第5章
NOTES on CHUTA ITO'S FIELD BOOKS

忠太のフィールド・ノート 解題

(日本建築学会・伊東忠太未発表資料 特別研究委員会・報告書より)

神谷武夫

伊東忠太


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伊東忠太 (1867〜1954) は、夏目漱石がイギリスへ渡った明治33年の2年後 (1902年)に、当時のヨーロッパ留学の習慣に反し、アジアへと旅立った。それは明治38年に至る3年間にわたって、中国・インド・トルコ・エジプト・シリアを旅し、そして最後に欧米に寄るという大旅行であった。その間、小型の横開きノートブックに、建築調査を主としながら 風俗・言語に至るまでの観察・調査を精力的に記録している。ビルマとセイロンを含む インド亜大陸には9ヵ月間滞在し、各地を縦横に旅して3冊のフィールド・ノートを残した。 日本人による最初のインド建築調査記録の内容を ここに紹介する。忠太の旅行時の 調査対象として記載されている建物自体については、拙著『インド建築案内』の写真と解説を参照されたい。なお ここに掲載している図版は、伊東家から日本建築学会に寄贈された 伊東忠太直筆・フィールド・ノートからのものであり、( )内の数字は、事務局によって それらのフィールド・ノートにつけられた 仮のページ・ナンバーである。



6.印度 自緬旬 至孟買

明治 36(1903年)6〜9月

伊東忠太のフィールド・ノート 第6巻の表紙(06281)

概要

 大旅行の第6冊めのフィールド・ノートで『印度 自緬旬 至孟買』(ビルマより ボンベイにいたる)と題し、日誌の明治 36年6月6日から9月8日までに対応する。 初めの約4分の1が緬旬(ビルマ、現在のミャンマー)におけるものであり、あとがカルカッタから孟買(ボンベイ、現在のムンバイ)に至るインドである。マラリアにかかって入院した前後 10日間近くを浪費した以外は きわめて精力的に古跡や建物を訪ねてまわり、大量のスケッチと観察記を残している。
 ミャンマーは北部のバーモで始まり、マンダレー、パガンを経てラングーン(現在のヤンゴン)に至る。 特にパガンでは強い印象を受け、アーナンダ寺院の立・断面図を折り込みで大きく描く。インドでは病気回復後、カルカッタのインド博物館に通って膨大な古美術品のスケッチをし、その時代区分と様式とを記す。 次いで第1次インド旅行に出発して東インドのオリッサ地方をまわり、ブバネーシュワルやコナーラクで初めてインドの古建築を見、カンダギリ・ウダヤギリの石窟寺院群を詳細に観察する。 カルカッタに戻るとすぐに第2次旅行に出発し、1ヵ月近くかけて亜大陸を横断してボンベイに達する。ベナレス(バナーラス)やジャウンプル、カジュラーホなどのほか、特に重要な仏跡であるブッダガヤ(ボードガヤー)とサーンチーに多くの紙数を費やして調査記録を残している。
 全編にわたって各地の旅程地図と風景、風俗、戯画を彩色画で多くいれるほか、末尾には旅程一覧や年表、現地の言葉集などを記している(次の2巻でも同様)。

建築様式と体格の比較 (06139-40)



評価

 本巻は次の2巻と合わせ、日本人が初めてインドの建築を実地調査し、記録したものとして貴重である。多くの地は駆け足で巡っていて十分な調査はできなかったが、現在もなおインドの旅は楽でないのに、はるかに交通不便な時代にこれだけの地を苦労して見てまわったということだけでも特筆に価する。写真撮影のほかに大量の現地スケッチを残していて、すべてを記録しようという意気込みにあふれている。
 しかしこうした建築行脚が可能となったのは、すでにジェイムズ・ファーガソンの "HISTORY OF INDIAN AND EASTERN ARCHITECTURE" の初版が出版されていた(1876年)からであり、現地ではファーガソンの記述が正しいかどうかの確認ということが主要な作業のひとつであった。伊東忠太が独自に発見したというものはないが、仏教遺跡に関してはファーガソンの本よりも詳しく調べようとしている。特に玄奘の「大唐西域記」の記述には大きな関心を払っているが、これもカルカッタで手に入れた アレクサンダー・カニンガムの "ANCIENT GEOGRAPHY OF INDIA" を参照しながらの旅であった。
 本巻の範囲ではナーランダーの遺跡を見出せなかったこと、ベンガル地方の近世のテラコッタ寺院をまったく見ていないこと、東インドのイスラム建築の原点であるガウル地方を訪ねていないことなどが不足点として挙げられよう。

  
釈迦と孫悟空 (06254-5)



引用文献および観察対象

訪れた地 を目次(06005)に従って並べ、主な調査建物を < > 内に記す。
緬旬 (ビルマ)
 1. バーモ <シュウェギナ・パゴダ (008-13)>
 2. カタ
 3. マンダレー <王宮 (022-023),王妃の寺 (031)>
 4. パガン <アーナンダ寺院 (032-8), ボーディ寺院 (040-1), シュウェグジー寺院 (041-6)>
 5. プローム
 6. ヤンゴン <シュウェダゴン・パゴダ (062- 63)>

印度 (インド)
 8. カルカッタ <インド博物館の展示品 (072-108)>

第1次旅行
 9. オリッサ地方
  A. カタック
  B. プリ <ジャガンナート寺院 (120-1)>
  C. コナーラク <スーリヤ寺院 (125-127, 130)>
  D. ブバネーシュワル < リンガラージャ寺院 (137-8), パラシュラーメシュワラ寺院 (141-2),
     ムクテーシュワラ寺院 (142-4)>
  E. ウダヤギリ <石窟寺院群 (148-54, 159-60)>
  F. カンダギリ <石窟寺院群 (155-8)>

第2次旅行
 10. ボードガヤー <マハーボーディ寺院 (166-76)>
 11. ラージギル
 12. ナーランダー
 13. バナーラスと サールナート <ガート周辺 (187-90), 鹿野園跡 (191-4)>
 14. ジャウンプル <モスク群 (198-200)>
 15. ラクナウ <ジャーミ・マスジド (204), 博物館の展示品 (205-9)>
 16. スルタンプル
 17. アラハーバード
 18. カジュラーホ > カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院 (217-9), チャウンサト・ヨギニー
     寺院 (220), 寺院彫刻 (221-9), ジャイナ寺院群 (229-31)>
 19. サーンチー <大ストゥーパとトラナ (236-38), 寺院群 (239-43), スタンバ (245-9)>

文献 としては
 旅行に携えた玄奘の『大唐西域記』と、ジェイムズ・ファーガソンの "HISTORY OF INDIAN
  AND EASTERN ARCHITECTURE"
が しばしば引用される(次の2巻でも同様)

バナーラス近辺の地図と河岸 (06185-6)



関連する成果物

著作

「緬旬旅行茶話」(『米澤有為會雑誌』明治36年 10月)
「印度旅行茶話」其の一(『米澤有為會雑誌』明治36年12月)
「塔」第二、第四(『建築工藝叢誌』大正3年5,7月)
「印度建築」(『東洋』大正12年7月,「東洋建築史」 の原型)
「印度文化巡歴・建築」(『國際文化』昭和17年9月,「印度建築」の要約)

「東洋建築史」は『アルス建築大講座』に連載され、『伊東忠太建築文献』第 4巻に再録の際に
  「印度建築史」と改題された。
  第2章・第8節「緬旬」(第9巻,昭和2年4月)
  第4章・第2節・其の一 「オリッサ地方」, 其の二「中印度地方及ダルワル地方」(第13巻,
   昭和3年2月)

世界美術全集』に連載されたインドおよび東南アジア関係の本文記事は、『伊東忠太建築文献』の
   第4巻にまとめて再録の際に「東洋建築史概説」という総題が付された。
  「緬旬建築總説」(第25巻,昭和4年月)
  「毬多朝以前の印度建築」(第3巻,昭和4年7月)

世界美術全集』における写真とその解説 
  「ペグーの シュウェマウダウ」(第19巻,昭和3年8月)
  「ブヴァネスワラの パラスラメスワラ」(第8巻,昭和3年12月)
  「ブヴァネスワラの ムクテスワラ祠」(第22巻,昭和4年3月)
  「プロームの シュウェサンダウ」,「ラングーンの シュウェダゴン」,「ラクナウの 大イマムバラ
   とマスジッド」(第25巻,昭和4年5月)
  「ベナーレスの ヅルガ祠堂と 黄金祠堂」(第26巻,昭和4年6月)
  「サーンチーの 塔と門」,「バールフートと ブッダガヤの石欄」,「ウダヤギリのラニ・グムファと
   ガーネシャ・グムファ」,「カンダギリの アーナンタ・グムファ」(第3巻,昭和4年7月)
  「カジュラホの カンダルヤ・マハーデヴァ」,「ブヴァネシュワラの リンガラージ・マハーデヴァと
   ラージャ・ラーニ」,「カジュラホの パルスワナタ祠堂」,「パガーンのアナンタ塔と
   タピンユ塔」(第 11巻,昭和4年11月)
  「プリの ジャガンナートハ祠堂」(第12巻,昭和4年12月)
  「ジャウンプールの大拝堂」(第15巻,昭和5年7月)

建築作品

日暹寺仏舎利奉安塔 (愛知県名古屋市,大正7年)
中山法華経寺聖教殿 (千葉県市川市,昭和6年)
可酔斎護国塔 (静岡県久努西村,昭和10年)

    

田中家墓 (横浜市総持寺,大正14年)
藤田家墓 (東京市多摩墓地,昭和11年)
鮎川家墓 (東京市多摩墓地,昭和13年)


7.印度 西方印度 及カシュミール

明治 36(1903年)9〜12月

伊東忠太のフィールド・ノート 第7巻の表紙 (07278)


概要

 大旅行の第7冊めのフィールド・ノートで『印度 西方印度 及カシュミール』と題し、日記の明治 36年9月9日から 12月末までに対応する。ボンベイ(ムンバイ)を基地として2回の調査旅行を行い、密度の濃いフィールド・ノートとしている。
 第3次インド旅行はデカン高原から北インドを経てパキスタンのガンダーラに至る2ヵ月の大旅行だったが、同行した堀至徳の急死によってアフガニスタンには行かずにボンベイに戻る。アジャンターとエローラーの石窟寺院群、アーグラ周辺とデリーのイスラム建築、カシュミールのシュリーナガル周辺、ガンダーラのユスフザイ地方が熱心な調査地である。カシュミールでは自然景観にも感銘を受け、5枚の絵を描いている(173-6)。第4次旅行は短期の西インド行で、アーブ山のジャイナ寺院群とアフマダーバードのイスラム建築を詳しく調査したあとパーリターナやソムナートなど、カーティアワール半島をまわった。

カシュミールの雪山と建築様式 (07172-3)



評価

 前巻に引き続き、明治時代に日本人の手によって書き残されたインド建築の調査記録として貴重である。インド編3巻のフィールド・ノートの中では、カシュミール行など最も苦労の多い旅程であり、またインド建築を理解する上で最も有益な旅であった。 特にガンダーラは大旅行の一つの目的であった「西域建築の日本への伝播」という仮設の検証のための結節点であったが、その結論としては、「推古式ハ西域ト支那トノ和合ナリトノ Theory ハ破ルベシ」(07160)というものであった。
 西インドではシャトルンジャヤやギルナールまで訪ねているのは 驚きであるが、ファーガソンが高く評価しているにもかかわらず、ラーナクプルのジャイナ寺院を訪ねていないことが、インド建築の空間性への理解を不十分なものにした。またラダックとヒマーチャル・プラデシュおよびネパール、さらに南インドにおけるケーララ地方に行かずじまいだったので、インド圏の木造建築についてはカシュミール以外ほとんど知ることがなかった。長逗留したボンベイ(ムンバイ)では当時の多くのコロニアル建築を目にしていたはずだが全く関心を示さず、何の記録も残していない。 伊東忠太の関心はあくまでも歴史的な古建築にあった。 植民地における建物が現地の伝統様式といかに関わるべきかという問題意識の欠如が、後に彼自身の朝鮮や台湾におけるコロニアルア建築に引き継がれることになる。

アジャンターで (07078)



引用文献および観察対象

訪れた地 を目次(07007) に従って並べ、主な調査建物を < > 内に記す。

孟買 (ボンベイ)
 1. ボンベイ < エレファンタ島 (010-1) >
第3次旅行
 2. ナーシク <石窟寺院群 (017-26)>
 3.  エローラー <仏教窟 (032-40), ヒンドゥ窟 (041-8), ジャイナ窟 (049- 050)>
 4. アジャンター <石窟寺院群 (057-75)>
 5. ウダイプル
 6. チトルガル <寺院群と塔 (084-8)>
 7. アジュメール <アラーイ・ディン・カ・ジョンプラー・モスク (089-90)>
 8. ジャイプル
 9.  アーグラ <アクバル廟 (099-101), タージ・マハル廟 (101-5), モティ・マスジド (104-5),
    アーグラ城 (129-30)>
 10. マトラー
 11. ブリンダーバン <ヒンドゥ寺院群 (110-3, 116)>
 12. ファテプル・シークリー <宮殿とモスク (125-8)>
 13. グヮーリオル <ムハンマド・ガウス廟 (117-20)>
 14. デリーと クトゥブ <モスクと廟と城 (131-47)>
 15. アムリトサル <ゴールデン・テンプル (149)>
 16. ラホール <博物館 (150-1, 160-2), 廟とモスク (162-9)>
 17. マニキャーラ <ストゥーパ (170-2)>
 18. カシュミールと シュリーナガル <モスクとヒンドゥ寺院群 (187-203)>
 19. ペシャーワル
 20. ユースフザイ地方 <仏教遺跡群 (206-8)>

第4次旅行
 21. アーブ山 <デルワーラ寺院群 (222-5, 232-4)>
 22. アフマダーバード周辺 <廟とモスク群 (226-31, 235-6, 239-41),サルケジ (237-8)>
 23. パーリターナ <シャトルンジャヤ (242-3)>
 24. ソムナート <寺院群とモスク (247-50)>
 25. ギルナール山 <ジャイナ寺院群 (251-7)>
 26. バローダと ダーボイ <ダーボイの寺院と市門 (259-60)>
 27. カンヘーリ <石窟寺院群 (261-3)>

シムラ において
  ラーム・ラーズの "ESSAY ON THE ARCHITECTURE OF THE HINDUS" を読んで 詳しく
  ノートをとる (155-9)

エレファンタ島の窟院の調査 (07010-1)


関連する成果物

著作

「印度旅行茶話」其の二(『米澤有為會雑誌』 明治37年2月)
「印度建築」(『建築世界』明治44年5月〜45年3月、インドのイスラム建築の概説)
「健駄羅地方旅行談」は『史学雑誌』明治39年5, 6月に掲載され、『伊東忠太建築文献』第4巻に
   再録の際に「健駄羅地方の建築」と改題)
「塔」第三、第七(『建築工藝叢誌』大正3年6, 11月)
「世界最美の建築 − タージ マハール」(『科学知識』 大正12年4月)
「迦濕彌羅」(『地理教育』昭和3年8月)

「東洋建築史」は『アルス建築大講座』に連載され、『伊東忠太建築文献』第4巻に再録の際に
   「印度建築史」と改題された。
  第2章・第2節「印度本部」, 第4節「健駄羅」, 第5節「迦濕彌羅」(第4, 6, 8, 9巻,
   大正15年11月, 昭和2年1月, 4月, 6月)
  第3章「闍伊那教建築」(第11, 12巻, 昭和2年9, 12月)
  第4章・第2節「中印度地方及びダルワル地方」(第13巻, 昭和3年2月)

世界美術全集』に連載されたインドおよび東南アジア関係の本文記事は、『伊東忠太建築文献』
   第4巻にまとめて再録の際に「東洋建築史概説」という総題が付された。
   「サラセン建築」(第16巻,昭和3年4月)
   「莫臥兒朝の印度建築」(第19巻, 昭和3年8月)
   「ガンダーラ藝術總説」(第4巻,昭和5年1月)

ラホールのジャハーンギール廟など (07164-5)

世界美術全集』 における写真とその解説
 「アーメダバードの ムファフィヅ・ハンの拝堂, ラニ・シプリの墓, シヂ・サイイッドの拝堂」(第16巻, 昭和3年4月)
 「ファテプール・シクリの ヒラン・ミナール, ヂワニハス, パンチ・マハール, 禮拝堂, 南門」,「デリの フマユンの墓」
   「シカンドラの アクバルの墓」,「グヲリオルの ムハンマッド・ガウスの墓と 宮殿」(第19巻, 昭和3年8月)
 「スリナガルの ジャマ・マスジッドと シャー・ハマダン寺」,「チットールの シングラム・シンの廟」
  (第24巻, 昭和3年10月)
 「ラホールの宮殿」(第23巻, 昭和3年11月)
 「エレファンタ島の 大窟祠と壁面彫刻」,「エローラの 第 29窟とカイラーサ寺院」,
 「マルタンドの祠堂と回廊」(第8巻, 昭和3年12月)
 「アグラの 城門と宮殿」,「ラホールの ジャハンギールの墓」,「アグラの
  イトマド・ウッダウラーの墓」(第20巻, 昭和4年1月)
 「アグラの タージ・マハールと門」,「デリの 宮殿・ヂワニアム,ヂワニハス、皇妃殿、皇帝の浴室、
  皇妃の浴室」, 「アグラの 宮殿」,「デリの モチ・マスジッド」(第21巻,昭和4年2月)
 「シアルコットの 祠堂」(第26巻,昭和4年6月)
 「ナーシクの支堤」,「アジャンターの支堤」,「ナーシクの ナハパナ精舎とガウタミプトラ精舎」
  (第3巻,昭和4年7月)
 「グウォリオルの テリ・カ・マンヂル」,「パリタナの ジャイナ教祠堂」,「ギルナールの
   ジャイナ教祠堂, テジャーパーラ及スツパール祠堂」,「アブー山の ヴィマラ・サーハ祠堂」
  (第11巻, 昭和4年11月)
 「デリのクトゥブ寺, 塔, 門」(第12巻, 昭和4年12月)
 「タクチバヒの塔」,「タキシラの ジョーリアン塔」,「マニキァラの大塔」,
  「ダウラタバードの塔」,「タキシラのモーラ・モラーヅ塔と雀離塔」,「ユサフザイの小塔」
  (第4巻,昭和5年1月)
 「エルーラの 第 21號窟祠」(第5巻, 昭和5年3月)
 「デリの アルタムシュ門と墓」,「アジュミールの 回教寺」(第13巻, 昭和5年4月)
 「デリの アライ・ダルワザと トゥグラクの墓」(第14巻, 昭和5年5月)
 「チットールの 勝利の塔」,「グオリオル古城の 摩崖彫刻」,「アーメダバードの
  アザム及モザム・ハンの墓, ダルヤ・ハンの墓, ジャマ・マスジッド, アーメッド・シャーの妃の墓,
  ラニ・モスク, ラニ・シプリ・モスク, ラジュプール・ハリプール・モスク」(第15巻, 昭和5年7月)

建築作品

築地本願寺(東京都中央区,昭和9年)




8.印度 南印度 及錫蘭

明治 37(1904年)1〜3月

伊東忠太のフィールド・ノート 第8巻の表紙 (08254)


概要

 大旅行の第8冊めのフィールド・ノートで『印度 南印度 及錫蘭』と題し、日記の明治 37年1月1日から3月3日までに対応する。 全体が2ヵ月にわたる第5次インド旅行の記録で、ボンベイ(ムンバイ)を起点に錫蘭(セイロン、現在のスリランカ)を含む南インドを一周してインド建築行脚の仕上げとした。前半のインドでは主としてカールリーとその近辺の仏教石窟寺院群、グルバルガとハイダラーバード周辺のイスラム建築、マハーバリプラムの初期ヒンドゥ建築、タミル地方各地の近世の大寺院群を訪ねてまわる。視察は次第に機械的となり、建築的観察も おおざっぱになっていく。
全体の5分の1ほどをなすスリランカの旅は、アヌラーダプラとポロンナルワの調査がその大部分を占める。インドに戻ると北上し、マイソール地方のチャルキヤ様式およびホイサラ様式の寺院群をまわり、ヴィジャヤナガラ(ハンピ)を経てビジャープルのイスラム建築でしめくくる。巻末には旅行のまとめとして、将来書くつもりの「印度建築史」の目次案がある。

夢に見た光景など (08178-9)



評価

 フィールド・ノート のインド編の完結編として、また日本人による初めてのスリランカの建築調査記録として貴重である。前2巻との間に大きな差異は認められないが、インドに慣れたことと、ボンベイでしばらく安楽な生活を送ったことが、この巻の調査をやや義務的、機械的なものとした。それでもマハーバリプラムやアヌラーダプラなど熱心に調査をし、インド建築調査を完了した達成感を日記に記している。

「印度建築史」の目次構想 (08232)

 本巻の末尾には、帰国してから書くべき『印度建築史』の目次構想 (224-5) が書かれているが、その内容、序列は まったく ジェイムズ・ファーガソンの "HISTORY OF INDIAN AND EASTERN ARCHITECTURE" に倣っている。最後までファーガソンの掌を超えられない調査旅行であった。
 他にも『印度建築の装飾論』目次構想 (223) や「印度建築及美術ニ関スル論文ノ腹案」(238)などがあり、また別の巻には『世界旅行記』第2巻「印度」の目次構想(フィールド・ノート 13)もあり、執筆意欲は満々であった。しかし彼は ついに本格的なインド建築史や 単行本としてのインド旅行記を書くに至らず、せっかくの3冊の貴重なフィールド・ノートが十分に生かされなかったのは惜しまれる。

印度建築及美術に関する論文の腹案 (08232)

 伊東忠太よりも後に インドを2回旅した天沼俊一が、何冊もの旅行記や写真集を出版してインド建築の紹介に貢献したのとは対照的であるが、それはまた日本の「大東亜」に対する国策との時代的関係でもあった。伊東忠太は 日本人としては あまりにも先駆的だったのである。


引用文献 および 観察対象

訪れた地 を目次 (08007) に従って並べ、主な調査建物を < > 内に記す。
第5次旅行
 1.  カールリー <石窟寺院 (009- 011)>
 2.  ベドサー <石窟寺院 (012- 014)>
 3.  バージャー <石窟寺院 (015- 017)>
 4.  グルバルガ <金曜モスク (017, 022- 024)>
 5.  ハイダラーバードと ゴルコンダ <廟群 (025- 028)>
 6.  ワーランガル <寺院の四門 (030- 031)>
 7.  ハナムコンダ <千柱寺院 (032- 034)>
 8.  アマラーヴァティー <ストゥーパ跡 (035- 036)>
 9.  マハーバリプラム <5つのラタ (052-4), 海岸寺院 (055-6), 石窟寺院群 (057-63)>
 10.  ティルヴァールール <寺院 (063- 066)>
 11.  ヴェロール <ジャラカンテーシュワラ寺院 (067- 075)>
 12.  チダンバラム <ナタラージャ寺院 (076- 079)>
 13.  クンバコーナム <寺院群 (080- 085)>
 14.  タンジャーヴール <ブリハディーシュワラ寺院 (088- 093)>
 15.  シュリーランガム <寺院群 (094- 097)>
 16.  マドゥライ <ミーナクシー寺院 (098- 099)>
 17.  ティルネルヴェリ <寺院 (102- 103)>

錫蘭 (セイロン)
 18.  キャンディー <寺院群 (110- 116)>
 19.  アヌラーダプラ <寺院群とストゥーパ群 (118-25, 128-36), ミヒンタレー (126-7)>
 20.  ダンブッラ <石窟寺院 (137- 138)>
 21.  ポロンナルワ <寺院群とストゥーパ群 (142- 151)>
 22.  アルヴィハーラ <石窟 (155- 156)>

印度 に戻る
 23.  バンガロール <( )>
 24.  ジャーヴァガル <寺院 (165, 181)>
 25.  ハレビード <ホイサレーシュワラ寺院 (166- 170), 寺院群 (171- 175)>
 26.  ベルール <チェナケーシャヴァ寺院 (176- 178)>
 27.  ダールワル<( )>
 28.  ラックンディ <寺院群 (183- 189)>
 29.  ヴィジャヤナガラ <ハンピ遺跡 (189- 194)>
 30.  バーダーミ <石窟寺院群 (195- 199)>
 31.  パッタダカル <寺院群 (200- 203)>
 32.  ビジャープル <モスクと廟と宮殿群 (205- 215)>

故郷の夢 など (08222-3)



関連する成果物

著作

「印度旅行茶話」其の三(『米澤有為會雑誌』明治37年3月)

「東洋建築史」は『アルス建築大講座』に連載され、『伊東忠太建築文献』第4巻に再録の
  際に「印度建築史」と改題された。
  第2章・第3節「錫蘭」(第7巻,昭和2年2月)
  第4章・第3節「チャルキア式」, 第4節「ドラヴィダ式」(第13,14巻, 昭和3年2月, 4月)

世界美術全集』に連載された インドおよび東南アジア関係の本文記事は、『伊東忠太
  建築文献』第4巻にまとめて再録の際に、「東洋建築史概説」という総題が付された。
  「印度教建築概説」(第9巻, 昭和4年4月)

世界美術全集』における写真と その解説
 「ビジャプールのイブラヒム・ローザと アサリ・シェリフ」(第15巻, 昭和3年8月)
 「スリランガムの大祠堂と門」(第24巻, 昭和3年10月)
 「印度ウェロール祠堂の 中門」,「印度チダンバラムの 千柱殿」(第23巻, 昭和3年11月)
 「マーマレプラムの アレワ祠堂」(第8巻, 昭和3年12月)
 「ビジャプールの ジャマ・マスジッド」(第20巻, 昭和4年1月)
 「マヅラ大祠堂の 千柱殿と門」,「コムバコナムの サレンガパニ祠堂( 第26巻, 昭和4年6月)
 「バージャーの 支堤」,「ベドサーの 支堤」,「カールラの 支堤」,「ベドサーの 精舎」,
 「アヌラダプラのツパラマ塔, イスルムニ塔, ルワンウェリ塔, 無畏山の塔」,
 「マドラー発見の石彫」(第3巻, 昭和4年7月)
 「ウォランガルの キルチ・スタンバと古祠」,「パタダカルの 古祠」,
 「ラカンヂの古祠」,「ベルールの ヴィシヌ祠堂」(第11巻, 昭和4年11月)
 「ハレビッドの ホイサレシュワラ祠堂」,「ポロンナルワの サートマハル・パーサーダと
  佛牙殿」,「マーマレプラムの磨崖彫刻」(第12巻, 昭和4年12月)
 「マーマレプラムの イシュワル祠堂」(第5巻, 昭和5年3月)
 「マハバリプールの 石寶殿」(第7巻, 昭和5年10月)
 「チダンバラムの 奥殿」,「タンジョールの 大祠堂と門」,「ハレビッドの 祠堂」
 (第13巻, 昭和5年4月)
 「タンジョールの サブラハマニア祠」(第14巻, 昭和5年5月)
 「ビジャプールの ゴル・グムバヅ」,「ゴルコンダの クリ・クトブ・シャーの墓」,
 「ウィジャヤナガルの ヴィトーバの堂と象舎」(第19巻, 昭和5年7月)

「印度観察法」 (08232)


<付> 忠太のインド建築調査旅程


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