第1章
OAK PARK & CHICAGO
シカゴ周辺

神谷武夫


ロビー邸 居間、シカゴ

BACK     NEXT


オウクパーク村

THE VILLAGE OF OAK PARK near Chicago, Illinois

 シカゴ近郊の オウク・パーク村は、ライトがルイス・サリバンの事務所に勤めていた間に自邸を建て、独立すると 事務所(スタジオ)を増築した所である。
 毎年5月に開催される「ライト・プラス・ハウスウォーク・トゥア(Wright Plus Housewalk Tour)」は、ライト自身が設計した個人住宅の いくつかの内部が見られる 貴重な機会である(有料、事前申し込み)。とはいえ 私が訪れた日は、オープンになる10軒の住宅のうち、半分の5軒はライトの作品ではない。1年の内 この日だけ、オウク・パークおよび 隣のリヴァー・フォレストにライトが設計した住宅の 内部が見られるとあって、それぞれの住宅の前には長蛇の列ができた。そして内部では ボランティアの人が解説をしていて、それが済むと どんどん押し出されてしまうという ありさま。30分並んで5分で済んでしまうのでは、あまり充足感は無い。おまけに 人に邪魔されて、また三脚の使用禁止であり(混雑していて 無理でもあるが)、時には撮影自体が禁止で、ほとんど写真が撮れず、あまり面白くない。
 それに、公開されている住宅は、たいてい大した作品ではないので、じっくり撮影できるのは外観のみである。いくつかのライトの住宅の内部を ほんの一目でも見たい、体験したい という人以外は、わざわざ この日に アメリカまで行くこともないと思う。外観を見るだけなら、普通の日のほうが 静かで良い。
 その翌日は、オウク・パークとリバー・フォレストにあるライトの住宅の外観を のんびり撮影して回ったのだが、何と、1本のフィルムが巻けていなかったので、あまり多くの写真が残っていないという 大失策を演じてしまった。それでも、こうした のどかに美しい、緑あふれる住宅地を歩いて ライトの作品の外観写真を撮ってまわるのは 楽しかった。

オウク・パーク   オウク・パーク
オウク・パ-クの ガイドマップと 街路の景観
(右は 土木学会付属土木図書館のウェブサイトより借用)





ライト自邸とスタジオ

FRANK LLOYD WRIGHT HOME & STUDIO,
1889-1911, Oak Park, Illinois

ライト自邸  ライト自邸
ライト自邸と 居間の暖炉

ライト自邸  ライト自邸
ライト自邸の食堂と、2階のプレイ・ルーム

 英国のウェールズからのユニテリアンの移民一家(ロイド・ジョーンズ家)の 家長 リチャードの娘、アナ・ロイド・ライトの息子として生まれたフランクは、母が念願したとおりの大建築家になる。「ライト」というのは、アナが離婚することになる父、ウィリアム・ラッセル・ケアリー・ライトから受け継いだ姓である。成長したフランクが最初の居を構えたのは、まだアドラーとサリヴァンの設計事務所に勤めていて、17歳のキャサリンと恋愛して結婚した 22歳の時だった。若くして才能を発揮して サリヴァンの片腕となっていたライトは、シカゴ郊外の住宅地 オウク・パーク村に サリヴァンの援助で土地を買い、他にも大きな借金をして、まずまずの家を建てた。( この最初の妻 キャサリンが 87歳で亡くなるのは 1959年で、ライトの死の1ヵ月前である。)
 

ヴァスムート
ライト自邸に増築されたスタジオの図面

 1893年に アドラーとサリヴァンの事務所から独立すると 住宅設計を次々に行い、所員を雇う余裕もできると、1898年に この自宅にスタジオを増築して、シカゴの借室から ここに自身の設計事務所を移した。以来 1909年に 妻子を捨てて メイマ・チェニーとヨーロッパに旅立つまでの 18年間、ここで 初期の数々の作品を設計したのである( 数で言うと、全作品の 1/4 にもなる)。

ライト自邸  ライト自邸 
ライトのスタジオの レセプシション・ホールと 製図室





ウィンズロー邸

W. H. WINSLOW RESIDENCE, 1894, River Forest

ウィンズロー邸
ライトの 最初期の代表作、ウィンズロー邸の外観

 ウィンズロー邸は、ライトがサリヴァンの事務所から独立して得た 最初の仕事である。まだ「近代建築」とは言えない クラシックな設計だが、はっと させるほどに 鮮やかな外観をしている。27歳の若者の、斬新なデザインだった。大きな寄棟屋根で水平線が強調された外観は、プレーリー・ハウスの先駆だとも言えるが、当時、この外観は 人々からは嘲笑されたという。外観を撮影していたら 招き入れられて、内部を見せてもらったような記憶もあるが、フィルムが巻けていなかったので、写真は残っていない。上の写真その他は、そのことに気が付いて 大あわてで撮り直したもの。



ムーア邸ファーベック邸

N.G. MOORE RESIDENCE, 1895, 1923, Oak Park
G. FURBECK RESIDENCE, 1897, Oak Park

ムーア邸  ファーベック邸
ムーア邸と ファーベック邸の外観

 1893年のシカゴ万国博覧会で 日本館としての鳳凰殿(平等院鳳凰堂をモデルにした木造建物)に天啓を受けたライトは、水平線を基本とする「プレーリ−・スタイル (Prairie Style) 」を発展させて行くが、それ以前は 種々の試行錯誤をしていて、この2軒の住宅、ムーア邸 と ファーベック邸も そうである(ムーア夫妻は、ウィンズロー邸のようでは ないデザインを望み、この家に満足したが、ライト自身は そうではなかった と「自伝」にある)。
 最初のプレーリー・ハウスは、この数年後の 1900年に設計した ブラッドリー邸と ヒコックス邸だと言われる。ライトは 1905年(明治38年)に初めて来日し、以来、日本文化に深く傾倒することになる。



トーマス邸

F.W. THOMAS RESIDENCE, 1901, Oak Park

トーマス邸の透視図、1901年
(ヴァスムート版『フランク・ロイド・ライト作品集』復刻版 30図 )
プレーリー・スタイルが確立している。

 トーマス邸は オウク・パークにおける 最初のプレーリ−・ハウス(大草原住宅)として知られる。以前の切妻屋根が影をひそめ、次のハートリー邸と同じように 浅い勾配の寄棟屋根となり、水平線が 全体を支配するようになる。何よりの特色は、玄関から居間、食堂、その他へと 空間が流れるように連続し、暖炉を中心とする快適な住まいとすることだった。
 ヨーロッパのアーツ・アンド・クラフトとアール・ヌヴォの時代に シカゴを中心として時代を切り開いた建築家たちは「シカゴ派(Chicago School)」と呼ばれたが、それは 次第にシカゴの高層ビルを設計した建築家たち(バーナム、リチャードスン、サリヴァンなど)をさすようになったので、住宅などの低層の建物を作った建築家は「プレーリー派(Prairie School)」と呼ばれることになる。

トーマス邸
トーマス邸の アーチ開口の入口部




プレーリータウン(提唱)

A HOUSE for the PRAIRIE TOWN, 1901

「プレーリー・タウンの家」の透視図、1901年
(『 レディース・ホーム・ジャーナル 』誌、1901年2月号)

 「プレーリー派」という名称のもとは 勿論ライトにあるが、大草原住宅と言っても、その多くは 田園にではなく、都市近郊に建てられた。ライトによる「プレーリー住宅」のマニフェストは、1901年に『レディース・ホーム・ジャーナル』誌に載せた「プレーリー・タウンの家」という 提唱記事である。プレーリー・タウンというのは 語義矛盾であるが、クライアントの多くは 大草原よりは、都市近郊の土地に建てる住宅の設計を依頼してきた。しかし ライトの頭にあった「原風景」は、あくまでも 故郷のウィスコンシンにおける、なだらかな起伏の丘や森が 伸びやかに広がる 大草原だったのである。



ハートリー邸

A. & G.HEURTLEY RESIDENCE, 1902, Oak Park

ハートリー
ハートリー邸の外観

 アーサー・ハートリー邸は、オウク・パークにおける プレーリー・スタイル(大草原様式)の初期の住宅で、寄棟の大屋根で覆われ、深い庇の下には、アート・グラス(ステンドグラス)の窓が連なっている。ここでも玄関は 大振りなアーチ開口である。今から120年も前の家が これほど きれいに保たれているのは、 文化財として修復・保全されているからだろう。



チェニー邸

M.B. & E.H. CHENY RESIDENCE, 1904, Oak Park

チェニー邸
方形屋根の チェニー邸の 透視図、1904年

 レンガ造の平屋に方形屋根を架けた、コンパクトなプランのプレーリー住宅。この家の設計と工事中に、ライトとチェニー夫人は恋に落ち、不倫の仲となる。
( 私の失策によって 写真が残っていないので、ヴァスムート版の透視図を借りる。)



ビーチー邸

P.A. BEACHY RESIDENCE, 1906, Oak Park

ビーチー邸  ビーチー邸
切妻が並ぶ ビーチー邸の外観

 銀行家 ピーター・A・ビーチーの住まいは プレーリー住宅に分類されるものの、寄棟の大屋根ではなく、切妻屋根がいくつも並んでいるので 眼を引かれた。2階に4寝室があり、それらの窓に すべて切妻の庇をかけたのであって、プランの作り方やディテールはプレーリー住宅であった。



ゲイル邸

THOMAS H. GALE RESIDENCE, 1909, Oak Park

ゲイル邸
白いバルコニーが積層する ゲイル邸の外観

 ユニティ・テンプルと同じ 1904年に設計された ゲイル邸は、同じようにフラット・ルーフである。建て主のトマス・ゲイルが1907年にガンで急死したので、未亡人のローラと 娘のサリーが亡くなるまで住んだ。竣工は 1909年で、 装飾が少なくなり、キャンティレバーの白いバルコニーが強調されて、のちの 落水荘のデザインの先駆けとなった。しかし、RC(鉄筋コンクリート)造ではなく、木造である。



アダムズ邸

M.B. & H.S. ADAMS RESIDENCE, 1913, Oak Park

アダムズ邸
最後のプレーリー住宅 アダムズ邸の 居間

 このアダムズ邸は プレーリー・ハウスの総括とも言われ、ライトがオウク・パークに設計した最後の住宅ともなった。 私が訪れた年の「ライト・プラス・ハウスウォーク・トゥア」で 内部が公開されていたので、かろうじて撮影できたが、逆に外観写真が 残っていない。世の中では、ライトの住宅に似た「プレーリー・ハウス」が一般化していった。



ユニティテンプル

UNITY TEMPLE, 1905-08, Oak Park

ユニティ

1970年代に荒廃していたユニティ・テンプルは、エドガー・カウフマン・ジュニアの
援助で、ライトの息子のロイド・ライトによって すっかり修復された。

オウク・パークに建つ この聖堂は、この HP の「世界の建築 名作ギャラリー」
の中に、「ライトの ユニティ・テンプル」として 掲載してあります。





ロビー邸

F.C. ROBIE RESIDENCE, 1908, Chicago

ロビー邸
フレデリック・C・ロビー邸、シカゴ

 ロビー邸は都会の中の住宅地に建つが、ライトのプレーリー時代の「大草原様式」の集大成であり、決定版であると言える。立地は シカゴの中心部のハイド・パーク地区であるが、シカゴ市内には「〇〇パーク」という地区名がたくさんあり、オウク・パーク村も 実際は その一つのようなもので、ハイド・パーク地区からは わずか 16キロメートルの距離である。
 ロビー邸は 今は 住まわれていずに一般に公開されているので、一部は保存事務室や資料室になっている。世界中の建築家と建築愛好者の間で知られた ロビー邸の建て主のフレデリック・C・ロビーは 自転車製造会社の社長であり、エンジニアでもあったが、まだ 30歳の独身時代に 自分と家族のために この邸宅を建てた。ライトの設計には大いに満足していたようだが、しかし、たった2年間住んだだけで、事業に失敗し、家を手放してしまった。後に シカゴ大学の所有となり、大学の同窓会事務所として使われていて、大学の手で 修復、保存、一般公開がされている。シカゴの名所として、ロビーの名は不滅となった。

ロビー邸  ロビー邸
ロビー邸の 道路側と、エントランス


平面図

フレデリック・C・ロビー邸 2階平面図
( From "The Work of Frank Lloyd Wright " 1925, Wendingen, Holland, p.27 )

 居間のテラスの上には、日本建築の影響を受けて 深い庇を出し、 水平線を強調している。コンクリートのキャンティレバーを長く持ち出すには、鉄骨の助けも借りた。キャンティレバー(片持ち構造)が次第にライトの建築のキーワードのひとつになり、落水荘、帝国ホテル、ジョンスン・ワックス、プライス・タワーなどで重要な役割を果たす。
 1階にエントランスやプレイ・ルーム、ビリヤード室、そしてガレージがあり、広い居間・食堂が2階にあり、寝室は3階という三層構成をとっている。特にメイン・フロアの2階は居間と食堂が連続した 24メートルにも及ぶ長大なワン・ルーム空間とし、その四周をステンドグラスの連続窓で囲って、住居空間というよりは 宗教空間のような、きわめてモニュメンタルなものとなった。

ロビー邸
ロビー邸の居間

 ロビー邸は、ライトがオウク・パークの事務所をたたんで、メイマ・チェニーと共にヨーロッパへ行く前に建てた 最後の住宅になり、ヨーロッパ滞在中に作った ヴァスムート版『フランク・ロイド・ライト作品集』(1910) には、下の透視図を載せた。現在は「国定歴史建造物」に指定されている。



ロビ-邸の透視図
(ヴァスムート版『フランク・ロイド・ライト作品集』復刻版 58図)

ロビー邸
ロビー邸のステンドグラス


BACK     NEXT

落款

TAKEO KAMIYA 禁無断転載
メールはこちらへ kamiya@t.email.ne.jp