ゲガルド修道院(ヴアンク) |
ハグバト修道院と双璧をなす アルメニア建築の代表作は、アルメニア中部のコタイク県にある「ゲガルダ・ヴァンク」(槍の修道院)である。歴史的にも芸術的にも 重要かつ魅力的な 修道院建築アンサンブルを形成している。修道院は今も現役で、2000年にユネスコ世界遺産に登録された。「ゲガルド修道院とアーザート渓谷上流域 (Monastery of Geghard and the Upper Azat Valley) 」という登録名は やや奇妙だが、上の写真に見られるような、周囲の峡谷の景観をも 一体的な保存対象としているのかもしれない(ここに 新しい猥雑な建物が建ち並んだら、この神秘的で荘厳な景観は 台無しになるだろうから)。 「ゲガルダ・ヴァンク」は、古くは「アイリ・ヴァンク」(洞窟の修道院)と呼ばれた。その名が示すとおり、ここの岩山に穿たれた穴居住居群や石窟聖堂群を主な施設としていた。古代のアルメニアや 隣国のジョージアでは、インドにおけるような石窟の聖堂や住居が 数多く造営された。特にジョージアには 南部のヴァルジアの石窟修道院など、多数が残されているが、アルメニアには少ない。このゲガルドには その最良の石窟聖堂群があり、13世紀の石造の聖堂と一体化して、他に例を見ない、独特なヴァンク(修道院)を形成したのである。以下に、前回のハグパト修道院同様 30数枚の写真とともに、見やすく手を加えた借用図面を掲載して、詳細に紹介しようと思う。 ( PC.31, AA.579, OK.315, MH.174, DOC.6 )
ゲガルド修道院は、4世紀に聖グリゴール・ルサヴォリッチ(啓蒙者)が、既存の異教寺院をキリスト教聖堂に建て換えて設立したと伝えられている。しかし初期の建物は10世紀にアラブ軍によって、また12世紀にセルジューク朝によって破壊された。12世紀の聖母聖堂(現在の聖グリゴール聖堂)だけは 破壊を免れたが、それ以前の建物は全滅して 今は残っていない。 ゲガルドというのは、十字架上のキリストを刺した槍の穂先のことで、この 槍の穂先と称する聖遺物は 世界各地にあるが、そのひとつが13世紀にこの修道院にもたらされてから、ゲガルダ・ヴァンク (槍の修道院)と呼ばれるようになった。前回のハグパト修道院の主聖堂が 聖十字架を祀っていたゆえに 聖ヌシャン聖堂と呼ばれるように、ゲガルド修道院の主聖堂も「聖なる槍 (Holy Lance)」に献じられたのだから、聖ヌシャン聖堂 (Holy Sign) と呼ぶことも可能であるが、司教座があるので カトリケー(カテドラル)と呼ばれている。槍は 伝説では ローマ兵のロンギニス が十字架のキリストの死を確認するために右の脇腹を刺したと伝えられる物で、かつては ここに祀られていたが、今は ヴァガルシャパトの 聖エチミアジン大聖堂の宝物室で展示されている。( PC.31, AA.579, OK.315, MH.174, DOC.6 )
ゲガルダ・ヴァンク は要塞修道院のように、道路面から高くそびえているが、そのようになったのはメインの石造の聖堂、聖ゲガルド聖堂が建てられ、カトリケーとなってからである。それ以前には、自然の岩山に石窟のチャペルを掘ったり、岩の表面にハチュカルを彫り付けたりしていた。その初期の様子を最もよく伝えてくれるのが、修道院の正門である西門よりも 手前の岩壁に作られた、12世紀の聖グリゴール聖堂である。現存するゲガルド修道院の中で最も古い聖堂で、1160年の碑文が堂内に残されているので、それ以前の創建と見なされる。初めは 既存の洞窟を利用した、素朴なチャペルだったのだろう。その片側に石造の外壁と屋根が付加されて 建築的な聖堂となった。つまり半分石窟で、半分石積み(表面)の聖堂である。
その平滑な外壁面 および周囲の岩山の表面には、多数のハチュカル(十字架石)が連続的に彫刻されていて、何とも不思議な魅力をもった 岩壁ファサードを作っている。内部は不整形な石窟チャペルで、半円形のアプスには 聖母子を描いたフレスコ壁画の痕跡もある。この下層にも石窟小聖堂があり、入口にはアーチが架けられている。
聖グリゴール聖堂は、かつては 聖アストヴァツァツィン聖堂と呼ばれていた。アストヴァツァツィン (Astvatsatsin) というのは聖母 (St. Mother of God) のことで、アルメニアの聖堂の1/4ぐらいは 聖母に献じられているので、どれも 「聖アストヴァツァツィン聖堂」である。長い名前なので、このサイトでは単に「聖母聖堂」と書くことも多い。ヨーロッパと違って、聖マリア聖堂という名前の聖堂は、まず ない。 ゲガルダ・ヴァンク(槍の修道院)の旧名は アイリ・ヴァンク(洞窟の修道院)であった。もともと自然の洞窟を利用しつつ、次第に岩山に人工的に開窟した石窟の住居群や聖堂群を使用していたからだろう。4世紀に聖グリゴール・ルサヴォリッチが建てたというのは 木造の小聖堂であったと考えられるが、そうした施設群が アラブ軍やセルジューク朝によって破壊された後、13世紀にプロシアン家によって新しい石窟聖堂の開窟が始められた。現在に残る見事な4窟のうち、最初に彫り抜かれたのは「アヴァザン聖堂」であった。1240年頃の造営で、ガルザグ Galdzag という建築家の名前がドーム下に刻まれている。
インドの石窟寺院のような、石造建築の構造を完全に模した掘削で、ハグパトに いくつも作例のある、周壁のピラスターから4対の交差アーチを架け渡したかのように彫刻され、その中央のベイをイェルディクにして、頂部を実際のスカイライトにしている。イェルディクも、アプスの半ドーム天井も、イスラーム建築の影響を受けた 石彫のムカルナスで飾られている。 北翼の端部に 泉(アヴァザン)があり、この泉の存在が、そもそも アイリ・ヴァンクの設立理由だったのかもしれない。こんこんと湧き出る神聖な泉は、キリスト教伝来以前の異教の時代から神聖視されてきたらしい。当初は 泉のある自然の洞窟だったろう。石造聖堂における祭壇の脇の「洗礼盤」もアヴァザンというから、この聖堂は 聖なる「泉の聖堂」である。
ゲガルド修道院の石窟部とカトリケーの平面図 次の「プロシアン家の廟」は 1283年の造営で、聖母聖堂と同年の記載があり、聖母聖堂のガヴィットの役割を兼ねていたのだろう。このホールは 聖堂ではないので、他の石窟とは異なった、きわめてユニークな空間構成をしている。訪問者がガヴィットから入ると、正面に太い柱があり、そこから左右にアーチが架けられたように彫られている。そのアーチの上の壁面には アルメニア建築全部の中でも 最も大きく目立つレリーフ彫刻があるので、忘れがたく強い印象を与えられる。
そこには 首輪をつけられた2頭のライオンと、羊を掴む鷲のレリーフなどが ユーモラスに彫刻されている。これらはプロシアン家のシンボルだったのかもしれない。この柱とアーチで区画された、奥の 天井の低い部分が アルコソリウム (Arcosolium ローマの地下墓場における、石棺を納めるためのアーチ形の墓室) で、主にプロシュ公 Prince Prosh の墓室となっている。完成させたのは その息子の パパク Papak である。
一番奥の「聖母(アストヴァツァツィン)聖堂」は、北側の壁に、プロシアン公プロシュの寄進で 1283年に造営されたと刻まれている。ここを開窟するためには(削った岩を運び出すためにも)、先にプロシアン家の廟を開窟しなければならない。1年間で両者が掘れるとは思えないから、全部で数年かかり、同じ年に完成させたのだろう。これら二つの堂も、アヴァザン聖堂と同じ建築家・ガルザグの作だろうと推測されている。聖母聖堂は 地上のドーム型聖堂をそっくり写して、壁付柱、アーチ、ペンデンティヴ、ドームと 精巧に彫刻され、4本の壁付柱は 束ね柱にするという凝りようである。プロシアン家の葬祭チャペルだったのだろうという。ドーム天井には 12本の 生命の樹が彫刻され、その下のドラムのブラインド・アーケード装飾は、石造のカトリケーのドラムの外部装飾と似ている。
「上の石窟ガヴィット」は、プロシアン公プロシュの息子のパパクの治世に開窟された。上記の3窟よりも1階分高い位置に、ずっと大きな面積に掘削された(配置図を参照)。パパクとその妻のルズカンの寄進で 1288年に造営したと 柱の1本に刻まれてあるので、「パパクとルズカンのガヴィット」とも呼ばれている。下のガヴィットよりも後の造営であり、床レベルが高い関係で どの聖堂とも 直接には つながっていず、単独に 外階段と長いトンネルを通ってアプローチしなければならない。掘削された岩も このトンネルを通って運び出されたはずだ。
これは 何のためのガヴィットだったのだろうか? 聖母聖堂のためには プロシアン家の廟のホールが ガヴィットの役をするし、アヴァザン聖堂のためには 下の石造ガヴィットがある。それであるのに、もう一つのガヴィットを石窟で造営した理由がわからない。いちいち 階段とトンネルを通って、孤立したガヴィットに行くのは 面倒であったろうに。 アルメニアの隣国 ジョージアには、同時期(12-13世紀)に開窟された、ヴァルジア (Vardzia) の大規模な石窟修道院がある。主にタマラ女王 (r.1184-1213) が造営したとされ、彼女の壁画もある。しかし15もある石窟聖堂の中に、ゲガルドの石窟聖堂のような精巧な建築的構成に彫刻されたものは一つもない。その代わりに多数の壁画が残されている。アルメニア人が建築的民族であり、ジョージア人が絵画的民族であるという私の感懐は、ここでも裏付けられる。
前にも書いたように、アルメニア聖堂というのが、外壁の数か所に 三角形の切り込み(ニッチ)をいれただけの 完全な長方形プランの、平面的には単純な建物であるのに、地上では これほど複雑で立体的で魅力的な造形となることが、実に不思議な気がする。その構成の原理は、円錐や、円筒あるいは角筒、三角切妻屋根といった、すべて単純な 幾何学立体の 重層的な組み合わせである。「建築の原型のような」という私の思いは、こうしたところから来ている。その建築造形の中で、私が当初から気になったのは、ドラム(胴部)の下部の、対角上の四方に突き出た 三角形の小屋根である。 アルメニア聖堂の塔状部の造形について、上のカトリケーの写真を見ていただきたい。カトリケーのドラムの一番下に、小さな三角屋根が出っ張っているのが見える。これは対角上の四方に、必ず付いている。これが アルメニア聖堂の立体造形を華やかにしている一要素であるのは 確かだが、これが何のためのものかを理解するのに 時間がかかった。それを説明する場所が『アルメニアの建築』のサイトには無かったので、今回ここで 詳しく説明しておきたいと思う。まずは、正方形プランの部屋にドーム屋根を架ける方法について、私家版『イスラーム建築』の第3章「材料・構法・装飾」から引用しておこう(p.112-3)。
アルメニア聖堂では、スキンチも ペンデンティヴも用いる(ゲガルドのカトリケーはペンデンティヴ、オズーンのカトリケーはスキンチである)。一方、アルメニアやジョージアの聖堂では、イスラームのモスクと違い、ドームの下に、ドームと同じ直径の高いドラム(胴部)を立ち上げて 採光用の窓をつける。すると、このスキンチやペンデンティヴ部分が ドラムよりも外側に出っ張ってしまうので、そこに 小屋根が必要となるのである。ドラムを多少ふくらませるだけでも納まりそうにも思えるのだが、アルメニア建築では、こうした小さな部分であっても、幾何学的に、直角の原理で、三角部分に 小屋根を掛けなければ 気がすまないのである。
ゲガルドのカトリケーのドラムは、内部には ドームともども ほとんど装飾がないが、円筒形のドラムの外部は 16面に分けられ、ペアの小円柱と二重アーチで区切られ、アーチの上下には種々の動物などが彫刻されて、きわめて装飾的で、カテドラルの風格がある。このブラインド・アーケード装飾が、アニの「ティグラン・ホネンツの聖グリゴール聖堂」のそれと よく似ていることから、同一の建築家の設計ではないか という説がある。また 外壁の三角形の切り込み(ニッチ)の頂部にも、上の写真に見られるような、凝った造形が なされている。
カトリケーの西側にあるガヴィットは、聖堂が1215年なので、そのあとの10年以内、1225年までに建設されたと推定されている。 外観写真で見られるように、大きな四角い箱として設計されていて、カトリケーとは対照的な単純な造形である。屋根もカトリケーの円錐屋根と対比的にフラットに近い緩勾配であるが、中央のイェルディクの部分だけが少し高く、2段構成となっているものの、地面からは見えない。中央のスカイライトの上には 雨除けの小さなロトンダ屋根がある。外壁もほどんどはフラットであるが、窓回りだけが飾られている。特に南側中央窓の上部には「鳥を捕らえた鷹」、ハチュカル、ライオン の彫刻などのレリーフがある。西入口は岩山に遮られて、ガヴィットの中央軸から南にずれている。その尖頭アーチのタンパンには、踊るように軽快な唐草模様が刻まれている。
ガヴィットの内部は、北側が岩山を削った壁面で、ここに二つの扉口があり、ひとつは石窟の「アヴァザン聖堂」、もうひとつは やはり石窟の「プロシアン家の廟」につながっている。ちょうど そうなるように ガヴィットの位置と大きさを決めたのだろう。定形どおりに ほぼ正方形のプランで、4本の中央柱から四方にアーチを架け渡し、全体を9つのベイに分割している。中央のベイに 全面的にムカルナスをほどこしてイェルディク yerdik 状にした、最初期の作例である。石窟聖堂の石彫ムカルナスと違って、こちらは 精緻な石積みのムカルナスである。
屋上の東南隅に、6本柱の小型ロトンダの鐘楼が 17世紀末に建てられた。これは境内からよく見え、カトリケーの円錐屋根と 親子のような印象を与える。
ゲガルド修道院の敷地は南斜面で、境内は切り土と盛り土によって平らにしたので、下の道路からは だいぶ高くなっている。北側は切り立った岩山で囲まれているが、南側を囲む周壁は 道路面から城壁のように聳え、バットレスを兼ねた円形の櫓まで建っているので、要塞修道院の趣きを呈している。周壁の内側には、17世紀の事務所や食堂、修道院長の住居などが一列に並んでいたが、18世紀と20世紀に建て替えられているので、古いものは残っていない。
( 2021 /03/ 01 ) |