第4章
WESTERN AMERICA
アメリカ 西部

神谷武夫


タリアセン・ウェスト

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アリゾナビルトモアホテル

ARIZONA BILTMORE HOTEL, 1927, Phoenix

ホテル  ホテル
アリゾナ・ビルトモア・ホテル1927

 アリゾナ州の州都、フィーニクス(フェニックス)に建てられたホテルで、タリアセン・ウェストを訪ねるためには、ここに宿泊することになる。しかし、ライトがこのホテルの設計にどこまで係わったのかは明らかでない。もと オウク・パークでのドラフトマンだったアルバート・C・マッカーサー(Albert Chase McArthur)が独立して請けた仕事で、ライトのカリフォルニアでのテキスタイル・ブロックの仕事を受け継ぐために、1928年にライトに「設計アドヴァイザー」になってもらったのだと言う。 ライトはその年、再婚相手のオルギヴァンナと二人の娘(スヴェトラーナとイオヴァンナ)を連れて、初めてアリゾナを訪れ、冬から夏にかけて半年を 砂漠の地に滞在した。

 ホテルの骨子は 帝国ホテルを経験したライトの指導のもとに設計されたが、当然 すべてを意のままにはできなかったので、ライトはこのホテルのデザインに あまり満足しなかったらしい。それでも 安い材料を用いて、長大なロビーやレストラン、バーなど、高級ホテルに近い質を実現したとは言えるし、カリフォルニアでのテキスタイル・ブロックの構法、仕上げをここに適用することもできた。そして、当時 ウィスコンシンで四面楚歌だったライトとオルギヴァンナ夫人は、この仕事でやっと一息つけたのだった。これを機会にライトは、北の寒冷なウィスコンシンとは まるで違った 砂漠の風土に 耽溺していくのである。

ホテル  ホテル
アリゾナ・ビルトモア・ホテルの中庭とレストラン

 ビルトモア・ホテルは 1973年に火災に会い、ライトの没後に弟子たちがタリアセンに設立した タリアセン設計事務所 (Taliesin Associated Architects) が修復し、全面的にテキスタイル・ブロックを用いた増築をした。

ホテル
アリゾナ・ビルトモア・ホテルの増築棟




 ビルトモア・ホテルの仕事をしていた時に、獣医にして事業家のアレグザンダー・チャンドラー博士の訪問を受け、フィーニクスに近いチャンドラー市に建設する「砂漠のサン・マルコス」リゾート施設の設計を委託された。ビルトモア・ホテルを数倍する規模である。その大仕事と設計料の額に、窮境だったライト一家とスタッフは 大喜びして働いたが、しかし その建設にかかる直前の 1929年に 大恐慌が起こって株価が暴落し、チャンドラーは破産して、すべては水泡に帰した。

チャンドラー

「砂漠のサン・マルコス」リゾート施設計画 1928年
( From "Frank Lloyd Wright Drawings" by B.B. Pfeiffer,
1990, Harry N. Abrams, New York, p.185 )
 







ブーマー邸 (日よけ帽 )

JORGINE BOOMER RESIDENCE, 1953、Phoenix

ブーマー邸  ブーマー邸
ブーマー邸の外観と1階の居間

 フィーニクス(フェニックス)市の郊外の、コンパクトな「ユーソニアン・ハウス(後述)」。私の訪問時、この家を 1963年に買い受けた ルシル・キンター未亡人が存命中で、この家を一人で大切に住んでいた。1階に居間、2階にも 寝室を兼ねた居間がある。庭や周囲の手入れをする余裕はなかったらしく、樹木が生い茂って、建設当時の砂漠の外観が見られなくなってしまった。2階の居間にいると、この 斜め屋根の快適そうな小住宅は、吉村順三の名作、軽井沢の『森の中の家』を思い起こさせた。

平面図
ブーマー邸 平面図
( From "Frank Lloyd Wright Companion" 1993, p.387 )

ブーマー邸
ブーマー邸の2階の居間





ユーソニアン・ハウス (Usonian House)

 ユーソニア住宅 (Usonian House) について、簡単な説明をしておこう。ライトの住宅作品は、前期の「プレーリー・ハウス」と、後期の「ユーソニアン・ハウス」に 大きく二分される。「ユーソニア」というのは、UNITED STATES OF NORTH AMERICA の頭文字を並べて(語呂をよくするために I を加えて)、小説家のサミュエル・バトラーが造語したもので、ライトはその言葉を利用して、自分が設計した それまでの豪邸、邸宅とは違った、平均的なアメリカ市民とその家庭のための、合理的でコンパクトな経済的住宅を作ることを志し、それを「ユーソニア住宅」と呼んだのである。
 最初のユーソニア住宅は、1936年にマディスンに建てた ジェイコブズ邸とされ、ユネスコ世界遺産に登録された「ライトの作品群」の構成資産の ひとつとなっている。若い新聞記者のハーバート・ジェイコブズ夫妻は、住むのに便利で、しかもローコストの家の設計をライトに頼んだので、最初の「ユーソニアン・ハウス」が実現したのだという。ちなみに 工費は 5,500ドルで、そのうち設計料が 550ドルだったという。
 ライトは主に そうした、使用人のいない 核家族用の近代住宅(ユーソニアン・ハウス)を設計し続け、1953年に ニューヨークのグッゲンハイム美術館の建設予定地で ライトの大回顧展 " 60 YEARS of LIVING ARCHITECTURE " を大々的に開催した時には、ユーソニア住宅の実物大のモデルハウスを その中に建てて展示し、大好評を博した。プレーリー・ハウスには 寄せ棟屋根が多かったが、ユーソニアン・ハウスには ジェイコブズ邸のように、低コストの陸屋根も多い。「車庫」はやめて、2面の壁と屋根だけの「カーポート」とする。しかし 広い居間、食堂、台所を一続きにする開放的なプランを やめたわけではなく、コンパクトにしたのである。ユーソニア住宅は、20世紀のアメリカ住宅の原型を作ったと言える。

ユーソニア

最初のユーソニア住宅 、ジェイコブズ邸の透視図
( From "Frank Lloyd Wright Drawings" by B.B. Pfeiffer,
1990, Harry N. Abrams, New York, p.45 )
 









タリアセンウェスト (アリゾナ)

TALIESIN WEST, 1938-56, near Phoenix, Arizona

タリアセン
タリアセン・ウェストの ゲイト・モニュメント

 ライトは 1936年にウィスコンシンの寒さで重い肺炎に罹ったあと、避寒地として、ここにタリアセン・ウェストを建設した。アリゾナのフィーニクス(フェニックス)市の北東 25キロメートルの砂漠の中に(行政区画としてはアリゾナ州、スコッツデイル市になるが)、ライトは 徒弟(フェロー)を引き連れて、北のウィスコンシンのタリアセンから、半年ごとにキャラバンを組んで大移動し、アリゾナで 10月から5月まで過ごし、仕事をするようになった。もとはと言えば、前述のチャンドラー博士の「砂漠のサン・マルコス」リゾート施設を設計するために、ライトが設計し 弟子たちが自力で建設した、自身とスタッフの仮設の仕事場 兼住居の「オカティラ砂漠キャンプ」であった。(オカティラとは「ろうそくの炎」の意だといい、ひと夏ウィスコンシンのタリアセンに戻っている間に、キャンプは消滅してしまった。)

 「タリアセン」というのは、 ライトがオウク・パークの自宅とスタジオを引き払い、1911年に故郷のウィスコンシンに母が買った土地に メイマと暮らすための自宅を建て、仕事場も作って、そこに名付けた名前である。しかし 平和な生活は長くは続かず、3年後に一人の使用人が精神錯乱を起こして メイマとその子供、ライトの弟子など7人を殺害し、建物に放火して全焼させてしまった。

イースト

ウィスコンシンの タリアセン(ライトの自邸)
1920年頃の鳥瞰透視図(設計事務所を兼ねた大邸宅)
( From "The Work of Frank Lloyd Wright " 1925, Wendingen, Holland, p.40

 スキャンダルに次ぐスキャンダルにもめげず、ライトはこれを再建して「 タリアセン II 」として、3番めの妻ミリアムと暮らすが、これも破綻。 タリアセンは 1925年に再び火災にあって、主に住居部分が消失。またまた 再建して、4番目の妻 オルギヴァンナと暮らす「 タリアセン III 」とする。

 1932年に ウィスコンシンの自宅に、オルギヴァンナの才覚で「タリアセン・フェローシップ」という一種の 建築学校を創立し、ライト一家と徒弟(フェロー)たちで 自給自足の共同生活をすることになる。借金だらけのライトは破産状態だったので、所員(ドラフトマン)を雇って給料を払うのではなく、ライト流の建築を学びたい若者を集めて 授業料を取り、図面を描かせるばかりでなく、実地教育として、施設の建設作業も 農作業もさせる、という 虫の良いシステムである。その修行場となるウィスコンシンの自宅兼仕事場は、後に「タリアセン・イースト」と呼ばれることになる。

 カナダに近いウィスコンシンの冬は非常に寒くて ライトの老体には適さず、肺炎を起こさせるほどだったので、医者から転地療養を勧められた。そこで ライトが 70歳の 1937年に、ライトが惚れ込んだ 暖かいアリゾナの砂漠に 243ヘクタールの荒れ地を購入し、「冬の家」としての「タリアセン・ウェスト」を フェローたちの肉体労働によって建設し、冬は「学校」も「仕事場」も、こちらに移すことにした。 従って 気候的に言えば、タリアセン・イーストと ウェストと呼ぶより、タリアセン・ノースと サウスと呼ぶほうがふさわしいような気がする。

タリアセン  タリアセン
アリゾナの タリアセン・ウェストの景観

 そもそも タリアセン (Taliesin, c.534 -c.599) というのは、6世紀の ウェールズの吟遊詩人にして 神秘主義者の名前で、「輝ける額」を意味する。「タリエスィン」というのが一番 原語に近い発音だろうが、日本では ライトの発音によってか、ライトの弟子たちがそう伝えたからか、「タリアセン」と表記され 発音されてきたので、いまさら変えるの むずかしいだろう。文学上では、中世ウェールズ語の写本『タリエシンの書(Llyfr Taliesin)』として残されている(中央大学人文科学研究所 翻訳叢書8.「ケルティック・テクストを巡る」2013年 )。この詩編が文書化されたのは 10世紀だが、6世紀頃から口承で伝えられてきたらしい。タリエシンは、アーサー王の宮廷詩人だったとも言う。ライトの家系は ウェールズからの移民だったので、そのウェールズ詩人の名前に 特に親しみを感じていたのだろう。
 ライトの『自伝』によれば、ライトの親類の者は 皆 自分の土地にウェールズ名を持っていたので、自分の土地の名は タリアセン にしたのだという。

配置図
タリアセン・ウェスト 配置図
( From website "Archeyes/ Timeless Architecture" )

 私がタリアセン・ウェストを訪れた 1987年には、ライトはもちろん、オルギヴァンナ夫人も2年前に没していたが、ライトの意思を引き継いだライト財団の手によって運営され、ここには ライトの作品を熱愛する若者たちが 世界中から徒弟奉公(フェローシップ)に来ていた。 日本からは名城大学を出たNさんが 遠藤楽氏の紹介で来ていて、授業料は2年間で 4,000ドルだったという。
 ライトの生前には、日本人としては 天野太郎 (1952-53) と 遠藤楽 (1957) が徒弟として参加して、晩年のライトから 直接 教えを受けた。 遠藤新 (1917-22) や 土浦亀城夫妻 (1923-25) は、フェローシップの設立 (1932) よりも ずっと以前の、岡見健彦(1829ー30)は直前の、弟子である。


製図室 (ドラフティング・ルーム)

Drafting Room, Taliesin West

タリアセン  タリアセン
製図室の外観と内部

ライト

製図室で、徒弟の図面をチェックするライト
( エドガー・ターフェル『知られざるフランク・ロイド・ライト』
谷川正巳・睦子訳、1992、鹿島出版会、p.165 より
ライトは 現場でも 製図室でも、帽子をかぶることが好きだった。





ライト夫妻の住居棟

Right's own Residence, Taliesin West

タリアセン
タリアセン・ウェスト、テラスから住居棟を見る

 ライトは冬は ここに住んで、設計し、フェローの指導に当たったが、実際的なことは ほとんど すべて オルギヴァンナ夫人が こなした。日曜日の夜は いつもフェローたちを呼んで 広い居間(ガーデン・ルーム)で夜会を開き、ディナーのあと 音楽会を催した。そこでの講話を含め、すべてが徒弟教育だった。タリアセン・ウェストの 建設当初のフェローシップのメンバーは 30人ほどだったという。

タリアセン  タリアセン
ライトとオルギヴァンナの住居、居間(ガーデン・ルーム)

断面図

居間(ガーデン・ルーム)断面図 (From a website)
製図室や音楽ホールも、同じ構造システムである。





構内の諸施設

Various Facilities in Taliesin West

タリアセン  タリアセン
ロジア、鐘楼、給水タンク

 フェローたちは、タリアセン・イーストを好む者と、タリアセン・ウェストを好む者に 分かれたという。後者には、ウェストのほうが明るく活気的で、より未来があると感じられたのだろう。エドガー・ターフェルの言葉を借りれば、ここには何かお祭り気分のようなものがあった。何もない所からの出発は 苦労の連続だったが、アメリカ的開拓精神に満ちていた。砂漠の中に伸び拡がるマスタープランはもちろん、総ての施設は、陽光の下に製図版を置いての ライトの設計であり、フェローシップの施工である。

タリアセン
パーゴラ

タリアセン  タリアセン
会議室と食堂 内部





音楽ホール (ミュージック・パヴィリオン)

Music Pavilion, 1957, Taliesin West

音楽ホール  音楽ホール
音楽ホール内部、入口と客席

 ライトは 別れた父親(牧師であり、音楽家でもあった)から 音楽への愛を受け継ぎ、子供の時から 父に教えられてピアノを弾いた。特にバッハとベートーヴェンを好んだという。家族にも楽器を習わせて 家庭音楽会を開き、タリアセンのフェローたちにも楽器を勧め、タリアセン・イーストの居間にも、タリアセン・ウェストの居間にも、そして製図室 その他の仕事場にも グランド・ピアノを置き、ウェストには 音楽ホール(ミュージック・パヴィリオン)まで建てた。 徒弟(フェロー)の エドガー・ターフェルは ピアノが弾けたので、仕事中に製図室で、よくライトに命じられて(BGM として)ピアノを弾かされたという。
  「彼はバッハが好きで、特に『主よ、人の望みの喜びを』は 大変なお気に入りであった」
と ターフェルは書いている(『知られざるフランク・ロイド・ライト』 p.138 )

音楽ホール
音楽ホール 舞台




復原住居 (ジェスター邸)

Reconstructed R. Jester House, 1938, Taliesin West

ジェスター邸  ジェスター邸
タリアセン・ウェスト内に復原された住居

 かつてライトが1938年に計画していながら実現しなかった住居(ジェスター邸)を、B・P・ファイファーが 1972年にタリアセン・ウェストに復原して建て、独身の所員たちが住んでいる家。どの部屋も円形で、部屋から部屋へは、屋根付きの中庭を通って 出入りするようになっている。外観を見て 鉄筋コンクリート造かと思ったが、実は木造であると知って驚いた。

ジェスター邸
タリアセン・ウェスト内に復原された住居の航空写真
( From Google Maps )




 ライトの没後、タリアセン・ウェストを 26年間 統括・経営したのは、ライトの4番目の妻、1928年にライトが 61歳の時に結婚した オルギヴァンナ (Olgivanna) 未亡人だった(メイマ・チェニーとは正式に結婚しないうちにタリアセンの悲劇が起こったので、法的には、オルギヴァンナはキャサリン、ミリアムに次ぐ、ライトの3番目の妻)。彼女は、旧帝国ホテルの 取り壊し反対運動 の最盛期に、その応援のために来日したことがある。
 ライトが 1959年に91歳(自称 89歳)で世を去ったのは フィーニクス(フェニックス)市でだったが、遺体は はるばるウィスコンシンのタリアセン・イーストまで運ばれて 埋葬された。それを、1985年に亡くなったオルギヴァンナは、ライトの遺骸を掘り起こしてタリアセン・ウェストに持ち帰り、自分と一緒の所に改葬するように、と 遺言したという。もともと タリアセン・イーストは ライトとメイマ・チェニーのための住居であり、オルギヴァンナとライトが作って生活したのは、主にタリアセン・ウェストだったから。




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落款

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