ENJOIMENT in ANTIQUE BOOKS - XLII
ジャンジャンセン
『 ジェノサイド画集 』

Jean Jansem :
" Massacres, l'Âme des Souvenirs "
Musée du Génocide Arménian, Erévan, 2007

神谷武夫

ジャンセン
ジャン・ジャンセン『ジェノサイド画集』表紙

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ジャン・ジャンセンの『ジェノサイド画集』
MASSACRES, L'ÂME DES SOUVENIRS

 日本では あまり知られていませんが、第二次大戦中に ナチスによってユダヤ人が徹底的に虐殺されたのにも似て、第1次大戦中には オスマントルコによって アルメニア人が大量虐殺されました。一種の「民族浄化」と言われています。英語では、ユダヤ人の虐殺は「ホロコースト the Holocaust」 と言い、アルメニア人などの虐殺は 一般的に「ジェノサイド Genocide」と呼ばれます。
 古代に大帝国であり、世界で初めてキリスト教を国教とした(301年)アルメニアは、19世紀には オスマントルコ帝国とロシア帝国に引き裂かれていました。ロシアとトルコが戦った露土戦争は 17世紀(1686 -1700)、18世紀(1768 -74、1787 -91)、19世紀(1877 -78)と 何度も長期の戦争となり、次第にロシア帝国が優勢になりました。それによって 東欧諸国が独立回復をしていったので、アルメニアにも 19世紀末から民族主義が高揚していきました。オスマン帝国は 領土内のアルメニア人がロシア側に付くのではないかと疑って 敵視していき、1894、95年に 第1次のアルメニア人虐殺を行ったのです。

ジャンセン
ジャンセン『ジェノサイド画集』-1

 20世紀に入っても、ヨーロッパ列強の悪しき振る舞いと中東情勢の混乱、トルコにおける「青年トルコ革命」などが重なり、アルメニア人の安全は守られず、トルコとロシアの対立が オスマントルコによる 1915年から19年までの アルメニア民族大虐殺を生み、「第2次大虐殺」と呼ばれます。トルコ領内の100万人から200万人のアルメニア人が シリアとメソポタミアの砂漠に移住させられ、その強制移住(死の行進)の間に、広島・長崎の原爆被災者数に匹敵する数十万人が、徒歩による移住の苦しみや虐殺で命を落としました(映画『消えた声が、その名を呼ぶ』が その一部を描いています)。また 数十万人が 現在のミャンマ−におけるロヒンギャの人々ように、離散の民(ディアスポラ)となって 中東、南亜、欧米に 避難民となって亡命したのでした。

 現在のアルメニア共和国の首都、イェレヴァンの西方にある ツィツェルナカベルドの丘の頂部には、それらのオスマントルコの虐殺による死者を慰霊する コンクリートのモニュメントが 1967年に建設され、その中央では絶えず慰霊の火が焚かれています。塔の高さは44メートルで、毎年4月24日が、その「虐殺記憶の日」です。

原爆体験記
ツィツェルナカベルド、 慰霊モニュメント

 この慰霊碑の南側、イェレヴァンの町を見下ろす丘の 頂部斜面を削って、半地下式の「虐殺博物館」が、虐殺80周年の 1995年にオープンしました。アルメニアの建築家、サシュール・カラシアン Sashur Kalashian と リュドミラ・ムクルチャン Lyudmila Mkrtchyan の設計です。
 この展示室に、丸木位里・俊夫妻の『原爆の図』のように大きな「虐殺」の絵のシリーズが 展示されています。それらは 2002年に開催された大展覧会『虐殺』の時の絵の多くがそのまま常設展示されているものです。描いたのは ジャン・ジャンセン(1920 -2013)という、11歳のときからフランスに定住し、フランスで没した アルメニア人画家です。アルメニア人の父とトルコ人の母のもとに アナトリアで生まれましたが、一家は戦火を避けてギリシアのサロニカに渡り、ジャンはそこで少年時代を送りました。つまり離散の民(ディアスポラ)の一人というわけです。

原爆体験記
イェレヴァン、ジェノサイド博物館内部(ウェブサイトより)
ジャンセンの絵の高さは、概ね 2メートル

 そうした 離散アルメニア人の芸術家としては、小説家のサローヤン(1908 -81)や、画家のアーシル・ゴーキー(1904 -48)、歌手のシャルル・アズナヴール(シャーヌール・アズナヴリアン 1924-2018)、映画『アララトの聖母』を作った監督 アトム・エゴヤン(1960- )などが知られていますが、画家のジャン・ジャンセンも、その確かなデッサン力の上に立った静謐な画風は 日本にもファンが多く、1993年以来 長野県の安曇野(あずみの)に「ジャンセン美術館」があるほどです。4年前に 93歳で世を去りました。つまり丸木夫妻よりも10~20年遅く生まれ、同じくらい長生きをして 絵を描き続けた人です。

 丸木夫妻の『原爆の図』は 1978年にフランス巡回展をし、パリをはじめ 10都市で展覧しましたから、ジャンセンは その時に見て衝撃を受けたに ちがいありません。自分が幼い時に体験し、絶えず話を聞かされ、本で読んできた「アルメニア人の大虐殺」を連想し、アルメニア人画家としての自分もまた 丸木夫妻のように、それを描かねばならない、しかも『原爆の図』のような大画面で、と。

原爆体験記
ジャンセン『ジェノサイド画集』-2

 それを描きためて、2002年にイェレヴァンで『虐殺』の大展覧会をして、フランスやアルメニアから勲章を授けられました。その時のカタログを兼ねた画集は 今もジェノサイド博物館で販売されています。カタログには35点の絵が掲載されていて、表紙に使われている絵は2メートル×3メートルもの大きさがあります。しかし 画風は きわめてスタティスティックなので、丸木夫妻の絵のようなダイナミックさに欠けるようです。

原爆体験記
ジャンセン『ジェノサイド画集』-3

 ジャンセンは、挿絵本も多数 制作しています。ボードレールの『パリの憂愁』や、セルバンテスの『リンコネーテとコルタディーリョ』などですが、これらはリトグラフ(石版画)なので高価です。印刷本にも エルヴェ・バザンの "QUI J'OSE AIMER"(1957, 邦題『愛せないのに』)や ジルベール・セスブロンの "LES SAINTS VONT EN ENFER"(1970, 邦題『聖人、地獄へ行く』)など 見るべきものがありますが、ジャンセンの絵は「虐殺」の絵ばかりでなく、ほとんどの絵が やや暗い印象で、悲哀感がただよっているようです。以前にアルメニアの音楽を紹介していた時に、

「幾たびも国を失い、離散の民となり、民族虐殺の憂き目にもあった 悲劇の民族であるからか、ポップスの歌でさえも その根底に深い悲しみをただよわせているような音楽が 心に沁みました。 時には、「涙と悲しみ」の日本の歌謡曲とも そっくりな歌があることにも驚きました」

と書いたことがあります。ジャンセンの絵もまた、若い頃から そうした性格をもっているのではないでしょうか。

ジャンセン   原爆体験記
エルヴェ・バザン『愛せないのに』、ジャンセンの挿絵

(2017/12/09)




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