GALLERY of WORLD ARCHITECTURE
タクシラ(パキスタン)
タクシラの都市遺跡

神谷武夫


パキスタン・イスラーム共和国、パンジャーブ州、首都イスラマーバードの西約30km
1980年 ユネスコ世界遺産の文化遺産に登録

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 ラワルピンディとペシャーワルを結ぶ幹線道路沿いに位置するタクシラの遺跡は、かつて富み栄えた商業都市が廃墟となったものである。アジアのなかでも最も重要な発掘遺跡のひとつであることは間違いない。しかし、その広大な地域の都市施設は、多くが今も発掘を待ち受けている。この地にはギリシアの影響を受けた都市計画ばかりでなく、ギリシアとインドの様式が混交した仏教寺院やストゥーパがあり、のちにはイスラームのモスクやマドラサ(学院)までも建造された。これらの都市の遺構は、紀元前 6世紀から中世初期にいたる長い発展のあとを物語っている。



商業と文化の都

 タクシラは、中石器時代にも既に村落であったとされる。それが古代の最も豊かな商業中心地にまでなったのは、中国と西アジアを結ぶ隊商路であるシルクロードの1ルートに沿うという、地の利をえたからである。インド神話によれば、タクシラという名は、ここで国王になったタクシャという王子の名前に由来している。それゆえにサンスクリット語ではタクシャシラーとよばれたが、かなり古くから「タッカ族の町」という意味のタッカシーラともよばれた。

 タクシラはいくたびも興亡をくりかえした商業都市であったが、紀元前6世紀から前4世紀にかけては、アケメネス朝によるペルシア帝国の学問、芸術の都でもあった。紀元前4世紀にはアレクサンドロス大王(在位前 336〜前 323)が侵入して、ヘレニズム文明を伝えている。紀元前 3世紀にはマウリヤ朝の支配下に入り、アショーカ王(在位前 268頃〜前 232頃)がここに仏教大学をつくったと言う。紀元前 180年頃になるとギリシア人がシルカプ地区に新しい町を作り、1世紀にはクシャーナ朝がシルスフ地区に新しい都市を作って、3世紀まで帝国の首都とした。

 しかし、5世紀のフン族の侵入によってタクシラの凋落が始まり、また貴族間の絶え間ない衝突が帝国を終焉へと導いていった。その後イスラーム教徒がこの谷あいの都市に侵入して預言者ムハンマドの旗を掲げると、それまでのタクシラの住人はこの地を去っていった。現在に残る主要な都市遺構は、ビール丘およびシルカプ地区、シルスフ地区の3ヵ所であるが、そのほかに多くの僧院やストゥーパの遺跡が山間に残されている。

第1の都市、ビール丘

ビール丘の遺跡

 言い伝えでは、ビ−ル丘は最古の集落とみなされていて、アケメネス朝によるその創設は紀元前6世紀にまでさかのぼる。そこには、すでに意図的な都市開発の兆しを読み取ることができる。東側の発掘地では、広場のまわりに住居地区が配されている。住居は石の基礎の上につくられているが、屋根を支える柱は木であった。また、街路の交差点にある家の角には、荷車の衝突による破損を防ぐために石の柱が取り付けられていた。さらに、汚水は土中へ浸透させるべく、公共の、あるいは個人の「排水用井戸」へ注ぎ込むようになっている。

 発掘域のなかで、第2道路と第3道路が交わる所には、半円形の平面をした目立つ区画がある。これは行政センターとしての建物群であったのかもしれない。西の方には「会堂」とよばれる、内部に3本の柱が立っていたホールの遺構があるが、これが祭儀の建物であったかどうかは、いまだに議論の分かれるところである。また、ビール丘から発掘されたテラコッタのレリーフ群には、手を取り合う男女神が描かれているものが多いが、パキスタンの人々が主張するような、インド亜大陸で最初のヒンドゥ寺院が本当にここにあったという証明は、いまだなされていない。


第2の都市、シルカプ

  
シルカプのメイン・ストリートと前方後円形の寺院址

シルカプ地区は紀元前 180年頃に、もともとはヒンドゥークシュ山脈を越えてやって来たバクトリア王国のギリシア人たちの建設になる。紀元前 1世紀以降、碁盤目状の整然とした街区がつくられ、南北を貫く大通りが設けられた。けれども考古学者によって発掘された遺跡は、そのあとを継いだパルティア人の時代のものである。地震に襲われた後、建設者たちはそれまでのような野石をそのまま利用するのをやめて、裏側に突起のある切石を積んで市壁を築いた。市門には奥行き 11メートルのホールがあり、市壁の両側にはそれぞれ望楼が建てられた。また、2本の川が近くを流れていたので、水場や排水施設は都市内にはつくられていない。

 シルカプは1世紀にクシャーナ朝に滅ぼされることになるが、それ以前に、大通りに沿っていくつもの宗教建築が建てられた。最大のものは前方後円形の寺院で、街並みと厚い塀に囲まれた広い境内の中央にある。ポーチのついた拝堂とその奥の円形の聖室からなり、壁面はアカンサス紋様のスタッコで装飾されていた。この寺院の聖室には、インドのチャイティヤ堂と同じようなヴォールト屋根が架けられ、ストゥーパが祀られていたと考えられる。

     
シルカプの小ストゥーパと彫刻

 この寺院のすぐ近くには「双頭鷲のストゥーパ」とよばれる小ストゥーパがある。その基壇の壁面は、おそらくクシャーナ朝によってもたらされたと思われるコリント式のピラスター(付け柱)群で仕切られていて、それぞれギリシア風の切妻型の神殿や、アジャンターの石窟寺院に見られるようなチャイティヤ堂、そしてサーンチーに見られるようなトラナ(記念門)が彫刻されている。切妻の破風(はふ)は、おそらく色のついた動物の図柄で装飾されていたことだろう。この遺構にはさまざまな地方の様式が併存していて、東西美術の結節地であることを示している。伝説では、十二使徒のひとり聖トマスが、南インドへの伝道の旅の途中、40年にこの地の宮殿に滞在し、そこでパルティアの国王ゴンドファルネスに謁見したということである。

第3の都市、シルスフ

シルスフの市壁遺跡

 クシャーナ朝によって建設されたシルスフ地区の遺跡にも、明らかにギリシアの影響がある。またシルスフは、山や川の自然の地形に沿っているものの、全体が半円形の稜堡(りょうほう)を伴う矩形(くけい)の平面形をした高い市壁に囲まれていて、中央アジア風の都城となっている。しかし4世紀末のササン朝ペルシアの侵入には抗することができなかった。この都市の遺跡は大部分がイスラムの墓地になっているので、今もごくわずかしか発掘されていない。


山間の寺院と僧院

  
ダルマラージカーの大ストゥーパ遺跡

5世紀にフン族が王国を略奪すると、シルスフとともにダルマラージカーの仏教寺院も破壊された。この寺院には、パキスタンでも有数の大遺構がある。現地の人々にチル・トープとよばれる巨大なストゥーパである。その中心部は 4世紀から 5世紀にかけて建立され、直径 45メートルの基壇の上に建っている。また基礎は放射状をしていて、中心部から外壁へとのびる16本の土台によって支えられており、建物全体がブッダの象徴である法輪の形をしている。往時は僧室や小祠堂、そして巡礼者による奉献ストゥーパ室といった小室群が、半球形をしたこのモニュメンタルな大ストゥーパの繞道(にょうどう)を取り囲んでいた。ストゥーパの壁面は、今では中央の一部が残されているのみである。

    
ジャウリアーン僧院の遺跡

 シルスフの東方には、ジャウリアーン寺院がある。ストゥーパの、ピラスターによって区画された壁面上で深い瞑想にふける仏像の数々は、破壊された建物の かつての華やかさを しのばせてくれる。
ジャウリアーン寺院の西、丘陵の谷あいにはモフラ・モラードゥ寺院があり、ストゥーパとヴィハーラ(僧院)が向かい合って整然と配置されている。

  
モフラ・モラードゥのストゥーパ地区と奉献ストゥーパ

またシルカプとシルスフのあいだには、ジャンディアール寺院とよばれる、完全にギリシア風の遺構がある。奥行きが 50メートルで、イオニア式の円柱をそなえた神祠であるが、現在は土台と ごく一部しか残っていない。ゾロアスター教の寺院ではないかともいわれるが、明らかではない。


平面図 (From "Architecture in Pakistan" by Kamil Khan Mumtaz, 1985)

  
ジャンディアールの寺院遺跡

(『ユネスコ世界遺産』インド亜大陸 1997 講談社)


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