アンドレイ・ルブリョフ |
神谷武夫
中世のロシア、15世紀はじめに ウラジーミルの ウスペンスキー大聖堂や モスクワの アンドロニコフ修道院聖堂などで 壁画やイコンを制作した この画家の生涯について、史実はあまり多くを語ってくれない。したがって 映画のルブリョフは、ひたすらタルコフスキーの想像力によって作られたエピソードの積み重ねによっ 描かれている。それらのエピソードとは「旅芸人 1400年」、「フェオファン 1405年」、「アンドレイの苦悩 1406年」、「沈黙 1412年」、「鐘 1423年」と題される8章から成り、それらの年号から、映画は ルブリョフの壮年期の 23年間を扱ったことになる。 その背景として表現されているロシアは あまりにも暗い、まさに暗黒の時代である。モスクワ大公兄弟どうしの憎悪、タタール・モンゴルの侵攻、しいたげられる民衆、戦争と殺戮、そうした中で生きるルブリョフの姿もまた 苦悩に満ちている。 映画が日本で公開されたのは、今から 29年前(1974年)の冬、銀座と新宿の "アート・シアター" において だった。タルコフスキーの名を 世に知らしめた『僕の村は戦場だった』は、それよりも さらに9年前だったから、当時の私は見ていず、『アンドレイ・ルブリョフ』が 最初に見たタルコフスキーの映画だった。 初めて聞く名前の監督であり、何の予備知識もなかったが、何かありそうだ という予感をもって見に行ったその映画は、モノクロ・フィルムである上に、暗いタッチの映画だった。しかし、その時に受けた深い感動は忘れられない。それは、私の心の中にも暗い気分が満ちていたから だったかもしれないが、さらに タルコフスキーに ゲルツェンの姿が重ねあわせられたからでもあった。
けれども、アンドレイ・ルブリョフの代表作とされるばかりでなく、ゾートフによれば「中世ロシア・ルネサンス美術の最高傑作である」とされるイコン画『三位一体(トローイツア)』 を見ると、そこには 輝くような平和な光と、透明感あふれる 慈愛の気分が満ちている。それは 彼よりも1世紀前のイタリアの画家・ジョットーが パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂や アッシジのサン・フランチェスコ聖堂に描いた、心を洗うような清澄な壁画を髣髴とさせよう。それなのに、映画の中のルブリョフは、なぜ こんなに暗いのだろうか。
「フェオファン 1405年」で描かれるエピソードは、ノヴゴロドのスパース・プロブラジェーニエ聖堂の フレスコ画を描いた画家、フェオファン・グレーク (c.1350- c.1410) の助手を ルブリョフが勤めた、という史実にもとづいている。フェオファンとは 名前が示すように もともとギリシア人(グレーク)であり、本来はテオファネスという。ジョットーにとっての師・チマブエにも相当するフェオファンは、コンスタンチノープル(現在のイスタンブル)からロシアにやって来て、ビザンチン絵画の技法をロシアに伝えた。ルブリョフは 彼の壁画制作に協力しながら、写実的であるよりは象徴的な その方法を身につけ、さらに それをロシア化する。 ルブリョフの競争相手でもあった修道士 キリールが、フェオファンのアトリエを訪ねる場面がある。彼が モスクワの街を歩いていくと、その背後で「おれは無実だ!」と叫ぶ男が 無理やり断頭台に かけられようとしている。その騒ぎを家の中で聞いたフェオファンは、「やめなさい、一体いつまで その男を いじめるつもりだ。あんたたちも 彼に劣らず罪人なのに、裁くとは恥知らずだ」と、窓から叫ぶ。映画全体のストーリーとは関係のない、こうした場面を挿入するというのが、この映画全体の手法であって、この場面ひとつでも、当時のソ連支配層(スターリニストたち) の禁忌にふれただろうことは 容易に想像できる。
さて、フェオファンは職業的な画家であったから 宗教に対して自由であったが、ルブリョフは修道士としての画家であったから、画家である以前に 宗教的な倫理に従わねばならない。タルコフスキーは そこに 屈折した魂の軌跡を想像して、そうした彼の苦悩を この映画の根幹にすえた。
そして映画は「襲来 1408年」のエピソードで、モスクワ大公兄弟の争いに乗じて攻め込んだタタール軍による、ウラジーミルでの襲撃と殺戮を描く。後にゲルツェンの流刑地となる ウラジーミルの町である。 "タタール" とは、中国では韃靼人(だったんじん)と呼ばれた モンゴル系の遊牧民で、彼らは 14、15世紀にたびたびロシアを攻撃し 支配した。このタタール族に蹂躙された時代を、ロシア史では "タタールのくびき" と呼ぶ。ウラジーミルの町は焼かれ、大公と市民が たてこもるウスペンスキー大聖堂も破壊されて、暴行と殺戮が行われる。
戦のあと、廃墟のようになったウスペンスキー聖堂で、亡霊として現れたフェオファンに ルブリョフは言う。「私は決心した、私は絵を捨てる」と。なぜ、との問いに、人を、ロシア人を殺めたからだ と答える。フェオファンは「悪は 人間の形でこの世に現れる。だから 悪を倒すための人殺しもあるさ。神は許して下さるだろう。だが 己を許すな。罰しながら生きるのだ。すべきことは、聖書にあるとおりだ。"善をなすことを覚えよ、真実を探せ。悩むものを救え、孤児にやさしくせよ。そうすれば、お前の罪は軽くなるだろう。罪に汚れたその身も、雪のように潔白となろう" と書いてある」と言って、自分に厳しくなりすぎないよう 求める。しかし ルブリョフは きかず、「許しを乞うために、無言の行に入る。これからは、一切 口をきかない」と答える。その無言の行の実践を描くのが、映画の次のエピソード「沈黙 1412年」である。 この寓意は何だろうか? 私には、戦争中の林達夫 (1893- 1984) の "沈黙" が思い出されるのである。国家が 太平洋戦争の総力戦へと突き進むにつれて、かつての社会主義者はおろか、自由主義者でさえも大政翼賛会に身をゆだねて、"神国日本" が "鬼畜米英" を倒すのだと 戦争を謳歌するとき、正気のある人間だったら、沈黙するほかはない。当時、林達夫がマイナーな雑誌の片隅にわずかに書き残した文章は、こう語っている。
友人だとばかり思っていた学者や知識人が、軍国主義になだれ込んでいく。 数年後に戦争に負ければ、たちまち 手のひらを返して "平和主義者" になる連中なのだが。
戦争中、彼は庭造りに精をだしたが、言論人としては 全く沈黙した。それが本当の 知識人の良心というものだ。戦争中の日本の建築家たちが どのような発言をし、どのような図面を書いたかは、今度の 藤森照信の『丹下健三』に詳しく書かれている。文化人たちが 良心を裏切って権力に迎合する そうした状況は、帝政ロシアの時代にもあった。そして、革命後のスターリン・ロシアの時代には一層、そうであった。タルコフスキーは、それを中世におけるイコン画家の行為によせて、シンボリックに描いたのである。この映画には、中世の時代に見せかけながら、ソ連の窒息しそうな社会体制に対する批判が 至るところに込められている。そう、これこそ ゲルツェンの仲間の歴史家・グラノフスキーの方法だったのである。 ルブリョフはフェオファンに問う、「こんな時代が 一体いつまで続くんだ?」と。フェオファンは、「分からん、永遠にだろう」と答える。ロシアの暗黒の中世も、近世の帝政時代も、そして近代のソ連邦の時代も、さらにまた 我々が生きる現代も、歴史は永遠に繰り返し続ける。歴史家グラノフスキーは モスクワ大学公開講座で、暗い中世を論じながら、それを 19世紀の帝政ロシアと重ね合わせて、黙示的にツァーリズムを批判した。タルコフスキーは 『アンドレイ・ルブリョフ』において、中世ロシアと帝政ロシアと、さらに 20世紀のソヴィエト・ロシアとを重ね合わせて描いたのである。
この映画が ソ連で上映禁止になり、5年もの長きにわたって お蔵入りしたのは 当然のことであったと言える。言論を抑圧する側を 最も刺激したのは、おそらく冒頭の「プロローグ」であったろう。これもまた 本編の筋とは何の脈絡もなく挿入されている 幻想的なエピソードである。 人は、抑圧の現実世界を脱して、自由の世界へ飛翔しようと 夢見る。しかし 現実の絆や権力による束縛は強く、自由は容易に得られない。たちまちのうちに 包囲網にからめとられ、沈黙させられてしまう。事実 タルコフスキーは、この映画をつくったことによって、その後の5年間を沈黙させられたのである。ソ連では 映画はすべて官製であったから、当局の許可がなければ映画を撮ることはできない。フルシチョフによるスターリン批判(1956年)があっても、強固な体制は簡単には変わらない。"飛ぶ男" のシーンは、タルコフスキーによる "内面の叫び" のような 体制批判だったろう。 私はまた、現代日本の流行歌手の中で、唯一 聴くことを好む 中島みゆき (1952- ) の歌に 思いをはせる。「この空を飛べたら」という 彼女の作詞・作曲になる "自由への希求" の歌は、『アンドレイ・ルブリョフ』の この場面に触発されて作られたのではなかろうか。
この映画のずっと後、私はもう1本、"飛ぶ男" の映像を見ることになる。 それはフランスの太陽劇団を率いる アリアーヌ・ムヌーシュキン (1939- ) が脚本・監督をした『モリエール』であって、そこでは "自由への希求" が いとも たやすく実現されていた。1983年 8月 6日、岩波ホールで それを見た日の日記には、こう書いてある。
王政を倒して 共和制を実現させた実績感に裏打ちされて、フランス人には 未来への自信と楽天性があるのだろうか。その反対にロシアは デカブリストの乱以来、絶えず改革運動がつぶされて 抑圧の重みに押しつぶされてきたから、ロシアの文学、芸術には 常に悲劇性がつきまとう。ロシア文学に登場する人物たちには、というより ロシアの芸術家たちには、しばしば 人類の苦悩を一身に背負っているような趣がある。トルストイもそうであったし、ドストエフスキーも、画家のイワーノフもそうであり、そしてタルコフスキーもまた その最後の作品となった『サクリファイス』において、そうであったように見える。
ところで、『アンドレイ・ルブリョフ』の飛翔シーンの舞台となった聖堂は、落合東朗の『タルコフスキーとルブリョフ』(1994年、論創社刊)にも書いてないのだが、ウラジーミル郊外の ボゴリューボヴォにある、「ネルリ河畔のポクロフ聖堂」(1165年) である。 初期ロシア建築の傑作と うたわれている珠玉の聖堂だが、さらにまた不思議なことには、『ロシア建築案内』にも この聖堂は紹介されていない。 しかしながら、この映画で誰もが一番感動するのは、最後のエピソードであろう。そのタイトルは「鐘(コロコル)」という! あの日、映画を見ていて、このタイトルが出てきた時、私は思わず ゲルツェンの「鐘(コロコル)」誌 を連想したのである。
モスクワ大公は 新しい聖堂のために、鐘造りの職人を さがさせた。ところが 疫病によって職人の親方たちは 皆死んでしまっていた。しかし 鋳物師の息子だった少年・ボリースカは、自分は父親から 鐘造りの秘密を教わっている、と嘘をついて、鐘造りの責任者の地位を獲得する。嘘がばれたら どうしよう という恐怖心と戦いながら、彼は必死で鋳型に使う 特上質の粘土を探し、大勢の職人たちに采配を振るって鋳型を造り、十分な量の銅と銀を用意させ、ついに火をいれて流し込む。
ようやく 鐘は ひび割れもせずに できあがり、鋳型をはずすと、大公や外国の使節たちが訪れ、その衆目の前で鐘を吊り上げて、初めて鳴らしてみせる時が来る。この大鐘を吊り上げるには 巨大な足場を組み、四方八方にロープを張って、大群衆が力をあわせて引く。しかし外国の賓客は、「聖母マリアに誓って言うが、この鐘は鳴らんよ。これは鐘などと言えるものではない」とつぶやく。
こうして映画を見終わった時、私は、この監督は必ずや ソ連から亡命するだろう と直感した。これほど批判精神に満ち、自由への希求を持ち続ける芸術家が、いつまでもソ連にとどまっていられるわけもない、と思ったのである。タルコフスキーは、まさに映画上の ゲルツェンだと思われた。
また、この映画を あらためて DVDで見て、私は思う。そもそも タルコフスキーは アンドレイ・ルブリョフという 一芸術家の生涯を描きたかったのだろうか? ゾートフが言う "ロシアの真の芸術的天才のシンボル" であるところの ルブリョフの生涯を? 彼は公式には そのように語っている。しかし、それにしては ルブリョフの芸術家としての主張や創作過程は ほとんど描かれていない。映画の最後にルブリョフの作品群が、突然カラーになって映し出されるのも、とってつけた感じが しないであろうか?
タルコフスキーがソ連を出たのは、私の予想よりもずっと遅かった。それは、私がこの映画を見た 8年後の 1982年で、イタリアで『ノスタルジア』を撮るためだった。ゴスキノ(国家映画委員会)による攻撃のせいで、「20余年間 ソヴィエトの映画界にいて、およそ 17年のあいだ、絶望的な失業状態にあった」 というのは、まさに流刑中の建築家 ヴィトベルクのような思いであったろう。『ノスタルジア』を撮り終わったあとも 彼はロシアには帰らず、1984年に 事実上の亡命宣言をする。
しかし、ロシアに いたたまれなくなって ヨーロッパに亡命していながら、ヨーロッパにもまた絶望せざるをえなかった心情がまた、ゲルツェンとタルコフスキーに共通であろう。亡命宣言の後、二人とも2度とロシアの地を踏むことはなかったが、しかし ヨーロッパに安住の地を見出したわけではなかった。彼らの心は たえず祖国 ロシアに向けられていた と言っていい。
タルコフスキーがロシアを出て 最初につくった映画は、イタリアを旅するロシアの詩人(これが どうしても "亡命ロシア人" のように見えてしまうのだが)の心象風景を 詩的に描いた『ノスタルジア』である。この映画のラスト近く、イタリアの ロマネスク − ゴチックの聖堂と ロシアの農村風景が重ねあわされる幻想シーンは 美しく、感動的だった。(これも 亡命ロシア人の "望郷の念" を描いているように映る。)
その聖堂とは、イタリア中部のトスカナ地方に 廃墟として残る、サン・ガルガーノの シトー会修道院聖堂である。これはイタリアを代表する シトー会修道院建築として名高い カザマリの修道院の分院で、聖堂の建立は 13世紀であるから、母院と同じように ゴチック様式で建てられた。しかしシトー会の修道院は、修道士の観想を妨げるものとして すべての装飾的なものを拒否しようとしたから、尖頭アーチをはじめとする ゴチックの建築言語を用いていても 、後期ゴチックのように骨ばっていず、柱頭彫刻もなく、壁が多い瞑想的な建物となるがゆえに、その建築の性格は 著しくロマネスク的となる。 再び 中島みゆきにふれると、かつての彼女の歌は、通常のポピュラー音楽とは異質の 深い内面性に彩られ、バッハの音楽にきわめて近いものであった。その言葉と音の流れは しばしば バッハのカンタータを聴いているような思いにさせるが、彼女の最高作というべき「異国」と「エレーン」は、あたかも "亡命日本人" の "望郷の歌" のように聞こえる。シュヴァイツァーは 長大なバッハの評伝において、バッハの音楽の本質を "晴れやかな死への憧れ" と書いたが、そのことは タルコフスキーの映画にも、中島みゆきの(ロックではない、バラードの)音楽にも言えるような気がするのである。
トゥスカーニャの聖ピエトロ聖堂
ところで 建築家のヴィトベルクは、「救世主聖堂」のコンペにおいて 新古典主義様式を採用した。それが私には 釈然としないところであった。ゲルツェンが描いたような神秘主義者であり、精神の深みを求めたヴィトベルクに、"アンピール(帝国)様式" とも呼ばれる ナポレオン帝政下の建築様式が ふさわしかったとは思えない。今回 インターネットで彼の図面を見出して意外な感に打たれたのである。
彼は最初に手がけた大聖堂でつまずいて、そのまま 朽ちていってしまったから、ゲルツェンやタルコフスキーのような 亡命体験を もたなかった。ヨーロッパに亡命すれば、それまでの "西欧派" も、近世ヨーロッパの欠陥を まのあたりにすることになり、それが さらに感覚と認識の深みをもたらしたはずなのだ。
私はこのサイトで、時代に虐げられ、迫害の中で 生涯 身を屈することなく生きた、ロシアの芸術家たちを描こうとしてきたのであるが、タルコフスキーの映画を論じたついでに、もう1本の古い映画を紹介しておきたい。それはロシアではなく、ポーランド映画である。
私が見た 3作の内、『尼僧ヨアンナ』と『夜行列車』は 時々名画座などで上映され、ビデオも出ていたから 見た人も多いと思うが、『戦争の真の終り』は ほとんど 知られていないのではないだろうか。私にとって 彼の作品の中で この映画が一番印象深かったのは、映画の主人公が 建築家だったからである。それも、ヴィトベルクと同じように 悲運の建築家なのだった。
彼は出征して捕虜となったのか、あるいはユダヤ人としての受難であったのか、ナチスの強制収容所に入れられて、絶えず虐待を受け、精神に失調をきたすのである。夫を待ち続けた妻も、ついに 彼が死んだものとあきらめ、新しい人生を生きるべく 別の男と愛し合うようになっていた。そこへ突然、廃人のようになった夫が帰ってくると、妻は とまどう。 仕事もできず、時々 てんかん性の発作をおこす夫を、全面的に受けいれることはできない。その妻の態度がまた 彼の症状を さらに悪化させ、ほとんど口のきけない 唖者のようになってしまう。
この場合の建築家は、特に自由のために戦った というわけではないが、過酷な運命に翻弄されて 悲惨な結末に導かれていった。私がこの映画を見たのは まだ学生時代、封切りではなく、ポーランド映画特集か何か ではなかったかと思う。まだ建築家の卵にすぎなかったのに、なぜか 身につまされるものを 感じてしまったのである。 |