TEMPLES at PATTADAKAL
パッタダカル
パッタダカルの寺院群
神谷武夫
南インド、カルナ-タカ州、ムンバイの南東約460km
1987
年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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チャルキヤ朝の首都はバーダーミにあったが王族はパッタダカルの地を好み、ここを「戴冠の都」としていた。この都市に建立された多くの寺院のうち最も雄大なヴィルーパークシャ寺院は8世紀にパッラヴァ朝との戦いに勝利して凱旋した王の名誉を記念すべく、王妃ローカ・マハーデーヴィの命で造営された。この地に遺跡として残る寺院群には南インドの王領各地から集められた石工や彫刻家たちの携えてきた経験と技術が集積している。奇跡的に破壊を免れたパッタダカルの遺跡はまさに「寺院都市」の一例であり、南方型と北方型の両様式の寺院が混在することでも知られている。



チャルキヤ朝の栄枯盛衰

 デカン地方に広大な版図をもち、バーダーミを首都とする強大なチャルキヤ朝が成立したのは6世紀であった。以来、南のパッラヴァ朝と宿命の対決をくりかえし、何度も大戦争を行った。プラケーシン2世の時代の 641年にここを旅した中国僧の玄奘(げんじょう)は、その『大唐西域記』に当時の様子を書き残している。それによれば、土地は肥沃で農業が発展し、家臣は勇敢で主君に忠節を尽くしたという。
 戦闘の折には、配下の兵士や象を率いる将軍が決戦の前に宴を催し、兵士に酒を飲ませて勇を鼓した。当時の習慣だったらしい阿片も吸った兵士たちは、勇猛な象に乗って突進した。敵に後れをとって戦いに敗れるようなことがあると、王は全軍の前で士官に女の衣服を着せる罰を与えた。こうした懲罰は、当時盛んに行われたようである。百戦錬磨の兵士たちにとって女の衣服を着せられることは、死刑にもます不名誉だったにちがいない。

北方型のジャンブリンガ寺院

 チャルキヤ朝とパッラヴァ朝との覇権争いは長くつづいた。一時は首都のバーダーミを奪われたチャルキヤ朝はデカン高原へ後退せざるをえなくなり、バーダーミから 30キロメートル離れたパッタダカルの町を、王家の新たな根拠地とした。チャルキヤ朝の都市のなかでは、バーダーミとアイホーレが中世の建築文化史のうえで初期のものを多く残しているのに対し、パッタダカルの諸寺院はチャルキヤ朝の宗教建築の最盛期をなすもので、それらはインドの東部や中部の寺院建築に大きな影響を与えることになった。
 パッタダカルの大寺院が造営されてからほぼ 10年後の8世紀半ば、この地方を 200年間支配してきたチャルキヤ朝も、ついにラーシュトラクータ朝によって滅ぼされるのである。

戦勝を記念する寺院

 ローカ・マハーデーヴィ王妃が、パッタダカルでも群を抜いて雄大なヴィルーパークシャ寺院の造営を命じたのは、夫ヴィクラマーディチ2世(在位 733〜744頃)がパッラヴァ朝との戦いに圧勝したのを記念してのことであった。この寺院は当初、王妃の名をとってローケーシュワラ寺院とよばれた。ここにはヴィルーパークシャ(シヴァ神)が祀られており、装飾は典雅で、3段構成の荘厳なヴィマーナ(本堂)が戦勝を記念して寺院群の中にそびえている。

  
ヴィルーパークシャ寺院と、マリカールジュナ寺院

 そのすぐ後ろにあるマリカールジュナ寺院はヴィルーパークシャ寺院をやや小型にしたもので、やはり王の戦勝記念に第2王妃が造営したとされる。 どちらも屋根の形は、水平層を階段状に積み重ねる形式で、「ドラヴィダ式」ともいわれる南方型のつくりとなっている。
 勝者であるヴィクラマーディチャ2世は、敗者のパッラヴァ朝の人々に同情は示さなかったものの、その建築文化の高さには感銘を受けた。碑文によれば、帰国後はグンダという名の建築家を招聘(しょうへい)するとともに、南部の石工や工匠たちを多く駆り集めたという。 こうしてパッタダカルの寺院建築は、パッラヴァ朝の首都カーンチープラムにあったカイラーサナータ寺院や マハーバリプラム の諸寺院などの影響を強く受けている。石工や彫刻家たちは寺院の柱や壁面、天井などに『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』などに材を取って、さまざまな場面を彫刻したのである。
 またヴィルーパークシャ寺院には、ヴィマーナの手前に列柱ホールのマンダパ(拝堂)があり、その三方に入り口のポーチが設けられている。付け柱で区画された壁面には、チャイティヤ窓装飾の絡み合った破風(はふ)のついた壁龕(へきがん)が窓と交互に設けられ、みごとな彫像が飾られた。背後の3段に分節化された南方型のヴィマーナの塔状部と、これはよく調和している。


パッタダカルの寺院群の配置図 8世紀
(From "Encyclopaedia of Indian Temple Architrecture, South India")


南方型と北方型の混在

 パッタダカルとは「ルビーの王冠の都」を意味する。ヴィルーパークシャ寺院を造営したチャルキヤ朝の人々は、以前から王家の戴冠式をここで行っていたのである。その都も今ではごく小さな村にすぎず、ただ石造の寺院群だけが遺跡として残っている。ここには 7世紀から8世紀にかけて、大小8つのヒンドゥ寺院と、多くの小祠堂が建設された。また、市域の外の離れた所には ジャイナ教の寺院 があるが、これは1世紀ばかりのちのラーシュトラクータ朝時代に建てられたものである。そのマンダパではガルバグリハ(聖室)の扉口の両側に、大きな象の前半部が壁から突出して彫刻されているのがめずらしい。
 パッタダカルのヒンドゥ寺院はすべてシヴァ神に献じられていた。3つの大寺院(ヴィルーパークシャ、マリカールジュナ、サンガメーシュワラ)は明らかに南方型の様式で建てられていて、ほかの5つの寺院(ガラガナータ、カーシーヴィシュワナータ、ジャンブリンガ、カダシッデーシュワラ、それにパーパナータ)には、のちの北方型のシカラに似た塔が立ち上がっている。なかにはさまざまな地域のスタイルが混在している寺院もあり、このことは、まだ北方型と南方型の様式が確立していず、チャルキヤ朝の王が帝国の各地から工匠を集めていたことを意味する。

Elephant  
ジャイナ寺院の象の彫刻と、パーパナータ寺院

 寺院の集合地区からやや南に離れた所に、邪悪なものを退治する神、パーパナータ(シヴァ神)を祀った寺院がある。 建設が始まったのは 720年頃であるが、いったんできあがった「聖室+マンダパ」の手前に、さらに広いマンダパが増築されて、全長が 28メートルにもなる大きな寺院となった。そのために、もともとは寺院と向かい合って屋外にあったナンディ像が新しいマンダパの内部に取り込まれてしまった。
 パーパナータ寺院の外壁は付け柱で区切られ、絡み合ったチャイティヤ窓型の破風をいただく壁龕が並んでいる。各壁龕には『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』の諸場面を描くみごとな彫刻パネルが取り付けられている。繞道(にょうどう)で囲まれた聖室の上には高い塔が立ち上がり、頂部のアーマラカ(冠石)は失われてしまったが、全体は北方型のシカラで、各面の中央部が少し突き出て縦の線を強調し、全体の垂直性を高めている。しかし外周壁の上の立ち上がり部には、南方型のミニチュア祠堂が立ち並んでいて、南北の様式が未分化に混在していたことを示している。

ガラガナータ寺院の壁面詳細


ナンディ像への朝のプージャー

 寺院群の集中する遺跡へは、北西と南東のふたつの入り口から入ることができる。公園のように整備された構内には北から南へと、ほぼ時代順に、また小寺院から大寺院へと並んでいる。その列の東側と西側には多くの小祠堂が半ば廃墟となって並んでいるが、これらもまた初期のチャルキヤ様式で建てられていた。
 マルプラバ川のほとりの南東の入り口は、ヴィルーパークシャ寺院への門ともなっている。この寺院の境内に入ると、真っ先に目に入るのは、本堂と向かい合ったナンディ堂である。 これは本堂に釣り合う大きさの開放的なマンダパで、宮廷の工匠が緑がかった石で建てた。堂内にはシヴァ神の忠実な供、聖牛ナンディの黒光りする力強い彫像が置かれている。 今も朝早くこの場所に信者が集まり、聖牛の彫像に潅水(かんすい)の儀式を行う。神像へのこうした礼拝儀礼はプージャーとよばれる。

ナンディにお参りする人々

 バーダーミの石窟寺院群と同様、パッタダカルの寺院群もイスラム教徒による大きな攻撃にさらされずにすんだ。聖域がほとんど無傷で残った結果、パッタダカルは今にいたるまで、まさに「寺院都市」としての景観を残している。ここには中世インドの建築様式の南方型と北方型とが混在していて、じつに興味深い。けれどもパッタダカルまで足をのばす異邦人はまれである。 古代を思わせる石灰石の岩山や峡谷、特異な形をした岩壁の風景の中に、ひっそりと眠る美を夢見つづけた者だけがこの地を訪れる。


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