神谷所蔵の 裳華房『武士道』BUSHIDO, The Soul of Japan 第7版、1901年、
布に 白っぽいところと黄土色っぽいところがあるのは、
裳華房版『武士道』第7版 1903年(明治36、皇紀 2563年)のジャケット
扉におけるのと同じように、英国における出版社名が最下部にある:
リーズ&ビドル社による米国初版の表紙。
左:ハーバード大学所蔵の、リーズ&ビドル社による初版の表紙
裳華房の東京開業 100周年記念に作られた、第3版の復刻版、1994年。
『武士道』 1905年、増補改訂・第10版の表紙 (写真提供:盛岡市先人記念館)
アナ・C・ハーツホン 『 日本の国と民 』 1902年、コウツ書房、フィラデルフィア
塾の設立より前、アナは 1898年に アメリカのカリフォルニアで療養中の新渡戸稲造の
アナ・C・ハーツホンは『武士道』の出版の翌々年の1902年に 彼女自身の著作『日本の国と民』を
布装の表紙。 背表紙には、副題の THE SOUL OF JAPAN のみが書かれている。
タイトルの独特の書体は、アナ・C・ハーツホンの創作ではなかろうか。
アメリカにおける前の所有者 あるいは古書店が、本の汚れを落とすために、
へたな酸洗いをした結果ではないかと思われる。 それでもなお、
これだけきれいに保存された、20世紀初頭の『武士道』は珍しい。
大きさは、縦 153mm、横 105mm、厚さ15mm、重さ 200g。
前回の岡倉覚三『日本の覚醒』のような、店頭用の薄手の保護用ジャケットだが、
こちらは日本の本らしく、背には定価を書かず、奥付に書いている。
Seventh Edition(第7版)と書いてあるが、それが 1903年というのは 腑に落ちない。
LONDON, Simpkin, Marshall,Hamilton, Kent & Co. Ltd おそらく これは
日本における丸善と同じように、「売り捌き所(
代理店)」だったのだろう。
背には副題の THE SOUL OF JAPAN しか印刷されていないので、
前所有者がペンで Bushido と書き加えている。
左はアメリカのウィキペディアに掲載の写真。右は盛岡市先人記念館所蔵のもの。
スキャンの条件の悪さによって 青くなってしまったが、実際は深緑色だという。
両者をよく見比べると、金の箔押しタイトルの BUSHIDO の文字フォントが
少し違う。 リーズ&ビドル社版には、何種類もの異本があったのだろうか?
大きさは、裳華房版よりも一回り大きい 185mm × 125mm。
(From Google American Libraries)
右:裳華房の初版 (?) のモノクロ写真(裳華房のホームページより)
左の幅を90%に縮小すると、ほぼ右になる。ただし、Eのアクサンは無い。
裳華房が HP用にスキャンした時に、誤って幅を縮小させてしまったのかもしれない。
桜の花はまったく同じではなく、描きなおしているようだ。裳華房が
なるべく米国版に忠実に、日本版を作ったのだろうか? あるいは、
ハーバード大学所蔵本は、オリジナルの表紙ではない のだろうか?(大きさ不明)
明治時代に、糸綴じ洋装本のペーパーバックがあっただろうか。
著者名の NITOBE の最後の E に、フランス語風にアクサン(テギュ)が
ついているのに注意。背のタイトルは、表紙の字を移して、新たに作ったのでは
ないだろうか。この表紙は第3版のものではない と思う。
本の大きさは 縦が 162mmで、第7版(ジャケット付)よりも 10mm高い。
本文の詰め方は同じで、余白だけが大きい。
ジョージ・P・パトナムズ・サンズ社 George P. Putnum’s Sons, New York and London
装幀が裳華房の第9版までと すっかり変わっていて、この表紙デザインは、あまり いただけない。
第10版の序文で アナ・C・ハーツホンの名がなくなっていることと関係がありそう。
このデザインは美術家の手になるとは思えないから、
もしかすると、メアリーがデザインしたのかもしれない。
アナは、新渡戸稲造夫人である メアリー・エルキントン(1857-1938、日本名:新渡戸万里子)
より3歳下の友人で、津田梅子の女子英学塾(後の津田塾大学)の創設(1900年)と
その運営・教育、さらに震災後の再建に献身的に尽くしたので、1931年に建てられた
津田塾大学の本館校舎は、「ハーツホン・ホール」 と名付けられている。
秘書の役割をし、『武士道』の口述を筆記するとともに、英語表現のアドヴァイスをした
(新渡戸の序文の最後に、アナに対する謝辞がある)。 岡倉覚三の『東洋の理想』における
ニヴェ-ディタ(マーガレット・ノーブル)の役割に近かったようである
刊行している。日本各地を旅し、日本人の風俗や生態を観察して記述した2巻本である。
この装幀を見ると 見事な出来栄えで(どこまで彼女が関わっているのかは不明だが)、
ペンシルヴァニア美術学校に通ったというだけに、彼女の美感覚の確かさを伝えている。