イランの建築
ARCHITECTURE of IRAN (Persia)


第3章

イランの 建築
(ペルシアの建築)
神谷武夫

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 『中東の建築』の第3章は「イランの建築」です。イランは正しくは「イーラーン ÎRÂN」でしょうが、日本の外務省はイランと呼び習わしています。イーラーンとは「アーリア人 Ârians の国」を意味し、アーリア人とは「高貴な人」を意味する自称です。ペルシア Persia というのはファールシー(Fârsi ペルシア語)からきていて、それは現在のイラン南部の パールサ Pârsa(ファールス Fârs)地方の言語に由来します。その地方をギリシア人は「ペルシス Persis」と呼び、ローマ人は「ペルシア Persiae」と呼びました。イラン人自身は自分たちをペルシア人とは言わなかったのですが、欧米では ペルシアの呼称が広まりました(英語発音では「パーシャ」あるいは「パージャ」、仏語では「ペルス」)。ちょうどインド人が自国をバーラタと呼ぶのに、欧米ではインダス(シンド)河 流域地方に由来するギリシア語「インドス」に発して、英語の「インディア」や仏語の「アーンド」のような呼称になったのと同様です。

 1979年のイスラーム革命以後、国名は「イラン・イスラーム共和国」、主要民族名は「ファールシー」と定められています。欧米の建築史の本では、イラン建築は「ペルシア建築 Persian Architecture」という呼称が一般的でしたし、今でもそう書く人が少なくありません(私の訳書『イスラムの建築文化』や『楽園のデザイン』でもそうです)。イランとペルシアを使い分けているわけではなく、同義の名称です。とはいっても、イランの現代建築を ペルシア建築とは言わないでしょうから、「ペルシア」は 歴史に重点を置いた呼称だとは言えます。


イランという国

地図
イラン・イスラム共和国の建築地図

 私が初めてイランに建築調査・撮影旅行に出かけたのは、1980年の4月、つまり1979年の「イスラーム革命」の直後であった。アメリカの傀儡政権だったパフラヴィ朝の皇帝の亡命を受け入れたアメリカに抗議した学生たちは、首都 テヘランの米国大使館を占拠した。人質となった大使館員たちを米軍のヘリコプターが救助しに行った途中で墜落してしまう、その前日だったかに、トルコのドーウバヤジトから 陸路で国境を越えて イランに入国したと記憶している。イラン・イラク戦争の初期の小競り合いも始まっていた時なので、危険だからイラン入国を思いとどまるよう、トルコ側の観光局で 忠告されたりしたものだ。
 テヘラン市内では あちこちで、黒いチャドルを着た女たちが「アメリカ 殺せ」と シュプレヒコールをあげながらデモ行進をしていたが、人々は 私が日本人と知ると 誰もが友好的だったので、半月ちょっとの旅行は 何の危険もなく、つつがなく済んだ。私以外に外国人観光客など ほとんどいなかったので、どこの観光地もすいていたし、ホテルは安く泊まれた。
 その年の秋から本格化した「イラン・イラク戦争」(大義がはっきりしなかったので、通称「イライラ戦争」)は 1988年まで長く続き、その後も国情が安定しなかったので、私が2回目にイランを訪れたのは 2004年に半月間、そして3回目が 2007年に1ヵ月と、全部合わせて2ヵ月間くらい、イランで撮影旅行を行ったことになる。

 イラン・イラク戦争は、イスラームの スンナ派とシーア派の対決だとも、古代以来の歴史的な ペルシアとアラブの角逐だとも、イランのイスラーム革命の輸出を恐れる周辺国と欧米による「干渉戦争」だとも言われた。イランが シーアの 12イマーム派を奉ずる国だということは、しかし 建築的には それほど意味がなく、シーア派とスンナ派のイスラーム建築が 原理的な違いを持っているわけではない。アラブとペルシアの対立というのは、モスクの形式において「アラブ型」と「ペルシア型」の違いとなって表れた とは言えるだろう。
 一方、革命以後 イラン政府は ずっと反米的であり、アメリカはイランを敵視して 経済制裁によってイランを苦しめている。では、イラン人はアメリカと その文化が嫌いかというと、そんなことはない。革命以後イランでは 酒、アルコール類が飲めなくなった。では食事の時の飲み物は何になったかというと、何と、アメリカ文明を象徴するような、コカ・コーラ である。誰もが ジーパンを穿いているし、民衆の心の中では、アメリカ文化は嫌われていないのである。両国に、もっと寛容で協調的な政権ができていけば、友好国になる可能性は十分にある。

シャーナーメ
『王書』(シャーナーメ)の細密画集


イランの建築的風土

 天候や社会情勢によって運悪く行けなかった所を除けば、イラン建築の主要なものは ほとんどを訪れて撮影してきた。その経験を通して、私が最も強く感じた イラン人およびイラン建築の特性というのは、「華やかなもの、派手なものへの好み」である。金 や 鏡 のようにピカピカ光る物、きらびやかな物、極彩色への愛好、建築の構造とは切り離されたハリボテのような装飾、特に表層を飾り立てようとする そうした強い傾向が 何に根差すのか、判然としない。革命以後の宗教的禁欲への締め付けとは、どうも齟齬がありそうだ。ただ、イランのいわゆる「沈黙の2世紀」(7世紀後半から9世紀後半をさす)までのイラン建築を見ると、まだ彩釉タイルが開発されていず、ほとんど総ての建物が 土(日干しレンガと焼成レンガ)で造られていたので、地面と同じ黄土色の モノトーンのストイックな世界に見え、11世紀以後の(時に けばけばしい)華美すぎる世界とは、天と地ほどの差がある。

イスファハーン
かつてのイスファハーン郊外

 イランは国土の半分が砂漠であって、良質な石材が採れないので、エジプトやギリシア、トルコのような石造建築を発展させることはできなかった。
 イランは本来「土の文化圏」に属する国である。私が初めてイランを旅した頃には、イスファハーンの都でさえも、少し郊外に出ると、そこは ほとんどすべて土で作られた家や施設が立ち並んでいて、タイルを貼った建物など ほとんど無かった。ところが その後 急速に「近代化」が進み、次に行ったときには 土の家を見つけるのがむずかしい程になるのだが。では「土の文化圏」とは どういうことかを『イスラーム建築』の第3章「材料・構造・装飾」から引用してみよう。

 人類が建物をつくってきた およそ1万年の歴史の中で、最も多く使われた材料は土であった。地球上、木の育たない所、石の採れない所はあっても土のない所はなく、最も安価で、しかも扱いやすい材料であったからだ。今でも世界の多くの地域の人びとが土の家に住んでいる。とはいえ、木の育たない所というのは、すなわち雨量の少ない所ということなので、土を主とするのは赤道に近い熱帯、亜熱帯地域ということになる。イスラームはその地方で生まれたので、土という素材はイスラーム建築とは親しい材料だった。

 土の建物といっても、砂浜で子供たちが砂の城を盛り上げるようなやり方というのは原始時代のものであって、通常は水で溶いた粘土にワラやスサのような繊維質の植物片を混ぜて直方体に固め、天日で乾かしたものを使う。紀元前5000年頃にメソポタミアで始まったこの方法を英語では、スペイン語からきたアドビー(アドベ)ともいうが、一般には焼いたレンガとの対比で「日乾しレンガ」とよぶ。簡単な木の型枠を用意すれば、誰でもたやすく量産することができる。所によっては、潅木を寄せ集めて簡単な堰板(せきいた)をつくり、両面に立てた中に土を流し込んで、乾いたら堰板を取り除くという、コンクリートと同じようなやり方で土の建物をつくる地方もある。フランス語で「ピゼ」というが、しかし 人が片手で持てる大きさの日乾しレンガを積むほうが 工事の作業性が増し、堰板をつくる手間がいらない。

 日乾しレンガを積んだ表面に土のプラスターを塗るとレンガの目地が消え、すべてが一体化した土の塊りとなる。しかし乾燥が進むと いたる所に ひびがはいるので、定期的に塗りなおさねばならない。そこで より耐久性のある石灰を混ぜた土のプラスターで保護する方法が普及した。その白いなめらかな表面は暑熱の陽光を反射させるにも有効で、これを英語ではホワイト・ウォッシュという。

バム
土の都市 バム

 2004年のイラン南部大地震で大きな被害を出したバムの遺跡は、民家から城郭まで都市全体が日乾しレンガでつくられた例で、「土の文化」をこれほどよく示す所はない。
 土の建物に屋根をかけるには、貴重な木材を梁として架け渡し、ムシロを敷いて土を載せ、踏み固めてフラット・ルーフとする。モスクなどはビチューメンで防水するが、ほとんど雨が降らない地方の住居では、あまり防水を考慮しない。

ザンジャン
イランの女子学生

 もしかすると、長く続いた 地味で色気のない「土の文化」への反動として、中世後期からのイラン人の、華やかなもの、きらびやかなものへの憧れが 醸成され、タイルや ムカルナスや 鏡のモザイクといった手段を見出して 肥大化させたのかもしれない。

 ところで、イランの国旗はフランスなどと似た3色旗である。(フランスは縦に3分しているが、イランは横に3分、上から緑、白、赤である。緑はイスラームの色、白は平和の色、そして赤は殉教者たちの血の色であるという。ことほど左様に、イランはイスラームのシーア派であることを国是に掲げていて、多数派のスンナ派に抑圧され、対抗し、殉教してきたことが、骨の髄まで沁みわたっているようである。イスラーム以前からの 正月(ノ−ルーズ)の祭礼に並ぶイランの最大の祭は、イスラームの「アーシュラー」の祭礼(ターズィヤ)であるが、それはカルバラーで殉教したシーア派の第3代イマーム・フサインの受難を共有し 哀悼するための祭礼である。この日は 市中を行進する大行列の 黒装束の男たちが 両手に金属の鎖の房を持って、自分の背中を強く叩きながら行進する。

ザンジャン
アーシュラ-の祭礼

 シーラーズの街でこれを見た時には、こんなにも悲劇的で痛々しい「祭り」というものが 世界にあるものかと驚いたが、人々はあまりにも それに慣れきっているからか、そんな悲壮感は持っていず、ある家族は 外国人の私に話しかけてきて、「今日は楽しいお祭りですから、無料でふるまわれる昼食を一緒に食べにいきませんか」と誘うほどだった。

 では アーシュラーの祭礼のように、イランの建築は 非常に禁欲的で 悲劇的なものかというと、そんなことはない。上述のように イラン人というのは むしろ派手なもの、美しく飾りたてられたものが好きな民族である。確かに殉教者廟の数は多いだろうが、それらも贅を凝らして 化粧されている。真っ黒なチャドルを着た女たちも、家では化粧をすることに熱心であるらしい。現在の宗教的取り締まりの強い社会と 本来のイラン人の性向には 乖離があるようだ。世界的ベストセラーになった イランのコミック、マルジャン・サトラピの『ペルセポリス、イランの少女マルジ』(日本語版は、2005、バジリコ)などにも、それがよく表現されている。

 イランは近年、各地の史跡をユネスコ世界遺産リストに登録することに熱心に取り組んでおり、2008年から昨年までの10年間に、何と14件もの史跡を登録している。(現在までに登録された イランの文化遺産の総数は 22件である)

(2019 /05/ 05)



古代エラム人の建築


チョカー・ザンビル CHOQA ZANBIL

ジッグラト Ziggurat, c.1250 B.C.E.

チョカー   チョカー

チョカー・ザンビルは古代エラム王国の宗教センターで、行政中心は北西 40kmのシューシュ(スーサ)に置かれた。ジッグラトは 105m角の正方形プランで、四隅が東西南北に向けられていた。全部で5層の塔状をしていたと考えられている。すべて焼成レンガで建設され、全高は5、60メートルあったろう。アレクサンドロス大王の軍によって破壊された。
1979年に、ユネスコ世界遺産に登録された。

チョカー

平面図 (現地パンフ より)


アケメネス朝帝国の建築(550 -330 B.C.E.)


パサルガダエ PASARGADAE (546 -520 B.C.E.)

    パサルガダエ プラットフォーム

パサルガダエは アケメネス朝ペルシアの発祥の地であり、キュロス2世が広大な首都を造営した。アクロポリスのような丘の上に城塞が建設され、そのプラットフォームが残っている。宮殿群と庭園は平地に作られたが、ほとんど何も残っていない。建築的な造形物が見られるのは都の南端部に建てられたキュロス2世の墓だけである。
2004年に「パサルガダエ考古遺跡」として ユネスコ世界遺産に登録された。

パサルガダエの都市図
パサルガダエの都市図
(From Patrick Ringgenberg "Guide Culturel de l'Iran", 2006, Tehran)

伝キュロス2世の墓 Tomb of Cyrus II, 6th c. B.C.E.

パサルガダエ   パサルガダエ





シューシュ SHUSH
スーサ(シューシュ)の都市遺跡 13th c. -4th c. B.C.E.

シューシュ   シューシュ

シューシュは古くは前13世紀頃に 古代エラム王国の首都として建設されたが、前640年頃にアッシリア人によって破壊された。前521年にアケメネス朝ペルシアの行政上の首都となり、ダリウス1世はここに宮殿 (522 B.C.E.) を建設した。前331年にアレクサンドロス大王によって破壊され、今は地上の建物は何も見られない。釉薬レンガによる壁面のレリーフ彫刻などが発掘されて、現地の博物館に収蔵されている。
シューシュの遺跡は1836年に最初に発掘され、ハンムラビ法典の碑などが発見されたが、建築的遺構がほとんどないので、あまり人々の注目をひかない。2015年にユネスコ世界遺産に登録された。



ナクシェ・ロスタム NAQSH-E-ROSTAM

ナクシェ・ロスタム Roc-cut Tombs of Akemenid kings, 5th c. B.C.E.

ナクシュ   ナクシュ

ナクシュ   ナクシュ

ナクシュ・ロスタムはペルセポリスの北西12kmの地に岩山が連なる墓所で、アケメネス朝の4代にわたる王の摩崖墓が並ぶ。向かって左からダリウス2世(r. 423-404 B.C.E.)の墓、アルタ・クセルクセス1世(r. 465-424 B.C.E.)の墓、ダリウス1世(r. 522-486 B.C.E.)の墓、クセルクセス1世(r. 486-465 B.C.E.)の墓である。

レリーフ彫刻は、ササン朝のシャープル1世(r. 241-272、初代アルダシール1世の息子)の騎馬像で、ローマ皇帝のヴァレリアンが膝まづいている。
箱型の建物は、Cube of Zoroaster と呼ばれ、さまざまな用途が想定されたが(拝火神殿、廟、図書室など)不明。

ナクシュ   ナクシュ  




ペルセポリス PERSEPOLIS (515 -331 )

宮殿址 Palace ruins, 6th c. B.C.E.

ペルセポリス   ペルセポリス
ペルセポリスの宮殿遺跡鳥瞰と、大階段

 アケメネス朝ペルシアの宗教的首都ペルセポリスは、古代ペルシア語で「パールサプラ」と呼ばれた。つまり「パールサの都」の意で、この地方(パールサ地方)が、アケメネス朝ペルシア帝国の根拠地であり、現在のイランのファールス州である。都は、ここから世界帝国を発展させたダリウス1世によって前515年頃に建設が開始され、その息子のクセルクセス1世が引き継いだ。政治的な首都はシューシュ(スース)だったが、宗教や王室の祭儀はすべてペルセポリスで行われた。軍事都市ではなく、宮廷都市である。その点から言うと、ずっと後のインドのアクバル帝が建設した ファテプル・シークリーの都に似ている。前331年にアレクサンドロス大王によって破壊されてから、ギリシア語でペルセス・ポリス(ペルシアの都)と呼ばれるようになった。
1979年に、ユネスコ世界遺産に登録された。

ペルセポリス平面図
ペルセポリス平面図


クセルクセス門  ペルセポリス
クセルクセス門と、ダリウス1世の宮殿(タチャル)

ペルシア建築は、古代エジプト建築や古代ギリシア建築と同じく、石造であっても木造建築のように柱・梁構造であったから、アーチやドームは一切用いていない。従って、どんなに大面積の建物であっても 柱が林立する列柱ホールとならざるをえず、単調さを免れない。

百柱の間  双頭鷲柱
百柱の間の想像復元図と、双頭鷲柱


ペルセポリス  レリーフ
タチャルの西階段と、アパダーナの東階段 レリーフ彫刻

ペルセポリスにも摩崖墓がある。アルタ・クセルクセス2世の墓で、高い位置にあるが、ここは階段で登れるので、石窟と浮き彫りの詳細ばかりか、遺跡全体を見晴るかす絶好の場所である。

ペルセポリス   摩崖墓
アルタ・クセルクセス2世の墓


ササン朝帝国 の建築(224-651)


フィルザーバード FIRUZABAD

アルダシール1世の宮殿址 Ardashir I's Palace, 3rd c.

フィルザーバード

226年にササン朝ペルシアのアルダシール1世 (r. 226-241) がパルティアの軍を破り、ィルザーバードに円形都市を築いた。ササン朝最古の建築遺構である アルダシール1世の宮殿は 円形都市の外にあり、建設技術が進んで、すべて石造であり、大きな半円筒形ヴォールト天井のエントランス・ホールがある。これが後のペルシア型モスクのイーワーンの原型のひとつとなる(ヴォールトの手前半分以上は復元工事であるが)。イーワーンの奥には半球ドーム屋根の方形ホールが3つ並び、それぞれコーナー・スキンチで支えられ、頂部は採光穴になっている。シーラーズの南方 約90km。

フィルザーバード  フィルザーバード平面図
平面図 (From James Fergusson "History of Architcture" 1865)

フィルザーバード   フィルザーバード

アルダシール1世(Ardashir, ? - 241年?)。



ケルマーンシャー KERMANSHAH

ターケ・ボスターン Taq-e Bostan, 4th -7th c.

ボスターン   ボスターン   ボスターン

ケルマーンシャーの北郊外6kmほどの地の、ササン朝時代の聖地とされる池に面した岩山に、石窟としての2つの奥行の深いイーワーンが並んで掘られ、レリーフ彫刻で飾られている。左の大きい方のイーワーンはおそらくホスロー2世(r. 591−628)による造営で、自身の廟だと考えられる。アーチの上部の壁面には左右に天使象が彫刻され、その上には城郭のような銃眼狭間のパラペットが設けられている。それぞれのイーワーンの奥壁および、ずっと右方の岩壁に、各時代の王の戴冠式の様子が描かれている。イスラーム以前であるから、授与者はミスラ神や、ゾロアスター教の神アフラマズダである。ヴォールト天井のような半外部空間は、後のペルシア型モスクの イーワーンの起源のひとつ考えられる。右側のイーワーンの奥壁にはシャープル2世(r. 309−379)と3世(r. 383−388)の像が刻まれている。



サルヴェスターン SARVESTAN

バフラム5世の宮殿址 Bahram V's Palace, 5th c.

宮殿   宮殿

シーラーズの南東約 80kmの サルヴェスターンには、ササン朝のバフラム5世 (r.420-438) の狩猟用の宮殿址がある。メイン・ドームの大広間とその前の中庭を諸室が囲む。壁は石造だが、ドームはレンガ造。
2018年に「ファールス地方のサーサーン朝考古景観」がユネスコ世界遺産に登録された。8件の構成資産から成るが、それを代表するのがフィルザーバードとサルヴェスターンである。

アクソメ  平面図
断面透視図と平面図
(From Henri Stierlin "Encyclopedia of World Architecture" 1977, Fribourg)



初期イスラーム建築 (ウマイヤ朝、アッバース朝)


ダームガーン(ダームカーン) DAMGHAN (DAMQAN)

ターリク・ハーネ・モスク Tarik Khane Mosque, 8th c.

ダームガーン

ペルシアは 7世紀半ばにアラブ帝国に征服されてイスラーム化するが、最初のイスラーム王朝であるウマイヤ朝時代 (661-750) の建物は、イランには残っていない。ダームガーンのターリク・ハーネ・モスクが イラン最古の現存モスクで、 アッバース朝の8世紀の建設である。ササン朝建築の名残りが強い 古拙なアーチやヴォールトを架けている。各円柱の上に木の板を載せて アーチを受けているのには驚かされる。付属する円形ミナレットは セルジューク朝の最初のミナレット(1058年)で、レンガの積み方だけで幾何学パターンおよびカリグラフィーの装飾をしている。

詳しくは、「イスラーム建築の名作」のサイトの「ダームガーンの金曜モスク」を参照。



ナーイーン NAYIN

金曜モスク Masjid-e Jami, 10th, 12th c.

ナーイーン  ナーイーン  ナーイーン

ナーイーンは 今も使われているイラン最古のモスクのひとつ。アッバース朝の10世紀半ばに創建されたので、中庭に面するイーワーンはまだ無い。ミフラーブまわりはびっしりと古拙なスタッコ彫刻で飾られている。八角プランのミナレットも10世紀の建設とされ、イランで現存最古のミナレットである。モスクにはまだタイルも用いられていないので、すべてが土の色一色である。



アルデスターン ARDESTAN

金曜モスク Masjid-e Jami, 9th to 12th c.

アルデスターン  アルデスターン

アルデスターンの金曜モスは9世紀の創建で、ササン朝のゾロアスター神殿の上に建てられたらしいが、現存のモスクは 大部分が セルジューク朝の12世紀に改修されたもので、四イーワーン型の中庭になっている。ドーム屋根の聖所と南イーワーンは1158年から1160年というから、ごく早い時期の四イーワーン型には違いない。全体の規模が大きいのは、マドラサやキャラバンサライ、ハンマームやホセイニーヤなどを併設していたからである。

アルデスターン  アルデスターン


イランの墓塔 TOMB TOWERS


ゴルガーン GORGAN

カーブース廟 (ゴンバデ・カーブース)
Gombad-e Qabus (Tomb of Qabus ibn Washmgir), 1006/7

カーブース廟

イランでは11世紀から 独自の塔状の墓廟が発展し、その最初期にして最大のものが「カーブース廟(ゴンバデ・カ−ブース Gonbad-e Qabus)」である。そして、単に塔墓の代表としてばかりでなく、イラン建築の最高傑作の一つであり、現代の建築家に最もアピールする建築作品ではないかと思う。つまり、装飾が少なく、焼成レンガという素材のみで構成した 幾何学的な純粋造形であり、そのスケール感ともども、圧倒的な魅力と迫力をもって聳えている。一千年も前のモダニズムの建築と見立てても十分に通用する。レンガ造の塔としては世界一の高さ(51m)であり、2012年にユネスコ世界遺産にも登録された。長い沈滞時代のペルシアにおける、奇跡のような建築作品である。

詳しくは、「イスラーム建築の名作」のサイトの「カーブース廟」を参照。



ダームガーン(ダームカーン) DAMGHAN (DAMQAN)

墓塔群 Tomb Towers, 11th c.

ダームガーン  ダームガーン
ゴルガーンのチェヘル・ドフタラン廟と、アラムダール廟

メフマンドゥスト
メフマンドゥストのマスム・ザーデ廟

ターリク・ハーネ・モスクのあるダームガーンと その近郊には、初期の三つの墓塔が残っている。ダームガーン市内には1026年のアラムダール廟と、1054年のチェヘル・ドフタラン廟、そして近郊のメフマンドゥストに1096年のマスム・ザーデ廟である。一番古いアラムダール廟は壁面にリブがなく、半球ドーム屋根であるのに対して、やはりリブのないチェヘル・ドフタラン廟はドームと円錐形の中間的な 砲弾形屋根を戴いている。イランの墓塔形式の模索期だと言えようか。マスム・ザーデ廟は12角形の浅い星型プランで、失われた屋根は おそらくカーブース廟のように 円錐形だったと思われる



レイヴァラーミン REY & VARAMIN

トグロル廟(レイ)と、アラー・アッディーン廟(ヴァラーミン)
Tomb towers of Toghrol, 1139, & Ala al-Din, 1289

レイ  レイ  ヴァラーミン

11、12世紀には独立した町であり、ヘランよりも大きかったレイは、今ではテヘランのスプロールに飲み込まれて 南の郊外になってしまったが、テヘラン市中で一番歴史的な地区であり、ここには12世紀のトグロルの墓塔が残る。さらに南へ数キロ行くとヴァラーミンの町があり、ここには後述の14世紀の金曜モスクのほかに 13世紀のアラー・アッディーンの墓塔(アラー・アッダウラ廟ともいう)が残る。
トグロル廟に屋根はないが、本来ドームだったのか円錐形だったのか不明。どちらの塔墓も直角の(三角形の)リブが壁面周囲についているが、カーブース廟とちがって、壁面を残さずにびっしりと並んでいるので、星型プランというよりは円筒形の胴部という感じである。どちらも軒廻りに凝った造形、装飾をしている。カーブース廟のようなカリグラフィーの帯はない。



マラーゲ MARAGHEH

墓塔群 Tomb Towers, 12th, 14th c.
Gonbad-e Sorkh, Kabud, Khahar-e Hulagu, and Ghaffariyeh

ソルフ廟  カブド廟
ソルフ廟と、カブド廟

フラグ妹廟  ガファリイェ廟
フラグの妹の廟と、ガファリイェ廟

マラーゲには 四つの墓塔が建っている。一番古いのはソルフ廟で、1147年、次はフラフグの妹の廟で、1167年、それと同じ敷地ですぐ隣に建っているのがカブド廟で、1196/7年、市の中心の公園に建っているのがずっと後のガファリエ廟で、1328年。それぞれ四角形、八角形、円形と異なった形をしていて、屋根はドームであったか 角錐であったか不明だが、すべて失われている。そのために「墓塔」Tomb Tower の感じが薄くはあるが、建築的原理は カーブース廟と同じである。

セルジューク朝の建築  (トルコ系の王朝, 1038-1157)
後のアナトリア地方のルーム・セルジューク朝などと区別して、大セルジューク朝ともいう


ケルマーン KERMAN

ゴンバデ・ガブル(ゴンバデ・ジャバリイェ)
Gonbad-e Gabr (Gonbad-e djabaliyeh), 12th c.

ケルマーン

中央アジアか次第に移住してきたトルコ族は その過程でイスラーム化したが、もともと遊牧民であったので、定住者としての都市や建物の建設は得意ではなかった。セルジューク朝を打ち立てて中東に大きな勢力を広げるにつれて、古拙な作品を 試行錯誤しながら造っていった。ケルマーンのゴンバデ・ガブルは おそらく12世紀後半の建設で、未完成と考えられる。用途も不明で、「石の山」を意味するジャバレ・サンとも呼ばれる。




カズヴィーン QAZVIN

ハイダリーヤ学院  Madrasa Heydaryiyeh, 12th c.

カズヴィーン

カズヴィーンのハイダリーヤ学院は もとはモスクで、セルジューク朝時代の12世紀の建設とみられるが、イスラーム以前のゾロアスター教の神殿だったという説もある。1119年の大地震で破損し、大臣Khomar-tash の手で修復された。現在は小学校の講堂として用いられている。マドラサの他の建物はカージャール朝時代のもの。ミフラーブには、ディヴリーイのものに似た、古拙なスタッコ彫刻の装飾がほどこされている。




ザワレ ZAVAREH

金曜モスク Masjid-e Jami, 12th c.

  ザワレ

最初期の 四イーワーン型モスクを典型的な形で 今も見せているのは、カヴィール砂漠の オアシス都市、ザワレの金曜モスクである。金曜日に 都市の住民の多くが集まって集団礼拝をする大モスクを 金曜モスクと呼ぶが、ザワレは小都市なので、この金曜モスクも 中庭の大きさが 16m角と小規模である。 そこに各辺の長さの三分の一ほどの幅のイーワーンが 4基向かい合うので、これは アラブ型の単調なモスク中庭とは 決定的に異なった印象を与える。ここにおいて、単なる実用性を超えた 新しいモスク型が、鮮明に誕生したのである。

詳しくは、「イスラーム建築の名作」のサイトの「ザワレの金曜モスク」を参照。



イスファハーン  ISFAHAN

アリー・モスクミナレットと、サルバン・ミナレット
Minaret of Masjid-e Alii & Sarban Minaret, 11 or 12th c.

アリー   サルバン  サルバン

金曜モスクにおける集団礼拝の呼びかけをする塔(ミナレット)は、イラン全土に無数に建てられてきたが、初期イスラーム期の素朴なレンガの塔から始まって、長大で芸術的なミナレットが発展するのはセルジューク朝の時代である。イスファハーンで最高の高さを競う2本のミナレットをここに掲げる。アリー・ミナレットは高さ48mという。創建時には50m以上もあったらしいが、頂部が失われてしまったらしい。
サルバン・ミナレットはイスファハーンで最も背の高いミナレットと言われ、高さは54m。これが属していたモスク自体は失われてしまった。ムアッジンが立つバルコニーが、持ち出しのムカルナスで支えられている。
どちらも塔身はレンガの積み方でさまざまな幾何学パターンを探求している。



ダー ムガーン サヴェー(サーヴァ)
DAMGAN, SAVEH (SAVA)

金曜モスクのミナレット Minarets of Masjid-e Jami, 1106, 1110

サヴェー  サヴェー

円筒形壁面ののレンガ積みパターンが 最も華やかな 初期のミナレット2題、ダームガーンとサヴェーの いずれも金曜モスクに付属する。しかしながら いくらパターンを立体的にしても、すべてレンガなので、離れた所から見た目の単調さは免れない。これが、本来 派手好きのイラン人を、彩釉タイルの開発に向かわせたのであろう。



ロバート・シャラフ ROBAT-e SHARAF

キャラバンサライ Caravan Serai, 12th c.

ロバート  ロバート

マシュハドの東方136kmで、トルコメニスタンとの国境近くの荒野に建つロバート・シャラフの隊商宿は、ホラーサーンとサマルカンドを結ぶ街道上の王室キャラバンサライで、1120年に建立され、1154年に補修された。守備が重要なので 稜保を備えた城塞のような矩形 (63m×109m)のプランで、前庭と中庭を柱廊と諸室が囲む大規模なものである。二つのモスク(礼拝室)を抱え、地下には貯水槽を設備している。すべてレンガ造で、イーワーンやミフラーブにはスタッコで装飾している。荒廃していたのを、近年修復した。平面図は現地パンフより。

ロバート   平面図




イスファハーン ISFAHAN

金曜モスク Masjid-e Jami, 11−12th c.

金曜モスク

「ペルシア型」モスクの発展過程を伝える重要なモスクで、「四イーワーン型」の中庭、イーワーンの半ドームを飾る「ムカルナス装飾」、ミフラーブ前の空間に架かるシンボリックな「ドーム」とそれを支える「スキンチ」、そうした種々の要素が展開してイラン独自のモスク形式を作り上げたのが、イスファハーンの金曜モスクである。2012年に、ユネスコ世界遺産に登録された。
詳しくは、「イスラーム建築の名作」のサイトの「イスファハーンの金曜モスク」を参照。



カズヴィーン QAZVIN

金曜モスク Friday Mosque, 12th c.

カズヴィーン  カズヴィーン

カズヴィーンの金曜モスクは アッバース朝のハールーン・アッラシードによって8世紀に創建されたという伝説があるが、何度も改修、増築が行われてきたので、南にハールーンのアーチと言われるものが残るほかは詳らかでない。現存のモスクはセルジューク朝のもので、ドーム屋根のミフラーブ室が1106-1114年と考えられているが、その他の部分は16世紀、ミナレットのあるイーワーンなどは セルジューク朝の16世紀から17世紀である。


イル・ハーン朝の建築 (モンゴル系の王朝, 1256-1353)


スルターニーヤ SULTANIYA

ウルジャーイトゥ廟 Mausoleum of Uljaitu, 1307-1313

ウルジャーイトゥ

ウルジャーイトゥ  ウルジャーイトゥ

モンゴル帝国から派遣されたフラグは バグダードのアッバース朝を滅ぼし、旧ペルシア帝国領のほとんどを支配するイル・ハーン国を建国した。王朝とは言うが、イル・ハーンとは創設者の名前ではなく、「国の王」ほどの意である。初めタブリーズを首都としたが、最盛期の第8代の王 ウルジャーイトゥ・ハーン(r.1304-16) は スルターニーヤに遷都し、そこに自身の廟を建てた。王朝はすでにイスラーム化していたが、彼はシーア派に改宗した。廟は14世紀初めの建設で、後に荒廃していたのを、16世紀にサファヴィー朝が修復した。総高50メートルの大規模なもので、3階の墓室は二重殻ドームを戴く。周囲に回廊がめぐり、各ベイの天井には色違いレンガが繊細なパターンを描く。その上に8本の塔を立て、ゴチック建築のようにドームの推力を弱めようとしている。2005年には ユネスコ世界遺産に登録された。



ハマダン HAMADAN

エステルモルデカーイ
Mausoleum of Esther and Mordechai, 5th, 14th c.

ハマドラー廟   ハマドラー廟

旧約聖書の『エステル記』で描かれる、アルタクセルクセス2世の王妃で、ユダヤ人を大虐殺から救ったとされるエステルと その従兄で保護者モルデカーイの墓を祀る廟とされているので、イランのユダヤ人にとっての 最も重要な聖地である。建設年は明らかでなく、イスラーム以前のアケメネス朝やササン朝の時代までさかのぼるという説もあるが、レンガのドーム屋根が架けられたのがモンゴル時代の14世紀だという説もあるので、ここにいれておく。墓室の隣がシナゴーグの集会室のようになっている。



アラビヤン廟(ゴンバデ・アラビヤン)
Mausoleum of Alaviyan, 13th- 14th c.

ハマダン   ハマダン

正確な建設年は不明、おそらく13世紀末か14世紀初めとされる。



ナタンズ NATANZ

アブド・アッサマード廟・金曜モスク・コンプレクス
Khanka & Masjid-i-Jami Complex, 1316

ナタンズ  ナタンズ

カーシャーンの南東の閑雅な小都市ナタンズには、金曜モスクとアブド・アッサマード廟が一体化した施設がある。ハーンカーは青タイルのムカルナスのピシュタークを残すのみであるが、モスクの高いミナレット、アルメニア風角錐屋根の廟、地下貯水槽と、変化に富んだ 複合建物である。とりわけ 廟のムカルナス天井は幻想的な魅力で名高い(この「中東の建築」のディヴィジョンのタイトルに用いている)。ピシュタークは 隅々まで手のこんだデザインである。

ナタンズ  ナタンズ




ビスターム(バスターム) BISTAM (BASTAM)

バーヤジード廟コンプレクス Mausoleum of Bayazid Complex, 14th c.

ビスターム

ビスターム(バスターム)のバーヤジード廟コンプレクスは、ほとんどの建物がモンゴル時代の14世紀の建設と考えられる。右端のカーザーン・ハーン廟は、中空の三重殻屋根をしている。



アブー・ヤジード・ビスターミー廟
Mausoleum of Abu Yazid Bistami, 14th c.

ビスターム

アブー・ヤジード・ビスターミー廟は カーブース廟と同タイプの塔墓で、25角形の星型プランをしているが、円錐屋根は未完だったのか、消失したのか。廟は金曜モスクの隣にあり、モスク内から出入りする。



イスファハーン ISFAHAN

ジャファル廟 Imamzadeh Jafar, 1325

ジャファル   ジャファル

ジャファル廟は シリア・パレスチナや コンスタンチノープルに建てられた。 これは5世紀のシリアの柱頭行者 聖シメオンの死後に、その独立柱を囲むようにして建てられたキリスト教の聖堂である。



ケルマーン KERMAN

金曜モスク Masjid-i-Jami, 1349

ケルマーン  ケルマーン

ケルマーンは 東部のルート砂漠の中の都市であるが、標高1,749メートルと高いので、高原性の温暖な気候である。ササン朝時代の城砦も遺跡として残る古い町で、金曜モスクはイル・ハーン朝末期の14世紀に創建された。ヤズドの金曜モスクのように高大なピシュターク(門)をもつが、ヤズドのようなミナレットがなく、その代わりに時計台が載っている。四イーワーン型のモスクで、ピシュタークの軸線は中庭を通して、まっ直ぐミフラーブに向かっている。イーワーンはそれほど立派でなく、後の時代の再建であろう。

ケルマーン   ケルマーン


ティムール朝の建築 (モンゴル系の王朝, 1370-1502)


カズヴィーン QAZVIN

ハマドラー・モストーフィ廟 Gombad-e Hamd-Allah Mustawfi, 1350

ハマドラー廟  ハマドラー廟

ゴンバデ・カーブースの350年後の塔墓。ハマドラー・モストーフィ(Hamadollah Mostowfi, 1281-1349)は歴史家、地理学者、叙事詩人で、何冊もの著書がある。廟のアルメニア風円錐屋根はタイルではなく、青緑の釉薬をかけたレンガ積み。 正方形プランから円形屋根への移行部もアルメニア風の処理である。



ヤズド YAZD

金曜モスク Masjid-e Jami, 1375-6

金曜モスク  金曜モスク

ヤズドは砂漠地帯の都市として 土の建物が密集する旧市街地、都市へのカナートと市内の水利施設網、ゾロアスター教の遺跡や鳥葬施設である「沈黙の塔」、その他多くの遺産を備えているので、都市町全体が 2017年にユネスコ世界遺産に登録された。

平面図
金曜モスク・平面図
(From Patrick Ringgenberg "Guide Culturel de l'Iran", 2006, Tehran)

金曜モスク   金曜モスク   金曜モスク





ドウラターバード庭園 Dowlatabad Garden, 14th c.

ドウラターバード   ドウラターバード

ヤズドの郊外ドウラターバードにある長大な庭園。エントランスから中央園亭(今はない)を通って、一直線に伸びる水路の両側に園路と林園が延び、一番奥にメインの園亭がある。そこのバードギール(採風塔)が、採風の原理を完全に保存している。

ドウラターバード
ドウラターバード庭園のパビリオン断面図
(From Patrick Ringgenberg "Guide Culturel de l'Iran", 2006, Tehran)




アミール・チャクマークの門
Portico of Amir Chaqmaq, 15th c.

ヤズド

バーザール、テキーエ(ホセイニーイェ)、モスク、公衆ハンマームなどを含むアミール・チャクマーク・コンプレクスは、前面に大きな広場を備え、広場に面して3階建ての特異な門を建造した。2本のミナレットを備えた広壮な門は、イスファハーンの王の広場に面する古バーザールの入口をなすカイサリーエ門よりも はるかに立派である。コンプレクスはジャラール・アッディーン・アミール・チャクマーク Jalal-al-din Amir Chakhmagh によって寄進された。彼はティムール朝のヤズドの総督だったという。

ヤズド  ヤズド

前面広場には大きな尖頭アーチ状の不思議な木造の立体があり、ナフル (ヘイダーリの掌 Palm of Heidari)という。サファヴィ朝時代からのもので、イラン最古のナフルという。アーシュラ-の祭礼にこれを担いで街を練り歩く。



タブリーズ TABRIZ

ブルー・モスク Blue Mosque (Masjed-e Kabud), 1465

タブリーズ  タブリーズ

タブリーズ

イラン北部の中心都市タブリーズの歴史は ササン朝までさかのぼるが、最も繁栄したのはイル・ハーン朝のガーザーン・ハーンの治世に首都になったモンゴル時代だった。現在はイラン第4の都市である。ティムール朝時代に大モスク(マスジェデ・カブード)が建てられ、青を主調とするタイルで飾られていたことから、ブルー・モスクと呼ばれている。

平面図  タブリーズ
ブルー・モスク 平面図
(From Patrick Ringgenberg "Guide Culturel de l'Iran", 2006, Tehran)




城砦の門 Gate of Citadel (Arg-e Alishah), 14th c.

タブリーズ

イル・ハーン朝時代に ウルジャーイトゥの大臣によって城塞が建設されたが、今では高さ40メートルの巨大な門だけが残る。かつてはサマルカンドのビー・ビー・ハニム・モスクの門(ピシュターク)にも匹敵したろう。門の内側にあった、巨大な中庭を囲む城砦はモスクに用いられていたらしい。



ヴァラ−ミン  VARAMIN

金曜モスク Masjid-e Jami, 1322-26

ヴァラ−ミン  ヴァラ−ミン

ヴァラ−ミンの金曜モスクは 典型的な四イーワーン型モスクで、主イーワーンの後ろにドーム屋根の、ミフラーブ前礼拝室がある。



シーラーズ SHIRAZ

金曜モスク masjid-e Jami, 9th , 14th, 17th c.

シーラーズ  シーラーズ

金曜モスクの創建は9世紀に遡るが、何度も再建され、17世紀にシャー・アッバース帝によって修復されたが、1945年の再築がかなりダメージを与えたらしい。1351年に中庭に四角い建物が建てられたので、ここにいれておく。



マハーン  MAHAN

ニマト・アラー・ヴァリ廟 Nimat Allah Valii, 1437

マハーン  マハーン

ニマト・アラー・ヴァリ (1329-1417?) は スーフィーのダルヴィーシュ(修行者)で、ニマト・アラーヒーヤという教団を創始した。詩人で預言者でもあり、ペルシアのノストラダムスと呼ばれた。晩年をマハーンで過ごし、1431年に没したあと、この地に廟が建てられた。門と廟の間の庭園が名高い。

マハーン   マハーン


アゼルバイジャン地方アルメニア聖堂


マークー MAKU

聖タデウス修道院
  Surp Thaddeus Vank (Qareh Kalisa), 14th, 17th, 19th c.

マークー

イラン最北部は アゼルバイジャン地方と呼ばれ、アゼリー人が多く住む。アルメニア人も多く、この地方には、マークーの近くの 聖タデウス修道院>と、国境の町 ジュルファ(ジョルファ)の近くの 聖ステファノス修道院があるが、1979年のイスラーム革命時に無人となってしまい、今は文化財として保存されている。トルコ国境から22kmの聖タデウス修道院聖堂は、現地ではカレー・カリーサー(黒聖堂)と呼ばれてきた要塞修道院である。最初にここに礼拝堂が建てられたのは 371年と言われるが、拡大されて聖堂になったのは7世紀という。14世紀はじめに大地震で倒壊し(1319年)、それから 10年間で再建された。14世紀の古聖堂が黒い石で建てられていることから、黒聖堂と呼ばれるようになった。西側の より大きな聖堂は 19世紀の増築である。
聖タデウス(タダイ)はキリスト十二使徒のひとりで、聖バルトロマイと共にアルメニアに宣教したと伝えられることから、アルメニアでは重要な聖人とされる。毎年6月19日頃が聖タデウスの祝日で、多くのアルメニア人巡礼者がここに集まって祝う。

● 詳しくは、『アルメニアの建築』のサイト、「周辺国のアルメニア聖堂」の章の「マークーの聖タデウス修道院」を参照(2回クリックして下さい)。



ダラシャンブ DARASHAMB

聖ステファノス修道院(ヴァンク)
Surp Stephanos Vank (Qareh Kalisa), 14th, 16th-17th c.

ダラシャンブ

イランとアゼルバイジャンの国境近くの町 ジュルファ(ジョルファ)から、ナヒチェバンとの国境をなすアラス川沿いの道を車で20分、ダラシャンブ村の近くに 1979年のイスラーム革命まで活動していた聖ステファノス修道院(ヴァンク)がある。2008年に 聖タデウス修道院と聖ステファノス修道院が、マークーの近くの ジョルジョルに再建された聖母聖堂と合わせて「イランにおけるアルメニア修道院建造物群」として、ユネスコ世界遺産に登録された。

● 詳しくは、『アルメニアの建築』のサイト、「周辺国のアルメニア聖堂」の章の「ダラシャンブ の聖ステファノス修道院」を参照。



ソルフル  SORHUL

ソルフル 聖ホヴハネス聖堂、19thc.
SURP HOVHANNES, 19th c.

ソルフル

ソルフル村はタブリーズの北方。岡の上に孤立して建つ。聖ホヴハネスとは聖ヨハネのこと。

● 詳しくは、『アルメニアの建築』のサイト、「周辺国のアルメニア聖堂」の章の「ソルフルの 聖ホヴハネス聖堂」を参照。

サファヴィ朝の建築 (1501-1736)


カズヴィーン  QAZVIN

ホセイン廟 Imamzadeh hosseyn, 16th c.

カズヴィーン  カズヴィーン

8代目イマーム・レザーの息子ホセインの廟(イマームザーデ)。14-15世紀の創建らしいが、サファヴィー朝下の16世紀に再建された。バロック的な門は19世紀のカージャール朝時代の付加である。



アリー・カプー門 Ali Qapu Gate, 16th c.

アリー・カプー

カズヴィーンはイスファハーンに遷都されるまで、サファヴィ朝の首都だった。都市の門であるアリー・カプー門は、次のチェヘル・ソトゥーン宮殿とともに、第2代シャー・タフマースプ1世の治下に建設された。



チェヘル・ソトゥーン宮殿 Chehel Sotun Palace, 16th c.

カズヴィーン

チェヘル・ソトゥーン宮殿はイスファハーンの同名の宮殿よりも ハシュト・ベヘシュト宮殿に似たプランのパビリオンで、現在は市の博物館に用いられている。



アルダビール ARDABIL

シャイフ・サフィー・アッディーン廟 コンプレクス
Sheikh Safi's Khanqa Complex, 14th-17th c.

アルダビール  アルダビール

アルダビール  アルダビール

アルダビールはサファヴィー朝の母体となったサファヴィー教団の発祥の地。王権祖先である シャイフ・サフィー・アッディーンがここにスーフィー教団を設立したのが始まり。彼の廟と、サファヴィー朝の創始者イスマーイール1世のの周囲に多くの建物やモスクが建てられ、庭園を含むコンプレクスとなった。廟は14世紀の創建とされるが、時代とともに改修、増築されいる。種々の空間や装飾が併存するので、見てまわるのが楽しい。2010年にユネスコ世界遺産に登録された。

平面図
シャイフ・サフィー廟 コンプレクス平面図
(From Patrick Ringgenberg "Guide Culturel de l'Iran", 2006, Tehran)

アルダビール  アルダビール




イスファハーン ISFAHAN

王の広場(イマームの広場)
Meydân-e Shah (Meydân-e Imâm), 1612-27

王の広場

王の広場   王の広場

シャー・アッバース1世は カズヴィーンからイスファハーンに遷都し、古い街と対照的に幾何学的に整然とした新イスファハーンを計画して、その接合部に矩形の大広場を設けた。この王の広場(メイダーン)は 170m× 500m という巨大なもので、都市の あらゆる活動と祝祭が行われる場所であった。その南側の短辺に面して造営されたのが、ペルシア建築の最高傑作「王のモスク」である(1979年のイスラーム革命で王制が廃されてからは、「王の広場」は「イマームの広場」、「王のモスク」は「イマームのモスク」と呼ばれている)。
イマームの広場は 1979年に、広場を囲む建物群を「構成資産」として、ユネスコ世界遺産に登録された。



カイサリーヤ門と大バーザール Qaysariyeh Gate & Bazar

カイサリーヤ門  バーザール

シャー・アッバースがイスファハーンに遷都する以前から、ここには大バーザールがあり、その中心路は屈曲して延び広がっていた。王は新イスファハーンを幾何学的な直角の都市として造り、巨大な「王の広場」を設けた。ここで旧バーザールと結合させて、広場からのバーザールへの入口にカイサリーヤ門を建てた。



チャハルバーグ大通り Chahâr-Bâgh Avenue, 1612-27

チャハルバーグ

チャハルバーグとは「四つの庭園」の意で、最初に造営された当初は4つの大庭園があったのかもしれないが、都市の背骨のような「楽園通り」ができて以後はその両側は20近くの庭園群が連なった。公園通りはザーヤンデ川の33アーチ橋を越えてい直線に延び、全長1600メートルにも及ぶ。



シャイフ・ロトフォラー・モスク
Shaykh Lotfollah Mosque, 1603

ロトフォラー   ロトフォラー

礼拝室は正方形プランであるが、8つの同形の尖頭アーチを並べるだけで、いとも簡単に 正方形を八角形にしぼり、その上に 楽々と円形ドーム屋根を載せている。  ここには、もはやオスマン・トルコのモスクが持っているような 力動的な力の流れや、重力に拮抗する柱のダイナミズム などというものはない。すべてが壁面のみで シンプルに処理され、凹凸の少ない平滑な表面は、青を基調とするタイルのアラベスクで くまなく覆われている。それは 影のない世界と言うべきか、ひたすらに幾何学的構成からなる、薄明の宇宙的空間なのである。

● 詳しくは、「イスラーム建築の名作」のサイトの「シャイフ・ロトフォラー・モスク」を参照。



王のモスク(イマームのモスク)
Masjid-e Shah (Masjid-e Imâm), 1612-37

王のモスク   王のモスク

建築家の アリー・アクバル・イスファハーニーが設計した このモスクは、エディルネの セリミエ(トルコ) と 規模は同程度であっても、コンセプトは まったく異なった、中庭タイプの建築である。セリミエの場合は 前庭がなくても モスクとして成立するが、王のモスクでは 中庭自体が モスクの主空間なのであって、これなくしては 他の部分も存在しえない。   セリミエでは 1枚の石の皮膜が 礼拝室の大空間を囲みとっていたが、ここでは 建物群が中庭を囲みとっている。両者ともに「囲みとる」ことを主眼とした「皮膜的建築」であって、それが イスラーム建築の特質なのであるが、囲みとり方が まったく異なっている。寒冷地のトルコでは、礼拝空間は 外気を遮断した 閉じられた空間となるが、ペルシアやアラビアでは、そもそも中庭自体が 礼拝場所なのであって、その一部に 日除けの屋根がかけられている と理解できる。オープンな列柱ホールが中庭を囲む アラブ型のモスクは、そのようにして成立した。
詳しくは、「イスラーム建築の名作」のサイトの「王のモスク(イマームのモスク)」を参照。



イスファハーンの ニュー・ジュルファ地区 NEW JULFA

ヴァンク・カテドラル Vank Cathedral, 1658-1662

ヴァンク   ヴァンク

イスファハーン南部のニュー・ジュルファ地区は サファヴィー朝のシャー・アッバース 1世が 17世紀につくったアルメニア人地域で、13のペルシア型アルメニア聖堂がある。その中心となるのがヴァンク・カテドラルで、1108〜1112年の建立という。聖堂の内部は近代の壁画、天井画で満ち、ペルシアのイスラーム建築のような印象を与える。

● 詳しくは、『アルメニアの建築』のサイト、「周辺国のアルメニア聖堂」の章の「ヴァンク・カテドラル」を参照。



ケルマーン KERMAN

ハンマーム・ガンジェ・アリ・ハーン
Hammam de Gandj-e Ali Khan, 16-17th c.

ハンマーム

ハンマーム   ハンマーム

イスラームの都市や建築に欠かせない要素に、浴場がある。身体の清潔を重んじたイスラームでは、とりわけ礼拝の前に体を浄めるべきことを『クルアーン』は繰り返し説いていて、それはモスクの中庭の浄めの泉となった。浴場の施設は、ムスリムが征服していった古代ローマ領地の各地に見出し、その方式を採り入れたと考えられる。
ハンマーム・ガンジェ・アリ・ハーンは
イランではケルマーンにイブラヒーム・ハーン浴場があり、当時の完全なハンマームの姿を伝えている。シナンのものが独立建築型であったのに対し、こちらは屋根つきバーザールに面した小入口だけがファサードで、あとはすべて周囲の建物に囲まれて、外観というものがない。いわば町並みの中に穿たれた洞窟のようなハンマームであり、トップライトのみで採光している。これら両者が今は使われていない保存建築であるのに対して、アレッポのナースリ浴場は14世紀の創建で、1985年に修復されてからは現役のハンマームとして機能している。シリアにおける最大のハンマームで、ペンデンティヴで支えられたドームをはじめとしたシリア石造建築の粋とともに、社交場としてのメイン・ホールの生き生きとした使われ方を見せてくれる。



チャイハーネ・ヴァキール Chaykhane-ye Vakil, 19th c.

チャイハーネ

ケルマーンなどの古い都市には、古建築を改装したレストランやチャイハーネ があり、建築調査とあわせて、その雰囲気を楽しむことができる。このチャイハーネイェ・ヴァキールは バーザール内のヴァキール・ハンマーム(1820年の建物という)を改装したもので、ほとんどが地下である。かつての脱衣・休憩ホールが ティー・ハウス、奥の温浴室などが 静かなレストランになっている。チャイハーネでは サントゥールなどの音楽演奏も開催される。



マシュハド MASHHAD

イマーム・レザー廟 コンプレクス
Tomb of Imam Rezah Complex, 12th -17th c.

マシュハド

マシュハド  マシュハド

シーア派イランの最大にして最重要な聖地が、イラン東北端のホラーサン州の州都マシュハドのイマーム・レザー廟である。 イマーム・レザーは9世紀に没、廟は12世紀の創建だが、ドームとミナレットは17世紀。黄金のイーワーンは18世紀。コンプレクスの中で最大規模のGawhar Shad ゴハルシャードGoharshad・モスクは、ティムール朝第3代君主シャー・ルフの妃ゴハルシャードの命で1418年に建てられた。サファヴィー朝とカージャール朝時代に修築された。前面の四イーワーン型のゴハルシャード中庭は50×55m。二重殻ドームは1911年のロシア帝国軍の爆撃で破壊され、後に修復された。

イマーム・レザー
マシュハドの中心部航空写真
イマーム・レザー廟・コンプレクスを示す約 500m × 500m
入口は三方にあり、地下に大駐車場がある。 (From Google Maps)




コム(ゴム) QOM (GOM)

ファーティマ廟コンプレクス Hazrat-e Fatima al-Masumeh, 12th-17th c.

コム  コム

コムは イスラム革命の指導者ホメイニの出身地でもあり、イマーム・レザーの妹であるファーティマの廟を含むコンプレクスは、マシュハドに次ぐイラン第2の聖地である。異教徒が境内に立ち入ることは 厳しく禁じられているので、内部の写真は無い。


イマームザーデ(廟)群 Imamzadehs, 14th-19th c.

コム  コム

コムには約300のイマームザーデがあるという。そのうちの二つを紹介する。



イスファハーン ISFAHAN

ハキーム・モスク Hakim Mosque, 1656

ハキーム

ハキーム   ハキーム




ハールーン・ヴェラーヤト廟
Mausoleum of Harun Velayat, 16th c.

ヴェラーヤト廟   ヴェラーヤト廟

ヴェラーヤト廟   ヴェラーヤト廟





ナーイーン NAYIN

ピルニア邸 Pirnia House, 16th c.

ナーイーン   ナーイーン

ナーイーンの金曜モスクのすぐそばに サファヴィー朝16世紀の住宅、ピルニア邸が残り、現在は民俗博物館として用いられている。



イスファハーン ISFAHAN

スィー・オ・セ橋(33アーチ橋) Si-o Seh Pol (33 Arch Bridge), 1602

33アーチ橋

チャハルバーグ大通りが ザーヤンデ川と交わるのは 川幅が最も広い所なので、橋もまた長大なものとなり、全長が 295mにおよんだ。同王に仕えた将軍の アッラーヴェルディ・ハーンが建造したことから その名が冠せられているが、橋脚に 33の大アーチが並ぶことから、33アーチ橋(スィー・オ・セ橋)ともよばれる。 路面は、17世紀において すでに歩車分離が行われ、しかも両側の歩道には 日差しを遮るべく 屋根がかけられている。



ハージュ橋 Pol-e Khadju, 1650

ハージュ橋   ハージュ

少し下流に シャー・アッバース2世が 1650年に建造した ハージュ橋 である。ここでは 水面に近い下階部分も、歩車分離した上階の歩道部分も、両端と中央が 六角形状に張り出して望楼となっている。市民は ここで眺めを楽しみ、おしゃべりをして 社交の場としたし、時には 王侯が橋全体を使って 宴会の場にもした。

イスファハーンの橋について 詳しくは、「イスラーム建築の名作」のサイトの「ザーヤンデ川の橋」を参照。



アリー・カプー宮殿
Ali Qapu Palace, early 17th c.

アリー・カプー   アリー・カプー

断面図
アリー・カプー宮殿の断面図
(From Patrick Ringgenberg "Guide Culturel de l'Iran", 2006, Tehran)


アリー・カプー   アリー・カプー





チェヘル・ソトゥーン宮殿(四十柱殿)
Chehel Sotun Palace, middle 17th c.

チェヘル・ソトゥーン   チェヘル・ソトゥーン

チェヘル・ソトゥーン   チェヘル・ソトゥーン

サファヴィー朝のペルシアでは、首都イスファハーンに幾何学的な庭園と組み合わされた宮殿がいくつも残り、建物自体はいずれも中規模ながら、当時の優雅な王侯の暮らしぶりを伝えている。杉の木の植えられた広い庭園に建つ接客用のチェヘル・ソトゥーン宮殿(四十柱殿)は、前部に木造のターラールを備えているが、柱の数は20本しかない。前面の大きな水面に姿を映して40本の柱が数えられるゆえにこの名がついた。ターラールの奥には鏡張りのイーワーンがあり、これが半外部の謁見ホールである。その奥の室内は3連ドームの宴会場で、ここには全面的に壁画が描かれている。

平面図
チェヘル・ソトゥーン宮殿の平面図
(From "Gardens of Iran, Ancient Wisdom, New Vision", 2004, Tehran)


チェヘル・ソトゥーン   チェヘル・ソトゥーン




ハシュト・ベヘシュト宮殿(八楽園)
Hasht Behesht Palace, 17th c.

ハシュト・ベヘシュト   ハシュト・ベヘシュト

ハシュト・ベヘシュト(八楽園)宮殿では、中央ホールがすべて外気に開放されていて、大きな東屋のような趣となり、中央の噴水のある泉の上にかかる彩色されたムカルナス天井は、息を呑むばかりである。これらすべては、新イスファハーンを建設したシャー・アッバース1世の、楽園都市の構想に則っているのだと言えるが、それはまたデリーやアーグラ城内の宮殿建築を完成に導いたムガル朝のシャー・ジャハーン帝の意図も同じだったと言える。

平面図
ハシュト・ベヘシュト宮殿の平面図
(From "Gardens of Iran, Ancient Wisdom, New Vision", 2004, Tehran)


ハシュト・ベヘシュト  ハシュト・ベヘシュト




アガ・ヌール・モスク Agha Nour Mosque, 17th c.

アガ・ヌール   アガ・ヌール

アガ・ヌール・モスクは、シャー・アッバース1世の時代に創建された。よく保存された地下の礼拝堂(シャベスターン shabestan)を持つことで知られている。換気はバードギール(採風塔)によってなされる。



マシュハド MASHHAD

サブズ廟(ゴンバデ・サブズ)
Gonbad-e Sabz, 17th c.

サブズ

イマーム・レザー廟を離れて町を散策すると、愛らしいサブズ廟(ゴンバデ・サブズ)がある。外部はタイルで多彩に飾られているが、内部はには あまり装飾がない。ゴンバデ・サブズとは「緑のドーム」の意。



カーシャーン KASHAN

アミン・アッダウラのティムチェ Timche of Amin al-Daula, 17th-19th c.

カーシャーン  カーシャーン

バーザールの一番奥の方にある、最大で最美のティムチェ。二連の大ドーム天井が並び、それぞれの中央がトップライトをなしている。これは都市内のキャラバンサライ(ハーンカー)をなして、周囲には商取引の事務所と その奥の商品倉庫が並んでいる。ホールの中央には水盤があり、周囲は休憩所のようになっている。

カーシャーン
アミン・アッダウラのティムチェ 平面図
(From "Ganjnameh" vol.10, 2005, Shahid Beheshti UP)

バーザールの中ほどに、別のティムチェと ハジ・サイイド・フサインのハンマームが向かい合っている。ハンマームは、今は茶店に転用されている。このティムチェは、上の写真のアミン・アッダウラのティムチェではないが、やはり二連の大ドームに覆われている。

カーシャーン

バーザール内のティムチェと、ハジ・サイイド・フサインのハンマームの平面図
(From "A.U.Pope, "A Survey of Persian Art" vol.2, 1964, Manafzadeh)

カーシャーン




スルタン・アミール・アフマドの浴場
Hammam-e Sultan Amir Ahmad (Qasemi Bathhouse), 16th-19th c.

カーシャーン   カーシャーン

カーシャーンには 近年見事に修復された、華麗なスルタン・アミール・アフマドのハンマームがある。創建はサファヴィー朝の16世紀だが、1778年の地震で損壊、カージャール朝時代に再建された。近くのスルタン・アミール・アフマド廟に付属していたのか、こう呼ばれる。近年すっかり修復されて新築のようになった。1,000平米近くもある大規模なもので、実に華麗な脱衣ホールといくつもの温浴室や熱浴室からなる浴場である。

カーシャーン

スルタン・アミール・アフマドの浴場の平面図
(From "Ganjnameh" vol.18, 2005, Shahid Beheshti UP)





イスファハーン ISFAHAN

王母の学院(チャハルバーグ・マドラサ)コンプレクス
Madrasa of King's Mother (Chahâr Bâgh Madrasa), 1704, 1714

王母  王母

20世紀にこの地区は再開発され、王母の学院は修復されてマドラサとして用いられているが、王母のキャラバンサライはイスファハーンで最も高級なアッバーシー・ホテルに改装された。2階建てのキャラバンサライのままでは客室数が少ないので、前面のアマディーガ通り側に5階建ての客室棟を増築し、その1階をロビーにした。通りを隔てた向かい側に高級ショッピング街を、サンクン・ガーデンを囲むコの字型のプランにし、コンプレクス北側の「王母のバーザール」と対にした。このあたりが外国人観光客のためのセンターで、ここから歩いて王の広場にも、宮殿群にも、スィー・オ・セ橋やハージュ橋にも行ける。ところがイスラーム革命が起こって外国人観光客が激減してしまい、ホテルにも閑古鳥が鳴いている。

王母

王母の学院コンプレクスの平面図
(From Henri Stierlin "Architecture de l'Islam" , 1979, Fribourg)
左が王母の学院(マドラサ)、赤丸がミフラーブ前のドーム、右がキャラバンサライ、
上(黄色)がバ-ザ-ル、赤い矢印は チャハルバ-グ大通りからの入り口




キャラバンサライ
Caravanserail (Abbâsi Hotel)

王母  王母

キャラバンサライは20世紀にホテルに転用された。



バーザール
Bazar (Shopping Center)

キャラバンサライ   バーザール

王母のバーザールは 今も高級店舗街。20世紀に、王母の学院の向かいに、ホテルと同じ調子のデザインで、新しいバーザール(高級ショッピング街)が建設された。



ジューパール JUPAR

シャーザーデ・ホセイン廟 
Imamzade-ye Shah-zade Hoseyn, 18th c.

ジューパール

ジューパール   ジューパール

ケルマーンの南30km、マハーンにも近いジューパールの村に、サファヴィー朝時代に創建されたシャーザーデ・ホセイン廟がある。青緑のタイルで覆われたドームのデザインは、マハーンの廟のそれとよく似ている。内部は鏡のインテリアで、ドームもムカルナスも鏡の小片で くまなく覆われている。 



カーシャーン KASHAN

フィン庭園 Fin Garden, 16th、18th c.

フィン庭園  フィン庭園

イランで最も有名な古典庭園と言えば カーシャーンのフィン庭園である。シャー・アッバース1世が1587年に建設した王室庭園であった。シャー・アッバースによる建物は失われてしまったが、1799年から1834年の間に、カージャール朝第2代の王、ファトフ・アリー・シャーによってフィン庭園が再建された。これは建物で囲まれた長方形の庭園であるが、四分庭園とは言いながら、単なるシンメトリーの構成ではなく、入り口から中央園亭に伸びる主軸のほかに一番奥の水源に至る副軸とがあることによって、庭園に変化と活気をもたらしている。水源を控えているだけに、水路に水が絶えることなく、すべての園路に水路が伴って、噴水をほとばしらせている。
イラン独自の「四分庭園」は、その発展過程を示す9つの庭園が一括して「ペルシア式庭園」として2011年にユネスコ世界遺産に登録されたが、それを代表するのは このフィン庭園だと言ってさしつかえない。(他は、シーラーズの「エラム庭園」や、イスファハーンの「チェヘル・ソトゥーン宮殿の庭園」、マハーンの「シャーザーデ庭園」、ヤズドの「ドウラターバード庭園」などで、いずれもこのページに載せてある。)

平面図
フィン庭園の平面図
(From Jonas Lehman "Earthly Paradise", 1980, London)

フィン庭園  フィン庭園



ザンド朝の建築 (1750-94)


シーラーズ SHIRAZ

カリーム・ハーン城塞 Arg-e Karim Khan, 18th c.

シーラーズ  シーラーズ

カリーム・ハーン・ザンド (1701-79) はサファヴィ朝の没落に乗じて 1765年までにイラン高原全体を制圧し、シーラーズを首都にした。短命の王朝だったので、あまり多くの建築作品は残していないが、ここで基礎を築かれたシーラーズの都は、ザンド朝滅亡の後も「庭園の都」として栄えることになる。カリームはシーラーズに堂々たる城塞を構え、内部に大きな庭園を囲む宮殿を建設した。四隅の円形の櫓の外壁は、レンガ積みによる繊細なパターンを見せている。



ヴァキール・モスク Masjed-e Vakil, 1773

シーラーズ   シーラーズ

ザンド朝の君主は 一応サファヴィ朝の末裔を奉じたので、自らは シャー(王)とは名乗らずに ヴァキール(臣民の代理人)と称したので、首都に建設した大モスクも ヴァキール・モスクという。ダブル・イーワーン型のモスクで、中庭には泉亭ではなく邸宅の中庭におけるような長い池を設けている。イラン建築のロココ期とも言うべく、ピンクを主調とする繊細なタイル装飾が諸所に見られる。しかし礼拝室はむしろ巻き紐模様が彫刻された石柱列とレンガ積みのアーチ、ドームの落ち着いた連なりが印象的である。

シーラーズ   シーラーズ



シャー・チェラーグ廟 Mausoleum of Shah Cheragh, 14, 18世紀

シーラーズ   シーラーズ

シャー・チェラーグは835年にシーラーズで殉教したイマーム・レザーの兄のアフマドの廟で、シャー・チェラーグとは「光の王」の意。重要な巡礼地であり、アーシュラーの祭礼時には、市中を行進した行列が すべてここの広場のような中庭に集まる。タシ・ハトゥン王妃によって廟が創建されたのは14世紀だが、現在の建物は19世紀の再建である。球根形の独特なドームはシーラーズのシンボルのようになり、この他にもミール・モハンマド廟、アリー・エブネ・ハムゼ廟、サイイド・アラー・アッディーン・ホセイン廟など、数多い。墓室内部はいずれも鏡のインテリアで、マシュハドのイマーム・レザー廟でも見られるように、ムカルナス天井をはじめ、細かく面取りされた小面がすべて鑑で仕上げられ、万華鏡の中にいるような感じを抱かせる。

この境内には、シャー・チェラーグの弟のサイイド・ミール・モハンマドSayyed Mir Mohammedの廟もある。シャー・チェラーグ廟に倣った球根形ドームで、内部は鏡貼りのインテリア。

シーラーズ


土の都市採風塔鳩の家
Earthen City in the Desert, Folk Architecture


バム BAM

アルゲ・バム Arg-e Bam, 19th c.

バム   バム

土(日干しレンガ)の都市 バムが城塞都市として確立したのは ササン朝ペルシアの時代であるが、642年にはアラブに征服されてイスラーム化したイランの「土の文化」をこれの都市施設、さらに民家に至るまで、すべてが土の色一色の都市であり、放棄された家は崩れて地面の土に還っていきながらも、土の都市全体が千年以上も存続したというのは奇跡に近い。ところが2003年にイラン南部地震が起こって、都市は壊滅的な被害を受けた。石の町とちがって、崩れ去った土の町を復原するのは容易でない、というより 完全な復原は不可能である。2004年には「バムとその文化的景観」として ユネスコ世界遺産に登録され、修復活動を続けている。

詳しくは、「イスラーム建築入門」のサイトの「砂漠の城塞都市、バム」を参照。




アーブヤーネ ABYANEH

土の村 Earthen Village,

アーブヤーネ

カーシャーンの南東、約60kmの山間にある土の村、アーブヤーネ。
こうした「土の村」が諸所にある。



ヤズド YAZD

砂漠の中の 沈黙の塔 Tower of Silence, 19th c.

ヤズド   沈黙の塔

砂漠的風土と、その中で築き上げらてきた都市とを最もよく伝えるのは、イラン中央部のヤズドである。その歴史的都市と砂漠的景観は、2017年にユネスコ世界遺産に登録された。市の南方には ゾロアスター教の鳥葬の施設「沈黙の塔」があり、今は用いられていないが、ほぼ完全な姿を伝えている。市内には今も 少なからぬゾロアスター教徒が住んでいるという。



アルデスターンケルマーン
ARDESTAN
& KERMAN

採風塔(バードギール) Badgir, 19th c.

採風塔  採風塔


採風塔(バードギール)が、ドーム屋根の下にある貯水槽の水を冷やす

採風塔
バードギール断面図
(From Patrick Ringgenberg "Guide Culturel de l'Iran", 2006, Tehran)




ゲヴァルト村  GEVART VILLAGE

鳩の家 Pigeon Towers, 19th c.

鳩の家   鳩の家  鳩の家

イランやエジプトの農村にある鳩の家(ピジン・タワー)は 造形的に興味深い。イランのものは2重の同心円の壁が立ち、屋上の小塔の多数の穴から鳩が出入りする。目的は鳩のフンを集めることで、内部に巣をつくった1万羽ぐらいの鳩のフンでいっぱいになると、これを壊して畑の土壌の肥料とするのである。エジプトでは鳩をも食用にするが、イランでは食べない。塔の材料は日乾しレンガなので、そば近く寄れば荒っぽい建物だが、遠目には実に印象深い農村風景のアクセントである。イスファハーンの近くのゲヴァルト村に、鳩の家の並ぶ風景は幻想的である。



イスファハーン ISFAHAN

鳩の家 Pigeon Tower, 19世紀

鳩の家    断面図
鳩の家断面図 (From "Travel Guide to Esefahan", 2003. Rowzaneh, Tehran)

イスファハーン市内に残る「鳩の家」。農村に残る実用のものとちがって、保存建物としてきれいに仕上げられた。

カージャール朝の建築 (1796-1925)


テヘラン  TEHRAN

ゴレスターン宮殿 Golestan palace, 1865-67

ゴレスターン

ゴレスターン   ゴレスターン

ゴレスターン(グリスターン)とは サアディーの詩集にもあるように「薔薇園」の意。カージャール朝の第4代の王ナーセロッディーン・シャー (r.1848-96) が、イランの君主として初めてヨーロッパを歴訪した経験から、ヨーロッパ風味を取り入れた宮殿の建設を命じたという。
ゴレスターン宮殿は 2013年にユネスコ世界遺産に登録された。



アーブギーネ博物館 Abgineh Museum, 19th c.

アーブギーネ

アーブギーネ博物館は、19世紀の小宮殿を ガラスと陶器の博物館に転用したもの。



カズヴィーン QAZVIN

ナヴィー・モスク(預言者のモスク)
Navi Mosque (Prophet Mosque), 19th c.

カズヴィーン   カズヴィーン   カズヴィーン

カズヴィーンは 313年のミラノ勅令であって、最初期のキリスト教建築は シリア・パレスチナや コンスタンチノープルに建てられた。 これは5世紀のシリアの柱頭行者 聖シメオンの死後に、その独立柱を囲むようにして建てられたキリスト教の聖堂である。



ヤズド YAZD

ラリーハ邸 Lariha House, 19th c.

ラリーハ邸

ラリーにを長い池があり、その両側に樹木と花壇が連なる。正面には大きなイーワーンが、酷暑に涼しい日陰空間を提供する。



イスファハーン ISFAHAN

シャイフ・アルイスラーム邸 Sheikh al-Islam House, c.19th c.

シャイフ   シャイフ

イスファハーンで最も保存のよい近世の邸宅。中庭の奥行が浅いせいか、長い水槽がない。最も目立つのは幅広のエイヴァーンで、木造の柱が2本、軒桁を支える。床が高くなったエイヴァーンには水槽があり、この奥にスタッコのムカルナスと鏡のモザイクで飾られたイーワーンがある。

平面図
平面図 (From "Ganjnameh" vol.4, 1998)




シーラーズ SHIRAZ

エラム庭園 Eram Bagh, 19th c.

エラム庭園   エラム庭園

シーラーズは標高1,600メートルの高原に位置するので、その温暖な気候のゆえに 30以上の庭園が散在し、「庭園の都」と称される。その主なものが公開されているが、最も人気があるのはエラム庭園である。わずかに斜面の広大な庭園を 直線的な並木道が分割し、それらの間に芝生の緑地や果樹園が広がる。北西端には池に面して立派な園亭というよりは宮殿が建つ。カージャール朝時代にモハンマド・ゴリ・ハーンが造園したという。エラムとは「地上の楽園」の意。

平面図  エラム庭園
エラム庭園の平面図
  (From Jonas Lehman "Earthly Paradise", 1980, London)




ナーランジェスターン庭園  Narenjestan Bagh, 1870

ナーランジェスターン庭園   ナーランジェスターン

ナーランジェスターンとは「オレンジの果樹園」の意で、ペルシアの都市住宅(ビールーニ)と庭園である。エラム庭園よりずっと小規模であるが、住居は仕事場(オフィス)および接客場でもあった。カージャール朝の宮廷に出仕したキワーム家の施設で入口側から一番奥の接見ターラールまでまっ直ぐに幾何学的デザインの水路と花壇が続き、両側にオレンジの並木と棕櫚の木が生える。

ナーランジェスターン




ハーフェズ廟サアディー廟
Mausoleum of Hafez and Sadi, 19th c.

シーラーズ   シーラーズ

ペルシアを代表する詩人と言えば、『ハーフェズ詩集』で世界に名高い14世紀のハーフェズ(1325/26-1389/90)と、『果樹園(ブースターン)』と『薔薇園(グリスターン)』を書いた13世紀の サアディー(c.1210-c.1291)である。どちらもシーラーズで生まれ 没したので、この地に廟がある。ペルシア四大詩人と称されるハーフェズ、 サアディー、ウマル・ハイヤーム、ハージュー・ケルマーニーの二人までをこの都市が育てたことになる。どちらの廟も小規模で、建築的に特筆すべきものではないが、庭園の中のあずまやのようなオープンな廟の佇まいに好感がもてる。



マハーン近郊 Near MAHAN

シャーザーデ庭園 Shahzadeh Bagh, 19th c.

シャーザーデ庭園   シャーザーデ

マハーンから6km、町も村もない平原の中に忽然と現れる庭園。シャーザーデ・バーグとは「王子の庭園」の意で、君主たちは大名行列のようにして園遊に来たのであろうか。私が訪ねた前日には 珍しく雨が降り、山からの水路(カナート)に泥が流れ込んだために、庭園内の水路も泥水となってしまった。それでも好天に恵まれて、園内はピクニック客であふれるばかりだった。庭園は一直線に上って行く露段式で、一番下の入口の園亭は上階の見晴らし台とともに立派に造られている。

シャーザーデ
シャーザーデ庭園の航空写真
(From "The Persian Garden, Echoes of Paradise", 2004, Washinton)




カーシャーン KASHAN

アカー・ボゾルグ学院 Madrasa Aqa Bozorg, 1865-67

ボゾルグ

ボゾルグ   ボゾルグ

アカー・ボゾルグ学院は 多層構成をとり、地上がモスク、地下が学院(マドラサ)になっている。マドラサには大きな中庭があるので、入り口から見ると、モスクがよそでは見られない堂々たる多層構成の威容を見せるので、人気がある。2本のミナレットに はさまれた球根系のドームが 礼拝室ではなく、イーワーンの上に架かっているのも 特異である。マドラサの学生にとっては、絶えず上から観察されているようで、あまり落ち着かないかもしれない。



ボルジェルディーハ邸 Boroujerdi-ha Mansion, 19th c.

ボルジェルディ   ボルジェルディ

断面図
断面図 (From "Ganjnameh" vol. 1, 1996)

ボルジェルディ   ボルジェルディ

カーシャーンには近世の住宅建築が多く残り、中でも4軒の邸宅が見事に修復されて、ペルシアの住居について知りたい者にとっては最良の地である。ボルジェルディ邸はその典型で、水槽のある緑の中庭を囲んで 立体的な住居および接客ホールが並び、そのファサードもインテリアも伝統的要素で華やかに装飾されている。他の邸宅もそうだが、道路に面してピシュターク(門)があり、そこから通路を通ってエントランス・ホールに至る。



アッバーシアン邸 Abbasian Mansion, 19th c.

アッバーシアン   アッバーシアン

平面図
平面図 (From "Ganjnameh" vol. 1, 1996)

アッバーシアン   アッバーシアン





タバタバーイ邸 Tabatabai Mansion, 19th c.

タバタバーイ   タバタバーイ

タバタバーイ   タバタバーイ



アメリハ邸 Ameriha Mansion, 19th c.

アメリハ邸   アメリハ邸

その中でも最大の大邸宅がアメリハ邸で、池のある大きな中庭庭園を5つも擁している。

平面図

平面図(現地図面より)、大きな5つの中庭が修復され、公開されている。

アメリハ邸  アメリハ邸





レイ REY

アブドル・アジーム廟 Hazrat-e Abdol Azim, 19th c.

レイ

テヘランの南郊外、歴史地区レイには19世紀にハッサンの5代あとの子孫であるアブドル・アジームの聖廟が建設された。この系統の廟はマシュハドやコムと同じく黄金のドームをシンボルとする。 the tomb of 'Abdul 'Adhim ibn 'Abdillah al-Hasani (aka Shah Abdol Azim). シャー・アブドル・アジームは 860年に暗殺されて 殉教者となった。




カズヴィーン Qazvin

ホセイニーヤ・アミニーハ Hosseyniyeh Aminiha, 19th c.

カズヴィーン  カズヴィーン

ホセイニーヤ・アミニーハは、カージャール朝の豊かな商人の邸宅で、華やかな内装の3連ホールは、イマーム・ホセインの殉教を記念しているという。



シーラーズ SHIRAZ

アリー・エブネ・ハムゼ廟 Emamzade-ye Ali Ebne Hamze, 19th c.

シーラーズ  シーラーズ

第7代イマームの甥の廟。シャー・チェラーグ廟に倣った球根形のドームで、内部は鏡貼りのインテリア。



サイイド・アラー・アッディーン・ホセイン廟
Emamzade-ye Seyyed Ala-ad Din Hosein, 19th c.

ホセイン廟  ホセイン廟

これもシャー・チェラーグ廟に倣った球根形のドームで、内部は鏡貼りのインテリア。



ナーシル・オル・モルク・モスク
Masjed-e Nasir-ol-Molk, 19th c.

シーラーズ  シーラーズ

シーラーズで最もカラフルで華やかなモスク。イランのロココ期と言うべきか。ヴァキール・モスクとよく似た面があるが、こちらの方が新しくて保存がよく、またヴァキールには色彩を抑制した面があるが、こちらは隅から隅まで飾り立てている。夢見る乙女の憧れが全開したモスクだと言えようか。礼拝室の対抗面の棟には、貯水槽を備えた 大きな地下室がある。

シーラーズ  シーラーズ




シューシュ SHUSH

聖ダニエル廟 Aramgar-e Daniyal, 1870

ダニエル廟

シューシュの聖ダニエル廟。ダニエルというのは、キリスト教の『旧約聖書』の「ダニエル書」に描かれている人物だが、イスラームでも預言者の一人と認めている。その廟は14世紀にもあったと伝えられているが、現在のものは19世紀の再建である。古式の塔で、キュービックの積層体に一切の装飾がなく、ダマスクスの「ヌール・アッディーン廟と病院」の塔を思い出させる。




ザンジャン ZANDJAN

ザンジャンの洗濯場と茶店 Laverie and Tea House

ザンジャン  ザンジャン

カージャール朝時代の公衆洗濯場が1926年に修復されて、民俗博物館として用いられている。茶店に転用されている建物もある。

パフラヴィ朝の建築 (1925-1979)


テヘラン TEHRAN

アーザーディ(自由)の塔 Borj-e Azadi (Freedom Tower), 1971

アーザーディ

ペルシアの建国2500年を記念して建設された。設計は コンペで1等をとった建築家のホセイン・アマナト (1942- ) 。白大理石で仕上げられた 高さ45メートルの大きな建物で、内部は歴史博物館となっている。頂部の展望室からは テヘラン市が見渡せる。



テヘラン現代美術館
 Tehran Museum of Contemporary Art, 1977

現代美術館


ラーレ公園の隣。パフラヴィ朝の王妃のいとこの建築家 カムラン・ディーバ (Kamran Diba, 1937- ) の設計。打ち放しコンクリートの いくつもの棟に分けて、その集合体とした。イスラーム革命の2年前にオープンした。




イスファハーン ISFAHAN

ポウプ夫妻の廟 Mausoleum of A.U. & P.A. popes, 1971

ポウプ廟

近代建築ではないが、夫人とともにペルシアの美術と建築の研究に生涯をささげたアメリカ人美術史家 A・U・ポウプ(1881-1969)の、伝統様式の墓廟である。ポウプは『A SURVEY OF PERSIAN ART』全6巻を出版して不朽の業績をあげ、最晩年をイランで過ごして 88歳で没した。廟を設計した建築家はイランのモフセン・フォルーギ (Mohsen Foroughi, 1907-1983) で、レンガ造のキューブの上に、夫婦が寄り添うように2基のドームを前後に載せた 。



ガディール庭園 Gadir Bagh, 1993

ガディール庭園

イスファハーンの東部には 20世紀の大庭園としての公園がある。約300m×700mと、東京の日比谷公園の1.3倍ほどの大きさだが、その全体計画は あくまでも伝統的な「四分庭園」である。二つの正方形の四分庭園を並べて その間に細長い接続部を置くというのは、ラホール(パキスタン)の名高い シャーラマール庭園を踏襲しているように見える(規模も ほとんど同じ)。子供の時から常にこうした幾何学庭園に慣れ親しんでいるせいで、イラン人は決して日本の逍遥庭園のような 不整形の造園は しないようである。

シャーザーデ  

ガディール庭園の航空写真 (From Google Maps)



イラン建築を知るための本

● 専門家も一般の人も楽しめる、イラン建築のヴィジュアルな本を紹介しておきます。
詳しい目録は『イスラーム建築文献目録』の「J.イランとイラクの建築」のページを参照。



ペルシア

THE ART AND ARCHITECTURE OF PERSIA
(ペルシアの美術と建築)

Written by Giovanni Curatola & Gianroberto Scarcia, translated by Marguerite Shore, 1964, Abbeville Press, New York, Hard cover, 33cm-264pp.  オールカラーの大型本で、美麗な写真とともに イランの美術と建築を歴史順に紹介する。イタリア語からの英訳版。

ペルシア建築

INTRODUCING PERSIAN ARCHITECTURE
(ペルシア建築入門)

In the series of 'Soroush Library of Introductions to Persian Art', written by Arthur Upham Pope, 1976, Soroush Press, Tehran, Soft cover, 22cm-120pp.  ペルシアの美術と建築の研究に生涯をささげた A・U・ポウプによるコンパクトな簡易版ペルシア建築史で、カラー写真も多くいれている。高級な英文入門書。

ペルセポリス

PERSEPOLIS
Chef d'oeuvre des Grecs

(ペルセポリス
、ギリシア人の傑作)

Written by Henri Stierlin, published by Edition A. et J. Picard, 2016, Paris, Hard cover, 32cm-274pp. 『イスラムの建築文化』を書いたアンリ・スチールランの著・写真になる ペルセポリスの探究書、本文仏文。

イランの庭園

GARDENS OF IRAN
Ancienrt Wisdom, New Visions

(イランの庭園
、古来の知恵と新しいヴィジョン)

Published by the Tehran Museum of Contemporary Art, 2004, Soft cover, 32cm-274pp.  テヘランの現代美術館で催された展覧会の図録を兼ねた出版の英語版。イランの主要な庭園をカラー写真と図面で紹介し、終章で 庭園の伝統と関連した現代美術家の作品を掲げる。本文英文。

イラン文化

GUIDE CULTUREL DE L'IRAN
(イランの文化遺産案内)

Written and photographed by Patrick Ringgenberg, 2006, Rowzaneh Publications, Tehran, Soft cover, 21cm-512pp.  単独の著者によるイラン文化の一巻本百科全書。 前半はイランの歴史から 文化・芸術に至る一般的叙述、後半は地理的順序で 各都市の 建築を中心とする 文化遺産ガイド。 約 1,300点の写真・図面は小さいが オールカラー。 本文レイアウトから全体の造本まで 申し分ない充実した本。 ペルシア文化を愛する人の座右の書だが、本文仏文。

イスファハーン

TRAVEL GUIDE TO ESFAHAN
KASHAN and More
(イスファハーン旅行案内
、含・カーシャーンその他

Written by Oksana Beheshti and photographed by S.A. Hamid Beheshti, 2003, Rowzaneh Publications, Tehran, Soft cover, 22cm-264pp.  イランで出版された、ベヘシュティ夫妻による イスファハーンと カーシャーンその他の 素晴らしいガイドブック。小さいが オール・カラーの写真とともに、小さな字で ぎっしりと情報がつまっている。本文英文。

(2019 /05/ 05)


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