HINDU ARCHITECTURE
ヒンドゥ建築
神谷武夫
ガンガイコンダチョーラプラム
(「ビジュアル版・建築入門」第1巻 彰国社刊 より
  この本は マフィアの圧力により、出版されていません )

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 ヒンドゥ教はインド教とも呼ばれるように、インドの民族宗教であり、彼らはヒンドゥ(教徒)になるのではなく、ヒンドゥとして生まれる。もともとヒンドゥというのは ペルシア人が東方の人々をさして、その河の名によってシンドゥ(英語でインダス)と呼んだのであって、そこからSが落ちて ギリシア語のインドス(インド)や ペルシア語のヒンドゥスターン(ヒンドゥの国)という言葉を生み、その宗教をヒンドゥ教、言語をヒンディ語と呼ぶようになったのである。宗教とはいっても 西欧的な宗教の概念とは異なり、もっと広義の、社会的な習慣や儀礼までも包み込んだ、いわば「インド人の生活体系」ともいうべきものである。


1. ヒンドゥ建築とは何か

 ヒンドゥ教は キリスト教やイスラム教のような開祖というものを持たず、広大なインド各地の土俗信仰や部族神まで すべてを包摂していて、その個々の内容はお互いに矛盾しさえする。ヒンドゥによれば 仏教やジャイナ教でさえもヒンドゥ教の一派であるにすぎない。
 建築においても、同じインドの風土の中で生れ育った仏教やジャイナ教の建築は ヒンドゥ教の建築と大きなちがいはなく、その構造形式や構成要素の形は まったく同一だといっても差し支えない。とすれば「ヒンドゥ建築」とは「インド建築」のことであり、事実ネパールや東南アジアでは 仏教とヒンドゥ教とは ほとんど一体化して伝えられたから、その建築にもほとんど差異がないのである。
 しかし、ヒンドゥ建築を地理的にインド建築と位置付けると、インドの外(東南アジア)には ヒンドゥ建築は存在しえないことになるので、ここでは地理的な定義ではなく、現代においてヒンドゥ教と呼ばれる宗教の建築を 仏教、ジャイナ教、イスラム教と区別して 歴史的に見ていくことにしよう。この場合には住居や宮殿、城郭、その他の世俗建築は 除外されてしまうことになる。 つまり、ここにいうヒンドゥ建築とは ヒンドゥ寺院のことである。


2. ヒンドゥ寺院の本質


ヒンドゥ寺院の基本的な平面と断面、マリカールジュナ寺院 8世紀 アイホーレ
(From "Encyclopaedia of Indian Temple Architecture" II-1, 1988)

 ヒンドゥ教の前身を バラモン教と呼ぶ。人を生まれによって四つの階層に分け、最上層のバラモン(僧侶階級)だけが 神と人の間をとりもつことができるとし、神への生贄を中心とする祭儀宗教であった。前6世紀頃にカースト制度や供犠を否定して 無神論の宗教として成立したのが 仏教やジャイナ教であったから、それらの宗教の寺院は基本的に僧が修行をし、人々に教えを説く場である。
 しかしバラモン教が高度に発展し、民間信仰を取り入れながら理論武装して 紀元前後に再生したヒンドゥ教は、あくまでも『ヴェーダ』以来の神々を奉ずる 汎神論的な宗教であった。ヒンドゥ寺院は 必ずそうした神々の一人を本尊として祀り、あたかも実在する人格のようにこれを もてなすのである。したがってヒンドゥ寺院の本質は「神の家」である。それはキリスト教でいうような 比喩的な意味ではなく、神が住まい、食事をし、睡眠をとる場である。
 神をかたどり、そこに神が宿ることになる像を安置する部屋を ガルバグリハ(聖室)と呼ぶが、これは生命が宿る「胎(子宮)」を意味する。その前面に 神をもてなし礼拝するマンダパ(拝堂)があって、<ガルバグリハ+マンダパ>というのが ヒンドゥ寺院の基本形である。


3. 石窟寺院と石彫寺院

未完の石彫寺院、ピダーリ・ラタ、マハーバリプラム

 古代インドには 今よりも木材が豊富であったと考えられ、寺院も木造が主流であったが、それらは何一つ残っていない。現在見ることのできる古代建築は、岩山に横穴を穿って 建築的に彫刻をほどこした石窟寺院である。この形式は仏教寺院が先行し、前2世紀からインド中に数百の石窟寺院をつくった。
 ヒンドゥによる最古のものは グプタ朝 5世紀のウダヤギリに開窟された小石窟群で、ここには最初期のヒンドゥ彫刻も多く見られる。この時代に石造と木造の混構造を脱した 完全な石造建築も建てられ始めるので、石窟寺院と石造寺院とは手を携えて発展していくことになる。<ガルバグリハ + マンダパ>の平面構成も そのプロセスで確立し、7〜8世紀のエローラーでは ほとんどの石窟がその構成をとる。
 一方、ヒンドゥはすべての造形芸術の中で 何よりも彫刻を好んだので、建築をも彫刻作品のように造ろうとした。こうして岩山を彫刻して造られた丸彫り型の単岩寺院を 石彫寺院と呼ぶ。7世紀のマハーバリプラムで始まった石彫寺院は8世紀のエローラーにおけるカイラーサ寺院で 絶頂を迎えることになる。インド建築のこうした彫刻的性格は 以後の石造寺院においても 根本的な特徴をなすのである。


4. 寺院を荘厳する方法

五堂形式のゴンデーシュワラ寺院、平面図、シンナール
(From the "Mediaeval Temples of the Dakhan" by Henry Cousens, 1931)

 最も簡素なヒンドゥ寺院にはマンダパがなく、単純な聖室にポーチがついただけのものだったが、まもなく<ガルバグリ + マンダパ>の構成が確立すると、それは次第に規模を拡大していく。神の眠るガルバグリハは 窓のない厚い壁で囲まれた正方形の聖室であるから、これ自体が巨大化することはないので(奈良の大仏のような巨大な本尊が造られることもない)、その周囲に 礼拝のための繞道をめぐらせて平面を広げる。聖室の上部は 次第に高く塔状に石が積まれ、彫刻的な威容を誇ることになる。マンダパも基本的には正方形の広間で4本柱が立つことが多いが、広い列柱ホールとなることもある。
 寺院を荘厳するには、マンダパの数をふやして前面に連続させる。時には壁のない柱だけのオープン・マンダパを建て、ポーチを付け、さらにシヴァ神の乗り物である ナンディ(牡牛)のための堂まで一列に並べる。これはガルバグリハが神の住まいとして、戸締りのための出入り口を前面にのみ備えるために 一方向性をもってしまうためである。この制約によって 本堂が四方に広がることができないので、さらに荘厳するには対角上の四方に独立小祠堂を建てて 五堂形式(パンチャーヤタナ)とするのである。


5. 北方型と南方型

北方型のヴィシュワナータ寺院、カジュラーホ

 ヒンドゥの寺院建築が ヨーロッパや中東における石造建築に伍して大発展をとげた中世に、その様式は大きく 北方型と南方型に分化した。そこには言語系統を異にする 北のインド・アーリヤ民族と南のドラヴィダ民族との嗜好の差異が反映しているのだろう。
 その違いを端的に示すのは、聖室の上に立ち上がる塔状部のデザインである。北方型では塔状部が砲弾状をなして高く伸び上がり、これをシカラと呼ぶ。シカラの上には聖なる果実であるアンマロクをかたどった 溝つき円盤・アーマラカが戴り、その上に水瓶形の頂華(カラシャ)を載く。これと自己相似形の小シカラが 多数積み重なって大きなシカラを形成するという、複雑な造形をなす。
 これに対して南方型では ミニ祠堂群が横に並んで層をつくり、この水平層が階段状に積み重なって ピラミッド型の塔状部を形成する。頂部には半球形 あるいは八角球形の大きな冠石を戴き、南ではこの部分のみをさしてシカラ(サンスクリット語で山頂の意)と呼ぶ。 南方型の中では カルナータカ地方が星型プランや、多数のガルバグリハが一つのマンダパを共有するという独特な形式を生み、その塔状部の造形も北方型と南方型の中間的な姿を見せている。


6. 風土との対応

ヒマラヤの木造寺院、スングラ

 インド亜大陸は 全体としてモンスーン的風土に属しているが、その広大な地理的広がりは ヒマラヤの寒冷地から 大砂漠をかかえる西インド、亜熱帯の南インドまでの多様性を抱えている。そうした気候帯に応じて ヒンドゥ寺院にもさまざまなバリエーションが生ずるが、その変化形をつくる第一の要素は 建設材料である。中央部のデカン高原には堅固な岩山が多いので 石窟寺院の最多地域となった。
 西方のインダス流域地方と東方のガンジス・デルタ地域では 良質な石材がとれないので、インダス文明の昔からレンガ造の建物を主とした。粘土に彫刻をほどこして焼いたテラコッタ・パネルで装飾された ベンガル地方のレンガ造寺院は、村々をベンガラ色に彩っている。
 古代の木造建築の流れをくむのは 降雨量が多くて樹木に恵まれたヒマラヤ地方と、最南のケーララ地方である。とりわけヒマーチャル・プラデシュ州には 円錐形や入母屋造りの屋根を戴く木造寺院が、インド平原の石造寺院とはまったく異なった造形を見せている。しかし、その根底にあるのは<ガルバグリハ+マンダパ>の構成であって、小さな聖室の上に高く建つ木造の「シカラ」が、神の居場所を明示していることに かわりはない。


7. インド亜大陸の外へ

ロロジョングラン寺院、プランバナン(ジャワ島)

 東南アジアへの文化の伝播は 主に貿易活動を通じて行われ、ヒンドゥ建築は仏教建築と区別ない形で ビルマ(ミャンマー)、クメール(カンボジア)、チャンパ(ベトナム)、ジャワ島やバリ島(インドネシア)へと伝えられた。その過程で 現地の伝統や風土に応じた種々の変容をとげることになる。
 まず代表的なものとして シヴァ神に献じられたジャワのロロ・ジョングラン寺院が挙げられよう。ジャワでは往古より祖先崇拝が行われていたので、神の家としての寺院が、祖先を祀る廟の性格をあわせもった。そのためか、マンダパをもたずにポーチのみをつけて 基壇の中央に建つ寺院が多い。塔状部は 水平層が階段状に積み重なる南方型に基づいている。
 クメール的変容の代表はアンコール・ワットで、ここでは神王(デーヴァラージャ)思想による 王廟と寺院の一体化が行われ、インドのヒンドゥ寺院には見られない巨大な境内が マンダラ図形のように構成された。それを可能にさせたのはジャイナ教寺院で発展した、四方に開かれた四面堂形式の伝播である。この四面堂としてのガルバグリハには ヴィシュヌ神が祀られていたらしい。ここの塔状部は砲弾形の輪郭をした北方型に 原型をもつと考えられよう。


参考文献


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