第5章
CALIFORNIA
カリフォルニア

神谷武夫

エニス邸
エニス邸、ロサンジェルス

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バーンズドール邸
(ホリホック・ハウス)

ALINE BARNSDALL RESIDENCE (Hollyhock), 1918 -19, Los Angeles

バーンズドール  バーンズドール
バーンズドール邸の外観とホリホック装飾

 ホリホック・ハウスは、ロサンジェルス市内の北東部、ハリウッド地区の東の端にあるオリーブ・ヒルの頂上に建っている。この邸宅が「ホリホック・ハウス」(たちあおいの家)と呼ばれるのは、ライトに設計を依頼した、石油企業の大富豪の娘で 芸術、特に演劇のパトロンだった アリーン・バーンズドール (1882 -1946) 女史が あらかじめ そう名付けていたからである。彼女は ホリホック、すなわち 立葵(たちあおい)の花を 溺愛していて、その住居の設計にも ホリホックの花をデザイン・モチーフとすることを求めたので、この邸宅には 立葵(ホリホック)の花を あしらった装飾が、内外 至る所に ほどこされていて、一度見たら忘れられない。

バーンズドール  バーンズドール
バーンズドール邸の子供室と、東側外観

 ライトの住宅としては、ロビー邸と 落水荘の ちょうど中間の時期の作品となり、ライトはこの作品によって、北の寒冷地のプレーリー・スタイルに別れを告げ、強い陽ざしのカリフォルニアに適合した住宅へと 変貌する。このバーンズドール邸は コンクリート・ブロック造ではないが、次の4軒のテキスタイル・ブロックの家など、ライトのカリフォルニアでの仕事の 出発点となった作品である。
 当時、日本ではライトのカリフォルニアの住宅は あまり知られていなかったので(二川幸夫の写真集にも あまり詳しく紹介されていなかった)、それらを実際に目にするのは 非常に刺激的だった。その後 女流建築史家のカスリン・スミスが10年をかけて、オリーヴ・ヒルにライトが設計・計画した施設群について詳細に研究して、1992年に本("Frank Lloyd Wright Hollyhock House and Olive Hill")にしているので、それを援用させてもらう。

平面図
バーンズドール邸(ホリホック・ハウス) 平面図
( From "The Work of Frank Lloyd Wright " 1965 edition, Horizon Press,
originaly 1925, Great Wendingen Edition, Holland, p.131 )

 アリーン・バーンズドールは ロサンジェルスのハリウッドを見下ろすオリーブ・ヒルに 15ヘクタール近くの土地を買い、最初はライトに 豪邸の設計ばかりでなく、大劇場や小映画館、店舗や芸術家の宿泊施設なども含むという 壮大な計画を依頼したのだった。しかしアリーンは ライトに似た途方もない女性で、アナーキストのエマ・ゴールドマンなどとも付き合い、サッコとヴァンゼッティを擁護し、世界中を駆け回っていた。ライトも 日本の帝国ホテルの仕事で アメリカを留守にすることが多く、アリーンとの意思疎通が十分でなく、バーンズドール劇場は 結局 実現しなかった。

バーンズドール  バーンズドール
バーンズドール邸の中庭と外庭

 ライトは帝国ホテルの設計と着工のために日本に滞在していた1918年と1919年に、バーンズドール邸の設計を進め、1919年末に ルドルフ・シンドラーを助手にして、総ての部分を 20フィート(約6メートル)のグリッドに乗せた設計図を作成した。工事は1920年に着工したが、1921年の9月までかかり、当初は RC(鉄筋コンクリート)造の予定だったが、最終的に コンクリートは下半分だけとなり(構造用粘土タイルとも言う)、上半分は木造スタッコ仕上げとなった。そのせいで、家じゅうで 雨もりが ひどかったという。

バーンズドール  バーンズドール
バーンズドール邸の居間と食堂

 ホリホック・ハウスは 落水荘に劣らぬ大邸宅で、落水荘には無い外壁装飾やステンドグラスもあるので、別種の魅力に満ちている。ホリホック装飾は、「アート・ストーン」とライトが呼んだ コンクリート製の型枠を用いたコンクリート製を主とするが、木造モルタル造との境界は よくわからない。主暖炉まわりも、それまでのレンガや自然石のものとはずいぶん違うが、この広い家の内外を歩き回るのは、実に楽しい。

バーンズドール  ステンドグラス
バーンズドール邸の寝室とステンドグラス

 この家と バーンズドール劇場の計画案は、ヴェンディンゲン版『フランク・ロイド・ライト作品集』に 30ページを費やして扱われているので、世界に知られた。しかし アリーン・バーンズドールはこの家に満足せず(ひどい雨もりと湿気のために あまり住んでいなかったという)、1927年に この豪邸と 4.5ヘクタールの土地を、ロサンジェルス市に寄付してしまった。ライトは驚愕したことだろう。現在では、市は ここを「バーンズドール公園」 (Barnsdall Park) として、下記のように 他の文化施設も加えて、整備・公開している。

航空写真

現在のバーンズドール公園の 航空写真  (From Google Maps)
上端に見える 現在の道路の上 (東) に、バーンズドール劇場が
ホリホック・ハウスの中心軸上に 建てられるはずだった。

 バーンズドール公園 (Barnsdall Park) には ホリホック・ハウスのほかに、ライトの設計になる「住居 A」や泉屋 (Spring House) があり、ロサンジェルス市立アート・ギャラリー、バーンズドール・アート・センター、バーンズドール・ギャラリー劇場が新設され、それに「建築家シンドラーのテラス (Schindler's Terrace) 」がある。ライトの弟子で、ホリホック・ハウスの図面を主に作成し、工事監理も担当したルドルフ・シンドラーは、1925年に リチャード・ノイトラの協力も得て、ホリホック・ハウスの西側の バーンズドール幼稚園予定地だった所に、その擁壁を利用して、街と海を見晴るかす屋外テラスと 水遊びプールを作った。今は荒廃していて、少しづつ修復しているようだ。





バーンズドール  バーンズドール

(左)ライトが設計した 住居-A 1923     .
(From "The Work of Frank Lloyd Wright " 1925, Wendingen, Holland, p.58)
(右)ライトが設計した 住居-B(透視図)1923
(From "Frank Lloyd Wright Hollyhock House and Olive Hill" 1992, p.98)

 ライト自身が一時住んだという「住居ーB」は 1950年頃に取り壊されて、私が訪れた時には無かった。ゲストハウスの「住居 A」は 当時 閉鎖されていて、近年 ロサンジェルス市によって 修復工事が完成したようだ。





泉屋  幼稚園

(左)泉屋 1920  (From "Frank Lloyd Wright Companion" 1993, p.212)
  (右)バーンズドール幼稚園計画案(透視図)1923  (From "Frank Lloyd Wright
   Hollyhock House and Olive Hill" 1992, p.180)

バーンズドール幼稚園の計画は「小北斗星」と名付けられ、テキスタイル・ブロックで擁壁と外壁が作られるはずだった。擁壁だけが残り、その上にシンドラーが、市街を見下ろすテラスと 水遊びプールを作った。




劇場

バーンズドール劇場計画案(透視図)1919年
(From "Frank Lloyd Wright Hollyhock House and Olive Hill" 1992, p.62)

劇場

バーンズドール劇場計画案(透視図)1921年
(From "Frank Lloyd Wright Hollyhock House and Olive Hill" 1992, p.91)

 ライトは バーンズドール劇場の設計に ずいぶん入れ込んで、1915年、1918年、1919年、1920年と 何度も設計案を作り、その都度、精度の高い模型も製作した。そもそも アリーン・バーンズドールが 最初にライトに設計の話を持ちかけたのは、住宅ではなく 劇場だったのだ。

劇場
バーンズドール劇場計画案(模型)1921年
( From "The Work of Frank Lloyd Wright " 1965 edition, Horizon Press,
originaly 1925, Great Wendingen Edition, Holland, p.159 )




 オリーヴ・ヒルの東の麓の バーンズドール劇場などの計画は 取りやめとなり、ホリホック・ハウスとその土地は ロサンジェルス市に寄付され、アリーン・バーンズドールと ライトの付き合いは 途絶えるが、アリーンの娘のベティは、1934年に タリアセン・フェローシップの一員になったという。近年、ロサンジェルス市立の小規模な バーンズドール・ギャラリー劇場が 公園内に建てられた。


バーンズドール

バーンズドール邸を設計していた時の ライトのスタッフ、1918年
左から、W・E・スミス、R・M・シンドラー、遠藤新、藤倉五一、J・フロトウ
(ウィリアム・スミスは タリアセンに9年いて、職長を勤めた)
(ジュリアス・フロトウは『帝国ホテル』のコンサルティング・エンジニア)
(本にはドラフトマンと書いてあるが、資産家の藤倉五一が何をしていたのか不明)
(From "Frank Lloyd Wright Hollyhock House and Olive Hill" 1992, p.20 )






フリーマン邸

H. & S. FREEMAN RESIDENCE, 1922 -23, Los Angeles

フリーマン邸  フリーマン邸
フリーマン邸の入口部と、テキスタイル・ブロック

 カリフォルニアにおけるライトのコンクリート・ブロック(テキスタイル・ブロック)の4軒の家(1923年に設計)は 、「プレーリー住宅」時代と「ユーソニアン住宅」時代との中間をなす「テキスタイル・ブロック住宅」期と呼ばれたりする。ライトが 55歳前後の頃である。その第1作は「ラ・ミニアトゥーラ」という愛称のある ミラード夫人邸 (1923) だが、私は訪れることができなかった。

ミラード邸
ミラ-ド夫人邸の透視図 1923年
(From "The Work of Frank Lloyd Wright " 1925, Wendingen, Holland, p.94)

 次節のストーラー邸に続く第3作がフリーマン邸で、フリーマン夫妻はこの家を愛し、離婚後も 60年間住み続けたという。私が訪ねた時には、留守でもあり、荒廃もしていたので 中に入れず、詳しく見ることも できなかった。その後、これは南カリフォルニア大学の所有になって、きれいに修復されたようである。タッシェン社の 近年の『Frank Lloyd Wright』作品集 (2015) の表紙になっている。





ストーラー邸

JOHN STORER RESIDENCE, 1923, Los Angeles

ストーラー邸  ストーラー邸
ジョン・ストーラー邸の外観

 カリフォルニアのコンクリート・ブロック住宅第2作のストーラー邸は、敷地が道路面よりも1階分高いという斜面地に、1階が高い擁壁となり、それがテキスタイル・ブロックで飾られているので、その上に建つ住居は、まるでマヤの神殿のような印象も与える。
 コンクリート・ブロック住宅4軒の設計に加わって 工事監理をしたのは、ライトの息子のロイド・ライトであった。その息子(ライトの孫)のエリック・ライトは タリアセンのフェローとなって修行し、ストーラー邸が荒廃していたのを完全に復元・修復し、4軒の家のメンテナンスも、父から引き継いで ずっと引き受けたという。そのおかげで、私が訪れた時にも、築 65年とは思えぬ きれいな姿を保っていた。

平面図
ストーラー邸 平面図
( From website "Great Buildings.com" )


透視図
G・P・ロウズ邸計画案の透視図 1922
( From "The Work of Frank Lloyd Wright " 1925, Wendingen, Holland, p.58 )
コンクリート・ブロック造ではないが、これが ストーラー邸の原型になった。

ストーラー邸  ストーラー邸
ストーラー邸の前面テラス

 ストーラー邸は1階と2階の両方に暖炉つきの居間がある。ライトの弟子の建築家 ルドルフ・シンドラーの夫人も、離婚後 一時この家に住んで、この家の住み心地を 絶賛したという。
 ライトは住宅をローコストで建てるために、石よりもはるかに安価な材料であるコンクリート・ブロックに目を付けたのであったが、ライトのデザインを実現するためには多くの種類のブロックと役物が必要であり、その生産と工事は楽ではない。量産化を期待したのだろうが あまり普及しなかったので、ライトも4軒建てただけで 撤退せざるを得なかった。しかしこの4軒には、ライトの芸術性が遺憾なく発揮されたので、大きな遺産だと言える。

ストーラー邸  ストーラー邸
ストーラー邸の内部(1階と2階の 暖炉のある居間)






エニス邸

CHARLES ENNIS RESIDENCE, 1923, Los Angeles

エニス邸  エニス邸
エニス邸の外観と テキスタイル・ブロック

 ロサンジェルスの4軒のブロック住宅の内、他の3軒はマヤ文明のイメージなのに、このエニス邸だけはチベットのラサ、ポタラ宮を原型としていると言われる。といっても、エニス夫妻はマヤ文明の愛好者だったので ライトに設計を依頼したらしい。しかし 内外を、繊細に「彫刻された」コンクリートブロック(テキスタイル・ブロック)で囲まれた空間に身を置いた時、私に思い起こされたのは、むしろインドのジャイナ教の建築(アーブ山やラーナクプルの寺院群)の 内部空間、あるいはアダーラジなどの階段井戸(ステップウェル)の 地下空間 だった。
 ひとつ ひとつが 同じ型取りのブロックだとしても、その積層によって これほど インドの彫刻だらけの古典建築を思わせる 近・現代建築作品を見るのは、東京の「帝国ホテル」に次ぐ経験だった。

エニス邸
エニス邸の南庭
平面図
エニス邸 2階平面図
( From website "Pinterest.com" )

望遠

エニス邸、南側(都会側)からの望遠写真
( From website "ennishouse.com" )

 この土地の問題点は、南側が急斜面だったので、建物を建てる平地を確保するために高さ5〜10メートルの擁壁を作らねばならないことだった。それを経済的に造るために、ライトはコンクリートブロックを二重に積み、スチールとコンクリートの繋ぎ梁で崖に固定した。この大きな擁壁面のゆえに エニス邸の遠望が、上の写真のように チベットのポタラ宮を思わせるのであって、初めからポタラ宮をモデルにした わけではないだろう。

エニス邸  エニス邸
エニス邸の内部(居間と暖炉)

 上のストーラー邸と同じように、テキスタイル・ブロックは 外部ばかりでなく、内部にも 至るところに用いられていて、この大邸宅の中を歩き回るのは、実に印象的で 刺激的だった。

エニス邸  エニス邸
エニス邸の内部(ステンドグラスと食堂)

エニス邸
エニス邸のロジア(廊下)





アンダートンコートショップ

ANDERTON COURT SHOP, 1952,Beverly Hills

アンダートン  アンダートン
アンダートン・コート・ショップ

 ロサンジェルスの西部の高級住宅地、ビヴァリーヒルズにライトの唯一の小売店舗がある。バーンズドール邸の西10kmぐらいの所で、ライトの設計だというが、晩年に簡単なスケッチを描いて、あとは弟子がやったのではなかろうか。やや薄っぺらな ペーパー・アーキテクチュアといった趣で、わざわざ見に行くほどのものではないと思う。次の「モリス商会 ギフト・ショップ」とは 大違い。





モリス商会 ギフト・ショップ

V.C. MORRIS GIFT SHOP, 1948, San Francisco

モリス  モリス
V・C・モリス商会 ギフト・ショップ、サン・フランシスコ

 学生時代に、初めてこのファサードの写真を見た時はアッと驚き、感心した。商店であるにもかかわらず、ショ―ウィンドウも作らず、街路から商品を まったく見せずに、ただレンガによるアーチの重なりによって 入り口を示しているだけの、実に美しいファサードを作っている。レンガは通常の2倍ぐらいの長さのものを特注して、アーチも厚みのあるものとし、また壁面の左端のほうにレンガ1枚分の隙間を縦一列に並べてアクセントとし、夕方になると ここから内部の光がもれ出る。実に憎い構成で、常人には思いつかないような 芸の細かさである。何を売っているのかも わからないような この禁欲的な外観が、却って人の眼をうばい、一度来た客は、何度も訪れたくなることだろう。高級小物を買う人の 自尊心を煽るのかもしれない。

ライトがカリフォルニアの実業家 V・C・モリスから依頼されたのは、既存建物の改修だった。ライトはその小売店舗のショーケースを撤去し、ファサードを全部レンガ壁にしてしまい、ただアーチ状のトンネルを作って 入り口にしたのである。このトンネルをくぐると、明るく天井の高い、しかも円形の内部空間に入って、その劇的な構成に息を呑むのである。円形の空間は、螺旋状の斜路で2階に上るようになっていて、途中の壁面にギフト用の高級小物が展示される。これを設計したのは、グッゲンハイム美術館の設計と同じ時期で、規模は全然違うが、コンセプトは ほとんど同一だと言ってもよい。ライト 81歳の時である。

モリス  モリス
モリス商会 ギフト・ショップの外壁と内部

 このショップは 1967年に売却されたので、私が訪れたときには 美術・宝飾品を展示販売する「サークル・ギャラリー」となっっていたが、インテリアは まことに素晴らしい。よく見れば、材料は すべて粗末なものであって、大理石のような高価なものは 全然使っていない。にもかかわらず、これだけ豪華なインテリアを作りうるというのは 驚嘆に値する。光り天井の作り方ひとつをとっても、近代建築、現代建築の無数にある光り天井のうち、これに匹敵するものがあるだろうか。これとて スチール・パイプのフレームの上に アクリル板を乗せ、一部を半球状にしただけなのである。こんな小さな作品のなかに、何と深い美的興趣が潜んでいることだろうか。
 宝石箱のような、ライトの珠玉の作品だが、素晴らしい内部が 撮影禁止だったのは まことに残念。そこで、ウェブサイトから1枚だけ写真を借用して 上に載せた。借り物であることを示すために モノクロに変換し、画像調整をしている。

平面図 平面図
V・C・モリス商会 ギフト・ショップ 1階、2階 平面図

 ライトは 1945年と 1955年の2回、V・C・モリスのための住宅の設計案を作成している。どちらも実現しなかったが、その間の 1948年にギフト・ショップの設計依頼を受けて、これのみ実現させた。この絶壁上のモリス邸の案は「海の絶壁」と呼ばれ、海面から34メートルの高さとなる。建物よりも造成・基礎工事のほうに多額の費用が かかってしまいそうだが。

モリス邸

ライトによる モリス邸 計画案の透視図、1945、紙に色鉛筆
From "Frank Lloyd Wright Drawings" 1990, Harry N. Abrams, p.60






マリン郡庁舎 (シヴィックセンター)

MARIN COUNTY CIVIC CENTER, 1957-62, San Rafael
HALL OF JUSTICE, 1957-67, San Rafael

マリン郡庁
マリン郡庁舎の遠望

 サンフランシスコの北、約32キロメートル(車で30分)のカリフォルニア州北部、マリン郡のサンラファエルにある、ライトの遺作である。ライトの最晩年(90-91歳)の設計となった。1957年に設計依頼を受け、翌年の 1958年に種々の施設を含む 地区のマスタープランを作成、郡庁舎と法務棟の設計案を作って郡に提出したが、翌 1959年にライトは 91歳で死去し、ライトの弟子たちから成る タリアセン設計事務所(Taliesin Associated Architects)が仕事を引き継いだ。

マリン郡庁  マリン郡庁
マリン郡庁舎の法務棟

 建物は地下1階、地上3階建てで、長いほう (the Hall of Justice) は 260メートル、短いほう (the Administration Building) でも 170メートルもある 大規模なものである。高さは低いが、起伏のある地勢の中に アーチやドームを用いた造形が連なる姿からは、何やら 異次元の宇宙基地のような印象を与えられた。

マリン郡庁  マリン郡庁
マリン郡庁、行政庁舎の屋根と換気塔

 一見すると、奇抜な造形をしただけの建物のように 見えるかもしれないが、実際は、ここは楽しい所である。町から離れた、のどかな自然の中に、伸び伸びと、この大規模な建物は ある。 池(ラグーン)の向こうにはオーディトリアムがあり、さらに展示場が建っている(これらの別棟は ライトの死後に タリアセン設計事務所が建てたので 少々質が落ちる)。アプローチ側には、ライトが基本設計をした郵便局もある。
 本体の建物には3つの入口があり、吹抜けのある廊下が 巧みに各部を連絡し、吹抜けには植物が植えられ、トップライトで十分に明るく、行政庁舎というものが こんなにも気持ちよく作られた例が 他にあるだろうか。塔の下には カフェテリアがあり、噴水のあるテラスがあり、図書館もある。中を歩き回り、周辺を散策し、写真を撮って4時間近く、飽きることがなかった。

配置図

マリン郡庁舎( シヴィック・センター )地図
くの字形の要の円形が 図書館、その脇に 塔
( From website "The Marin Civic Center Open Space Ordinance" )



マリン郡庁   マリン郡庁  マリン郡庁
マリン郡庁舎のエントランスと廊下吹抜け


マリン郡庁   マリン郡庁
マリン郡庁舎、中廊下とホール

マリン郡庁
マリン郡庁舎、図書館の内部

平面図

マリン郡庁( シヴィック・センター ) 行政庁舎3階平面図
( From website "Great Buildings. com" )


マリン郡庁
マリン郡庁舎のバルコニー

テラス  テラス
行政庁舎端部のテラスと、カフェテラス






マリン郵便局

MARIN CIVIC CENTER POST OFFICE, 1957, San Rafael

郵便局
マリン郵便局

 ライトが最晩年にデザインした、マリン郡の郵便局。シヴィック・センターの東、丘の麓に建つ 愛らしい建物。円形ではないものの 円弧を組み合わせたプランの建物で、竣工したのは ライト没後の 1962年。
 ライトは国民的建築家となり、『落水荘』や『グッゲンハイム美術館』をはじめとする その代表作の多くは、大多数の国民に知られ、見物客が絶えないが、終生、アメリカ国家の施設の設計を依頼される ということがなかった。唯一の例外が この小さな郵便局で、アメリカ合衆国・郵政省の仕事である。日本の建築家が だいぶ有名になると、国家の大きな建物の設計を委託されたのとは 大違いである。まさに「反骨の建築家」、「アウトサイダーの建築家」であった。




マリン・センター

MARIN CENTER (Veterans Memorial Auditorium), 2007, San Rafael

センター  センター
マリン・センター、劇場の内外

 ライトの没後、ライトの弟子たちが作った タリアセン設計事務所(Taliesin Associated Architects)が設計・監理をした「マリン郡市民会館」。ラグーンの北側の建物で、外観はマリン郡庁舎のデザインを踏襲している。



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落款

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