チャールズ・フェローズ
今回採りあげる古書は、今から ちょうど 180年前の 1839年にロンドンで出版された、チャールズ・フェローズ (Charles Fellows) の『小アジア紀行』("A JOURNAL WRITTEN DURING AN EXCURSION IN ASIA MINOR")と、その2年後に続編として出版された『リュキア紀行』("AN ACCOUNT OF DISCOVERIES IN LYCIA")です。出版社は、この「古書の愉しみ」で紹介してきた ジェイムズ・ファーガスンや A・B・ハヴェルのほとんどの著書、そして岡倉覚三(天心)の本も出した ジョン・マリー社です。
現在のトルコ領のアナトリア南部にある リュキア地方とその古代文化(特に石窟墓と石棺)、それが古代インドの石窟寺院に影響を及ぼしたであろうことについては『 リュキア建築紀行(石窟寺院の謎)』のサイトに書きましたので、それをお読みください。ここには そのリュキア地方を初めて総合的に調査して2冊の本を書いたチャールズ・フェローズについての簡単な説明を そこから引用しておきましょう。
チャ-ルズ・フェロ-ズ
Drawn by William Brockedon
(From "Xanthus, Travels of Discovery in Turkey" by Enid Slatter)
古代リュキアの文化史跡をはじめて総合的に探査したのがイギリスの考古学者、チャールズ・フェローズ(1799 -1860)であった。彼が最初のリュキア旅行をしたのは 1838年で、それは 『小アジア紀行』という本にまとめられ、1840年の第2回調査旅行は『リュキア紀行』という本に書かれて、イギリスの美術界や考古学者の注目を集めた。
彼はインド建築史をはじめて体系化した建築史家、ジェイムズ・ファーガスンよりも9年、インド考古学の父であるアレクサンダー・カニンガムよりは 15年早く生まれたにすぎないから、ほとんど同世代の人である。
ヨーロッパ人の考古学者や建築史家がアジアに乗り出していった 19世紀、先行する探検家や旅行家による情報に触発されて、フェローズはアナトリアの文化を探求する旅に出発し、知られざるリュキアの遺跡群を発見した。とりわけ、かつての首都である クサントスの遺跡の調査に力を注いだので、彼の報告をもとに、大英博物館は海軍の助けを借りながら彼の助言を受け、最も重要な「ネレイデス・モニュメント」や「パーヤヴァ石棺」をはじめとする数々の遺物をロンドンに運んでしまったのである
クサントスの遺跡と、ネレイデス・モニュメント
今から 150年ほど前の 1848年には大英博物館に「リュキア展示室」がつくられて、その展示品が大評判となったものだが、20世紀にはいると次第にリュキアもフェローズの名前も忘れ去られ、展示品は分散してしまった。その後、リュキア考古学は大きな発展をみていない。
リュキアは英語ではリシア LYCIA、トルコ語ではリキア LIKIA と言うが、美術史ではギリシア語読みの リュキア と表記するのが慣例なので、ここでもそれに従う。したがってミラではなく ミュラ、リミラではなく リミュラ、フリギアやフリジアではなく フリュギアと表記する。
リュキア王国とはいうものの、前4世紀頃には古代ギリシアのような都市国家の連合体であったらしく、それを「リュキア同盟」と呼んでいる。プリニウスによれば当時 36の都市が加盟していたといわれ、最大の都市がクサントスであった。リュキア人は独立心が強く、アナトリアではローマ帝国に組み込まれた最後の地方である。 今はどの都市にも民家や宮殿は残っていないので、見ることのできるのはアクロポリスの上の城址、ローマ時代の野外劇場、ビザンチン時代の聖堂跡などであるが、リュキアの建築を最もよく伝えるのは山の斜面に設けられたネクロポリス(死者の都、墓所)である
『 小アジア紀行 』
小アジアというのは、現在のトルコのアジア側部分で、巨大な半島状にアジアからヨーロッパ側に突き出た地方を、ヨーロッパ人がアジアの先端部分として 「小アジア」と呼んだのです。しかしトルコ人が中央アジアからここへ移住してくるよりもずっと昔の 古典古代の時代、ここはギリシア文化とペルシア文化の揺籃地であり、両者がぶつかり合った地でもありました。下のフェローズの旅程地図上の地方名は ローマ時代からの呼び名で、それらが美術や音楽の用語に度々出てくるのはご存知でしょう。ギリシア建築のオーダー名であるドリア、イオニアなどもそうです(コリントスは都市名です)。
現在では 小アジアというのは奇妙な名前に感じられるので、あまり使われません。イスタンブル(かつてのコンスタンチノープル)が ヨーロッパとアジアの境い目に位置するので、そこから東のアジア側トルコ領をアナトリア(トルコ語ではアナドル)と呼びます。これは半島状の広大な領域で、西半分は 古代にギリシアに支配されたので、ギリシアの影響の濃い史跡が多くあります。東半分はずっとアジア的と見なされ、古代にはヒッタイト王国が栄えましたが、 ペルシア帝国、ローマ帝国に支配されたあとトルコ人が来住し、セルジューク朝、そしてオスマン朝を打ち立てました。いわゆる「大アルメニア」の地域だったこともあるので アルメニア文化の史跡も散在しています。
チャールズ・フェローズが旅した19世紀半ばは まだオスマン帝国の領土でしたが、次第にイギリスが進出していたので、ヨーロッパ人の旅行も可能になっていました。当時のヨーロッパ人は もっぱら小アジアと呼んでいましたが、フェローズは『小アジア紀行』の序文に
「小アジア(今ではアナドゥリ(Anadhouly)の名で知られる)・・・」
と書いているので、名称の過渡期だったのでしょう。アナトリア(アナドル)の語源は古代ギリシア語で、(ギリシアから見て)「陽が昇る地方」の意です。
チャールズ・フェローズはもともと考古学者だったわけではないので、アナトリアに行ったのは 多分に旅行家、冒険家、美術家を兼ねた、多趣味の富裕な教養人としてであったでしょう。その目的はオスマン・トルコやイスラームの文化を探求することではなく、古代ギリシアに支配されていた時代の遺物を訪ねることでした。旅行の最大の成果は、それまでヨーロッパに ほとんど知られていず、地図上にも空白であった リュキアの都市や建築の遺跡、彫刻や貨幣、石碑などを「発見」したことでした。帰国後それを知識人や美術家に知らせると大きな驚きと興味を惹き起こしたので、彼は古典学者にギリシア語の碑文を解読してもらい、それぞれの遺跡を古文献の記述と同定していったのでした。
フエローズの旅はギリシアを経由して 船でトルコ第2の都市であるスミルナ(現在のイズミール)に渡り、小アジア旅行の第一歩を記しました。ここから3か月にわたって、下の旅程地図にみられるようにアナトリア西部を一周し、その間 毎日克明な日誌をつけました。地中海沿いの自然の美しさと、知られざる遺跡の姿に感動し、すっかりその虜となったようです。帰国後、日誌に手をいれ、現地でのスケッチをもとに石版画(リトグラフ)や銅版画(エッチング)の図版(プレート)を製作し、本文中には木口木版の挿図を多数いれて、翌年出版しました。これが『 小アジア紀行 』です。
"A JOURNAL WRITTEN DURING AN EXCURSION IN ASIA MINOR"
『 小アジア紀行 』1839年, オリジナルのバックラム装の表紙
背表紙は かなり色褪せ、だいぶ壊れてしまった。
25 x 18 x 3.5 cm、347 pages、22 plates、1.0 kg
"A Journal Written during an Excursion in Asia Minor" 1839
『 小アジア紀行 』の扉と、フェローズの旅程地図
本の全体の章構成は 旅の順序で、それぞれの地方名が 章名に用いられています。以下が目次です。旅行したのは 1838年、日誌の日付を いれておきます。日誌は 1838年 2月12日〜5月13日の3ヵ月で、本の序文は 1839年5月記とあります。
第1章 リュディア地方 2月12日 - 2月23日
第2章 ミュシア地方 2月24日 - 3月6日
第3章 コンスタンチノープル 3月7日 - 3月13日
第4章 ビチュニア地方 3月17日 - 3月21日
第5章 フリュギア地方 3月22日 - 3月30日
第6章 ピシディア地方 3月31日 - 4月1日
第7章 パンフィリア地方 4月2日 - 4月13日
第8章 リュキア地方 4月13日 - 4月23日
第9章 カリア地方 4月24日 - 4月30日
第10章 リュディア南部地方 5月1日 - 5月6日
第11章 フリュギア西部地方 5月8日
第12章 リュディア地方 5月9日 - 5月13日
付章 旅行者への注意
付録 A ギリシア語表記の所見
付録 B 古代と現代の習慣の比較
版画のプレート (図版) は20枚、それに口絵 (フロンティスピース) と、見開き地図を挿入。
前回の『ジョージアの美術と建築』で扱った ヨーゼフ・ストルジゴフスキの『アルメニアとヨーロッパの建築芸術 』上下2巻と同じように、『 小アジア紀行 』もまた 著作権消滅によってパブリック・ドメインとなり、その内容は、NP のウェブサイト "DIGITAL LIBRARY" の 'Internet Archive' で公開されているので、全ページを見ることができるようになりました。20年前に 大枚をはたいて 紙の本を購入したことが 嘘のようです。次をクリックして ご覧ください。
● "A JOURNAL WRITTEN DURING AN EXCURSION IN ASIA MINOR"
(『 小アジア紀行 』、小アジア周遊の日誌 )
したがって、今までのように 主要ページをスキャンして この「古書の愉しみ」に 載せるという必要が なくなりました。特にきれいな版画のプレートだけをスキャンして載せておきます。
『 小アジア紀行 』p.219
向かいの石版画(リトグラフ)の図版
チャールズ・フェローズの原画による「アンティフェロスの石棺群」
(現在のカシュに残る「王の墓」)
『 小アジア紀行 』p.238
向かいの石版画(リトグラフ)の図版
チャールズ・フェローズの原画による「トロスの摩崖墓群」
(岩山に彫られた家型石窟墓群)
フェローズには絵の才能があり、若い時に南欧を旅した時にも多数のスケッチをし、その多くがバイロンの『チャイルド・ハロルドの遍歴』の挿絵に使われたそうです。アナトリアの旅にもスケッチブックをたずさえ、遺跡や碑文、人々の習慣などを描きました。それらを原画として作成された石版画(リトグラフ)や銅版画(エッチング)のプレートがたくさん綴じ込まれているのも、2冊の本の大きな魅力です。
『 小アジア紀行 』p.228
向かいの石版画(リトグラフ)の図版
チャールズ・フェローズの原画による「クサントスの石棺」
これが、1842年に大英博物館に運ばれて修復された「パーヤヴァ石棺」、
屋根に馬のレリーフ彫刻があることから "Horse Tomb" とも呼ばれる。
博物館の修復された石棺を ヴィオレ・ル・デュクが描いた絵は、ここをクリック。
『 リュキア紀行 』
フェローズは『小アジア紀行』をまとめたあと、小アジア、とりわけリュキア地方への思いが断ちがたく、また 学者たちや大英博物館から より詳細な情報を求められ、翌年、再度アナトリアへと旅立ちます。今回は ほとんどリュキア地方に限定して、考古学者として遺跡や遺物、碑文やコインを訪ねまわり、彼の発見物の取得許可をオスマン・トルコ政府から取り付けます。この3か月強の旅の日誌を、収集した資料とともにまとめ、版画のプレートを挿入したのが、『小アジア紀行』の続編の『リュキア紀行』です。原題を直訳すると「リュキアにおける発見の報告」となりますが、内容のほとんどは「論」ではなく「日誌」なので、『リュキア紀行』としておきます。
"AN ACCOUNT OF DISCOVERIES IN LYCIA"
『 リュキア紀行 』 1841年, 再製本されたバックラム装の表紙
24.5 x 17.5 x 5 cm、544 pages、37 plates、1.4 kg
オリジナルの表紙デザインは不明。
"An Account of Discoveries in Lycia" 1841
『 リュキア紀行 』の扉と、ミラスのギュムシュケシェン
本の全体の章構成は旅の順序ですが、今回はリュキア地方のみなので地方名ではなく、地名、件名を列記しています。ここには それぞれの最初と最後の項のみを書いておきます。以下が目次です。旅行したのは 1840年、日誌の日付をいれておきます。日誌は 1840年 2月14日〜5月28日の3ヵ月強で、本の序文は 1841年4月記とあります。
第1章 スミルナからアフロディシアス 2月14日 - 3月8日
第2章 アフロディシアスからマルシアス 3月10日 - 3月15日
第3章 アラブ・ヒッサからミュラサ 3月16日 - 3月23日
第4章 ストラトニケイアからドロモン川 3月24日 - 4月1日
第5章 穀物の不足、古代マシキュトゥス 4月2日 - 4月9日
第6章 トロスからプナラ 4月11日 - 4月15日
第7章 シディマからクサントス 4月15日 - 4月17日
第8章 パタラからリミュラ 4月21日 - 4月27日
第9章 ミュラからアリカンダ 4月28日 - 5月6日
第10章 アヴェランからマクリ 5月8日 - 5月10日
第11章 ローデスからリュシア 5月13日 - 5月18日
第12章 グレ・ヒッサオヴァシからスミルナ 5月19日 - 5月28日
付章 リュキアの碑文、貨幣・植物のリスト
付録 A ギリシア語碑文とその翻訳
付録 B リュキア語についての所見
版画のプレート (図版) は34枚、それに口絵 (フロンティスピース) と、地図2葉を挿入。
『 リュキア紀行 』の内容も、NP のウェブサイト "DIGITAL LIBRARY" の 'Internet Archive' で公開されているので、全ページを見ることができます。次をクリックして ご覧ください。
● "AN ACCOUNT OF DISCOVERIES IN LYCIA"
(『 リュキア紀行 』、リュキアにおける発見の報告 )
したがって この本も、多くのページをスキャンする必要がなくなりました。サンプル・ページだけを 載せておきます。
『 リュキア紀行 』p.135、木口木版による石窟墓の図版と、
ギリシア語の碑文とその英訳
立田洋司著『古代アナトリアの遺産』(1977,近藤出版社)によれば、
「リュキア人のことは、すでに紀元前第 2000年紀の後半に、ヒッタイト側、エジプト側 双方の史料に記録されている(ヒッタイト側では ルッカ Luqqa として、エジプト側では ルク Luku として)。また紀元前5世紀の歴史家ヘロドトスの「歴史」によると、リュキア人はミノス王の弟サルペドーンの指導のもとにクレタから到来したと述べられ、ホメーロスの「イーリアス」によれば、サルペドーンとグラウコスの指揮下でトロイア側に味方してギリシア軍と戦った ことが記されている」
ということです。そうした 非常に古い文化の遺跡群が発見されたのですから、イギリスの考古学会や文化人の驚きは大変なものでした。大英博物館はそれら遺物、とりわけクサントスからの出土品の入手をフェローズに依頼し、海軍の助けをかりて、大量の遺物をトルコからロンドンへと軍艦で運んだのでした。 1848年には大英博物館に「リュキア展示室」がつくられて、修理、修復された遺物が公開されました。それらが小さな断片群ばかりでなく、ネレイデス・モニュメントやパーヤヴァ石棺のように大きなスケ−ルのものまで含まれていたので、この3年後に開かれる 第1回ロンドン万博の前哨戦ように、人々の興味と喝采を引き起こしたのでした。
『 リュキア紀行 』p.198 向かいの石版画(リトグラフ)の図版
チャールズ・フェローズの原画による「ミュラの採色墓」
最も見事なリトグラフで、建築的にも興味深い
『 リュキア紀行 』彩色石版画(クロモ・リトグラフ)の図版
チャールズ・フェローズの原画による「ミュラの採色墓」
フェローズの旅行時に、唯一彩色が残っていた石窟墓のレリーフ
2冊の合本と、その縮小復刻版
チャールズ・フェローズは貴族ではありませんでしたが、リュキアの遺物を英国にもたらした功績により、1845年にナイト(騎士)に叙勲されたので、以後の彼の名には Sir(勲爵士)の称号がつくことになります。世紀の発見をした考古学者として、大いに名声があがりました。
その晩年の 1852年に、『小アジア紀行』と『 リュキア紀行 』を「合本」にして、同じジョン・マリー社から再出版しました。元版の出版から10年以上たって入手しにくくなったこともあったでしょうが、1巻本のほうが扱いやすく、また手頃な価格にすることも意図されました。ギリシア語やリュキア語の碑文集や、コインの絵のリトグラフ集とその解説などは 省略されました。そのかわりに付章として、クサントスの遺跡の発見と その発掘物 (Xanthian Marbles) のイギリスへの移送、展示について、82ページにわたって詳細に書き加えています。
また リトグラフやエッチングの再制作はできなかったようで、ほとんどのプレート(片面印刷の図版)が なくなりました。著者名は Sir Charles Fellows となっています。
『 リュキア地方を主とする 小アジアの探査旅行 』
"TRAVELS AND RESEARCHES IN ASIA MINOR
more particularly in the Province of Lycia"
Sir Charles Fellows, published by John Murry, London, 1852
『小アジア紀行』と『 リュキア紀行 』の合本
510ページ、1852年、ジョン・マリー社 (写真はウェブサイトより)
私が所蔵するのは、それから23年後、ドイツで復刊された「縮小版」です。ヒルデスハイムのゲオルク・オルムス出版社(Georg Olms Verlag)からですが、ドイツで需要が高かったのでしょうか ? ジョン・マリー社版とは造本・装幀も異なっていますが、内容は完全なファクシミリ製版で、実に鮮明な印刷であり、渋い緑色の布装の、堅固できれいな造本です。やはりプレートはありませんが、本文中の木口木版の図版は すべて入っています。大きさは新書版で 510ページあり、17.5× 9× 4cmと 厚手なので、プレイヤード叢書のヴァレリー編と ほとんど同じ大きさです。これでリトグラフやエッチングのプレートの縮小版さえ(写真製版であっても)挿入してあれば、申し分なかったでしょう。もっとも、歳とってから読むには 字が小さすぎて苦労ですが。
『 リュキア地方を主とする 小アジアの探査旅行 』
"TRAVELS AND RESEARCHES IN ASIA MINOR more particularly in Lycia"
『小アジア紀行』と『 リュキア紀行 』の合本の縮小復刻版
ジョン・マリー社の1巻本を ドイツの出版社が縮小復刻した。
『小アジアの探査旅行』 縮小復刻版の扉
フェローズによる リュキアの石窟墓と石棺の種々相のスケッチを銅版画にした図版は よく知られていますが、この本では それらを やや縮小して写真製版した4枚を 折り込み図版にしています。元版のエッチングよりも鮮明に印刷されているので、それらをまとめて 別ページに載せておきます。次をクリックしてください。
石窟墓と石棺のスケッチ集
チャールズ・フェローズは 1860年に61歳で世を去り、ロンドンのハイゲイト墓地に葬られました。終生に4回 小アジア、とりわけクサントスに行き、初めの2回は日誌を本にしました。後の2回は大英博物館に出土品を運ぶためでしたが、彼は親から資産を受け継いでいたので、すべて自費で旅行し、どこからも金銭的援助を受けず、ただ名誉だけを得たといいます。
( 2019 /12/ 01 )
< 本の仕様 >
● 『 小アジア紀行 』 "A JOURNAL WRITTEN DURING AN EXCURSION IN ASIA MINOR"
1839年、25cm x 18cm x 3.5cm、347ページ + 21リトグラフ +折込み地図1葉、1kg
● 『 リュキア紀行 "AN ACCOUNT OF DISCOVERIES IN LYCIA" 副題は
『 第2次 小アジア紀行 』 "A Journal Kept During a Second Excursion in Asia Minor"
1841年、24.5cm x 17.5cm x 5cm、544ページ + 36リトグラフ +地図2葉、1.4kg
どちらもチャールズ・フェローズ著 Both Written by Charles Fellows(1799-1860)
ロンドンのジョン・マリー社刊 John Murray, London、バックラム装のハードカヴァー
本文中に多数の木口木版による図版がある
● 『 リュキア地方を主とする 小アジアの探査旅行 』 "TRAVELS AND RESEARCHES
IN ASIA MINOR more Particularly in Lycia" 上記2冊の合本・縮小・復刻版
ヒルデスハイムのゲオルク・オルムス出版社刊 Georg Olms Verlag, Hildesheim
小型本 17.5 × 9.5 × 4cm、510ページ、渋い緑色布装のハードカヴァー
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