パッタダカルの寺院群 |
チャルキヤ朝の首都はバーダーミにあったが王族はパッタダカルの地を好み、ここを「戴冠の都」としていた。この都市に建立された多くの寺院のうち最も雄大なヴィルーパークシャ寺院は8世紀にパッラヴァ朝との戦いに勝利して凱旋した王の名誉を記念すべく、王妃ローカ・マハーデーヴィの命で造営された。この地に遺跡として残る寺院群には南インドの王領各地から集められた石工や彫刻家たちの携えてきた経験と技術が集積している。奇跡的に破壊を免れたパッタダカルの遺跡はまさに「寺院都市」の一例であり、南方型と北方型の両様式の寺院が混在することでも知られている。 |
デカン地方に広大な版図をもち、バーダーミを首都とする強大なチャルキヤ朝が成立したのは6世紀であった。以来、南のパッラヴァ朝と宿命の対決をくりかえし、何度も大戦争を行った。プラケーシン2世の時代の 641年にここを旅した中国僧の玄奘(げんじょう)は、その『大唐西域記』に当時の様子を書き残している。それによれば、土地は肥沃で農業が発展し、家臣は勇敢で主君に忠節を尽くしたという。
チャルキヤ朝とパッラヴァ朝との覇権争いは長くつづいた。一時は首都のバーダーミを奪われたチャルキヤ朝はデカン高原へ後退せざるをえなくなり、バーダーミから 30キロメートル離れたパッタダカルの町を、王家の新たな根拠地とした。チャルキヤ朝の都市のなかでは、バーダーミとアイホーレが中世の建築文化史のうえで初期のものを多く残しているのに対し、パッタダカルの諸寺院はチャルキヤ朝の宗教建築の最盛期をなすもので、それらはインドの東部や中部の寺院建築に大きな影響を与えることになった。 ローカ・マハーデーヴィ王妃が、パッタダカルでも群を抜いて雄大なヴィルーパークシャ寺院の造営を命じたのは、夫ヴィクラマーディチ2世(在位 733〜744頃)がパッラヴァ朝との戦いに圧勝したのを記念してのことであった。この寺院は当初、王妃の名をとってローケーシュワラ寺院とよばれた。ここにはヴィルーパークシャ(シヴァ神)が祀られており、装飾は典雅で、3段構成の荘厳なヴィマーナ(本堂)が戦勝を記念して寺院群の中にそびえている。
ヴィルーパークシャ寺院と、マリカールジュナ寺院
そのすぐ後ろにあるマリカールジュナ寺院はヴィルーパークシャ寺院をやや小型にしたもので、やはり王の戦勝記念に第2王妃が造営したとされる。 どちらも屋根の形は、水平層を階段状に積み重ねる形式で、「ドラヴィダ式」ともいわれる南方型のつくりとなっている。
パッタダカルとは「ルビーの王冠の都」を意味する。ヴィルーパークシャ寺院を造営したチャルキヤ朝の人々は、以前から王家の戴冠式をここで行っていたのである。その都も今ではごく小さな村にすぎず、ただ石造の寺院群だけが遺跡として残っている。ここには 7世紀から8世紀にかけて、大小8つのヒンドゥ寺院と、多くの小祠堂が建設された。また、市域の外の離れた所には ジャイナ教の寺院 があるが、これは1世紀ばかりのちのラーシュトラクータ朝時代に建てられたものである。そのマンダパではガルバグリハ(聖室)の扉口の両側に、大きな象の前半部が壁から突出して彫刻されているのがめずらしい。
ジャイナ寺院の象の彫刻と、パーパナータ寺院
寺院の集合地区からやや南に離れた所に、邪悪なものを退治する神、パーパナータ(シヴァ神)を祀った寺院がある。 建設が始まったのは 720年頃であるが、いったんできあがった「聖室+マンダパ」の手前に、さらに広いマンダパが増築されて、全長が 28メートルにもなる大きな寺院となった。そのために、もともとは寺院と向かい合って屋外にあったナンディ像が新しいマンダパの内部に取り込まれてしまった。
寺院群の集中する遺跡へは、北西と南東のふたつの入り口から入ることができる。公園のように整備された構内には北から南へと、ほぼ時代順に、また小寺院から大寺院へと並んでいる。その列の東側と西側には多くの小祠堂が半ば廃墟となって並んでいるが、これらもまた初期のチャルキヤ様式で建てられていた。
バーダーミの石窟寺院群と同様、パッタダカルの寺院群もイスラム教徒による大きな攻撃にさらされずにすんだ。聖域がほとんど無傷で残った結果、パッタダカルは今にいたるまで、まさに「寺院都市」としての景観を残している。ここには中世インドの建築様式の南方型と北方型とが混在していて、じつに興味深い。けれどもパッタダカルまで足をのばす異邦人はまれである。 古代を思わせる石灰石の岩山や峡谷、特異な形をした岩壁の風景の中に、ひっそりと眠る美を夢見つづけた者だけがこの地を訪れる。 |