インドの 石 |
世界の石造文化圏としては、ヨーロッパ、中東、インドの3大地域が傑出している。中東とヨーロッパの石造建築の源流は エジプトとシリアにあり、そこは 砂漠の多い乾燥地域であるゆえに 木材に乏しく、それが レンガや石による組積造文化を築いた。それを受け継いだ ローマとペルシアが ヨーロッパと中東に石造建築を伝えたわけである。
その 失われた古代の木造建築と 中世の石造建築との間に橋をかけるのが、「石窟寺院」である。日本語では「石の建築」と言うが、英語では Stone Architecture と Rock Architecture を截然と区別する。 前者は 運搬することのできる大きさにカットした「切石」を積みあげる「石造建築」をさし、後者は 現地の岩山を掘削・彫刻した「石窟寺院」をさす。
石窟寺院は インド人が発明した形式ではなく、エジプトから アナトリアやペルシアへと伝わった洞窟墳墓の形式が、さらにインドに伝来して 最も建築的な構成を とるに至ったものである。 これが 仏教と共に中国に伝えられると、インド以上に 数多くの石窟寺院が開窟されたものの、インドとは様相が違う。
スダーマ窟のファサードと、ゴピー窟の入口に刻まれた碑文 インド最古の石窟寺院は、東インドの バラーバル丘にある。ここには 30m×150m ほどの巨大な岩が ゴロンと転がるように横たわり、ここに4窟が彫られた。 壁に残る碑文によれば、紀元前 250年と 257年に マウリヤ朝のアショーカ王が アージーヴィカ教の僧のために、雨季の修道所として造営させたという。仏教の保護者として名高い アショーカ王も、この頃は アージーヴィカ教に肩入れをしていた。
平面図は、ロマース・リシ窟の入口部分と 隣のスダーマ窟の内部とを 合成してある。まずAの進入路を掘り、礼拝室兼寝室と思われる B室(約 6×10m)を掘り出し、さらに 円形のストゥーパを祀ったと思われるC室を掘り出した。 硬い花崗岩(日本の御影石)を ノミだけで彫って これだけの空間をつくるのは、難事業であったことだろう。
では、なぜ前3世紀に 突然 最初の石窟寺院がつくられたのだろうか。インドの大部分を 初めて統一したマウリヤ帝国は、それに ふさわしいモニュメントを必要としていただろう。そこへ、アレクサンドロス大王によって滅ぼされたペルシア帝国の工匠たちが 新しい職場を求めて来印し、アショーカ王に雇われて 西方の石窟技術をインドにもたらした、という説が有力である。内部の壁や天井が「本磨き」になっているのも、それまでのインドには なかった ペルシアの技術である。
それら 何の装飾もない シンプルな石窟群の中で、ロマース・リシ窟のみが Dの入口部分に、細かく彫刻されたファサードを備えている。後のバージャーをはじめとする 大石窟寺院のファサードの原形となるものだが、ここには 実に謎が多い。
おそらく これは ペルシアの組積造建築の形を真似して アーチ形を多用し、本来のアーチの推力に対抗するための 内転び柱を模しているのだろう。そして 内部のC室がドーム天井、B室がトンネル・ヴォールト天井をしているのも、西方の レンガ造や石造建築の形態的模倣である(古代の木造の国 インドには、アーチやドームは なかった)。
つまり、ここに表現されたファサードというのは、現実には存在しえない 幻想的な木造建築の姿として 岩の上に刻まれた、「岩の建築」なのである。 この架空の、摩訶不思議なファサードのインパクトが あまりにも強かったので、これが 以後のインドにおける 仏教チャイティヤ窟のファサード・デザインを支配することになり、さらに この原理を内部空間にまで延長することによって、いっそう幻想的な石窟空間を 現出させるのである。
さて、バラーバルの石窟寺院の 1,900年後、インドでは「石造建築」の発展が 頂点に達していた。その代表作として 誰もが思い浮かべるのが、1654年竣工の タージ・マハル廟である。インドのみならず、おそらく 世界で最も有名な建築作品であろう。
アーグラのタージ・マハル廟
あの廟が それほどに人を惹きつけるのには 多くの原因があろうが、何よりも 頂部から足元まで総て白大理石の「白亜の建築」であることであって、墓であるにもかかわらず、その純粋で清浄な姿は、天上の宮殿のように見えるらしい。
デリーのフマユーン廟 『インド建築案内』の 英訳版 がインドで出版された時に、そのレセプションにきてくれた修復建築家の R・ナンダ氏が、彼が修復を手がけた、やはり白大理石のドーム屋根のフマユーン廟に案内してくれた。 そこで 彼に長年の疑問をぶつけてみたところ、
インドの石窟寺院は 堅固な岩山の存在によって可能となり、インドの石造建築は 良質な石材によって支えられてきた。白大理石のドーム屋根というのは、インドにしか 存在しないのである。 (「建築と社会」2010年7月号) |