『 武士道 』 |
前回は岡倉覚三(天心)の『茶の本』をはじめとする英文三部作を紹介しましたが、明治の日本人で、英語の著作を外国で出版した人といえば、誰しも、岡倉覚三と並んで 内村鑑三と 新渡戸稲造を思い浮かべることでしょう。今回は、岡倉覚三の本より わずかに早く出版された、新渡戸稲造(1862-1933)の、有名な『武士道』を採りあげます。 『武士道』は新渡戸稲造の 37才の時の著作です。それは 彼が序文で述べているように、自分の体験から、日本における倫理・道徳教育は宗教よりも武士道に基づいて(成文化せずに)行われてきたと確信し、では武士道とはどういうものかを西洋人に説明するために書いたものです。したがって、『武士道』の副題は “The Soul of Japan” (日本の魂)であり、また “An Exposition of Japanese Thought” (日本思想の提要)です。
叙述は、理論的・教科書的であるよりは随想的、観照的で、武士道を種々の観点から考察して日本の文化を縦横に見渡す、といった風なので、岡倉覚三の『茶の本』に似ているとも言えます。特色は、欧米の文学や歴史を絶えず引用して、日本との相似や対照を示していることでしょう。これが欧米人の「武士道」理解を大いに助けたわけですが、その読書量の多いこと、まだ日本語訳がろくに出ていなかった時代に、よくもまあこれだけ原語で読破し、記憶したものだと、その博覧強記ぶりには感嘆します。折しも日本は日清戦争で中国を打ち破り(1894-5)、世界の注目を集めたばかりですから、戦勝の原動力となったであろうと想像された「武士道」を論じたこの本は、岡倉覚三の『茶の本』よりもずっと多く読まれ、英語版からドイツ語へ、フランス語へ、イタリア語へ、ルーマニア語へ、ポーランド語へ、ハンガリー語へ、ノルウェー語へ、ロシア語へ、さらには中国語へ、マラータ語へ、ボヘミア語へと翻訳され、出版されました。 その内容は、章題を一覧すれば大体わかります。新渡戸は章に番号を振らなかったのですが、翻訳では、便利さ優先で 矢内原忠雄以来、章番号をふるのが慣例となりました。岩波文庫版で示すと、
一読して、特に解りにくいところはありませんから、英文で読んでも、それほどむずかしくはありません。 さて、私のような世代の人間、それも活字の好きな人間にとっては、この本は素直に読め、納得できます。というのは、私の子供時代、日本はまだ貧しく、食うのが精一杯で、文化費にはあまり金をまわせず、十分に本を買う余裕がなかったので、それを補うために「貸本屋」というのが町々に開業して繁盛していました。一日1冊10円ぐらいで、雑誌やその付録、漫画本から小説本まで、人気のあるものは何でも借りられました。そしてどこの貸本屋でも必ず備えていた全集に 「落語全集」と「講談全集」がありました。小学生の私は本好きだったので、漫画本を一通り読んでしまうと「落語全集」を読破し、さらには 魅力的な挿絵の入った「講談全集」数十巻を、次から次へと読みあさりました(漢字にはすべて ルビが振ってありました)。
そこに登場するのは英雄・豪傑、歴史的偉人から武将・侠客まで(柳生十兵衛や柳川庄八、赤穂浪士や真田十勇士、太閤秀吉から遠山金四郎まで)、日本の封建時代の人物群の大活躍や悲劇が語られていました。この「講談全集」こそが、まさに「武士道」の世界だったのです。新渡戸が本の中で何度も繰り返し述べている通り、武士道とは「封建制度の子」です。学校では戦後の民主主義を習っていましたが、「美学的」には、講談全集を通底する「武士道」の倫理が、私の心に沁みわたっていたのです。
新渡戸の書くとおり、武士道には仏教や神道も影響しているでしょうが、一番大きな源は儒教であったでしょう。講談全集で読んだ 滝沢馬琴の『里見八犬伝』では、八犬士が持つ、伏姫の数珠の個々の玉に刻まれた文字が儒教道徳のエセンスを端的に示しています。それは「仁」「義」「礼」「智」「信」「忠」「孝」「悌」で、これに「勇」を加えたのが「武士道」だと言えるでしょう。こうした規範は「講談全集」ばかりでなく、時代劇映画や小説、歌舞伎や新派、浪花節や漫画、さらにはTVドラマを通じて、津図浦々の日本人の心に植え付けられてきたと言えます。近代人としての日本人も、心の底には、こうした封建時代の倫理や美学が染みついています。 この「古書の愉しみ」の第25回「私家版『イスラーム建築』」に書いたように、『イスラーム建築』の印刷のために買ったエプソンのプリンターにおいて、インクに関するエプソンの悪徳商法のために、ひどい目にあいました。買ったインクの半分が、印刷に使われずに「廃インク吸収パッド」に捨てられて、どんどん新しいインク・カートリッジを買わされるのです。(限定 100部を印刷するために、全部で 50万円インクを買ったうち、半分の 25万円分は、ドブに捨てたられたことになります。廃インク吸収パッドが 何と10回も満杯になり、その都度 未吸収のものに交換したのです。)そのために、本の頒価も高くなってしまいました。 100冊の印刷が終わった8月初旬以降は、このプリンターをほとんど使っていませんが、それまでは「廃インク吸収パッド」の交換をするたびに、インクを印刷に使わずに捨てる理由を説明するようエプソンに求め続けました。しかし エプソンの社員は誰一人としてそれを説明せず(できず)、現在調査中であるとか問い合わせ中であるとか言い逃れをして、現在に至るまで、一切の説明をしていません(金もうけのために、消費者をだましてインクを捨てさせ、新しいインクを ジャンジャン買わせるためだ、などとは白状できず、さりとて、もっともらしい嘘の説明をでっちあげることもできないわけです)。 私に問い詰められた一人一人の社員は、心の中では これが会社の悪事だと知っても、会社を告発することはできず、会社をかばうために 自分の良心を犠牲にして、嘘をつき続けるわけです。これが会社への「忠」であり、封建時代のサムライの立場と似たようなものであって、これが「武士道」の倫理の成れの果てかと思うと、何ともやりきれません。 エプソンの対応のいくつかは「私家版『イスラーム建築』」のページに載せましたが、大岩根 という社員は、「廃インク吸収パッド」を2〜3回交換した頃に電話をしてきて、自分がこの件の責任者だから、損害を弁償するなり何なり、自分が責任をもって解決する、と大見得をきっておきながら、上司に一喝されるや、結局何もせずに、説明責任からも逃げ回っていました。こちらは 100部の印刷がすべて終わって、「廃インク吸収パッド」の交換をすることもなくなり、エプソンの下請けの修理員も来なくなったので、もう 何も言わずにいました。
すると1週間ばかりたった頃に、エプソンの代理人たる「国広総合法律事務所」の中村という弁護士から郵便がきて、私からの苦情でエプソンの担当者(大岩根)が「深刻な精神的打撃を被っている」ので、私からエプソンへは一切直接連絡をしないよう、「本件に関して通知、連絡、申し出等がある場合には、当職らに対し書面をもって行うように」と言ってきました。そして、「本件に関しましては、現在、通知人(エプソン)において解析作業を進めているところであり、解析作業が得られた時点で、貴殿宛に書面にて回答いたしますので、今暫くお待ちいただきたい」と書いていますが、この通知が来たのは8月1日です。それから2ヵ月以上、書面どころか、ウンともスーとも言ってきません(そもそも、解析することなど 何もありません)。それ以前の2ヵ月も合わせて 4か月もの間、いったいなぜインクの半分も無駄に捨てるのか、というユーザー(消費者)の問いかけに 一切答えないまま、担当者は回答要求に応じられずにノイローゼになっている、というわけです。これが「武士道」の現代版たる「会社人間道」だと思うと、ほとほと 愛想が尽きます。
英文『武士道』の日本版を出した裳華房(しょうかぼう)というのは、えらく古い出版社で、現在も出版活動を続けています。しかし、たいていの人がその名を知らないのは、今の裳華房は 文系の書物ではなく、数学や物理学、化学、生物学等の自然科学系の教科書や参考書の専門出版社となっているからです。会社の創立は、何と江戸時代にさかのぼり、享保年間(1716-35)には 伊達藩の御用板所として、仙台で「仙台書林・裳華房(伊勢屋半右衛門)」として出版活動をしていた記録があるそうですから、約300年の歴史をもつ、老舗中の老舗出版社ということになります。
まず裳華房のホームページにアクセスして、その「歴史」のページを見ますと、『武士道』の紹介があり、その 表紙のモノクロ写真 が載っています。ところが、その表紙は私のものと違うのです。本全体のプロポーションが私のものよりも縦長で、こちらの文庫本の大きさに対して 新書版のような印象です。それに 表紙のタイトル文字のフォントがちがう上に、副題が 私のは1行書きなのに、裳華房のHPでは2行分かち書きです。 では 裳華房のHPにあるモノクロ写真は いったい第何版なのかを知るために、裳華房に問い合わせたところ、裳華房の事務所と倉庫は 昭和20年の東京大空襲で全焼してしまって、昔の本や記録は すべて失われてしまった と言うのです。そして 先代の社長は2年前に亡くなってしまったので、『武士道』の出版経緯や版による異同など、古いことは何もわからないと言います。このために、アメリカおよび日本での出版のいきさつは一切わからず、わずかな残存物から推測するしかありません。HPに載っているモノクロ写真も、当時の担当者が退職してしまって、その所在もわからないのですが、もしかすると、その写真ばかりでなく実物も、先代社長の息子さんである現社長が相続した沢山の未整理のダンボールの どこかに紛れ込んでいるかもしれない ということです。 ただ、面白いことが解りました。今から20年前、先代社長の存命中の 1994年に、裳華房の東京移転 100周年記念として、『武士道』の復刻版 を作ったというのです。その1冊を譲ってもらって調べると、これは 第3版(明治33、1900年11月20日発行)の復刻なのでした。裳華房には何も残っていなかったので、先代社長が古書店を探し回って、やっと手に入れたのが 第3版だったようです。初版は、めったに手に入らないわけです。しかし この復刻版の表紙が、HPのモノクロ写真と違うのが また謎です。考えられるのは、本の中身はともかく、表紙があまりにも傷み 汚れていたので、表紙だけ よそから借りてきて使ったのでしょう。デザインは私のものと同じなので、第3版から第6版のどれかだと思われます。
裳華房 『武士道』は、豪華に 三方金が ほどこされている。
こうして探究の旅を書いていると 果てしなく長くなってしまうので、細部を はしょって、推測をまじえた結論だけを書いておくことにしましょう。
この序文には 1899年の12月と書かれているので、これが初版の出版時期に関する混乱を生みました。序文は 1899年であっても、出版は翌 1900年の1月だったのです。新渡戸は その出版を見届けた上で、2月にヨーロッパに出発したのでした。これを出版した リーズ&ビドル社というのは、クエーカー(フレンド会)の出版を引き受ける小出版社だったようです。新渡戸稲造とその夫人のメアリーは敬虔なクエーカーだったので、ここに出版を頼みやすかったのでしょう。
これを知った日本の裳華房は、その前年に新渡戸稲造の『農業本論』を出版していたので 新渡戸とは付き合いがあり、彼の本はぜひ うちで出したい、ということだったのでしょう、新渡戸の了解をとって、リーズ&ビドル社から版権を買い取ったようです。早くも同年の 1900年10月には 日本版の英文『武士道』を出版し、アメリカやイギリスにも輸出しました。(独占販売権も取ったのかもしれません。当時の詳しいことはわかりませんが、現在は、いくつかの出版社が出す場合、お互いに競合しないように、アメリカでの販売権、ヨーロッパでの販売権、アジアでの販売権などと 分けて契約します。ネットで外国の書店に本を注文すると、これは日本には送れない、などと言われることがあるのは そのせいです。)
今回の「古書の愉しみ」を書くにあたり、まずもって明らかにすべきは、この第7版の装幀・造本が 米国の初版や 裳華房の初版と同じだったのかどうか、という点でした。先述のように、裳華房ではすべてが戦災で失われてしまったので、詳しいことは解りません。現在のHPに載っているモノクロ写真が第7版とよく似ていながら、いろいろな違いがあるので、おそらく この写真が初版だったのではないかと推測しました。 これで一件落着かと思われましたが、驚くべき事実が立ち現れました。「盛岡市先人記念館」という博物館に「新渡戸稲造記念室」があり、そこに『武士道』の 米国初版が収蔵展示してあります。(新渡戸稲造の令孫より寄託されている資料で、メアリー夫人より代々引き継がれていたものを展示保存しているとのこと。)これを博物館のHPで見ると、緑色の表紙をしているではありませんか。メールで問い合わせると、スタッフが実に素早く、的確な返事を、参考画像と共に返信してくれました。(こういうことは、自分の博物館とその展示品に誇りを持っていなければできないことで、すべての博物館は、かくありたいものです。)
その本の扉の画像を見ると、これは確かにリーズ&ビドル社の 1900年版です。グーグルのハーバード大学本と見比べてもらいましたら、本文内容は同じであるということです。では、米国初版には2種類の装幀があったのでしょうか? さらにアメリカのウィキペディアに 米国初版の表紙写真 が大きく掲載されているのを見つけ、これを盛岡市先人記念館のものと比べると、ほとんど同じなのに、タイトル文字がわずかに違うことがわかりました。すると、米国初版には3つの異本があったことになります。 調べれば調べるほど不可解な事実が出てくるわけですが、私の興味は、表紙のデザインをしたのは誰なのか、という点に及びます。というのは、またしても不審な点があるのです。『武士道』の序文に、アナ・C・ハーツホンへの謝辞があることを 上に書きましたが、新渡戸は 英文への「アナの有益なサジェスション」ばかりでなく、「この本の表紙のために彼女が作った独特な日本的デザイン」に対しても感謝しているのです。これは 私の架蔵する第7版にも、第3版の復刻版にも、そしてハーバード大学の所蔵する初版にも載っています。ところが 私の知るかぎり、岩波文庫をはじめとする、日本のどの訳書でも、この部分が削除されているのです。その原文は、 (太字引用者)
これによって、『武士道』の表紙はアナ・ハーツホンによってデザインされたのだと知れるのですが、その部分が訳書にないのは、後述の 「増補・訂正 第10版」(1905年、明治38)において、英語原文のその部分が 新渡初戸によって削除されていたからのようです(一体なぜ?)。翻訳書はすべて、初版に基づくと言いながら、実は第10版以降の版をテキストに用いているのでしょう。そのために、表紙デザインへのアナの寄与は、日本では まったく知られなかったのです。
いったい第10版で、何があったのでしょうか? 第9版までは、前述のように裳華房が出版していましたが、新渡戸は第10版を出すにあたって増補訂正するとともに、出版社を、日本版は丁未(ていび)出版社、英米版はニューヨークおよびロンドンの G・P・パトナムズ・サンズ社(George Palmer Putnam's Sons)から出すことに変更しました。裳華房は 版権を両社に売却したらしく、これによって新渡戸稲造との縁も切れたようです。
装幀については、リーズ&ビドル社版の緑色の表紙と 裳華房版のベージュ色の表紙をパトナム社および丁未出版社が踏襲したのだろうとばかり思っていましたが、盛岡市先人記念館が パトナム版の表紙の画像 を送ってくれたのを見て吃驚しました。スキャンによる色彩は どこまで忠実かわかりませんが、このデザインは ひどい。ちょうど日露戦争(1904-05)の時代だったから日の丸のイメージを用いたのだとしても、色も形も文字も、まるで児戯のようなデザインです。こうまでしてアナ・C・ハーツホンのデザインを捨て去る理由は 何だったのでしょうか?
ところで、竹中英俊という方の「風信 2011」というブログ(別ページ)に、新渡戸稲造と裳華房のあいだに、版権と印税についてのトラブルが生じたらしいことが記されています。詳しくは、それをお読みいただくとして、私には一つ気になることがあります。竹中氏が引用している、新渡戸稲造の『幼き日の思い出』に付けた メアリー夫人の「はしがき」についてです。
とあります。しかし、これはメアリーの勘違い、というより、かなり嘘がまじっているように思えます。というのは、第3版(明治 33年11月)の復刻版と、私の所有する第7版(おそらく明治 34年12月)とを見比べてみますと、諸所に加筆・訂正がなされているからです。それらは、出版社側で できるようなものではありません。明らかに新渡戸稲造の加筆・訂正です。
の部分です。この部分は米国初版にも、日本版第3版にもありません。でも 第7版にはあります。つまり 第4版から第7版の間に加筆されたのです。しかし訳書は、いずれもこの部分を翻訳しています。訳書には しばしば、リーズ&ビドル社の米国初版から翻訳したと書かれていますが、実際には そうではなく、第 10版以後の版を用いているのです。上記の部分が掲載されているかどうかで、すぐにわかります。原書にない部分を翻訳できるわけもありません。(これ以外にも、第7版には 多くの加筆・訂正が認められます。) こういうことを知ると、表紙のデザインについても、新渡戸夫妻と アナ・C・ハーツホンの間に何らかのトラブル(たとえば メアリーとアナの仲たがい というような)があり、第10版の時に アナ・ハーツホンを切り捨てたのではないか、というような想像も起きてきます。そうとでも考えなければ、せっかくのアナの(素晴らしいとまでは言えなくとも)それなりのデザインを捨てて、幼稚な表紙デザインに変えたわけが解りません。(新渡戸は第10版で序文を書き直し、そこでは 感謝の言葉をアナに対してではなく、全面的に妻(メアリー)に宛てました。)
ここに書いてきたようなことは、本来『新渡戸稲造全集』を出版する折に、編集委員なり出版社なりが調べて、その結果を 解題なり解説なりに記録しておくべきことですが、そういったことは何もなされなかったようで、今回の「古書の愉しみ」を書くにあたり、『新渡戸稲造全集』は あまり役に立たず、次々と現れる謎に翻弄された1ヵ月でした。(こうしたことを あれこれと調べるのも、「古書の愉しみ」のひとつだ とも言えますが。) ( 2014 /10/ 03 )
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