ENJOIMENT in ANTIQUE BOOKS - XLII
広島市 原爆体験記 刊行会編
『 原爆体験記』
Sufferers in Hiroshima:
" Expeiences of Atomic Bomb "
First printed but unpublished in 1950
First published in 1965 by Asahi Shimbun-sha

神谷武夫

原爆体験記
『 原爆体験記 』 1965年、朝日新聞社

BACK     NEXT


核戦争と『原爆体験記』

 毎年 夏になると、いわゆる「終戦記念日 (8月15日) 」がやってきます。その前には 広島 (8月6日) と 長崎 (8月9日) の原爆投下記念日における 死没者の追悼記念式が行われ、大多数の日本人が あの戦争に、また核兵器に、思いを馳せます。広島では一瞬にして十数万の市民が命を奪われ、長崎では7万人余の市民が亡くなったとも伝えられますが、正確な数字は不明です。今は 終戦記念日には遠い冬ですが、いよいよ核戦争 が起こるやもしれぬケハイであり、 トランプとキムは ハッスルし、アベは 扇動し続けているので、 我々は スタンリー・キューブリックの終末論的映画『 博士の異常な愛情 または 私は如何にして心配するのを止めて 水爆を愛するようになったか』でも見て、心の準備をしているべきかもしれません。

映画『博士の異常な愛情』の最終シーン

 某某のペシミスティックな心底は、これ(水爆戦)によって、もう そろそろ 悪の権化である人類が滅亡するのも 悪くないかもしれない、と 観じているような フシがありますが、今回の「古書の愉しみ」では、あまり愉しかった読書とは言えないけれど、学生時代に読んで 大きな衝撃を受けた『原爆体験記』を採りあげ、それに関連して2冊の画集を紹介することにしました。戦争と原爆に関する本は無数に出版されてきたので、私が手にしたのは ほんのわずかですが、その中で最も強い印象を与えられたのが『 原爆体験記 』です。これを「古書の愉しみ」というには齟齬(そご)がありますが、私の長い読書生活の中でも 最も読むのが 辛かった、忘れがたい本の一冊です。

 この本が朝日新聞社から刊行されたのは、今から約半世紀前の 昭和40年(1965)のことですが、本当は その15年前の 昭和25年(1950)に出版される筈でした。原爆投下の5年後です。その 印刷と製本が済んでいながら 未刊行に終わった 130ページの小冊子『原爆体験記』には、次のような「刊行のことば」が付されていました。

 これは、5年前の広島においての 痛ましい体験の いつわりなき記録の一部である。応募 164編、いずれも これを読むものをして 血涙をしぼらしめるものがあったが、被爆当時の 環境、実態、距離的関係等の観点から、原文のまま 18編と、特色ある体験の ぬきがき16片を ここに収めた。他の原稿は 平和都市広島の至宝として、やがて産まれるべき平和記念館に 保存される筈である。
 人類の誰しも経験したことのない あの受難に堪え、あらゆる苦悩と悲しみのどん底を生き抜き、そして立ち上がった人達の この聖なる手記は、二つの世界の激しい対立の嵐吹きすさぶ中に、天来の平和の訴えとして 人の子の耳を傾けさせないであろうか。               昭和25年8月6日    編者 記

『原爆体験記』オリジナル版の表紙(ウェブサイトより)

 「編者」というのは 広島市の市長および職員であり、「応募 164編」というのは、広島市が原爆投下後3年目の昭和23年(1948)に、原爆の惨禍から生き延びた市民に呼びかけて その被爆体験記を募集した時に寄せられた、職業文筆家ではない 一般市民によって綴られた 生(なま)の思い出 164編のことです。「二つの世界の激しい対立」というのは、今の若い人には解りにくいでしょうが、戦後すぐに アメリカを中心とする資本主義圏(西側)と、ソ連を中心とする社会主義圏(東側)に分断され 敵対していた世界の、いわゆる「冷戦構造」のことです(ホットな戦争である「朝鮮戦争」が1953年に休戦して以後は、戦火は交えないながら、東西のクールで陰険な戦争状態になったのでした)。それに伴って 日本における反核運動も分裂し、共産党系の「原水協(原水爆禁止日本協議会)」と 社会党系の「原水禁(原水爆禁止日本国民会議)」とが対立し、広島、長崎で毎年 それぞれが別々に「原水爆禁止世界大会」を開くようになります。世界の平和団体は これに困惑したことでしょうが、アメリカに追随する自民党は どちらにも一切参加せず、今度の国連の「核兵器禁止条約」にも反対して、世界の多数の国から、日本政府の二枚舌に対する厳しい非難を招いています。

 そうしたイデオロギーの対立や 政治的駆け引きとは無縁の、ただ 多数の肉親や知己を原爆で失いながら、また自分自身も生死の境をさまよいながら かろうじて生き延びた被爆市民の 率直な体験記は、大局的な平和運動とは異なりますが、人の「生きる権利」を踏みにじる巨大兵器の結果するところを、『原爆体験記』は最も簡明に伝えてくれます。

 この小冊子が出版されようとした時、原爆を投下して広島と長崎の数十万人の市民(非戦闘員)の命を奪うという「戦争犯罪」を犯したアメリカは、それを、戦争を終わらせるために必要だったと言って正当化し、原爆のもたらす悲惨さを最大限 包み隠そうとしていたため、GHQ(連合国軍総司令部) 、すなわち日本を占領する「進駐軍」は この小冊子を「反米的」として、すでに印刷・製本ができあがっているにもかかわらず、これを配布させず、出版禁止処分にしたのでした。そのために これらの原稿と小冊子は、以後 15年間も 広島市役所の倉庫に収蔵されたまま「ホコリをかぶって」眠りについてしまったのです。
 ただ、その2年後の昭和27年(1952)には、サン・フランシスコ講和条約の発効によって 米軍による日本占領が終わったのに、なぜその後13年間も出版されなかったのかは不可解です。すでに『原爆の子~広島の少年少女のうったえ』(1951、岩波書店)その他が出版されていたからでしょうか?『原爆体験記』の出版の遅れは、ややもするとGHQ の責任のみが言われますが、広島市は多くの出版社に声をかけた筈ですから、日本の出版界の怠慢でもあったのではないでしょうか?

 やっと昭和40年(1965)になって、朝日新聞が この未出版原稿について大々的に報道したことによって、「原爆体験記」は 広く世間に知られました。その世論の後押しを受けて 朝日新聞社は、小冊子に載せられていた 18編に 新たに選んだ 11編を加えて、全 29編からなる、軽装の廉価な単行本『原爆体験記』を、同年の7月20日に発行しました。私の手元にあるのは 数年前に買い直したもので、9月5日発行の第6刷りとありますから、短期間に いかに大きな反響があったかが わかります(わずか1か月半の間に6刷り!)。

『 原爆体験記 』 1960年、初版のジャケット

 当時の広島市長の浜井信三(1905 -68)が『原爆体験記』の冒頭に、「はじめに」として その出版経緯を語っていますので、以下に再録します。浜井信三は昭和22年(1947)に初代の公選による広島市長となり、以後 通算4期、16年にわたって市長を務め、核兵器の全面禁止を主張し続けた行動により「原爆市長」とも呼ばれて、全国民に親しまれました。

 広島の原爆については、いろいろな人の手によって、記録が書かれ、詩に歌われ、絵画に描かれ、映画も作られたが、そのいずれもが、わたくしたち、直接原爆を体験したものから見れば、実感には ほど遠いもののようにさえ思われた。それほど、その惨状は、人間の想像力や表現能力を超えた非人間的なものであった ということができる。
 それにもかかわらず、わたくしたちは この事実を、できるだけ広く人びとに伝えなければならないと思う。その偽らない事実の中から、人類の将来の運命を予見することができるからである。そうした意味からも、原爆を直接体験した人たちの手記を集めておくことには 大きな意義があると思われた。しかもそれは急がねばならない。時移れば、その人たちも次第に世を去って行くからである。
 そこで昭和 22年、わたくしが市長に就任した直後、市民の中からそれを募集させた。集まったものは 160余編であったが、いずれも、当時の実相を知る資料としては、まことに得がたいものであった。
 この手記は、去る原爆5周年に当って、その一部を小冊子にまとめて 一度印刷したのだが、占領政策により ついに世に出すことができなかった。このたび 原爆 20周年を迎えるに当り、朝日新聞社の尽力により、それが再び刊行されることを、わたくしは心から喜ぶものである。この一編が、原子戦争の様相を知る よすがとなり、世界平和確立の助けとなるように 心から祈ってやまない。
                          広島市長 浜井信三

 また『原爆体験記』の出版直前、6月21日に 大江健三郎による『ヒロシマ・ノート』も 岩波新書の一冊として刊行されました。それは 1963年に最初に現地を訪れた、日本のサルトルたるべきことを志した大江が 岩波の雑誌『世界』に断続的に連載したルポルタージュで、連載中から評判になったので、革新系の「ヒロシマ」の本というと 大江が原稿を依頼されるようになり、この『原爆体験記』にも、巻末に彼の書き下ろしエッセイ「なにを記憶し、記憶しつづけるべきか?」が 11ページにわたって収録してあります。大江が まだ30歳の時です。

 この『原爆体験記』には 29人の広島市民の手記が収録されていますが、その内訳は ウィキペディアによると、男性が 21人、女性が 8人で、被爆当時の年齢は8歳の小学生(国民学校生)を最年少に、10歳未満が2名、10代が 8名、20代が 5名、30代が 3名、40代が 5名、50代が 4名、年齢不詳が2名であり、学童・学徒9名を除けば、職種は会社員、事務員、軍人、教員のほか、自動車運転手、貸席業主など多様であり、また被爆時の場所も、ほぼ爆心直下の燃料会館で被爆した男性事務員を筆頭に、爆心地から1km以内が4名、1~2kmが13名、2~3kmが 5名、3~4kmが3名、4km以上が4名という具合に、さまざまな状況で被爆した 多様な人々がピックアップされています。

『 原爆体験記 』1960年 の内容

 私がこの本を読んだのは 大学に入学した年の7月26日と「読書記録」に書いてありますから、出版されると すぐに購入し、読んだようです。その4日前には、出版されて間もない 大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』を読了とあるので、原爆に対する関心は高かったものと見えます。しかし、『原爆体験記』を読むのは難渋しました。というのは、それらの体験記録の あまりの悲惨さ、あまりの痛ましさに、一気に読み通すということができないのです。何度も何度も 本を閉じては、長い休息をとりました。何日もかかって やっと読み終えたときには、ホッとしました。若くて感受性が「うぶ」だったこともあるでしょうが、これほど読むのがつらい読書は、後に先にもなかったような気がします。今回、この文を書くために読み返したときも、一度に読み通すことは できませんでした。

 ところで、我々は 原爆投下というと すぐに広島を思い浮かべてしまい、長崎をあとまわしにしがちです。広島のほうが3日早いので、「人類最初の被爆地」といえば広島になるし、被害の規模も大きかったので、それに応じて小説や映画でも ナガサキよりヒロシマが舞台にされることが多かったのでしょう。マルグリット・デュラスの脚本でアラン・レネ(1922 -2014)が監督した 古いフランス映画 『ヒロシマ、わが愛(Hiroshima Mon Amour)』は ヌーヴェル・ヴァーグの傑作として、世界的に絶賛されました(邦題は「24時間の情事」という ひどいものです)。『原爆体験記』の刊行の前年の 1959年に公開されましたが、岡田英次(1920 -95)が、フランス語を話す日本人建築家の役で主演していました(実際には 岡田はフランス語がまったくできず、耳から聞いたフランス語のセリフを「丸覚え」していったそうですが)。

 私が初めてインドを旅行した 1976年には、行く先々でインド人に、日本はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下されて何十万人も殺されたにもかかわらず すばらしい復興を遂げたと、絶えず称賛されました。誰も彼も、私が日本人だと知ったとたんに 口をそろえて そう言ったのは、きっと 小中学校の教科書にそう書いてあって、全国の教師が熱心に そう教えたのでしょう、インドは日本を見習うべきだと(アメリカの教科書が原爆投下を正当化して、市民の被害にはあまり言及しないらしいのとは対照的に)。インドでは、いつもヒロシマとナガサキが不可分に並べられていました。

  
長崎原爆投下、米軍撮影(From Asahi Com.)

 長崎が不当に「あとまわし」にされすぎる、とは感じているのですが、建築家の立場からすると、それも無理もない、という気もあります。それは、建築のモニュメンタリティ(記念性)ということです。長崎には大浦天主堂の遺跡や、北村西望の大彫刻「平和祈念像」や、ガウディに倣った今井兼次の設計による「長崎26聖人記念館」があるとはいえ、映画やテレビで映像化するのに、これぞという「場」がないのです。両都市の爆心地に作られた「平和公園」を比べるとき、広島のほうが「モニュメンタリティ」において 圧倒的に優れていると言わざるをえません。それは昭和24年(1949)に制定された「広島平和記念都市建設法」に基づいて 同年に行われた、「広島市平和記念公園及び記念館」コンペで一等をとった丹下健三案が実現された 建築・地域計画でした。


丹下健三の「ヒロシマ計画」

 広島と長崎の爆心地につくられた「平和公園」の質、あるいは魅力度の差は、広島市が 平和記念公園と主要な建築施設(資料館や陳列館、国際会議場など)を一体として、全国の建築家に設計の機会を与える「公開コンペ」(競技設計)にしたことにあります。コンペの全応募案にこめられたエネルギーの総体は 莫大なものがあります。そしてクリエイティヴな建築家が応募していれば、単に官庁の公園課の職員が 事務的に決めて発注したものよりも 優れたものができるのは当然です。長崎の場合は 十分に情報がないので、どのような経過で平和公園が作られたのかは分かりませんが、昔訪れた おぼろな記憶と、現在インターネットで見る写真からは、格別 魅力的な場所には見えません。

 広島の場合は、前述の浜井信三市長が 広島再建のために情熱を傾け、努力を惜しまなかったので、優れた都市計画や『原爆体験記』の出版などに結果したのだと思われます。まず市長は 都市を貫く100メートル道路(平和大通り)を計画し、その上で 平和公園のコンペを昭和24年(1949)に開催しました。1等案を作った建築家の丹下健三(1913 -2005)は その時まだ36歳でしたが、東大の丹下研究室のメンバーとともに、都市計画的に優れていると同時に、きわめてモニュメンタルな設計案を提出しました。

広島市平和記念公園計画、平面図(赤線と青字は筆者加筆)
(『現実と創造 丹下健三 1946-1958』 1966年、美術出版社刊 より

「広島平和センター」コンペ入選案 模型写真

 丹下健三は 大学浪人時代からル・コルビュジエに心酔して 都市設計への傾斜を強めていたので、この広島コンペは 彼の能力を発揮する格好の場所でした。しかも、戦後すぐに 広島市を含む地方都市の調査・計画の委託研究を受け、「広島市復興都市計画の基礎問題」という論文も まとめていたので、広島の都市条件は十分に把握していました。
 丹下がまず目につけたのは「原爆ドーム」でした。この広島県産業奨励館(物産陳列館)は、建築的に とりわけ優れているわけではありませんが、その半壊の姿が、原爆の災禍を伝える遺物としてはきわめて象徴的なので、これを地域計画の焦点 (Focus) に据えることにしました。ここから「平和大通り」へ垂線を引いて計画の中心軸線 (Central Axis) となし、この軸線上にすべての施設をシンメトリーに配しました。中心となる建物(平和会館本館と陳列館と国際会議場)を 平和大通りと平行な軸 (Semi Axis) の上に一列に並べ、中心となる陳列館を 高さ5mのピロティの上に浮かせて、これを、広場を通して原爆ドームへと至るヴィスタの、壮大な門 (Gate) としたのです。

 さらに象徴性を高めるために、プログラムには無かった コンクリートの「平和記念アーチ」を建てて、その頂部に5つの「平和の鐘」を吊り、広場にいる人々にとっての よりしろ のようにするとともに、原爆ドームを焦点とする眺めのフレームにすることも意図しました。
 ただし この大アーチは、まだ完成はしていなかったけれど、アメリカの建築家 イーロ・サーリネン(1910 -1961)が前年(1948)のコンペで一等をとった、セントルイスの『ジェファーソン・メモリアル・アーチ』の模倣であると 世論の非難を受け、最終的に現在の、埴輪のような小さなアーチ(慰霊碑)に設計変更され、画竜点睛を欠くこととなりました。コンペの審査員長を務めた岸田日出刀も 審査評において、「その構想が他の先例とあまりに轍を一にしている点で、本案の独創性に一抹の暗い影を投じていはしないか」と その危惧を述べていました。

 こうして、大アーチが実現しなかったのが残念とはいえ、全体としては、人類最初の被爆地にふさわしい (?) きわめてモニュメンタルな「5万人の広場」が、ル・コルビュジエの影響が強いにしても 実に堂々たる陳列館とともに コンペ案どおりに できあがり、ニュース映画やテレビで記念式典を中継するのに 格好の舞台となったのでした。(ただ、公会堂の実施設計が よその設計事務所の手にわたって、レベルの低い建物になるというトラブルには みまわれましたが、平和公園の全体計画にはあまり影響がありませんでした。しかし、こうした 建築家のプロフェッションを否定するような事件は、その半世紀後のオリンピック用「新国立競技場」まで続いています。建築家が自らを業者扱いする国にあっては、今後もずっと続くことでしょう。)

 ともあれ 広島平和公園には 丹下健三によって、強いモニュメンタリティ(記念性)が与えられました。この計画の焦点として扱われた「原爆ドーム」は、今に至るまで 広島ー原爆 のシンボルとして機能し続けています。丹下は、この後も 代々木の屋内競技場から 東京都庁舎に至るまで、公共建築や地域計画にモニュメンタリティを与える 最適の建築家として活動し続けました。
 これと対照的な建築家が 吉村順三です。彼は建築の基本に住宅を据えていたので、モニュメンタリティとは無縁、というより 嫌っていたフシがありますので、その設計に「軸線」を持ち込んだことは皆無だと思います。好きな古典建築としては、よく ル・トロネのシトー会修道院を挙げていました。
 吉村が 皇居の新宮殿 を設計していた時も、不必要な装飾のない、できるだけ「簡素な」、というか「 清楚な」建物のデザインを目標としていました。多くの人が 宮殿 というと シャンデリア を思い浮かべるのに、吉村は 新宮殿からシャンデリアを追放して、すべて 天井裏からの「ピンホール照明」にしようと考えました。この「欲しいのは光であって、(照明)器具ではない」という考えに類した方法を、すべてに適用しようとしたのです。しかし、「アレクサンドル・ゲルツエンと ロシアの風景」の第3章に書いたように、実施設計の段階のトラブルで 辞表を出してしまい(1965)、最終的なインテリアは吉村の手を離れてしまったので、「吉村流」からは多少 逸脱したところのあるもの となってしまいました。ある彫刻家が 新宮殿のために デザインしたシャンデリアが 週刊誌で報道された時には、「猥褻(わいせつ)な器具だね」と言って、困ったような苦笑をしていました。

広島市平和公園、平和記念資料館(陳列館)観覧券の半券
1965年8月22日、当時の入場料は 大人20円だった

 私は学生時代に2回、広島ピースセンターを訪れました。1年生のときの夏休みと、翌年の春休みに。もちろん ここを訪れることだけが目的ではなく、奈良・京都から 中国・四国にかけての 古典建築および現代建築を見るための、ユースホステルに泊まり歩く貧乏旅行でした。建築の勉強を始めたばかりの若造が、この旅で最も感動した古典建築は『厳島神社』であり、現代建築では大谷幸夫の『天照皇大神宮教 本部』だったと記憶しています(つまり、内部と外部が入り組んだ空間、ということか?)。それぞれの宗教に開眼したわけでもなければ 帰依したわけでもないので、建物の目的や内容と、その芸術的価値とは、必ずしも同調しないのではないかと思います。
 広島の原爆資料陳列館も、その展示に強い衝撃を与えられたことと、丹下作品としての建物の価値とは、関連はあっても 一体ではない、ということでしょう。それでも、とにかく、日本中の、いや、世界中の人々が、一度は 広島と長崎のピースセンターを訪れてほしいと思います。そして、『原爆体験記』を読んでほしいと思います(英訳は出版されているのでしょうか?)


丸木位里・俊の『原爆の図 』画集
THE HIROSHIMA PANELS

 さて、この『原爆体験記』に描かれている、地獄のような被災地の情景を 絵にしていった画家が いました。広島出身の丸木位里(まるき いり 1901 -95)と丸木俊(とし 1912 -2000)の夫妻です。二人は東京に出て画業に励んでいましたが、広島に「新型爆弾」が落とされた知らせを聞くと、位里は3日後に 東京から最初の列車で広島に向かい、俊も数日後に広島に行きました。この時 日本画家の伊里は44歳で、洋画家の俊(旧名・赤松俊子)は33歳、この4年前に2人は結婚していました。

今から ちょうど50年前に出版された、
丸木位里・俊の画集『 原爆の図 』のジャケット

 多くの家族、知人、友人を原爆で失った2人は毎日 被災地を見て回り、死者を焼き、怪我人を搬送し、食べ物をさがし歩きました。その1か月間は、画家の眼よりも被災者の同胞、被爆地・焼け跡の目撃者として生きていたことでしょう。それが画家として広島の惨劇を絵に描こうと思い立ったのは、3年後のことでした。反骨精神や独立心にも燃えていた2人は、戦後の混乱期であるとともに 戦中の愛国精神からの自由・解放の時期でもあったその頃、伝説的な「アンデパンダン展」などに参加していました。

 昭和25年(1950)2月に、『原爆の図』第1部「幽霊」(その時の題は、占領軍の圧力による展示禁止を避けるための「8月6日」というものでした)を、上野の東京都美術館における 第3回「日本アンデパンダン展」で発表しました。伊里は53歳、俊は42歳の時です。技法は水墨画ですから「日本画」ではあっても、その題材は「花鳥山水」の「床の間芸術」とは無縁のものであり、原爆で焼けただれた人々の裸体の群であり、「見るもおぞましい」モチーフの大作(四曲一双、すなわち畳8枚分の、折りたたみ屏風)ではありました。しかし 絵は評判を生み、翌月には日本橋丸善画廊で展覧して、さらに反響を呼びました。

『 原爆の図 』第一部「幽霊」

 これ以後2人は『原爆の図』の制作に熱中し、シリーズ として、昭和30年(1955)までに、完結予定の第10部まで完成させました。この間 日本各地で『原爆の図』の展覧会を催し(巡回展)、1952年には「国際平和文化賞」を受賞し、翌年からは海外巡回展が始まります。
 昭和42年(1967)にはそれらを常設展示する「原爆の図 丸木美術館」を埼玉県松山市に自力で開館させました。それと同時に、美術館の図録を兼ねた画集『原爆の図』を田園書房から出版しました。『原爆体験記』の刊行の2年後です。

 当初の美術館は小規模なものでしたが、その後 順次 増築されて、現在では 後期の大作も展示できる規模のものとなり、付属施設も多くあります。ぜひ一度たずねましょう。と言いながら、実は私はまだ行ったことがありません。何度も 今度こそ、と思いながら、その都度 行き方を調べると 、これでは私の住まいから遠すぎて 時間が足りないと、中止にしてしまうのでした。

今年で開館50周年の 丸木美術館内部(ウェブサイトより)
屏風の高さは、概ね 1.8メートル

 それでも、この田園書房版の画集『原爆の図』の広告が 1967年に新聞に載ると すぐに書店に注文し、大学3年生の時でしたが、折にふれて見たものです。

 この田園書房版が最初の『 原爆の図 』の画集だと思い込んでいましたが、今回調べてみたら、早くも昭和27年(1952)に青木書店から小さな文庫版で出ていました。描きだしてから わずか2年目ですから、収録したのは《幽霊》から《少年少女》までで、著者名は 丸木位里・赤松俊子でした。
 1959年には 虹書房という出版社から、のちの田園書房版よりも大きい 27×36cm の大きさの画集『原爆の図』が出ていることがわかりました。全20ページで、収録作品は《幽霊》、《火》、《水》、《虹》、《少年少女》、《原子野》、《竹やぶ》、《救出》、《焼津》(加筆前)、《署名》(加筆前)、《火》(高野山版)、《水》(高野山版)です。著者名は 丸木位里・丸木俊子となり、定価は480円だったということです。

『 原爆の図』第二部「火」

『 原爆の図』の第10部までの題名と制作年度を列記すると、次の通りです。

   第1部 「幽霊」    昭和25年(1950)
   第2部 「火」     昭和25年(1950)
   第3部 「水」     昭和25年(1950)
   第4部 「虹」     昭和26年(1951)
   第5部 「少年少女」  昭和26年(1951)
   第6部 「原子野」   昭和27年(1952)
   第7部 「竹やぶ」   昭和29年(1954)
   第8部 「救出」    昭和29年(1954)
   第9部 「焼津」    昭和30年(1955)
   第10部 「署名」   昭和30年(1955)

 田園書房版の画集には、丸木夫妻の意向によって第8部までしか収録されていません。第9、10部には不満の部分があり、のちに手が加えられたようです。この第10部で完結の筈だったのですが、そうはならず、その10年後に再び原爆の図のための筆をとり、第15部まで 続編を2人で共同制作しました。各部は基本的に四曲一双、つまり畳の大きさの3尺×6尺の絵を8枚つなげて屏風にしたものです。これだけの大作を、しかも 描いていて楽しくなるような主題ではないものを 15部も描き続けるには、大変な根気と努力、そして絵画力がなければできないことです。

『 原爆の図 』66ー68ページ

 さらに2人は『原爆の図』の15連作に加えて、日本が被害者意識ばかり持つのはおかしいと、日本人が加害者であった「南京大虐殺の図」を描き、さらに その虐殺の範囲をナチスによるユダヤ人虐殺、ひいては水俣などの「公害問題」にまで手を広げた続編を、伊里は94歳で、俊は88歳で亡くなるまで描き続けました。

 画集『 原爆の図 』の新版は それら続編まで含めて掲載し、田園書房版とほぼ同じ 正方形に近い大きさの 改訂版として出版されました。これは 丸木美術館の発行、小峰書店の発売という形で、数次にわたって増補改訂され、定本のようになっていますが 、他にも文庫版(講談社)から 高価な増補保存版(小峰書店)まで、種々出版されてきました。続編の一覧を示すと、次のようです。

   第11部 「母子像」     昭和34年(1959)
   第12部 「とうろう流し」  昭和44年(1969)
   第13部 「米兵捕虜の死」  昭和46年(1971)
   第14部 「からす」     昭和47年(1972)
   第15部 「長崎」      昭和57年(1982)

  「南京大虐殺の図」      昭和50年(1975)
  「アウシュビッツの図」    昭和52年(1977)
  「水俣の図」         昭和55年(1980)
  「沖縄の図(連作)」     昭和58年(1983)
  「足尾鉱毒の図(連作)」   昭和62年(1987-89)
  「天安門事件(連作)」    昭和64年(1989)

 田園書房版の『原爆の図』は 第8部までしか載っていないし、後の新版や豪華版に比べると、古いだけに 製版・印刷のレベルも やや落ちますが、私にとっては一番 好印象の画集です。新版と同じ 手頃な大きさ(24.5 x 22.5cm)で、本の厚さは薄いですが すべてカラー、絵は全部 片面印刷で、各部ごとに 四曲一双を4ページ見開きにしていることが、絵の全体を見るのに最も優れています。後の画集が そうしなかったのは、製本代が高くつくからでしょうか? 私が 昔買った 想い出深い本だということもあるでしょうが、やはり一点の絵は全体としてみるのが一番よい、という気持ちが根柢にあります。映画は好きだが TVドラマは好きでない、という感情にも似ているかもしれません。

『原爆の図』画集と『ジェノサイド画集』(次節)とを開いたところ。
『原爆の図』は片面印刷で、左右のページを折り込みにしているので、
開くと 長さが 82cmの 4ページ見開きとなる。

 ところで、日本の建築界で 原子爆弾に強い関心をはらった建築家は、白井晟一(1905-83)です。彼は 誰に頼まれたわけでもなく、コンペに応募したわけでもなく、ただ自分の内的欲求によって、特定の敷地もなしに、「原爆記念堂」という展示施設を 昭和29年(1954)に計画、設計しました。地上には 池に浮かぶ彫刻モニュメントのような展示館と エントランス・ホールを建てて、地下で連接しています。
 訪問者は 半外部のホールから階段を降り、池の下のアプローチ通路を通って展示館に行き、螺旋階段で展示室に上る、というものです。展示室には、丸木夫妻の「原爆の図」を展示するつもりだったと 伝えられますが、この建物は 結局 実現せずに終わり、「幻の傑作」などと言われています。設計を依頼された建物を実際に建てることに専心する建築家の中にあって、これは文明論的な、稀有の行為であったというべきです。

白井晟一 『原爆記念堂 計画』


ジャン・ジャンセンの『ジェノサイド画集』
MASSACRES, L'ÂME DES SOUVENIRS

 日本ではあまり知られていませんが、第二次大戦中に ナチスによってユダヤ人が徹底的に虐殺されたのにも似て、第1次大戦中には オスマントルコによって アルメニア人が大量虐殺されました。一種の「民族浄化」と言われています。英語では、ユダヤ人の虐殺は「ホロコースト the Holocaust」 と言い、アルメニア人などの虐殺は 一般的に「ジェノサイド Genocide」と呼ばれます。
 古代に大帝国であり、世界で初めてキリスト教を国教とした(301年)アルメニアは、19世紀にはオスマントルコ帝国とロシア帝国に引き裂かれていました。ロシアとトルコが戦った露土戦争は17世紀(1686 -1700)、18世紀(1768 -74、1787 -91)、19世紀(1877 -78)と何度も長期の戦争となり、次第にロシア帝国が優勢になりました。それによって東欧諸国が独立回復をしていったので、アルメニアにも19世紀末から民族主義が高揚していきました。オスマン帝国は領土内のアルメニア人がロシア側に付くのではないかと疑って敵視していき、1894、95年に第1次のアルメニア人虐殺を行ったのです。

ジャンセン『ジェノサイド画集』-1

 20世紀に入っても、ヨーロッパ列強の悪しき振る舞いと中東情勢の混乱、トルコにおける「青年トルコ革命」などが重なり、アルメニア人の安全は守られず、トルコとロシアの対立が オスマントルコによる 1915年から19年までのアルメニア民族大虐殺を生み、「第2次大虐殺」と呼ばれます。トルコ領内の100万人から200万人のアルメニア人がシリアとメソポタミアの砂漠に移住させられ、その強制移住(死の行進)の間に、広島・長崎の原爆被災者数に匹敵する数十万人が、徒歩による移住の苦しみや虐殺で命を落としました(映画『消えた声が、その名を呼ぶ』が その一部を描いています)。また数十万人が 現在のミャンマ−におけるロヒンギャの人々ように、離散の民(ディアスポラ)となって 中東、南亜、欧米に 避難民となって亡命したのでした。

 現在のアルメニア共和国の首都、イェレヴァンの西方にあるツィツェルナカベルドの丘の頂部には、それらのオスマントルコの虐殺による死者を慰霊する コンクリートのモニュメントが 1967年に建設され、その中央では絶えず慰霊の火が焚かれています。塔の高さは44メートルで、毎年4月24日が、その「虐殺記憶の日」です。

ツィツェルナカベルド、 慰霊モニュメント

 この慰霊碑の南側、イェレヴァンの町を見下ろす丘の頂部斜面を削って、半地下式の「虐殺博物館」が、虐殺80周年の 1995年にオープンしました。アルメニアの建築家、サシュール・カラシアン Sashur Kalashian と リュドミラ・ムクルチャン Lyudmila Mkrtchyan の設計です。
 この展示室に、丸木夫妻の『原爆の図』のように大きな「虐殺」の絵のシリーズが展示されています。それらは2002年に開催された大展覧会『虐殺』の時の絵の多くがそのまま常設展示されているものです。描いたのは ジャン・ジャンセン(1920 -2013)という、11歳のときからフランスに定住し、フランスで没したアルメニア人画家です。アルメニア人の父とトルコ人の母のもとにアナトリアで生まれましたが、一家は戦火を避けてギリシアのサロニカに渡り、ジャンはそこで少年時代を送りました。つまり離散の民(ディアスポラ)の一人というわけです。

イェレヴァン、ジェノサイド博物館内部(ウェブサイトより)
ジャンセンの絵の高さは、概ね 2メートル

 そうした離散アルメニア人の芸術家としては、小説家のサローヤン(1908 -81)や、画家のアーシル・ゴーキー(1904 -48)、歌手のシャルル・アズナヴール(アズナヴリアン 1924- )、映画『アララトの聖母』を作った監督アトム・エゴヤン(1960- )などが知られていますが、画家のジャン・ジャンセンも、その確かなデッサン力の上に立った静謐な画風は日本にもファンが多く、1993年以来 長野県の安曇野(あずみの)に「ジャンセン美術館」があるほどです。4年前に93歳で世を去りました。つまり丸木夫妻よりも10~20年遅く生まれ、同じくらい長生きをして 絵を描き続けた人です。

 丸木夫妻の『原爆の図』は 1978年にフランス巡回展をし、パリをはじめ 10都市で展覧しましたから、ジャンセンは その時に見て衝撃を受けたに ちがいありません。自分が幼い時に体験し、絶えず話を聞かされ、本で読んできた「アルメニア人の大虐殺」を連想し、アルメニア人画家としての自分もまた 丸木夫妻のように、それを描かねばならない、しかも『原爆の図』のような大画面で、と。

ジャン・ジャンセン『ジェノサイド画集』表紙

 それを描きためて、2002年にイェレヴァンで『虐殺』の大展覧会をして、フランスやアルメニアから勲章を授けられました。その時のカタログを兼ねた画集は今もジェノサイド博物館で販売されています。カタログには35点の絵が掲載されていて、表紙に使われている絵は2メートル×3メートルもの大きさがあります。しかし 画風は きわめてスタティスティックなので、丸木夫妻の絵のようなダイナミックさに欠けるようです。

ジャンセン『ジェノサイド画集』-2

ジャンセン『ジェノサイド画集』-3

 ジャンセンは、挿絵本も多数制作しています。ボードレールの『パリの憂愁』や、セルバンテスの『リンコネーテとコルタディーリョ』などですが、これらはリトグラフ(石版画)なので高価です。印刷本にも エルヴェ・バザンの "QUI J'OSE AIMER"(1957, 邦題『愛せないのに』)や ジルベール・セスブロンの "LES SAINTS VONT EN ENFER"(1970, 邦題『聖人、地獄へ行く』)など 見るべきものがありますが、ジャンセンの絵は「虐殺」の絵ばかりでなく、ほとんどの絵が やや暗い印象で、悲哀感がただよっているようです。以前にアルメニアの音楽を紹介していた時に、

「幾たびも国を失い、離散の民となり、民族虐殺の憂き目にもあった悲劇の民族であるからか、ポップスの歌でさえも その根底に深い悲しみをただよわせているような音楽が 心に沁みました。 時には、「涙と悲しみ」の日本の歌謡曲とも そっくりな歌があることにも驚きました」

と書いたことがあります。ジャンセンの絵もまた、若い頃から そうした性格をもっているのではないでしょうか。

   
エルヴェ・バザン『愛せないのに』、ジャンセンの挿絵

(2017/12/09)



< 本の仕様 >
"原爆体験記" 1950年に 130ページの小冊子として印刷・製本されるも、GHQ(連合国軍
 総司令部)の圧力で出版されず、1965年に朝日新聞社より増補版として出版。
 市民の体験記29編、浜井信三市長の序文、大江健三郎の読後感 、折り込み地図1葉 所収。
 角背、折り返し 紙表紙にダスト・ジャケット、19cm × 13cm、260ページ
 10年後の 1975年に 朝日選書の一冊として再刊。



BACK     NEXT

© TAKEO KAMIYA 禁無断転載
メールはこちらへ kamiya@t.email.ne.jp