聖ソフィア大聖堂の再建
そもそも 現在の規模の、主身廊のスパンが 33mもあるような巨大聖堂となると、木造の梁では不可能で(そんなに大きな部材は得られない)、組積造のアーチやヴォールト、ドームの技術を用いる他はない。そこで、この設計者として任命されたのは、建築家ではなく、技術家(エンジニア)と記録されている、トラレス出身の アンテミオスと、ミレトス出身の イシドロスであった。このことは、近代建築の発展に エンジニアが大きな役割を果たしたことと似ていて 興味深い(例えば、水晶宮を設計した ジョセフ・パクストンや、エッフェル塔を設計した ギュスターヴ・エッフェルなど)。それまで見たこともないような 大胆な構造物を実現させるには、建築家よりも技術家のほうが ふさわしいのかもしれない。しかしまた そのことが、聖ソフィアを、美的には今ひとつ物足りなくさせる原因となったであろう。
ギリシア文明を受け継いだローマ帝国は、ギリシア神殿の美学を継承しながら、西アジアまで領土を拡大して、ペルシアやメソポタミアの建築文化からも 大いに学び、ギリシアにはなかった アーチやドームの技術を身につけていった(それをヘレニズム文明という)。それが、水道橋のような大土木工事や、ローマのパンテオンのようなドーム建築を発展させることとなった(パンテオンについては、こちら を参照)。聖ソフィアを設計するにあたって アンテミオスとイシドロスは、このパンテオンを 大いに参考にしたにちがいない。しかし その模倣ではなく、バシリカ式の三身廊のプランでありながら、巨大な主身廊を、中央ドームとその前後の半ドームで覆うという、実に独創的な形式を編み出した。これは先例がなく、また後継建物もないという、建築史上 まれにみるユニークな傑作を ものしたのである。
聖ソフィア大聖堂の 断面図
(From the "Constantinople" by Stephane Yerasimos, 2005)
断面図を見ればわかるように、これは、文字通り「被膜的建築」である。大きな空間を「囲いとる」ということ。それを実現するのは、建築家であるよりは技術者(エンジニア)なのだった。したがって、この巨大な内部空間に入った時、その大胆な技術と、囲い込まれた空間の壮大さに感動するが、では その外観はというと、必ずしも「美」であるとは言えない。言ってみれば、それは内部の空間を囲み取った「結果」の形態に過ぎないのである。
この「被膜的建築」の原理を、トルコのイスラーム建築は 受け継ぐことになる。それは イスラーム建築の理念に叶っていたからである。アラブ型のモスクも、ペルシア型のモスクも、形こそ違え、「被膜的建築」なのだった。
聖ソフィア大聖堂が トルコのイスラーム建築に及ぼした影響は莫大であったが、しかし、ドームを主とするモスク建築は、コンスタンチノープル陥落以前から、アナトリアで、トラキアで、造られていた。アラブ型ともペルシア型ともインド型とも違う 大ドーム式のモスクをトルコが発展させた第1の条件は、「気候」であった。寒冷地のイスラームが要求したのは、「中庭型」ではない、内部空間としての「ホール型」モスクだったのである。
現代になっても、ここを訪れる観光客の誰もが、その「体育館のような」、巨大でいて、しかも 古典的な石造建築の内部空間に 驚愕せざるを得ない。
聖ソフィア大聖堂の内部と 天井
しかしながら、この大胆きわまりない建築作品は、その大胆さのゆえに 設計に無理があったのと、おそらくは 皇帝によって竣工時期を急がされたであろうがゆえに、工期わずか5年 11か月という突貫工事となり、無理に無理を重ねた大聖堂は、奇跡的に現代まで生き延びては いるものの、苦難の歴史を歩んできたと言ってよい。
中央ドームは 557年の地震によって崩落し、イシドロスの甥で 同名のイシドロスという建築家 (?) によって5年後に再建された。869年の地震では 西の横断アーチと半ドームに亀裂がはいり、補修したものの、989年の地震でドームの西側3分の1が崩落した。再建は アルメニアの建築家で、かつてのアルメニアの首都 アニの大聖堂を設計した トゥルダトに委嘱され、994年に竣工した。
1347年にも 地震でドームの東側 3分の1が崩壊、アストラスとジョヴァンニ・ペラルタによって 1354年までに再建された。
E・アントニアデスによる、創建時の 中央ドームの復元断面図
(From the "Hagia Sophia" by Rowland J. Mainstone, 1988)
この巨大なドームは 何度も崩壊したことがわかるが、E・アントニデスが資料に基づいて推定した、創建時の中央ドームの 復元断面図がある。実に扁平なドームである。33mもの直径をもつ大ドームが、これほどに浅いドームでは、崩壊するのも無理はない と思わせる(エンジニアが設計したというのに、これはどうしたことだろうか)。その後何度も再建されて、現在のような、半円に近いドームとなって(頂部の高さが 約6m高くなった ことになる)、現在は安定しているが、しかし油断はならない。
聖ソフィア大聖堂が 満身創痍となりながらも 現代まで保存されたことは、大いに喜ばしいことである。危機は 構造的なことばかりではなかった筈だ。建築史の上では、政権や宗教の交代によって 破壊されたモニュメントの例は、枚挙にいとまがないが、この聖堂は コンスタンティノープルが オスマン・トルコ軍によって陥落し、ビザンティン帝国が滅亡した時、オスマン朝のスルタン・メフメト1世は 寛容にも この異教の聖堂を破壊せず、モスクに転換して、アヤ・ソフィア・ジャーミイ の名で保存することとした。
ずっと後、そのオスマン帝国が滅びて 新生トルコ共和国が成立すると、初代大統領 ケマル・アタチュルク(1881-1938)は 政教分離政策によって、これを宗教から解放し、博物館として保存して、世界中の人々に開放したのだった。その後は文化財として、また観光資源として、修復、保存活動が続けられている。
聖ソフィア大聖堂の 内部各部
さて、この聖堂の構造、特にドーム建築というものについて 詳しく書こうと思っていたのだが、写真を整理、スキャンしながら想を練っているうちに、奇妙なことに気付いたので、予定を変更して、主にそちらのほうを、以下に書いておくことにした。したがって、聖堂細部やモザイクについては、本文がないことをご了解いただきたい。
モスクの キブラ(マッカの方向)
聖ソフィア大聖堂を訪れた人は 誰でも覚えていることだろうが、一番奥のアプス(キリスト教聖堂の祭壇が置かれる、半円形の至聖所)に、モスクに転用されてから設置された イスラーム教の豪華な ミフラーブがあり、その向きが、キリスト教聖堂としての中心軸と、わずかにずれている。なるほど、これが教会堂とモスクの違いかと、誰もが思ったことだろう。
まず、ミフラーブとは何か、ということを 拙著『イスラーム建築』(マフィアの圧力によって、どこの出版社も出版拒否をしているのであるが)から引用しておこう。(第 2章「イスラームの礼拝空間」の中の「モスクの構成要素」から)
聖ソフィア大聖堂の アプスに設置されたミフラーブ
● キブラ壁とミフラーブ
世界中のすべてのムスリムは マッカ(メッカ)のカアバ神殿に向かって礼拝をする。前述したように、この礼拝方向のことを キブラといい、モスクの一番奥のマッカに面する壁を キブラ壁という。したがって モスクの中では、人びとはマッカに向かって というよりは、キブラ壁に向かって 拝礼をすることになる。で、他人の頭越しにでなく、一人でも多くのムスリムが 直接この壁に面することができるように、キブラ壁は できるだけ長く用意される。礼拝室が 奥行きよりも幅広となることの多い、ひとつの理由である。
モスク建設にあたっては このキブラを正確に定めることが 第一に必要なので、そのことのためにも 天文学や測地学が大いに発展した。しかし、すべてのモスクが 厳密にマッカの方角に向いているかというと、実際には ある程度の幅がある。筆者が不思議に思ったのは 中央アジアのブハラの町で、ここから マッカの方角は南西になるはずなのに、ほとんどのモスクやマドラサが西に向いているのである。ヒヴァの町では 正しくマッカの方向に向いているから、測量技術が未発達だったわけではない。どうやら 地形に合わせた道路のパターンに従わせた結果らしい。カイロの場合には 道路パターンに逆らっても、強引に キブラを守ろうとしていたのと 大きな違いである。
このキブラ壁がマッカに面していることを示すために、壁の中央部には 必ず壁龕(くぼみ)が設けられ、これを ミフラーブとよぶ。これは マッカの方向を指示するためのサインであって、ミフラーブを備えなければキブラ壁とはいえない。通常は 半円形のプランをしているが、ディヤルバクル のように 多角形をしていることもある。スペインから北アフリカにかけては 八角形の独立した部屋のようになっている こともあるので、キリスト教の内陣のような 至聖所と勘ちがい されやすい。しかし、これは あくまでも「方向指示器」にすぎないのであって、祭壇のたぐいが置かれることは 決してないし、特別な人やイマームのための場所であるわけでもない。筆者のような異教徒が ここに立っても 咎められることはない。 (中略)
ミフラーブという語の起源は 明らかでないが、ウマイヤ朝の ハリーファ・ワリード1世が 706年に預言者のモスクを改築したときに設けたのが 始まりらしいから、ムハンマドは ミフラーブを知らなかったことになる。通常は一つのモスクに一つのミフラーブがあるのだが、大きなモスクでは 中央に 主ミフラーブ、左右の離れた所に 副ミフラーブを設けることもある。とくにインドでは、キブラ壁の1スパンごとに小ミフラーブを備えて にぎやかである。どこもかも彫刻的にしなければ気のすまない インド人気質のあらわれと言える。
聖ソフィア大聖堂の 壁面装飾と柱頭
聖ソフィア大聖堂のアプスの方向
さて、聖ソフィア大聖堂のアプスでは、モスクに転用してからも、そこにキブラ壁を造ることはせず、単にミフラーブと その周囲のみを装飾的に作ったパネルを 設置しているに過ぎないが、背後の教会堂としての中軸上にある 青いステンドグラス窓との角度の差は、ひと目でわかる。聖堂は エルサレムの方向に向けて建てられ、マッカの方向との ずれの角度は6度であるとか、5度であるとか、インターネットの いくつかのサイトに書いてあるが、おそらく旅行ガイドに そう説明されたのであろう。学問的な記録はないかと探したが、とうとう見つからなかった。しかし、イスタンブルから マッカの方向(キブラ)が何度になるかというのは、今では インターネットで 簡単に調べられる。
ISLAMIC FINDER
ISLAMIC FINDER という、世界各地からのキブラを 正確に示すサイトによれば、イスタンブルからは、真北から時計まわりに 151.601738 度だという(以下、151.6度で計算することにしよう)。ということは、真南からは 東側に 28.4度ということだ。
中東の地図の上で、イスタンブルとマッカを結んで 定規で線を引くと、確かにその角度であることがわかる(イスタンブルからは 南南東)。エルサレムとも結んで線を引くと、キブラ方向とのずれは 3度か 4度くらいであるように見えるが、地球の球面を平面の地図に落としているのだから 誤差があるはずで、実際には 5度か 6度であるのかもしれない。
すると 辻褄(つじつま)があっているように見えるが、では、元々の聖ソフィア大聖堂の正確な向きは何度なのかと調べると、フリーリーと チャクマクによる ”BYZANTINE MONUMENTS OF ISTANBUL" という本の 92ページに、実測平面図の掲載とともに、聖ソフィア大聖堂の軸線の角度が、真東から南へ 33.4度 だと書かれている(イスタンブルからは 東南東)。どの建築史の本を見ても、それくらいの方位記号のはいった配置図が載せられているから、確かなのだと思う。
ところが 驚くなかれ、地図の上でイスタンブルからその方向に線を引くと、エルサレムに行くどころか、何と、ほぼ バグダードの方向に行くのである。
キリスト教の聖堂は 東 に向けて配置する というのが常識で、どんな本にも そう書いてある。しかし、その理由は何なのか ということを 以前 調べた時に、どんな本にも それを見いだすことができなかった。東が 夜明けの方向だからとか、東方三賢王のやって来た方向であるとか、西ヨーロッパから見て エルサレムが東のほうだから、といった説明は、どれも大した根拠にならない。キリスト教の聖堂建築が まず発展したのは、中東であるからだ。日本にキリスト聖堂を建てる時に、東(アメリカの方向)に向けることに、意味があるだろうか?
聖ソフィア大聖堂の モザイク装飾
イスラームの場合は きわめて明快で、世界の どこにあろうと、すべてのモスクは 必ず アラビアのマッカ(メッカ)に向けて配置するのである。同様にして、キリスト教の聖堂が 必ず聖地エルサレムに向けて配置されるのであれば、実に理解しやすいが、そうした聖堂は稀であろう。事実、聖ソフィアは、エルサレムに向いてはいなかった。むしろ、後のアッバース朝イスラーム帝国の首都、バグダードに向いていたのである。
キリスト教では、一応は 聖堂の向きを 東 としては いるものの、実際の敷地の地形に適合させて 向きを変えることは、何ら違反にならなかったから、ヨーロッパの古都の都市図を見れば、多くの聖堂が あちらこちらを向いて建てられているのが普通である。たまたま バグダードの方向に向いた聖堂があったとしても、何ら不思議ではない。問題は、バグダードの方に向いた聖ソフィア大聖堂の中軸線と ほんの数度だけ ずれた方向に向けて、モスクとしてのミフラーブが アプスに置かれている、という事実である。
先述のように、イスタンブルからマッカの方向(キブラ) は 真南から東へ 28.4度であり、聖ソフィアの中軸線は 真東から南へ 33.4度であるのだから、イスタンブルからのマッカの方向と 聖ソフィアの軸線の方向との差は、90度−28.4度−33.4度= 28.2度ということになる。わずか 4度とか 6度といった 小さいものではない。
イスタンブルからの方位
つまり、あのミフラーブは、絶対に マッカの方向を示しては いない のである。にもかかわらず、ここを訪れる人は それを見て、ああ、エルサレムの方向とマッカの方向は ずれているのだなと、それだけを納得して終わるのである。
奇異の念に打たれて、イスタンブルの都市図を調べてみると、ほとんどのモスクが、聖ソフィアより わずかに南にずれた方向、つまり アプスに置かれたミフラーブの方向に向けて 配置されている。すると、イスタンブルの ほとんどのモスクが(ブルー・モスクも スレイマニエも)、本当のキブラ方向とは異なった方向に向けて 配置されていることになる。
オスマン建築のキブラ
そこで、今回の旅行で見つけた豪華本、オスマン建築を集大成して、700ページ以上にわたってカラー写真と図面を添えた大型の本(重さが 4.2kgもある)、ドーアン・クバン(トルコの 最長老 建築史家)による “OTTOMAN ARCHITECTURE” を調べてみたら、何と、驚いたことに、250点以上も掲載された平面図に、一切 方位記号が 載っていないのである。
そんな馬鹿な と思って、これも大部の、ギュルル・ネジポール(ハーバード大学教授で、『ムカルナス』の編集長)の “THE AGE OF SINAN” を見たら、驚くべし、このトルコ最大の建築家 シナンの作品の研究書でさえも、すべての図面に方位記号がない。さらに、あろうことか、オスマン建築史の古典的名著、ゴドフレイ・グッドウィン(1873-1933)の “A HISTORY OF OTTOMAN ARCHITECTURE” も 同様である。
私は まったく知らなかったのだが、これは トルコの建築史家の間の 暗黙の行動規範になっているらしい。建築書であるなら、通常は平面図、とりわけ配置図には 方位を示すのが常識(必須)であるのに、トルコの建築史家だけは、それを意図的に、完全に避けているのである。
この、あまりにも奇妙な習慣に 憶測をめぐらせるとすれば、コンスタンティノープルを陥落させるや、聖ソフィア大聖堂をモスクに転換すると宣言した スルタン・メフメト1世が、イスタンブルからのエルサレムの方向と マッカの方向の「わずかな」ずれをのみ強調して、ほとんど同じ方向だから、聖堂を改築することなく、最小限の改装だけを施して、そのままモスクとして使用する、と決定したために、誰もスルタンに逆らうことはできず、(聖ソフィアはエルサレムの方向を向いているものとして)数度のずれを示すミフラーブを 聖堂のアプスに設置するだけで済ませてしまった。以後、イスタンブルのモスクは すべて この方向をキブラ方向として配置するのが 慣例になった。
しかしトルコ共和国となって 近代化が進むにつれて、その作為は露わになったであろうが、といって 今更 すべてのモスクの方向を正して 改築するわけにもいかず、また それを暴くのは 国家の恥をさらすことになる、あるいは 国民を欺いて誤った方向に礼拝させてきたことになるとして、すべての建築史家が そのことを伏せ、といって 嘘をつくわけにもいかず、自著に一切の方位記号をいれず、実際の方位の問題に触れない、ということが 暗黙の行動律になってしまった のではなかろうか?
こんな憶測でもしない限り、今回降って湧いた 私の疑問に答えるすべは ないように思われる。拙著『イスラーム建築』では(出版されないが)、すべての平面図を マッカ方向を上にして掲載したので、実際の方位は あまり気にしなかったのである。
ただ、前述のフリーリーと チャクマクの本に小さめに掲載された 聖ソフィアの実測平面図に示されている、ミフラーブ前の基壇の線をもとに 無理して測ってみると、置かれたミフラーブと 聖ソフィアの中軸線との角度のずれは 意外と大きく、17度くらいである。もしそうだとすれば、アプスに置かれたミフラーブと実際のキブラとのずれは、約 11度ということになる。前述の、ウズベキスタンのブハラの町においては ほとんどのモスクがキブラ方向(南西)から かなりずれた 西方に向いていることなどを勘案すれば、これは 許容範囲ということになるのかもしれない。オスマン朝の皇帝(スルタン)は ハリーファ(カリフ)を兼ねていたから、そう決裁するのは 容易ではあったろう。
( 2012 /11/ 01 )
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