WHAT SHOULD WE PROFESS ?

何をプロフェスするのか

神谷武夫

『バビロンの流れのほとりにて』


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 日本建築家協会の第一の目標は、建築家の『職能』を確立することだという。職能というのは英語のプロフェッションの訳語であるということだが、これがどうもよくわからない。岩波の『広辞苑』で職能という言葉をひくと、
   1 職業・職務上の能力
   2 職業によって異なる固有の機能
とあり、その派生語として、「職能別組合」は職業別組合に同じ、とある。
 他の辞典をひいてもだいたい似たようなことが書いてあり、世の中では『職能』という言葉は 職業という言葉とほぼ同じ、そのちょっと難しい言い方として理解されているようである。そうであれば、建築家協会のめざすものが職能の確立であると言っても、一般の人にはピンとこないであろう。当の建築家自身にも ピンときていないかもしれない。
 そうしてみると、『プロフェッション』に対する『職能』という訳語が うまくないのかもしれない。それが「職業」とおおよそ同義語であるのなら、何も医者や弁護士や建築家という職業ばかりが 特別視されるいわれは ないからである。建築家協会は、印刷業組合や道路工組合のような 職能別組合の一つを目ざしているわけではないだろう。
 だいたい『職能』という言葉を和英辞典でひくと “function” と書いてあるのが普通であり、また「職能別組合」(「職能組合」 ともいう)は 英語では “craft union” であるから、職能という言葉から “profession” の語は導き出されないのである。

 『職能』という言葉を積極的に使っているのは、むしろ経済界である。 日経連の職務分析センターでは、《職能資格制度 −設計と運用−》という研究を 10年前にまとめて出版しているが(『職能資格基準のつくり方』日経連弘報部 1982)、そこで言う『職能』とは、「職務遂行能力」を意味している。
 職務 (経営上必要な仕事)の分類は 各企業によって異なるが、それぞれの「職務の遂行を通じ、発揮することが要求され期待される能力 」を『職能』と呼ぶのである。これを英語にすれば、functional ability ということになろうか。
 三省堂の新しい『大辞林』でも、職能とは
   1 職務を果たす能力
   2 社会・企業などの大きな枠組みの中で、その職業・職務の果たす役割
と書いている。
 職務には「研究開発」という職務もあれば、「経理」や「営業」という職務もあり、それぞれにまた等級がある。それらの職能に応じた賃金形態を「職能給」と言い、『新コンサイス和英辞典』では これを “pay according to function” と記している。
 どうやら『プロフェッション』を『職能』と訳すことには問題がありそうだ。『職能』という訳語を用いているのは 建築界だけなのではないだろうか。手近な所にある どんな辞典を引いても、“profession” に『職能』などという訳語は書いてない。
  こうした特殊な訳語を採用してきたのには、おそらく 旧建築家協会時代の いきさつがあるのだろう。それならば、新建築家協会の会員にも その経緯を説明して、共通の理解と納得をえておく必要が あるのではないだろうか。

 けれども、もっと適切な訳語を見いだすことが重要であるとしても、それはまた別の問題である とするなら、ここでは “profession” という原語について考えてみよう。
 日常会話では『プロフェッション』という言葉よりも、その形容詞形である『プロフェッショナル』、またそれを略した『プロ』という言葉をよく使う。「あの人はプロだ」という時、それは 当の人がその道において 熟練した技能をもっていることを示している。つまり専門職ということである。「その専門について深い学識と技術を持ち」とでもいえば、我々は一安心することができる。
 けれど、この『プロ』という言葉が最も普及しているのは、プロ野球とか プロゴルフのような、スポーツの世界ではないだろうか。『広辞苑』でプロフェッショナルとひくと、専門的、職業的、プロ、とあり、アマチュアの反対語とある。プロ棋士なども含め、これらの『プロ』という言葉が意味しているのは、ある専門技能をもって仕事に従事し、それによって金銭的収入を得る者、のことである。
 専門的技能をもっていても 、それによって金銭的収入を得ることのできない者は、「アマチュア」と呼ばれる。専門的技能によって継続的に金銭的収入を得さえすれば、「あのスリはプロだ」とか、「プロの空き巣ねらい」とさえ言われるのである。
 『プロ』という言葉に対する一般的理解をよく示す文章を、新聞の投書欄に見ることができる。次の投書の主は 43歳の 女性高校教師である。

 「...教師に限るまい。いったい 生きがいや成就感を毎日毎日かみしめながら仕事している人なんているんだろうか。仕事の中で自己実現するだの、生きがいのために働くだの、こういうことが幻想だということは 男も女も 40すぎれば十分、分かってしまう。しかも それでいて若い子たちのように いちいち幻滅したり 感傷にひたったりはしない。幻想を持たずに持続していける、これが どの世界でも いわれる『プロ意識』の中核をなすものだろう。」

 これも一つの庶民感覚であろう。人間とは 高邁な理想のために生きるものではなく、日々の生活の糧を稼ぐために 精一杯働いて生きていくものだと。だが、こうした『プロ意識』が、我々建築家の求めているプロフェッションだったのであろうか。そうではあるまい。建築家協会の主張するプロフェッションというのは、もっと別の次元のもののように見える。

 そうしてみると、プロフェッショナルとか プロとかいう言葉は、本来の『プロフェッション』という言葉から いささか変質してしまったのかもしれない。そこで、研究社の『新英和大辞典』で “profession” をひいてみると、
   1 公言、告白、宣言
   2 《宗教》 信仰告白、告白した信仰、宗門入りの誓約[宣言]
   3 職業、(特に)知的[専門的]職業
とある。 建築家協会が確立したいと願うプロフェッションとは、この3の意味における、知的[専門的]職業であろう。しかし、職業を意味する英語には occupation とか vocation という語があるし、専門家を意味する語には specialist や expert がある。にもかかわらずそれらの語を用いず、“profession” という語を選んできた意味を 考えてみなければ ならないだろう。
 プロフェッションというのは、“profess” という動詞の名詞形である。プロフェスは 同辞典によれば、
   1 公言する、明言する
   2(宗教・神など)の信仰を公言する、(公に)信仰[告白]する、奉じる
   3 自分のものらしく主張する、装う、・・のふりをする、・・と偽る
   4 ・・の知識 [技能] があると主張する、職とする
   5(誓願させて) 教団に入会させる、入信させる
等の意味である。4の文例として、profess law[medicine, plumbing]とあるから、プロフェスするのは弁護士や医者ばかりでなく、配管工も認められているわけである。そうなると、ここでも建築家や医者が特別な存在とは見なせなくなる。
 いったい建築家のプロフェッションとは何なのか、建築家協会のめざすプロフェッションとは、いくら辞典をひいても見い出すことのできない 特別の意味を与えられたもの なのであろうか。

 それを解明する前に、ここで 職業の類語である『仕事』という言葉の意味を考えてみる必要がある。
 最近は国際的な観点から、日本人は働きすぎ、仕事のしすぎであるといわれることが多い。この場合の『仕事』とは、「労働」、つまり時間的拘束のもとにその人の労力を売り渡す行為である。「あなたは仕事と家庭のどちらを重要視しますか」 というような場合の 『仕事』 も、一般的に、会社における「賃労働」を意味している。
 フランス語で「働く」は “travailler”、その名詞形である「仕事」、「労働」は “travail” という。この「トラヴァーユ」は、日本では女性求人雑誌の名前となって 広く知られることとなった。動詞の トラヴァイェは「働く」ばかりでなく、「勉強する」、「錬磨する」の意でもある。学生や子供達が学校で勉強したり、家で学習したりするのも トラヴァイェという。
 おそらく そうしたフランス語の感覚に 深く浸ったせいもあるのだろう、後半生をフランスで過ごした哲学者の 森有正は、『仕事』の意味について次のように書いていた。それが『バビロンの流れのほとりにて』であったか、『遥かなるノートルダム』であったか、あるいは他の書物の中であったか思い出せないのだが、若いときに読んで、強い印象を得たことを覚えている。
 森有正氏によれば、『仕事』には二つの意味がある。一つは 生活の糧を得るため、金を稼ぐための仕事である。「生業」といってもいい。労働時間の切り売りであり、できればやりたくない、最小限にすませたい仕事である。
 しかし それは本当の仕事ではない、 生活の資を得るための仕事のほかに、もう一つの「本当の仕事」があると氏はいう。「本当の仕事」は何のためにするのかというと、それは「精神の内的促し」のためである。その仕事をしたからといって 金銭的収入が得られるとは限らない。けれどもやらずにいられない仕事、時間も労力もどこまでも費やして悔いない仕事、ただ「精神の内的促し」のためにする仕事、それが「本当の仕事」である、という。
 ある人が、昼は会社に勤めていて、夜は環境問題に取り組む 市民運動に献身していたとする。この人は二つの仕事をしているのである。生活の糧を得る仕事と、「精神の内的促し」による仕事と。そして夜の仕事こそが、この人にとっての「本当の仕事」なのである。
 画家のゴッホは、その生前にたった1枚の絵しか売れなかったという。 絵を描くことは、彼に生活の資をもたらしはしなかった。それでも彼は絵を描き続けずにはいられなかった。「精神の内的促し」のために。それが 彼にとっての本当の仕事であったから。

 おそらく『プロフェッション』というのは、この二つの仕事が一つに統合されたときに成立するものなのであろう。ある仕事を生業としていながらも なお、その仕事をする根本的動機が「精神の内的促し」にあり、金銭的収入を得ること以上に その仕事の遂行に全力を尽くすあり方である。
 もし そう考えられるなら、プロフェッションというのは 医者や弁護士のような、ライセンスを必要とする職業に限られるわけではあるまい。たとえば 農業に従事する人が、米や麦の作物の成長に たえず気を配り、精魂込めて手入れをして育て上げることに、金銭を越えた喜びと心の充実とを感じているなら、それもまたプロフェッションであろう。
 本当の プロフェッショナルというのは、専門的技能によって金銭的収入を得ることができる ということではなく、日々の仕事に心血を注ぐ ということではないのか。たとえ その仕事によって一銭の収入も得られなくとも、「精神の内的促し」 によって、その仕事に心血を注いでいるなら、その人はプロフェッショナルである。
 逆に、どれだけ高額の報酬を得ていても、「精神の内的促し」によらず、心血も注いでいない仕事をする建築家は、プロフェッショナルではあるまい。この点において言えば、おそらく専業の設計事務所員と ゼネコンの設計技術者との間に区別はないだろう。

 では、プロフェッションという言葉が そのように とらえられるのは何故か、ということを もう一度探ってみなければならない。
 さきほどの、辞典による言葉の意味調べを もう一度読み返せば、『プロフェッション』というのは 何よりもまず「信仰の告白」なのであった。なぜ「信仰の告白」が専門的職業を意味するようになったのか。それは、信仰の告白をする人びとが、まずはキリスト教の布教者や聖職者であったからではないか。(西洋文明を形成した二つの源流は、ヘレニズムとヘブライズムである。建築家という芸術的な職業を作ったのは ヘレニズムのギリシャ文明であったが、建築家という職業を倫理的なプロフェッションととらえたのは、ヘブライズムのキリスト教文明であった、と言えるかもしれない。)
 私たちは 遠くキリスト教の布教時代を 思いうかべることができる。古代ローマ帝国の時代、キリスト教への信仰告白をすることは罪であった。小説『クォ・ヴァディス』に描かれているように、皇帝ネロの時代、苛酷な宗教弾圧のもとでは、命をかけずに 信仰の告白をすることは できなかった。とりわけ、信者を導く聖職者たちはそうであった。それでも信仰を公けに告白せずにいられなかった「精神の内的促し」、それこそが『プロフェッション』の意味である。キリストの弟子である 12使徒をはじめとして、いかなる弾圧や迫害にも屈せずに 信仰をプロフェスせずにいられなかった人々、それが 布教者、聖職者であり、彼らの仕事が プロフェッションなのであった。
 近く思い返せば、我が日本においても、キリスト教禁制のもとにあって「踏み絵」を強いられたキリスト教徒たち。彼らが その信仰をプロフェスすれば、それは死を意味したのである。
 キリスト教に限った話ではあるまい。どんな宗教も そうした歴史をもっていようし、また宗教ばかりでなく、自由な思想や信条の開陳(プロフェッション)さえも、時には(戦前の日本のように)国家による迫害や弾圧の対象になるのである。
 そして、それは過去の時代の話である ばかりではない。長崎市の本島市長が、「天皇には戦争責任があると思う」とプロフェスしたことによって、右翼の凶弾に倒れ、あやうく 生命を失うところだったことは 記憶に新しい。

 そうしたプロフェッション(自己の思想や信条の公的な告白や宣言)に基づく職業が、単なる Job や Occupation とは区別される『プロフェッション』として位置付けられてきた。プロフェッションの代表は聖職者であり、人権を守るために働く弁護士であり、人々の生命を守る医師である。
 では、建築家の職業が プロフェッションであるとするなら、我々は いったい何をプロフェスするのであろうか。それを鮮明にできなければ、社会は 建築家のプロフェッションの確立に 手を貸してはくれまい。建築家の利益を主張するだけなら それは同業組合(ギルド)でしかないし、プロフェッションとは認められないような、どんな職業にも同業組合は存在しうる。
  おそらく、プロフェッションが プロフェッションとして成立するためには、世の中に言う『プロフェッショナル』でないことが必要である、という逆説的な事態がおきているのである。世の中に言う『プロフェッショナル』でないということは、その専門的技能の主目的が 金銭的利益を得ることにあるのではない、ということである。
 そのことは、建築家が無報酬で仕事をする という意味ではない。まして設計料のダンピングをするということでもない。設計料のダンピングや入札に応じるということ自体が、設計の仕事を金銭的利益の獲得の手段に置き換えてしまっているからである。問題は、業務の姿勢の ありかたにある。
 たとえば、医者が患者の生命や健康を守ることより以上に、より多くの金銭的報酬を得るための診療点数を稼ぐことに心を奪われているなら、その医者の職業は プロフェッションではない。悪徳弁護士と呼ばれる人々の仕事が プロフェッションでないことは 言うまでもあるまい。
 つまり、建築の設計を業とする人が 建築家を名乗ったからといって、その仕事の内容が プロフェッションと呼ばれるに価するわけではない。彼の仕事がプロフェッションの名に価するとすれば、それは彼が、「精神の内的促し」によって、その仕事に心血を注いでいるからである。

 この点において、ゼネコンの設計部に所属する人たちは 建築家を名のりにくい。彼らの属する建設会社の主目的は 金銭的利益の追求にあるからである。
 では、設計事務所は そうではないのだろうか。専業設計事務所に属する人びとは 誰もが「精神の内的促し」に従って、市民のために 安全で有用な美の世界を建設することに、心血を注いでいるだろうか。とても そうとは思えない。 設計の質よりも株式会社としての成績を第一義としている経営者、入札によって 安い設計料でえた仕事を「流す」事務所、サラリーマン的 ことなかれ主義に終始する所員、ゼネコンに設計図を書かせる建築家、逆にゼネコンの図面を下請けする事務所、そんな設計事務所が 世の中には存在している。
 おそらく、専業の設計事務所に属する人であれ、ゼネコン設計部に属する人であれ、プロフェッションに値する仕事を日々行っている人もいれば、そうでない人もいるのである。
 もしも専業の建築家たちが、本当にプロフェッションの自覚を持ち、それを 社会にプロフェスしたいのであれば、たとえば 建築家協会の会員たちの事務所すべてが、株式会社の形態をやめてしまうことだ。あるいはまた、『入札しない建築家の会』がプロフェスしていることを、そのまま 建築家協会のすべての会員が プロフェスすることだ。

 今あげた、たった二つのことをプロフェスすることも、難しいことだろう。しかしながら、「難しいけれども本質的なこと」をプロフェスしなければ、それはプロフェッションにはなり得ないのである。
 設計事務所が特殊法人として認められるようになったら 株式会社をやめましょう、というのは順序が逆である。設計事務所は 営利法人としての株式会社ではありえない、とプロフェスして 実行していってこそ、社会は設計事務所の特殊法人化に同意するようになるのである。
 建築家たちが、自分たちの仕事は商売ではない、と偉そうなことを言いながら その事務所を株式会社としている限り、世の中は建築家一般の職業を プロフェッションとは認めないだろう。同じ営利法人としての株式会社である、建設会社と設計事務所の何が違うのか、ということに なるからである。
 「設計料入札」という悪習を廃棄する道もまた、協会員は入札に参加しない、とプロフェスして実行していく以外に 道はない。他にも プロフェスすべきことは 多々あるだろう。
 いずれにせよ プロフェッションの確立を目的とするのであれば、長崎市長のように命をかける とまでは言わないにせよ、本質的にプロフェスすべきことを プロフェスしなければ、何の実りももたらすまい。あいまいな美辞麗句を連ねた『原則』などを配布しても、社会の失笑を買うだけであろう。

 最後にもう一度、『プロフェッション』の訳語について考えてみたい。
 日本には なじみのなかった概念の単語に、新しい訳語を工夫して作り出すのは むずかしいことである。明治時代に “profession” の訳を考えた人は、もしかすると『能職』という造語をしたのではあるまいか。「高い能力を必要とする職業」を、単なる職業と区別しての造語であったのが(「能吏」や「能弁」、「能筆」のたぐいである)、いつのまにか誤って倒置され、『職能』と伝えられてしまったのではないか、とさえ推測したくなる。
 もしも私が明治時代の翻訳者であったならば、どのような訳語を作っただろうか 。『プロフェッション』というのが、単に専門的な知識や技能を必要とするばかりでなく、社会への「献身」をも必要とする というのであれば、おそらく『献職』のような造語を したのではないかと思う。




《 蛇足 》

 書き終わって読み返してみると、プロフェスすべきことの中心的テーマではなく、そこに至る姿勢においてプロフェスすべきこと ばかり論じてしまったようだ。
 建築家のプロフェッションとは何か、と問われたときには、都市問題や住宅問題、環境問題等への取り組み方をプロフェスするのが 普通のようである。しかしながら、建築家のプロフェッションについて論じていると、このような社会的、倫理的な問題ばかりが浮かび上がることが 気になる。そこでは 建築家の芸術家としての側面が 捨象されてしまいがちだからである。
 けれど、そもそも ある人が建築家を志したのは、そこに創る喜びが感じられたからではなかったか。建築家が無償の行為のようにして、膨大な労力をつぎ込んで仕事に打ち込んできたのは、それが創造意欲や表現意欲を満足させる芸術的行為だったからではないだろうか。建築家が芸術家であることを押し隠して、倫理的な行動や 社会への献身ばかりを強調するのは、いくぶん 偽善的な匂いがする。
 社会への献身の喜びよりも、芸術的創造の喜びの方が大きい と感じたとしても、その建築家がエゴイストだから とばかり言えないはずである。


執筆:1990年 10月〜1991年 1月
初出:日本建築家協会 関東甲信越支部『Bulletin』誌、1991年 4月号


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