アルメニアとジョージア
アルメニアの北隣が ジョージア(グルジア)である。中東の最北部に位置し、北側を走るカフカース山脈が ロシアとの国境をなす。アルメニアと同じく ソ連邦の一員だったが、ソ連の崩壊によって、数百年ぶりに独立を果たすことができた。
世界で最初にキリスト教を国教にしたのは アルメニアだが、2番目はジョージアで、337年のことである。アルメニア語が固有のアルファベットを創った5世紀には、ジョージア語も独自のアルファベットを創った。大国に囲まれた通商路に位置したために、絶えず侵略され、国家滅亡の憂き目に会うという 苦難の歴史を歩んだのも、アルメニアと同様である。
この似たもの同士の両国が決して一つの国にならず、むしろ対立することのほうが多かったのは、人種的にも言語的にも まったく別の系統に属していたからだろう。アルメニア語がインド・ヨーロッパ語族であるのに対して、ジョージア語は南カフカース諸語の カルトベリ語派に属している。
聖サバス聖堂内部
キリスト教史の上では、どちらも 451年のカルケドン公会議を否認して 単性論に傾いたが、7世紀には袂を分かって 別々の独立教会となった。アルメニアは独自の道を貫徹したが、ジョージアはコンスタンチノープルの正教会と連携し、ずっと後には ペルシアによる支配を避けるために ロシアの保護を求めたので、ロシア正教のにおいも強い。
アルメニア聖堂にはイコンがないのに、ジョージア聖堂はイコンに満ち、壁画、天井画で色鮮やかに飾られている。全体として、ジョージア建築は ビザンチン建築に含めることができよう。
しかし、アルメニアとジョージアの違いは、教派の歴史によるものだけではない。極端に言えば、アルメニア人は建築的民族、ジョージア人は絵画的民族なのでは なかろうか。ジョージアでは ごく古い聖堂にまで、(時には稚拙な)新しい壁画を描いてしまおうとする性向には、驚いてしまう。逆に アルメニア聖堂に壁画が残っている場合は、ほとんどがジョージア人の手によるものである。
聖人の壁画と、「ユダの接吻」
ジョージアが 6世紀末にムツヘタに建てた ジュヴァリ聖堂は 四アプス形式で、これはアルメニア建築に大きな影響を与えた。しかし、その後の建築の発展は アルメニアの方がはるかに先を行き、多様な聖堂形式と 建築的興趣に富んだ修道院伽藍を生んだのに比べると、ジョージア建築は ずっと単調である。そのかわり 聖堂内に入ると、そこには色彩の饗宴があり、聖書の絵解き的な 偶像の世界が待っていて、アルメニア聖堂とは まったく別の世界を見せてくれる。
聖サバ聖堂
ジョージア王国の黄金時代をなす 11〜13世紀には、ニコルツミンダやゲラティの華麗な聖堂を残したが、ここに採り上げるのは それより少し遅く、13世紀末から 14世紀初めにかけて アハルツィヘの近くの山上に建てられた サパラ修道院である。緑に覆われた急傾斜の山がつくる 美しいロケーションからは、はるか遠くの野山まで見渡せる。ここはサムツヘ・ジャケリ地方の支配者の 住居と墓所であった。山頂には城塞があり、山の各所に 宮殿と 12の聖堂があったと伝えられる。ジャケリ家の長、サルギスは、ジョージアの黄金時代を築いたバグラト朝を滅ぼしたモンゴルとも 良好な関係をつくったので、この地の平安が保たれたのである。
サパラ修道院の平面図
(From "Miroir de l’Invisible" Zodiaque, 1996)
ここには それ以前の 10世紀に建てられていた小聖堂があり、その隣に 建築家のパレザスジェが設計したのが、サパラ修道院の中心となる 聖サバ聖堂である。基本的に矩形のプランをしていて、三廊式ではあるものの 奥行きが短く、中央部が吹き抜けてドーム天井が架かっていることから、ビザンチンの集中式聖堂に近い。ジョージアでは、ドーム天井の下のドラム(胴部)が異常に長い聖堂が多いが、サパラでは 適度な長さに調整されているので、装飾過多でない外壁とあわせて 爽やかな印象を与える(アルメニア聖堂に近いとも言えるが)。
内部は壁画で飾られ、聖人たちや、聖書のさまざまな場面が描かれているのは、他のジョージア聖堂と同じである。アプスの手前には ビザンチン特有のイコノスタシス(聖障)が設けられているが、ここでは壁でなく アーケードになっていて奥が透けて見えることが、堂内に開放感を与えている。
中央のドーム天井見上げ
聖サバ聖堂で 何よりも印象深いのは、中央ドーム天井に描かれた「キリストの昇天」である。4人の天使によって支えられたキリストが ドーム中央に描かれ、背景は鮮やかな朱色に塗られている。この天井画は 数あるジョージア聖堂の中でも とりわけ清澄感に満ちたドーム天井をなし、絵画と建築とが 最もよく調和した作品であると言えよう。
( 2005年 5月「中外日報」)
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