THE ARCHITECTURAL WORKS OF LE CORBUSIER
チャンディーガル

ル・コルビュジエの建築作品
チャンディーガル

神谷武夫

チャンディーガル

北インド、パンジャーブ州とハリャーナ州との州都
「近代建築運動への顕著な貢献」として、7ヵ国にまたがるル・コルビュジエの
作品群が、 2016年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録された

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ユネスコ世界遺産への登録

 ユネスコ世界遺産に、ひとりの建築家の作品群が一括されて一件として登録されるという、非常に珍しいケースがあらわれた。タイトルは 「ル・コルビュジエの建築作品、近代建築運動への顕著な貢献(The Architectural Work of Le Corbusier, an Outstanding Contribution to the Modern Movement)」というもので、7か国の17作品にわたる。その「構成資産」の内訳は 次のとおりである。

   フランス     1. ラ・ロッシュ邸+ジャンヌレ邸
    〃       2. ぺサックの集合住宅
    〃       3. サヴワ邸
    〃       4. ナンジェッセ・エ・コリ通りのアパ-ト
    〃       5. マルセイユのユニテ・ダビタシオン
    〃       6. サン・ディエの工場
    〃       7. ロンシャンの聖堂
    〃       8. カップ・マルタンの休暇小屋
    〃       9. ラ・トゥーレットの修道院
    〃       10. フィルミニの文化と青少年の家
   スイス      11. レマン湖畔の小さな家
    〃       12. クラルテの集合住宅
   ドイツ      13. ヴァイセンホ-フの住宅
   ベルギ-     14. ギエット邸
   アルゼンチン   15. クルチェット邸
   インド      16. チャンディーガル
   日本       17. 国立西洋美術館

  
サヴワ邸と ロンシャンの聖堂

 これらの作品名称を見て、ただちにそれら全部をイメージできるという人はめったにいないだろうが、こういう登録のしかたがあり得るとなると、「ライトの建築作品」とか「ロダンの彫刻作品」あるいは「広重の浮世絵作品」というような一括登録申請も出てくるかもしれない。
 そもそもは フランスが、ル・コルビュジエ(1887-1965)の作品をユネスコ世界遺産に登録申請する際に(2004年に、ル・コルビュジエ財団を中心とする委員会が作られた)、フランス国内にあるル・コルビュジエの代表作だけでなく、彼の作品の多様性あるいは発展を示すために数をふやし、さらに彼の作品がある他の国々にも共同申請を呼びかけたことが、このように多数の国にまたがることになった端緒である。日本はそれに応じて、2007年に国立西洋美術館をもって参加した。インドにはチャンディーガルとアフマダーバードにル・コルビュジエの作品群があるが、詳しいことは不明であるが チャンディーガルのみを彼の「公共建築」として参加することにしたものの、何度目かの変更申請時に参加国から降りてしまった。近代都市の保存の体制ができていなかったからではないかとも言われている。しかしその後 紆余曲折があって、インドは 2014年に再びチャンディーガルで参加することとなり、最終的に7か国の、上記17の構成資産として、2016年に登録された。

 本サイトは「インドのユネスコ世界遺産」なので チャンディーガルのみを扱うのであるが、登録名は「ル・コルビュジエの都市設計と建築」ではなく「ル・コルビュジエの建築作品、近代建築運動への顕著な貢献」ということなので、あくまでも建築作品に焦点を当てる。しかし、チャンディーガルにある建物のどこまでが範囲なのか(キャピタル・コンプレクスのみなのか、市内の建物まで含めるのか、小品は除外するのか)あいまいである。このページでは市内の作品はもちろん、ル・コルビュジエ以外の建築家の作品まで含めて、チャンディーガルの都市と建築についての概要を紹介したいと思う。

  
コルビュジエの作品集と チャンディーガルについての本


「ル・コルビュジエ」について

 ル・コルビュジエという名前は あまねく知られていて、建築以外の一般の人でも「近代建築の巨匠」の一人として、つとにその名前を耳にしているだろうし、近くの図書館に行けば、彼自身の著作や 彼について書かれた本を何冊も目にするだろう。彼に関する本は、日本だけでも膨大な数が出版されているのである。ル・コルビュジエについては 実にたやすく知ることができるので、ここでは伝記的なことは省略して、私の撮影してきたチャンディーガルの写真を主として、彼の年代順作品集からの図面を借用しながら チャンディーガルをヴィジュアルに紹介するのであるが、ひとつ気になっていたことを書いておく。

  
ピカソ、ル・コルビュジエ、ネルー

 ル・コルビュジエというのはペン・ネームであって、本名は シャルル・エドワール・ジャンヌレだということは学生時代から知っていたが、なぜ ル・コルビュジエ Le Corbusier などという名前をペン・ネームにしたのか、不思議に思っていた。というのは、「 Le」というのは定冠詞であって、英語の The に相当する。英語で、人名に The がつくということは まずない。フランス語でもそうである。昔 フランス語を教えていた日本人で、建築のことはよく知らなかった教授が、Le Corbusier という名前を本で見て建築家だとは思わず、建設会社の名前だろうと思ったという。
 個人名にしばしば冠詞をつけるのはアラビア語で、例えばアイユーブ朝の創始者で、十字軍を敗退させたことでヨーロッパ人にも「サラディン」の名で知られる アル・マリク・アン・ナーシル・サラーフ・アッディーン Al-Malik al-Nasir Salah al-Din には、「Al」という定冠詞が3つも付いている。特に歴史的に有名な人物には定冠詞がつくことが多いようで、一般名詞に定冠詞がついて固有名詞になると象徴的になるから らしい。

 ル・コルビュジエ財団の委員長だった ジャン・ジャンジェによれば、ル・コルビュジエの母方の祖先に、ベルギー地方に住んでいた ル・コルベジエ(Le Corbezier)という人がいたので、そこからル・コルビュジエ(Le Corbusier)というペンネームが作られたという。先祖は多かったろうから、その中から 冠詞のついた ル・コルベジエを選んだのは、やはり象徴的効果を狙ったのだろうか。調べてみると、昔 フランスのブルターニュ地方には、姓に定冠詞のつく人が多かったらしく、現在 定冠詞のつく姓のほとんどは 先祖がブルターニュ出身なのだという。今回のユネスコ世界遺産の構成遺産の最初に名のある「ラ・ロッシュ邸」のオーナーで、ル・コルビュジエのパトロンでもあったラ・ロッシュ氏も、先祖はブルターニュ人だったのかもしれない(ロッシュ Roche(岩)は女性名詞なので、定冠詞も女性形の ラ(La)である)。ベルギーはブルターニュから遠からずと言えるから、関係がありそうである。(コルビュジエ Corbusier は語尾が e ではないので男性名詞とみなされて、定冠詞も男性形の ル(Le)となる)。
 思うに、シャルル・エドワール・ジャンヌレが 33歳の頃に 定冠詞のついたペン・ネームをまとったのは、岡倉覚三がその雅号に「天心」という、いかにも偉そうな名(漱石や鴎外よりも はるかに)を選んだのと 同類ではあるまいか。ル・コルビュジエというのは、単にペン・ネームの一つというよりは、まさに「雅号」である。今では どちらも、平凡な本名で呼ばれることがない。

新州都・チャンディーガルの計画

  
アルバート・メイヤーによるプランと、
ル・コルビュジエによる初期のスケッチ

 インドがイギリスから独立したのは、今からちょうど 70年前の 1947年である。その際 パキスタンと分離独立したために、北方のパンジャーブ地方はインド側のパンジャーブ州(ヒンドゥが多く住む)と パキスタン側のパンジャーブ州(ムスリムが多く住む)とに二分されてしまった。かつてのムガル朝の首都でもあった中心都市のラホールは パキスタン側に編入されてしまい、インド側に残された主要都市は アムリトサル、ジュルンダル、ルディアナ、アンバラの四つであった。しかし いずれも州都にするには、パキスタン国境に近すぎる その他の欠点があったので、新しい土地に新しい都市を造る案が浮上した。インド共和国 初代の首相 ジャワハルラル・ネルーは 新しい州都を建設することに決定し、翌年 委員会の調査に基づいて、入手可能な土地を選定した。そこにはいくつかの村があり、ヒンドゥ教のチャンディー寺院があったことから、新しい都市は チャンディーガルと名づけられた。

 ネルーは「この都市を、過去の手枷足枷をはらいのけて自由になったインドを象徴するような、新しい都市にしようではないか」と人々に呼びかけた。ケンブリッジ大学に留学したことのあるネルーには、エベニザー・ハワードの田園都市構想が 心にあったようだが、英領時代のインドには イギリス人によるコロニアル建築が建てられてきたせいか(その代表は エドウィン・ラチェンズのニューデリーだった)、過去を清算すべき新州都の都市計画は、アメリカの建築家で都市計画家のアルバート・メイヤー(Albert Mayer 1897-1981)に委ねた。そして植民地時代のインドには建築学校がなく、インド人の建築家は あまりいなかったから、主要な施設のデザインは、メイヤーの友人のクラレンス・スタインの推薦で 若きマシユー・ノヴィッキ(Matthew Nowicki 1910-50)が担当して、メイヤーと協働することになる。

 アルバート・メイヤーはコロンビア大学と MITで学び、ルイス・マンフォードやヘンリー・ライトと共に20世紀初めのアメリカの住宅計画に力を尽くし、イスラエルで都市計画のコンサルタントもした。ノヴィッキはポーランドの建築家で、第2次大戦後、首都ワルシャワの復興計画に参画した。将来を嘱望された建築家で、アメリカのノース・カロライナ州立大学でも教えていて、30代の終わりで チャンディーガルのチーフ・アーキテクトに抜擢されたのだった。
 ネルー首相の知己を得ていたメイヤーは、1949年末にパンジャーブ州政府からチャンディーガルの都市計画の依頼を正式に受けた。彼は当時 50代初めで、一つの新都市を計画できる またとないチャンスに意欲的に取りくみ、5ヵ月後にはマスタープランを提出した。ところがノヴィッキが その夏にインドからアメリカに帰る途次、飛行機の事故によって わずか 40歳の若さで突然世を去ってしまう。信頼する有能なパートナーを失ったメイヤーは意気阻喪してしまい、その計画を続けられずに 中断してしまったのである。( 後にメイヤーはネルーの依頼で、首都デリーの都市整備計画に協力している。)

  
ル・コルビュジエによる初期案と、実施計画の地図

  急転直下、パンジャーブ州政府のチャンディーガル委員会はその年の11月に、新しい建築家さがしにヨーロッパに旅立った。そうやって選ばれたのが、当時のモダニズムの旗手、数々の都市計画案を提案していた(しかし一つも実現しなかった)フランスのル・コルビュジエである。候補だった オーギュスト・ペレーは ル・アーヴル市の再建(2005年にユネスコ世界遺産に登録)のためにフランスを離れられず、フランス復興建設大臣のクロディウス・プチが ル・コルビュジエを推薦したという(最初にル・コルビュジエの名をサジェストしたのはマクスウェル・フライ夫妻であった)。
 しかしル・コルビュジエ(1887-1965)はすでに 63歳、給料の安さもあって インド政府が求めた3年間のインド駐在には応じず、そのために3人の協働者が選ばれた。1人はル・コルビュジエの従弟のピエール・ジャンヌレ(Pierre Jeanneret, 1896-1967)、あとの2人は知人の英国人建築家夫妻 エドウィン・マクスウェル・フライ(Edwin Maxwell Fry, 1899-1987) と ジェイン・ビヴァリー・ドルー(Jane Beverly Drew, 1911-1996) である。

 ピエール・ジャンヌレはスイス人で、同じくスイス生まれの(後にフランスに帰化した)ル・コルビュジエが生地 ラ・ショー・ド・フォンの美術学校を出たように、ジュネーブの美術学校を卒業して建築家になった。従兄のル・コルビュジエより9歳年下だが、かつて 17年間 設計のパートナーを務めてパリで共同事務所を運営したので、ル・コルビュジエの年代順作品集全8巻のうち、第4巻の途中までは2人の連名の作品集 になっている。前述のように ル・コルビユジエの本名は シャルル・エドワール・ジャンヌレといって、ピエールと同じ姓である。シャルル・エドワールがル・コルビュジエというペン・ネームを用いたのは、ピエールとの同姓による混同を避ける意味もあったかもしれない。
 マクスウェル・フライは、ピエール・ジャンヌレよりさらに3歳若く、イギリスの近代建築運動を担った一人なので、CIAM(近代建築国際会議)を通じてル・コルビュジエと親交があった。彼もまた建築、都市計画、絵画、詩と、多彩な活動をし、妻のドリューと共にアフリカにおける都市計画もしていた。

都市の施設計画

 ル・コルビュジエは メイヤーの原案を受け継ぎながら種々修正して、自身の都市計画思想を盛り込んだ。往々にして、ル・コルビュジエが まったく独自の都市設計をしたと思われがちだが、実際は(時間的制約もあったろうが)都市構成の骨子は ほとんどメイヤーのプランを受け継いでいる。都市を格子状の街区(セクター)群に分け、 緑地帯(グリーンベルト)で貫くという構成もそうだし、商業、工業、行政の各センターの位置もメイヤー案そのままである。一番大きな変更は都市の行政、立法、司法をになう「キャピトル・コンプレクス」を 都市の頂部の位置で、都市の顔となるように よりモニュメンタルにしたことだろう。この年、ル・コルビュジエは人体寸法に基づく建築的数値体系について書いた『モデュロール』を出版しているから、都市をも人体のように見たのかもしれない。後にジェイン・ドリューはこの都市を人体になぞらえ、キャピトル・コンプレクスを「頭」、シティ・センターを「心臓」、工業センターを「腕」、大学地区を「脳」などと呼んだ。

 都市のブロック群は北東端のキャピトル・コンプレクスの置かれたところを第1セクターとして、ここから南西に向かって順に番号がつけられた。この第1セクターの南東側には、チャンディーガル計画に最初から関わっていたパンジャーブ州のチーフ・エンジニア、P・L・ヴァルマーの尽力によって、北東の山から流れ落ちるスクナ川をせき止めることによって、 スクナ湖という 大きな人造湖がつくられた。これが都市の大きな 潤いになっている。

チャンディーガル  
キャピトル・コンプレクスの景観と配置図

 ル・コルビュジエの意欲は、市街の計画よりもむしろ、モニュメンタルな キャピトル・コンプレクスの建物群を設計することにあったようだ。マシュー・ノッヴィッキは多少のアイデア・スケッチを残しているが、設計するまでには至らなかったので、ル・コルビュジエは自由に設計できた。州政府が初めから予定していた建物は 政庁舎、議会棟、高等裁判所の3点だった。彼はそれらの設計をするとともに、州知事公邸やその庭園、さらに「オープン・ハンド(開いた手)」などの小モニュメント群も提案し設計した。それらの多くは実現していない。
 その中で 州知事の庭園というのは何だろうと思う人が多いだろう。これは キャピトル・コンプレクスの配置図に描き込まれているだけで、具体的なスケッチは 何も残されていない。これは エドウィン・ラチェンズが ニューデリー計画において、インド総督宮殿(現・大統領官邸、ヴェルサイユ宮殿より大きい)の背後に、インド総督(大英帝国・副王)のための広大なムガル庭園を設計したことに倣ったのであろう。そこには 市民は たまにしか入場できないが、なかなかの出来の 近代的なムガル庭園(四分庭園)になっている。これに対抗しようとしたように見えるル・コルビュジエの庭園デザインが もしも実現していたら、彼の作品群の中でも珍しいジャンルの、興味深いものであったろう。もっとも その面積が ニューデリーのムガル庭園の2倍近くもあるから、州知事のためにしては あまりにスケール・アウトであって、パンジャーブ州政府が これを無視したのも無理はないが。


ラチェンズによる ニュ-デリ-のムガル庭園
  (From "Imperial Delhi", by Andreas Volwahsen, 2002)

 3人の協働者(ジャンヌレ、フライ、ドリュー)は 1951年から現場に事務所を構え、工事の監理をするとともに、フライは 54年まで、ドルーは 56年まで、そしてジャンヌレは 病気療養のために帰国する65年まで(14年間も!)チャンディーガルに住んで、他の施設の設計・監理を行った。(ジャンヌレが帰国の2年後に71歳で没すると、彼の遺灰はチャンディーガルに運ばれ、インドの習慣に倣って スクナ湖に散布された。)
 現地ではインドの若い建築家たちを集めてチャンディーガル設計チームをつくり、詳細設計や監理をすることによって、インドの建築家の教育の役割も果たした。もちろん ル・コルビュジエも 毎年チャンディーガルに行って1ヵ月あまり滞在し、デザインや工事のチェックをし、設計チームの相談に乗った。これと、ル・コルビュジエの弟子であるバルクリシュナ・ドーシのアフマダーバードでの教育と仕事によって、インドの近現代建築は 日本と並んで、ル・コルビュジエ・スタイルが主流となったのである。

 ピエール・ジャンヌレとマックスウェル・フライ、ジェイン・ドルーの3人が設計した 90あまりの建物群は、チャンディーガル建築学校 助教授(当時)の キラン・ジョシ女史によって 1999年に 大きな本にまとめられた。ル・コルビュジエの作品だけでなく、チャンディーガルの都市設計と近代建築を深く知ろうとする人には 必須の本である。

ジャンヌレ、フライ、ドリューの仕事を集成した本

 ル・コルビュジエのチャンディーガル計画については、彼の年代順作品集の第5巻から第8巻までに詳しく掲載されていて、その発展のあとを たどることができる。さらに、この新都市の計画と展開の歴史については、『チャンディーガル、インドの都市を作る』("CHANDIGARH, The Making of an Indian City" Ravi Kalia, 1987)に、実に詳しく書かれている。

都市の全体像と評価

 都市の人口は当初 15万人、最終的に 50万人という想定で計画されたが、後に南西側に拡張されて セクターが更に2列ふやされ、現在は 75万人ほどが住んでいる。これらの住区計画と 共同住宅や学校、その他の日常用途の施設設計が、現地に駐在した3人の建築家の 最も重要な課題だった。ル・コルビュジエは 1965年に没し、他の3人もすでに世を去り、建設以来 50年を経過した新都市は、今や 20世紀の代表的な都市設計として、歴史的な保存の対象となりつつある。

ここで『インド建築案内』(1996、TOTO出版)から、チャンディーガルの都市についての記述を再録しておこう。

 都市全体は碁盤目状に47の「セクター」に分け、その頭ともいうべき部分に「キャピタル・コンプレクス」として中央官衙街を置く。ここから緑地公園が南へ延びて都市を貫き、中ほどの第17セクターが商業地区となる。その整然とした全体計画は、広い道路、ゆったりした施設配置とあいまって、〈ガーデン・シティ〉の理念に貫かれた理想都市と考えられ、この町は世界の近代建築家のバイブルと見なされたのだった。

 事実チャンディーガルは新生インドの若々しい力の象徴となり、世界の最先端を行くこの町を、人々は誇りにした。この町は観光名所となり、州庁舎のエレベータ前には、屋上庭園に行く人が長蛇の列をなした。ところがその後、パンジャーブ州をめぐる政治情勢が厳しくなり、建物への出入りは自由でなくなった。そればかりではない。ガイドブックには、この町が「モダニズムの都市計画の失敗作」とさえ書かれるようになったのである。小さなスケールで さまざまな要素が渾然とした インドの伝統的な都市とは あまりに異質であり、また現状の社会レベルとも乖離が大きく、町は閑散として生気に乏しい。その一方、町の南側には大きなスラムが、密度高く、自然発生的な成長をしてきたのである。インドの階層性の現実を、この町ほどによく示す所はないだろう。

 チャンディーガルの都市計画には批判があるが、コルビュジェの建築はインドの感覚とうまく合っていたと思われる。大きな庇、 ブリーズ・ソレイユ(日除け)、立体的な造形、これらはインド建築の伝統と矛盾しないし、キャピタル・コンプレクスの各建物は、内部空間とあわせて十分に魅力的である。後に建てられた美術館は、アフマダーバードの美術館と東京の国立西洋美術館のプランと形式を踏襲した〈成長する美術館〉である。大学や商業地区の建物は、ピエール・ジャンヌレが設計した。

 これを書いたのは 今から 20年以上前のことで、失敗作と書いた「ガイドブック」というのはロンリー・プラネットのことである。「現状の社会レベルとも乖離が大きい」というのは、例えば車を主とする交通・道路計画がなされているのに、実際は 車など ほとんど走っていず、誰もが自転車に乗っていたし、それさえない人は 炎天下の広く長い道路を延々と歩かねばならなかった、というようなことを指している。言ってみれば、成熟したヨーロッパではなく「遅れたロシアで 最初に社会主義革命が起きたゆえに 失敗に帰した」の同類である。もちろん その後の 20数年でインドは大きく変ったので、今ではそれほどの乖離はないのだが、そうした評価が定着しているために、今回のユネスコ世界遺産の候補となった時も、ル・コルビュジエの「都市計画」としては評価されず、「建築作品」として登録されたのである。

キャピトル・コンプレクス

  
キャピトル・コンプレクス

 都市の一番北の第1セクターには ”キャピトル・コンプレクス” がある。「北」と書いたが、チャンディーガルの碁盤目状の道路パターンは南北軸から約45度ふれているから(当然、ほとんどの建物も そうなる)、第1セクターは都市の北東である。これはアルバート・メイヤーがここの地形を考察して、都市軸を「南ー北」ではなく、ほぼ「北東―南西」に設定したのを、ル・コルビュジエが受けついだためである。しかし本に載せる場合には、通常の地図のように「上を北」にすると うまくページに納まらないので、ル・コルビュジエの年代順作品集を始めとして、すべての本が道路パターンを本のページと平行にレイアウトするので、読者は無意識に「上が北」と思いこんでしまうのである。
 キャピトルとは何かというと、古代のローマの都が七つの丘に囲まれていて、一番高いカピトリーノ(カンピドリオ)の丘に重要な神殿群が建っていたことと、ルネサンス時代には そこにミケランジェロが 有名なカンピドリオ広場を設計し、この正面のセナトリオ宮殿が 現在の市庁舎で、ここがローマの中心となっている。そこから英語や仏語では国や州の政治の中心地や議事堂をカピトールやキャピトルと呼ぶようになった。最も名高いのはワシントンD.C.の米国国会議事堂で、その一帯がキャピトル・ヒルである。
 ル・コルビュジエはチャンディーガル計画において、都市の頭部の「中央官衙街」をカピトールと呼んだが、彼の前にアルバート・メイヤーとマシュー・ノヴィッキがキャピトル・コンプレクスと呼んでいたのを踏襲したらしい(エドウィン・ラチェンズはニューデリーの中央官衙街(インド総督官邸を含む)のある ライシナの丘を、そうは呼ばなかった)。もっとも、これらの建物群を我々は 便宜上「キャピトル・コンプレクス」と呼んでいるが、ル・コルビュジエ自身はこの地区を単に「カピトール」あるいは「カピトール公園(Le Parc du Capitol)」と呼んでいた。州都の中心施設群であるから、キャピタル・コンプレクスと言ってもかまわない。

 この第1セクターには住区はないので、これらの建物は平原のような広大なエリアにポツン、ポツンと 遠く離れて建っている。こうした「中央官衙街」というのは、ブラジリアとチャンディーガルのような近代の計画都市だけであろう。ただ、それらの建物を彫刻作品と見立てた野外建築博物館と思えば、ル・コルビュジエの建物はいずれも彫刻的で立体感に富み、諸所に配した水面とともに、魅力的な公園である。
 とはいえ、私が初めて訪れた 今から 40年前は 世界各地の紛争が一段落し、テロ事件もあまりない、つかの間の平和な時期だったので、この中央官衙街も牧歌的で、のんびりと歩き回ることができたが、その後インドではアムリトサルやカシュミールの紛争などが起き、主要3施設の構内は それぞれフェンスで囲われ、立ち入り禁止や撮影禁止の場所が多くなった。そして樹木も成長したので、かつてのように建物群を見渡せる度合いも小さくなった。中心となるのは “セクレタリアト”(行政庁舎)、“パーラメント”(議会棟)、“ハイ・コート”(高等裁判所)の3つで、それ に小さな “日陰の塔” や “開いた手のモニュメント” などがある。マスター・プランのところに書いたように、州知事公邸は基礎工事だけで中断してしまったので、見ることができない。

政庁舎(セクレタリアト)

  
政庁舎のファサードと屋上庭園

 現地に行かずにル・コルビュジエの本の写真だけ見ていると、高等裁判所や議会棟の大胆な彫刻的造形に比べて、政庁舎は板状のオフィスビルなので、あまり重要ではないと思われやすい。ところが現地に行くと、その存在感に圧倒されて、むしろ他の2者よりも偉大に見えてくる。なにしろ高さ 35メートルの建物の全長が 250メートルもあり、しかもファサード全体を均一のパターンにしてしまう 世の中一般のオフィスビルとくらべて、はるかに立体感と陰影に富んだ、ダイナミックで彫刻的なコンクリートによる造形をしている。そのことはユニテ・ダヴィタシオンにも言えるだろう。彼は根本的に造形美術家であった。
 もちろん、ファサードの大部分は ブリーズ・ソレイユ(日除け)であって、チャンディーガルの暑熱の気候をコントロールするという機能をもっているわけだが、工業化された国からの旅行者が見れば、このコンクリートのファサードは あまりにも重たすぎると感じられることだろう。これに比べると、この 20年前にアンアトニン・レイモンドが南インドのポンディシェリーに設計した「シュリー・オーロビンド協会の寄宿舎」では、はるかに軽々と、アスベスト(今では使えないが)による可動の ブリーズ・ソレイユが実現していた。

 ここの屋上は、ル・コルビュジエの「近代建築の5原則」の中の第2番「屋上庭園」の、細長くはあるが、ユニテ・ダヴィタシオンにおけるのと並ぶ実現である。「屋上庭園」というより「空中庭園」と呼んだほうがよいかもしれない。前述のように 40年前の つかの間の平和な時代には、インド人観光客が列をなして政庁舎のエレベータに乗り込み、展望台の役割をはたす この屋上庭園で感嘆の声をあげていたものだが、建物への入場が制限されるようになってからは、かつてのにぎわいが嘘のように ひっそりとしている。しかしここに登ると、キャピトル・コンプレックスの構成がすべて見渡せる。

議会棟(パーラメント)

 私の学生時代には チャンディーガルはフランス語読みのシャンディガールと呼ばれ、近代建築のバイブルのように言われたものだった。それまでの様式主義の建築と 美観主義の都市計画に対して CIAM(近代建築国際会議)が主張した、国際様式の建築と 機能主義の都市計画の理論と方法は ヨーロッパには実践の場がなく、新都市として大規模に実現したのは インドのチャンディーガルとブラジルの新首都ブラジリアのみであった。したがって当時の建築家たちがそこに見たのは、様式主義との「闘い」を勝ち抜いた モダニズムの都市と建築の建設現場なのであって、インドの風土や建築伝統との関わり方の当否 ということではなかったのである。いわば、ここは モダニズムの「勝利の都」なのであった。

 さて 政庁舎の東にあるのが議会棟である。これも 100メートル角の大規模な建物である。その外観上一番の特徴をなすのは、高等裁判所側に 建物本体とは独立した巨大なコンクリートの、庇のような傘のような、一種の日除け、雨よけ用の構造物である。年代順作品集第6巻を見ると、計画初期にはずっと薄くて柱の数も少なかったのが、高等裁判所やロンシャンの聖堂の設計と工事が進むうちに次第にエスカレートして、巨大な独立屋根になっていったらしい。この時期、ル・コルビュジエは 何よりもモニュメンタルな彫刻のような建築作品をつくることに全力をあげていた。この「まくれ上がったコンクリートの庇」は、日本の建築家たちにも影響を与えた。前川国男の、初めは控えめな京都会館のものから、東京文化会館の非常に大きなものへと発展していく。

  
議会棟(パーラメント)と議場内部

 しかし本来、屋根の庇というのは 雨を早く遠くへ追いやるのが目的なのであって、「まくれ上がった」形では 逆に雨を呼び込んでしまうし、コンクリートの表面は大いに汚れる。近代建築家が標榜した機能主義と芸術表現とは、しばしば矛盾し始めたのである。

 もう一つの特徴は、列柱式の大ホールの中に、円形プランで双曲放物面(ハイパボリック・パラボロイド)の壁をもった議場を嵌め込み、上半分を屋根の上に突出させ、その最上部を斜めに切断して採光面としたことだった。マシュー・ノヴィッキのドーム型の議場よりは ずっと進んでいたと言える。これは所員だった(作曲家で数学者でもあった)ヤニス・クセナキスの貢献であったかもしれない。このコンクリートのシェル構造は 壁厚が 平均わずか 15cmであり、非常にローコストであると、年代順作品集で自賛している。

  
議会棟の大扉と パネルの1枚

内部は、議会の会期中でなければ 内部を案内してもらって、幻想的な大ロビーや、双曲放物面の独特な形態の議場を見ることができるが、内部は撮影禁止である。

小モニュメント群

 ル・コルビュジエは議会棟の東に、細長い一種の公園を構想した。その一番山側に州知事公邸が建つはずだった。一番市街側には幾何学的な丘があり、両者の中間に「日陰の塔」と「殉教者のモニュメント」が、彼の没後につくられた。これら全体の計画意図は、なかなか理解しがたい。
 「日陰の塔」は 北面がオープンで、他の3面が ブリーズ・ソレイユで囲まれている、半戸外のジャングル・ジムのようなコンクリートの建物、というか工作物である。広大な「カピトール公園」のなかで、歩行者に日陰を提供する休息所と思われるが、その外形は あまり魅力的ではない。

  
日陰の塔と 殉教者のモニュメント

 「殉教者のモニュメント」というのは、広場から斜路が、直角の螺旋状に、何もない 小さなサンクン・ガーデンに降りていくだけで、モニュメントという感じは薄い。正方形のサンクン・ガーデンの中央に、彫刻でもほしいところである。「殉教者たち」というのが 誰のことなのかも不明で、私などは、かつてパンジャーブ地方の独立運動をして、アムリトサルの黄金寺院でインド政府(インディラ・ガンディー首相)の軍と銃撃戦をして死んだ人たちを想いうかべてしまうが、そんな人たちの慰霊碑が州政府のカピトール公園に作られるはずもなかろう。
 ただル・コルビュジエは ラ・ロッシュ邸以来、よほど斜路(ランプ)が好きだった。彼の多くの建物(特にインド)に斜路があり、空間的にも造形的にも重要な役割を果たしている。

 この東方には、ル・コルビュジエ・ファンにお馴染みの「開いた手(オープン・ハンド)」がある。年代順作品集を見ると、彼は初めから「開いた手」をチャンディーガルのシンボルにしようとしていたらしく、多くのスケッチを残している。しかしオープン・ハンドの意味について、彼は明確には語っていない。ただ ある時パリで 自然に心に浮かんできて、長いことそのイメージを培養しつつ、いくつもの絵や彫刻にしてきたという。チャンディーガルには その最大のものが、ル・コルビュジエの没後20年に インドの建築家の発案で、世界から寄付を募って 1986年に建設された。
 私が奇妙に思っているのは、日本で出版されたほとんどの本が この「ラ・マン・ウヴェルト(La Main Ouverte)」を「開かれた手」と訳していることである。ル・コルビュジエが思い描いたのは、他人によって開かれた手ではなく、何かをつかんだり、意思表示したり、握手したり、行動を起こしたりしたりするために、自分で「開いた手」のはずだ。私はいつも「開いた手」と訳している。

 さて、『インド建築案内』(1996、TOTO出版)の英語版が 2003年にインドで出版された時、そのプレス・リリースに招かれて インド各地で講演会をした。特にチャンディーガルでは インド建築家協会の チャンディーガル・パンジャーブ支部に歓迎されて、表彰状や 、チャンディーガル支部のシンボルともなっている「開いた手」を縮小した楯、それにパンジャープ州政府が かつて出版したル・コルビュジエの本 を贈られた。

         
「開いた手」のモニュメントと、チャンディーガル支部の表彰楯


高等裁判所(ハイ・コート)

 キャピトル・コンプレクスの最後に控えるのが高等裁判所であるが、実際にはこれが一番早く設計され 建設されて、1956年に完成した。造形的には、チャンディーガルの中で ル・コルビュジエが最も気にいっていたらしい建物である。ロンシャンの聖堂をも思わせるのは、同じ時期の設計であって、アフリカの自由な形のモスクにインスピレーションをえた聖堂の彫刻的表現が、両者の設計過程で相乗作用をおこしたのではなかろうか。
 最も目立つのは、暑熱の気候に対処するための大屋根(傘)をかけたことである。こうすれば室内への太陽熱の侵入をくい止めるというわけだが、はたしてどれだけ費用対効果があったのかは定かでない(つまり、コンクリートのように熱容量の大きい材料による傘では、下部への熱放射も ばかにならない)。

 初期のスタディでは 屋根の連続アーチと関連づけて、前面のファサードにも小アーチを並べていたが、最終的には他の建物と同じように ブリーズ・ソレイユとした。前面の池に姿を映しているところは、まるで古典建築を見ているようである。何よりも、端部を一直線とした「浮き屋根」が、深い陰影を作って、大きな造形的効果を生んでいる。私には タージ・マハル廟の二重殻ドームが 思い出されてならないが、 こうした「彫刻的建築」が、インドの建築伝統(特にヒンドゥ建築)に連続しているとは言えよう。

高等裁判所(ハイ・コート)夕景

 政庁舎と同じように このファサードも、単にブリーズ・ソレイユを全面にわたって均一に並べるのでなく、非対称に区切って、その間に3本の独立柱を立てているのが効いている。その背後にはオープンな「斜路室」があり、変化にとんだ半外部空間を見せている。斜路(ランプ)を上り下りするにつれてこの半外部のロビー空間を 中空から体験し、遠く議会棟や政庁舎まで眺められる。

 キャピトル・コンプレクスの建物はいずれも、基本的に内外とも打ち放しコンクリート(ベトン・ブリュット)の建物である。法廷においては、音の反響が大きすぎて裁判進行の妨げになる。そこでル・コルビュジエは各法廷用にタペストリー(つづれ織り)を制作して壁にかけ、吸音性を高めた。すべてル・コルビュジエの原画によって、1955年から56年にかけてカシュミールの工房で織られた。その総量は 650平方メートルに及ぶ。ただ それらの絵に、議会棟の大扉ほどの密度と迫力がないのは、エナメル焼き付けと織物との違いによる、制作上の制約からくるのかもしれない。もっとも 法廷には、あまり華々しいタペストリーは目ざわりかもしれない。議会棟のロビーにも多くのタベストリーが吊られている。

  
高等裁判所の背面とロビー

 この大規模なビルには 大法廷(といっても12m×15m程度)が1室と、小法廷が8室あるに過ぎない。後にこの東側に法廷群のビルが建てられて連結した。ル・コルビュジエの原案に基づいているらしいが、全く異質のデザインに見える。

ロック・ガーデンとレイク・クラブ

 上述のように、コンクリートのまくれ上がった庇や アーチ列の上の屋根のように 多少の曲線はあるものの、基本的には 全ての建物が直角による幾何学でできていて、それはチャンディーガルの都市計画と同様である。そうした幾何学的環境に耐えきれない人たちもいる。それを代表するように、ル・コルビュジエの機能的で幾何学的な都市へのカウンター・バランスとして 1976年に登場したのが、自由奔放な彫刻庭園の『ロック・ガーデン』である(キャピタル・コンプレクスとスクナ湖の間)。
 作者のネック・チャンド(1924-2015)は本業の彫刻家ではなく、市の道路視察官であったが、都市の廃材を集めては順次 彫刻を進めていったという点で、フランスの郵便配達夫シュヴァルの『理想宮殿』や、アメリカの『サムの塔』と似ているが、それらよりはるかに広いエリアを開拓した。これらの彫刻は、もともとの起伏に富んだ岩質の地形を損なうことなく、穴を彫ったり基壇を作ったりして建築的な操作を積み重ね、驚きに満ちたシークエンスを演出している。

  
ロック・ガーデンと レイク・クラブ

 第1セクターをさらに少し南東へ足をのばすと、人造湖のスクナ湖に面して ル・コルビュジエによる小規模な「レイク・クラブ」という名のヨット・クラブの建物がある。ル・コルビュジエが亡くなるっ前年の1964年に建てられた。中庭を囲んでコンクリートのフレームが整然と立ち並び、自由な形のレストランがくみこまれている。今は増築されて、規模が大きくなった。

市内の建築

 市内では第 10セクターに文化施設群がある。ここには ル・コルビュジエによる「美術学校」、「市立美術館」と「展示パビリオン」、そして シヴダット・シャルマによる「生活進化の博物館」 が道路に沿って一列に並んでいる。市立美術館は、アフマダーバードの「サンスカル・ケンドラ美術館」、東京の「国立西洋美術館」と三部作をなす「成長する美術館」のコンセプトで設計されていて、内部空間の雰囲気もよく似ている。

  
市立美術館と 展示パビリオン

 チャンディーガルは近代芸術の都市であるという考えから、フランスのエコール・デ・ボザールにならって、大学とは別個に 美術学校と建築学校が早くに建設された。両者はル・コルビュジエによってほとんど同じデザインがなされているが、建築学校はここから離れてパンジャーブ大学のキャンパス内にある。

  
美術学校と 建築学校

 この文化ゾーンの はす向かいの第 17セクターが “シティ・センター” で、都心のマーケット(ショッピング・センター)が広がり、その南側が バス・ターミナルである。マーケットの建物は 全て 同じ打ち放しコンクリートの円柱とバルコニーが続いていて、いささか退屈である。ここにはもう少し華やかな建物が必要だったろう。

  
中央図書館と マーケット地区

 たとえば、南隣りの第 22セクターの中央部には、マックスウェル・フライが設計した映画館 「シネマ・キラン」があり、シンプルでありながら魅力的な近代建築として、地区のシンボルとなっている。


マックスウェル・フライの シネマ・キラン

 都市の西端が パンジャーブ大学のキャンパスで、インドでは デリー大学などと並んで、レベルの高い大学になっている。建築学校は その第 12セクターにあり、第 14セクターにはピエール・ジャンヌレの 「ガンディー・バワン」(マハトマ・ガンディー記念館)や B・P・マトゥールの「学生会館」、そして第 11セクターのマックスウェル・フライによる 「カレッジ・フォー・メン」 その他多くのカレッジが建ち並んでいる。
 一番目を引くのは ガンディー・バワンで、規模は小さいものの、自由な造形が池に姿を映して 静謐(せいひつ)なたたずまいを演出している。この隣りには大学美術館があり、その横が ピエール・ジャンヌレによる美術学部の建物である。

  
パンジャーブ大学の学生会館と ガンディー・バワン

 チャンディーガルの建設がほぼ完成した 1965年頃には、モダニズムに対する批判が 若い世代から起こりつつあり、その画一性や退屈さ、伝統との隔絶などが 批判の組上に乗せられた。そうした動きに「ポスト・モダニズム」という名が与えられるのは だいぶ先のことであるが、たしかにチャンディーガルは、かつてのポルトガルによる植民都市 ゴアと同様、伝統と切り離された 非インド的都市であると言えるだろう。しかしこの都市を計画した側も受容した側も「インド的な都市」の実現を求めたわけではないし、また日本ではインドの建築や都市の伝統への知識などなかったから、チャンディーガルに対する毀誉褒貶(きよほうへん)は、 あくまでも「モダニズム」に対するそれなのであった。

市外の スクワッター

 最後に、インドの都市の現実を知るには、デリーからの幹線道路が 市内に入る手前の両側に広がる スクワッターにも目を向けて欲しい。これらは、計画都市内には住めない低所得層の人々が不法占拠して 廃材で建てた住居群である。リキシャ・ワラーも、家族とともに ここに住んでいることだろう。 市内の緑園都市にゆったりと配された住居群に住むのは、官僚や富裕層の市民である。 こうした住環境の激しいギャップは、単にチャンディーガルの行政の問題ではなく、インド全体が かかえる問題で、それが ここに最も鮮明な形で現れている。

  
チャンディーガルの郊外に広がるスクワッター

 市内の住民は、世界の最先端を行く都市に住んでいるという、かつての自慢げな意識ほどではないにせよ、今でもこの町を誇りにしているが、市外のスクワッターに住む低所得の人たちは、それとは別の疎外感をもっていることだろう。ヨーロッパにおける都市計画の方法を そのままインドに適用したル・コルビュジエが、「アーキテクチュア・フォー・ザ・プアー(貧者のための建築)」を標榜した エジプトの建築家、ハッサン・ファティのような存在でなかったことだけは確かである。

( 季刊「旅行人」2004年 夏号の記事に加筆・増補、2017/ 08 /01 )




「無限に成長する美術館」の計画


チャンディーガル市立美術館

 ユネスコ世界遺産に登録された「ル・コルビュジエの建築作品」(7か国、17作品)の中に、日本からは上野の国立西洋美術館(東京)が含まれている。チャンディーガルにも市立美術館があり、「成長する美術館」という、共通のコンセプトの上に設計されている。その最初に実現されたのものはアフマダーバード(インド)のサンスカル・ケンドラ美術館だった。つまり、3つの内の2つが インドの遺産なのである。日本のものとあわせて、ル・コルビュジエの一連の美術館とは一体どういうものだったのかを ここで簡単に説明しておこう。

 「成長する美術館 」の出発点は 1928年の「ムンダネウム」(一種の国際連合の中心施設)計画中の(誇大妄想的な)ピラミッド状の「世界認知の博物館」計画だと言われることが多いが、これは かなりコンセプトが異なる。ブリューゲルの「バベルの塔」を四角くしたような印象であって、そこでは「無限成長」という概念がテーマになってはいない。最初に階段かエレベーターで頂部に行き、螺旋(らせん)状の展示室を降りてくるというのは、むしろライトのグッゲンハイム美術館の考えに近く、外観は「ファサードがない」どころか、ピラミッドのような モニュメンタルなものである。

 「成長する美術館 」の原型は、年代順作品集第2巻に掲載の、『美術手帖(カイエ・ダール』誌の編集長・クリスチャン・ゼルヴォ(Christian Zervos)に宛てた 1931年の書簡j形式の提案、パリの「現代美術館(Musée d'Art Contemporain)」である。
 これは、ある美術館という恣意的な「建物」の提示ではなく、美術館を実現させるための、自然界の有機的成長に倣った「方法」の提案であった。初めから予算が十分になくとも、どこかパリの郊外の畑の中に、建物を 最小部分から発して 順次 螺旋状に増築していくことによって、次第に本格的な美術館にするという考えで、その過程では 建物の外観は気にしない(ファサ−ドがない、あるいは見えない)という思い切った提案であった。つまり 観覧者は門から地下道を通って中央部に行き、そこから、最小の費用で造られた展示室を見てまわる、その展示室は螺旋状に延長し得る、絵の寄贈者は絵と同時にその部屋も寄付して (!) その名を残し得る、というものである。

「現代美術館(Musée d'Art Contemporain)」
十分に成長した姿の 平面図と鳥観図
(From "Le Corbusier, Oeuvre Complète 1929-1934", Zurich)

  "MUSÉE À CROISSANCE ILLIMITÉE"(無限に 成長する美術館)という言葉が登場するのは、年代順作品集第3巻 の中の、1937年のパリ万博用のプロジェクト C「現代美術センター(Un Centre d'Esthétique Contemporaine)」である。ここでは 地下道によるアプローチというのはやめて、普通にエントランスから中央ホールへと導く。その代わりに展示室をすべて2階に上げて、観覧者は中央ホールへから 折り返し斜路(ランプ)で上階へ上がり、螺旋状に展示室をまわる、展示室は螺旋状に成長していくことができる というものである。

パリ万博用のプロジェクト C「現代美術センター」
"Un Centre d'Esthétique Contemporaine" a Paris
(From "Le Corbusier, Oeuvre Complète 1934-38", Zurich)

 さらに明瞭な「無限に成長する美術館」というプロジェクトを作ったのは 1939年で、その原理の説明と模型写真が 年代順作品集第4巻に載っている。アルジェリアのフィリップヴィルに建てるはずだったが、実現しなかった。フランスの植民地だった時代にフィリップヴィルと呼ばれ(「ルイ・フィリップの町」の意)、今は古名のスキクダ(Skikda)という名になっている町で、そこには ル・コルビュジエが シャルル・ド・モンタラン(Charles de Montalant)と共同で設計した市庁舎 (1932) と鉄道駅 (1937) がある(モダン・デザインではなく、伝統様式で)。そのつながりで 美術館も提案したのだろう。

「無限に成長する美術館」、アルジェリアのフィリップヴィルに計画。
巻貝のように 螺旋状に成長していく美術館の図式
"Musée a Croissance Illimitée" pour la ville de Philippeville
(From "Le Corbusier, Oeuvre Complète 1938-46", Zurich)

   フィリップヴィル市立美術館はピロティの上に建物を浮かせ、中央ホールから斜路(ランプ)で上がる2階の展示室が螺旋状になっていて、後に実現する3つの「成長する美術館」とまったく同じような空間構成と形態になっている。きちんとした模型まで作っているから、かなり設計を煮詰めたのだろう。
 しかし、もし本当に展示室が延長、増築されるとしても、それは渦の1巻きか、せいぜい2巻きぐらいが限度だと思われるから、「無限に」という言葉は、ル・コルビュジエ一流の ジャーナリスティックな 誇張的キャッチフレーズである。単に「成長する美術館」でよいと思う。

フィリップヴィルの 市立美術館 1939年計画

 このフィリップヴィルの「成長する美術館」は実現せず、結局 次の3つが実現した。年代順に、アフマダーバードと、東京と、チャンディーガルである。

アフマダ-バ-ドの サンスカル・ケンドラ美術館 1957年竣工

 これらの美術館のファサードが、ル・コルビュジエの作品にしては 造形的な立体感に乏しく ものたりなく感じられるのは、美術館が渦巻状に増築されていけば、新しい展示室に隠されてしまい 内部の 単なる仕切り壁になってしまうからであって、「ファサードをなくして」いるのである。

東京の 国立西洋美術館 1959年竣工


チャンディーガルの 市立美術館 1968年竣工

 東京の国立西洋美術館は 手ぜまだったので、展示面積を増やすために 1979年に新館を増築した。しかしそれは本館の展示室を螺旋状に伸ばすのではなく、本館の裏側(北側)に独立させて建設した。現在に至るも、美術館を螺旋状に成長させてはいない。「無限に成長する美術館」という、建築家としてのル・コルビュジエの美術館構想は、根本的に否定されたことになる。つまり、失敗作だと認めたことになる。こうした状態で、「ル・コルビュジエの建築作品」として国立西洋美術館を ユネスコ世界遺産に登録するというのは、実に奇妙なことである。登録運動をしてきた機関・人々は、建築家としてのル・コルビュジエの精神や芸術性を顕彰するのではなく、単にネーム・ヴァリューのある「ユネスコ世界遺産」に登録して、観光収入を増やことだけが目的だったのだろうか。
 前庭の土盛りと植栽も多すぎる。ユネスコ世界遺産に「ル・コルビュジエの建築作品」として登録されたのだから、もとの姿に戻すべきではないだろうか。ミュジアム・ショプも、新館か地下に移すのが良い。

( 2017/ 08 /01 )




   ● インドにおける、ル・コルビュジエを始めとする近代建築家の仕事については、
     この HP の中の「インドとモダニズムの邂逅」のページを参照。

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