ハグパト修道院(ヴアンク) |
アルメニア共和国の最北端、ローリー県の東北部に ジョージアから流れてくるデベド川は 深い峡谷をなして南下してトゥマニアンへと至る。その流域に アフターラ、ハグパト、サナヒン、オズーンと、重要な歴史的ヴァンク(修道院)の遺構が連なっている。アルメニアで 最も建築的に充実した渓谷だと言えよう。その中でも最大で、周囲の山地と平原を見晴るかす山上に建つのが、名高いハグパタ・ヴァンクである。ハグパトは ハグバト とも、ハフパトとも言う。この地域の中心都市 アラヴェルディから 10kmぐらい 山を登って行く。私は3回訪れ、2回はヴァンクの すぐ前に宿をとって、この建築アンサンブルをじっくり見て、たっぷり撮影をした。ハグパトの写真だけで、130枚のカラー・スライドがあり、その内 33枚を ここに掲載する。
アルメニア建築が最初に発展したのは、5世紀から7世紀である。その基礎となったのは、もちろん 世界初のキリスト教の国教化 (c.314) であり、アルシャク朝の統治 (350-428) であり、メスロプ・マシュトツによる アルメニア文字の創設 (c.404) であったが、芸術活動の上では 何よりも 建築が発展した。私がアルメニア人を建築的民族と呼ぶ理由であるが、その初期(古典期)のアルメニア建築の発展については、『アルメニアの建築』のサイトの第1章「聖エチミアジンと諸聖堂(ヴァガルシャパト)」に書いた。今回は、その次にアルメニア建築が発展した10世紀から13世紀(ほぼ ヨーロッパのロマネスクの時代に当たる)の代表作「ハグパト修道院」についてである。その時代のアルメニア建築はヨーロッパのロマネスク様式と 実によく似ている、ということは何度も書いた。それは 都市文化が発展する前の 修道院文化の時代であり、修道院はヨーロッパでも アルメニアでも 文化センターの役割を果たした(単に礼拝と教育ばかりでなく、文書の筆写と保存や 芸術的諸活動なども含め)。ただ、どちらも人里離れた僻遠の地に建てられたので、訪ねるのは難儀なことが多いが。(都市は、ソドムとゴモラのように、悪の集積所と見なされた。) Adriano Alpago-Novello, 1974)
修道院はしばしば盗賊におそわれたので、防備を必要とした。ハグバト修道院は 全体が、円形の櫓のある周壁で囲まれて、広い境内を区切っている。ゲガルダ修道院と同じく、要塞修道院に近い印象もあるが、境内に軍事施設があるわけではない。平和な修道施設のみである。「ハグパト」とは聖人の名前ではなく「huge wall」の意だという。境内が厚い周壁で囲われていたからだろう。ハグパトの西方15kmぐらいにある サナヒン修道院と同時代に、同様の建築様式で建てられたので、「姉妹修道院」と称することもできる。 ハグパトは 1996年にユネスコ世界遺産に登録され、2000年に拡張遺産として サナヒン修道院が加えられている。 バグラト朝 (885-1045) の「慈悲王」アショット3世 (位 953-977) が統治した時代が、バグラト朝の70年におよぶ絶頂期の始まりであった。ハグパタ・ヴァンクは、アショット3世の妻、ホスロヴァヌシ (Khosrovanush) 王妃によって 976年に創建された。彼女はまた サナヒン・ヴァンクの創建者でもあったから、両修道院には共通点が多い。
ハグパタ・ヴァンクのメインの聖堂は、聖ヌシャン聖堂である。聖ヌシャン (Surp Nshan) というのは聖人の名前ではなく、英語では Holy Seal あるいは Holy Signと訳される「聖なる印」の意である。ヨーロッパの中世における「聖遺物 relic」のように(コンクの聖フォワが特に名高い)、その聖堂がキリストや聖母マリア、あるいは 諸聖人に関する重要な聖遺物をもっている場合に、そう名付けられた(トビリシその他にも、同名の聖ヌシャン聖堂がある)。ハグパトでは、聖堂が奉じる聖十字架(11世紀から13世紀にかけて刻まれた Holy Cross)を指すので、この聖堂は「聖十字架聖堂」とも呼ばれる。ホスロヴァヌシ王妃が 976年から 991年にかけて2人の息子 スンバト Smbat と グルゲン Gurgen の長寿と繁栄を祈って建設したというから、完成までに15年かかったことになる。
伝説によれば、聖ヌシャン聖堂は 高名な建築家、トゥルダト Trdat の作品だという。トゥルダトはアルメニア史上最も優れた建築家で、トルコのミマル・シナンに相当する。アニのカテドラルを設計したのは彼である。コンスタンチノープルの聖ソフィア大聖堂のドームが 989年の地震で崩壊したあと、その再建を依頼されて、994年に竣工させたのもトゥルダトであり、ハグパトの聖ヌシャン聖堂は、ちょうどその頃の建設である。10世紀後半から11世紀初めにかけて、彼はしばしばバグラト朝のために仕事をしたという。
聖ヌシャン聖堂のガヴィットの南側に、軸線の方向を ややずらして建つ聖グリゴール聖堂は、1005年に建立された、ハグパトで二番目に建てられた古聖堂である。その時にはドーム型の聖堂だったが、1211年に再建された時に ドームを失ったという。現在見られるのは 半円筒形ヴォールト天井に切妻屋根の シンプルな聖堂で、内部は正確な切り石で作られているが、まったく飾り気がない。シトー会の修道院のような建物である。
正教の聖堂では、ミサの参加者は西洋のようにベンチに座るのではなく 立って参列するので、聖堂はヨーロッパのような奥行きの長いラテン十字形のプランではなく、ずっと奥行きが小さく面積も狭い。そこで、種々の集会をするための、もっと ゆったりとした広い部屋を聖堂の手前に建てるようになった。これをガヴィット (Gavit) 、あるいは ザマトゥーン(Zamatoun) とも ジャマトゥーン (Jamatun) とも言うが、本サイトでは ガヴィットの呼び名に統一している。聖堂の前室にあたるので、ナルテックスと訳す欧米人もいる。「ガヴィット」は 物理的な空間をさす呼び名で、「ザマトゥーン」というのは スピリチュアルな面を重視した呼び名だ という説を聞いたこともあるが、いずれにせよ 基本的にガヴィットは 後から増築されるものであって、最初の聖堂建設の時から予定されるものではない。
聖ヌシャン聖堂のガヴィットは、独立柱が通常の4本ではなく2本であって、これと 周囲の壁付柱(ピラスター)との間に 交差アーチを井桁状に架けて大空間を支えた 最初の実例である。井桁の中央ベイに、さらに小型の交差アーチを井桁状に架けて、その中央をスカイライトの開口にしている。その上の屋上に 6本柱のロトンダ風の屋根があるが、これは鐘楼ではない。「ロトンダ」というのは 本来は「円形建物」全般の意であるが、アルメニア建築においては 6本あるいは8本の柱で支える円堂を指し、12世紀頃から アルメニアでは この形式を鐘楼に用いるようになった。それが 造形的に きわめシンボリックな効果をもつので、18、19世紀には 古い聖堂の前面に、下階が聖堂へのポーチとなる 高いロトンダの鐘楼を増築することが盛んに行われ、インド建築における「チャトリ」のように、アルメニア聖堂のシンボルの役割を果たすようになる。屋上に建つ 小さめのロトンダは 鐘楼のこともあるが、スカイライトの屋根であったり、単なる飾りであったりすることもある。アマグの ノラ・ヴァンク の聖アストヴァツァツィン聖堂は、16本もの柱をもつ 大ロトンダの鐘楼を戴いた作例である。
ガヴィットの西正面は、ポータルの周囲が豊かに飾られている。半円アーチが何重にも架けられているが、その中心となるタンパン(テインパヌム)は、ヨーロッパでは、特にロマネスク建築では、最も目だつ場所として華麗に彫刻されるのを常とするが、アルメニアでは無地のままにされることが多いのは、不思議な気がする。ここでは文字列のみが刻まれている。
ガヴィットの北側は、中庭のような 広場のような オープン・スペースになっていて、その中央に小聖堂が建っている。この11世紀の聖母(アストヴァツァツィン)聖堂は、ガヴィットを挟んで、聖グリゴール聖堂と対称形に建てられた。ハートゥン王女による 1025年の寄進で、小さいながらカッチリと作られた、プロポーションの良い聖堂である。前面ポータル以外に、あまり装飾は無いが。 ハグバト・ヴァンクで一番小さい聖アストヴァツァツィン聖堂の後方に、一番大きいハマザスプ堂が建っている。これは一種のガヴィットであるが、修道院長のハマザスプによって 1253〜1257年に建てられたので、その名を取ってハマザスプ堂と呼ばれている。塔もなく窓もなく、入口ポータル以外に装飾もなく、大きな交差切妻屋根におおわれているので、農家の納屋のように見える。ガヴィットは 通常は 聖堂の前面に 集会場として増築されるものだが、この場合は 特定の聖堂に付属せずに独立して建っている。修道院全体のための、また近隣コミュニティのためにも利用される集会場ということだろうか。裁判所の役割さえ 果たしたかもしれない。
構造的には通常のガヴィットに近く、正方形プランの大屋根を、中央4本柱と 周囲のピラスター(壁付き柱)との間にかかるアーチ群が支えている。4本柱で囲まれた中央ベイには八角錐型の天井が高く持ち上げられ、その中央に スカイライト開口がある。こうした方式をイェルディク yerdik と言い、図書室にも、食堂にも、ガヴィットにもある(ガヴィットではその上部に、雨を防ぐための 小ロトンダ屋根がある)。正方形のベイから八角形への移行部は、四つのムカルナス状スキンチで処理されている。
ガヴィットとハマザスプ堂の間が 引っ込んでいて、その奥が屋根のかかったギャラリーになっている。初めからそれを意図したわけではなく、順次建物を建てているうちに通路ができ、それを延長して聖ヌシャン聖堂の背後に壁を立て、屋根を架けてL字型のギャラリーにしたのだろう。ここに面して 聖ヌシャン聖堂の北入口(ポーチ)ができ、その前面に「アメナプルキチュのハチュカル」を据え、その奥に小チャペルを建て、さらにその奥の突き当りを、マテナダラン(図書室)の入口にしている。そこから右へ曲がると広いスペースとなり、突き当りは大きなアーチ開口で外部に出る。このギャラリー空間があることで、ヴァンクの建築アンサンブルに、変化に富んだ空間構成を もたらした。ここに多くのハチュカル (cross stone 十字架石)」が置かれていることからも、ギャラリーの名がふさわしい。
ギャラリーに面する 聖ヌシャン聖堂の立派な北入口は 1201年の造営で、その前面の「アメナプルキチュ(救い主)のハチュカル」は、 13世紀半ばに 彫刻家 ヴァフラム がアルツルニ家の王女・サドゥンのために制作したという。キリスト磔刑図が刻まれたハチュカルとして名高い。
ギャラリーの奥のマテナダラン(図書室)は、外から見ると スカイライトのあるイェルディクの屋根だけが地上に出ていて、あとは小山状の土に埋もれているので、外観というものがない。全体が ほとんど地下建築である。11世紀半ばに建てられた時には木造屋根だったらしく、交差アーチによる石造屋根は ハチェーン Hachen のヨブハーネスの命で1258年から1262年に架けられたという。内部に独立柱はなく、周囲の8本の壁付柱(ピラスター)から井桁状に組んだ4本の大アーチでクロイスター・ヴォールト状の天井を支えれている。サナヒン修道院にも同規模のマテナダランがあるが、そちらではアーチが 井桁状ではなく、対角方向に架けられている。
鐘楼(ザンガカトゥン)は 1245年にハマザスプの指揮によって建設された。境内の奥の広いところに単独で建つので、どこからも眺められる。1階は正方形の四隅に大きな直角のニッチを設けた十字形の聖堂であり、2階は角を隅切りした八角形の聖堂として、切妻屋根の各壁面には2連アーチの窓と十字架状に装飾された小窓を開け、3階にはロトンダの鐘塔を建てるという、他に例を見ない、非常に凝った造形をしている。3階といっても 床はなく、2階のホールの吹き抜けである。1階には2連の小チャペル、2階には四隅に小チャペルがある。頂部のロトンダは、作図のむずかしい7本柱の7角形をしていて、7角錐の屋根を架けている。独立した鐘楼で、これほど大きなものは他になく、しかも すべてが正確な切り石で作られている。アルメニア建築の中で、最も複雑にして芸術的な構成の建物として 評価が高い。 Adriano Alpago Novello, 1974)
境内の北端に 13世紀半ばの食堂(セガナトゥン)がある。これも修道院長ハマザスプによる造営という。ハガルツィン・ヴァンクの食堂と非常によく似ているのも道理、同じ時期に同じ建築家ミナス (Minas) によって 建てられた。二つの正方形のホールから成り、連結部には壁でなく2本の独立柱が立ち、 両側からのアーチを受けている。それぞれのホールの構造形式は 聖ヌシャン聖堂のガヴィット とほぼ同じで、井桁状に組んだ交差アーチがダイナミックな架構をしている。それぞれの中央のベイにイェルディクを立ち上げてスカイライトにしているが、ここにはハガルツィンにおけるようなムカルナス装飾は用いられていない。
食堂の東に 少し離れて建つ建物は、厨房だったのではなかろうか。アプスのようなニッチもあるが、アルカイックな木造の柱が2本立ち、天井には木造ラテルネンデッケのスカイライトがある。ゲタシェンの石造「ハザラシェン (Hazarashen)」天井の木造版と言えようか。民家におけるような 煙り出しでもあったろう
食堂の西、ハマザスプ堂のすぐそばに、基壇に乗った3基のハチュカルがある(中央のハチュカルは失われてしまった)。高い基壇に見えるのは 13世紀のウカナンツ家の廟である。 内部は簡素な造りで、小アプスに小窓がひとつある。1210年から1220年頃の造営であろうと言うが、詳しいことは不明。
周壁で囲われたヴァンクの境内のすぐ下に、忘れられたような聖ティラマイル聖堂が 宿の裏に建っている。ティラマイル (Tiramayr) とは 聖処女 Holy Virgin の意で、聖母マリアのこと。「尼僧の庵」とも呼ばれる。かなり古く 1195年に建てられた、単室の聖母聖堂である。きわめてシンプルで質素な小聖堂であるのに、正面のファサードは入念に仕上げられ、入口の上のタンパンと両脇の壁面に 大きくハチュカルが彫刻されている。( PC.149 )
ヴァンクの上方 100mばかり北東のところに水屋 がある。ヨブハ−ネスの命で 1258年に建てられたという。泉の湧くところでは しばしば水屋(給水所)が建てられたが、これほど大きく立派なものは 他に無い。前面のリズミカルな3連アーチの開口は 堂々たる柱で支えられている。聖堂の造り方と、何の違いもない。前面開口が これほど大きくオープンなのは、牛馬の水飲み場としても使われていたのだろう。今も村の主婦たちの水汲み場、洗濯場である。( AA.535, OK.196 ) さらに山を登ると墓地があり、12-13世紀の墓地聖堂が 孤立して建っている。クサナツ・アナパトと呼ばれるが、これも「尼僧の庵」というほどの意味か。アナパトとは砂漠や荒れ地の意味であるが、ここでは隠遁所や陋屋 (Hermitage) をさすのだろう。クサナツとは聖処女、マリアをさす。単室の小聖堂であるが、ドーム天井を高く立ち上げ、八角錐の屋根をかぶせている。ドラムを飾るブラインド・アーチは三弁形である。 堂の南側には 大きなハチュカルを3基並べている。( PC.148 )
( 2021 /02/ 01 ) |