第1章 ヴァガルシャパト
CHURCHES in VAGHARSHAPAT

聖エチミアジン諸聖堂

神谷武夫

ハチュカル
13世紀のハチュカル

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アルメニア教会の成立

 キリスト教は 中東のシリア・パレスチナで誕生し、急速に周囲に広まっていったが、当時 ヨーロッパから中東地域を支配していたローマ帝国からは 激しく弾圧された。庶民のあいだに定着していったキリスト教を ローマ帝国が公認するのは 313年のミラノ勅令によってであり、それを国教にするのは テオドシウス帝の 350年のことである。しかし、それより半世紀も早く、301年に世界で最初にキリスト教を国教にしたのは 中東の北部にあるアルメニア王国であった。

 アルメニア教会を確立したのは(アルメニアの)聖グレゴリウスであったから、アルメニア正教は 東方キリスト教の中の グレゴリウス派と呼ばれることもある。伝説が伝えるところでは、カッパドキアで修行したあと アルメニアに戻って布教していたグレゴリウスは、トリダテス3世王によって地下牢に幽閉されてしまった。
 その頃 ローマ帝国の皇帝が フリプシメという美しい尼僧をわがものにしようとして言い寄ったが、フリプシメはこれを拒絶し、乳母のガヤネー(女子修道院長だった ともいわれる)とともに アルメニアに逃げた。ところが今度はアルメニア王に迫られ、これも拒絶したために、フリプシメとガヤネーは 首都ヴァガルシャパトで、王の差し向けた追っ手に惨殺されてしまった。
 この罪のむくいで 重い奇病にかかった国王は、すでにキリスト教に改宗していた妹の忠告に従って、15年間 牢につながれていたグレゴリウスを解放すると、彼の力によって その病が癒されたので、過去の生活を悔い改めて キリスト教を受け入れ、これを国教にしたのだという。聖グレゴリウスはアルメニアでは 聖グリゴール・ルサヴォリッチと呼ばれる。ルサヴォリッチは英語ではイリューミネイターで、「啓蒙者」の意である。

 グレゴリウスは 教会の長(カトリコス、総主教)となり、神のお告げによって、その指し示す場所に聖堂を建てた。これが ヴァガルシャパトの中心となる聖堂で、後に何度も再建され、カトリコスの居所としての 聖エチミアジン大聖堂となった。また、フリプシメとガヤネーが殺害された場所には 殉教記念堂が建てられていたが、7世紀には 彼女らを祀る石造の聖堂が それぞれの場所に建設された。首都ヴァガルシャパトは、パルティアの王子であったヴァガルシュ1世 (117-140) が アルメニアの王位に就いてから、120〜140 年頃に創設した都市なので、そう名付けられていた。

ヴァガルシャパト の地図(Google Maps 利用)
このサイトでは、地図は北を上にし、
聖堂の平面図は 東(祭壇方向)を上にしている。

ハチュカル
20世紀のハチュカル

離散の民の故郷

 ザカフカス(英語では外コーカサス)の小国アルメニアは、内陸国という地理的位置のために 絶えず外部から侵略され、国を滅ぼされ、異教徒の支配を受け、民族虐殺の苦難に会い、離散(ディアスポラ)の民ともなった。ソ連の崩壊によって やっと独立を獲得したが、かつてはその 10倍くらいの国土をもっていたこともある(大アルメニア)。
 そうした地から世界に散ったアルメニア人が そのアイデンティティを保持し続けてきたのは、最初のキリスト教国の民としての 自負を伴った信仰と、5世紀にメスロプ・マシュトツによって考案された文字による アルメニア語によってであり、また心中に思い浮かべる故郷のシンボルとしての、ノアの方舟がたどり着いたとされるアララト山、そしてカトリックにとってのヴァチカンに相当する 聖都ヴァガルシャパトによってである。

 
聖エチミアジン大聖堂の境内の 総主教館と修道士たち
ヴァガルシャパトは、首都イェレヴァンの西方、
共和国広場から 直線にして 18kmの距離にある

 その大聖堂にエチミアジン(神の独り子の降誕地の意)の名がかぶせられたのは 10世紀のことらしいが、ソ連時代の 1945年からは、これがヴァガルシャパトに代わって 都市の名前ともなった。独立後の 1995年には再び ヴァガルシャパトの名に戻されたのだが、人々は今でもこの町を エチミアジンと呼ぶことが多い。 現在は人口6万人ほどの都市で、聖エチミアジン大聖堂を中心とする宗教都市であるが、巡礼者は大聖堂とともに 聖フリプシメ聖堂と 聖ガヤネー聖堂にも お参りをする。


聖エチミアジン大聖堂の立面図
(From "Documenti di Architettura Armena 23. Vagharshapat"
Adriano Alpago-Novello, 1998)

 建築的には、大聖堂が何度も再建、改修されて、現在の姿はほとんど 17世紀のものとなっているのに対し、ふたつの聖堂は より忠実に 7世紀の初期アルメニア建築の姿を保っている。
 悲劇の民族アルメニア人は また建築的民族でもあったから、ヴァガルシャパトの聖堂群は 世界のキリスト教建築の歴史の中でも 独特の光を放っている。


建築的原理

 中東における最初期の聖堂建築は、古代ローマ建築の集会施設に範をとったバシリカ式で、3廊式の長方形プランの建物の一番奥に 半円形のアプス(後陣)がついたものだった。
 アルメニアではその主身廊の中央部を高くあげて ドーム天井を架けるようになる。630年の建立と伝えられる聖ガヤネー聖堂がそれで、17世紀に増築された前面ギャラリーを別にすると、プランは完全な長方形である。

   

聖ガヤネー聖堂の平面図と断面図
(平面図は いずれも同一縮尺で示す。薄黄色部分は 吹き抜けのドーム天井位置)
アルメニアの聖堂は すべて東(図面上方)に向いている

 その単純さにもかかわらず 外観が立体的な姿をしているのは、長方形の外郭の中に 十字架プランを浮き上がらせて、十字架のそれぞれの腕の部分に 切妻屋根を架け、交差部には高いドーム天井を載せ、その塔状部の外観を八角形のドラム(胴部)と八角錐の屋根で構成しているからである。

 

   
聖ガヤネー聖堂、ヴァガルシャパト

 こうした幾何学的な方法は、角錐(あるいは円錐)屋根を除けば、ヨーロッパのロマネスク建築(11、12世紀)と きわめてよく似ている。 ロマネスク建築の源流のひとつが アルメニアにあるとされるのは、このせいである。そして、壁から屋根の頂部に至るまで すべて現地の赤みを帯びた凝灰岩で作られたその姿は、簡素でいながら表情豊かであり、「建築の原型」ともいうべき 清々しい印象を与える。( PC.2, OK.110, MH.48, EC.157dr, 351-3 )


四アプス形式の聖堂


聖エチミアジン大聖堂の平面図
(現在は 東側に 聖遺物の収蔵庫などの部屋が増築されて 規模が大きくなっている)

 聖エチミアジン大聖堂のほうは、当初の建物は同じように バシリカ式であったと考えられるが、ペルシアによって破壊されたあと5世紀の再建で現在のようなプランになり、後のアルメニアの聖堂建築の原点となった。それは正方形プランに十字形が重ねあわされ、中央の交差部に八角錐の屋根をいただく ドーム天井を架するとともに、十字形の四方にアプスを配して、単なるギリシア十字とは異なった 「四アプス形式」 にしたことである。実際には東側のアプスにのみ祭壇が置かれ、西側のアプスは入り口になっているのだが、この集中式の四アプス形式が アルメニアに独特な聖堂建築を発展させることになる。

聖エチミアジン  聖エチミアジン

聖エチミアジン  聖エチミアジン  聖エチミアジン
聖エチミアジン大聖堂、ヴァガルシャパト

 ただ大聖堂は その規模の大きさにもかかわらず、内部空間がそれほど偉大に感じられないのは、正方形プランを9等分する位置に4本の剛柱を立てたせいであろう。これらの太い柱が 内部の視覚的広がりを遮ってしまうからである。( PC.1, OK.100, MH.34, EC.117-8dr, 242-5 )

現在の聖エチミアジン大聖堂境内の平面図、ヴァガルシャパト
(From "Documenti di Architettura Armena 23. Vagharshapat"
Adriano Alpago-Novello, 1998)


* 北フランスの9世紀初めに建設された ジェルミニー・デ・プレの聖堂は、小規模ながら この聖エチミアジンとよく似ている(四アプス式のプレ・ロマンの聖堂)


聖フリプシメ聖堂

  

聖フリプシメ聖堂の平面図と断面図
(現在は西側の入り口前に鐘楼が増築されて、その下がポーチとなっている)

 一方、618年に建立された聖フリプシメ聖堂は、内部の柱をなくして、大きなドーム天井をいただく 四アプス・プランの聖堂建築となった(ジョージアのムツヘタにあるジュヴァリ聖堂と ほとんど同じプランであるが、輪郭を完全に矩形にしているところがアルメニア的である)。外観上は 16角形のドラム(胴部)が短く、角錐屋根の勾配もゆるいので、全体として、やや ずんぐりした印象を与えるが、内部空間の一体感は 大聖堂よりも ずっと優れている。

 

   
聖フリプシメ聖堂、ヴァガルシャパト

 プランは一見 複雑に見えるものの、実は これも シンプルな長方形の外郭をしていて、4つのアプスの脇の外部に それぞれ深い切り込み(ニッチ)を設けて 外観を彫塑的にした 最初の作例なのである。
 中央ホールに ドーム屋根を載せるための移行部として、四隅にスキンチ(コーナー・アーチ)を架けているのだが、興味深いのは それらのスキンチの下が半円形の凹所となり、長方形プランの四隅の部屋(聖具室や控え室)への入口となっていることである。 ( PC.5, OK.107, MH.70, EC.142dr, 306-9 )  


ズヴァルトノッツの大聖堂


聖グリゴール大聖堂の平面図
(From Adriano Alpago Novello, "The Armenians", 1986)

 さらに あくことなく建築的探求を続けたアルメニア人は、ヨーロッパには まったく見られない 独創的な聖堂形式を編み出した。643年から 652年にかけて カトリコス・ネルセス3世が、ヴァガルシャパトから5kmの地の ズヴァルトノッツに、壮大にして大胆な構想の カテドラルを建立したのである。それは 4アプスのプランを完全な四弁形となし、その周囲に周歩廊をまわして 全体を円形プランとした。4アプスの隅部に4本の大柱と円柱を立て、そこに大アーチを架け渡し、その上に三層吹き抜けの高いドーム天井を架けるというもので、外壁には多数の窓をうがって、光に満ちた内部空間とした。

 

   
聖グリゴール大聖堂の遺跡と復原模型

 まことに残念なことには、アルメニアが日本と同じような地震国であったために、10世紀の大地震によって この意欲的な大聖堂は崩壊してしまい、廃墟となってしまった。ヨーロッパのゴチック建築とはちがった、半円アーチに基づく垂直性の強いこの特異な大聖堂は、イェレヴァンの国立博物館にある高さ3メートル近くの大復原模型によって その概要を知ることができるが、この壮大な内部空間を ぜひとも実際に体験してみたかったものである。これが現存していれば、世界有数の偉大な聖堂建築として 称えられ続けてきたことであろう。( PC.6, OK.111, AA.594, MH.80, EC.150-2dr, 338-45, 396-7 )

トロス・トラマニヤンによる 聖グリゴール大聖堂の復原断面図
(From Thoros Thoramanyan, "Materials for
the History of Armenian Architecture", vol.2, 1948)

 このように アルメニアが中東にありながら、ビザンチン様式に組み込まれず、独自の建築スタイルを発展させえたのは、コンスタンチノープルの支配に屈せず、独立した教会を維持し続けたせいだったかもしれない。

(「中外日報」2005年1月3日号)




● ズヴァルトノッツを含むヴァガルシャパトの聖堂群は、
2,000年に ユネスコ世界遺産リストに登録されました。

● ヴァガルシャパトの町の位置と、市内の他の聖堂については、
「アルメニア西部」のページの「アルマヴィール県」の項を参照。

● 第1次大戦中に オスマントルコによって、アルメニア人が
大量虐殺されたこと(ジェノサイド Genocide )については、
ジャンセンの『ジェノサイド画集』 のページも ご覧ください。


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