『 フランク・ロイド・ライト作品集 』 |
前回の「古書の愉しみ」に続いて、今回もオリジナルの古書ではなく、後の復刻版を採りあげます。それは、アメリカの建築家 フランク・ロイド・ライト(1867-1959)の中期の作品集で、オランダの ヴェンディンゲン社から出版されたので、通常、ライトの「ヴェンディンゲン版」作品集と呼ばれます。オリジナルが出たのは 1925年ですから、今から 88年前のことです。サイズが大きく(34×33cm)、また豪華であり、ほとんど稀覯本になっていましたから、40年後の 1965年に、アメリカの ホライズン・プレス社が復刻版を作りました。
ヴェンディンゲン版『フランク・ロイド・ライト作品集』復刻版 1965
「袋とじ」というのは、明治時代に洋本の製本法が普及するまで 日本の和本で行われていた綴じ方です。ライトは 終生 日本の文化を愛しましたから、和本の綴じ方を 採り入れたのかもしれません。これに ゆったりと写真、図面、テキストを配して、当時としては かなりの豪華本にしました。復刻版が出たのは、すでにライトが世を去った 1965年ですから、もう、ほぼ半世紀前ということになり、復刻版自体が 結構 古書になっています。 ある日行ってみると、孔雀の間の天井と屋根が すでに取り壊されていたので、部屋の上に、天井のかわりに 紺碧の青空が見え、あの 大谷石の彫刻で満ちた空間と壁面に 直射日光が射して、超現実的な「廃墟の美」を出現させていました。あの日以外には 誰も見ることのできなかった光景が、深く脳裏に刻まれています。後に 世界各地の建築や廃墟を見てまわることになりましたが、あの時ほどの感動は、めったに味わうことが ありませんでした。
で、このライトのヴェンディンゲン版作品集(の復刻版)は 私のお気に入りの蔵書となり、写真は すべてモノクロですが、折にふれては 本棚から取り出して見ていました。これは ライトの中期の作品集なので、ラーキン・ビルや ユニティ・テンプル に始まり、後期のユーソニアン・ハウス・シリーズの直前までが 扱われています。特に 大きく扱われているのは、今は存在しない ミドウェイ・ガーデンズと 帝国ホテル、それに 中期の住宅の代表である バーンズドール邸(ホリホック・ハウス)です。
『ヴェンディンゲン』(Wendingen、転換期)というのは、オランダの建築雑誌です。当時は アメリカとヨーロッパ間は 飛行機で簡単に行き来できる という時代ではありませんでしたが、前回紹介した イギリスの『ザ・スチューディオ』誌のように、美術雑誌や建築雑誌は 定期的に行き交っていましたから、ヨーロッパの美術・建築の動きは アメリカにも 素早く もたらされていました。ライトも『ザ・スチューディオ』誌を定期購読していた ということですから、グラスゴーやウィーンの アール・ヌヴォ...............................................................................の動きや アーツ・アンド・クラフト運動には 親しんでいました。ヨーロッパ側でも、新興国であり、自由の天地であるアメリカの動きには 関心を払っていたようで、オランダ近代建築の父、H・P・ベルラーヘは アメリカにやって来た時に ライトの仕事に注目し、帰国後、『ヴェンディンゲン』誌に ライトの作品を載せるように勧めました。
最初の特集号(1921)の時と、単行本になった時の比較を 上に掲載しましたが、見てわかるように、判型も紙面レイアウトも、ほとんど同一です。1925年の 7回の特集は、当初から単行本にすることを 予定して編集し、それを 7分割して 雑誌連載したものでしょう。その単行本となった ライト作品集の内の 1/5 程度のページを 下に掲載しておきます。個々の作品や写真の 説明、解説といったものは一切無く、テキストは全て建築家たちによる ライト論、あるいは ライト讃です。ヴァイデフェルトの序文と ライト本人による建築論(” In the Cause of Architecture” 3編、1908、1914, 1925)の他に、H・P・ベルラーヘ、J・J・P・アウト、R・マレー・スティーヴンス、エーリッヒ・メンデルゾーン、ルイス・サリヴァンが 執筆しています。
このヴェンディンゲン版作品集は、ライトの 第ニ作品集です。当時 ライトは アメリカでは異端の建築家であり、私生活における 度重なるスキャンダルから、アメリカの建築界からは無視され、作品集も出版されなかったので、オランダから出版された この作品集を ライトは たいそう気に入っていて、いつも枕辺に置いていたといいます。
では、ライトの第一作品集はどうか というと、これもまた アメリカではなく ドイツで出版された、いわゆる「ヴァスムート版」の ライト作品集です。出版されたのは 1910年ですから(本格的には 1911年)、今から約 100年前の出版 ということになります。ということは、前回の「古書の愉しみ」の ジェシー・マリオン・キングの『幸福な七日間』(1913)と ほぼ同時期、また第一回で採りあげた ジェイムズ・ファーガスンの『インドと東方の建築史』の 増補改訂版・全2巻(1910)が出たのと 同じ年になります(初版は その四半世紀前の 1876年ですが)。
ライトは イタリアのフィレンツェに部屋を借りて 出版の準備を始め、アメリカから 建築家修行中の息子のロイドと、事務所のドラフトマンだった テイラー・ウリーを呼び寄せて、事務所から送らせた図面を、縦横比 2:3 の用紙に一枚一枚レイアウトを指示して 清書をさせていきました。この作業に 二人がかりで 数か月かかったといいますが、その人件費から渡航費や滞在費まで含め、作品集には 大変な費用が かかっているわけです。
ヴァスムート版『フランク・ロイド・ライト作品集』の復刻版 1963(ウェブサイトより)
こうして 一枚の大きさが 42cm×65cmという 大判のリトグラフを 100枚作製し、これを二分して 別々の帙(ちつ)に入れ(これも 日本の帙に ならったのかもしれません)、解説は小型の別冊としました。「モノグラフ」は 1275部が刷られ、そのうち 25部はライトの顧客や友人用として 半革(ハーフ・レザー)の特装本としました。作品集のできばえは 実に素晴らしいもので、新しい建築を求めていた ヨーロッパの若い世代の建築家たち(その中にはワルター・グロピウスやル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ等を含む)を驚嘆させ、熱中させました。リトグラフのシートは 約 1/3 が 縦使いですが、大多数(2/3)は 横使いです。これは ライトの初期作品集であり、いわゆる「プレーリー・ハウス(草原住宅)」を主としていて、日本建築に影響を受けた水平性を特徴とする住宅群なので 当然の帰結でしたが、後のル・コルビュジエの作品集が横長のものとなり、ブロイヤーやノイトラやアアルトも それに倣ったのは、ライトの作品集に胚胎しているのかな という気もします。
左から、1910年の オリジナル・ポートフォリオ版の帙 (41 x 32 cm)、
この希少な作品集の きれいなセットが古書市場に出れば かなり高価になるでしょうから、これは 個人が所有するよりも、ミュージアム・ピースとなってしまいました。(しかし 火災のあとでも、まだ かなりが ドイツに残っていたと思われるのに、少々計算が合わず 腑におちませんが。)このポートフォリオ版は 何度か復刻版が作られています。1963年に オリジナルと同じ大きさで アメリカのホライズン・プレス社から、1970年にはプレーリー・スクール・プレス社から 縮小版が出ていますが、これらも 今では ほとんど手に入りません。日本では、ライトが 1913年に22回目の滞日をした時に、ライトの依頼によって、建築家の武田五一が 32枚のシートを選び、1916年に『建築図案集』のタイトルで、縮小版を 大阪の積善館本店から出版したといいますが、これも 見る機会がありません。1976年には(今年 亡くなった)二川幸夫氏の A・D・A・エディタが 日本語版を出しましたが、忠実な復刻版ではなく、再編集していて、図の順序なども変えていますが、その意図や方法について何の記述もないので、やや不可解です (37 x 26 cm)。それに、図版の印刷が どうも しっくりこないので、購入する気になれませんでした。
ヴァスム-ト版『フランク・ロイド・ライト作品集』縮小復刻版 1998 というわけで、この 最初のライト作品集は じっくりと見ることが なかったのですが、1998年になって、ついに 決定版というべき 縮小 復刻版が、オリジナルを出した ドイツのエルンスト・ヴァスムート社から出版されました。ヴァスムート社は オリジナルを何部か所有しているだけに、検討に検討を重ねて、リトグラフでは ありませんが、最良のファクシミリ製版に たどりついたようです。オリジナルの 60 % 縮小で、ポートフォリオではなく 横綴じの製本にして、テキストも独・英両文で 製本に組み込みました。38.5cmの長さの横開きなので、やや 扱いづらい嫌いはありますが、前述のように 2/3 のシートが横使いなので、妥当な方法と思えます。図版は全部 片面印刷で、インクは黒ではなく、やや セピア調です。細かい線まで完全に出ているファクシミリ版としては、前回の『幸福な七日間』に並びます。ライトが終生愛した 日本の浮世絵版画、特に広重の絵に強く影響された構図の取りかたと描写は 実に見事で、100枚にも及ぶ これらプレーリー・ハウスの数々は、いくら見ていても 飽きることがありません。
前回の『幸福な七日間』を、ジェシー・M・キングの「楽園幻想」であろうと書きましたが、このヴァスムート版作品集の、アメリカ中西部の草原の、樹木に囲まれたプレーリー・ハウスのドローイングを見ていると、これもまた ライトの「楽園幻想」だったのではないか という気がしてきます。そして、その楽園には、人がまったくいず、ただ樹木と建物と花々だけが 伸び広がっています。あ、これは 最初のイスラーム建築、シリアのダマスクスに建つ「ウマイヤのモスク」の モザイク壁画の世界ではないか。
ライトの初期の作品集が、イスラームの「楽園願望」と こんなに似ていようとは、思いもよりませんでした。
後に 落水荘(カウフマン邸)で復活した以後のライトは、アメリカからも 世界からも 近代建築の巨匠、天才として、膨大な数の作品集が出版されてきましたが(特に日本では 二川幸夫氏の写真集で 我々は親しんできたわけですが)、この ヴァスムート版の初期作品集と、先に紹介した ヴェンディンゲン版の中期の作品集とは、ライト・ファンなら 是非とも書棚に置いておきたい 古書でしょう。 ところで、前回の「古書の愉しみ」で、ジェシー・マリオン・キングの『幸福な七日間』における第2のスケッチと、昔 アメリカで買った便箋のデザインの 感覚的類似について書きました。ライトがデザインしたのかと思った便箋は、裏に パーセルとエルムスリー(Purcell and Elmslie)の デザイン・リプロダクション と書いてあります。当時は まだインターネットの時代ではなかったので、このパーセルとエルムスリーというのが誰なのか、まったくわかりませんでした。
ライトのステンドグラスと、パ-セル&エルムスリ-の便箋と ジェシ-・キングの挿絵 その後 次第にわかったのは、ライトのプレーリー・ハウスとよく似た住宅を設計した建築家は、19世紀末から 20世紀初めにかけて、シカゴを中心とする アメリカ中西部に多くいた ということでした。ウィリアム・グレイ・パーセルとジョージ・グラント・エルムスリーというのも そうで、共同で設計事務所を営みました。近年は その作品集も出版されています。特にエルムスリーは ルイス・サリヴァンの事務所に勤めた ライトの同僚で、ライトが退職したあとは、アドラーと別れてアル中になったサリヴァンを助けて 事務所を切り盛りした建築家でした。サリヴァンの薫陶を受けたエルムスリーは、ライトとよく似た住宅を いくつも設計しています。
"The Prairie School, Frank Lloyd Wright and His Midwest Contemporaries"
そうした同傾向の中西部の建築家たちを 徹底的に調査した H・アレン・ブルックスは、1972年に『プレーリー・スクール フランク・ロイド・ライトと、その同時代の中西部の建築家たち』という本にまとめて 出版しました。図版は すべてモノクロですが、ライトのプレーリー・ハウスと よく似た住宅が 陸続と出てくるのには 全く驚いてしまいます(サリヴァンの後期の銀行建築と よく似たものも)。もちろん その中で最も優れていたのがライトであり、そのライトの事務所から巣立った建築家たちも 含まれています。この優れた本の日本語版が出版されなかったのは、日本の編集者たちの怠慢です。
そのプレーリー派には、ライトの事務所に 15年間も勤めた マリオン・ルーシー・マホニー(Marion Lucy Mahony, 1871-1961)も含まれます。彼女は 女流建築家の草分けで、MIT(マサチュセッツ工科大学)の建築科を卒業した 二人目の女性であり、ウィスコンシン州でライセンスをとった 最初の女流建築家です。15年も助手を勤めれば、ライトの思想から設計法、好みや癖に至るまで 完全に身につけてしまいますから、多くの住宅を担当し、独立してからは プレーリー・ハウスを設計もしています。ライトがチェニー夫人とヨーロッパに出発した時は、マホニーに 2年間 事務所の面倒を見てほしいと依頼しました。(マホニーは断ったそうですが。)
しかし建築家の場合には、建物の構図を決め、形を起こし、陰影をつけることは得意でも、背景や点景、つまり 建物の周囲の環境を描くのは 不得意なことが多いのです。ところが マリオン・マホニーは 植物に造詣が深く、それを建築の透視図に 絵として みごとに組み込むことができました。ライト自身も 色鉛筆を使った透視図を 巧みに描きましたが、プレーリー・ハウスに不可欠の 樹木や植物を組み込んだ透視図を完成させるには、ほとんど常に マホニーの腕を借りました。ヴァスムート版作品集の 100枚のポートフォリオは、線画で清書したのは ロイド・ライトとテイラー・ウリーでしたが、下図となった透視図 そのものの半分以上は、ライトの指示に基づいて マリオン・マホニーが描いたものでした。
前述のように、ライトの事務所では イギリスの美術雑誌『ザ・スチューディオ』誌を購読していました。そこには ジェシー・マリオン・キングの挿絵も たびたび掲載されていました。同じマリオンという名前をもったマホニーは、ジェシーの絵を 熱心に見ていたにちがいありません。そしてまた グラスゴー派のジェシー・マリオンは、マッキントッシュらとともに、雑誌の特集や紹介記事をつうじて ライトの作品を かなり知っていたことでしょう。私がジェシー・マリオン・キングの『幸福な七日間』と、ヴァスムート版のライト作品集との間に 共通の感覚を見るのは、そのせいではないでしょうか。その根底にあったのは、二人の女性芸術家の「楽園願望」であったように思えるのです。 最後に もうひとつ。ライトの師であり、プレーリー派の核となった建築家 ルイス・サリヴァンは、住宅は あまり多く作りませんでしたが、晩年に 地方の銀行建築を シリーズのようにして設計しました。そこには アメリカのアール・ヌヴォの頂点を極めたというべき装飾が ほどこされています。それらは ヨーロッパにおけるのと同じように、直線的な幾何学紋と 曲線的な植物紋が組み合わされた、イスラーム建築の装飾を思い起こさせます。そう、サリヴァンのマーチャンツ・ナショナル銀行のファサードこそ、「近代建築」における 最もイスラミックな装飾だと言えるでしょう。
( 2013 /06/ 01 )
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