第2章
NORTHERN AMERICA
アメリカ 北部

神谷武夫

落水荘(カウフマン邸)

BACK     NEXT


落水荘(カウフマン邸)

Edger J. KAUFMANN RESIDENCE (Fallingwater),
1935-36, Mill Run near Pitsberg, Pennsylvania

落水荘
落水荘の南西側外観

 建築的に、世界で最も有名な近代住宅は、フランク・ロイド・ライトの「落水荘」であろう。ペンシルヴェニア州のピッツバーグから南東に80キロメートルほど(空港から車で2時間)の山奥にある。行くのは大変だが、広大な敷地の入り口に「ヴィジター・センター」があり、カフェや書店まで用意されているのには驚いた。日曜日は押せ押せの盛況だという。古代・中世の歴史的建造物の無いアメリカにとって、これは日本における「桂離宮」のような 国宝的存在であるのかもしれない。シカゴのロビー邸と同じく、今は住まれていず、西ペンシルヴェニア州保存協会が入場料をとって一般公開している。

ライト自身が描いた、落水荘の透視図(紙に色鉛筆)
( From "Frank Lloyd Wright Drawings" 1990, Harry N. Abrams )

 ライトは8年もの長い沈滞期のあと、後述の「ユーソニアン・ハウス」で やっと息を吹き返し、その建築家として 再び名を知られる。そして ピッツバーグのデパート経営者で芸術愛好者だった富豪のエドガー・J・カウフマンは 1934年末に、山奥に所有していた 800ヘクタールの土地のどこかに 斬新な「夏の別荘」を建てたいと思い、その設計をライトに委ねた。よほどライトに惚れ込んだのか、息子のエドガー・カウフマン・ジュニアを 短期間だったが、タリアセン・フェローシップに参加させているし、ライトのユートピア的都市計画『ブロード・エイカー・シティ』の図面と大模型の製作費用と ニューヨークのロックフェラー・センターでの展示費用を出して、さらに後述のように、ピッツバーグの参事を務めていた時に、ピッツバーグ市再生のための大規模な市民センターの 設計者としてライトを推薦し、途轍もない計画案作成の経済的援助をした(実現しなかったが)。

落水荘  落水荘
落水荘の南側外観

 ハクスタブルの『未完の建築家 フランク・ロイド・ライト』は、「落水荘」の設計についての伝説的エピソードを紹介している。設計図が一向に出来てこないことに しびれをきらしたエドガー・カウフマンが ある日電話をしてきて「今、ミルウォーキーにいて、間もなくタリアセンに着くので 図面を見せてほしい」と言う。ライトは「来たまえ」と答えて、ただちに図面を描き始め、カウフマンが到着するまでに(およそ2時間半)、一気に「落水荘」の基本設計図を作成してしまった というのである。彼女はこう書く(三輪直美訳 p.281 )。

「けれども、彼が 数ヵ月 この案を温めていたのは 明らかだ。建築家という人種は、見えないものを 頭の中で 視覚化する能力がある。」「落水荘のコンセプトは、線を引く前から明瞭だった。」「この話を疑う人たちが、落水荘の初期段階のスケッチを見つけようとして、徒労に終わった話も驚きではない。」

と。 とりわけライトはそうした能力に長けていた。図面もスケッチも 何も描いていなくとも、建物の完成に近い姿が、頭の中には できていたのである。敷地を流れる小川が大きな岩盤のところで2段の小さな滝を作っている、その真上に、ライトは カウフマンの別荘を建てることを考え、その岩盤の頂部を 居間の室内の暖炉の前に露出させた。居間からは 直接川に降りていける階段も作った。1階の居間と2階、3階の寝室から いくつもの 白いテラス・バルコニーと庇が キャンティレバーで突き出し、川の上でランダムに重なり合う。こうした複雑な形態の外観に、装飾はいらない。それに、それまでの長い沈滞期に、ヨーロッパのモダニズムの研究もし、その原理を身に着けてもいた。こうして 1938年1月に竣工した その劇的に美しい佇まいの邸宅は、アメリカの多くの新聞や雑誌が取り上げて 特集記事を組んで大々的に紹介し、ライトを「20世紀最大の建築家」とまで称えたのである。ライトの反抗的人生は、失意の10年ののち、70歳になって初めて、アメリカから「英雄」に祀り上げられた。

落水荘  落水荘
落水荘内部、 1階居間(大広間)

平面図
落水荘 1階平面図
( From "Encyclopedia of World Architecture", 1977, Taschen )

 落水荘 (1935-6) の直後の 1936年に建てたジェイコブス邸は 最初の「ユーソニア住宅」として知られるので、落水荘は「プレーリー住宅」と「ユーソニア住宅」に 橋をかける存在だとも言える。もう 大きな屋根を架けずにフラット・ルーフとしているし、窓や光り天井に ステンドグラスを用いることもない。装飾は控えめであり、荒い自然石積みの壁も用いているが、「近代建築」風の白い壁のバルコニーの重なりが外観を決定づける。こうしたことから、世界の建築家から「近代建築作品」としても評価され、絶賛を博した。

落水荘  落水荘
落水荘内部、2階主寝室と客用寝室

 それでも こうした裕福な家族のための大邸宅は、これ以後の「ユーソニア住宅」の理念とは 合致しない。この だだっ広い居間に たたずんだ時、私にはこれが住宅の居間であるよりも、何かを展覧するショールームか パーティー会場でもあるかのように感じられたものだ(ただ 天井の高さは 広さに比べて 低いのではあるが)。

 エドガー・カウフマンは、このキャンティレバーで大胆に突き出すバルコニーの重なりには 構造的に不安を覚え、自分でエンジニアを雇って 安全性を検証させたという。それから半世紀の間、予想もしなかった 膨大な数の訪問客、見物客の重量に耐え続けたが、ついに 1990年代には 建物全体の大修理を余儀なくされた。特にキャンティレバーのバルコニーは、その工事の間 支保工の鉄骨の柱で支えられ、その写真を見て 私も、それが永続的なものかと思って驚き、嘆いたものである。

落水荘  落水荘
落水荘、3階の書斎と1階のキッチン


 1938年に、落水荘の裏手の高い所にゲストハウスが建てられた。裏手の車路は 緩い勾配で長く伸びて Uターンしてくるが、短い階段状の道には 折版の屋根が架けられた。ゲストハウスには 小住宅風の1階の他に、2階に3寝室が用意された。多くの新聞や雑誌の特集記事で紹介された「落水荘」を見るために、訪問客が押し寄せたのである。入口には4台分の車庫も設けられた。

落水荘  落水荘
落水荘、 ゲストハウスへの渡り廊下の屋根と、ラウンジ



模型
全体の構成がよくわかるミニチュア模型
ゲスト・ハウスは作られてない。 ( From Wikipedia )

 落水荘は 1963年に、その広大な土地とともに、エドガー・カウフマン・ジュニアから西ペンシルヴェニア州保存協会に寄贈され(もはや個人の手では維持しきれなくなったのだろう)、以後は保存協会が修復、維持、一般公開をしている(維持費も カウフマンから寄付されたという)。交通不便な地にあるというのに、年間13万人以上の見物客が訪れる。予約なしでは入場できない。現地には 森の中にヴィジター・センターが作られ、入場の受付カウンターと、カフェ、売店、ライト関係の書籍売り場、そして広い駐車場を用意している。

落水荘
落水荘の ヴィジター・センター







ソロモンRグッゲンハイム美術館

SOLOMON R. GUGGENHEIM MUSEUM,
1943-59, 1992 reopen, New York

グッゲンハイム
ニューヨークのグッゲンハイム美術館

 ソロモン・R・グッゲンハイム財団は 今では世界中に分館を建設しているので、スペインのビルバオに フランク・O・ゲイリーが設計したグッゲンハイム美術館 を真っ先に思い浮かべる人もいるだろうが、私の若い頃には ライトによるニューヨークのマンハッタンにあるグッゲンハイム美術館がオンリーであり、それは現代美術の牙城として 世界中に名を轟かせていた。

 アメリカの鉱山王・ソロモン・R・グッゲンハイム (1861- 1949) と その妻アイリーン(ロスチャイルド家)は、アメリカ有数の大富豪であった。ビジネスの第一線から退いたあと、夫妻は ドイツ貴族の出身で 画家でもあった ヒラ(ヒルデガルト)・フォン・リーベイ (Hilla von Rebay) 男爵夫人を 指南役 かつキュレイターとして、抽象絵画(リーベイは「ノン・オブジェクティヴ・アート」と呼んでいた)の蒐集を始めた。1937年までには カンディンスキーや エルンストの作品をはじめとする大コレクションとなっていて、それを展示する美術館を建設するための ソロモン・R・グッゲンハイム財団が設立された。

  その展示のための新しい美術館を建てるため、ソロモンは1943年に、リーベイが選んだ建築家 フランク・ロイド・ライトに設計を依頼した(リーベイが 最初に思い浮かべたのは、すでに『アインシュタイン塔』を建てていた エーリヒ・メンデルゾーンだったという)。82歳のグッゲンハイムは、世界のどこにもない、斬新な美術館の設計を要望した。ライトは 敷地の狭さから多層にせざるを得ないと考え、初期には 八角形のプランなども検討したが、円形、それも 螺旋(らせん)形に 思いを定めた。初めは 上すぼまりの 螺旋形にしていたが、じきに 末広がりの 螺旋形に舵(かじ)を切る。

  

初期の、八角形プランの案と、上すぼまりの螺旋形の案
( From "Guggenheim Frank Lloyd Wright's Iconoclastic
Masterpiece" 2017, Yale Univercity Press, p.121, p.33 )

 ライトは 翌年には設計案を作成し、クライアントに提示した。それまで見たこともない形をした 美術館の模型を見た グッゲンハイムと リーベイは 大満足したが、工事にかかるまでには幾多の難関を乗り越えねばならなかった。何より ソロモン・R・グッゲンハイムが、建物の着工さえ待たずに 1949年に死去してしまうのである。それから 建物の竣工までには、何度も計画中止の危機に みまわれる。まずソロモンの跡を継いだ 甥のハリー・F・グッゲンハイムを 説得して着工させるのに7年間も かかった。

ソロモン・R・グッゲンハイム美術館、ニューヨーク
設計終了に近い頃の、ライトによる透視図
一番下の凸凹の線は、走る自動車の列の輪郭
( From "Frank Lloyd Wright Drawings" 1990, Harry N. Abrams、p.147 )

 ひとつには 前例のない独創的かつ不可思議な構造形式を、ニューヨーク市当局が なかなか認可しなかったからであり、一方、パトロンのソロモンの死による財団の方針変更で、計画の推進役だった ヒラ・リーベイが解雇されて (1952) 、ニューヨーク近代美術館から引き抜かれた モダニズム系の 新館長 ジェイムズ・ジョンスン・スイニーとライトが 激しく対立して戦ったりしたからである。やっと1956年に着工した時には、すでにライトは 89歳になっていた。大戦後の資材の高騰などのトラブルも尽きることなく、ついに竣工したのは 1959年、ライトが世を去った半年後のことであった。設計を開始してから完成まで、16年を要したことになる。ライトが その生涯で、命を懸けて全身全霊を打ち込んだ建物というのは、帝国ホテルとグッゲンハイム美術館では なかろうか。

グッゲンハイム  グッゲンハイム
グッゲンハイム美術館の大ホール

 美術館の敷地はハドソン川沿いの緑の敷地ではなく、ニューヨークのど真ん中の5番街に面した土地が選定された。都心の手狭な敷地ゆえに、建物はプレーリー・ハウスのように低層に伸び拡がるのではなく、多層化せざるをえない。それをライトは オフィスビルのようではなく、螺旋状の円形ジッグラトのような彫刻的建築を構想したのである。グッゲンハイムは感動してこれを受け入れたという。建物中央を高い吹抜けのあるホールにして、その周囲に螺旋状の斜路をまわすというのは、同時期に設計していた、サンフランシスコの『モリス商会・ギフト・ショップ』と よく似ている。後述のように、ライトは円形や螺旋形の建物を実現したいという欲望に 早くから取りつかれていた。

断面図

グッゲンハイム美術館 断面図
( From "Encyclopedia of World Architecture", 1977, Taschen )

 美術館の構成は、全体を螺旋状の建物にし、観客はまずエレヴェーターで最上階に上り、斜路の廊下を下りながら壁に展示された作品を見ていく というものである。壁の反対側は大ホールの吹抜けで、観客は常に展示室全体と観客たちを眺めることができる。壁の上階の壁との間にはスリットが入っていて、そこのガラスを通して、少し傾斜した壁面に掛けられた作品に採光するというものである。地下には 300人収容できる講堂がある。大ホールを見上げれば、そこには巨大なガラス天井があり、自然光が 燦燦と降り注ぐ。観客は、あとから あとから現れる 常識はずれの仕掛けと 空間のシークエンスに、肝を抜かれ続けるのである。
 展示室は螺旋状の廊下になっているので、床はすべて傾いていて、展示品を見るのに安定感が欠ける と言われるが、それほど気にならなかった。

 新館長のスイニーは 壁を真っ白にすることを要求したが、ライトは アイボリーにすることを死守した。お気づきの方もいるだろうが、私のHPでは、サムネイルの写真をクリックすると拡大されるが、写真のバックは 文字ページのような真っ白ではなく、HPを作り始めた時から 淡いグレーにしている。真っ白というのは 輝度が高くて、写真の発色を殺してしまうからだ。ライトと同じ考えであることに気付いた。

ソロモン・R・グッゲンハイム美術館 1階平面図
( From website ”Modern Architecture: A Visual Lexicon", Hong Kong )
下側に、向かいのセントラル・パークと隔てる5番街 (Fifth Avenue)、
左側に 88丁目の通り (88th Street) がある。

 エントランス・ホールと言えるほどのスペースが ないので(待合室が向かい側に作っては あるらしいが)、入り口前に 入場者が 列を作って待っている。中に入ると いきなり中央の大空間に ほうりこまれるので、その型破りで壮大な空間を体験する驚きは 一層 強烈である。柱も梁も無い、螺旋状の曲面壁が ひとつながりに スリットを介して積み重なるだけの建物が、どうして構造的に もっているのか、構造審査をしたニューヨーク市当局と同じように、常人には わからない。まだコンピューターによる構造計算という手段も無かった時代である。ライトの頭の中の直感的コンピューターが、それほど優れていたからか。ライト以外のどんな建築家も思いつかないような構想である。

展示室  天井
グッゲンハイム美術館の斜路展示室と、スカイライト天井

 建物全体のヴォリュームに比して 展示面積が少ないということは 容易に想像できる。それを補うために、裏手に グヮスミー、シーゲル、カウフマン事務所の設計になる 10階建ての 直方体のタワーを 1989年に建設し、展示室の面積を大幅に増やした。それまでは、展示品よりも ライトの建築を見に来る人のほうが ずっと多かったらしい。

模型
全体の構成がよくわかるミニチュア模型
( From website "PUREKO with New YORK" )


模型

地下のオーディトリアム
( From "Guggenheim Frank Lloyd Wright's Iconoclastic
Masterpiece" 2017, Yale Univercity Press, p.155 )

天井





円と螺旋形への熱情:ピッツバーグ市民センター計画案

 ライトはプレーリー時代から落水荘まで、形態的には直角と長方形を主としていたが、1936年のジョンソン・ワックス本社から 次第に円形に傾斜していった。もともとは1924年の 巨大な螺旋状のジッグラトのような遊興施設 ("Automobile Objective for Gordon Strong and Pranetarium") の計画案以来の欲望だった。(「ゴードン・ストロングのためのオートモビル・オブジェクティヴズとプラネタリウム」という長いタイトルなので、ここでは単に「自動車用のプラネタリウム 計画案」と呼んでおく。)

ゴードン
自動車用のプラネタリウム 計画案, 1924年
Gordon Strong Automobile Objective and Planetarium
( From "Frank Lloyd Wright Drawings" 1990, Harry N. Abrams, p.137 )

 その誇大妄想的な構想と円のイメージが 最もよく表現されているのは、15層のピッツバーグ市民センターの計画である。アレゲニー川と モノンガヒラ川が合流する三角形の広大な工場群の土地に、何層にもわたる巨大な駐車場からオフィスや店舗群、眺望レストランや映画館、会議場や水族館、美術館やオペラハウス、はてはカジノや動物園、屋上大噴水公園やヘリポートまで、あらゆる施設が円形で収容される。二つの川には3層の橋を架けて、対岸の市街地と接続する。
 ライトは 戦後まもなくの 1947年に、『落水荘』のオーナーのエドガー・カウフマンのサポートで この計画案を作成したが、市当局からは拒否された。グッゲンハイム美術館や、サンフランシスコのモリス商会などを設計していた頃である。後期のユーソニアン住宅には、デイヴィド・ライト邸を始めとして、円形が時々使われているし、実現しなかった円形住宅の計画案は山ほどあるし、1956年のギリシア正教聖堂は完全な円形であるし、遺作のマリン郡庁舎にも諸所に円形が用いられている。しかし計画案はともかく、実際に建てる建物となると、円形建物は なかなかむずかしい。ニューヨークのど真ん中の、規模の大きなグッゲンハイム美術館は、円形というばかりでなく、螺旋状の構造の実現という、奇跡的な建築作品であった。

ピッツバーグ

ピッツバーグ市民センター計画案( Pittsburgh Point Park Civic Center )1947年
( From "Frank Lloyd Wright Drawings" by B.B. Pfeiffer,
1990, Harry N. Abrams, New York, p.153 )


ところで、造形芸術家のフレデリック・キースラー (1890-1965) は グッゲンハイム美術館について、螺旋状という点で類似した計画を ふたつ挙げている。ロシア構成主義のタトリンによる『第三インターナショナル記念塔』計画 (1919) と、ル・コルビュジエによるムンダネウムの 『世界認知の博物館』計画 (1928) である。
モスクワの美術大学で絵画・彫刻・建築を学んだ ウラディーミル・タトリン (Vladimir Yevgrafovich Tatlin、1885-1953) は、『第3インターナショナル記念塔』という、巨大な鉄骨造の螺旋形のモニュメントを構想したが、もちろん実現しなかった。しかしその模型と図面は、ロシア構成主義の出発点として、周囲および後世に大きな影響を与えた。ライトは 1937年に「世界建築家会議」に招かれて ソ連に滞在したから、これを見ているかもしれない。

タトリン

タトリン、第3インターナショナル記念塔、立面図、1919年
( The Monument to the Third International )1919-20
( From "Russia: An Architecture for World Revolution" by El Lissitzky,
1970 (originaly 1930), Lund Humphries, London, p.74 )

ル・コルビュジエによるムンダネウムの「世界認知の博物館」については、この HP の「世界建築ギャラリー」のル・コルビュジエの「成長する美術館」のところに書き、それが ホルサーバード(イラク)の ジッグラトに似ていることと、最初に 階段かエレベーターで頂部に行き、螺旋状の展示室を降りてくるというのは、むしろ 後のライトのグッゲンハイム美術館の考えに近いということを書いた(円形ではなく矩形プランではあるが)。ライトはル・コルビュジエの「世界認知の博物館」計画案を知っていた可能性があり、ル・コルビュジエもまた ライトによる「自動車用のプラネタリウム」計画案を知っていた可能性があるが、ふたりの間に「螺旋状の建築」という点で、どちらか一方から 他方への影響関係が あったかどうかは、わからない。

ムンダネウム

ル・コルビュジエ、ムンダネウム(Mundaneum)内の
「世界認知の博物館」(Musée Mondial ), 1928年
( From "Le Corbusier, Oeuvre Complete 1910 -1929", Zurich, p.193 )


BACK     NEXT

落款

TAKEO KAMIYA 禁無断転載
メールはこちらへ kamiya@t.email.ne.jp