STONE in INDIAN ARCHITECTURE
インドの 石
神谷武夫
バラーバル丘の岩山

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石造文化圏

 世界の石造文化圏としては、ヨーロッパ、中東、インドの3大地域が傑出している。中東とヨーロッパの石造建築の源流は エジプトとシリアにあり、そこは 砂漠の多い乾燥地域であるゆえに 木材に乏しく、それが レンガや石による組積造文化を築いた。それを受け継いだ ローマとペルシアが ヨーロッパと中東に石造建築を伝えたわけである。
 それに対して、インドは 古代においては 長く木造文化圏に属し、石が建築に用いられるようになるのは、国土が次第に乾燥化して 木材が乏しくなる5世紀以後のことである。そのために 石造文化の時代になっても 石を木のように用い、それが インド建築の性格を規定することになる。

ロマース・リシ窟のファサード、バラーバル丘

 その 失われた古代の木造建築と 中世の石造建築との間に橋をかけるのが、「石窟寺院」である。日本語では「石の建築」と言うが、英語では Stone Architecture と Rock Architecture を截然と区別する。 前者は 運搬することのできる大きさにカットした「切石」を積みあげる「石造建築」をさし、後者は 現地の岩山を掘削・彫刻した「石窟寺院」をさす。
 英語では Cave Temple あるいは Rock Cut Temple なので「洞窟寺院」あるいは「岩窟寺院」の意だが、漢語による「石窟寺院」の訳が定着してしまい、石と岩の区別が あいまいになってしまった。 材質は同じであっても、岩山を掘削した洞窟は「石造建築」とは言わない。
 本稿では「インドの石」の一端を理解するために、インド最古の石窟寺院と 近世の石造建築という、両端のトピックを取り上げることにしよう。

 石窟寺院は インド人が発明した形式ではなく、エジプトから アナトリアやペルシアへと伝わった洞窟墳墓の形式が、さらにインドに伝来して 最も建築的な構成を とるに至ったものである。 これが 仏教と共に中国に伝えられると、インド以上に 数多くの石窟寺院が開窟されたものの、インドとは様相が違う。
 インドには岩山が多く、特に中部のデカン高原には 堅固な岩山が至る所に露出しているので、石窟寺院の格好の舞台となった。ところが 中国では地質が柔らかく 岩山が少ないので、インドのように 柱形や梁形を くっきりと彫刻するのに適さず、極端に言えば、今にも崩れ落ちそうな「土砂山」の洞窟が多い。そこには壁画は豊富に描かれたが、インドのような 高度に建築的な姿をとるものは ほとんどない。それを「石窟寺院」と呼ぶのは、ほとんど語義矛盾である。

  
スダーマ窟のファサードと、ゴピー窟の入口に刻まれた碑文


インドの石窟寺院

 インド最古の石窟寺院は、東インドの バラーバル丘にある。ここには 30m×150m ほどの巨大な岩が ゴロンと転がるように横たわり、ここに4窟が彫られた。 壁に残る碑文によれば、紀元前 250年と 257年に マウリヤ朝のアショーカ王が アージーヴィカ教の僧のために、雨季の修道所として造営させたという。仏教の保護者として名高い アショーカ王も、この頃は アージーヴィカ教に肩入れをしていた。

ロマース・リシ窟と スダーマ窟の平面図、バラーバル丘

 平面図は、ロマース・リシ窟の入口部分と 隣のスダーマ窟の内部とを 合成してある。まずの進入路を掘り、礼拝室兼寝室と思われる B室(約 6×10m)を掘り出し、さらに 円形のストゥーパを祀ったと思われる室を掘り出した。 硬い花崗岩(日本の御影石)を ノミだけで彫って これだけの空間をつくるのは、難事業であったことだろう。
 こうして西方の墳墓が インドでは寺院となり、中に入ると ヒヤリとする涼しい空間が 酷暑のインドの風土にマッチし、前1世紀から 各地で大々的に開窟されるようになる。

スダーマ窟の内部、バラーバル丘

 では、なぜ前3世紀に 突然 最初の石窟寺院がつくられたのだろうか。インドの大部分を 初めて統一したマウリヤ帝国は、それに ふさわしいモニュメントを必要としていただろう。そこへ、アレクサンドロス大王によって滅ぼされたペルシア帝国の工匠たちが 新しい職場を求めて来印し、アショーカ王に雇われて 西方の石窟技術をインドにもたらした、という説が有力である。内部の壁や天井が「本磨き」になっているのも、それまでのインドには なかった ペルシアの技術である。

 それら 何の装飾もない シンプルな石窟群の中で、ロマース・リシ窟のみが の入口部分に、細かく彫刻されたファサードを備えている。後のバージャーをはじめとする 大石窟寺院のファサードの原形となるものだが、ここには 実に謎が多い。
 一見 当時の木造建築を 忠実に模しているように見えるので、美術史家たちは 皆そう思い込んでしまったが、建築家の目から見れば、こんな木造建築は ありえない。左右の2本の柱は 木造にしては太すぎるし、梁が水平でなく アーチ状をしているのも、木造建築として ありえない。屋根が尖頭アーチ状をし、庇の下部を引っ張って、雨が壁面にあたるように 引き寄せているのも 不可解である。

ロマース・リシ窟のファサード詳細


ペルシアとリュキアの影響

 おそらく これは ペルシアの組積造建築の形を真似して アーチ形を多用し、本来のアーチの推力に対抗するための 内転び柱を模しているのだろう。そして 内部のC室がドーム天井、B室がトンネル・ヴォールト天井をしているのも、西方の レンガ造や石造建築の形態的模倣である(古代の木造の国 インドには、アーチやドームは なかった)。
 さらに問題なのは、三角切妻ではなく 尖頭アーチ状をした屋根構造であって、ここでは詳しく述べる余裕がないが(興味のある方は このHPの中の「リュキア建築紀行」をお読みいただきたい)、アレクサンドロス大王の東征に伴って伝えられた リュキアの石棺 および石窟墓の造形の影響だと考えられる。

リュキアの石窟墓

 つまり、ここに表現されたファサードというのは、現実には存在しえない 幻想的な木造建築の姿として 岩の上に刻まれた、「岩の建築」なのである。 この架空の、摩訶不思議なファサードのインパクトが あまりにも強かったので、これが 以後のインドにおける 仏教チャイティヤ窟のファサード・デザインを支配することになり、さらに この原理を内部空間にまで延長することによって、いっそう幻想的な石窟空間を 現出させるのである。
 ロマース・リシ窟のファサードは その試作品として、アショーカ王の後継王の命によって、前 2世紀頃に彫刻されたのだと思う。

エローラーの仏教第 10窟の内部


白大理石のドーム屋根

 さて、バラーバルの石窟寺院の 1,900年後、インドでは「石造建築」の発展が 頂点に達していた。その代表作として 誰もが思い浮かべるのが、1654年竣工の タージ・マハル廟である。インドのみならず、おそらく 世界で最も有名な建築作品であろう。
 ある大学で「芸術学」として建築史を教えていた時、教科書に使っていた拙著 『インド建築案内』の中から建物を一つ選び、それをモチーフにして 自由なテーマで絵を描くように という夏休みの課題を出したら、一般学生の約半数が タージを選んで絵を描いてきた。建物を選ぼうと あの本をパラパラめくっていくと、大多数の学生は、タージの写真に 目が釘付けになるらしいのである。

  
アーグラのタージ・マハル廟

 あの廟が それほどに人を惹きつけるのには 多くの原因があろうが、何よりも 頂部から足元まで総て白大理石の「白亜の建築」であることであって、墓であるにもかかわらず、その純粋で清浄な姿は、天上の宮殿のように見えるらしい。
 私の長年の疑問は、もし白亜の殿堂が それほど魅力なのなら、なぜ権力者たちは 世界中の歴史的モニュメントを そう造らなかったのだろうか、ということだった。宗教建築であれ宮殿建築であれ 白亜の殿堂にしていれば、インドのシャー・ジャハーン帝のように 世界中の人々から賞賛されたであろうに。私自身も設計時に しばしば石材業者に相談してみたのだが、彼らは、雨や酸に弱い白大理石を 外部に用いることはできない、もし用いれば たちまち汚く見苦しくなると言って、実例写真まで見せるのが常だった。
 では、最も汚れやすい部位のドーム屋根に 白大理石を用いたタージは、毎年 あの巨大な建物に足場をかけて 磨き直していたとでも いうのだろうか。

  
デリーのフマユーン廟

 『インド建築案内』の 英訳版 がインドで出版された時に、そのレセプションにきてくれた修復建築家の R・ナンダ氏が、彼が修復を手がけた、やはり白大理石のドーム屋根のフマユーン廟に案内してくれた。 そこで 彼に長年の疑問をぶつけてみたところ、

「フマユーン廟や タージのドームを 磨き直したことなど一度もない。風雨で汚くなるのは、イタリアのカララ産を はじめとする 西方の大理石であって、インドの マクラナ産や クンバリヤー産の大理石は もっと上質である」と いうことだった。

 インドの石窟寺院は 堅固な岩山の存在によって可能となり、インドの石造建築は 良質な石材によって支えられてきた。白大理石のドーム屋根というのは、インドにしか 存在しないのである。

(「建築と社会」2010年7月号)


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