ENJOIMENT in ANTIQUE BOOKS - XXVI
岡倉覚三 著
『 茶の本 』
Kakuzo Okakura :
"THE BOOK OF TEA"
Fox Duffield, New York, 1906

神谷武夫
『 茶の本』
初版の布装本『 茶の本』1906年

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 「古書の愉しみ」の第 26回は、岡倉天心(1862-1913)の英文著書を採りあげます。彼は日本語では書物としての著作を公刊せず、独立した3冊の著書は すべて英文でした。最初が ”The Ideals of the East” 『東洋の理想』(1903年)、次が ”The Awakening of Japan” 『日本の覚醒』(1904年)、最後が “The Book of Tea” 『茶の本』(1906年)です。この3冊のうち、どれをメインにするかと考えたとき、美しい本を紹介しようとする「古書の愉しみ」のサイトとしては、『茶の本』が一番好ましく思われました。小型の本ながら、渋い緑色の布装に 金文字箔押しのタイトルのみを入れたその装本が、実に高雅で美しく思われるからです。

 岡倉天心と書きましたが、実はこれら3冊の英文著作の著者は「岡倉覚三(Okakura Kakuzo)」であって、「天心」ではありません。しかし一般的に 彼の名は岡倉天心の名で知られ、その全集はおろか、3冊の英文著作の邦訳版も、ほとんどすべてが「岡倉天心著」と変えられています。『茶の本』の邦訳書で「岡倉覚三著」としているのは、一番古い 村岡博訳の岩波文庫版と、逆に一番新しい 木下長宏訳の『新訳 茶の本』(2013、明石書店)くらいでしょうか。いったい何故そういうことになったのか。

 それは、彼の創設した日本美術院の後継者たる横山大観をはじめとする弟子筋が、「覚三」という本名よりも「天心」という雅号のほうが格調高く、神格化するのに もってこいだと考えたらしく、覚三の一周忌に、再興日本美術院の敷地内に「天心霊社」を建て、死後8年目に出版した全集を『天心全集』と題したので、岡倉天心の名が次第に広まりました。それを決定的にしたのは、最初の英文著作『東洋の理想』の書き出し ASIA IS ONE.(アジアはひとつなり)が 戦時中、政府と軍部によってアジア侵略のためのスローガンに利用されたことでした。そのために岡倉天心の名は単に美術界ばかりでなく、一般国民や言論人の間に広く浸透したのでした。木下長宏氏は『新訳 茶の本』の解説において

岡倉覚三はこれまで「岡倉天心」と呼ばれてきた。しかし「岡倉覚三」と「岡倉天心」は別人と云いたいくらい、「天心」という呼称のもとで、異種の人間像と思想像が伝えられてきた。

として、彼の言う「天心神話」を一掃すべく、諄々と説いています。この「古書の愉しみ」では、そうしたことに深入りしませんが(木下著をお読みください)、実際 ここで採りあげる3冊の本はすべて岡倉覚三著なので、天心の名は控えめに使うことにします。

 私の事務所の近く、歩いて 10〜15分のところに 東京都の「染井霊園」があり、そこに岡倉覚三の墓があります。そこは閑静な墓地であり、しかも桜の名所なので(江戸時代に今の巣鴨から駒込のあたりは染井村と呼ばれ、植木職人が多く、吉野山の桜に匹敵する美しい桜の品種を開発したことから、その新種の桜はソメイヨシノと名付けられました)、よく自転車で散歩に行きます。

岡倉天心家の墓
岡倉天心の墓

 その岡倉家の墓所には覚三とその両親の墓があります。今まで何度も訪れていますが、今回あらためて写真を撮りに行ってみると、覚三の墓には「釈天心」の三文字のみが刻まれています。「釈」というのは釈迦の略で、「釈+二文字」というのが、浄土真宗の法名です。浄土真宗には「戒名」というものをつける習慣がなく、むしろ生前に仏徒としての「法名」をつけるのです。そこには本人が自分の好きな文字を入れることもできますので、覚三は時おり絵や詩に「天心」という雅号を落款として使っていたことから、それを法名にしたようです。宝塔状の両親の墓には父と母と父の後妻がそれぞれに「釈+○○+信士(あるいは信女)」と書かれていますが、これらは生前に法名をもらっていなかったので、死に際してつけた、よその宗派の戒名に相当するのでしょう。(父・勘右衛門は福井藩士の出で、福井県は浄土真宗の盛んなところです。)

 そうしてみると、岡倉覚三は、その著書を含め 公式な場では一度も天心という名を用いなかったけれど、法名につけるくらい気に入っていた雅号なのでしょうから、岡倉天心と呼んでも、(もう国粋的なイメージは薄れて)問題ないだろうとは思います。

 このページを書き上げたあとで、『岡倉天心 人と思想』(橋川文三編、平凡社、1982)を読んでいたら、その中に、彫刻家の 平櫛田中(ひらぐし でんちゅう 1872-1979)による「岡倉先生」という文があり、当時のことを書いているのが見つかりました。それによると、岡倉覚三が死んだのは9月2日でしたが、翌3日に 平櫛が「根岸の菩提寺に 葬式のことを頼みに行き、戒名の院号の相談」をし、帰ってから皆と相談したが「あれこれと なかなか決定しない。」そこで、彼の(真宗の)じいさん・ばあさんが本山にお参りして おこうぞり(剃髪のこと)を受けた時に、もらった戒名(生前だから法名のこと)が「釈何々」、「釈尼何々」だけで院号も居士もない至極簡単なものであり、覚三も真宗なので、「釈天心」だけでどうか、と提案したら 由三郎先生(岡倉覚三の弟で英語学者だった岡倉由三郎 1868-1936)が、それでよろしい、と賛成して決まった、とあります。
 要するに「釈天心」というのは、本人がつけた法名ではなく、僧がつけたものでもなく、弟子たちがつけた、戒名としての法名だったのです。岡倉本人は「天心」の名を 正式には用いなかったけれど、弟子や家族の間では 親しまれていたのでしょう。

 *  *  * 

 私が岡倉天心の名に親しんだのは、実は高校時代のことです。美術と文学が好きで、毎日 絵を描き、小説を読んでいました。当時、平凡社から『世界名画全集』という廉価な画集のシリーズが毎月1冊だか出ていて、それは高校生にも買える値段だったので、新刊を買っては毎日見ていました。それは同じ全集の中に西洋絵画の巻と日本絵画の巻を同等に並べていました。私の高校の美術部の先生は芸大の油画科の出身でしたので、私ももっぱら 洋画系の絵やデッサン を描いていましたが、画集では日本画を(新古を問わず)見るのも好きで、秋の上野の展覧会では、二科展と院展を同日に見てくるのが常でした。

 で、日本美術院のこと、東京美術学校のこと、近代日本の美術の歴史なども図書館の本で読んで、岡倉天心の名に親しみ、その弟子たち、横山大観や菱田春草、下村観山などが どんな歩みをし、どんな絵を描いたかを知りました。岡倉天心の詩というか 狂歌というか、

   谷中うぐいす 初音の血に染む紅梅花
   堂々男子は死んでもよい。
   奇骨侠骨、 開落栄枯もなんのその
   堂々男子は死んでもよい。

などは暗記してしまったものです。高校を終わると、岡倉天心が創設した(と言ってもよい)東京芸術大学に入りましたので、一層「天心」に親しみを覚えました。しかし私は建築科だったので、絵とはしだいに離れ、「天心との付き合い」も少なくなりました。それでも ずっと後になって「愛書趣味」をもち、多少値の張る古書も買えるようになると、岡倉覚三の『茶の本』、『東洋の理想』、『日本の覚醒』の英文三部作の初版本を所有したくなり、古書店をさがして、できるだけ保存のよいものを手に入れたというわけです。
 それら3冊の本の内容については、翻訳や解説書がたくさん出版されていますので、ここに屋上屋を重ねることはせず、ただ愛書家として、また建築家の立場で言えることだけを 記しておこうかと思います。

『茶の本』
岡倉覚三『茶の本』 初版、1906年

 『茶の本』は(他の本もそうですが)小型の本で、古い言葉で言えば「袖珍本(しゅうちんぼん)」というところです。深緑色の布装で、タイトルが背にも平にも金の箔押しで書かれていて、あとは型押しの四角い枠取りがあるだけで、他には何の装飾もありません。「古書の愉しみ」第18回の堀辰雄全集で書いた「純粋造本」と言うべく、実に典雅で美しい装幀です。天金も施されていて、これは私のお気に入りの本の1冊となりました。ただ中身は文字だけで1点の挿図もありません。文学書だったらそれでも良いのですが、日本のお茶の文化を西洋人に伝えるというのであれば、文章だけでなく、図版があったほうが良かったでしょう。しかし、それがもっと必要だった 最初の英文著作『東洋の理想』にさえも図版がなく、2番目の『日本の覚醒』にもなかったので、岡倉はそれに慣れきっていたのかもしれません。
 けれどもこの本は、日本の「茶道」を西洋に伝えようとしたものではありません。むしろ茶という中国伝来の飲み物を通じて、日本の文化の特質を思うがままに語ったものと言えるでしょう。章立ては(木下訳で)、

    第1章  人間主義茶の一椀
    第2章  茶の流派
    第3章  道教と禅
    第4章  茶室
    第5章  芸術鑑賞
    第6章  花
    第7章  茶人たち

となっていますが、これは理論的著作ではなく、興の赴くままに縦横に書いた随想なので、叙述は演繹的ではなく、アフォリズムの連続のような印象もあります。読み易い章と 読みにくい章とがありますが、第4章の「茶室」は 最も読者に親切に、平易に論述しているので、英文でも楽に読めます。この書は第4章から読むのが一番よいのではないかと思います。

『茶の本』
岡倉覚三『茶の本』の内容

 これと対照的に、第3章の「道教と禅」は実に わかりにくく(こちらが道教のことを知らないということもありますが)、全体の論旨も個々の文章も理解できないことが多いので、訳者たちも ずいぶん苦労して翻訳しているのが見てとれます。たとえば村岡博訳の岩波文庫 45ページの一節は、

「道教でいう絶対は相対であることは、すでに述べたところであるが、倫理学においては道教徒は社会の法律道徳を罵倒した。というのは彼らにとっては正邪善悪は単なる相対的の言葉であったから。定義は常に制限である。「一定」「不変」は単に成長停止を表す言葉に過ぎない。屈原いわく「聖人はよく世とともに推移す。」われらの道徳的規範は社会の過去の必要から生まれたものであるが、社会は依然として旧態にとどまるべきであろうか。社会の慣習を守るためには、その国に対して個人を絶えず犠牲にすることを免れぬ。教育はその大迷想を続けんがために一種の無知を奨励する。人は真に徳行ある人たることを教えられずして行儀正しくせよと教えられる。われらは恐ろしく自己意識が強いから不道徳を行う。おのれ自身が悪いと知っているから人を決して許さない。他人に真実を語ることを怖れているから良心をはぐくみ、おのれに真実を語るを怖れてうぬぼれを避難所にする。世の中そのものがばかばかしいのに、だれがよくまじめでいられよう!」

 これを読んで ただちに全体の論理を理解できる人がいるでしょうか。まず屈原の「聖人は よく世とともに推移す。」という言葉が突然 挿入されている理由がわかりません。聖人が世とともに推移するのは正しいと言っているのか、まずいと言っているのか(皮肉なのか)。これは屈原の原典を参照するとその訳文の意味らしいですが、岡倉が書いた英文は、

Said Kuzugen --- “The Sages move the world.”

です。これは the world が move の目的語であって、「聖人たちは世界を動かす。」としか読みようがありません(ほとんどの訳書における受動的な態度とは異なる、積極的な姿勢です)岡倉は何が言いたかったのでしょうか。

そして その次に続く多数の断定命題を読むと、次々と疑問がわきます。

● 人は「恐ろしく自己意識が強い」から、「不道徳を行う」のでしょうか?
● 「おのれ自身が悪いと知っている」と、「人を決して許さない」でしょうか?
● 「他人に真実を語ることを怖れている」から、「良心をはぐくむ」のでしょうか?
● 「おのれに真実を語るを怖れて」いると、「うぬぼれを避難所にする」でしょうか?

これらは 何度 英文で読んでも、翻訳で読んでも、理解できません。
最初の命題の原文は、

We are wicked because we are frightfully self-conscious.

です。村岡訳では、

「われらは恐ろしく自己意識が強いから不道徳を行う。」

ですが、別の訳者たちは これを、

「われわれが邪悪なのは、おそろしく自意識が強いからである。(桶谷訳)
「私たちはおそろしく自意識が強く、いまわしい存在だ。」(大久保訳)
「過剰に自意識を働かせると、不道徳と非難されるのです。」(木下訳)

さて、どの訳が一番妥当でしょうか。また、意味がとれるでしょうか。
 おそらくこれらは、何かを論証するために書かれたのではなく、岡倉の詩的独白なのではないでしょうか。彼が言いたかったことは 単に、最後の

「この世の中 それ自体がこんなにも馬鹿げているというのに、どうして まじめになどやっていけるだろう。」(木下訳)

という、まるで高橋和巳の破滅小説『悲の器』を地で行ったような岡倉覚三の人生に対して 世間がなした 仕打ちに対する、彼の「うっぷん晴らし」、極端に言えば「呪詛」のようなものだったのではないかと思われます。(これらは 屈原の思想の解説のようにも読めますが。(村岡訳だけが、上記引用文のあとに「といい、」と、英文にはない句を付けています。)
 要するにこの書物には、日本の文化の美質を語るときの 晴朗な楽天主義と、世の中や人間に対する シニシズムとペシミズムの羅列のような部分が共存していて、それが岡倉覚三という人の複雑な内面を表現しているのでしょう。

岡倉天心三部作
岡倉覚三の英文三部作、左から 『東洋の理想』、 『日本の覚醒』、 『茶の本』

 さて、岡倉天心の業績として人々がまず思い浮かべるのは、「近代日本における美術教育の制度設計をした人」ということだと思います。彼は、この「古書の愉しみ」で採りあげた エドワード・フリーマン(第5回)や ジョン・ラスキン(第9回)のように早熟で、1880年(明治13)にわずか 19歳で東京帝国大学を卒業して文部省の官吏となりました。最初は「音楽取調掛」に勤務しましたが、上司の井沢修二と ウマがあわず、1885年(明治18)に「図画取調掛」が設立されると、東大時代の師、アーネスト・フェノロサ等とともに委員となり、以後は美術行政一筋に邁進することになります。この「音楽取調掛」が後に東京音楽学校となり、「図画取調掛」が東京美術学校となり、ずっと後、昭和の戦後の学制改革によって、5年制の専門学校だった両者が合体して、4年制の新制大学、東京芸術大学の音楽学部と美術学部に改組されることになります。新生大学になっても、教官・学生ともに、学部名よりは昔の「美校」「音校」という名で呼ぶのを常としました。

 美術学部は 近年拡充していますが、伝統的には、絵画科、彫刻科、工芸科、建築科、芸術学科で構成されていました。(芸術学科というのは、実技よりも芸術理論や美学・美術史を学ぶ科です。)絵画科は日本画専攻と油画専攻に分かれ(「油画」というのは、かつての「西洋画」ということです)今では油画コースのほうが日本画コースの2倍以上の人数となっていますが、1890年(明治23)にわずか 28才で二代目(実質的には初代)の東京美術学校校長となった岡倉覚三は、美校に西洋画コースを設けず、絵画は日本画のみとしたのです。

『東洋の理想本』
岡倉覚三『東洋の理想』 初版、1903年

 東京美術学校は文部省の管轄ですが、それ以前に、当時あった工部省が 1876年(明治9)に「工部美術学校」を開設していました。そこではイタリア人の美術家たち(絵画のフォンタネージ、彫刻のラグーザ、建築のカペレッティ)を招聘して、西洋美術の摂取を目ざしていました。岡倉とフェノロサはこの洋化主義の風潮と真っ向から対立し、当時退潮の一途にあった日本の伝統美術の復興を目指したのです。結局、伝統派が勝利して、工部美術学校は 1883年(明治16)に廃止になり、1887年(明治20)に伝統美術の輸出政策と合致した東京美術学校が設置されました。(開校して生徒を迎えるのはその2年後で、横山大観らが、その第1期卒業生です。)

 西洋美術の模倣ではなく、伝統美術の発展を求めるという岡倉覚三の理念は理解できます。それは夏目漱石の言う、内発文化の奨励ということでしょう。漱石は「現代日本の開花」という明治44年の講演で、こう語っています。

 「西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。ここに内発的と云うのは 内から自然に出て発展するという意味で ちょうど花が開くように おのずから蕾(つぼみ)が破れて 花弁が外に向うのを云い、また外発的とは 外から おっかぶさった他の力で やむをえず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。
 今まで内発的に展開して来たのが、急に自己本位の能力を失って 外から無理押しに押されて否応(いやおう)なしに その云う通りにしなければ立ち行かないという有様になったのであります。」

 岡倉としては、日本美術を開花させるためには、内発的な道をとるべきだというわけです。そして、こうした岡倉の態度が さらに、日本をアジアの一員と位置づけ、アジアの美術全体の復興を目ざす論となって、「アジアはひとつなり」で始まるアジア美術史『東洋の理想』を書かせるに至ったことも、理解できます。手前味噌で言えば、日本の大学の建築学科で、西洋建築史と日本建築史と近代建築史しか教えず、日本がその一部であるアジアの建築を教えないことに反発して、インド建築やイスラーム建築の調査・撮影と研究に進んでいった私自身の軌跡と重なるからです。

 *  *  * 

 けれども 建築家の立場から言って、岡倉覚三には 非常に残念な点があります。おそらく 彼の師であるフェノロサの体質でもあったのでしょうが、岡倉もまた絵画、彫刻、工芸の分野に傾いてしまって、建築を おろそかにしたことです。明治初年、苦境に陥っていた日本の伝統美術は 絵画や工芸ばかりではありません。西洋化の波に押されて日本の伝統建築は省みられず、興福寺の五重塔が薪代として、わずか 10円で売りに出されたというのは有名な話です。伝統絵画や彫刻の復興をうたうなら、伝統建築の復興も うたってよかったはずです。
 いずれ美校に 黒田清輝等によって西洋画コースが設けられ、次第に日本画を圧倒していったように、西洋建築コースが設けられるにしても、最初は岡倉の願いどおりに 伝統建築のコースを作ってもよかったはずです。

『日本の覚醒』
岡倉覚三『日本の覚醒』 英国版、1905年

 岡倉覚三やフェノロサは 1886年(明治19)に欧米美術視察の任務で 9か月間もヨーロッパに滞在をしました。この時、各国の美術学校を視察、調査し、中でもフランス美術の総本山たるパリ美術学校(エコル・デ・ボザール)を 東京美術学校の手本にしたはずです。ボザールというのは 17世紀に創立され、建築家を養成する「建築アカデミー」と、画家と彫刻家を養成する「絵と彫刻アカデミー」とから成っていました。ここで育った美術家は 国のモニュメンタルな施設の仕事をするのが第一の目的でした。絵画や彫刻は建築の一部として、当時の古典主義の建物を飾る仕事が主だったので、それを統括する 建築家が、どのプロジェクトでも優位に立ちます。世界の美術学校は、建築科を中心とするのが普通だったのです。
 ところが岡倉覚三は、東京美術学校に建築科を設けなかったのです。明治21年に制定された「東京美術学校規則」には、

第1条  東京美術学校は絵画 彫刻 建築および図案の師匠を養成する所とす

と規定されています。ところが開校したあとの 明治 23年の同規則では、

第4条  ただし、建築科は 当分これを欠く

としています。どういういきさつがあったのかは わかりません。考えられるのは、美術学校設立を明治新政府に認めさせる方便が、国の目標たる「殖産興業」の一環として、美術品の輸出による 外貨かせぎの基盤を作る、ということだったのです。しかし 絵画・彫刻・工芸は輸出できますが、建築は輸出できませんから、建築科の予算が付かなかったのかもしれません。「建築科は 当分これを欠く」という条文は、いつまでも続きます。それから 20年以上もたった 明治も終わり近く、明治44年の「東京美術学校年報」には、次のように書かれています。

「建築科設置の件」
明治 22年 本校創設の際、教科を分ちて、純正美術 および 美術工芸とし、建築科は 絵画・彫刻とともに 純正美術の中に列したりしも、当時は予算の都合により、当分これを欠くこととせしが、その後 図案科を加設するにおよび、図案科の名義のもとに 工芸図案と建築装飾とを併せ課することとなして 今日に及べり。(中略) 官立専門学校において 建築科の設あるも、すべて 建築の構造を主とするものにして、建築の装飾を専攻せしむる所なきをもって、この種の専門家の需要 急なるものあり。今 本校既設の図案科を分科して 建築科を特置し、図案科をして専ら工芸図案のみを学習する所とせば、両者 各 その特技を専らにし、その成績一層 著大なるべきを信じ、来年度より これを実施せんことを計画し、46年度予算において その設備費を要求せり。」

 とうとう明治時代には建築科が設置されず、大正3年になって 図案科が第一部(工芸図案)と第二部(建築装飾)に区分され、やっと大正 12年に 第二部が独立して「建築科」となったのでした。(今和次郎は図案科の時代、吉田五十八は図案科第二部の最終卒業生です。)

 しかし 美校創立時に 建築科が設置されなかったのは、予算の問題ばかりではなかったでしょう。それは、岡倉覚三もフェノロサも 建築に対する情熱を持ち合わせていず、もっぱら絵画や工芸に心を奪われていたからだと思われます。
 『東洋の理想』を ロンドンのジョン・マリー社に紹介し、序文まで書いたイギリス婦人 ニヴェディタ(マーガレット・ノーブル)は、その序文の中で、岡倉覚三を ウィリアム・モリスになぞらえました。しかし、もしも モリスが岡倉の立場だったら、アーツ・アンド・クラフツ運動によって工芸品の美化運動に傾注していたにしても、建築科なしの美術学校など、思いもつかなかったことでしょう。モリスが作った「理想の書物」の工房たる ケルムスコット・プレスでは、彼の講演『ゴチック建築』を出版しているくらいで、彼の美術的関心の中心には、常に建築がありました。

 モリスの師である ジョン・ラスキン、そしてイギリスを代表する歴史家となった エドワード・フリーマンは、どちらも大学で建築を専攻したわけでもないのに、若くして 建築の本を書いて出版してしまったことは、「古書の愉しみ」の第9回に書いた通りです。そこでも嘆いたように、近代日本の知識人には 建築の教養が欠け、建築愛好者が少なく、建築の本を書く文人というのも、ほとんど現れませんでした(夏目漱石は 高校時代に建築家になろうと思ったそうですが、特に建築の本を書いてはいません)。
 東京美術学校に建築科を設置するためには、日本画に対して岡倉がそうであったように、建築に対して情熱を持った 「旗振り人」が必要だったのでしょう。

岡倉覚三
『茶の本』執筆の頃の岡倉覚三、ボストン美術館の中庭にて
(『岡倉天心アルバム』中央公論美術出版、2000 より)

 ただ『茶の本』の第4章「茶室」は 一種の建築論であり、ここを読むと、岡倉覚三は「建築」について 正しい理解をもっていたことがわかります。無知や偏見があったわけではありません。Architecture の語の用い方も、後の日本人(建築家でさえも)のような誤った使い方(「建物」や「建設」を意味させるような)は 決して していません。
 おそらく、もっと大きな問題だったのは、東京美術学校よりも早く、工部省による、後の東京大学工学部の前身たる「工部大学校」が 1873年(明治6)に設置され、その中に、当時「造家学科」と称した建築学科があり、すでに 1879年(明治12)には 第1期卒業生として、後に日本銀行本店や東京駅を設計することになる 辰野金吾らを送り出していたからです。明治 22年に開校する東京美術学校に建築科を設けることに、工部大学校で形成されつつあった建築アカデミーが 良い顔をするわけは なかったでしょう。明治政府も、工部大学校で建築を教えている以上、東京美術学校には、重複することになるような予算を付けなかったのだと思われます。
 こうして、東京美術学校では「建築科の設置」は名目だけで、大正時代になるまで実現されず、ために 日本における建築教育は もっぱら工学部における「建設教育」として行われることになったのでした。東京美術学校に初めから建築科が設置されていれば、工部大学校と切磋琢磨しながら、その後の日本の建築界の在り方、建築家の社会的地位、プロフェッションの確立などについて、大いに益するところがあったはずですが、実際には 最悪の状態になってしまたったわけです。

 *  *  * 

 話が ずいぶん横にそれてしまったので、再び『茶の本』に戻ります。岡倉覚三の英文三部作の初版を所蔵したものの、どれにも まったく図版がないことに物足りなさを覚えていましたら、図版の入った版があることを知りました。

『茶の本』
岡倉覚三『茶の本』 英国版、1919年

 前述のように、岡倉覚三の最初の本『東洋の理想』の初版は 1903年に英国のジョン・マリー社からでしたが、翌年の 1904年には アメリカのドッド&ミード社から 米国初版が出版されました。この「古書の愉しみ」で何度も採りあげた ジェイムズ・ファーガソンの本は、英国のジョン・マリー社で刊行された後に、米国版は 常にドッド&ミード社から出版されていますから、英米の両出版者間には つながりがあったのでしょう。(ジョン・マリーについては、第4回の『図説・建築ハンドブック』を参照してください。以前は慣例に従って John Murray を「ジョン・マレー」と表記していましたが、誤った発音で書くことに耐えきれなくなったので、すべて正しい発音の「ジョン・マリー」に直しました。)

 次の『日本の覚醒』は逆に、1904年にアメリカのセンチュリー社から初版が出て、翌年の 1905年にイギリスのジョン・マリー社から 英国初版が出版されました。ところが最後の『茶の本』の場合は、1906年にアメリカのフォクス・ダフィールド社から初版が出たあと、イギリスのジョン・マリーは その英国版を出版しなかったのです。どういう事情があったのか わかりません。英国版が出たのは、13年後の 1919年です。それもロンドンのジョン・マリー社ではなく、エディンバラ(スコットランド)の T・N・ファウリス社からだったのです。ファウリス社というのは、20世紀前半に多くの美しい書物を出したことで知られています。この『茶の本』は、それまでの岡倉の本の初版と違って、カラフルなジャケットに包まれ、瀟洒なデザインの表紙、多くの図版と、なかなかに魅力的な本に仕上がっています。これを手に入れて、私の蔵書の「岡倉コレクション」は完結したというわけです。

(2014/09/01)



< 本の仕様 >
 岡倉覚三(天心) Okakura Kakuzo: 『茶の本』 "The Book of Tea"
   Fox Duffield & Company, New York, 1906
   初版、ニューヨーク、フォクス・ダフィールド社、1906年初版
   袖珍本、19cm x 12cm x 2cm、160ページ
   布製本、濃緑色、天金、重量:310グラム



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