を建てる習慣が持ち込まれた。特にラージプートはイスラムの影響を深く受けたので、歴代の王の墓を競って建てるようになった。

 そうした墓地は公園のように整備されて一般に開放されたから、墓園として親しまれることにもなった。なかでもウダイプルの近郊のアハールや、ジャイプルの近郊のガイトールには壮麗な墓園が造られた。ジャイサルメルではそうした墓園が砂漠の丘の上にあり、奇妙になつかしい、不思議な眺めを作っている。そしてまた王侯の墓には年代が刻まれたので、その王国の歴史を知る上で大きな手掛かりを与えてくれるのである。

   
サンセット・ポイントとバダ・バーグの チャトリ群

 ジャイサルメルの町の北西には「サンセット・ポイント」と呼ばれる丘があり、日没時にここへ来ると、夕日に染まる 都市全体の姿を眺めることができる。こにはチャトリ群があり、「ヴィアス・チャトリ」と呼ばれている。<チャトリ>というのは、<チャトラ>というサンスクリット語からきたヒンディー語で、本来は 「傘」 を意味する。 それとの形の類似のイメージから、4本またはそれ以上の柱で支えられる ドーム状の屋根のパヴィリオンを<チャトリ>と呼ぶようになった。小さなものは 建物の装飾要素として用いられるが、大きなものは 単独で墓廟に用いられ、そうした墓をも<チャトリ>と言うようになったのである。(イスラム圏では墓廟を<クッバ>と呼ぶが、これはアラビア語でドームの意である。)

 ジャイサルメルの歴代の王の墓園は、5キロ離れた砂漠のなかの バダ・バーグにある。<バダ・バーグ>とは「大きな庭園」の意で、1513年頃に ジャイ・シング2世王が堤防を築いてサーガルを造り、農園と庭園にした所である。したがって当時は<ジャイタサル>と呼ばれたが、それを完成させたのは、その息子の ルーンカラン王であった。 この丘の上に チャトリ群があって、魅力的な眺めを作っている。ジャイサルメルの市民がここへピクニックにやって来たときには、これらのチャトリが 休憩所の役割を果たしたことだろう。


世界の文化遺産

 ジャイサルメルの建築スタイルは、新しいものの開拓というよりは、それまでの西インドで発展したものの洗練と、地方文化の爛熟期の成果 ということができよう。私達ががこの町を訪れて驚くのは、そうした「過剰の蕩尽」とも言うべき壮麗な世界が、こんなにも遠く離れた砂漠のまんなかに、あたかも蜃気楼のように存在する ということである。そして、ヒューマン・スケールの コンパクトな都市のすべての建物が、黄砂岩という同じ材料、同じ装飾スタイルで 豊かに飾られているミクロコスモスは、ここを訪れる建築家にとって一場の夢、そして見果てぬ夢でもある。

 ジャイサルメルの石造建築の 造形とディテールをつぶさに見ていくと、それはペルシャやローマの 雄大な組積造のモニュメントよりも、むしろネパールのカトマンドゥ盆地にある 木造宮殿を思い出させる。降雨量が大きく違うので,かたや勾配屋根、かたやフラットルーフという違いはあるが、全体の多層構成から 彫刻のディテールや出窓に至るまで、実によく似ている。そこに木と石という、建設材料の決定的な違いがあるとは 信じられないほどである。

  
黄砂岩による民家のバルコニーと、ネパールの出窓

     
ロデルヴァの寺院の柱と、ネパールの木造宮殿

 このことは、ジャイサルメルの建築の構成原理を 端的に示している。つまり、ジャイサルメルの建物はすべて石造であっても、それは根本的に木造起源なのである。宮殿も寺院もハヴェリーも、組積造としてのアーチの原理は使われていず、構造的には 木造的な柱−梁構造で建てられている。寺院のホールや 墓廟のドーム屋根でさえも、アーチの原理ではなく、インド的な 持ち出し構造で造られている。そして木に ほどこすような彫刻パターンを、そのまま 石の部材にほどこしたのである。
 このような、インドにしか見られない 独特のスタイルで すべてが造られた都市が、中世さながらに そっくり残っていると言うのは、きわめて貴重なことである。それはインドにとってばかりでなく、世界にとっても貴重な文化遺産であろう。

 この 20年のあいだに、ジャイサルメルの町は すっかり観光化して、第2のカトマンドゥとなりつつある。ジョードプルからの列車は、毎日昼と夜の2本が満員の旅客を乗せて通うようになり、今では私営の航空会社が 週に数便の小型飛行機を飛ばして、デリー、ジャイプル、ジョードプルと結んでいる。20年前には車も看板もまったくない町だったのに、今では メインストリートに車と看板があふれ、多くの民家が 商店やホテルを営むようになった。
 それでも町の規模は小さく、まだ大きなホテルがないので 観光客のキャパシティは小さく、町の味わいは十分に楽しむことができる。カトマンドゥ盆地には 3つの古都があるが、その中ではドイツの協力もあって、バドガウンの町が 比較的うまく保存と開発がなされている。ジャイサルメルもまた、そのように保存されることを願うばかりである。

「at 」誌 1995年7月号「ジャイサルメル特集」デルファイ研究所




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