『 茶の本 』 |
「古書の愉しみ」の第 26回は、岡倉天心(1863-1913)の英文著書を採りあげます。彼は日本語では書物としての著作を公刊せず、独立した3冊の著書は すべて英文でした。最初が ”The Ideals of the East” 『東洋の理想』(1903年)、次が ”The Awakening of Japan” 『日本の覚醒』(1904年)、最後が “The Book of Tea” 『茶の本』(1906年)です。この3冊のうち、どれをメインにするかと考えたとき、美しい本を紹介しようとする「古書の愉しみ」のサイトとしては、『茶の本』が 一番好ましく思われました。小型の本ながら、渋い緑色の布装に 金文字箔押しのタイトルのみを入れた その装本が、実に高雅で美しく思われるからです。 岡倉天心と書きましたが、実は これら3冊の英文著作の著者は「岡倉覚三(Okakura Kakuzo)」であって、「天心」では ありません。しかし一般的に 彼の名は岡倉天心の名で知られ、その全集はおろか、3冊の英文著作の邦訳版も、ほとんど すべてが「岡倉天心著」と変えられています。『茶の本』の邦訳書で「岡倉覚三著」としているのは、一番古い 村岡博訳の 岩波文庫版と、逆に一番新しい 木下長宏訳の『新訳 茶の本』(2013、明石書店)くらいでしょうか。いったい何故 そういうことになったのか。 それは、彼の創設した 日本美術院の後継者たる横山大観をはじめとする弟子筋が、「覚三」という本名よりも「天心」という雅号のほうが 格調高く、神格化するのに もってこいだと考えたらしく、覚三の一周忌に、再興日本美術院の敷地内に「天心霊社」を建て、死後8年目に出版した全集を『天心全集』と題したので、岡倉天心の名が 次第に広まりました。それを決定的にしたのは、最初の英文著作『東洋の理想』の書き出し ASIA IS ONE.(アジアはひとつなり)が 戦時中、政府と軍部によって アジア侵略のためのスローガンに利用されたことでした。そのために 岡倉天心の名は単に美術界ばかりでなく、一般国民や言論人の間に 広く浸透したのでした。木下長宏氏は『新訳 茶の本』の解説において
として、彼の言う「天心神話」を一掃すべく、諄々と説いています。この「古書の愉しみ」では、そうしたことに深入りしませんが(木下著をお読みください)、実際 ここで採りあげる3冊の本はすべて岡倉覚三著なので、天心の名は 控えめに使うことにします。 私の事務所の近く、歩いて 10〜15分のところに 東京都の「染井霊園」があり、そこに岡倉覚三の墓があります。そこは 閑静な墓地であり、しかも 桜の名所なので(江戸時代に今の巣鴨から駒込のあたりは 染井村と呼ばれ、植木職人が多く、吉野山の桜に匹敵する 美しい桜の品種を開発したことから、その新種の桜は ソメイヨシノと名付けられました)、よく自転車で散歩に行きます。
![]() その岡倉家の墓所には 覚三とその両親の墓があります。今まで何度も訪れていますが、今回 あらためて写真を撮りに行ってみると、覚三の墓には「釈天心」の三文字のみが刻まれています。「釈」というのは 釈迦の略で、「釈 + 二文字」というのが、浄土真宗の法名です。浄土真宗には「戒名」というものをつける習慣がなく、むしろ 生前に仏徒としての「法名」をつけるのです。そこには 本人が自分の好きな文字を入れることもできますので、覚三は 時おり 絵や詩に「天心」という雅号を 落款として使っていたことから、それを法名にしたようです。宝塔状の両親の墓には父と母と、父の後妻が それぞれに「釈 +○○+ 信士(あるいは 信女)」と書かれていますが、これらは 生前に法名をもらっていなかったので、死に際してつけた、よその宗派の 戒名に相当するのでしょう。(父・勘右衛門は福井藩士の出で、福井県は 浄土真宗の盛んなところです。) そうしてみると、岡倉覚三は、その著書を含め 公式な場では一度も天心という名を用いなかったけれど、法名につけるくらい 気に入っていた雅号なのでしょうから、岡倉天心と呼んでも、(もう国粋的なイメージは薄れて)問題ないだろう とは思います。
![]() 私が 岡倉天心の名に親しんだのは、実は高校時代のことです。美術と文学が好きで、毎日 絵を描き、小説を読んでいました。当時、平凡社から『世界名画全集』という廉価な画集のシリーズが 毎月1冊だか出ていて、それは 高校生にも買える値段だったので、新刊を買っては 毎日見ていました。それは 同じ全集の中に西洋絵画の巻と日本絵画の巻を 同等に並べていました。私の高校の美術部の先生は 芸大の油画科の出身でしたので、私も もっぱら 洋画系の絵やデッサン を描いていましたが、画集では 日本画を(新古を問わず)見るのも好きで、秋の上野の展覧会では、二科展と院展を 同日に見てくるのが常でした。 で、日本美術院のこと、東京美術学校のこと、近代日本の美術の歴史なども 図書館の本で読んで、岡倉天心の名に親しみ、その弟子たち、横山大観や 菱田春草、下村観山などが どんな歩みをし、どんな絵を描いたかを知りました。岡倉天心の詩というか 狂歌というか、
などは 暗記してしまったものです。高校を終わると、岡倉天心が創設した(と言ってもよい)東京芸術大学に入りましたので、一層「天心」に親しみを覚えました。しかし 私は建築科だったので、絵とは しだいに離れ、「天心との付き合い」も少なくなりました。それでも ずっと後になって「愛書趣味」をもち、多少 値の張る古書も買えるようになると、岡倉覚三の『茶の本』、『東洋の理想』、『日本の覚醒』の 英文三部作の 初版本を所有したくなり、古書店をさがして、できるだけ保存のよいものを 手に入れた というわけです。
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『茶の本』は(他の本も そうですが)小型の本で、古い言葉で言えば「袖珍本(しゅうちんぼん)」というところです。深緑色の布装で、タイトルが 背にも 平にも 金の箔押しで書かれていて、あとは型押しの 四角い枠取りがあるだけで、他には 何の装飾もありません。「古書の愉しみ」第 18回の堀辰雄全集で書いた「純粋造本」と言うべく、実に典雅で美しい装幀です。天金も施されていて、これは 私のお気に入りの本の1冊となりました。ただ 中身は文字だけで、1点の挿図もありません。文学書だったら それでも良いのですが、日本の 「茶の文化」を西洋人に伝える というのであれば、文章だけでなく、図版があったほうが 良かったでしょう。しかし、それが もっと必要だった 最初の英文著作『東洋の理想』にさえも 図版がなく、2番目の『日本の覚醒』にも無かったので、岡倉は それに慣れきっていたのかもしれません。
第1章 人間主義茶の一椀 となっていますが、これは 理論的著作ではなく、興の赴くままに 縦横に書いた随想なので、叙述は演繹的ではなく、アフォリズムの連続のような印象も あります。読み易い章と 読みにくい章とがありますが、第4章の「茶室」は 最も読者に親切に、平易に論述しているので、英文でも 楽に読めます。この書は 第4章から読むのが一番よいのではないか と思います。
![]() これと対照的に、第3章の「道教と禅」は 実に わかりにくく(こちらが 道教のことを知らない ということもありますが)、全体の論旨も個々の文章も 理解できないことが多いので、訳者たちも ずいぶん苦労して翻訳しているのが見てとれます。たとえば 村岡博訳の 岩波文庫 45ページの一節は、
これを読んで ただちに全体の論理を理解できる人が いるでしょうか。まず 屈原の「聖人は よく世とともに推移す。」という言葉が突然 挿入されている理由が わかりません。聖人が世とともに推移するのは 正しいと言っているのか、まずい と言っているのか(皮肉なのか)。これは屈原の原典を参照すると その訳文の意味らしいですが、岡倉が書いた英文は、
です。これは the world が move の目的語であって、「聖人たちは 世界を動かす。」としか 読みようがありません(ほとんどの訳書における受動的な態度とは異なる、積極的な姿勢です)岡倉は 何が言いたかったのでしょうか。 そして その次に続く 多数の断定命題を読むと、次々と疑問が わきます。
● 人は「恐ろしく自己意識が強い」から、「不道徳を行う」のでしょうか?
これらは 何度 英文で読んでも、翻訳で読んでも、理解できません。
です。村岡訳では、
ですが、別の訳者たちは これを、
さて、どの訳が一番妥当でしょうか。また、意味が とれるでしょうか。
という、まるで高橋和巳の破滅小説『悲の器』を地で行ったような 岡倉覚三の人生(松本清張の『 岡倉天心(その内なる敵)』などに描かれている)に対して 世間がなした 仕打ちに対する、彼の「うっぷん晴らし」、極端に言えば「呪詛」のようなものだったのではないか と思われます。(これらは 屈原の思想の解説のようにも 読めますが(村岡訳だけが、上記引用文のあとに「といい、」と、英文にはない句を付けています)。
![]() 岡倉覚三の英文三部作、左から 『東洋の理想』、 『日本の覚醒』、 『茶の本』
美術学部は 近年拡充していますが、伝統的には、絵画科、彫刻科、工芸科、建築科、芸術学科で構成されていました。(芸術学科というのは、実技よりも 芸術理論や 美学・美術史を学ぶ科です。)絵画科は日本画専攻と 油画専攻に分かれ(「油画」というのは、かつての「西洋画」ということです)今では 油画コースのほうが 日本画コースの2倍以上の人数となっていますが、1890年(明治23)に わずか 28才で二代目(実質的には初代)の東京美術学校校長となった岡倉覚三は、美校に西洋画コースを設けず、絵画は 日本画のみとしたのです。
![]() 東京美術学校は 文部省の管轄ですが、それ以前に、当時あった工部省が 1876年(明治9)に「工部美術学校」を開設していました。そこでは イタリア人の美術家たち(絵画の フォンタネージ、彫刻の ラグーザ、建築の カペレッティ)を招聘して、西洋美術の摂取を目ざしていました。岡倉とフェノロサは この洋化主義の風潮と真っ向から対立し、当時退潮の一途にあった 日本の伝統美術の復興を目指したのです。結局、伝統派が勝利して、工部美術学校は 1883年(明治16)に廃止になり、1887年(明治20)に伝統美術の輸出政策と合致した 東京美術学校が設置されました。(開校して生徒を迎えるのはその2年後で、横山大観らが、その第1期卒業生です。) 西洋美術の模倣ではなく、伝統美術の発展を求める という岡倉覚三の理念は 理解できます。それは 夏目漱石の言う、内発文化の奨励 ということでしょう。漱石は「現代日本の開花」という明治44年の講演で、こう語っています。
岡倉としては、日本美術を開花させるためには、内発的な道をとるべきだ というわけです。そして、こうした岡倉の態度が さらに、日本をアジアの一員と位置づけ、アジアの美術全体の復興を目ざす論となって、「アジアはひとつなり」で始まるアジア美術史『東洋の理想』を書かせるに至ったことも、理解できます。手前味噌で言えば、日本の大学の建築学科で、西洋建築史と 日本建築史と 近代建築史しか教えず、日本がその一部である アジアの建築を教えないことに反発して、インド建築やイスラーム建築の調査・撮影と研究に進んでいった 私自身の軌跡と重なるからです。
けれども 建築家の立場から言って、岡倉覚三には 非常に残念な点があります。おそらく 彼の師であるフェノロサの体質でもあったのでしょうが、岡倉もまた 絵画、彫刻、工芸の分野に傾いてしまって、建築を おろそかにしたことです。明治初年、苦境に陥っていた日本の伝統美術は 絵画や工芸ばかりではありません。西洋化の波に押されて 日本の伝統建築は省みられず、興福寺の五重塔が 薪代として、わずか 10円で売りに出されたというのは有名な話です。伝統絵画や彫刻の復興をうたうなら、伝統建築の復興も うたってよかったはずです。
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岡倉覚三やフェノロサは 1886年(明治19)に欧米美術視察の任務で 9か月間もヨーロッパに滞在をしました。この時、各国の美術学校を視察、調査し、中でもフランス美術の総本山たる パリ美術学校(エコル・デ・ボザール)を 東京美術学校の手本にしたはずです。ボザールというのは 17世紀に創立され、建築家を養成する「建築アカデミー」と、画家と彫刻家を養成する「絵と彫刻アカデミー」とから 成っていました。ここで育った美術家は 国のモニュメンタルな施設の仕事をするのが 第一の任務でした。絵画や彫刻は 建築の一部として、当時の古典主義の建物を飾る仕事が 主だったので、それを統括する 建築家が、どのプロジェクトでも 優位に立ちます。世界の美術学校は、建築科を中心とするのが普通だったのです。
と規定されています。ところが開校したあとの 明治 23年の同規則では、
としています。どういう いきさつがあったのかは わかりません。考えられるのは、美術学校設立を明治新政府に認めさせる方便が、国の目標たる「殖産興業」の一環として、美術品の輸出による 外貨かせぎの基盤を作る、ということだったのです。しかし 絵画・彫刻・工芸は輸出できますが、建築は輸出できませんから、建築科の予算が付かなかったのかもしれません。「建築科は 当分これを欠く」という条文は、いつまでも続きます。それから 20年以上もたった 明治も終わり近く、明治44年の「東京美術学校年報」には、次のように書かれています。
とうとう明治時代には 建築科が設置されず、大正3年になって 図案科が 第一部(工芸図案)と 第二部(建築装飾)に区分され、やっと大正 12年に 第二部が独立して「建築科」となったのでした。(今和次郎は 図案科の時代、吉田五十八は 図案科第二部の 最終卒業生です。)
しかし 美校創立時に 建築科が設置されなかったのは、予算の問題ばかりでは なかったでしょう。それは、岡倉覚三もフェノロサも 建築に対する情熱を持ち合わせていず、もっぱら絵画や工芸に心を奪われていたからだ と思われます。
モリスの師である ジョン・ラスキン、そしてイギリスを代表する歴史家となった エドワード・フリーマンは、どちらも大学で 建築を専攻したわけでもないのに、若くして 建築の本を書いて出版してしまったことは、「古書の愉しみ」の第9回に書いた通りです。そこでも嘆いたように、近代日本の知識人には 建築の教養が欠け、建築愛好者が少なく、建築の本を書く文人というのも、ほとんど現れませんでした(夏目漱石は 高校時代に建築家になろうと思ったそうですが、特に建築の本を書いてはいません)。
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ただ『茶の本』の第4章「茶室」は 一種の建築論であり、ここを読むと、岡倉覚三は「建築」について 正しい理解をもっていたことがわかります。無知や偏見があったわけではありません。Architecture の語の用い方も、後の日本人(建築家でさえも)のような 誤った使い方(「建物」や「建設」を意味させるような)は 決して していません。
話が ずいぶん横にそれてしまったので、再び『茶の本』に戻ります。岡倉覚三の 英文三部作の初版を所蔵したものの、どれにも まったく図版がないことに 物足りなさを覚えていましたら、図版の入った版があることを 知りました。
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前述のように、岡倉覚三の最初の本『東洋の理想』の初版は 1903年に 英国のジョン・マリー社からでしたが、翌年の 1904年には アメリカの ドッド&ミード社から 米国初版が出版されました。この「古書の愉しみ」で何度も採りあげた ジェイムズ・ファーガスンの本は、英国のジョン・マリー社で刊行された後に、米国版は 常に ドッド&ミード社から出版されていますから、英米の両出版者間には つながりがあったのでしょう。
次の『日本の覚醒』は逆に、1904年に アメリカのセンチュリー社から初版が出て、翌年の 1905年にイギリスの ジョン・マリー社から 英国初版が出版されました。ところが 最後の『茶の本』の場合は、1906年にアメリカの フォクス・ダフィールド社から初版が出たあと、イギリスのジョン・マリーは その英国版を 出版しなかったのです。どういう事情があったのか わかりません。英国版が出たのは、13年後の 1919年です。それも ロンドンのジョン・マリー社ではなく、エディンバラ(スコットランド)の T・N・フォーリス社からだったのです。フォーリス社というのは、20世紀前半に多くの美しい書物を出したことで知られています。この『茶の本』は、それまでの岡倉の本の初版と違って、カラフルなジャケットに包まれ、瀟洒なデザインの表紙、多くの図版と、なかなかに魅力的な本に 仕上がっています。これを手に入れて、私の蔵書の「岡倉コレクション」は完結した というわけです。 ( 2014 /09/ 01 )
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