ENJOIMENT in ANTIQUE BOOKS - LII
白井喬二 著

『 富士に立つ影 』

Kyoji Shirai:
" Rivaling Castle Architects "
1927 Hochi-shimbun-sha, 1953 Sekai-sha


神谷武夫

挿絵
『富士に立つ影』第1巻を開いたところ

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長編小説

 野村胡堂の『三万両五十三次』で「大衆文学」に目覚めた私は、次は吉川英治にアタックして『宮本武蔵』や『新書・太閤記』を読み、さらには村上元三の『佐々木小次郎』などへと進んでいきました。小学生なのに、どうしてそんな長編小説ばかりを読んだかというと、漫画を読んでいた時からそうなのですが、最後がハッピーエンドであっても、それを疑ってしまうのですね。その後、ふたりは本当に いつまでも幸せだったのだろうか、不幸に出会わなかったのだろうか、大病になったり、交通事故に会ったり、破産したりしなかったのだろうか、本当のことを知りたい、続きが読みたい、と思ってしまうのです。続編があればいいのですが、たいていは ありません。で、後へ後へと続いて なかなか終りにならない、長いものを選ぶことになり、長編漫画(手塚治虫のものなど)や 長編小説を 好んで読むようになるわけです。日本で一番長い小説は 中里介山(なかざと かいざん)の『大菩薩峠』で、2番目は白井喬二(しらい きょうじ )の『富士に立つ影』だと言われていましたが、しかし どちらも貸本屋にはなかったので、手に取ることができませんでした。

 私が小学校の終わりの頃に、初の子供向け週刊誌、『週刊少年サンデー』が 小学館から出ました。定価は30円だったと思います。そのころ大盛況だった大人の週刊誌と同じような、二つ折りの 薄いホチキスどめの雑誌でしたが、内容的には 後の分厚い「漫画雑誌」ではなく、むしろそれまでの「学習雑誌」に似ていた記憶があります。私は最初の数号を買いましたが あまり魅力的でなく、それよりも 長編小説の世界に没入していったので、中学校に入ると 少年雑誌も漫画本も、すべて卒業してしまいました。中学に入ってしばらくすると、白土三平の大長編劇画『忍者武芸長』が貸本屋を席巻するのですが、それにも無関心でした。後に大島渚が映画化したのを見ましたが、劇画自体は見ずじまいです。

次郎物語
昭和文学全集 第58巻 下村湖人集『次郎物語』(ウェブサイトより)

 一方、神田神保町の古本屋巡りの楽しさに開眼し、日曜日には よく行くようになりました。小遣いがあまりなかったので 買うよりも見ることが主でした。当時は まだ貧しい日本、公共図書館は貧相で、蔵書も ごく少なかったのです。古書店街で 見ることが主といっても、長編小説を安く買うことには精を出し、中学生になって最初に読んだのが、下村湖人(しもむら こじん)の『次郎物語』 です。これは「大衆文学」ではなく「純文学」に属するもので、角川書店の菊判サイズ、『昭和文学全集』の 「下村湖人集」を ごく安く買いました。今では 忘れられた文学作品になっていますが、当時は映画化もされて、ずいぶん高く評価され、人気もあり、よく読まれたようです。
 私の入手したのは 小さい活字が3段組でぎっしりとつまった 500〜600ページの本でした。娯楽作品ではないので、毎日少しずつ読んで2ヵ月くらいかかったのではないかと思います。主人公・次郎の少年時代から、巻を追って青年時代までの、自伝的要素の濃いビルドゥングス・ロマンで、全5部から成ります。下村胡人は さらに続いて2部を書くつもりだったようですが 、戦後の1955年に亡くなって 未完となりました。細部は全く覚えていませんが、どうも重苦しかった印象だけが残っていて、山本有三の『女の一生』のほうが面白かったことを覚えています。

『富士に立つ影』

 そんなある日、学校の近くの同級生の家に遊びに行くと、その家の本箱に、なんと大長編小説『富士に立つ影』が並んでいたのです。友人の父親が学校の先生で、かつて これを愛読したようです。私は、ああ これが音に聞く『富士に立つ影』だと喜んで、友人に頼んで その父親から、第1巻から順に借りて読んでいきました。本の大きさは文庫本と ほとんど同じですが、各巻 500ページ以上あるハードカバーの本が全8巻ですから、かなり読み応えがあります。どの巻にもページ大の挿絵が30点ぐらい入っているので、それを差し引くと、活字の本文だけで 約 4,000ページになります。

白井喬二著『富士に立つ影』世界社版 全8巻, 1953, 函背

  今回の新型コロナ騒動で 図書館が皆 休館になってしまったので、昔から一度読み返そうと思っていた『富士に立つ影』を、中学生の時に読んだのと同じ版の古書を、ネットで探して入手しました。この出版社は世界社と言いますが、戦後 雨後の筍のようにできた出版社のひとつで、今は存在しません。
 本はオレンジ色のビロード装で、今から 67年前に出版された昭和28年(1953)当時の製本としては 豪華なものでした。「ビロード」というのは、手触りのよい、なめらかで ツヤのある、シカやリスの表皮のような織物で、「ベルベット」とも言います。語源 はポルトガル語やスペイン語の「ベルード」だと言います。実はこの装幀も本文組も、そして挿絵も、すべて昭和3年(1928)の平凡社版の、25年ぶりの復刻版です。

富士に立つ影

白井喬二著『 富士に立つ影 』昭和28年(1953)、全6巻
函入り 16× 12× 3cm -520ページ、定価 各 280円
世界社版は 平凡社版の 25年ぶりの復刻、ただし 巻数は8巻になった。
ビロード装の表紙の装幀者のみ、鏑木清方から中村岳陵に変わった。

 そもそも『 富士に立つ影 』は 新聞連載小説でした。今から 100年近く前の大正13年(1924)、新進小説家として人気の高かった白井喬二に、当時最も発行部数の多かった「報知新聞」から原稿依頼がありました。その時 白井が長編小説の構想をもっていることを記者に話すと、報知新聞は「緊急編集会議」を開き、当時まだ作家になっていずに 報知新聞の学芸部長を務めていた野村胡堂からの依頼状をたずさえて その記者が駆けもどり、その長編小説の連載を白井に依頼したのです(白井によれば、それは「電光石火のはからい」でした)。
 小説の題名は『 富士に立つ影 』、連載は大正13年(1924)の7月に始まり、一日も休まずに昭和2年(1927)の7月まで、丸3年にわたって 1,000回以上も続き、圧倒的な人気と成功の中で完結しました。白井が 34歳から 37歳のことです。当時、中里介山の『大菩薩峠』は 都新聞に連載中で、断続的に 28年間も続き、やはり同じ頃に 大阪毎日新聞に連載していた吉川英治の『鳴門秘帖』と、三者の人気が伯仲したようです。

 白井喬二より7歳上だった野村胡堂の『三万両五十三次』が報知新聞に連載されたのは 昭和7年ですから、『 富士に立つ影 』の終了の5年後です。学芸部長の時に『 富士に立つ影 』の連載の責任者だったわけですから、時代小説を書くにあたり、ずいぶん白井の影響を受けたのではないかと思います。語り口も似ているように思われます。
 単行本の『 富士に立つ影 』は 報知新聞出版部から全8巻で出て、ベストセラーになりました。『大菩薩峠』と並んで 日本の大衆文学を代表する傑作なので、現在に至るまで何度も出版されていますが、昭和3年(1928)に平凡社が出した「普及版」は 小型で手に取りやすいこともあって、21万部も売れたと言います。

富士に立つ影  富士に立つ影

平凡社版『富士に立つ影』普及版と 宣伝チラシ(ウェブサイトより)
昭和3年(1928)全6巻、横山大観の装幀、各冊 金1円



築城師(城郭建築家)

 中里介山の『大菩薩峠』は、ずっと後の大学生の時に読みました。ニヒルな剣士・机竜之介は なかなかに魅力的で、片岡千恵蔵や市川雷蔵が演じた映画も見ました。しかし小説は、巻を追うにつれて 机竜之介が脇に退いた感じで、その都度 新しい登場人物が出て、その人物についての長い物語が語られることばかりが続くようになります。日本一長いと言われる長編小説が、まるで中編小説の集合体のような趣を呈して、期待ほど面白くはありませんでした。
 そんな頃に『富士に立つ影』を思い出して、いつか読み直してみたいと思ったのです。というのは、大学で建築を学ぶうちに、『富士に立つ影』は 日本に珍しい、建築家の物語であったことに気づいたからです。といっても一人の建築家の生涯を描いたものではなく、「築城師」、つまり 城郭建築家の二つの家柄の 多彩な人々が 三代にわたって争うことによって、武家の時代の様々な人生が万華鏡のように交錯しつつ、波乱万丈に展開していくのです。その間に時代は江戸時代中期から幕末へ、ついには明治時代へと移り変わる大河小説です。以下にその梗概を記しましょう。

表紙
『富士に立つ影』世界社版、表紙と内容

 全体は10篇から成り、第1編の「裾野(すその)篇」はプロローグで、全ての始まりが示されます(小説には篇の番号はありませんが、ここでは順序がわかりやすいように 便宜上 つけておきます)。戦国時代から江戸時代初期には諸国に城が築かれました。当然そこには設計者がいたわけで、優れた設計者(建築家)は それぞれ流派を形成します。特に名高かったとされるのは、大米赤針斎を開祖とする小田原の「赤心流(せきしんりゅう)」と、四方田随軒を開祖とし、喜運川兵部(きうがわ ひょうぶ)が中興した「賛四流(さんしりゅう)」でした。しかし江戸時代も下って太平の世の中になると、幕府からの禁制もあり、もはや城を築くことなど なくなっていきます。
 ところが文化年間(1804〜18)に、富士の裾野に 幕府の「調練城」が建設されることになります。調練城というのは 練兵場のようなもので、剣術、槍術、弓術、馬術の訓練や「城壘攻防の 軍法駆引十八般の 実戦術を官兵に仕込む」城塞でした。その設計者(築城師)を選ぶために、赤心流の 熊木伯典(くまき はくてん)と、賛四流の 佐藤菊太郎が招聘され、富士の裾野、愛鷹山(あしたかやま)の麓の「山風舎」において、築城を命じられた駿東郡領主・水野出羽守の立ち合いのもと、両者の「築城問答・大論座」で対決させ、水野家の重臣たちがその勝敗を決して 建築家を選ぼうというのです。これに絡むのが 賛四流の 故・喜運川兵部の娘・お染と その乳母・お藤、伯典に仕える三平、江戸の花火師・美濃屋龍吉その他。
 若く颯爽とした佐藤菊太郎は ほぼ勝利を収めたと思いきや、奸智に長けた大悪人・熊木伯典の仕掛けた罠に はまって大負傷、脳をやられて廃人のようになり、築城軍師の任を伯典に奪われてしまいます。

映画
映画『富士に立つ影』昭和17年(1942)
佐藤菊太郎役の 阪東妻三郎(ばんつま)

 第2篇「江戸篇」は その 20年後の文政期(1818〜30)、舞台を江戸に移して 両家の人々の葛藤を描きます。彫刻家・甲賀圓蔵が 神明芸者・小里(実は富士の裾野の お雪)をモデルに花乗面(はなのりめん)を作り始める。一方 賛四流のお染は 熊木伯典の邸宅の離れに暮らしていますが、それが窮地に陥った時に助けた小里は 逆に伯典に からめとられて その妻にされてしまう(その経過はよくわかりませんが)。脳病人となっていた佐藤菊太郎は 次第に回復して、お染と夫婦になります。

 第3篇「主人公篇」は ガラッと変わって、熊木伯典とお雪の間にできた息子が成人した 熊木公太郎(きみたろう)の行動が主となります。これが どうしたわけか 悪漢・伯典とは大違いの 天真爛漫、邪気のない率直さをもった好男子、というより 世間の慣習や儀礼に無頓着で 直情径行の人柄です。白井喬二がこの章を「主人公篇」と名付けたのは、彼の理想とする人格を 公太郎に植え付けたからです。しばしばドストエフスキイの『白痴』におけるムイシュキンになぞらえられますが、この公太郎の人格と行動は 新聞の連載中、読者の間に大きな共感の輪をつくり、毎日 40通ぐらい、公太郎を賛美する手紙が 読者から白井のもとに寄せられたと言います。(埴谷雄高が子供の時、報知新聞の連載を一家で熱心に読み、埴谷は父から公太郎と綽名をつけられて 呼ばれていたそうです(全集9巻 p.113)。  公太郎は諸国を放浪しますが、途中で助けた猿回しの助一と仲良くなり、一緒に暮らすようになります。

 第4篇「新闘篇」では、幕府が日光に霊城防備の要塞を建設することになり、その建築家(築城軍師)を決定するために、賛四流・佐藤菊太郎の息子で 若き俊秀・佐藤兵之助と、熊木伯典の息子の公太郎が招聘され、ここに、それぞれの父が かつて富士の裾野で対決した築城論問答が、その息子たちによって、日光で行われるのです。両者の父も応援に駆け付けますが、伯典はあくまでも邪悪な策略で 兵之助を陥れようとします。

 第5篇「新曲篇」では、佐藤兵之助が 敵方の熊木伯典の娘(公太郎の妹)のお園と愛し合ってしまうという、ロミオとジュリエットばりの悲劇が 生まれてしまいます。一方、一弦琴の奏者・金将晩霞(きんしょう ばんか)とその妹・貢(みつぎ)が貧乏長屋で熊木公太郎と親しく つきあい、のちに貢は公太郎の妻となります。

『富士に立つ影』の1巻本, 1998, 沖積社
筑摩書房の「ちくま文庫」では全10巻、
富士見書房の「時代小説文庫」でも 全7巻で出ていた。

 第6編「帰来篇」は 天保年間(1831〜45)で、舞台は再び富士の裾野、かつて佐藤菊太郎と熊木伯典が対論した地に、今は幕府の調練工夫隊が駐在して調練に励んでいます。そこへ、かつて伯典によって幽閉された 花火師・龍吉を助け出そうとする佐藤兵之助と、父・伯典の命によって龍吉の持つ書類を奪おうとする熊木公太郎が乗り込んで決闘になります。一方、公太郎の妹のお園は 兵之助との間に一子を身ごもりますが、兵之助は我が身と一門の安全のために、一時は お園を切って捨てようとまでして 彼女と絶縁します。

 第7篇「運命篇」は その10年後の嘉永期(1848〜55)で、かつて親どうしが約束したとおり、熊木公太郎と佐藤兵之助は 江戸のご書院「菱園(りょうえん)」で、江戸城の守りをどうすべきかというテーマで 大論座を繰り広げますが、両派の部下たちの流血の争いで終わります。
 公太郎は昌平校の師範として 妻の貢と穏やかに暮らしていましたが、ある罪を負って刑死となる寸前の助一を助けて逃走。それを 幕府の調練隊の隊長となっている佐藤兵之助が その追手を命じられ、ついに筑波山麓で 配下の鉄砲が公太郎を射殺します。

 第8篇「孫代篇」は、熊木公太郎と貢の間にできた息子の城太郎(しろたろう)と、佐藤兵之助の息子の光之助(みつのすけ)が それぞれ成人して、なおも 両家の葛藤を繰り広げます。一方、兵之助とお園の間にできた子は平吾と名付けられ、シングルマザー・お園の手で育てられてきましたが、ついに兵之助と親子対面をします。

 第9篇「幕末篇」は、さらに14年後の文久の時代(1861〜64)。黒船来航から物情騒然、佐藤光之助は「赤松浪人団」を組織して人望を集めていると、そこへ偶然の重なりで熊木城太郎が入団して光之助の配下となりますが、彼の人生の目的は ただ一つ、父の仇・佐藤兵之助を討つことでした。しかし兵之助の息子の光之助もまた 僚友の妹・お八重の色香に迷い、団を出奔します。一方、平吾は上冊吉兵衛の跡目を継いで、黒船の親分と呼ばれる大侠客となり、大勢の子分を抱えて 道義にもとづく「黒門町の大元締め」となり、母・お園に孝行します。

挿絵   挿絵

挿絵   挿絵
『富士に立つ影』世界社版の挿絵は、すべて平凡社版を踏襲した。
もともとは 新聞連載時の挿絵で、
4人の挿絵の中では、川端龍子が一番うまいようだ

 最終篇の「明治篇」では、時は明治5年(1872)、新橋〜横浜間に鉄道が開通します。
大学者・杉浦星巌(せいがん)の娘・美佐緒は 西洋胡弓(ヴァイオリン)を習い、星巌の一番弟子でありながら 尾羽打ち枯らした 佐藤光之助を助けて 職を探してあげます。それは『忠節録』の編纂でした。「忠節録」というのは、日本全国で忠臣節義をした人々の事績を集めて、後世に残す書物全書にしようというもので、その光之助の職を世話したのは、それが兄弟とは知らない黒船平吾です。
 佐藤光之助は諸国を訪ね歩いて、忠節義列の人たちの事績を探っていきますが、探れば探るほど、そうした著名な人物にも 汚い過去や裏があるのを見出して 暗澹(あんたん)たる気持ちになっていきます。そうした時に心を惹かれるのは、佐藤家の敵方の熊木公太郎という、それとは正反対の、しかし会ったことのない人物でした。生前の父・兵之助でさえも、公太郎のことを嘉賞していたものでした。その熊木公太郎は 父の一隊が銃殺したことになっているけれど、もしかすると、まだ どこかで生きているのではないかと思われ、一目会ってみたいと、光之助は その消息を尋ねまわるのでした。結局 見つかりはしませんが、こうして 宿命の対決をしてきた城郭建築家の二家は、恩讐を超えて、佐藤光之助の心の中で和解をするのでした。


 以上 書いてきたのは 主要な登場人物の動静を拾った梗概ですが、このほかに何十人もの登場人物が出合い、結ばれ、敵対し、世代が代わっても なお絡み合い、そして別れたり、隠遁したりして延々と続いていきます。「本当のことを知りたい、続きが読みたい」と 絶えず思っていたような人にとっては 理想的な小説です。しかしまた、若く、諸芸に秀で、麗しかった 男や女が、時代とともに老いさらばえ、老醜をさらし、ついには非業の死を遂げるといった描写を読むのは、多少 辛いものがあります。まあ そこが、単なる娯楽小説とは違った、人生の哀感をも描いた大河小説ということでしょう。
 この小説には 白井喬二の人間観、世界観が表れていて、トルストイやドストエフスキイの小説を読んでいるような感覚に捉われることもあります。これは単なる娯楽小説ではなく、一つの思想小説であるとも言えましょう。結局この小説で白井が書こうとしたのは、「武士道」の馬鹿馬鹿しさ ということだったような気もします。

さらば
晩年の白井喬二(昭和45年)ちょっと 志村喬に似ている。
(『さらば富士に立つ影』より

 小説全体としては 講談のような印象がありますが、何事もよく調べて書いているのと、その語り口のうまさには 舌を巻きます。読者を飽きさせずに、次へ 次へと 興味を引っ張っていく力は、ドストエフスキイ的だなとも思います。
 白井喬二は、芸術至上主義の小説や、身の回りの狭い世界を描く「私小説」とは違った、「大衆文学」という領域を意識的に打ち立てようとした 最初の文学者でした。「大衆」という字は 今でこそ「タイシュウ」と読みますが、明治時代までは「ダイス」とか「ダイシュウ」と読んで、主に仏教用語で「大勢の僧徒」を意味していました。それを「タイシュウ」と読ませて、世間一般の庶民、民衆という意味で用いたのは、大正時代の白井喬二が最初です。
 そこから「大衆文芸」とか「大衆文学」という造語がなされ、円本時代の流れに乗って 平凡社から『現代大衆文学全集』全 60巻が出て 一世を風靡しました。それには白井が関与し、監修者となり、その第1巻は白井の『新選組』でした。これは全巻の予約出版で 分売はしないというのに、初版 33万部もの予約があったというのですから、たいしたものです。現在の「直木賞」を取るような作品というのは、まさに白井喬二の目指していた「大衆文学」だと言えます。昨年読んだ、浄瑠璃作者の 近松半二の生涯を描いた 大島眞寿美の『渦(妹背山女庭訓 魂結び)』(2019、文芸春秋)などは その好例です。




『 怪建築十二段返し 』

 白井喬二は晩年の 88歳になって、娘の寿子の勧めで、発表を目的とせずに自伝の執筆をしました。それが 91歳で没したあと 遺構となって出てきて、没後3年目に出版されたのですから、またとない「完全な」回顧録だったと言えましょう。子供時代から、前年に妻に先立たれるまでの一生を、同じ筆致で淡々と綴っていて、何でもよく覚えていることは驚くばかりです。編集者が『さらば 富士に立つ影』という題名にしました。『富士に立つ影』の成立事情や苦心談などは もっと詳しく書いてもらいたかったとは思いますが、こんなに良いタイミング (?) で自伝を執筆して残した有名人というのも稀でしょう。(建築の方では、前川国男が自伝を残さなかったのが 本当に残念なことでしたから。)

さらば   さらば
『さらば 富士に立つ影』横山大観装幀の函と 本体, 1983, 六興出版

 白井喬二は明治33年(1889)に横浜で生まれ、本名を井上義道といいました。父の転勤について日本各地を転々として育ちました。そのことが後の作家活動で大いに役に立ったようです。警察所長や郡長をしていた父は 彼を司法官にしたかったようですが、野村胡堂の場合と同じように、大学は政経科を卒業しながらも、文学の道に進みます。処女作は 31歳のときの『怪建築十二段返し』という、江戸時代の奇怪な事件の探偵ものです。これが評判となって原稿依頼が次々と舞い込み、専業の小説家となりました。以来60年にわたる執筆活動をすることになりますが、91歳の死まで長命でしたから、その作品数は膨大で、しかもその多くが長編小説でした。
 『富士に立つ影』は日本に珍しい「建築家小説」だと上に書きましたが、白井は大学で建築を学んだわけでもないのに、建築に親近感を持ち続けたようです。といっても、『富士に立つ影』の熊木伯典と佐藤菊太郎の築城問答では、期待したほどに建築論が闘わされるわけではないので、少し残念でした。

小アジア
白井喬二『怪建築十二段返し』

 で、白井の処女作『怪建築十二段返し』という題名が気になって、古書店を探して手に入れてみました。装幀がなかなか凝っていて、期待がはずみました。しかし100ページ足らずの短編ですから、『富士に立つ影』とは比べるべくもなく、まあ 他愛のない物語で、やや尻切れトンボ的な印象も受けます。ただ、主人公が
  「当時江戸で有名な 建築師 の勘兵衛という男で、號を光泉(こうせん)といった」
とあるのには驚きました。「建築師」というのはアーキテクトの訳語として「建築士」や「建築家」と並んで明治初めに造語された言葉で、中国や台湾では今も使われています。この小説『怪建築十二段返し』の中では「大工」というのは別に出てくるし、この光泉は建てることよりも図面を引くことを主な仕事にしているので、白井は建築師という語を ほとんどアーキテクトの意味で用いています。江戸時代に建築師がいたとは思えないので、白井の創作でしょう。彼はきっと本格的な「建築小説」を書きたかったのではないでしょうか。しかし売れっ子作家になってしまって何本も連載を抱えるようになると、建築について本格的な勉強をする時間もとれず、『富士に立つ影』で築城師として建築家を書くのが精いっぱいだったのかもしれません。

自邸
遠藤新設計、白井喬二邸
(『さらば富士に立つ影』より

 面白いのは、生涯に何度も転居した白井喬二が 昭和8年(1933)、44歳の時に世田谷区の代田に建てた自邸は 遠藤新の設計でした。遠藤に設計を依頼したのは、フランク・ロイド・ライトの仕事に魅力を感じていたからかもしれません。まさかこれが「十二段返しの怪建築」だったわけでもないでしょうが、きっとライト風のディテールや装飾が散りばめられていたことでしょう。今も現存するのかどうか不明です。

(2020/ 07 /03)




< 本の仕様 >
 ● 『 富士に立つ影 』 白井喬二著、世界社版、全8巻、昭和28年(1953)発行、
  小型本、昭和3年(1928)の平凡社版の、25年ぶりの 同判型の復刻版
  各巻 16cm x 12cm x 3cm、510〜540ページ、350グラム、定価 280円
  オレンジ色ビロード装の しなやかな ハードカヴァー、函入り
  本文中に多数のモノクロ挿絵がある 全 241点。 巻頭口絵は 無い。

    第1巻  524pp. 挿絵 25図
    第2巻  526pp.    28図
    第3巻  532pp.    31図
    第4巻  546pp.    30図
    第5巻  510pp.    29図
    第6巻  527pp.    28図
    第7巻  531pp.    36図
    第8巻  528pp.    34図
    全 4,224ページ 挿絵ページを引くと 本文 4,000ページ

● 『 怪建築十二段返し 』 昭和24年(1949), 淡路書院、カラー口絵1点、定価 150円
  19 × 12.5 × 1.5cm、264ページ、木下二介による派手な装画のソフトカヴァー
  初期の3編の短編集(「怪建築十二段返し」、「全土買占の陰謀」、「桐十郎の船思案」)
  後に桃源社で復刊 1970年、大陸書房の大陸文庫で復刊 1990年
  内容は「怪建築十二段返し」1921の他に、「全土買占の陰謀」、「白雷太郎の館」、
  「江戸天舞教の怪殿」1922 の4編に変更 。

● 『さらば富士に立つ影』昭和53年(1983)六興出版、
  白井喬二が最晩年に書いた自伝。1980年に白井が没した後に出版。

豊島区雑司ヶ谷霊園に墓がある。都電雑司ヶ谷駅。夏目漱石や泉鏡花の墓もある墓苑。


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