聖地の建築巡礼 - 南インド |
神谷武夫
最近翻訳されたアイザイア・バーリンの『ある思想史家の回想』(*1) という本を読んでいたら、おもしろいことが書いてあった。バーリンというのは 有名な『自由論』を書いた英国の政治思想史の学者であるが、ある時インドに招かれて、当時のネルー首相と会談をした。ネルーはケンブリッジ大学の出身で、インドの独立後首相を務めるとともに、非同盟諸国のリーダーとして国際的にも尊重されていた。 二人のあいだで 日本のことが話題になった時、ネルー首相が こう言ったという。「日本人というのは 軍国主義的、帝国主義的、ファシスト的で、大戦では ひどいことをやりましたが、それでも私は日本へ行くと、彼らは兄弟だと感じるのです」と。彼は若い時から英国で暮らすことが多かったから、英国人の友人も多い。それでもなお インド人である彼は、ヨーロッパ人から見下されているという意識を 払拭することができなかったという。 ひるがえって我々日本人は インドに行って、インド人を我々の兄弟だと感じるであろうか。おそらく そういう人は希であろう。むしろ現今の日本人は 欧米人を兄弟だと感じ、無意識のうちにアジアの人々を さげすんでいるのではないだろうか。これは明治以来の「脱亜入欧」と、戦後のアメリカ化の たまものである。 我々は西洋のキリスト教文明とは 親しくつきあってきたが、アジアのヒンドゥ教やイスラム教の文明とは ずっと疎遠であった。まして ジャイナ教などという宗教については、それが 仏教と 時と所を ほとんど同じくして生まれた 兄弟宗教であるにもかかわらず、まったく無視してきたのである。けれども日本の形骸化した仏教の惨状を見るとき、私にはジャイナ教のほうがずっと好ましく、優れた宗教のようにみえる。 それが単に宗教の問題であるなら 建築雑誌で取り上げることもないわけだが、そのジャイナ教が またすばらしい寺院建築をも達成していたために、こうして連載まですることとなった。私はネルー首相ほどには インド人に兄弟愛を感じているわけではないが、ジャイナ教の理念には大いに興味をもち、共感もしているのである。 日本にも ジャイナ教を高く評価した人が何人かいた。その一人は、近年再評価されている 博物学者の南方熊楠 (みなかた くまぐす)であって、彼は比較宗教学の考察の中で、「人間ばかりか、どんな小さな動物や植物の命までも大切にするという点で、仏教よりも キリスト教よりも ジャイナ教が優れている」と書いている。 しかし南方が広く読まれるようになったのは最近のことであって、私がジャイナ教という宗教を知ったのは 彼によってではない。今の若い人たちは 名前も知らないかもしれないが、かつての全共闘世代の若者が愛読した文筆家には、吉本隆明や三島由紀夫と並んで、高橋和巳の名前があった。私もまた彼の小説、エッセイはすべて読んだものだが、この若くして世を去った「憂鬱なる党派」の作家は、自称 ジャイナ教徒だったのである。 高橋和巳が「日本でただ一人のジャイナ教徒」を(冗談半分に)自称したのは、彼が文学上の師と仰いだ埴谷雄高(はにや ゆたか)の影響であった。 近代日本の最も優れた思想家 と私が考える埴谷雄高は、戦後すぐに書き始めた長編小説『死霊』(*2) を 今も書き続けている。高齢の氏は、おそらくそれを完成させることができないであろうが、その「自序」において、この小説の最終章の場面を予告している。 それは 主人公が語る一つのヴィジョンであって、古代インドの釈迦が 菩提樹の下で悟りを開いた時、もう一人の覚者、大雄のことを思い出す。 そして大雄が瞑想にふける洞窟へ、はるばる会いに行って 対話をかわす、というのである。 この<大雄>こそが ジャイナ教の開祖 マハーヴィーラの漢訳名である。 この二人の対話は問答となり、釈迦は大雄に負けてしまう。 その時、勝った側の大雄の体は灰となって バラバラと崩れ去ってしまうのだった。 ここにおいて釈迦は「実在」の代表であり、大雄は「非在」のシンボルである。 理論闘争においては 非在が勝利するものの、現実に生き残るのは 常に実在の側なのである。 埴谷雄高は、何事もアイマイなままに すませてしまう日本の風土とは対局的に、ものごとを徹底的に、極端にまで考えつめるジャイナ教に、いたく心を惹かれたのであった。人間同士が殺し合うことを いさめるのは、「汝、殺すなかれ」という道徳律であるが、その「非殺生」の戒律を徹底させれば、人間を殺さないばかりでなく、動物はおろか、植物さえも食べることができなくなる。「他の生命を殺さなければ 一つの生命が生きられない」というシステムは 否定されるべきである と。そうした根本の問題まで考えつめるジャイナ教の態度は、「存在の革命」を求める埴谷雄高の志向と 深く結びあうものがあったのであろう。 18年前に、それまで勤めていた設計事務所をやめて、まずは3カ月ばかり旅行をしようと思った時、その行き先にインドを選んだ。そして、インドに行ったら、何よりもジャイナ教の聖地を訪れようと思ったのである。埴谷雄高と高橋和巳が それほどまでに評価する宗教ならば、たとえ建築的には たいしたものがないとしても、その寺院を まわってみたいものだと思った。
その当時ジャイナ教の資料は ほとんど無かったが、それでも 知り得た限りの聖地を訪ねてみたら、たいしたものでない どころの話ではなかった。アーブ山 や ジャイサルメル にはすっかり魅せられ、シャトルンジャヤや ギルナールの「山岳寺院都市」には仰天した。そして何よりも ラーナクプル の寺院には圧倒的な感動を味わったのである。そして、このような寺院が どのようにして生まれたのかを知りたいと思い、それを研究していつか本を書こう と心に決めたのであった。これが、私とジャイナ教の建築との関わりの、そもそもの始まりである。 ( 1994 /08/ 01 )
山岳寺院都市 *
ほとんどの寺院都市が山頂にそびえるのに、ここでは寺院群が谷間に位置するので、緑の多い山々とあいまって、なんとなく日本的な感じがする。この美しい風景が、ジャイナにとっての浄土のイメージに近かったのかもしれない。しかし個々の建物はあまり質が高くはなく、そのスタイルも伝統からややはずれているように見える。ナーグプルからの日帰りが可能。急行バスで3時間半かかってアムラオティに行き、車で2時間かかって到達する。
ジャイナ石窟寺院群 ***
ジャイナの石窟寺院の最高作はエローラーである。仏教、ヒンドゥ教の窟院群から 1kmばかり離れた所に一群をなし、密度高く彫刻されている。たいていの観光客は仏教窟から見始めるので、最後のジャイナ窟では疲れきって、そそくさとすませてしまう人が多い。ジャイナ教に興味のある人は、その順序を逆にするとよい。アウランガーバードからバスかタクシーで日帰り。有名な観光地なのでレストランもある。
ジャイナ石窟寺院
今は小さな村であるが、インド中世建築の発祥地の一つとして重要である。数十の遺構のほとんどはヒンドゥ寺院であるが、ジャイナの窟院と寺院は より古い。窟院は未完だが、天井にまで繊細な彫刻がある。丘の上のメーグティ寺院は南方様式の形成途上にあり、残念ながら上部構造が失われてしまった。
ジャイナ寺院 *
パッタダカルには ヒンドゥの寺院群と離れて、ジャイナ寺院が一つだけ建っている。壁面にあまり彫刻がなく、あっさりしている。バーダーミからアイホーレに行く途中にあり、バーダーミまで 30km、アイホーレまで 25km。アイホーレにもトゥーリスト・バンガローがあるが、バーダーミから日帰りをするのがよい。
ジャイナ石窟寺院 (第4窟) *
実に美しい所である。小さな湖の一方に町が面し、あとの3方を赤い岩山が囲む。 多くの寺院や城址とともに、岩山には4つの石窟寺院が並ぶ。その一つだけがジャイナ教のもので、ティールタンカラ像が刻まれている。ショラープルとガダッグを結ぶローカル鉄道のバーダーミ駅から3km。この地方は大いなる建築遺産をかかえているにもかかわらず、交通、宿泊ともに不便なので、旅行客は少ない。
ヘーマクータ寺院群 *
南インドで最後まで栄えたヒンドゥ王朝の都、ヴィジャヤナガラの都市遺跡には 多くのヒンドゥ寺院にまじって、いくつかのジャイナ寺院がある。ヘーマクータの丘に残るジャイナ寺院群は、創建当初はヒンドゥ教に属していたらしい。バロック的なヴィジャヤナガラ様式よりもずっとシンプルな古式を伝えている。ホスペットから 13kmの地にある遺跡全体は、1日では見切れない。
ブラフマー・ジナーラヤ寺院 **
ガダッグ周辺にはチャルキヤ朝の寺院建築が数多く散在している。そのほとんどはヒンドゥ教に属するが、ラックンディの村に残る 17の寺院のうち最大のものはジャイナ寺院である。南方様式の建物の前面の、大きく庇を張り出した木造風のオープン・マンダパがユニークだ。 柱は、ろくろを回して石を削った円柱である。ガダッグからダンバルとあわせて日帰り 60kmの行程。
チャンドラナータ寺院 *
マンガロールの北 140kmのこのあたりから西海岸様式が始まる。西ガーツ山脈とアラビア海にはさまれて雨が多いので勾配屋根が架かり、ケーララ州では木造となる。この寺院はいくつもの堂が一列に連なり、その前面にスタンバを建てるが、同地のヒンドゥ寺院と比べて彫刻が少ない。
チャトルムカ寺院 **
町の近くの丘の上にチャトルムカ(四面堂)の寺院があり、ここでは各3体ずつ、計 12体のティールタンカラ像が背中あわせの本尊となっている。この向かいの丘には、高さ 13mのゴマテーシュワラ像が 1432年に造像された。近くのヒリヤンガディにはまた、堂々たるマーナ・スタンバを中心にしてジャイナの寺町が形成されている。ムーダビドリから 17km。
チャンドラナータ寺院 ***
この地方のジャイナ教の中心地で、チャンドラナータ寺院のほかにも多くの寺院があり、寺町にはマーナ・スタンバが立ち並ぶ。町はずれには、ジャイナ僧の特異な墓群もある。マンガロールから 35km。この地方はバスの連絡がよいので、カールカルとあわせて楽に日帰りができる。
シャンティーシュワラ寺院 *
ムーダビドリの東方 25kmの山中。寺院の内部には黒大理石による 24体のティールタンカラ像が並ぶが、むしろ屋外のゴマテーシュワラ像が有名である。17世紀の作だが、程度も大きさもシュラヴァナベルゴラやカールカルにだいぶ劣る。
ブラフマデーヴァ・スタンバ *
瓦屋根の堂が建ち並ぶ境内に、特異な搭状の建物がある。ファーガスンはこれを5本柱の堂と書いているが、実は中央の柱はブラフマデーヴァ・スタンバなのである。 これが特別に重要なスタンバであったのか、あとから屋根をかけ、4本柱の建物状に囲ったものであろう。ヴェヌールからさらに 20kmぐらい東にある町の郊外。
ジャイナ寺院群 *
ハレビードは、彫刻の洪水ともいうべき ヒンドゥ教のホイサレーシュワラ寺院で有名だが、少し離れた所に3つのジャイナ寺院がある。いずれも外壁には装飾が少なく、簡素な古形を伝えている。 内部はろくろによる柱が林立し、黒大理石のティールタンカラ像が安置されている。ハッサンに宿をとり、ハレビードとベルールを見てまわると 90kmの行程。
ジャイナ寺院群 **
南インドのジャイナ教の最大の聖地である。大きなタンク(貯水池)をはさんで二つの岩山が向かい合う。ヴィンドヤギリ丘には 981年に単岩に彫刻された、高さ 18mのゴマテーシュワラ像が立ち、12年に 1度の盛大な祭礼が 1993年におこなわれた。寺院群はチャンドラギリ丘の方が重要で、優美なマーナ・スタンバとともに南方様式を見せている。ハッサンの東方 50km。
パンチャクータ寺院 **
この寺院は、5つ(パンチ)の堂が組合わされた構成がなかなか興味深い。門をくぐると2つの堂が向かい合い、その奥に3つの堂がマンダパを共有している。それぞれの堂は別々の本尊を祀っているが、外形的にはよく似た南方様式のヴィマーナである。門の手前にはもう一つシャンティナータ寺院があり、見事な天井彫刻がある。シュラヴァナベルゴラとあわせてハッサンから日帰りをすると、140kmの行程。
ヴァルダマーナ寺院 *
マドラスの西南 70kmのカーンチープラムはヒンドゥ教の寺院で満ちた町であるが、川をへだてたティルッパルッティクンラム村にはジャイナ寺院があり、ジナ・カーンチーとも呼ばれる。そのオープン・マンダパには 17世紀の天井画が鮮やかに残り、ティールタンカラたちの諸場面を描いている。
ジャイナ寺院群と彫刻 *
のどかな村の岩山の周囲に、寺院や石窟、ティールタンカラ像などが散在している。寺院はジャイナには珍しく典型的なドラヴィダ様式で、ゴプラ(寺門)の奥にヴァルダマーナとネミナータの2寺院がある。背後の石窟には壁画も残っている。ヴェッロールとティルヴァンナーマライの中間のポルールから、15kmばかり東北に行ったところにあるが、知る人は少ない。
ジャイナ石窟寺院 *
ごく小さな石窟で、ティールタンカラ像の彫刻もあるが、ここを有名にしているのはアジャンターにも似た古代の天井画である。天女や魚、鳥、蓮池などが描かれ、ジャイナの楽園を表現しているように見えるが、残念なことに剥落が激しい。シッタンナヴァーシャルとは、シッダ(覚者)の住まい の意。プドゥコッタイから 15km。ナールッターマライとコドゥンバルールをあわせて1日の行程。
岩壁彫刻 *
岩山の頂部にヒンドゥ教の未完の石彫寺院があり、少し離れた所にジャイナのティールタンカラ像のレリーフがおびただしく彫られている。異なった宗教がお互いに破壊し合わずに、仲よく共存しているさまは微笑ましい。ティルネルヴェリの北方約 60kmの、南インドらしいのどかな田園風景の中にある。 (『 at 』誌 1995年7月号)
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