EQUIVOCAL ARCHITECTS IN JAPAN

あいまいな日本の建築家

神谷武夫

インドの新聞記事


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ヨーロッパで形成された アーキテクチュアという抽象的概念と、それを体現する アーキテクトというプロフェッションは、明治以降、我が国にも移植されてきた。ところが日本には そうした伝統がなかったために、それらの概念は正しく理解されず、本来の理念とは異なった、あいまいな形に定着されてしまった。そのプロセスと現状を、主としてアーキテクトの訳語の変遷を通して検証し、その打開を提言する。



 筆者は インドを旅することが多いのであるが、あるとき ホテルで新聞を読んでいたら、ARCHITECT と言う文字が目についた。だれか 建築家のことが扱われているのかと思ったら そうではなく、ドイツの大数学者、フェリックス・クラインについての記事であった。彼を「近代数学のアーキテクト」と称して 誉めたたえているのである。これを「近代数学の建築士」と訳すわけにはいかないだろう。それでは誉め言葉にならないからである。
 あるいはまた、こんなこともあった。書店で本を探していたときに “THE ARCHITECTS OF INDIA” というタイトルが目について 手に取って見ると、それは 建築家たちについての本ではなく、ネルーやガンディーを はじめとする、インドの政治家たちの列伝であった。大政治家と言うのは「国家のアーキテクト」だというわけである。
 アーキテクトという言葉について 多少なりとも知っている人なら、その比喩を理解できるだろう。アーキテクトを 建築家と訳せばそれで良いではないか、と思うかもしれない。けれども、そのとき「アーキテクト」という言葉が はらんでいるイメージと、「建築家」と訳したときに まとわりつくイメージとの差異については、あまり意識されない。「国家のアーキテクト」というのは、レンガを積みあげて建物を造るように国家を建設した人、というわけではない。それは官僚や行政官のイメージなのであって、政治家のイメージというのは 国家のヴィジョンを提出し、それを実現するためのシステムを設計する人のことであり、それだからこそ アーキテクトになぞらえられるのである。
 それでは「アーキテクト」とその訳語である「建築家」そして「建築士」はどう違うのだろうか。 筆者は4年ほど前に『文化の翻訳−伊東忠太の失敗』という論文を書き、アーキテクチュアを「建築」と訳すことの不都合について詳述した。それをもとに 今回は、アーキテクトの訳語について考えてみたい。

 いうまでもなく「建築家」というのは、英語のアーキテクトをはじめとする 西欧語の訳語であって、「建築」の語と同じく、江戸末期から明治の初めにかけて 新たに造語された言葉である。アーキテクチュアというのは、日本にはなかった抽象的概念を表す言葉であったから、なかなかその本質が理解されず、適切な訳語が確立しなかった。
 建築学会の前身は「造家学会」といって、これは工部大学校を卒業した造家学士を正会員とした。辰野金吾ら創立会員は、これをRIBA(王立英国建築家協会)や AIA(米国建築家協会)にならったアーキテクトの協会とすべく、その英語名称を「The Institute of Japanese Architects」としたのだった。したがって当時は アーキテクトを「造家師」とか「造家学士」と訳したりもした。
 しかし「造家」はアーキテクチュアの訳語として あまりにも不適切であったので、当時すでに民間に流布していた「建築」という語が採用されると、アーキテクトの訳語も「建築師」や「建築士」「建築家」という名称が一般化する。
 中国や台湾では今もアーキテクトを「建築師」と呼んでいるが、それは この当時日本から伝わったものである。(我が国でも イプセンの戯曲『建築家ソルネス』が、つい最近まで『建築師ソルネス』と訳されていた。文学者は、アーキテクトを建築士や建築家とは 訳す気にならなかったのだろう。)
 日本では、国家がライセンスを与える資格には「○○士」と名付けるのが慣例となるにつれて、アーキテクトたちも「建築士」の名称を採用して、その権利と義務を明らかにする「建築士法」の制定を願い、運動を始める。ところが それは いつまでたっても成立せず、一方建築士の集まりであったはずの建築学会は、全国の工学部建築(建設)学科の連合体となるにつれ、アーキテクトの集団ではなく、「建設工学」に関する学術団体へと変身していったのである。
 アーキテクトたちは 学会とは別に「建築士会」を設立し(明治44)、それが現在の「日本建築家協会」の遠い前身となった。

 さて 念願の「建築士法」が成立したのは、明治でもなければ 大正でもなく、はるか下って、戦後の昭和 25年であった。ところが その内容は、アーキテクトたちの考えていたものとは程遠く、建設業界寄りのものとなってしまっていた。
 そこに規定される「建築士」の意味はアーキテクトではなく、むしろ 広い範囲の ビルダーになってしまったのである。それまで長くアーキテクトの訳語として用いられてきた「建築士」という言葉が、国家によって、いささか異なった意味あいに定義されてしまった時、自分は単なる建築士ではなく アーキテクトである、と考えた人達は、やむなくそれとは別の訳語で、「建築家」と自称することになる。
 その最大の根拠は、「アーキテクトは、第一義的に依頼主(建主)の代理人なのであって、工事業者や材料業者の利益に奉仕するものではない。 施工サイドに雇われることも可とする 建築士は、アーキテクトでは ありえない」の一点であった。
 こうして明治以来の経過をたどってみれば わかるように、「建築家」という言葉は、日本のアーキテクトたちが 本来望んだ名称ではない。「建築士」という言葉が 西欧的なアーキテクトの理念とは 大きくくいちがってしまったために、建設業者や材料業者には属さない フリー・アーキテクトのみが、それまで俗語にすぎなかった「建築家」という名称を 用いることにしたのである。それは、公的な保証が何もない、苦渋の選択であった と言うべきであろう。
  ところが「建築家」という言葉がアーキテクトの訳語として普及するにつれて、建設業の設計部の人達までが「建築家」を自称するようになったのは、大きな矛盾なのである。

 では、そもそも ヨーロッパで成立したアーキテクトとは、どのような理念を表しているのであろうか。
 その原語「アルキテクトーン」を、アリストテレスは「アルケー」(ものごとの原理)から出発して、「アルキテクトニケー」(諸芸を統括する原理、術)の持ち主と 説明した。古代から中世にかけて、諸芸(テクネー)を統括する場は 建物であった。諸芸を総合して、建物を美的な造形物にする芸術家と技術家の役割を、アーキテクトは同時に担った。そして近世の市民社会が成立すると、単に自己の利益のために働くのではない、市民社会に献身する自由業としての 献職(プロフェッション)になったのである。
 こうした多面的な条件を満たすのが アーキテクトであるのなら、ゼネコンの設計技術者も、営利法人としての株式会社を経営する建築家も、アーキテクトとは言いがたいだろう。
 まして、技術的な知識のみの資格たる建築士は、ビルダーではあっても アーキテクトであるはずがないのに、『学術用語集−建築学編』や『建築大辞典』で、「建築士」の英訳が「registered architect」とされているのは 奇妙なことである。
 こうした状況を一言でいえば、世界に通用しない「あいまいな日本の建築家制度」ということになろう。筆者は、アーキテクトを正しく定義するために、あまりにも問題の多い「建築」や「建築家」という語を捨てて(建築家という言葉も、字義どおりの意味はビルダーであってアーキテクトではない)、「原術」および「原術家」という訳語を提唱するものである。

 建築家のプロフェッションの変化 ということが、最近話題にされることが多いようである。 その内容のニュアンスはともかく、「もはや 古典的なアーキテクトのイメージなど、現代では通用しない」といった意見は、私が学生であった 30年も前から しじゅう耳にしている。
 けれども、我が国に「古典的なアーキテクト」の制度が確立したことなど一度もない。それを確立しないままで、単なる技術屋としての建築士を何十万人も量産して、商業化の道を走らせ、日本の設計界の平均レベルを下げて、この国の都市景観を 貧しくしてきたのではなかったか。
 きちんとしたアーキテクトの制度を確立しないままで、最近の世界の歩調の変化をのみ強調して「プロフェッションの変更」を主張するのは危険なことであり、それは大規模開発を主な仕事とする巨大設計組織を利するだけではないだろうか。
 最近では コンピュータのシステムの設計者を「コンピュータ・アーキテクト」という。 世間では「アーキテクチュア」といえば、それはコンピュータ用語だと思う人が増えているが、おもしろいことに、『コンピュータアーキテクチャ』(馬場敬信著、オーム社、1994)という本にはこんな記述がある。

「コンピュータ・アーキテクチャは、まさに 技術の裏付けに立った芸術である。歴史的に有名なコンピュータ、各時代の高性能コンピュータのアーキテクチャは、何かしら 見る者に 美しさを感じさせるものがある。」

 21世紀においては、生命科学の大きな発展が予想される。単純な生命体は創造されるようになるかもしれない。その時に、その生命体の形を決定するのは誰だろうか。先端的な科学と芸術を総合する場が、建物からコンピュータへ、そして生命体へと移っていくのなら、被造物に形をあたえる神のような役割を果たすクリエイターこそが、21世紀を代表する原術家(アーキテクト)であるのかもしれない。


《 結語 》

 パソコンの世界では、日本語で動かせるコンピュータ という特殊性によって、つい最近までNECの製品が、世界から孤立した日本市場を ほぼ独占していた。
 ところが 基本ソフトとして「ウィンドウズ」の日本語版が急速に普及するにつれて、もはや 日本は特殊な市場ではなくなり、国際規格のコンピュータが 自由に使えるようになった。NECの製品も 次第にIBMの互換機となりつつあり、国際規格への変身を迫られている。
 こうした国際化の時代にあって、我が国だけが あいまいで特殊な「建築家−建築士」の制度をとり続けるのは もうやめにして、世界に通用する アーキテクトの制度を確立すべきである。そのためには、専業建築家とゼネコンの設計技術者が いがみ合っているだけではなく、21世紀の日本の建築文化のために、国際規格へ向けて 建設的な協議を始めるべきではないだろうか。



執筆:1995年4月
初出:日本建築学会『建築雑誌 』1995年 7月号
特集「建築家−そのあるべき姿と ありうる姿」



追補 1
( 2010/04/02「お知らせ」欄 より )


 月遅れの建築雑誌をパラパラとめくっていたら、『新建築』2月号の巻頭エッセイに、建築家の仙田満氏が「創造性を喚起する社会へ」という文を書いているのが目につきました。仙田氏は 日本建築家協会や 日本建築学界の会長もつとめた方です。
 建設省をはじめとして、公共建築の設計者(設計事務所)を選ぶのに、設計料の入札で決めていることを 仙田氏は嘆いていますが、では、本当に それを なくしたいと思っているのでしょうか。日本では 驚くべきことに、大多数の設計事務所が 株式会社の形態をとっています(有限会社でも同じことです)。これは 建築家が、自分の事務所が 営利企業であることを宣言していることになります。 こんな国は、日本以外に 世界のどこにもありません。

 設計事務所の人は 工事会社やメーカーを「業者」と呼びますが、官庁では、営利企業のことを「業者」と呼んでいます。そうであれば 株式会社の設計事務所も「営利業者」の扱いになるわけですから、そうした「設計業者」を選定するのに、最低価格で入札をする「会社」を選ぶことに、矛盾はありません。
 病院(医院)や 法律(弁護士)事務所は 株式会社となることはできませんから、「業者」とは呼ばれません。それらは、金儲けを目的とする業務であってはならないからです(そういう、公共に奉仕する業務を、本来は「プロフェッション」と呼びます)。
 したがって、これらを選定するのに、価格競争の「入札」など しません。また、画家や音楽家のような 芸術家もそうです。彼らは「業者」ではないのですから、価格競争ではなく、その仕事にふさわしい 才能をもった人が選ばれます。

 建築家が、株式会社の社長をやっていながら、弁護士や作曲家の場合と同じように 建築家を選んでほしい というのは、筋が通りません。仙田氏の事務所も、株式会社なのでは ないでしょうか。
 「私たち建築家 および建築関係者は 日本を「創造性を喚起するシステムを持つ国」に変えるべく、粘り強く発言し続けていかねばならない」と、本当に そう思っているなら、まず 株式会社であることを やめるべきです。
 建築家を設計料の 入札で選ぶ(つまり、最も設計の手を抜く、と表明する設計事務所を選ぶ)という、世界のどこにもない、日本だけの堕落したシステムは、大多数の設計事務所が株式会社であるという、世界のどこにもない 堕落したシステムに 対応しているのです。





追補 2
( 2010/06/16「お知らせ」欄 より )


 今回(2010年 5月)旅行したスペインは、日本よりも はるかに大きな国土面積をもっていますが、経済や人口の面では 日本よりも小国です。それにもかかわらず、旅行者の目には 日本よりも むしろ豊かに見えます。それは 町々が美しいからです。ヨーロッパに比べて、日本の都市は醜いと、誰もが そう思うでしょう。
 そうなった原因のひとつ、それも大きなひとつは、日本に建築家の制度が確立しなかったからです。
 建築教育(建設教育ではない)が 工学部で 工学教育の片手間に行われ、建築家は「設計技師」あるいは「ビルダー」としてしか 社会から認識されず、工務店や建設会社が設計部をもち、設計部員が社会への貢献よりは 会社の利益のために働き、「建築」という言葉が「アーキテクチュア」ではなく「ビルディング」や「コンストラクション」の意味に定義され、設計事務所は営利企業の株式会社となり、建築書(工学書ではない)が 書店の理工学書売り場に置かれるために一般の人の目にふれず、そもそも 私の書いた建築書は マフィアの妨害によって 出版さえも妨害され、建築界の人間は 誰もがマフィアを恐れて押し黙ったままという、こんな国で 美しい都市が造られるはずも ありません。

 日本の建築界(建設界ではない)は、じきに 韓国や中国やインドに追い抜かれるばかりでなく、早晩 崩壊するのではないでしょうか。近年の建築雑誌を見ていても、その流れは明らかです。そして 私が最も危惧するのは、このマフィアが支配する建築界の構図が 次第に世界に輸出され、将来、世界から 建築家が いなくなってしまうのではないか、ということです。





追補 3
( 2012/12/01「お知らせ」欄 より )


● 月遅れの建築雑誌を パラパラとめくっていたら、『新建築』の10月号に、横河健(横河設計工房)が設計した「ドナルド・マクドナルド・ハウス・東大」という、奇妙な題名ながら、爽やかな建築作品が 目につきました。東大病院で手術を受ける難病患者や長期入院患者の 家族のための宿泊施設を、企業メセナによって建てた施設ですが、ここで取り上げるのは、その優れた設計内容ではなく、建築家としての 横河氏の「愚痴」についてです。設計者の横河氏は その作品説明の中で、次のように書いています。(太字引用者)

 「残念だったのは、この建物の開所式・竣工式である。建築 の竣工式であるにも かかわらず 建築 のケの字もなければ、施設の説明も させて貰えない という有様、最後になって感謝状贈呈・・・・・・と 建築の中身と関係なく、全くの業者扱い が普通なのだろうか?」
 「ここ数年、安藤忠雄さん、伊藤豊雄さん はじめ 世界的に活躍される建築家の功績もあって、日本の国内でも 建築家と設計業者の違い が 社会的に認知されてきたのではないか? と思っていた 矢先のことである。」

 たいていの建築家は この文章を読んで うなずき、同感の意を示すことでしょう。しかし一般の人が これを読んでも、あまりよく わからないのではないでしょうか。横河氏は「建築」という言葉を、おおむね「建物」の意で用いているのですから、「建築の竣工式であるにもかかわらず 建築のケの字もなければ」というのが 何を言わんとしているのか、一般の人には 理解しがたいと思います。
 日本語の「建築」という語が、英語のアーキテクチュアであるよりは、ビルディング(建物)や コンストラクション(建設)の意で用いられることの経緯と問題点については、拙論文 「文化の翻訳―伊東忠太の失敗」 に詳しく書き、この HPにも載せてありますので、それをお読みいただければ、よくわかると思います。

 今回取りあげるのは、むしろ後半の文にある「建築家と 設計業者の違い」ということ についてです。この問題についても 何度となく書いてきましたので(『原術へ』の「解題」 や、「何をプロフェスするのか」「あいまいな日本の建築家」)簡単に書きます。このフレーズで 横河氏が 何を言わんとしているのかというと、自分は建築家であって、設計業者ではない。それゆえに、この建物の竣工式における「全くの業者扱い」は 心外である、ということでしょう。
 それでは、横河氏は、「設計業者」という言葉で 何を意味させているのでしょうか? ゼネコンや工務店の設計部に所属する 設計技術者のことを 言っているのでしょうか? ゼネコンの設計部は 公共建築を設計することが許されませんし、そこに勤務する設計技術者は 建築家協会に加入することができません。彼らは 営利企業としての建設会社のために働いているのだから「設計業者」であるが、そうでない自分は建築家であって、彼らとは違う。にもかかわらず、自分が「業者扱い」されるのは不愉快だ、ということを言っているのでしょうか?
 では、「業者」とは 何なのでしょう? 文字通りの広い意味は、何かの仕事を なりわいとする人を 業者と呼ぶのでしょうが、それでは ほとんどすべての人が業者なのですから、「業者扱い」などという言葉は 生まれるべくもありません。一般的に、業者というのは 社会通念上、「営利業者」 を意味します (政治家や官僚、大学教授などを 業者とは呼びません)。官庁でも、設計事務所の内部でも、「業者」という言葉を用いる時には、「営利業者」を意味させています。つまり、利潤の追求が至上命題である「会社」、とりわけ「株式会社」のことを 業者と呼ぶのです。
 建築家(アーキテクト)は 医師や弁護士と同じように、公共に奉仕する職業であるのですから、これらの仕事に従事する人々の組織は、本来「株式会社」には なじみません(悪徳弁護士や算術医がいるにせよ)。株式会社の社長である弁護士など、ありえません。

 では、横河氏は どうなのでしょうか? インターネットで 横河氏を検索すると、株式会社・横河設計工房代表取締役 とあります。つまり、営利企業としての 株式会社の社長であるのですから、まぎれもなく「設計業者」です。設計業者であるのに「業者扱い」に苦情を言う というのは、矛盾しています。もちろん、利潤追求を最大目的としていたのでは、横河氏のような 質の高い設計活動を続けることはできません。そこでは 多分に、利益を犠牲にしてでも、人々のために 質の高い建物を設計しようとする プロフェッション意識に突き動かされている はずです(若い所員の安月給による 経済的犠牲もあることでしょうが)。
 しかしながら 社会的には、株式会社である以上、営利業者と見なされるのであって、それを 心外だと言うのは、単なる「愚痴」にすぎません。建物の竣工式において 主催者側は、出席者が、その仕事に関わった 株式会社群であるなら、それらの評価・待遇は、株式会社としての 規模の大きさ、資本金の多寡、年間の売上高、企業としての知名度の高さ などで 決定せざるをえません。ちっぽけな「設計業者」が、資本金 数十億とか 数百億円のゼネコンよりも はるかに 格下 と見なされてしまうのは、当然のことです(単なる 業者なのですから)。

 以前にも こうした待遇に「愚痴」を言っていた建築家がいたな、と調べてみたら、それは きわめて尊敬すべき建築家の 坂 茂氏でした。『新建築』の 2010年 7月号に、国際コンペで選ばれて実現させた、フランスの ポンピドー・センター・メス という美術館を載せた折に 坂氏が書いた解説文においてです。 氏は、

「オープニング・セレモニーで、サルコジ大統領と 除幕式を行い、このような 素晴らしいチャンスを与えてくれた フランスの国歌を聞いた時、思わず涙がこぼれた。それと同時に、日本では このようなチャンスもなく、以前 JR 田沢湖駅を設計した時、オープニング・セレモニーにも 招待されなかった 悔しい思い出 を 思い出してしまった。」

と書いています。これが意味しているのは、フランスでは 建築家の事務所は 株式会社などではありえないし、したがって 世の中から「業者扱い」は されていず、弁護士や医師のような プロフェッション として、また 作曲家や映画監督のような 芸術家 として、認知されていることです。
 こうした彼我の差に「愚痴」を言うのは自由ですが、世の中から高く評価される建築家になった人たちは、後世の日本の建築家のためにも、設計事務所が 業者であることをやめるように 尽力すべきです。世界の被災地の復興というような 社会貢献を続ける 坂氏のような建築家でさえも、インターネットで調べると、自分の事務所(坂茂建築設計)を 株式会社にして、営利企業であると 宣言してしまって いるのです。日本建築家協会の会員建築家が所属する 設計事務所の大半が株式会社である というような、世界の どこにもない 堕落した形態をとっている限り、日本の設計事務所は、ゼネコンや工務店と 社会的には何ら差異はないし、ちっぽけな「業者扱い」を され続けることでしょう(へたすれば、ゼネコンの手先だ ぐらいに思われています)。

 建築家のプロフェッションの確立のために 最大の寄与をした 前川国男氏でさえも、戦後まもなく 建築士法が成立した時に、単なる税法上の実利から(税理士に勧められて)、前川国男建築設計事務所を 株式会社として、事務所登録 してしまいました(「伊東忠太の失敗」と並ぶ、「前川国男の失敗」 と言うべきです)。そこから巣立った 錚々たる建築家たちは、古巣が そうであったのだから、独立時に何の疑問もなく、新しく設立する自分の事務所を 株式会社にしてしまいました。そこから巣立った建築家たちも・・・・ 以下同様で、しかも 現在の日本建築家協会は、さらに それを(設計事務所の株式会社化を)推し進めてきたのですから、「業者扱い」や「設計入札」に、苦情を言うことなど できません。
 こうした 悪循環を断ち切るためには、まず 主だった建築家たちが、設計事務所は 営利企業ではない と「プロフェス」して、株式会社であることを やめるべきです。「愚痴」を言っているだけでは、何も変わりません。というより、情況は ますます悪化していくのです。今に 日本から、「建築家(アーキテクト)」が、いなくなってしまう のでは ないでしょうか。





追補 4
( 2017/03/01「お知らせ」欄 より )

設計事務所の モラルと プロフェッション

 私の事務所のあるマンションの隣(道路を隔てずに、私の部屋の真向かいの隣地)は、八千代銀行の滝野川支店です。3階建ての小規模な四角いビルでしたが、昨年から5階建ての大きなビルへの建て替え工事をしています。私の部屋は5階ですが、銀行ビルはマンションよりも階高が大きく、しかも敷地いっぱいに建てているので、こちらのバルコニーの目の前に工事用のシートが 立ちはだかりました(こちらのマンションは、敷地境界から4.5メートルくらいバックしていますが)。

八千代銀行

 設計は石本建築事務所、工事は清水建設という表示が出ていますが、いったいどんなビルになるのか、近隣説明会がないので、まったくわかりません。銀行というのは 近隣住民からの信用を重視するものなので、そのうちに近隣説明会をやるだろうと待っていましたが、一向にその気配がありません。そこで、ついに1月12日に、工事の現場事務所で話を聞こうと思って、こちらから工事の仮囲いの入り口に行ってみました。すると清水建設のガードマンの人が、ここには現場事務所はなく、近くのマンションの2階に部屋を借りている と言います。そこへの案内を頼むと、ちょうど今日は定例会議の日で、今、建主の八千代銀行と、設計の石本建築事務所の担当者が来ていますと言いながら、マンションへ案内してくれました。

 その玄関前のところで、ガードマンが事務所にケイタイで、近隣住民の人が来ていますと連絡をとるのですが、担当者は一向に現れず、寒風の中を長時間待たされました。その間に八千代銀行の人は雲隠れしてしまい、やっと清水建設の工事主任が降りてきた時には、今日の定例には銀行の人は来ていない、と言う始末です。銀行が近隣住民を大切にするというのは、今は昔のことなのでしょうか。近隣に対する説明は、第一義的には建主である銀行の役割なのに、その後もいっさい前面に出てきません。

 2階のゼネコンの現場事務所の片隅で、石本建築事務所と清水建設の担当者と会見して、いったいどのような建物になるのか知りたいと伝え、まず、なぜ近隣説明会を開かなかったのかと尋ねました。すると、その二人が口をそろえて、「近隣の方々へは1件1軒まわって説明をしました」と、嘘をつきます(私を外で待たせている間に、三人が口裏をあわせたのでしょう、私を新参者とでも見くびって)。そんな説明を受けているなり、資料をもらっているなりしていれば、わざわざこうして現場事務所を訪れるわけがありません。

近隣への配慮と説明

 その場には今度の建物のパース(透視図)が置いてありました。模型は別の所にあると言います。パースと図面を見ながら、建物の概要の説明を受けました。建物のデザインに対する批評をすることは控えましたが、説明会をやらないのであれば、他にもあるというパースと模型写真、概要図面とを近隣の全戸に配布すべきこと、工事の週間工程表と、どんな騒音が出るのかの予定を毎週月曜日に各戸の郵便受けにいれておくことを要望すると、両人は そうしますと約束しました。(こんなことは言われるまでもなく やるべきことで、数年前に道路を隔てたところに高校の校舎の工事が行われた時には、近隣説明会や週間工程表の配布など、実にきちんとやっていました。)

 ところが、いわゆる大手設計事務所(つまり 数百人のスタッフをかかえる大組織設計事務所)である石本建築事務所と、大手建設会社(スーパー・ゼネコンなどと呼ばれる)清水建設は、この約束をきちんと果たしません。パースと建築概要書は、私の郵便受けには翌日いれていきましたが(模型写真はありません)、他の住戸には配布しなかったのです。また工事の週間工程表は、最初の、1、2回は郵便受けにいれたものの、あとは一切なしです。

 八千代銀行、石本建築事務所、そして清水建設が、新築建物についての近隣説明会も開かず、パースや模型写真を配布することもしない理由は、次第にわかってきました。今度の建物は、3階より上では、明治通りに面した表側には、騒音をさけるために窓を設けず、裏の通りに面した側を全面ガラス開口として採光するようです。そして、日影規制に適合させるために、後ろ側は上階ほどセットバックする階段状の構成とし、各階のガラス開口の前面を 広いテラスとしています。すると、この各階テラスから目と鼻の先の、私のほうのマンションの各階の住戸を のぞきこむ形となるのです。

 私の事務所は5階ですから、のぞかれる程度は小さいですが、4階、3階の住戸では、たとえのぞかれていなくても、絶えず のぞかれるような気がするでしょうし、終日家にいる女性は、それをいやがることでしょう。そこで八千代銀行は、もし近隣説明会を開いて、模型や図面で説明すれば、建設反対運動なり、設計変更の要求なりが起こるであろうことを危惧して、説明会も開かず、近隣の人が来たと聞けば逃げてしまい、設計事務所と建設会社の担当者には、近隣住戸を一軒ずつまわって説明をしたなどと嘘をつかせ、私との約束も反故にして他の住戸にはパースや模型写真を配布しなかったのでしょう。

 この設計事務所は設計段階において、近隣への配慮をしなかったのでしょうか。こちらがオフィス・ビルであれば、今の設計でなんの問題もありませんが、隣が集合住宅であることを知っていながら、しかもそちらに面する敷地いっぱいに建物を建てるのであれば、当然「のぞき」の問題が生じることはわかるわけで、竣工後に紛争になったりするのを避けるためにも、近隣に配慮をした設計をするのが常識です。もう、周辺環境を無視して、自分さえよければという建物を設計する時代ではありません。

 ともかくも、私と約束をしたのに、各住戸にパースや模型写真を配布せず、週間工程表も配布しないことについて、日本の建築、建設関係者のモラルはずいぶん低下したものだと思わざるをえません。清水建設には初めからモラルなど 無いのかもしれませんが、プロフェッションである石本建築事務所が そうであっては困ります。それとも、石本建築事務所は建築家としての矜持をもった集団なのではなく、工務店の設計部門程度のものだ、とでも言うのでしょうか。八千代銀行・滝野川支店の設計監理担当者は、日大の今村研の出身だそうです。日本では工学部に置かれる建築学科のプロフェッサー・アーキテクトの研究室でも、学生にプロフェッション教育はしないのでしょう。

 ところで、石本建築事務所というのは、はるか昔に 建築家の石本喜久治(1894-1963)が創設した設計事務所です。建築家ならだれでも知っていることですが、日本における最初の「建築運動」である「分離派建築会」のメンバーでした。それは、1920年(大正9年)に東京帝国大学の建築学科を同期で卒業したばかりの6人(堀口捨巳、山田守など)が起こしたもので、芸術志向の若手建築家一派の売名行為であったと言われたりもします(実質的内容よりは、デパートにおける展覧会や、岩波書店からの自費出版による作品集の刊行による衝撃、影響のほうが 大きかったので)。

 自費で欧米の建築の視察をしてきた石本喜久治は、その代表とも目されました。1927年(昭和2年)に大阪の片岡安と共同で片岡・石本建築事務所を設立して白木屋デパートを設計し、1931年には単独の石本建築事務所としました。私などは、高校時代に読みふけった立原道造全集を通じて(立原が大学卒業とともに就職したのが 石本建築事務所であったことによって)その名を知っていました(堀辰雄の小説『菜穂子』の副主人公、建築事務所に勤める 都築明 は、その立原道造をモデルにしています)。しかし石本はその後、建築家として これという作品を設計することなく、戦後の1951年には 事務所を株式会社にして、組織設計事務所を運営することに専念したようです(アメリカ進駐軍の仕事をすることによって大所帯となり、現在の「大手」設計事務所となったひとつです。「分離派建築会」が理想として掲げた西欧的建築家像の確立とは 正反対の道を歩んだと言えます。

建築家のプロフェッション

 さて、「建築家のプロフェション」ということを、しばしば私は書きますが、その原理的なことは「何をプロフェスするのか」を読んでいただくとして、今回はもっと具体的な事象について書いておきましょう。建築、建設関係の人でなく、設計事務所に設計を依頼したこともない方々は ご存知ないかもしれませんが、建築家は 医者や弁護士と同じように「先生」と呼ばれます。大学時代にはそんなことを知らなかった建築学生が、設計事務所に就職して現場に出ると、工事業者から「先生」と呼ばれて驚く人も多いかもしれません。しかし同じように建築設計の仕事に従事していながら、建設会社の設計部に就職した人は「先生」とは呼ばれません。それは何故か、ということを最近の多くの建築家は知らないらしいのです。それは、設計事務所のスタッフのほうがゼネコンの設計部の人間よりも博識で優秀であるから、というわけではありません。

 日本では 大学で優秀な成績をとった学生が大企業に就職するという慣行ができあがってしまい、建築の設計分野においてさえ、優秀な学生が設計事務所よりも給与水準の高い大手建設会社を就職先に選ぶというケースが多くなりましたから、建築家およびその設計事務所のスタッフが、建設業設計部よりも常に優秀というわけではなくなりました。
 それでもなお、建築家とそのパートナーが「先生」と呼ばれるのは、それがプロフェッション(献職)であるからです。(あるいは、「プロフェッションであるべきだからです」と言ったほうが良いかもしれませんが。)

 世の中には「先生」と呼ばれる職業があるのは、誰でも知っています。その筆頭は学校の教師です。小学校から始まり大学の教員に至るまで「先生」と呼ばれます。そこから、人にものを教えるのが「先生」だという観念が、子供のときから頭に形成されます。そこで 小説家の埴谷雄高は「先生」と呼ばれるたびに、「私は学校で教師として教えたことはないので、先生と呼んではいけない」と常に言っていたそうです。しかし伝統的に、「先生」という呼称は他の職業にも使われます。まず医師です。たとえ「この人はヤブ医者ではないか」と思っていても、「先生」と呼ぶのが普通です。次に、政治家も「先生」と呼ばれます。さらに、弁護士、公認会計士などもそうです。

 これらの職業の人たちが「先生」と呼ばれるのは、それが「プロフェッション(献職)」であるからです。「プロフェッション」というのは、高度な専門的知識や技能をもって、私利私欲のためではなく、社会公共のために尽くす職業のことを言います(単なる「ジョブ」や「オキュペイション」ではない、社会への献身が求められる職業が「プロフェッション」です。(その語源から派生する原理的なことは、『原術へ』のなかの「何をプロフェスするのか」に詳しく書きましたので、それをお読みください。)

 営利企業に属する人たちは、どんなにレベルの高い知識や技能をもっていても、「先生」とは呼ばれません。新聞や放送のニュースにおいて、ある事件に対する識者の意見が紹介される時には、プロフェッションの人(「先生」)が登場するのが普通で、営利企業(株式会社)の社長や社員が出てこないのは、そのためです。どんなに立派な意見が開陳されても、それは所詮「業者」の意見であり、会社の利益のための主張であろう、と見なされてしまうからです。

 こうして、「プロフェッション」であるべき建築家とそのパートナーたちは、世の中から、医師や弁護士と同じように「先生」と呼ばれるのです。ところが、世界の異端児である日本の建築界は 堕落の一途をたどり、大・中規模の設計事務所のほとんどが「株式会社」の形態をとるようになってしまったのです。こんな国は、日本以外に、世界のどこにも ありません。営利法人としての株式会社の社長は、プロフェッションとしての「建築家」とは言えません。建設会社の設計部と同じく「設計業者」です。諸外国にくらべて 日本における 建築家の社会的地位が低いのは、大多数の設計事務所が営利企業(株式会社)としての「設計業者」になってしまったからです。

 建築家が営利企業としての「設計業者」になってしまえば、もはや「先生」と呼ばれる いわれは ありません。それでもまだ 世の中では「建築家はプロフェッションであるべきだ」という原則論、あるいは願いをこめて「先生」と呼んでくれているのです。(ゼネコンの人たちは、「(株)〇〇設計」の人たちを、心の中では軽蔑しながら、「先生」と呼んでいるのかもしれませんが。)

日本建築家協会

 日本建築家協会の会長だった人の何人かに、私の論文「何をプロフェスするのか」や「あいまいな日本の建築家」を送ったこともありますが、彼らは何の反応もしません。それどころか、建築家協会の会員建築家の事務所の株式会社化を推し進め、ついにはゼネコン設計部の人たちと同一化して「建築士」の資格だけで くくろうとしているかに見えます(今に「日本建築士協会」と改名するつもりかもしれません)。かつて西欧的な建築家(アーキテクト)の制度を確立しようと戦ってきた先人たちを裏切って、「歌を忘れたカナリヤ」になったとしか思えません。けれども、その先人たちも、設計事務所の「株式会社化」の責任を負っています。私の尊敬おくあたわざる前川国男(1905-1986)でさえも、戦後 田中角栄らの議員立法により、建築家の理念と真っ向から対立する「建築士法」が成立してしまったあと、彼自身の事務所を、税理士に勧められて 税法上の利点から、「株式会社・前川國男建築設計事務所」としてしまったのです。その悪影響については、「あいまいな日本の建築家」への「追補3」の中に次のように書きました。

 「建築家のプロフェッションの確立のために 最大の寄与をした 前川国男氏でさえも、戦後まもなく 建築士法が成立した時に、単なる税法上の実利から(税理士に勧められて)、前川国男建築設計事務所を 株式会社として、事務所登録 してしまいました(「伊東忠太の失敗」と並ぶ、「前川国男の失敗」 と言うべきです)。そこから巣立った 錚々たる建築家たちは、古巣が そうであったのだから、独立時に何の疑問もなく、新しく設立する自分の事務所を 株式会社にしてしまいました。そこから巣立った建築家たちも・・・・ 以下同様で、しかも 現在の日本建築家協会は、さらに それを(設計事務所の株式会社化を)推し進めてきたのですから、「業者扱い」や「設計入札」に、苦情を言うことなど できません。」

 「実利」よりも「理念」を尊重してきたはずの前川氏が、それと正反対のことをしてしまったのですから、重大な「前川国男の失敗」と言わねばなりません。

前川国男   坂倉準三
前川国男          坂倉準三

 しかし、そうであってはならない という姿勢を貫いた建築家もいました。前川国男と同じく ル・コルビュジエのアトリエで修行した坂倉準三(1901-1969)です。建築家の 事務所が営利企業としての株式会社となるのは間違いだ、という信念を 生涯 貫きました(株式会社 社長としての ル・コルビュジエ など考えられますか?)。 坂倉氏が1969年に没したときに、あとに残された面々が、自分たちの居場所を確保するために、氏の意思に反して「坂倉準三建築研究所」を株式会社にしてしまい、「株式会社・坂倉建築研究所」として存続させたのでした。私は坂倉氏よりも前川氏のほうを建築家としては 高く評価していますが、この点だけは、坂倉準三のほうが 立派であったと言わざるをえません。

 そもそも建築家の個人名を冠した設計事務所というものは、その建築家の志を実現するために設立したものなのですから、その建築家が他界したら その事務所は、それまでの作品のメンテナンスをするスタッフだけを残して、消滅すべきものでしょう。
 かつて アメリカに イーロ・サーリネン (1910-1962) という天才的建築家がいて、わずか 51歳の若さで死去してしまいましたが、数々の傑作を実現して 世界から賞賛され、同世代のライバルであった丹下健三 (1913-2005) にも 種々の影響を与えました。サーリネンが没すると、事務所のチーフ・アーキテクトであったケヴィン・ローチは、進行中であった設計・監理の仕事を 数年かかって終了させると、サーリネン事務所を閉じるとともに、その多くのスタッフを引きとってケヴィン・ローチ自身の設計事務所を設立しました。建築家の事務所というのは、そのように あるべきだと思います。   (2017/03/01)


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