平和共存した異宗教
アジャンター とならんで中部インドの石窟寺院を代表するのが、アジャンターから 100キロメートルばかり離れた山地にあるエローラーである。ここでは 34の石窟寺院が岩山に沿って一列に並んでいるが、アジャンターと異なるのは、仏教窟とヒンドゥ教窟とジャイナ教窟とが、南から北へと場所を分けあって共存していることである。
開窟されはじめたのはアジャンターの終わり頃、つまり仏教の凋落期にあたる 6世紀から 7世紀にかけてである。末期の仏教窟が南の第1窟から 12院、ヒンドゥ窟が第 13窟から 17院、そして北に少し離れてジャイナ窟が第 30窟から5院である。かつてはこの順序で開窟されたと考えられたが、ヒンドゥ窟のほうが仏教窟よりも早く開始されたという説も捨てがたい。
ドー・タル窟とよばれる仏教の第11窟
仏教窟は7世紀から8世紀にかけて、ほぼ2キロメートルにわたる玄武岩の岩壁を彫って造営された。新しい型を生んでいるのは、第 11窟と第 12窟で、前者は「ドー・タル(2階)窟」と誤って名づけられたが、実際は3階建てであり、後者は「ティーン・タル(3階)窟」の名前どおり3階建てである。 ファサードには四角い柱とバルコニーが規則正しく並び、まるでオフィス・ビルのような印象を与える。内部は列柱ホールで、壁面にはマハーヤーナ(大乗)期の仏教世界を構成する神々の姿が彫刻され、奥の仏堂には大きな仏坐像が彫られている。
エローラーで唯一のチャイティヤ窟は第 10窟で、ヴィシュワカルマ窟 とよばれる三廊式の堂である。 柱には壺葉飾りのモティーフが見られ、ストゥーパの前には三尊形式のブッダ像が彫刻されている。
カイラーサ寺院とよばれるヒンドゥ教の第16窟
奇跡のようなカイラーサ寺院
かつて岩山の山腹に、内部も外部も完全に仕上げられた大寺院が、そっくりそのまま彫刻されたことはなかった。第 16窟のカイラーサ寺院をたたえる伝説によれば、ラーシュトラクータ朝の野心家の君主、第2代のクリシュナ1世(在位 757〜783頃)は、シヴァ神に捧げるためのエローラー最大となる寺院造営をヴィシュワカルマ神(建築と工芸の守護神)に祈念した。それに応えて実現された寺院は、神自身さえ、驚きを禁じえない壮麗なものであった。
その至高の建築家ヴィシュワカルマ神は、竣工時に高さ 32メートルのカイラーサ寺院の広い境内に降り立ったとき、我が目を信じることができず、「私が実現したのはこれほどまでに壮大な建物だったのか。いったいどのようにして、私がこのような寺院を構想することができたのだろうか」と言ったという。
カイラーサ寺院のマンダパ内部から聖室を望む
エローラーの石窟寺院群の中央にそびえているのが、この驚くべきヒンドゥ寺院である。もはや洞窟ではないインド最大の「石彫寺院」は、頂部に黒光りする玄武岩の巨大な冠石(かむりいし)をいただき、足元までくまなく彫刻におおわれて、その技術の水準の高さを誇示している。岩を細工することにかけてはベテランの工匠たちは、クリシュナ 1世の野望に応えるべく、南インドの パッタダカル におけるチャルキヤ朝の寺院建築をモデルにしつつ、パッラヴァ朝の建築芸術をも凌駕(りょうが)するほどの寺院を造営しなければならなかった。玄武岩の岩山から寺院を彫り出すアイデアは、マハーバリプラムの有名な「ラタ」がヒントになった。
中部インドのエローラーに、こうして南方型の寺院建築様式が導入された。ヴィマーナ(本堂)は水平層が重なる階段状をなし、各層にはチャイティヤ窓が刻まれた。マンダパ(拝堂)の屋上には丸彫りで 4頭のライオンが彫刻されている。 その手前にはシヴァ神の乗り物であるナンディ(牡牛)のための2層の堂、その両側にはスタンバ(記念柱)が彫り出され、さらに手前に入り口の門がある。これらすべてはひと続きの岩山の斜面から彫り出されたもので、頂上でシヴァ神が瞑想にふけったという神話的なカイラーサ山を、これほどみごとにシンボライズした寺院はほかにない。
第16窟・カイラーサ寺院の立面図
(From "Encyclopaedia of Indian Temple Architecture" vol. I-2, 1986 )
この石彫寺院に命を吹き込んだ、質量ともに他を圧倒する彫刻の数々は、多種多様な神々、悪魔、空想上の動物などで、人々を感嘆させずにはおかない。一例を挙げれば、寺院への入り口の南側にはシヴァ神の妃でライオンの背に乗ったドゥルガー女神が描かれ、水牛の姿をした悪魔の王であるマヒシャと勇敢に対峙している。この場面は叙事詩『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』に基づいていて、悪魔の王を打ち負かすことができなかったシヴァ神とヴィシュヌ神は彼らのシンボルである武器をその女神に譲り、その美しくも残忍な女神は、8本の手を使って四方八方へ武器を投げつけるのである。
ほかにも加えるなら、幸運と美の女神ラクシュミー、象の頭をもつガネーシャ、弓矢を手にする愛の神カーマ、聖なる河の女神ガンガーとヤムナー、などが挙げられよう。エローラーのヒンドゥ窟では、こうしたモティーフがくりかえし用いられているが、残念ながら戦闘の場面や動物を描いた天井画や壁画は、不完全にしか残っていない。
ドゥマル・レナ窟とよばれるヒンドゥ教の第29窟
神々の世界の回廊
ヒンドゥ教の石窟寺院群のなかでは、ヴィシュヌ神に捧げられた第 15窟が有為転変を経ている。当初、仏教のヴィハーラ(僧院)窟としてつくられたものが、ラーシュトラクータ朝時代にヒンドゥ寺院に転換されて、ダシャーヴァターラ(10の化身、つまりヴィシュヌ神)窟とよばれるようになった。2層の石窟で囲まれた前庭の中央には単岩のマンダパがあり、チャイティヤ窓の飾りをもつ壁龕(へきがん)には彫像が彫られ、本当の窓には格子が嵌められている。おそらくはナンディ堂だったのであろう。本堂である2階建ての列柱ホールでは、周囲の壁がヒンドゥの彫刻家たちの活躍する舞台であった。
豊かに彫刻された列柱がファサードをつくる第 21窟のラーメシュワラ窟は、ヒンドゥ教期の最初期の窟院のひとつとみなされている。列柱には方杖(ほうづえ)に 優美な天女像 が彫刻され、左右の壁には河の女神ガンガーとヤムナーが彫刻されている。中央に入り口があり、ベランダのすぐ奥がガルバグリハ(聖室)となっている。内部の柱の柱頭はインド北部に典型的なクッション型をしている。
第 29窟のドゥマール・レナー窟には、後期の技法がうかがえる。聖室はホールの中央や奥壁に位置するのではなく、エレファンタ島 の石窟寺院と同じように偏心した位置にあり、3つの入り口からの軸線が交差して、十字形のプランとなっているのである。ドゥヴァーラパーラとよばれる護衛神の巨大な彫像が囲んでいる聖室の中央には、シヴァ神の象徴としてのリンガ(男根)が祀られている。この聖室はチャトルムカ祠堂(四面堂)形式で、四方に開口部をもっている。
インドラ・サバーとよばれるジャイナ教の第32窟中庭
石窟寺院の終焉
この地で最後に開窟をしたのは、9世紀にやってきたジャイナ教徒であった。彼らは第 30窟から第 34窟までを造営したが、ヒンドゥ教のカイラーサ寺院に刺激されて、盛んに石彫寺院を造営した。第 30窟は幅 25メートルに奥行きが 40メートルあり、チョーター・カイラーサ(小カイラーサ)とよばれる。しかしこの第 30窟は完成を待たずして放棄されてしまった。 大寺院カイラーサを小型化したこの建物の中には聖室がつくられ、その上部に南方型の階段状ヴィマーナがそびえ立っていたが、今は頂部が失われてしまった。
ジャイナ窟で最もすばらしいのは、インドラ・サバー(インドラ神の宮殿)という誤った名前のつけられた第 32窟で、門を入った前庭に、チャトルムカ祠堂 が独立して建ち、高さ 10メートルのスタンバや象の彫刻とともに、2階建ての石窟に囲まれている。この四面堂の形式は、中世の西インドのジャイナ教寺院で大発展をみることになるが、ここでは屋根の形が南方型をしている。
奥の本堂は奥行きが深く、その柱群は華やかに彫刻されている。このようにネガとポジの空間がひとつの岩山から彫り出されて相対しているのが、じつに興味深い。第 32窟にはまた、天井画も残っている。最後の第 34窟は小窟であるが、隅々まで彫刻された内部空間の密度の濃さは、エローラー随一であろう。
ジャイナ教徒の彫刻家たちの貢献にもかかわらず、最初期の開窟から4世紀後にはエローラーの最盛期が過ぎ、幾多の寺院が未完のままに終わった。けれどもアジャンターとは違って、エローラーは忘れ去られることなく、今にいたるまで常に巡礼者たちの集う、3宗教の聖地となっている。
第21窟の柱に彫刻された天女像
エローラーは、今日マハーラーシュトラ州の石窟寺院のなかでも最も多くの人々が訪れる窟院群である。近くに交通量の多い幹線道路が通り、玄武岩はあちこちでひび割れているにもかかわらず、壮麗な寺院と僧院はその魅惑的な輝きをほとんど失っていない。19世紀末にイギリス駐留軍のシーリー大尉がエローラーを目の当たりにしたとき、こうつぶやいたといわれる。「宮殿は廃墟となる。橋は落ちてしまう。最も高貴な建物でさえ時の流れに道を譲るだろう。しかしひっそりと生きてきたエローラーの石窟寺院は再評価され、過去の名声を取り戻し、いつまでも賛嘆されつづけるにちがいない。」
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