第3章
ALEXANDR VITBERG

アレクサンドル・ヴィトベルク

神谷武夫

A・ヴィトベルクによる「救世主聖堂」コンペ案

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 ゲルツェンの『過去と思索』には 多くの思想家や芸術家の断章が、それも 悲劇的な人生が語られている。その中でも、とりわけ私の心に焼き付けられたのは、建築家 アレクサンドル・ラヴレーンチエヴィッチ・ヴィトベルク (1787-1855) の運命であった。
 ゲルツェンが ヴャトカ(現在のキーロフ)に流刑になって、退屈と辟易の2年半を過ごした間、その流謫(るたく)の日々に ただ一つの救いをもたらしたのは、そこに一人の知識人がいて、二人の間に 深い人間的交流をもたらしたことである。『過去と思索』の 第 16章は その思い出にあてられていて、その ヴィトベルクとの「親しい交わりは、ヴャトカにおける私の生活にとって 大きな慰めであった」と書かれている。
 では、建築家のヴィトベルクは、なぜヴャトカにいたのか? それは、彼もまた流謫の身であり、ゲルツェンよりも早く、ペテルブルクから追放されて、ヴャトカで生活していたからである。

 ヴィトベルクは 1787年にペテルブルクで生れたので、ゲルツェンよりも 25歳年長ということになる。両親はスウェーデン人であったので、もとの名前は カール・マグヌスといったが、正教徒になって アレクサンドルの名前をえた。15歳から 19歳まで 美術学校 (アカデミー) で絵画を学び、優秀な成績で卒業した後も 助手を勤めていた。そのまま画家になっていれば、ロマン主義の画家として成功したろうと言われているが、彼は次第に 絵画よりも建築に関心を移していった。

若き日の アレクサンドル・ヴィトベルク
(From "ИСТОРИЯ ХРАМА")

 1812年に モスクワに侵入した 60万人のナポレオン軍を敗退させると、アレクサンドル帝はその年の 12月 25日、”モスクワの冠” と呼んだ 雀が丘に、新しいカテドラル「救世主聖堂」を建設すべく 一大コンペを開催することを布告した。普通、聖堂は使徒や聖人にささげられるものだが、これは 危機にあったロシアを救ってくれた ”救世主キリスト” その人(神)を讃える聖堂なのである。この国家的なモニュメントの建設計画が ヴィトベルクの人生を変えた。彼は これを現実のものにしようとする夢にとりつかれて 絵画を捨て去り、建築家として この設計案を作ることに没頭する。
 今から 200年前のこのコンペに、ロシアのアカデミシャンからはもちろん、イタリアからもドイツからも 応募案が寄せられたという。皇帝による審査は 1815年になされたというから、3年がかりの大コンペだったらしい。そして応募案を くりひろげていった時、「宗教的詩情に満たされた ヴィトベルクの巨大な建設案は、アレクサンドルをおどろかせた。」 早速 アレクサンドル帝は、この無名の若い建築家を呼び寄せて長いあいだ話しこむと、「彼の果敢で熱狂的な言葉、彼を満たしていた真実への霊感、彼の信念の神秘的な色彩」に驚嘆し、ためらいなく この案を一等に選んだ。この時 ヴィトベルクは、若干 28歳であった。

ヴィトベルクによる「救世主聖堂」立面図
(From "ХРАМ ХРИСТА СПАСИТЕЛЯ")

 ゲルツェンとオガリョーフが ”誓い” を結んだ 雀が丘(ヴァラヴョーヴィ丘)は、ロシア革命後 ”レーニン丘” と名前を変えられたが、ソ連崩壊後の 1992年に もとの名にもどされた。今は 展望広場の背後にモスクワ大学がそびえている丘だが、ヴィトベルクの案は、この丘のモスクワ川に面する上部を削って 半地下のクリプト(地下礼拝堂)を作り、その上を、背後に広大な庭園をもつ広場として柱廊で囲み、その中央に2層の巨大な聖堂を建てる というものだった。その設計が いかなるものであったのか、ゲルツェンの言葉を引きながら見ていこう。

 山そのものを 聖堂の下部構造に変えることが必要であった。川に面する境内を柱廊で取り囲み、[正面を除く]三方を 自然そのもので形成するこの土台の上に、驚嘆すべき統一を示す 第2、第3の聖堂を[積み重ねるように]建立することが必要であった。ヴィトベルクの聖堂は、キリスト教の根本的な教義と同じように、三位一体であり、これと不可分のものであった。

 つまり、聖堂は 地階、地表階、最上階の 3層からなり、それが ”父と子と聖霊” (神と キリストと その意志霊)の ”三位一体” のアレゴリーとなっている。

 山を穿(うが)った下方の聖堂は矩形であり、柩(ひつぎ)、人体の形をしている。[川に面した]その外観は ほとんどエジプト式の円柱によって支えられた、重厚な大玄関を形作る。それは人の手の加えられていない 生のままの山の自然と一体化していた。 ・・・・ 昼間の陽の光は、キリスト降誕の透明な像を通して、第2の聖堂から ほのかに この聖堂へと差し込む。その地下納骨堂は 1812年に戦死した すべての勇士たちの安らかな憩いの場所となるはずであった。 ・・・・ 壁には、司今官から一兵卒にいたるまでの、すべての者の名前が彫り刻まれる はずであった。

「救世主聖堂」コンペ案、地階部分図
(From "ХРАМ ХРИСТА СПАСИТЕЛЯ")

 この ”カタコンベ” としての地下聖堂の上に、ギリシア十字プランの聖堂が立つ。

 この墓所の上に、第2の聖堂―― 差し延べられた手と 命と 苦難と 辛苦の聖堂が、上下左右が同じ長さの ギリシア文字の形になって、四方向に広がっている。そこに到る列柱は 旧約聖書の中の 諸人物の立像によって飾られる。入り口のところには 予言者たちが立っていた。彼らは 自分たちが進むことのなかった道を示しつつ、聖堂の外に立つ。この聖堂の中には、福音書の すべての物語と 使徒行伝のすべての場面が示されてあった。

 その上に、ドーム屋根をいただいた 集中式の円形プランの聖堂が載る。

 この聖堂の上には その仕上げとして、締めくくりとして、円屋根の形をした第三の聖堂が 冠のように載っている。明るく照らされた この聖堂は、乱されざる平安と、円環をなす構想によって表現された 永遠性と精神性の聖堂である。ここには 聖像画も彫像もなく、それは 外側から大天使たちの花環をもって取り囲まれ、巨大な円屋根をもって覆われているのである。

 こうして1等に選ばれた壮大な設計案を実現するために、ヴィトベルクは聖堂の建設者、”聖堂建立委員会の委員長” に任命され、その2年後に 工事の礎石が据えられた。しかし、本来の建築家の役割を超えて 国家の役人の地位についたことが、彼の受難の始まりであった。役人経験のない若い建築家は、たちまち詐欺師たちの餌食となってしまうのである。

 ここで 私は思い出す、私の学生時代に日本の建築界で起きた、ある事件を。
 私が学んだ 東京芸術大学・建築科の当時の主任教授は 吉村順三 (1908-97) であった。彼は 住宅建築に最もその才能を発揮し、幾多の名作をつくったが、若いころから日本の古典建築の研究にはげみ、伝統を近代の感覚で表現した。
 戦争で失われた皇居の宮殿が 新しく建て直されることになった時、宮内庁の役人は 当時の代表的な建築家たちと面接し、その作品を検討した結果、戦後の民主主義日本にふさわしい 清楚で品位のある新宮殿の設計者として最適であるとして、吉村順三に 設計を依頼した。
 吉村が心血を注いだ基本設計は 見事にできあがったが、実施設計と工事の段階で トラブルが生じた。膨大な実施設計図は 宮内庁造営部のスタッフが制作していったが、事務処理の円滑や製図作業の安楽さを重視し、細部の設計段階において、建築家である吉村の指示を次第に無視したり、無断で変更するように なっていったのである。事態の悪化がピークに達したとき、吉村は宮内庁長官に宛てて 公開質問書を送った。

 この重要な建造物の設計は 指名された ひとりの建築家に一任すべきものであり、宮内庁造営部が設計するのではない ・・・・ 新しい日本の宮殿を 後世に残して恥かしくない、典雅な 品位あるものとするためには、どうしても 設計者の終始一貫した誠意と熱情によって 最後まで設計が運ばれなければなりません。

と 諄々と説き、とりわけ重要な3点の早急な改善を求めた。しかし これも受けいれられず、万策尽きた吉村は、芸術家としての良心を放棄するにしのびず、ついに辞表を提出してしまったのである。そのため 公式的には、彼の名前は ”基本設計者” としてしか記載されない。シンフォニーの演奏途中で指揮者がおりてしまい、あとは事なかれ主義の役人と演奏家とで、指揮者なしの演奏をする、あるいは映画の製作途中で監督が去って、俳優と事務スタッフだけで制作を続行するというような、西欧の常識では考えられないような 野蛮なことが行われた。

皇居 新宮殿基本設計 1966年 吉村順三
(『吉村順三作品集 1941-78』新建築社 より

 もしも 吉村順三が 皇居造営の責任者としての 役人に就任していたとしたら(そんな制度は 日本にないが)、自己の信念に基づく一貫した設計と 工事監理を完遂できたろうか? しかしそれは、自由業としての建築家のとるべき道ではなく、また できもしないのである。まして、腐敗に満ちた帝政ロシアの官僚制度の中に 建築家が放り込まれたら どのようなことになるか、それをヴィトベルクが 無残にも示すことになった。あらゆる陰謀、腐敗、横領、汚職の渦に巻き込まれ、罪をなすりつけられ、嫉妬中傷され、断罪されて窮地に追い込まれる。

 それでも 彼の擁護者であったアレクサンドル帝が生きているうちは よかった。しかし 工事半ばにして アレクサンドルが世を去ると、帝位についた 非情なニコライは 悪臣たちの讒言(ざんげん)をいれて 聖堂建設を差し止め、ヴィトベルクの資格を剥奪し、長期の裁判に投げ込む。あげくは、「アレクサンドル帝の信任を濫用し、国庫に損失を与えた かどにより」 有罪判決を下す。ヴィトベルクは すべての権利と財産を奪われ、ヴャトカへ流刑となるのである。しかし 彼は 決して罪を認めず、聖堂の設計を続けた。流刑地で生活をともにしたゲルツェンは、彼をこう描写している。

 この驚嘆すべき人物は、全生涯を おのれの設計のために捧げた。裁判に付されていた 10年の間、彼は設計のみに没頭した。流刑地における 貧困と窮乏との苦しい生活の中でも、彼は毎日数時間を 自己の聖堂のために捧げた。彼は これの中に生きていた。彼は自分の聖堂が 建立されずに終るだろう などとは信じなかった。思い出も、慰めも、栄光も ―― すべては芸術家の この図面の束の中にあった。

 ゲルツェンとちがって 貴族でなかったヴィトベルクは、収入の道も絶たれて 苦難の道を歩まねば ならなかったが、決して自分の志を まげなかった。どんなに実現の道が小さかろうと、聖堂の設計の推敲を続け、精巧な図面を描き続けたのである。

 この設計図は天才的であり、驚嘆すべきものであり、しかも狂信的なものであった。このゆえにこそ、アレクサンドルはそれを選んだのである。

   
ヴィトベルクによる「救世主聖堂」 配置図と平面図

 建築家の仕事を描いた文学作品は それほど多くない。ポール・ヴァレリーの 『エウパリノス』は最も有名だが、これは建築家についての理念的、あるいは教科書的な文なので、いささか現実感に乏しい。小説では ゲーテの『親和力』と、ブルーノ・タウトをモデルにした亡命建築家が登場する 石川淳の『白描』が印象深かった。そして ヴィトベルクを描いたゲルツェンの文章は、19世紀に現実に存在した悲劇的建築家を描いたものとして、第一級の文章である。ヴィトベルクから与えられた印象をもとに、彼は ”建築” について次のように書く。

 いかなる芸術の領域においても、建築ほど 神秘主義に近いものはない。それは抽象的で幾何学的で、音なくして音楽的な、冷厳なる芸術である。それは象徴によって、形象によって、暗示によって生きる。単純な線、その調和的な組み合わせ、リズム、数的比率は 何か神秘的な、それでいて不完全なものを表現している。彫像や絵画、叙事詩やシンフォニイとは異なり、建物や神殿は それ自体に おのれの目的をもってはいない。建物はそこに住む者を求める。これは―― 区切られ 取り片付けられた場所(空間)である。これは―― 環境であり、亀の甲であり、軟体動物の殻である。甲羅が亀にふさわしいものであるように、容れ物が精神、目的、居住者にふさわしいものであることが 大切なのである。神殿の壁、ドーム天井と柱、玄関とファサード、土台とドーム屋根は、ちょうど 脳のひだが頭蓋骨の上に跡をとどめているように、神殿に住む 神性の印を とどめていなければならない。

 ヴィトベルクは神秘主義者であった。

 彼の立居振舞いの中に見られる まじめな明るさと ある種の荘重さとのために、彼は どことなく宗教者的な雰囲気を身に帯びていた。彼はきわめて潔癖な性格の持ち主で、概して、快楽よりも むしろ禁欲の方を よしとするところがあった。しかし、彼の謹厳さも 彼の華麗で豊かな芸術的才能を少しも損なうものではなかった。彼は おのれの神秘主義に きわめて自由な形と優雅な色彩とを与えることができたので、反論の言葉も 唇の上で消えてしまうのであった。彼の空想の中に輝くさまざまな形象や おぼろげな絵柄を分析し、解体してしまうのは 惜しいように思われた。

 今から 40余年前、私はゲルツェンによる こうした記述を読んで、その ヴィトベルクの「救世主聖堂」設計案とは いかなるものであったろうかと、その設計図を見ることを切に望んだ。しかし、当時それを調べるよすがは まったくなかった。翻訳されたのはゲルツェンの文章だけであって、そこに図版は 一切なかったからである。そして、当のソ連においても、はたしてヴィトベルクの図面が保存されているかどうか 疑わしく思われた。
 ところが 先述したように、このたび出版された『ロシア建築案内』を見ていたら、モスクワのページに、ヴィトベルクのコンペ案の小さな図版と解説が載せられていたのである。私はすっかり懐旧の念にかられながら その絵を見、リシャット・ムラギルディンによる解説を読んだ。

ヴィトベルクによる「救世主聖堂」案

 (コンペの結果は) ・・・・ ロシアの建築芸術の概念を まったく新たなレベルに引き上げる案に決定した。 コンペ入賞者の A. ヴィットベルグは、大聖堂の形状に 概念的なシナリオを与えた。地下、地上レベル、そして天上の3つに それぞれに幾何学的フォルムを与え、概念的な意味合いをもたせた。地下の聖堂は ナポレオン戦争で戦死した英雄の精霊が ここに眠るため、人間の身体的な生命を表し、棺の形象化である 長方形をもちいた。ふたつ目の地上レベルの聖堂には、いずれは朽ちる(死)身体と 不死の魂の間にある 人間の心を意味した十字架形、3つ目の天上の聖堂は、イタリアの建築家 A・パッラーディオの「円は始まりもなければ終わりもない、永遠を表現する最適の線である」という言葉から 円形が選ばれた。この計画案は、ロシアの建築では フォルムに意味をもたせた初の作品となった。これ以降 19世紀初頭にかけて、建築設計において 形やデザインのもつ意味が重視されるようになる。

 なるほど、それでは ヴィトベルクの生涯をかけた「救世主聖堂」の設計案は、まったく無駄だったわけではなかったのだ。それは 実現こそしなかったが、彼の図面は保存され、後世のロシア建築に影響を与えていたのだ。
  そしてまた 40年前と現在とでは、大きく時代が変わった。この間に ”情報革命” が起こっていたのである。40年前には ヴィトベルクの図面を調べる手立てはなかったが、今回 インターネットで検索してみたら、このページに借用しているドローイングが あっという間に手にはいったのである。

A・ヴィトベルク 「救世主聖堂」
ヴィトベルクによる「救世主聖堂」案

 私の学生時代にも ”情報革命” という言葉は しきりに使われていた。最も論じられていたのは ノーバート・ウィーナーによる ”サイバネティックス” であったが、それは通信と制御の学であって、パーソナル・コンピュータもまだ誕生していなかったから、われわれの身近なところとは縁が薄く、”革命” の実感はなかった。
 建築家で ”情報革命” という言葉に最も敏感であったのは 丹下健三であったように思う。彼は、それが建築の造形に どのように具体化されるのかは未知であるとしても、次の時代の建築のメイン・テーマは ”情報” であろう、と しばしば語っていたものだ。その後の彼の建築造形は、東京都庁舎にいたるまで、ついに ”情報” を建築化することはなかったが、この 20年のあいだに、人類は初めて ”情報革命” を真に実感したのではなかろうか。
 それは パソコンとインターネットによってもたらされた。200年前のロシアの忘れられた建築家による、実現しなかったプロジェクトのドローイングが、ロシアに行かずとも、瞬時に手にはいる時代になったのである。かつては 外国に留学した学者がコツコツと集めてきたものだった古典籍も、今では世界中の古書店の在庫を比較して選んで注文し、航空便で送ってもらえば 1週間も たたないうちに届く。書店に行くどころか、家から一歩も出ずに、古い貴重な文献が手に入ってしまうのである。

 そのように たやすく情報を手に入れることができるようになった ということ以上に、それが ”革命” であるのは、誰もが情報を、世界に向かって 発信できるようになったことだ。
 ゲルツェンの時代に 情報を操作し、不都合な情報発信者を抹殺するのは 皇帝の権力だった。そして それを打ち倒したはずの ロシア革命後の社会は、しかし、またしても 情報操作と抑圧の、スターリン体制であった。レーニンとトロツキーが並ぶ写真から トロツキーの姿を消した写真を流布させて、自分だけが レーニンの継承者であることを ”証明” しようとした スターリンの話は有名だ。
 
 現代においてもなお、情報操作と迫害の構造は続いている。言論の自由を抑圧しようとする マフィアの圧力によって 雑誌や新聞への執筆の機会を奪われたら、社会的には 存在しえなくなる。普段 高邁なことを言いながら、ひとたびマフィアから脅されれば、たちまち その言いなりになる 出版社や編集者、放送局や新聞社、そして悪魔に魂を売り渡す パリサイの学者 (*)。戦中の翼賛体制と たいして変わらない構造が、社会のあちこちにある。電話の盗聴、メールの覗き見、住居侵入、業務の妨害、ウィルスによる攻撃と、上からの命令には 良心の咎めもなく服従する 組織員のメンタリティーも、戦中の特高と なんら変わっていない。”奴隷の言葉” を語る建築家の姿は、見るにたえない。(興味のある方は「東大の常識は世間の非常識」も 参照されたい。)
 ところが ”情報革命” が 状況を変えた。20年以上前なら 沈黙させられるか 抹殺されたであろう者も、今は マス・メディアに頼らずとも 情報を発信することができるようになった。インターネット上にウェブ・サイトを置けば、それが読むに値するものであるなら、多くの人がアクセスして読んでくれる。そして世界のいかなる地からも、未知の人から 瞬時に 連帯のメールが届きうるのである。

ヴィトベルクによる「救世主聖堂」断面図

 話を もとに もどそう。ヴィトベルクに関する ウェブ・サイトは、ロシア語のものが3つ 見つかった。その解説のオリジナル・ソースは ゲルツェンの『過去と思索』であったとしても、「救世主聖堂」の構想を 初めてヴィジュアルに見ることが できたのである。さすが エコール・デ・ボザールの時代のドローイングである。美しい。ただ、ドローイングの数は限られ、詳細な説明はないので、設計案の進展のプロセスは よくわからない。それぞれの設計図が、少しずつ姿を変えているからである。
 とはいえ、全体としては 古代ギリシア・ローマに範をとる 新古典主義のデザインである。当時のロシアの思想界に 西欧派とスラブ派の対立があり、ゲルツェンが西欧派であったように、建築の世界でも その対立があったのであろう。ヴィトベルクは西欧派であり、ナポレオン以後のフランスで支配的な様式となった 新古典主義に準拠したのである。

 そのヴィトベルクは、”自由・平等・友愛” を理想とする フリー・メーソンに属していたが(かなり高位であったらしい)、彼が冤罪で追放されると、「今度はこれに代って野蛮で、粗暴で、無知な 正教が勝ちを占めた。」 反動的なニコライの命を受けた建築家、K・A・トン (1794-1881) の保守的な設計による 新しい「救世主聖堂」が、敷地を現在地に移して 1841年から 40年がかりで建てられる。後にスターリンによって爆破され、2000年に再建されることになる その聖堂を、ゲルツェンは次のように評している。

 信仰や やむにやまれぬ想いなくして、何か 生命のこもったものを創造することは むずかしい。新しい教会は どれもぎごちない、偽善的な、時代錯誤的な雰囲気をもっている。ニコライが トンとともに建てた、栓の代わりに玉ねぎを載せた五つ頭の薬味入れのような、インド・ビザンチン風の教会が それである。

 さて、ヴィトベルクの設計案のドローイングを見ると、ドイツの建築家、カール・フリードリッヒ・シンケル (1781-1841) を思わせるものがある。シンケルは ヴィトベルクより6歳上の同時代人であり、ロマン主義の画家として出発したことも、建築家となって新古典主義に進み、モニュメンタルな大建築を手がけたことも よく似ている。しかし 一方は建築家として頂点にまで登りつめ、他方は失脚して不遇のうちに死ぬという、正反対の運命を生きた。二人が建築家に転じたのは同じころであり、シンケルが 『建築設計案集』を出版したのは 1819年以降だから、ヴィトベルクが 彼から影響を受けたとは 考えられない。

ヴィトベルクによる「救世主聖堂」平面図

 ヴィトベルクの聖堂案の特徴は、なによりも ギリシア十字のプランにある。完全な点対称のプランで、四方にギリシア神殿風の柱廊(ポルティコ)を張り出し、中央の上階に 大ドーム屋根をいただく姿は まことにシンボリックであり、頂部までの高さが 170メートル、ドーム屋根の直径が 50メートルと聞けば、これはローマのサン・ピエトロ大聖堂よりも大きく、実現していれば、世界最大のキリスト教聖堂となったはずである。しかも、ミケランジェロが設計したサン・ピエトロは後の身廊の増築によって ラテン十字(縦軸が横軸よりも長い十字架)のプランになったので、正面広場から見たときに ドーム屋根は奥まっていて、それほど大きく見えないのに対し、ここでは四方の腕の長さが等しく、かつ短い、ギリシア十字のプランなので、周囲の境内から見る姿は 圧倒的な迫力があったことだろう。
 しかし、その巨大さを別にしても、ここまで整然とした、点対称プランの ギリシア十字の聖堂は、前例がない。それがキリスト教の聖堂であるかぎり、奥に祭壇がおかれるので、通常は、入口から奥へと向かう 方向性をもってしまうからである。四方に切妻のファサードをもつ 完全な集中式の建築というのは、廟建築か、パラディオの『ロトンダ』のような ヴィラ建築において成立するものである。ヴィトベルクは 何に基づいて、こうした不思議な聖堂を設計したのだろうか。

「首都司教座聖堂」計画案 エチエンヌ・ルイ・ブレ

 ここで思い浮かぶのは、18世紀フランスの ”幻視の建築家”、エチエンヌ・ルイ・ブレ (1728-99) である。彼はフランス革命前後に、新古典主義に基礎を置きながら、それを 純粋幾何学形態と組み合わせて、数多くの 壮大な空想的建築を構想した。『ニュートン記念堂』が最も有名であるが、『首都司教座聖堂』の計画 (1781年) は まさにギリシア十字の大聖堂で、四方に ギリシア神殿風のポルティコをそなえている。 腕の長さがヴィトベルクよりも長いものの、インドのジャイナ教の建築における ”四面堂” 形式のような、四方に正面をもった集中式の聖堂形態としては、同一のコンセプトであるといえる。しかし平面図を見ると、ブレのものは5廊式のバシリカを4つ つなぎ合わせたようなプランであって、ヴィトベルクとは ずいぶんちがう。

 この時期、フランスではブレの影響のもとに、こうしたフォルマリスティックな空想的建築案が多く作られ、また出版された。中でも ブレの2歳下の マリー・ジョゼフ・ぺール (1730-85) が 1765年に出版した 『建築作品集』 は広く流布したが、その中に『大聖堂』の計画案があり、これは いっそう ヴィトベルク案に近い。回廊で円形に囲まれた境内の 中央に建つ聖堂は 円形プランをしていて、四方にポルティコを備えた 完全な ”四面堂” である。ヴィトベルク案の方は、回廊で矩形に囲まれた境内に 角型の建物が建ち、その上階が円形プラン(そのプランはまだ手に入らないが)の聖堂である。

   
「大聖堂」計画案 マリー・ジョゼフ・ペール

 ヴィトベルクは 新古典主義の建築家として、ブレやペールの本を知っていたことだろう。彼らのフォルマリスティックな聖堂計画に触発されて『救世主聖堂』を計画したのは、ほぼ確実である。けれども 内部のプランは、やはり ペールとも違う。ペールの案は外が円形で、内部がギリシア十字の空間であるのに対し、ヴィトベルクでは ギリシア十字を形成するのは 四方のポルティコであって、内部は 円形の大ホールなのである。このドーム天井の大ホールは、むしろローマのパンテオン、そしてパリのパンテオンをモデルにしているのではなかろうか。
 つまり 彼の構想は、ミサをあげる聖堂であるよりは、ナポレオン戦争で戦死したロシアの兵士たちをまつる 廟、”万聖殿(パンテオン)” であり、戦勝したロシアの偉大さを讃える 巨大なモニュメントであり、フリー・メーソンの理想を具現する 新古典主義の殿堂なのだった。フリー・メーソンは、神を ”宇宙の偉大なる建築家” として崇める。そうであるからには、”救世主” に捧げられる聖堂は、宇宙の創造者としての建築家を讃える大神殿 でなければ ならなかったのである。

 20代の若さで こうした雄大な計画案をつくり、その実現のために ヴィトベルクは 後の 30年を必死に生き抜いたが、ニコライの圧政のもとに ついにその夢は ついえさり、悲惨な後半生を送った。ゲルツェンがヨーロッパに亡命する直前、

 1846年の冬の初め、わたしが最後にペテルブルクに滞在していた時、わたしは ヴィトベルクに会った。彼は零落していた。敵たちに対する 彼のかつての怒り(わたしがあれほど愛していたところのもの)さえ 消えかかっていた。彼はもはや 何の望みも抱かず、自分が陥っている窮状から抜け出すための 何の努力もしていなかった。絶え間のない絶望が この窮状の仕上げを行ない、その生活は あらゆる面で破綻をきたしていた。彼は ひたすら死を待っていた。

 ゲルツェンが ヨーロッパで『過去と思索』第 16章に このように書いたのは、おそらく 1855年前後、つまり ちょうどヴィトベルクが ロシアで 貧困のうちに死んだ頃である。まことに悲運な建築家の生涯であったが、ゲルツェンの筆のおかげで、この高潔にして理想主義的な建築家の運命は、同時代の人ばかりでなく、後々の人にも記憶されることとなったのである。


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