アメリカ 北部 |
神谷武夫
Edger J. KAUFMANN RESIDENCE (Fallingwater), 建築的に、世界で最も有名な近代住宅は、フランク・ロイド・ライトの「落水荘」であろう。ペンシルヴェニア州のピッツバーグから南東に80キロメートルほど(空港から車で2時間)の山奥にある。行くのは大変だが、広大な敷地の入り口に「ヴィジター・センター」があり、カフェや書店まで用意されているのには驚いた。日曜日は押せ押せの盛況だという。古代・中世の歴史的建造物の無いアメリカにとって、これは日本における「桂離宮」のような 国宝的存在であるのかもしれない。シカゴのロビー邸と同じく、今は住まれていず、西ペンシルヴェニア州保存協会が入場料をとって一般公開している。
ライト自身が描いた、落水荘の透視図(紙に色鉛筆)
ハクスタブルの『未完の建築家 フランク・ロイド・ライト』は、「落水荘」の設計についての伝説的エピソードを紹介している。設計図が一向に出来てこないことに しびれをきらしたエドガー・カウフマンが ある日電話をしてきて「今、ミルウォーキーにいて、間もなくタリアセンに着くので 図面を見せてほしい」と言う。ライトは「来たまえ」と答えて、ただちに図面を描き始め、カウフマンが到着するまでに(およそ2時間半)、一気に「落水荘」の基本設計図を作成してしまった というのである。彼女はこう書く(三輪直美訳 p.281 )。
と。 とりわけライトはそうした能力に長けていた。図面もスケッチも 何も描いていなくとも、建物の完成に近い姿が、頭の中には できていたのである。敷地を流れる小川が大きな岩盤のところで2段の小さな滝を作っている、その真上に、ライトは カウフマンの別荘を建てることを考え、その岩盤の頂部を 居間の室内の暖炉の前に露出させた。居間からは 直接川に降りていける階段も作った。1階の居間と2階、3階の寝室から いくつもの 白いテラス・バルコニーと庇が キャンティレバーで突き出し、川の上でランダムに重なり合う。こうした複雑な形態の外観に、装飾はいらない。それに、それまでの長い沈滞期に、ヨーロッパのモダニズムの研究もし、その原理を身に着けてもいた。こうして 1938年1月に竣工した その劇的に美しい佇まいの邸宅は、アメリカの多くの新聞や雑誌が取り上げて 特集記事を組んで大々的に紹介し、ライトを「20世紀最大の建築家」とまで称えたのである。ライトの反抗的人生は、失意の10年ののち、70歳になって初めて、アメリカから「英雄」に祀り上げられた。
落水荘内部、 1階居間(大広間)
落水荘 1階平面図 ( From "Encyclopedia of World Architecture", 1977, Taschen )
落水荘内部、2階主寝室と客用寝室
エドガー・カウフマンは、このキャンティレバーで大胆に突き出すバルコニーの重なりには 構造的に不安を覚え、自分でエンジニアを雇って 安全性を検証させたという。それから半世紀の間、予想もしなかった 膨大な数の訪問客、見物客の重量に耐え続けたが、ついに 1990年代には 建物全体の大修理を余儀なくされた。特にキャンティレバーのバルコニーは、その工事の間 支保工の鉄骨の柱で支えられ、その写真を見て 私も、それが永続的なものかと思って驚き、嘆いたものである。
落水荘、 ゲストハウスへの渡り廊下の屋根と、ラウンジ
SOLOMON R. GUGGENHEIM MUSEUM, ソロモン・R・グッゲンハイム財団は 今では世界中に分館を建設しているので、スペインのビルバオに フランク・O・ゲイリーが設計したグッゲンハイム美術館 を真っ先に思い浮かべる人もいるだろうが、私の若い頃には ライトによるニューヨークのマンハッタンにあるグッゲンハイム美術館がオンリーであり、それは現代美術の牙城として 世界中に名を轟かせていた。 アメリカの鉱山王・ソロモン・R・グッゲンハイム (1861- 1949) と その妻アイリーン(ロスチャイルド家)は、アメリカ有数の大富豪であった。ビジネスの第一線から退いたあと、夫妻は ドイツ貴族の出身で 画家でもあった ヒラ(ヒルデガルト)・フォン・リーベイ (Hilla von Rebay) 男爵夫人を 指南役 かつキュレイターとして、抽象絵画(リーベイは「ノン・オブジェクティヴ・アート」と呼んでいた)の蒐集を始めた。1937年までには カンディンスキーや エルンストの作品をはじめとする大コレクションとなっていて、それを展示する美術館を建設するための ソロモン・R・グッゲンハイム財団が設立された。 その展示のための新しい美術館を建てるため、ソロモンは1943年に、リーベイが選んだ建築家 フランク・ロイド・ライトに設計を依頼した(リーベイが 最初に思い浮かべたのは、すでに『アインシュタイン塔』を建てていた エーリヒ・メンデルゾーンだったという)。82歳のグッゲンハイムは、世界のどこにもない、斬新な美術館の設計を要望した。ライトは 敷地の狭さから多層にせざるを得ないと考え、初期には 八角形のプランなども検討したが、円形、それも 螺旋(らせん)形に 思いを定めた。初めは 上すぼまりの 螺旋形にしていたが、じきに 末広がりの 螺旋形に舵(かじ)を切る。
初期の、八角形プランの案と、上すぼまりの螺旋形の案
ソロモン・R・グッゲンハイム美術館、ニューヨーク
美術館の敷地はハドソン川沿いの緑の敷地ではなく、ニューヨークのど真ん中の5番街に面した土地が選定された。都心の手狭な敷地ゆえに、建物はプレーリー・ハウスのように低層に伸び拡がるのではなく、多層化せざるをえない。それをライトは オフィスビルのようではなく、螺旋状の円形ジッグラトのような彫刻的建築を構想したのである。グッゲンハイムは感動してこれを受け入れたという。建物中央を高い吹抜けのあるホールにして、その周囲に螺旋状の斜路をまわすというのは、同時期に設計していた、サンフランシスコの『モリス商会・ギフト・ショップ』と よく似ている。後述のように、ライトは円形や螺旋形の建物を実現したいという欲望に 早くから取りつかれていた。
グッゲンハイム美術館 断面図
美術館の構成は、全体を螺旋状の建物にし、観客はまずエレヴェーターで最上階に上り、斜路の廊下を下りながら壁に展示された作品を見ていく というものである。壁の反対側は大ホールの吹抜けで、観客は常に展示室全体と観客たちを眺めることができる。壁の上階の壁との間にはスリットが入っていて、そこのガラスを通して、少し傾斜した壁面に掛けられた作品に採光するというものである。地下には 300人収容できる講堂がある。大ホールを見上げれば、そこには巨大なガラス天井があり、自然光が 燦燦と降り注ぐ。観客は、あとから あとから現れる 常識はずれの仕掛けと 空間のシークエンスに、肝を抜かれ続けるのである。 新館長のスイニーは 壁を真っ白にすることを要求したが、ライトは アイボリーにすることを死守した。お気づきの方もいるだろうが、私のHPでは、サムネイルの写真をクリックすると拡大されるが、写真のバックは 文字ページのような真っ白ではなく、HPを作り始めた時から 淡いグレーにしている。真っ白というのは 輝度が高くて、写真の発色を殺してしまうからだ。ライトと同じ考えであることに気付いた。
ソロモン・R・グッゲンハイム美術館 1階平面図 エントランス・ホールと言えるほどのスペースが ないので(待合室が向かい側に作っては あるらしいが)、入り口前に 入場者が 列を作って待っている。中に入ると いきなり中央の大空間に ほうりこまれるので、その型破りで壮大な空間を体験する驚きは 一層 強烈である。柱も梁も無い、螺旋状の曲面壁が ひとつながりに スリットを介して積み重なるだけの建物が、どうして構造的に もっているのか、構造審査をしたニューヨーク市当局と同じように、常人には わからない。まだコンピューターによる構造計算という手段も無かった時代である。ライトの頭の中の直感的コンピューターが、それほど優れていたからか。ライト以外のどんな建築家も思いつかないような構想である。
グッゲンハイム美術館の斜路展示室と、スカイライト天井 建物全体のヴォリュームに比して 展示面積が少ないということは 容易に想像できる。それを補うために、裏手に グヮスミー、シーゲル、カウフマン事務所の設計になる 10階建ての 直方体のタワーを 1989年に建設し、展示室の面積を大幅に増やした。それまでは、展示品よりも ライトの建築を見に来る人のほうが ずっと多かったらしい。
全体の構成がよくわかるミニチュア模型
地下のオーディトリアム
ライトはプレーリー時代から落水荘まで、形態的には直角と長方形を主としていたが、1936年のジョンソン・ワックス本社から 次第に円形に傾斜していった。もともとは1924年の 巨大な螺旋状のジッグラトのような遊興施設 ("Automobile Objective for Gordon Strong and Pranetarium") の計画案以来の欲望だった。(「ゴードン・ストロングのためのオートモビル・オブジェクティヴズとプラネタリウム」という長いタイトルなので、ここでは単に「自動車用のプラネタリウム 計画案」と呼んでおく。)
Gordon Strong Automobile Objective and Planetarium
その誇大妄想的な構想と円のイメージが 最もよく表現されているのは、15層のピッツバーグ市民センターの計画である。アレゲニー川と モノンガヒラ川が合流する三角形の広大な工場群の土地に、何層にもわたる巨大な駐車場からオフィスや店舗群、眺望レストランや映画館、会議場や水族館、美術館やオペラハウス、はてはカジノや動物園、屋上大噴水公園やヘリポートまで、あらゆる施設が円形で収容される。二つの川には3層の橋を架けて、対岸の市街地と接続する。
ピッツバーグ市民センター計画案( Pittsburgh Point Park Civic Center )1947年
タトリン、第3インターナショナル記念塔、立面図、1919年 ル・コルビュジエによるムンダネウムの「世界認知の博物館」については、この HP の「世界建築ギャラリー」のル・コルビュジエの「成長する美術館」のところに書き、それが ホルサーバード(イラク)の ジッグラトに似ていることと、最初に 階段かエレベーターで頂部に行き、螺旋状の展示室を降りてくるというのは、むしろ 後のライトのグッゲンハイム美術館の考えに近いということを書いた(円形ではなく矩形プランではあるが)。ライトはル・コルビュジエの「世界認知の博物館」計画案を知っていた可能性があり、ル・コルビュジエもまた ライトによる「自動車用のプラネタリウム」計画案を知っていた可能性があるが、ふたりの間に「螺旋状の建築」という点で、どちらか一方から 他方への影響関係が あったかどうかは、わからない。
ル・コルビュジエ、ムンダネウム(Mundaneum)内の
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