ル・コルビュジエが『エスプリ・ヌーヴォー』誌に書いた論を集めた本が "VERS UNE ARCHITECTURE"(英訳は "TOWARDS AN ARCHITECTURE"、邦訳は「建築へ」)です。それに倣って、下の 3つのエッセイを集めて「原術へ」と題しました。 原術とは、「アーキテクチュア」の訳語として造語したものです。 これらのエッセイは、翻訳論の形をとった 建築界批判 と読めます。これが筆禍となって、マフィアに迫害されるようになりました。 建築の言葉に興味のある方は 是非お読みください。 特に建築科の学生諸君には、これらを通して「アーキテクチュア」や「アーキテクト」、「プロフェッション」の概念を知ってほしいと思います。 |
解 題 |
この夏(2008年)アルメニアに滞在していた間の8月 20日に、建築家の鬼頭梓さんが亡くなられたことを知った。 また、その2ヵ月前に『建築家の自由』と題する鬼頭さんの本が出版されていたことも知った。鬼頭さんといえば、日本の建築界の良心といわれ、公共図書館設計の名人であるとともに、建築家のプロフェッションの確立のために尽力された方として、つとに知られている。その目指したところが実現されずに、というより、もっと悪化したままに亡くなられたことは、さぞかし心残りだったことだろう と思う。ご冥福を祈る。
私が上記の3つのエッセイを書くことになった発端は、1986年の 新日本建築家協会 の出発に遡(さかのぼ)る。このホームページの読者としては 建築界の人と、それ以外の一般人を 半々に想定しているので、一般の方に理解していただくためには、建築家協会とは何なのかについての 詳しい説明が必要なのだが、それを じっくり書いていると あまりにも長くなってしまうので 別の機会に譲って、ここでは 要点を語るにとどめたい。 明治以来、日本で 建築の設計と監理を行う人たちは、西欧的なアーキテクト (Architect) の プロフェッション(Profession, 社会に貢献する 専門的職業)を 日本に確立すべく、「日本建築士会」を設立して その運動をしてきた(最初は明治 19年に「造家学会」として発足した。これが次第に アーキテクトの協会であるよりは学術団体へと変化していったので(現在の「日本建築学会」)、明治 44年に、学会とは別に 東京の「日本建築士会」と大阪の「関西建築協会」が設立された。大正3年に 両者を統合する意図のもとに「全国建築士会」が発足し、翌年「日本建築士会」と改称され、昭和 3年に 社団法人となった)。この建築士会の最大の目標は、法曹界に「弁護士法」があり、医療界に「医師法」があるように、設計・監理を行う人たちが拠って立つ基盤となるべき「建築士法」(アーキテクト・ロー)を制定することであった。 ところが 法案を 何度国会に提出しても成立せず、はるか後の 昭和の戦後になって(1950年、衆議院 建設委員会代表の 田中角栄 の提案による 議員立法で)やっと「建築士法」が成立したと思ったら、それは本来の「アーキテクト」とは まるで異なっ た、「ビルダー」の資格法に すりかわってしまっていた。営利企業としての建設会社や資材会社 その他が、「建築士」を社員として雇いさえすれば、営利行為として設計業務を行うことができる というのである。それでは 建築士は、建て主や社会の代理人となる「自由業」ではなく、営利企業に奉仕する被傭者、単なる技術者になってしまう。そして、それらの建築士(ビルダー)を統括する組織が、各都道府県の「建築士会」という名称になってしまったのである。 こうして、「建築士」という呼称の意味が すっかり変えられてしまったので、本来のアーキテクトを自認する人たちは、別の呼称である「建築家」と名乗ることになり、それを統括する組織として、国際組織である「国際建築家連合」傘下の「日本建築家協会」を設立したのである(1956年)。つまり 建設会社や 材料会社といった 営利組織に所属せずに、弁護士や医師のような、自由業としての 独立アーキテクト および その事務所に所属する人たちをメンバーとする、「専業設計者」だけの協会としたのである(検察庁に雇われる弁護士とか、製薬会社に雇われる医師とかが あり得ないように)。この時点において、英語のアーキテクトや仏語のアルシテクト、独語のアルヒテクトなどの訳語は、「建築士」から「建築家」へと、決定的に変更されたのだと言えよう。
しかし、建築家(アーキテクト)という呼称は 次第に普及していったにしても、彼らの努力もむなしく、その呼称が 何ら日本の法律に基づくものではないために、「建築家法」は制定されず、その立場は あいまいなもので あり続けた。ひとつの原因は、建築家協会の会員数が あまりにも少なく(最終的に 約 700人)、法が規定する設計者資格としての「一級建築士」の 一割にも満たないものだった。 そこで、現状打破の機運が熟した 1986年に、「日本建築家協会」は 専業設計事務所の連合体である「日本 建築設計監理協会 連合会」と合体し、またそれまで協会に 入るべくして入っていなかった建築家たちを 全面的に呼び込んで、日本の建築家の大同団結組織とし、名称を「新日本建築家協会」と改めたのである。 当時 筆者は 40代に さしかかったばかりであり、建築家協会というのは もっと年配になってから入いるもの とばかり思っていたのだが、発足する新協会への入会を要請する文書が届き、建築界では ここで一気に 建築家のプロフェッションの確立がなされるかのような、一種の熱気が立ちこめていたので、即座に入会することとした。 その前年の春まで、「サロン的な」、しかし ある意味では 戦闘的な 建築家協会を率いていたのは 圓堂政嘉氏であったが、この新しい動きを実らせるために、建築界の重鎮である 丹下健三氏が会長となった。この 世界的建築家は、折に触れて、日本の建築家の置かれた状態が 国際的に見て あまりに劣悪であり 歪められたものになってしまったことに、戦後の建築界を主導してきた世代としての 責任を表明していた。そこで 会長職につくと、精力的に 有力建築家たちを運動に巻き込んで、若い世代へのアピールも行い、新協会設立の 立役者となったのである。ひそかに思っているのだが、丹下氏は 新協会を設立することによって 建築家の制度を改善することの展望について、ある程度 建設省とも 合意に達していたのではなかったろうか。(じきに、それは裏切られることになるのだが。)
こうして 1986年に誕生した 新日本建築家協会は、会員を 6,750人とする大所帯となった。といっても、当時 日本で設計活動を行っている者が 約2万 5,000人ほどいて、そのうち1万人くらいが 建設業の設計部に所属しているのであるから、専業建築家の およそ半分 ということになる。それでも 新協会は 新しい組織づくりに情熱的に取り組み、若い世代の会員からの 意見や提言を募った。新協会を活性化するためには それが不可欠であったし、また旧協会設立の中心人物であった 建築家の前川国男氏は、建築家協会を「処士横議の場」とすることを持論としていた。すべての建築家が 組織に縛られずに 自由に意見を述べあい、切磋琢磨することによって成長し、協会が発展する との考えである。
新しい機関誌は、本部の『JIA ニュース』のほかに 各支部のものができ、関東甲信越支部のものは『JIA Bullertin』と名づけられて、毎月刊行された。 それらの誌面もまた、「処士横議の場」となるべきものであった。( JIA(ジェイ アイ エイ)というのは、日本建築家協会を意味する Japan Institute of Architects の略であり、アメリカの AIA(米国建築家協会)や イギリスの RIBA(王立英国建築家協会)に倣ったものなので、会員は この呼称を好んで用いる。しかし、後に 日本建築学会が Architectural Institute of Japan を略して AIJ の略号を用い始め、また農協の全国組織(全国農業協同組合 Japan Agricultural Cooperatives )が JA という 似たような略号を大々的に用いるようになったので、かつての輝きは なくなった。)
それを毎月読んでいて、どうも 論議が低調であり、自己満足めいたものも多く、このレベルでは 新しい協会の発展は危ういのではないか、もっと本質的な論議をしなければ、建築家のプロフェッションの確立など できるわけが ないのではないか、と感じていた。しかし、そう つぶやいているだけでは 何の進展もないのであるから、自分自身の考えを 根本からまとめて、協会員全体に向かって発表すべきだと考えた。 私は「旧協会」の会員では なかったから その時代の資料をもっていなかったし、まして アーキテクチュアやプロフェッションの訳語の問題を論じるとなれば、話は明治時代 あるいは江戸末期まで遡ることになる。こうして文献調査から始めて 自身の論を展開するのに3ヶ月かかり、また論文1編には おさまりきらずに、2編の姉妹論文となってしまった。すなわち 建築 という呼称を論じた「文化の翻訳、伊東忠太の失敗」と、職能 という訳語を論じた「何をプロフェスするのか」である。 この2編のエッセイを、年があけた2月なかばから、知人や新協会の役員たちに送り始めた。これを機関誌に載せてもらうか、あるいは 少々長いので別冊にするかして、会員の方々に議論してもらうべきだ と思ったのである。しかしこの頃、反対勢力からの力学が大きく働き、すでに「新協会」の活動は 低迷し始めていた。 初代会長であった丹下氏は、展望が開けずと判断して、当然期待されていた2期目の会長職を引き受けずに 去ってしまい、この当時は 林昌二氏(大組織設計事務所である 株式会社・日建設計 副社長)が 第3代目の会長となっていた。もちろん 論文は 林会長や、当時副会長であった 鬼頭梓氏、藤木忠善氏、大宇根弘司氏、そして「職能委員会」や「 広報委員会」にも送付した。
一般的に、日本人は自分の意見を開陳しない。波風を立てたくない、目立ちたくない、出る杭は打たれる、大勢に順応していたほうが安心だ。こういう姿勢が、常に わが国における諸制度の改革を遅らせる。したがって、私の送ったエッセイに対しても、反応しない人が多く、JIA 会長は 無反応であった。しかし 副会長の鬼頭梓氏は 礼儀正しく手紙をくれ、そして そこには「建築家の自由」と題する 抜き刷りの冊子が同封されていた。ここに手紙を転載させていただく。
この同封されていた冊子、「建築家の自由」というのは、建築家が 自由勝手に建物をデザインすべきだ と主張しているのではない。建築家が クライアントや社会公共の利益に奉仕するためには、権力や金力、政治的な圧力や、さらには自分自身の欲望からも 自由でなければならない、ということであって、この題名は ルターの著書『クリスチャンの自由』に則ったものだ。(マルティン・ルター著、石原謙訳『キリスト者の自由・聖書への序言』岩波文庫、1955年。この訳書の 13ページに、「キリスト者は すべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者は すべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも従属する」とある。)私は まったく知らなかったのだが、鬼頭氏は 敬虔な プロテスタントのクリスチャンだったのである。
これを一読して、大いに驚いた。その論旨が、私の論文「何をプロフェスするのか 」と ほとんど同一だったからである。私はクリスチャンではないから、ただ論理的に プロフェッションの意味を探求したのだが、クリスチャンとしての鬼頭氏の考えと 完全に重なり合ったのだった。
鬼頭氏の最後の著書『建築家の自由』には この講演記録が収録されていて、それが 本全体のタイトルともなっている。建築を専門とはしない人たちに語りかけたものだけに、建築家の倫理について わかりやすく、しかも総括的に語られている この文は、おそらく 鬼頭氏の建築家としての生涯で 最も大切なことの表明だと みなしたのだろう。
将来 建築学科の学生で「鬼頭梓論」を手がける人は、両者の異同を調べて、鬼頭氏の内面および周囲の状況の変化を 読みとってほしい。
私の学生時代には 大高氏の活躍が華々しかった。千葉の文化会館や図書館、それに一連の農協の仕事などが次々と建築雑誌のトップを飾り、師の前川氏との往復書簡なども掲載されて、前川国男の一番弟子は大高正人だ という印象を世間に与えていた。次代のチャンピオンの一人と目されていたのである。
丹下氏は 1964年の東京オリンピックに 代表作、代々木の 屋内総合競技場を完成させて 世界に名をとどろかせたのに、それを機に 官公庁からの国内の仕事の依頼が パタリと途絶えた。1970年の大阪万博会場の設計を最後とするかのように、ジャーナリズムから すっかり姿を消したのである。そればかりか、60年代の後半には 巷間に丹下批判の大合唱がまき起っていた。
話が横道にそれたが、ふたつのエッセイのうち、「何をプロフェスするのか」に 話をもどそう。鬼頭氏への手紙に書いたように、当時 新協会の職能委員会は「建築家職能五原則」なるものを とりまとめていた。それは 要するに、会員建築家の職業倫理 ないし行動理念といったものである。その文案が 1988年末に会員に送られ、これに対する意見、提言が求められた。これを読んで、あまりの 文章の質の低さに驚いた。そして、一体誰が誰に対して ものを言っているのか、建築家とはこういうものだ と言いたいのか、かくありたい という願いを表明しているのか、あるいは こうあるべきだと戒めているのかが分明でない。そもそも 自明のように やたらと使われている「職能」という言葉の定義がないので、何のことかよくわからない。 と、それだけ挑戦的な論文を 送りつけたのだから、当然「職能委員会」から呼び出しを受けて「査問委員会」にかけられる、というほどではないにせよ、大いに議論をして 新協会内部での議論の水準を高めていきたい と思っていた。ところが 驚いたことには、職能委員会からは 何の応答もなかったのである。議論のまな板に載せるどころか、論文を受けとった という返事さえもなく、ひたすらの沈黙であった。自己満足的に美辞麗句を並べていた人たちの 実態はこれかと、心底 情けない気分になったものだ。そしてまた、プロフェッションに対して「職能」という訳語を採用してきた経緯を 新協会の会員にも説明すべきだ という提言に対しても、旧協会でそれを推進していた人たちから 何の説明もなされなかった。
そのうちに、職能委員会ではなく、広報委員会の委員長である 渡辺武信氏より電話があり、関東甲信越支部の会報『 JIA Bulletin』の中の、先述の「私の職能」の欄に「何をプロフェスするのか」を載せたい というのであった。著者としては、支部ではなく 本部の『 JIA ニュース』に載せるべきだと思っていたが、最初に声のかかってきたところに従うことにした。渡辺氏というのは、知る人ぞ知る、詩人にして映画評論家、住居論も数冊ものしている多才な建築家である。若いときから 旧協会で積極的に活動してきたことでも知られていた。 そのゲラ刷りが送られてきたのは、ちょうど 私の チュニジア・アルジェリア旅行中だったので 校正ができず、だいぶ誤植が多かったが、ともかく 1991年の4月号に「本当の仕事」は「精神の内的促し」のため」という副題がつけられて掲載された。「五原則」に反発していた会員は多かったらしく、吉岡亮介氏をはじめとして 何人かの会員建築家から 共感の手紙をいただいた。しかし、職能委員会が沈黙したままなので、協会の中に議論の輪が広がることはなかった。
私のエッセイが なぜ それほど忌避されたのかというと、建築家の事務所(弁護士の事務所の多くが「○○弁護事務所」ではなく「○○法律事務所」と名乗っているように、「○○建築事務所」ではなく「○○設計事務所」と名乗っていることが多い)が 「株式会社組織」であるのは おかしい、と書いていることである。プロフェッションの意味を考えていけば 当然そういう結論になるわけで、建築家の事務所が 営利企業としての株式会社の組織になるならば、それは もう建設会社と何の違いもないわけである。営利企業の会社々長としての建築家の仕事が プロフェッションなら、建設会社の社長の仕事も プロフェッションになってしまうだろう。ところが日本では、多くの設計事務所が 株式会社となり、「設計業者」と 呼ばれている。こんな国は、世界中のどこにもない。 多くの国では 法律で、建築家の事務所は 株式会社とすることが禁じられている。(日本では 小規模の事務所は、当時あった有限会社組織を選んだが、株式会社と本質的な違いはなく、今では その制度はない。)
さて、私が より力を注いだ もう一方の論文「文化の翻訳−伊東忠太の失敗」のほうは、広報委員会から 何も言ってこなかった。鬼頭氏の手紙には、「貴下の論文は できるだけ多くの人たちに読んでもらい、考えて欲しいと思います。 もし お差支えがなければ、是非 JIAニュースに投稿なさって戴きたいと存じます」と書いてあったが、これは ずいぶん奇妙な話ではないだろうか。
常々 建築家協会の会員たちは、建築家の仕事が 世の中一般から理解されていないことを 嘆いている。それには さまざまな原因があるが、言葉(名称)の問題は その大きな要素である。そのことを この論文の要約のような形で 某新聞の「論壇」に投稿したので、不採用ではあったが ここに掲げておくことにしよう。
一般の人は アーキテクチュアの概念を知らない。そのために 建築家と一般人との話が かみあわず、議論は絶えず からまわりしてしまうのである。建築家でさえも それを正しく把握していず、言語化していないから、アーキテクチュアも ビルディングも コンストラクションも ゴッチャになっているのである。(今でも私は、アーキテクチュを「原術」と訳すのが一番よいと思っている。) JIA から 何の応答もなく 半年ほどたった頃、もう一人の副会長である 藤木忠善氏(当時、東京芸術大学教授、論文を送ったときには すぐに 肯定的な返事の葉書をくれた)に どこかのパーティでお会いした時にも、あの論文を『 JIA ニュース』に載せないのですか、と問うたところ、「載るんじゃないの」との返事だったが、一向に載らないし、そのことについての説明もなかった。 そのようにして1年もたった頃、こうした JIA のサボタージュについて、建築界の裏側にも よく通じている ある編集者に話したところ、彼は「 JIA は マフィアと つるんでいるんですよ」と、こともなげに答えた。 そうだったのか、新協会発足からすでに5年、JIA はそこまで退廃してしまったのか。JIA の執行部は、表面では 建築家のプロフェッションの確立のために戦う というようなことを言っているが、裏ではマフィアと取引をしているのか、それでは この論文は JIA の機関誌に載るわけはないのだ、と気がついたのである。若い会員の積極的な参加と意見表明を 絶えず求めていたのは、単なるポーズにすぎなかったのである。 鬼頭氏と、もう一人の副会長・大宇根弘司氏は ともに前川国男建築設計事務所に勤めて 前川氏の薫陶を受けた兄弟弟子であったのに、日本建築家協会を「処士横議の場」にするという 前川国男の理想を裏切っていたわけだ。処士横議の場どころか、そこは言論統制の場だと言っていい。
しかし、アトリエ事務所系の鬼頭氏と大宇根氏が 握りつぶしの張本人とは考えにくい。おそらくは 大組織設計事務所(日建設計)の 林昌二会長の意向だったのでは なかろうか。もし不都合な部分があるのなら、自ら論文を書いて反論するなり、論客をそろえて公開討論会なり 開催すれば よいではないか。私の2編のエッセイは、読んでもらえばわかるとおり、「反・建築家協会」の内容ではなく、建築家協会の立場に立ったものである。しかし新協会のほうが、次第に本来の姿から後退、変質してしまっていたのだった。
新日本建築家協会に「文化の翻訳−伊東忠太の失敗」を提出してから1年半近く たったが 、この論文をどう扱うのか、という意向さえも協会からは伝えられず、握りつぶされた ということが判然としてきた。これでは せっかく3ヵ月かけて書いた論文が 人々に読まれないままに消滅してしまう。当時は まだインターネットもなかった時代なので、ホームページに載せるというような方法もなく、マス・メディア以外に 発表の手段はなかったのである。
一体 どうしたものかと思っていた頃、ある人が 私の事務所を訪れた時に、最近は こんな建築雑誌もあります と言って、『at』という薄い雑誌を 置いていってくれた。古くからの出版社ではなく、建築の イベントや情報関係の会社である 「デルファイ研究所」が3年前(1989)に創刊していた マイナーな雑誌で、私は まったく知らなかった。何気なくパラパラめくっていると、創刊4周年記念の「懸賞論文大募集」という記事が 眼にとまったのである。これにでも応募しておくかと思い、よく読むと 募集テーマは「環境の中の建築」か「私の住居論」ということだったので、これでは だめだな と思ったが、「文化の翻訳」に「言葉環境の中の建築」というサブタイトルを付ければ いいかと考え直して、応募してみることにした。
『at』 誌は新興雑誌だったので、まだ マフィアの恐ろしさを十分に知らなかったのか、そしてまた 懸賞論文であれば 選ぶのは編集者ではなく審査員だ ということになっているからか、「言葉環境の中の建築」という、とってつけた副題は問題にされずに、論理的構成と主張によって、私の論文「文化の翻訳−伊東忠太の失敗」が 入選作に選ばれたのである。 しかし、その懸念は 当たっていたとも言える。この受賞をきっかけに 私と親しくなった編集部は、翌年、私の「インド・ジャイナ教の建築」を隔月で1年間連載し、その翌年には 私の「インドの砂漠都市、ジャイサルメル」の特集号を出したりしたために、つぶされてしまうのである。それだけ、ここの編集部には 骨のある編集者がいた、ということを 意味してもいる。メジャーな建築雑誌のような、流行の建築作品の紹介に明け暮れるのではなく、古今東西の建築という文化について、さまざまな切り口から 探求・報道していこう という雑誌だった。「建築」とは、本来 そういうものだと思う。 似たようなスタンスで、もっとメジャーな存在だった『 SD 』誌も廃刊となってしまった現在、こうした建築雑誌が どこからか 発刊されてほしいものだと思う。 こうして、JIA に握りつぶされた「文化の翻訳、伊東忠太の失敗」は、新興建築雑誌の存在のおかげで、やっと印刷になって刊行され、人々に読んでもらうことができた。『at』誌の 1992年 11月号である。執筆してから、すでに2年も経過していた。新興の『at』はマイナーな雑誌であったから、購読者の数は まだ あまり多くは なかったろうし、この雑誌を知らない建築家もいたろう。それでも、これに目をとめ 注目してくれた人たちもいて、陰ながら応援しても くれたのである。
『at』誌に掲載されてから1年以上たったある日、建築評論家で編集者の 宮内嘉久氏から電話があり、「文化の翻訳」を『 燎 』に再録したいという、好意的な申し出だった。宮内嘉久氏は、その学生時代から わが国における建築ジャーナリズムの確立に邁進した、長老格の編集者である。ジャーナリズムというのは「新聞や雑誌の報道」と訳されるが、単に 建築の業界情報を流して 新しい建築作品の紹介をするだけでなく、建築をとりまく社会の動きをとらえ、建築界の出来事を 批判精神をもって報道し 評論すること、それが 建築ジャーナリズムである。批判精神なしのジャーナリズムは ありえないが、宮内氏の努力にもかかわらず、いまだに日本には 建築ジャーナリズムが確立していない。存在するのは 情報誌紙だけだ とも言われる。
宮内氏は かつて、伝統ある建築雑誌『 新建築 』の編集部にいたが、(ここに詳しく書いている余裕はないので 省略するが)「新建築問題」と呼ばれる事件によって、編集長の川添登、同僚の平良敬一、宮嶋圀男の諸氏とともに 一斉に退職した。その後 宮内氏は 建築家が「設計事務所」を営むように「宮内嘉久編集事務所」を設立し、美術出版社の、これも伝統のある『 国際建築 』誌 の編集を受け継いだ。 1968年に その『 国際建築 』というマスメディアが廃刊になり、またライフワークとしていた『 建築年鑑 』も廃止に追い込まれ、編集者としての拠り所がなくなっていた宮内氏に もたらされたのが、『 風声 』というミニコミ誌だった。書店で売っていたわけではないので、多くの人はご存知ないだろうが、京都の 岡澤という「洛匠織」の会社が資金を提供して、しかしその PR 誌ではなく、前川国男、白井晟一、大江宏、神代雄一郎、武者英二、岩本博行、そして宮内嘉久の諸氏を同人とする「同人誌」と称して不定期に発行された。しかし実質的には、宮内氏の信ずるところにしたがって編集する「建築誌」である。
その『 風声 』は 10年続いて 景気後退のために終刊となり、それを引き継いで 続刊できるようにしてくれたのが INAX 社長の伊奈輝三氏であった。『 風声 』から『燎』へと タイトルを変え、年3回発行、A6版 約 70ページの小冊子で、建築作品の紹介は一切なく、口絵のほかに 依頼原稿としての「随想」、人を招いての「対談あるいは座談会」、そして「文献再録」の3つの部分から成る。部数は 3,000部で、市販せず、読んでもらいたい人たちに送る、という形態なので、知る人ぞ知るの 少数メディアではあったが、建築界の主要な人たちには 良く知られていた。( 詳しくは、宮内嘉久著 『 建築ジャーナリズム無頼 』1994、晶文社 を参照されたい。)『 燎 』というのは「りょう」または「かがりび」と読む。ある領域を警護するために 焚く火のことであろう。私には、ゲルツェンが発行した雑誌の名前「 鐘(コロコル)」が思い出された。
この典雅な装丁の「雑誌」が、発表されてから わずか1年しか経っていない 私のエッセイを「文献再録」するというのは、異例のことだったろう。かつて再録されたものを見ると、最初が 村野藤吾の「信条としての少数派」、次いで 前川国男の「白書」、その他 白井晟一の「縄文的なるもの」、谷口吉郎の「建築意匠学・序説」、鶴見俊輔の「断章・北米体験再考」等の 錚々たる人たちによる昔の文章ばかりなので、ずいぶんと驚いた。 宮内氏は、「文化の翻訳」が『at』のようなマイナーな雑誌に載るだけでなく、現在の状況下では、もっと広く読まれるべきだ と判断したのである。(もっとも、部数の上では、『燎』は もっとマイナーな雑誌であったが。)
『 燎 』の 22号が発行された2ヵ月後、丸善の『 學鐙 』という小さな雑誌が届き、科学ジャーナリストの 岡部昭彦氏から葉書をいただいた。『 學鐙 』というのは 明治 30年に創刊された、わが国最古の企業広報誌である。といっても通常のPR誌とはちがい、明治以来 学術書を輸入して学者・文化人に供給してきた書店(丸善)だけに、大半の執筆者は大学教授や思想家で、ミニ言論誌のような趣を呈している。大学人の間では 有名な小雑誌である。その 1994年9月号に、岡部氏が連載をしていた「科学の季節風」の欄に、「ひと夏の収穫」という文を書いていて、その中で『燎』に掲載された「文化の翻訳」を採りあげ、次のように論じていたのだった。
この当時、私はまだ マフィアによる 私自身への迫害には気づいていなかった。 したがって岡部氏の「ネガティヴな反応」の意味が よくわからず、単に反論の有無を問うているものと 思ってしまったのだが、今にして思えば、氏は それを予想していたのかもしれない。そのネガティヴな反応は 次節に書くように、じきに現れることになる。そのことは、きっと 宮内氏から岡部氏に伝えられたことだろう。しかし その後の岡部氏は、私が期待したようには、建築界の暗黒世界の問題に 深入りは されなかった。 この翌年の 1995年には、『 戦後建築の 来た道 行く道 』という本が出版されて、その中の シンポジウム2「戦後建築を回顧する」(パネリスト 大谷幸夫、内田祥哉、長谷川堯、布野修司)において、学者で建築家の内田祥哉氏が 次のように発言している。(1995年、東京建築設計厚生年金基金刊、創立 25周年記念出版、p.117-8) 内田氏は戦前の構造学派、東大総長も努めた内田祥三氏の子息で、当時 建築学会々長であり 東京大学名誉教授でもあった。
ヨーロッパから移入され、当初は「造家」と 訳され、のちに「建築」と訳されるようになった「アーキテクチュア」について、定年まで東大の「建築学科」の教授を努めた方から、今頃 このような発言がなされる ということ自体が、本来は奇妙な話だと言えるが(建築 という言葉の定義もなされないまま 100年間も、「建築」の教育が 最高学府でなされてきたのである)、だからこそ 建築界で議論する必要があり、このように議論の輪が広がっていくこと、そして日本人がアーキテクチュアへの理解を深め、定義し、共通の認識をえていくこと、それこそが 私の論文の目的だったのである。 このシンポジウムの記録を 今 読み返してみると、一般の人に理解されない、建築家や評論家に典型的な言い回しが多いことに 改めて気がつく。たとえば 優れた建築評論家で 近代建築史家でもある長谷川堯氏の、次のような発言。(p.116)
建築という言葉を、「建物」や、建築基準法で定義されているところの「建築物を新築し、増築し、改築し、又は移転すること」という意味で理解している 一般の人が、これを読んで 理解できるわけがない。建築関係者は建築という言葉を、ある時は ビルディングやコンストラクションの意味で、ある時は アーキテクチュアの意味で、無意識に使い分けているのだが、それは一般の人には通用しない、内輪の言説なのである。上記の文で、「建築」という言葉を、すべて「建物」で置き換えて 読んでみてほしい。 べつに長谷川氏が悪いのではない。アーキテクチュアの概念が日本語に移されていない現状では、誰が語っても そういうことになるのである。
しかし、おそらく この「文献再録」が、宮内嘉久氏に 災いをもたらしたのだった。それまで INAX の伊奈社長は『 燎 』の編集に一切口出しをせず、どれほど建築界に対して 批判的な記事を載せても、寛容に眺めていたという。そのことが逆に、宮内氏の誤算の因ともなったろう。あのエッセイには、翻訳論を超えた、建築家の制度の問題が含まれていて、頭のある人が読めば、その延長上に何があるか 見てとれたからである。それが、マフィアに それほどまでに危険視されるとは、書いた私も 宮内氏も、気がつかなかったのである。
私のエッセイが再録された『 燎 』22号は、奥付では 1994年6月 20日刊であるが、発行が遅れたらしく、私のもとに届いたのは6月 29日だった。(普通は、発行日よりも早く 著者や寄稿者のもとに届く。)そして、のちの『 燎 』25号の末尾に掲げられた 告知板「読者の皆さんへ」の回想によれば、22号発行の すぐあとの7月7日に、『 燎 』の事務局と INAX との懇談の席で、『 燎 』は 10年をもって廃刊、と告げられたのだという。すなわち、この 1年後の廃刊である。
『燎』の 22号には、もう一つのトラブルがあった。建築評論家の長老・浜口隆一、建築編集者の長老・平良敬一、同じく 宮内嘉久の3氏による鼎談「 地域建築家の地平は「丹下理論」の乗りこえなしに拓けない 」において、平良氏の勇み足で、建築史家の村松貞次郎氏への非難が 行き過ぎたのだった。
このあとにも、「私は、建設業の 設計施工一貫の体制に 賭ける」とか、
余談になるが、今回 私は、その『 新建築 』での記事 および、その連載が単行本になった『 現代建築をつくる人々、設計組織ルポ 』(1963、世界書院)を再確認しておこうと、東京都の 公立図書館の蔵書検索をしてみた。すると 驚いたことに、この本は、東京都に約 400館ある公立図書館と分館のうち、わずか1館にしか現れなかった だけでなく、あらゆる本を収蔵しているはずの 都立中央図書館にも 無い。そればかりか、国内のすべての建築書を集めているはずの 日本建築学会の図書館にも 存在しないのである。
当然のことに 平良、宮内両氏とは 相容れない立場であるがゆえに、両氏は『 燎 』誌上において、前川国男の 神奈川県立音楽堂・図書館の保存問題 を契機に「行きすぎた 感情的表現によって」 批判し、「村松貞次郎氏の 名誉と心情とを傷つける結果」となったのだった。
宮内氏は、『 燎 』が廃刊になったのは、村松氏の抗議文が 原因だと思った、と語っていたが、いくら東大の名誉教授でも 天下の INAX の雑誌をつぶす力はないし、また平良氏による 非難の行き過ぎも、名誉毀損で罪に問われる というほどのものではない。潔い「詫び状」で解決する程度のものだった と言える。
その 伊奈社長退任の 1996年、INAX ギャラリーの 大橋恵美という人から6月 17日に電話があり、「建築と色彩」という展覧会をやるので、インドのジョードプルにある「青い町」の地区の写真を貸してほしい ということだった。 INAX と TOTO は タイルおよび衛生陶器のライバル会社で、ともに建築のギャラリーをもち、ギャラリーと関連した出版もしていた。INAX ギャラリーでは、展覧会をやると、同時に それをペーパーバックの図録(ブックレット)にして出版するのが習慣だった。
『 燎 』の 22号が出た翌年、1995年の3月に、建築学会から私に、『 建築雑誌 』への原稿依頼があった。『 建築雑誌 』というのは、日本建築学会の会員3万 5,000名に 毎月送られる機関誌である。一般名称のような 奇妙な題名をしているが、1887(明治 20)年に創刊された、わが国で最も古い建築雑誌である。 明治時代には多数の寄稿や情報からなる民間誌や機関誌を「○○雑誌」と称することが多かった。森有礼らの『明六雑誌』、福沢諭吉らの『民間雑誌』、柳河春三らの『西洋雑誌』 などが名高いが、『 建築雑誌 』は 創刊後 120年以上も続いていて、しかも多くの商業誌が刊行されて 「建築雑誌」というのが一般名称として使われるようになっても、固有名詞としたまま 改名されなかった 珍しい雑誌である。会員の間では、一般名称と紛らわしいので、単に「学会誌」と呼ぶことが多い。
建築学会は、1886(明治 19)年に「造家学会」という名で設立された当時は 建築家の集まりであったが、次第に学術団体へと移行した。そして「工学部」の技術教育を中心としながら 建築家教育も従属的に含め、ほとんど 「総合建設学」とでもいうべき、世界でも類を見ない未分化な大学教育のあり方を反映して、「建設学」に関係あるすべてを横断的に擁するという、マンモス学会に ふくれあがってしまった。 1993年に 新編集長となったのは、珍しく大学教授ではなく、先述の JIA (新日本建築家協会)の建築家である 渡辺武信氏だった。氏は同じ JIA から 斎藤孝彦氏を 幹事・編集委員の一人として招き、建築家というものについて考える特集号を出すことも企画した。斎藤氏は 旧建築家協会の時代から、真摯に建築家のプロフェッションの確立や その他の問題に取りくんできた建築家で、このコンビは建築学会に建築家サイドの息吹を吹きこもうとした。
その特集、「建築家・そのあるべき姿と ありうる姿」は、渡辺編集委員会が担当する 最後のほうの 1995年7月号で、斎藤氏を主査として 編集された。ここに 私を含む 16人の執筆者が選定されたが、意外だったのは、その巻頭の総論的な位置が 私に与えられたことだった。建築家が主導権をとる編集委員会でなければ、こんな人選はできなかったことだろう。
前述のように 渡辺武信氏は、私が最初に JIA に2つのエッセイを送った時から それらを読んでいたわけだが、斎藤孝彦氏は「文化の翻訳」を、この1年前に『 燎 』の文献再録で初めて読んだのではないかと思う。つまり JIA がその論文を握りつぶしたのだということを知らないままに 強い印象を与えられたことが、私に総論的な原稿を書かせた動機だったろう。
この特集の企画と執筆者の情報は 当然マフィアに伝わっていたから、関係者への監視が強まっていたらしい。原稿を送ってから2週間後の5月 16日、外での昼食から戻ってくると、事務所で いつも手帳を置いておく場所から、忽然と 手帳が姿を消していることに気づいた。2時間かけて探しまわったが、どこにもない。ところが その3週間後の6月6日の朝、事務所に行くと、同じ場所に 手帳が戻っていたのである。 さて、「あいまいな日本の建築家 ―― アーキテクトの訳語をめぐって」 の中で、最も刺激的だったのは、
という部分であったろう。編集委員会から求められた「建築家・アーキテクト・建築士の違いは何か」について書いていけば、当然こういう帰結になる。そして 特集の中には、ゼネコン設計部の立場を代表して、鹿島建設・副社長の中島隆氏が「国際的プロジェクトの参加経験から学ぶ」という原稿を書いている。その中で
と述べている。つまり、田中角栄・村松貞次郎 路線に立脚する ゼネコン設計部として、建設業者や材料業者が「一級建築士」という資格のビルダーを 社員として雇えば、自由に建物の設計をしてもよい という、現行の「建築士法」で十分だ というのである。したがって、これに反対する立場のフリー・アーキテクトが 勝手に名乗ってきた「建築家」という名称は 建設業の設計部員には必要ない、ということを主張していることになり、上記の私の論旨を 肯定する文脈となる。
この特集をした 『 建築雑誌 』の 1995年7月号は、月末の 31日に届いた(当時の『 建築雑誌 』は、1ヵ月遅れが普通だった)。私のエッセイは「 翻訳論3部作 」の中の1編というべきものだったので、その末尾に、他の2論文を請求してくれれば FAX すると書いたら、各方面から請求があった。その中に、ある大手建設会社(清水)の課長である I氏より 10月になってから請求があり、さらに詳しい話を聞きたいと、月末の 30日の昼間に わざわざ 私の事務所に来て、2時間半も 話をしていった。しかし 格別 私の論文について深入りするわけでもなく、ただ雑談をしているだけのように見えた。また 彼の経歴を聞いても(京都大学の航空工学卒ということだったが)、特に こういうテーマに関連があるわけでもなく、また関心がありそうでもなかった。その後、彼から連絡もなければ、こうしたテーマについて 書いたものを 送ってくるでもなかった。
実をいうと、私は それまでの迫害には 気がついていなかった。それまでの論文は マイナーな雑誌に発表していただけなので、迫害の程度も それほど ひどくはなかったろう。しかし今回は 日本建築学会の権威ある雑誌である。そこに 如上のような内容の記事を 巻頭に載せたのだから、一気に、あからさまな攻撃となってきたのである。 それからは、こちらの設計図に 描ききれていないことを 定例会議で相談して 決定していくのではなく、一方的に おかしな工事をして、それを設計事務所の責任であるとして 建主に報告をする。そして、こちらの空調設備設計の担当者による 小さなミスを、施工図の段階で指摘して改善するのでなく、実際に工事をしてから 重大な設計ミスだと騒ぎ立てる。各所で 下請け業者に おかしな工事をさせる。 現場は、毎週の定例検査で 私が それらを見つけて 直せと言っても、次週には直っていないという、熾烈な闘争の修羅場となった。あげくの果ては 工事側の現場所長が、この仕事は あんな設計事務所にやらせておかないで、我々に全部任せなさい、とまで 建主に迫る始末だった。建主がそれを拒否したのは幸いだ。
しかし 彼らが ありとあらゆる嫌がらせをし、私のやり直し命令も無視して (たとえば、手すりのプレートを、わざと はずれやすいように取り付ける 等)、すべてを設計事務所のせいにしたまま逃げ切ろうとして、竣工間際まできたとき、ふと私は「工事完了届け」のことを思い出した。 ところが今回、建設会社は最終ラウンドで、監理者としての設計事務所を陥れるべく、おかしな工事ばかり してきたのだから、「工事完了届け」にそれを全部書かれるかもしれない。それを恐れた現場監督・Wは、私に無断で、勝手に「工事完了届け」の用紙に、工事は すべて良好だったと書き込み、私の名の印鑑を買ってきて押印し、役所に提出して、何食わぬ顔をしていたのである。すなわち、「 有印私文書偽造 」という 犯罪行為にまで 手を染めてしまったのである。Wを問い正して これが暴露されたとき、この会社は、突然態度を変えた。平謝りに謝って、私がリストに挙げていた すべてのインチキ工事を ただちにやり直し、こちらの要求どおりの正しい工事を 竣工引渡しまでに完了させるので、どうか穏便にしてほしい と懇願し、その「念書」を書いたのだった。
こうして、年末の短期間で すべての残工事、ダメ工事をやらせて、ことなきを得たが、もしも彼らが その失敗をやらなかったら、私の身と事務所は、どんな事態に追い込まれたか わからない。それ以上に、これが 瑕疵だらけの建物となったら、どんなに 建主に迷惑をかけることになるか。思っただけでも ゾッとする。しかし 年内に竣工引渡しをすませて、何とか年を越すことができた。
出版すべき本のほうは、翌年になっても、編集が少し進んだと思うと すぐに中断してしまう。ほかにも、私の作品や インド建築の記事を載せることを約束した建築雑誌が、いずれも それをホゴにしてしまう。ずっと以前には なかった これらの現象の背後に、何かあるのではないかと思い始め、この5年来のできごとを すべて年代順に書き並べた表を作成して、やっとその因果関係がわかってきたのである。最初の論文を書いたときから、それは始まっていた。私の発言を封じて 建築界から抹殺すべく、すべてのメディアに圧力をかけたのである。しかし そうした、陰に隠れた外力の存在には、私よりも前の人たちがそうであったように、 なかなか気がつかない。建築雑誌に載らなかったのは、単に編集者に見る目がなかったか、あるいは 自分の能力不足であったか、と 思ってしまいがちである。
事態を打開するために、何人かの人に相談してみようと、まず JIA の、前年から関東甲信越支部の支部長になっていた斎藤孝彦氏に電話をして、学会誌のエッセイがもとで 火の粉が降りかかってきたので 相談したいと、翌日 建築家会館で面談するアポイントメントをとった。雑誌の記事というものは、何かあれば 執筆者もさることながら、その編集者も責任を問われるからである。特集の主査であった斎藤氏および 編集長であった渡辺氏とともに、JIA 内の正統派建築家がまとまれば、事態打開の手段になるのではないか と思ったわけである。 翌日、日本建築家協会の専用ビルである(前川国男氏の唱えた「処士横議の場」であるはずの)建築家会館のバーにおいて、斎藤氏に会って一連の災疫の話をした(バーといっても、ほかには 誰も 客はいない)。私は、当然 渡辺武信氏も同席するだろうと思っていたのだが、まったく現れなかった。しかも、斎藤氏から報告を受けたはずの渡辺氏から、その後も 一切のコンタクトがない。おそらく 斎藤氏が途中で長時間 席をはずしていたのは、2階に渡辺氏がいて、2人で相談していたのではないかと思う。そして両氏もすでに「ネガティヴな反応」を JIA 内外において蒙(こうむ)っていたのだろうが、当時の JIA の組織からいって 闘いの展望がまったく見えないことから、両氏とも 一切 沈黙をきめこんでしまったのである。これでは編集長の責任 ということの 自覚に欠けていると言えるが、逆に その無責任さが、学会誌における執筆者選定の自由度になっているとも言える(商業誌だったら、そうはいかない)。だいたい、この JIA のバーというのが曲者であって、ここから JIA の活動情報は マフィアに筒抜けになっていた らしいのである。マフィアは両氏の態度を見て、すっかり安心したことだろう。 ただ インド建築の本2冊は、その後の紆余曲折を経て、この年の秋に 何とか出版された。TOTO 出版の人たちが 圧力に屈せずに 頑張ってくれた おかげである。彰国社と、何という違いだろうか。
話は 時間的に少々先へと飛ぶが、日本建築家協会の機関誌、『 JIA ニュース 』1999年の5月号に「なぜ株式会社か」という 刺激的なタイトルの記事 が載った。著者はリチャード・サクソンという 英国の建築家で、ビルディング・デザイン・パートナーシップ、略して BDP という国際的組織設計事務所である 株式会社の チェアマンであるという。かつて村松貞次郎氏が「設計施工一貫を推す」と主張したように、今度は英国の建築家が「株式会社を推す」という主張をしたのかと、驚いて読んだ。 読むと、おかしい。そこには「合名会社として設立された」とか、「この組織を株式会社として再編した」とか、「会社のオーナーたちは それぞれ社長であり」とか、「ベンチャーに投機できる」とか、「PFI にも投資している」とか、およそ英国の設計事務所らしからぬ せりふが 次々と出てくる。
この記事は 上段に 翻訳があり、下段に 英語の原文がある。そこで、その原文を読んでみたら、これは相当に ひどい翻訳であることが わかった。そもそも この記事のタイトルは、「ADAPTING TO NEW REALITIES」(新しい現実への適応)である。設計事務所は 激しく変化していく現代に適切に対応し、「パートナーシップによって すぐれたデザインとサービスを提供しよう」という。それが どうして、「なぜ株式会社か」などという訳になる というのか。一体 誰が、何のために こんな訳文を 意図的に でっち上げたのかと思い、見ると 翻訳者の名前がない。翻訳物というのは 著作物である。JIA は 建築家の著作権の問題にも取り組み、建物への設計者の記名運動を しているはずではないか。それが 翻訳者名のない訳文を 機関誌に掲載するとは どういうわけか。 ここで 誤訳(というより 意図的な 捏造訳 )の指摘を 延々と繰り広げるつもりはないが、もし こんなことを言われたのは心外だ というなら、翻訳者は 正体を現して、私の事務所に来ていただきたい。逐一、誤訳を指摘しよう。しかし、これは誤訳というよりは、作為的なプロパガンダなのである。JIA 会員建築家の事務所の多くが 株式会社になっていることを問題視する批判に対して、株式会社であることを正当化しようと、作為的に訳文を捏造(ねつぞう)し、しかし責任者の名は出せずに 隠蔽したのである。そして、あたかも きちんとした翻訳であるかのごとくに、和英併記とした。JIA の会員も ずいぶんと馬鹿にされたものだ。どうせ英語など読めないだろう、と 高を括られたのである。
** この 翻訳者(というより 翻訳捏造者 )は、ついに姿を現わさずに、身を隠したままである。 おそらく、当時の JIA 会長自身 が、腹心の部下に やらせたのであろう。 あるいは、会長自身が 翻訳捏造者 だったのだろうか?
さて、事業を営む組織の一般的呼称は、英語では 主に3つある。 カンパニー(Company)と、コーポレーション(Corporation)と、ファーム(Firm)である。 カンパニーは 主として英国で、コーポレーションは 米国で多く用いられ、日本語の「会社」、「企業」を意味する。これは法人であって、その多くは 営利法人としての株式会社である(非営利のものとしては、ギャランティー・カンパニーなど)。個々の株式会社の名前は、日本では「○○株式会社」とか「(株)○○」などと書くように、米国では「○○ inc.」(Incorporated の略)、英国では「○○ Co.,Ltd.」(Company Limited の略)あるいは「○○ PLC」(Public Company の略)と表記するのが普通である。
プロフェッション(社会に貢献する専門的職業)というのは 個人に属するので、営利法人としての会社には なじまない。世界のどこの建築家協会も、建築家個人をベースにしているのであって、企業ではない(建築家は個人として行動するのであって、社員としてではない)。
このパートナーシップ制度によって、建築家は自立しながらも 協働によって大きな仕事もこなせるし、日本のように 若い建築家が やたらと独立して個人事務所の数を増大させることを 防げるのである。
近代的な株式会社の始まりは、1600年に設立された 英国の「東インド会社」という商社である。南アジアや東南アジアと貿易を行うために、オランダ(1602年)、フランス(1604年)、さらに他のヨーロッパ諸国も、同名の「東インド会社」を設立した(当時の 東インドという言葉は オリエントと同義であって、ほとんど アジア全体をさした)。商船で 遠隔の地まで航海し、大量の物産を買い付けて持ち帰るためには 莫大な資金が必要で、それを株券発行で調達したのである。この資本と、商社のもつ軍事力と才覚が、アジア諸国を植民地にしていった。帝国主義の発展を支えたのは、株式会社であった。本国の株主は、貿易が成功すれば多くの配当を得たが、嵐で難破したり、現地で暴動にあったりして失敗すれば、大損害をこうむった。 以上のことを頭にいれて、さきほどの『 JIA ニュース』の記事を見ると、奇妙なことが多い。翻訳の題名が「なぜ株式会社か」とされているのに、この BDP という組織が 株式会社なのか パートナーシップ事務所なのか、よくわからないのである。設立時には「伝統的なパートナーシップ事務所」だったという。で、1997年に「カンパニー的なパートナーシップを パートナーシップ的なカンパニー」に再編したというのであるが、カンパニーにもいろいろな種類がある。記事末の英文の紹介を見ると、正確に「株式会社」であるとは どこにも書いてない。事務所名は あくまでも 「ビルディング・デザイン・パートナーシップ」であって、どこにも「Co.,Ltd」とも「PLC」とも書いてない。しかも「建築家やエンジニアの国際的な ファーム」であると書いていて、カンパニーとは書いてない。こうなると、BDP というのは パートナーシップ事務所ではないかと思われるのに、翻訳は「なぜ株式会社か」であり、訳文中には いたるところに「わが社」とか「株式会社」と書かれている。 今回、この文を書くにあたって、確認のために BDP のホームページを当たってみた。事務所紹介のページには「BDP is the largest interdisciplinary practice of architects, designers, engineers and urbanists in Europe.」と書いてあるだけで、やはり「Co.,Ltd.」とも「PLC 」とも書いてない。どのページを見てもそうである。おそらく 誰でも このホームページを見れば、これはパートナーシップ事務所だと思うだろう。そこで、BDP の「Enquiries」のメール・アドレスに、次のような質問メールを送ってみた。
ということを 英語で書いて送った。しかし、返事は来なかった。なぜ 返事を しないのだろうか。思うに、もしパートナーシップ事務所であれば、すぐに そう書いた返事をよこすのでは ないだろうか。返事をよこさないのは、株式会社であるけれども、そうと公言したくない のではなかろうか。もっと言えば、BDP は、株式会社であることを、極力 隠そうとしているのではないか。組織の名称も、ホームページによる広報も、雑誌への寄稿も、すべて株式会社ではないような書き方をしているのでは ないだろうか。
日本建築家協会が、本当に 日本に 建築家のプロフェッションを確立しようと思っているなら、「なぜ株式会社か」ではなく、「なぜパートナーシップか」というエッセイをこそ載せて、会員建築家に、株式会社ではない「 パートナーシップ事務所」の制度について、情報を提供すべきではないのか。
こういうこと(建築家のプロフェッション)に 強い関心を抱く女性の編集者がいた。設計事務所が株式会社であるのは 絶対におかしい と強く主張していたが、そのために彼女は、日本の建築界から追放されてしまったのである。
新日本建築家協会は、1996年に「新」を取り去って日本建築家協会の名に戻していたが、もはや 創立当初の志を失い、「歌を忘れたカナリア」となった、というより、JIA 自体が、建築家のプロフェッションの確立を さまたげる存在であるように見える(実は、これは 故・宮脇檀氏が 言っていたことであるが)。もはや この協会に期待することは何もなくなり、私は 2003年に 日本建築家協会を退会した。
それ以前も 以後も、私の活動は 絶えず マフィアによって 執拗に妨害されている。出版では、『イスラーム建築』の出版拒否については ここをクリック、『ファーガスンとインド建築』については ここをクリック、『東京都 現代美術館』については ここをクリック して 読んでいただければ幸いである。 TOTO出版から出した『インド建築案内』は 大きな評判をとり、売れ行きもよかった。1998年の2月 16日に インテリア・コーディネーターのKさんが事務所に来て、講演を依頼された。Kさんは もと三井ホームの社員で、独立後も半分以上は三井ホームの仕事をしているという。毎年1回、三井ホームのインテリア・コーディネーターの総会が午前にあり、午後に講演会、夜に懇親会をやるという。 総会には全国から 100〜150人のインテリア・コーディネーターが集まる、昨年の講師は光藤俊夫氏で、会場で光藤氏のサイン本を売った、今年は6月5日で、私にインド建築の講演をしてもらい、懇親会にも出席してほしい、本も 100冊くらい売る。ということで、十分な謝礼額も提示された。
ところが、3月中に 次の打ち合わせに来る、ということだったのに、その後 まったく連絡がなく、4月も半ばを過ぎてしまった。そこで4月 20日の朝に、Kさんの名刺にあった 三井ホーム・東京西支店に 問い合わせの FAX を送ろうとしたら、驚いたことに、この番号は 今は使われておりません、というアナウンスがあり、送れない。そればかりではない、三井ホーム・東京西支の電話番号まで変わっていて、つながらないのである。私に連絡を よこさないばかりでなく、私からも 連絡できないように、会社の電話とFAX 番号を すべて変更してしまったのである。 では、一体なぜ私の言論が それほど忌避され、私の あらゆる活動が妨害されるのか。これを一般の方にも 十分にわかりやすく、しかも根本的に説明するには、もう1編のエッセイを書かねばならない。建築家の仕事や理念、日本の建築界の 退廃した現状、そして日本の 特殊な大学教育システムから、世界標準と異なった 資格制度および 設計組織、等々をトータルに述べるためには、かなりの準備と時間が必要である。したがって、今回の「解題」は 一応ここで終わりとし、いずれ 新しいエッセイを、「解題」ではなく、4番目のエッセイとして追加したいと思う。 なお この 「解題」を書くにあたり、最大限 当時の資料に当たったが、私の記憶違いや 認識の不備などが あるかもしれない。それに お気づきの方は、是非 当方まで お知らせください。誤りがあれば、ただちに訂正いたします。 ( 2008 /12/ 08 ) |