第4章
ANDREI RUBLYOV

アンドレイ・ルブリョフ

神谷武夫

ネルリ河畔の ポクロフ聖堂

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 過酷な運命に翻弄された建築家、アレクサンドル・ヴィトベルクのことを想うとき、私には もう一人のロシアの芸術家、アンドレイ・ルブリョフ(1360頃-1430)の姿が それに重ねあわされる。というよりも、20世紀の映画作家、アンドレイ・タルコフスキー (1932-86) が 描いたところの画家『アンドレイ・ルブリョフ』の内面、と言ったほうが よいかもしれない。

 中世のロシア、15世紀はじめに ウラジーミルの ウスペンスキー大聖堂や モスクワの アンドロニコフ修道院聖堂などで 壁画やイコンを制作した この画家の生涯について、史実はあまり多くを語ってくれない。したがって 映画のルブリョフは、ひたすらタルコフスキーの想像力によって作られた エピソードの積み重ねによって描かれている。それらのエピソードとは「旅芸人 1400年」、「フェオファン 1405年」、「アンドレイの苦悩 1406年」、「祭 1408年」、「最後の審判 1408年夏」、「襲来 1408年」、「沈黙 1412年」、「鐘 1423年」と題される8章から成り、それらの年号から、映画は ルブリョフの壮年期の 23年間を扱ったことになる。

 その背景として表現されているロシアは あまりにも暗い、まさに暗黒の時代である。モスクワ大公兄弟どうしの憎悪、タタール・モンゴルの侵攻、しいたげられる民衆、戦争と殺戮、そうした中で生きるルブリョフの姿もまた 苦悩に満ちている。

 映画が日本で公開されたのは、今から 29年前(1974年)の冬、銀座と新宿の "アート・シアター" において だった。タルコフスキーの名を 世に知らしめた『僕の村は戦場だった』は、それよりも さらに9年前だったから、当時の私は見ていず、『アンドレイ・ルブリョフ』が 最初に見たタルコフスキーの映画だった。 初めて聞く名前の監督であり、何の予備知識もなかったが、何かありそうだ という予感をもって見に行ったその映画は、モノクロ・フィルムである上に、暗いタッチの映画だった。しかし、その時に受けた深い感動は忘れられない。それは、私の心の中にも暗い気分が満ちていたから だったかもしれないが、さらに タルコフスキーに ゲルツェンの姿が重ねあわせられたからでもあった。

アンドレイ・ルブリョフ『三位一体』

 けれども、アンドレイ・ルブリョフの代表作とされるばかりでなく、ゾートフによれば「中世ロシア・ルネサンス美術の最高傑作である」とされるイコン画『三位一体(トローイツア)』 を見ると、そこには 輝くような平和な光と、透明感あふれる 慈愛の気分が満ちている。それは 彼よりも1世紀前のイタリアの画家・ジョットーが パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂や アッシジのサン・フランチェスコ聖堂に描いた、心を洗うような清澄な壁画を髣髴とさせよう。それなのに、映画の中のルブリョフは、なぜ こんなに暗いのだろうか。

 「フェオファン 1405年」で描かれるエピソードは、ノヴゴロドのスパース・プロブラジェーニエ聖堂の フレスコ画を描いた画家、フェオファン・グレーク(1350頃-1410頃)の助手を ルブリョフが勤めた、という史実にもとづいている。フェオファンとは 名前が示すように もともとギリシア人(グレーク)であり、本来はテオファネスという。ジョットーにとっての師・チマブエにも相当するフェオファンは、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)からロシアにやって来て、ビザンチン絵画の技法をロシアに伝えた。ルブリョフは 彼の壁画制作に協力しながら、写実的であるよりは象徴的な その方法を身につけ、さらに それをロシア化する。
 その天上の世界のような 清らかで純粋な感覚表現によって、ルブリョフは中世ロシア最高の画家と讃えられるようになるのであるが、映画の このエピソードは、まだルブリョフがフェオファンの助手となる前を描いている。

 ルブリョフの競争相手でもあった修道士 キリールが、フェオファンのアトリエを訪ねる場面がある。彼が モスクワの街を歩いていくと、その背後で「おれは無実だ!」と叫ぶ男が 無理やり断頭台に かけられようとしている。その騒ぎを家の中で聞いたフェオファンは、「やめなさい、一体いつまで その男を いじめるつもりだ。あんたたちも 彼に劣らず罪人なのに、裁くとは恥知らずだ」と、窓から叫ぶ。映画全体のストーリーとは関係のない、こうした場面を挿入するというのが、この映画全体の手法であって、この場面ひとつでも、当時のソ連支配層(スターリニストたち) の禁忌にふれただろうことは 容易に想像できる。

 さて、フェオファンは職業的な画家であったから 宗教に対して自由であったが、ルブリョフは修道士としての画家であったから、画家である以前に 宗教的な倫理に従わねばならない。タルコフスキーは そこに 屈折した魂の軌跡を想像して、そうした彼の苦悩を この映画の根幹にすえた。
 次のエピソード「アンドレイの苦悩 1406年」において、民衆とは いかなるものかについて、ルブリョフとフェオファンに議論をさせるのである。フェオファンは、「人間は忘れっぽい動物だ。過去の失敗を忘れて 悪行をくり返している。進歩なんてものは 全然ない。イエスが再臨しても、また磔(はりつけ)にするだろう」と言う。
 ルブリョフの脳裏をよぎるのは、十字架を背負い 押しつぶされそうになりながら ゴルゴタの丘を登っていく イエスのイメージである。ユダヤの民衆にも 弟子にも裏切られて、雪のロシアで磔刑につくイエスの映像は、ルブリョフの晴朗な『三位一体』のイコン画と比べて、いかにも沈鬱である。民衆は「みんな同じ愚かな仲間なんだ。悪は至る所にある。わずかな金で裏切る人間もいる。大衆は災難続きだ。それでも彼らは黙々と働いている。不平も言わず、十字架を背負って歩いているんだ。イエスは死を選んだ。それは人の世の残酷と不正を教えるためだ」とルブリョフは言う。

 そして映画は「襲来 1408年」のエピソードで、モスクワ大公兄弟の争いに乗じて攻め込んだタタール軍による、ウラジーミルの襲撃と殺戮を描く。後にゲルツェンの流刑地となる ウラジーミルの町である。 "タタール" とは、中国では韃靼人と呼ばれた モンゴル系の遊牧民で、彼らは 14、15世紀にたびたびロシアを攻撃し 支配した。このタタール族に蹂躙された時代を、ロシア史では "タタールのくびき" と呼ぶ。ウラジーミルの町は焼かれ、大公と市民が たてこもるウスペンスキー大聖堂も破壊されて、暴行と殺戮が行われる。
 その時、犯されそうになった白痴の娘を助けるために、ルブリョフは斧で一人の兵士を殺めてしまう。しかも その兵士はタタールではなく、タタールと結んだ大公の弟軍のロシア人同胞、キリスト教徒だった。

映画『アンドレイ・ルブリョフ』のチラシ

 戦のあと、廃墟のようになったウスペンスキー聖堂で、亡霊として現れたフェオファンに ルブリョフは言う。「私は決心した、私は絵を捨てる」と。なぜ、との問いに、人を、ロシア人を殺めたからだ と答える。フェオファンは「悪は 人間の形でこの世に現れる。だから 悪を倒すための人殺しもあるさ。神は許して下さるだろう。だが 己を許すな。罰しながら生きるのだ。すべきことは、聖書にあるとおりだ。"善をなすことを覚えよ、真実を探せ。悩むものを救え、孤児にやさしくせよ。そうすれば、お前の罪は軽くなるだろう。罪に汚れたその身も、雪のように潔白となろう" と書いてある」と言って、自分に厳しくなりすぎないよう 求める。しかしルブリョフは きかず、「許しを乞うために、無言の行に入る。これからは、一切 口をきかない」と答える。その無言の行の実践を描くのが、映画の次のエピソード「沈黙 1412年」である。

 この寓意は何だろうか? 私には、戦争中の林達夫(1893-1984)の "沈黙" が思い出されるのである。国家が 太平洋戦争の総力戦へと突き進むにつれて、かつての社会主義者はおろか、自由主義者でさえも大政翼賛会に身をゆだねて、"神国日本" が "鬼畜米英" を倒すのだと 戦争を謳歌するとき、正気のある人間だったら、沈黙するほかはない。当時、林達夫がマイナーな雑誌の片隅にわずかに書き残した文章は、こう語っている。

 こうして私は、時代に対して 完全に真正面からの関心を喪失してしまった。 私には、時代に対する発言の大部分が、正直なところ 空語、空語、空語! としてしか感受出来ないのである。私は たいがいの言葉が、それが美しく立派であればあるほど、信じられなくなっている。余りに見え透いているのだ。私は、そんなものこそ有害無益な "造言蜚語" だと、心の底では確信している。 救いは絶対に そんな美辞麗句からは来ないと断言してよい。(「歴史の暮方」)

 友人だとばかり思っていた学者や知識人が、軍国主義になだれ込んでいく。 数年後に戦争に負ければ、たちまち手のひらを返して "平和主義者" になる連中なのだが。

 私は あまりにペシミスティックなことばかり 語ったかもしれない。だが、正直のところ、哲学者ならば、プラトンのように ユートピアを書くか、ボエティウスのように『哲学の慰め』を書くかする外には手がないような時代のさ中にあって、威勢のよいお祭りに、山車の片棒かつぎなどに乗り出す気などは 一向に起こらぬ。絶壁の上の死の舞踊に参加する暇があったなら、私ならば エピクロスの小さな園を せっせと耕すことに努めるであろう。これは現実逃避ではなくして 生活権確保への 行動第一歩なのである。(「新スコラ時代」)

 戦争中、彼は庭造りに精をだしたが、言論人としては 全く沈黙した。それが本当の 知識人の良心というものだ。戦争中の日本の建築家たちが どのような発言をし、どのような図面を書いたかは、今度の藤森照信の『丹下健三』に詳しく書かれている。文化人たちが 良心を裏切って権力に迎合する そうした状況は、帝政ロシアの時代にもあった。そして、革命後のスターリン・ロシアの時代には一層、そうであった。タルコフスキーは、それを中世におけるイコン画家の行為によせて、シンボリックに描いたのである。この映画には、中世の時代に見せかけながら、ソ連の窒息しそうな社会体制に対する批判が 至るところに込められている。そう、これこそ ゲルツェンの仲間の歴史家・グラノフスキーの方法だったのである。

 ルブリョフはフェオファンに問う、「こんな時代が 一体いつまで続くんだ?」と。フェオファンは、「分からん、永遠にだろう」と答える。ロシアの暗黒の中世も、近世の帝政時代も、そして近代のソ連邦の時代も、さらにまた 我々が生きる現代も、歴史は永遠に繰り返し続ける。歴史家グラノフスキーは モスクワ大学公開講座で、暗い中世を論じながら、それを 19世紀の帝政ロシアと重ね合わせて、黙示的にツァーリズムを批判した。タルコフスキーは 『アンドレイ・ルブリョフ』において、中世ロシアと帝政ロシアと、さらに 20世紀のソヴィエト・ロシアとを重ね合わせて描いたのである。

映画『アンドレイ・ルブリョフ』の飛翔シーン

 この映画が ソ連で上映禁止になり、5年もの長きにわたって お蔵入りしたのは 当然のことであったと言える。言論を抑圧する側を 最も刺激したのは、おそらく冒頭の「プロローグ」であったろう。これもまた 本編の筋とは何の脈絡もなく挿入されている 幻想的なエピソードである。
 川に面した とある古い聖堂に、追手の追撃を逃れてきた男が着くと、すでに用意されていた熱気球に乗って、聖堂の屋上から 空中に飛翔するのである。驚愕した人々が見守る中で、何者とも知れぬ "飛ぶ男" は、「俺は飛んだ、俺は飛んでいるぞ」と歓喜の叫び声をあげる。しかしそれも束の間、まもなく気球は破れ、男は地面に墜落して崩れ去るのである。

 人は、抑圧の現実世界を脱して、自由の世界へ飛翔しようと 夢見る。しかし 現実の絆や権力による束縛は強く、自由は容易に得られない。たちまちのうちに 包囲網にからめとられ、沈黙させられてしまう。事実 タルコフスキーは、この映画をつくったことによって、その後の5年間を沈黙させられたのである。ソ連では 映画はすべて官製であったから、当局の許可がなければ映画を撮ることはできない。フルシチョフによるスターリン批判(1956年)があっても、強固な体制は簡単には変わらない。"飛ぶ男" のシーンは、タルコフスキーによる "内面の叫び" のような 体制批判だったろう。

 私はまた、現代日本の流行歌手の中で、唯一 聴くことを好む 中島みゆき(1952- )の歌に 思いをはせる。「この空を飛べたら」という 彼女の作詞・作曲になる "自由への希求" の歌は、『アンドレイ・ルブリョフ』の この場面に触発されて作られたのではなかろうか。

"空を飛ぼうなんて 悲しい話を   いつまで考えているのさ "
" 暗い土の上に 叩きつけられても  こりもせずに 空を見ている "
" ああ 人は 昔々 鳥だったのかもしれないね  こんなにも こんなにも 空が恋しい"

 この映画のずっと後、私はもう1本、"飛ぶ男" の映像を見ることになる。 それはフランスの太陽劇団を率いる アリアーヌ・ムヌーシュキン(1939- )が脚本・監督をした『モリエール』であって、そこでは "自由への希求" が いとも たやすく実現されていた。1983年 8月 6日、岩波ホールで それを見た日の日記には、こう書いてある。

 映画『モリエール』の初日。素晴らしい映画だった。4時間という長さに、終りの方は少々沈んでしまったが(それが宮廷を舞台とするようになったからか)、とりわけ 前半は感動的で、思わず 涙ぐんでしまうほどだった。それは ストーリーが感動的だったわけでもなければ、悲嘆の場面があったわけでもない。その演劇的で祝祭的な映像空間と、そこで繰り広げられる遠い時代の人間たちの夢と希望の燃焼が、あまりにも美しかったからである。

 汚い街角の大道芸人たちによる いかがわしい祝典の頭上を、いかつい人造の翼をつけた "飛ぶ人間" が出現した時には、あの『アンドレイ・ルブリョフ』の冒頭シーンを思い出した。そして、こちらは失敗もせず、軽やかに、自由に飛び続けるのである。
 中世と 帝政ロシアと ソヴィエト・ロシアを重ね合わせた、暗い社会の谷間に "飛ぶ男" は墜落し、神を恐れぬふとどきもの と捕えられるモノクロの映像に比べて、極彩色のモリエールは まさしくルネサンス人、青く澄み切った空を背景に "飛ぶ男" は、社会の絆、運命のいましめを断って、自由の未来をめざして飛び立っていくのである。  Oh, Liberté ! Oh, Liberté !

映画『モリエ-ル』の 飛翔シーン

 王政を倒して 共和制を実現させた実績感に裏打ちされて、フランス人には 未来への自信と楽天性があるのだろうか。その反対にロシアは デカブリストの乱以来、絶えず改革運動がつぶされて 抑圧の重みに押しつぶされてきたから、ロシアの文学、芸術には 常に悲劇性がつきまとう。ロシア文学に登場する人物たちには、というより ロシアの芸術家たちには、しばしば 人類の苦悩を一身に背負っているような趣がある。トルストイもそうであったし、ドストエフスキーも、画家のイワーノフもそうであり、そしてタルコフスキーもまた その最後の作品となった『サクリファイス』において、そうであったように見える。

 ところで、『アンドレイ・ルブリョフ』の飛翔シーンの舞台となった聖堂は、落合東朗の『タルコフスキーとルブリョフ』(1994年、論創社刊)にも書いてないのだが、ウラジーミル郊外の ボゴリューボヴォにある、「ネルリ河畔のポクロフ聖堂(1165年)である。 初期ロシア建築の傑作と うたわれている珠玉の聖堂だが、さらにまた不思議なことには、『ロシア建築案内』にも この聖堂は紹介されていない。
 このネルリ河は雨季に増水して、聖堂の敷地は小さな島のようになる。水面に姿を映す白亜の聖堂は、小規模ながら凛とした気品をたたえている。きっとタルコフスキーは、ロシアの古典建築の中でも、とりわけ この聖堂が好きだったのだろう。映画では "飛ぶ男" から見た、聖堂の高い位置の壁面彫刻も写されている。

 しかしながら、この映画で誰もが一番感動するのは、最後のエピソードであろう。そのタイトルは「鐘(コロコル)」という! あの日、映画を見ていて、このタイトルが出てきた時、私は思わず ゲルツェンの「鐘(コロコル)」誌 を連想したのである。

 モスクワ大公は 新しい聖堂のために、鐘造りの職人を さがさせた。ところが 疫病によって職人の親方たちは 皆死んでしまっていた。しかし 鋳物師の息子だった少年・ボリースカは、自分は父親から 鐘造りの秘密を教わっている、と嘘をついて、鐘造りの責任者の地位を獲得する。嘘がばれたら どうしよう という恐怖心と戦いながら、彼は必死で鋳型に使う 特上質の粘土を探し、大勢の職人たちに采配を振るって鋳型を造り、十分な量の銅と銀を用意させ、ついに火をいれて流し込む。
 奇妙なことに、このエピソードでは 少年・ボリースカが主人公であって、ルブリョフは脇に退いてしまう。無言の行を続けているルブリョフは、時々傍らから 気遣わしげに ボリースの悪戦苦闘を見守っているだけだ。

 ようやく 鐘は ひび割れもせずに できあがり、鋳型をはずすと、大公や外国の使節たちが訪れ、その衆目の前で鐘を吊り上げて、初めて鳴らしてみせる時が来る。この大鐘を吊り上げるには 巨大な足場を組み、四方八方にロープを張って、大群衆が力をあわせて引く。しかし外国の賓客は、「聖母マリアに誓って言うが、この鐘は鳴らんよ。これは鐘などと言えるものではない」とつぶやく。
 誰もが 不安の気持で注視する中、撞木を振って打ち当てると、鐘は 堂々たる音を立てて、みごとに鳴るのである。激しい緊張感が破れるとともに 感極まった少年は、野に倒れこんで泣きじゃくる。その時ルブリョフが現れて、父親のように少年を抱え起こし、初めて沈黙を破って、「泣くな」と言う。
 ボリースカは「父さんは 秘密を教えてくれなかった。ひどい親さ」と言いながら 泣き続ける。ルブリョフは、「立派にできたじゃないか。何を泣くんだ、祝うべき日だぞ。さあ、もういい、元気を出せ。もう泣くな、私と一緒に行こう。 私もまた絵を描く。お前は鐘を造れ」と 声をかけ続ける。画家、アンドレイ・ルブリョフの復活である。
 ここで不意に画面はカラーとなり、「エピローグ」として、ルブリョフが描いた イコン画のディテールを なめるように映し出していく。

アンドレイ・タルコフスキー (From website "Nostalghia com")

 こうして映画を見終わった時、私は、この監督は必ずや ソ連から亡命するだろう と直感した。これほど批判精神に満ち、自由への希求を持ち続ける芸術家が、いつまでもソ連にとどまっていられるわけもない、と思ったのである。タルコフスキーは、まさに映画上の ゲルツェンだと思われた。
 たとえば、この最後の 鐘のエピソードが いかに感動的であろうと、映画全体の筋から言って、いかにも唐突である。アンドレイ・ルブリョフの生涯を描く上で、不可欠のエピソードであったとは、とうてい思えない。タルコフスキーがこのエピソードを 強引に最終章にいれたのは、鐘を鳴らせたかったのではないか。ノヴゴロドの "自由の鐘" を。ゲルツェンが ノヴゴロドの鐘を鳴らせようと 「コロコル」 誌を発行したように、タルコフスキーは鐘を鳴らし、民衆(ナロード) をして、空を飛ばせたかったのではないだろうか。

 また、この映画を あらためて DVDで見て、私は思う。そもそも タルコフスキーは アンドレイ・ルブリョフという 一芸術家の生涯を描きたかったのだろうか? ゾートフが言う "ロシアの真の芸術的天才のシンボル" であるところの ルブリョフの生涯を? 彼は公式には そのように語っている。しかし、それにしては ルブリョフの芸術家としての主張や創作過程は ほとんど描かれていない。映画の最後にルブリョフの作品群が、突然カラーになって映し出されるのも、とってつけた感じがしないであろうか?
 タルコフスキーが描こうとしたのは、なによりも、人間の尊厳や 言論の自由を圧殺する ソ連の体制への批判だったのではないか。ゲルツェンが 生涯をかけて帝政ロシアを批判し、人間の自由と尊厳を回復しようとしたように。それだからこそ、この映画は当局によって 上映禁止にされたのである。

 タルコフスキーがソ連を出たのは、私の予想よりもずっと遅かった。それは、私がこの映画を見た 8年後の 1982年で、イタリアで『ノスタルジア』を撮るためだった。ゴスキノ(国家映画委員会)による攻撃のせいで、「20余年間 ソヴィエトの映画界にいて、およそ 17年のあいだ、絶望的な失業状態にあった」 というのは、まさに流刑中の建築家 ヴィトベルクのような思いであったろう。『ノスタルジア』を撮り終わったあとも 彼はロシアには帰らず、1984年に 事実上の亡命宣言をする。
 もしも タルコフスキーが その2年後、54歳の若さで死ぬ というようなことがなければ、1991年のソ連崩壊にも立会い、祖国に戻ることが あったかもしれない。しかし ゲルツェンと同じように、窒息状態のロシアを去ったあと、ロシアの大地への大いなる愛を抱きながらも、彼は2度と再び祖国の土を踏むことは なかったのである。

 しかし、ロシアに いたたまれなくなって ヨーロッパに亡命していながら、ヨーロッパにもまた絶望せざるをえなかった心情がまた、ゲルツェンとタルコフスキーに共通であろう。亡命宣言の後、二人とも2度とロシアの地を踏むことはなかったが、しかし ヨーロッパに安住の地を見出したわけではなかった。彼らの心は たえず祖国 ロシアに向けられていた と言っていい。
 中国の文学者・巴金 (1904-2005) は "文化大革命" 時に批判され、暗黒の時代を生きたが、その間 ただひたすら ゲルツェンの『過去と思索』を読み、訳しながら耐えたという。ソ連で、映画を作ることを妨げられて 長い不遇の時を過ごしていた タルコフスキーもまた、『過去と思索』を読み、国家によって作品の実現を妨げられた ヴィトベルクの生涯に、自己を重ね合わせていたのではないだろうか。それが『アンドレイ・ルブリョフ』の構想のもとになったのではあるまいか、と思われてならないのである。



映画『ノスタルジア』のチラシ

 タルコフスキーがロシアを出て 最初につくった映画は、イタリアを旅するロシアの詩人(これが どうしても "亡命ロシア人" のように見えてしまうのだが)の心象風景を 詩的に描いた『ノスタルジア』である。この映画のラスト近く、イタリアの ロマネスク − ゴチックの聖堂と ロシアの農村風景が重ねあわされる幻想シーンは 美しく、感動的だった。(これも 亡命ロシア人の "望郷の念" を描いているように映る。)

 その聖堂とは、イタリア中部のトスカナ地方に 廃墟として残る、サン・ガルガーノの シトー会修道院聖堂である。これはイタリアを代表する シトー会修道院建築として名高い カザマリの修道院の分院で、聖堂の建立は 13世紀であるから、母院と同じように ゴチック様式で建てられた。しかしシトー会の修道院は、修道士の観想を妨げるものとして すべての装飾的なものを拒否しようとしたから、尖頭アーチをはじめとする ゴチックの建築言語を用いていても 、後期ゴチックのように骨ばっていず、柱頭彫刻もなく、壁が多い瞑想的な建物となるがゆえに、その建築の性格は 著しくロマネスク的となる。
 また、映画に出てくる もうひとつの聖堂のクリプト(地下聖堂)は、ローマに近い ラツィオ地方の トゥスカーニャにある 聖ピエトロ聖堂のもので、これは純然たる 11世紀のロマネスクである。こうしたロマネスク建築や シトー会の修道院が、タルコフスキーの映画には しっくりと調和する。そこにはルネスンス以後の建築に見られない 深い精神の充足があり、魂の内面に降りていくような 深い静寂がある。それはバッハの音楽のもつ、いわば "抑制された歓喜" ともいうべき性格と同一のものだ。タルコフスキーが これらの聖堂やクリプトを映画の舞台に選んだのは、必然だったと言えよう。私にとってタルコフスキーの映画は、バッハの音楽と ロマネスクの建築と 切り離しがたく結びついている。

 再び 中島みゆきにふれると、かつての彼女の歌は、通常のポピュラー音楽とは異質の 深い内面性に彩られ、バッハの音楽にきわめて近いものであった。その言葉と音の流れは しばしば バッハのカンタータを聴いているような思いにさせるが、彼女の最高作というべき「異国」と「エレーン」は、あたかも "亡命日本人" の "望郷の歌" のように聞こえる。シュヴァイツァーは 長大なバッハの評伝において、バッハの音楽の本質を "晴れやかな死への憧れ" と書いたが、そのことは タルコフスキーの映画にも、中島みゆきの(ロックではない、バラードの)音楽にも言えるような気がするのである。

   
トゥスカーニャの聖ピエトロ聖堂

 ところで 建築家のヴィトベルクは、「救世主聖堂」のコンペにおいて 新古典主義様式を採用した。それが私には 釈然としないところであった。ゲルツェンが描いたような神秘主義者であり、精神の深みを求めたヴィトベルクに、"アンピール(帝国)様式" とも呼ばれる ナポレオン帝政下の建築様式が ふさわしかったとは思えない。今回 インターネットで彼の図面を見出して意外な感に打たれたのである。
 ヴィトベルクは ロシアから外に出たことがないので、そして ロシアには ロマネスク建築がないので、ロマネスク様式に親しむことは なかったことだろう。しかし、もしも彼がヨーロッパを旅していれば、必ずやロマネスクの聖堂に、彼の性格と一致するものを 見出したはずである。

 彼は最初に手がけた大聖堂でつまずいて、そのまま朽ちていってしまったから、ゲルツェンやタルコフスキーのような 亡命体験を もたなかった。ヨーロッパに亡命すれば、それまでの "西欧派" も、近世ヨーロッパの欠陥を まのあたりにすることになり、それが さらに感覚と認識の深みをもたらしたはずなのだ。
 ゲルツェンがヨーロッパに絶望して、異国の地にありながら ロシアに目を向けなおしたとき、そこにロシアの農民を見出し、1861年 11月の『コロコル』誌に、初めて "ヴ・ナロード"(Going to the people, 人民の中へ)と書いたのである。
 ヴィトベルクは アレクサンドル帝の時代に、ロシアの偉大さを讃えるモニュメントとしての「救世主聖堂」を設計した。そこに付与された性格は、彼に影響を与えた 新古典主義の建築家、ルイ・エチエンヌ・ブレが最も好んだ語 "SUBLIME"(崇高さ)であったろう。しかしアレクサンドルのあとに帝位についた ニコライが支配するロシア帝政には、深く絶望したはずである。したがって、もしもゲルツェンやタルコフスキーのように ヨーロッパに亡命して、「救世主聖堂」を設計し直したとすれば、それはきっと、新古典主義ではなく、ロマネスク様式に近いものであったにちがいない と思う。

*  *  *  *

 私はこのサイトで、時代に虐げられ、迫害の中で 生涯身を屈することなく生きた、ロシアの芸術家たちを描こうとしてきたのであるが、タルコフスキーの映画を論じたついでに、もう1本の古い映画を紹介しておきたい。それはロシアではなく、ポーランド映画である。
 ポーランドの映画監督といえば、アンジェイ・ワイダが最も名高いが、私にとってワイダは『地下水道』でも『大理石の男』でも、"出来事" を描いた監督という印象が強い。ロシア文学のように 人間の内面をより深く描いたのは) イェジー・カワレロウィッチ (1992-2007) ではなかったろうか。私が見た記憶のある彼の作品は、『尼僧ヨアンナ』 (1961) 、『夜行列車』 (1965) 、それに『戦争の真の終り』 (1957) の3作である。1922年生まれというから、タルコフスキーの 10歳上になる。その後 日本では あまり名前を聞かないが、実際には創作活動を続け、2001年には シェンキェヴィッチの『クオ・ヴァディス』(河野与一訳、1979年、岩波文庫)を映画化したらしい。

 私が見た 3作の内、『尼僧ヨアンナ』と『夜行列車』は 時々名画座などで上映され、ビデオも出ていたから 見た人も多いと思うが、『戦争の真の終り』は ほとんど 知られていないのではないだろうか。私にとって 彼の作品の中で この映画が一番印象深かったのは、映画の主人公が 建築家だったからである。それも、ヴィトベルクと同じように 悲運の建築家なのだった。
 回想シーンで描かれる主人公は 若く、将来を嘱望される建築家で、美しい妻をもらい、洋々たる前途に輝いていた。ところが、第2次世界大戦が勃発し、ドイツ軍とソ連軍がポーランドに侵入して領土を分割すると、運命が一変する。

 彼は出征して捕虜となったのか、あるいはユダヤ人としての受難であったのか、ナチスの強制収容所に入れられて、絶えず虐待を受け、精神に失調をきたすのである。夫を待ち続けた妻も、ついに 彼が死んだものとあきらめ、新しい人生を生きるべく 別の男と愛し合うようになっていた。そこへ突然、廃人のようになった夫が帰ってくると、妻は とまどう。 仕事もできず、時々 てんかん性の発作をおこす夫を、全面的に受けいれることはできない。その妻の態度がまた 彼の症状を さらに悪化させ、ほとんど口のきけない 唖者のようになってしまう。
 彼の回復に期待をかけた4年の後に、彼女はあきらめ、恋人と新しい家庭を持つために、夫の建築家を 廃疾者として田舎に住まわせることを決心する。 それを知った夫は、出かける妻に そっと紙切れを渡す。歩きながら妻がそれを見ると、「私を捨てないでおくれ」と書いてあるのだが、しかし彼女は気持を変えない。それを察した夫は、家人の留守中に 屋根裏部屋で首を吊って死んでしまうのである。 戦後4年、これが "戦争の真の終り" だった、という映画である。

映画『戦争の真の終り』建築家のアトリエのシーン

 この場合の建築家は、特に自由のために戦った というわけではないが、過酷な運命に翻弄されて 悲惨な結末に導かれていった。私がこの映画を見たのは まだ学生時代、封切りではなく、ポーランド映画特集か何か ではなかったかと思う。まだ建築家の卵にすぎなかったのに、なぜか 身につまされるものを 感じてしまったのである。(あとで わかったのだが、この映画は 1965年 8月に、新宿と銀座のアート・シアターで公開された。)
 映画の中の この建築家は、特に気分の良い日には、いかにもヨーロッパの建築家らしい、画家のようなアトリエで、住宅のスケッチ・プランなどを作っていることがある。そこへやってきた妻は、口をきけぬ夫の前で ひとりごとのように言う。
 「今でも町を歩いていて、昔 あなたが設計した住宅の前を通りかかると、思わず立ち止まって、ずっと眺めていることがあるわ」 と。
 自らの意思ではなく、外力によって、設計したくとも設計できない状態に 突き落とされてしまった 建築家や映画作家の姿、それが 最も うら哀しい姿で描かれていたのが、この映画だった。若い私は、なぜか そこに 自分の未来の姿を投影してしまったのである。後に、マフィアによる仕事の妨害は、それを現実のものとするのであるが。


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