チャンディーガル建築案内 |
神谷武夫
インドがイギリスから独立したのは今から約 55年前の 1947年ですが、パキスタンと分離独立したために、パンジャーブ地方はインド側のパンジャーブ州とパキスタン側のパンジャーブ州に二分されてしまいました。中心都市のラホールはパキスタン側に編入されてしまったために、故ネルー首相は新しい州都を建設することにし、翌年土地を選定しました。そこにはいくつかの村があり、ヒンドゥ教のチャンディー寺院があったことから、新しい都市はチャンディーガルと名づけられました。
『インド建築案内』の都市計画図と、市販の地図帳
ル・コルビュジエはメイヤーの原案を大幅に修正して自身の都市計画思想を盛り込むとともに、首都機能をになうキャピトル・コンプレクスの建物群を設計しました。3人の協働者は 1951年から現場に事務所を構え、その監理をするとともに、フライは 54年まで、ドルーは 56年まで、そしてジャンヌレは 65年までチャンディーガルに住んで、他の施設の設計・監理をしました。
ル・コルビュジエの作品はチャンディーガルの他にも西インドのアフマダーバードにあり、こちらはデリーからムンバイ(ボンベイ)へのルート上にあるので、観光旅行に組み込むことができます。しかしチャンディーガルは デリーの北方 240kmの地にあるので、ヒマラヤの方へ旅する人以外には、ついでに寄るというスポットではありません。
日本からインドへの飛行機はだいたい夕方にデリーに着くので、ホテルで1泊した翌朝早く、オートリキシャでニューデリー駅に行きます。 リキシャ・ワラーは、切符はトゥーリスト・オフィスでも買えるよと言って、市内に5ヵ所あるトゥーリスト・オフィスの一つに連れて行こうとするでしょうが、これには決して応じないで、あくまでも駅へ行きます。
夕方、ニューデリー駅に行くと、ポーター(クーリー)が寄ってくるので荷物を持たせます。 彼は切符を見て、その乗り場まで連れて行き、列車が到着するまで一緒に待ってくれます。 列車が着いて座席まで荷物を運んでもらったら 10ルピーを渡すと、もっと、と言うので 10ルピーを追加するのがよろしい(初めから 20ルピー渡すのでなく)。1ルピーは約 2.7円です。
マーケット地区と、標準的なオフィスビルディグ
都心の第 17セクターにバス・ターミナルがあり、デリーへは頻繁に急行バスが出ています。鉄道の時刻表に縛られたくない人はバスで帰るのが便利です。 ここの中庭に面した2階にトゥーリスト・オフィスがあり、朝の9時半に開くので、まずはここに行って地図やパンフレットをもらい、いろいろな情報を得るのがよろしい。しかし、このごろ くれる地図は大まかなものなので、『インド建築案内』 の 82-83ページの地図を拡大コピーして持っていくと役に立ちます。この地図は 25年前に初めてチャンディーガルを訪れたときに買ったものなので、やや古いものの、今までに私が見たチャンディーガルの都市図の中では最も美しいものです。
キャピトル・コンプレクスの景観と平面図 さていよいよ市内見物ですが、歩いてまわるには広すぎる都市なので、リキシャ(サイクル・リキシャ)を一日雇ってしまうのが便利です(200〜300ルピー、先に料金を決めること)。リキシャはオートよりも快適で、そのゆっくり走るスピードは、街の様子を眺めるのに最適です。しかも どこでも好きなところで停車してもらえ、待っていてもらえます。ただし、もろに陽射しを受けるので、帽子とサングラスを忘れないように。
まずは一番北の第1セクターにある ”キャピトル・コンプレクス” に行きます。ここにル・コルビュジエが設計して世界に名をとどろかせたモニュメント群があります。”セクレタリアート”(行政庁舎)、”ヴィダン・サバー”(議会棟)、”ハイ・コート”(高等法院)、それに小さな ”日陰の塔” や ”開いた手のモニュメント” などです。 かつてはどれも自由に立ち入りができたのですが、アムリトサルやカシュミールの紛争などが起きてから、主要3施設の構内は それぞれフェンスで囲われ、出入りがチェックされるようになりました。 情勢の厳しい時には、立ち入り禁止の事態もありえます。
議会棟 ( パーラメント)の遠望 と 大扉
議会棟 (
パーラメント)では、トゥーリスト・オフィスで教えてもらったアジュメール・シング氏を訪ねると、部下の人が議場内に案内してくれました (もちろん、会期中は不可)。パラボロイドの独特な形態の議場や 幻想的なロビーなど、内部は撮影禁止ですが、外部は自由に写真が撮れます。
しかし、この幾何学的な直角の世界に少々疲れたなら、リキシャで少し東へ向かうと、道路視察官の ネック・チャンドが長年月にわたって造り、1976年にオープンした ”ロック・ガーデン”(彫刻庭園)があります。 そこには シュヴァルの ”理想宮殿” (パレ・イデアール)にも似た、廃材による彫刻や建築 (?) の特異な世界が広がり、モダニズムに対する強烈なアンチ・テーゼとなっています。
ロック・ガーデンと、ネック・チャンドの碑 午後は、まず第 10セクターの文化施設群を訪れます。ここにはル・コルビュジエによる美術学校、市立美術館と展示パビリオン、そして ”生活進化の博物館”(シヴダット・シャルマ 設計) が道路に沿って一列に並んでいます。美術館は東京の国立西洋美術館、アフマダーバードのサンスカル・ケンドラ美術館と三部作をなす「成長する美術館」のコンセプトで設計されていて、内部空間の雰囲気もよく似ています(月曜休館なので要注意)。
市立美術館 チャンディーガルは近代芸術の都市であるという考えから、フランスのエコール・デ・ボザールにならって、大学とは別個に美術学校と建築学校が早くに建設されました。両者はル・コルビュジエによってほとんど同じデザインがなされていますが、建築学校はここから離れて大学キャンパス内にあります。
建築学校のエントランス部", Le Corbusier 1946-52"
この文化ゾーンの はす向かいの第 17セクターが”シティ・センター”で、都心のマーケット(ショッピング・センター)が広がり、その南側が先ほどのバス・ターミナルです。マーケットの建物 は全て同じ打ち放しコンクリートの円柱とバルコニーが続いていて、いささか退屈です。 ここにはもう少し華やかな建物が必要だったでしょう。
都市の西端がパンジャーブ大学のキャンパスで、インドでは デリー大学などと並ぶ重要な大学になっています。建築学校はその第 12セクターにあり、第 14セクターには ピエール・ジャンヌレの ガンディー・バワンや B・P・マトゥールの 学生会館、そして第 11セクターの マックスウェル・フライによる カレッジ・フォー・メン、その他多くのカレッジが建ち並んでいます。
パンジャーブ大学の学生会館と、ガンディー・バワン
ピエール・ジャンヌレとマックスウェル・フライ、ジェイン・ドルーの3人が設計した 90あまりの建物群は、建築学校助教授の キラン・ジョシ女史によって最近大きな本にまとめられました。コルの作品だけでなく、チャンディーガルの都市設計と近代建築を深く知ろうとする人には必須の本です。
3人の建築家の仕事を集大成した本、スクワッター 最後に、インドの都市の現実を知るには、デリーからの幹線道路が市内にはいる手前の両側に広がるスクワッターにも目を向けてください。これらは、計画都市内には住めない低所得層の人々が不法占拠して廃材で建てた住居群です。先ほど雇ったリキシャ・ワラーも、家族とともにここに住んでいることでしょう。市内の緑園都市にゆったりと配された住居群に住むのは、官僚や富裕層の市民です。こうした住環境の激しいギャップは、単にチャンディーガルの行政の問題ではなく、インド全体がかかえる問題が ここに最も鮮明な形で表れているのです。 市内の住民は、世界の最先端を行く都市に住んでいるという、かつての自慢げな意識ほどではないにせよ、今でもこの町を誇りにしていますが、市外のスクワッターに住む低所得の人たちは、それとは別の疎外感をもっていることでしょう。 ヨーロッパにおける都市計画の方法を そのままインドに適用したル・コルビュジエが、「アーキテクチュア・フォー・ザ・プアー(貧者のための建築)」を標榜した エジプトの建築家、ハッサン・ファティのような存在でなかったことだけは確かです。 ( 2001年12月26日 ) |