ENJOIMENT in ANTIQUE BOOKS - LIII
武井武雄 刊本作品

『 迅四郎の窓 』『 小萩抄 』

Takeo Takei :
" Window of Jinshiro " & " Portrait of Kohagi "
1969, 1973 Takeo Takei Book-Works No. 80, 92


神谷武夫

迅四郎の窓


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武井 武雄(たけい たけお)

 「愛書家」にとって避けては通れない峠が いくつもあります。その一つは「武井武雄」峠です。1935年から始めて 1983年に亡くなるまでの 50年近くの間に 武井が作った 139巻もの「刊本作品」を、愛書家だったら まったく無視することはできません。彼の制作した本は 当初は「豆本(まめほん)」と呼ばれていましたが、私は ごく小さな愛玩物としての豆本には あまり興味がないので、武井武雄の仕事に興味を持ったのは ずいぶん後になってからです(もっとも武井の本は、豆つぶと形容されるほどの小さなものではなく、小型本というべきものでしたが)。もともと私は古書の「コレクター」であったわけではなく、インド建築やイスラーム建築の古書を 研究上の必要にかられて 海外の古書店を探索しては 購入することが多くなったことから、次第に建築書以外の古書や挿絵本にも手を出す「愛書家」になってしまったわけです。

 そうなると、「書物芸術」を 後半生 探求し続けて 通常 300部限定の実験的な小型本を作り続けた武井武雄の本も、何冊か 架蔵しないわけにはいきません。そこで彼の いわゆる「刊本作品」の中から 特に興味深い形式で、しかも 私好みの本を2冊選んで、古書店にさがして、だいぶ前に購入しました。第 80巻の『迅四郎の窓』と、第 92巻の『小萩抄』です。どちらも 読むことよりも 見ることが主体の本で、ページ数は少ないので、その 大部分のページを ここに紹介しようと思います。もちろん これらを HP上の写真で見ただけだは、どちらも 実際の「本の魅力」を感得することは できないので、強く興味を持たれた方は、古書店やネットを探して、実物を手に入れてください。

別冊太陽『武井武雄の本』平凡社、2014
武井武雄の 本に関する仕事が 詳しく紹介されている。

 武井 武雄(1894-1983)は 通常、童画家、版画家、童話作家、造本作家などと 肩書が付けられています。その活動は多岐にわたりますが、1974年(昭和49)に 筑摩書房から出した作品集は、第1巻「童画」、第2巻「版画」、第3巻「刊本作品」となっていて、それが武井自身による活動区分だったので、この3分野に彼の主たる作品が属し、他の活動は、いわば「余技」ということになるのでしょう。この「古書の愉しみ」で扱うのは、当然のことながら、書物芸術を探求した「刊本作品」のみになります。

 武井武雄は長野県の岡谷市の裕福な旧家に生まれたので、若き日に あまり経済的に困らず、自由な生き方ができたようです。早くから画家を志し、東京に出て 東京美術学校(現・東京芸術大学)の西洋画科(油絵科)に入りましたが、黒田清輝や藤島武二のアカデミックな西洋絵画教育には 十分に 没入できなかったのか、戦災で焼けたこともあり、武井の油絵は ほとんど残っていません。1919年(大正7)に卒業後、1年間は美校の研究科に残って版画、特にエッチング(銅版画)を学んだので、それが 彼の主たる活動分野の ひとつとなりました。
 そして新しい分野として、 子供を対象にした美術に関心を深め、新分野の開拓に邁進することになります。大正時代の中期というのは、日本で初めて児童文化が発展した時期でした。北原白秋が児童雑誌『赤い鳥』に 童謡を発表し始めたのも この時期です。武井は 1922年(大正11)に創刊された絵雑誌『コドモノクニ』の絵画主任となったり、1925年(大正14)に子供向けの絵の個展を 銀座の資生堂画廊で開いたりし、「童画」という名称を作りました。「童話」や「童謡」に倣って、絵画に当てはめたのでしょう。この名称が普及するにつれて、武井は「童画家」と呼ばれるようになります。

 しかし彼の活動は平面画にとどまらず、立体的な創作玩具の製作も始めて、毎年 日本橋の三越で「イルフ・トイス (ILF Toys) 展」を開催しました。この「イルフ」というのが「古い」の逆読みで、「新しい」を意味し、これが彼の人生の、常に新しいことにチャレンジしようという姿勢をあらわす 標語のようになりました。現在 武井の出身地の岡谷市には、主に彼の作品を収蔵・展示する「日本童画美術館」がありますが、これは むしろ「イルフ童画館」と呼ばれて 親しまれています。ところで、トイ(toy)は おもちゃの意ですが、複数形の toys はトイズですから、「イルフ・トイズ展」と読むのが正しかったでしょうが、武井は語感の好みから「イルフ・トイス展」と称していたようです。それらの玩具は戦災で失われましたが、復原されたものが イルフ童画館に展示されています。

武井武雄の刊本作品

『武井武雄作品集』刊本作品集、日本童画美術館、2010
武井武雄の全刊本作品が 写真入りで紹介されている。
イルフ童画館の HPから、ネット注文して 送ってもらうことができる。

『武井武雄作品集』刊本作品群、上の表紙の中央部を拡大
武井の種々の刊本が並べられている。右下が『迅四郎の窓』

 武井武雄が 本づくりに熱中するようになったのは、いわば 偶然のなせる技であって、若いころから それを志していたわけではありません。毎年開催していた 日本橋三越での「イルフ・トイス展」を終了させた 翌年の 1935年から、今度は 新宿三越で 弟子たちによる「創作玩具展」を開催し、その折に「手慰み」程度のつもりで、『十二支絵本』と題した小型本(大きさ 14 × 12センチ)を 200部作り、これを会場で頒布したり、知り合いに進呈したりしました。この時、つまり武井が本作りを始めたのは、40歳という壮年期でした。翌年も 翌々年も、150部くらいの小型本を作ったら 人気が出て 固定ファンがつき、続刊を期待されるようになります。これを続けるつもりなど なかった本人も 意欲が出てきて、次第に本格的な本作りをするようになります(まさか それが 半世紀も続くとは思いもせずに)。

 武井の本の初期の享受人たちは それを「豆本」と呼んだので、武井自身もそれを受け入れていましたが、豆本(ミニチュア・ブック)というのは 常識的に言えば10センチ以下の大きさ(文庫本の半分以下の大きさ)の本を言うのでしょうし、趣味の分野では わずか数センチのマイクロ・ブックなどもあります。武井はこの豆本という呼び方に違和感を持ち続けていたので、第42巻の『Q子の奇跡』から「刊本作品」という名称を使うようになります。これは苦肉の策であったと思われます。刊本というのは、手書きの写本とは異なった、印刷によって刊行された本 という意味でしょうから、ほとんどすべての本は「刊本」であるわけです。しかし他に適当な言葉が見つからないことから、「書物芸術」の「作品」であるという意味を込めて「刊本作品」という造語をしたのでしょう。そこにはまた、本の本文から図版、装幀、造本、函にいたるまで、すべて一人の芸術家によって作られた芸術品であるという姿勢、意図が込められてもいます。したがって、武井の本以外には、この特殊な名称は使われません。

函
No.80『迅四郎の窓』夫婦函の表、題箋貼付
タイトルの下に、APR STAINED GLASS とある。
函の大きさは、18 × 15 × 2.3 cm


迅四郎の窓
『迅四郎の窓』 本体と夫婦函、1969年、
函の底(右側)に小タイトルが貼ってあるのが見える。

 第4巻の『善悪読本』までは普通の凸版印刷でしたが、第5巻の『童語帳』では全ページを木版画とし、以後 毎回 印刷方法や印刷面の材料を変えて、種々の実験的な本作りを行います。時には古代エジプトの紙であったパピルスを4年がかりで栽培して本作りをしたり、銅版画や石版画や小口木版で印刷したり、紙のかわりに布やスチレンペーパーを使ったり、ありとあらゆる技法、材料、テクニックを開発して、89歳で亡くなるまでに 139巻もの 種々多彩な小型本を制作したのです。時には螺鈿細工や磁器板を 各ページに嵌め込んだりもしましたから、それを可能にしてくれる工芸家や職人を探すのに 何年もかかったりしました。しかも、それらの本は通常300部限定でしたが、書店で頒布したわけではありません。かかった費用の実費で「会員」に頒布し、武井自身の労力はすべて無償の行為だったのですから、常軌を逸した 情熱の「本の芸術家」であったと言うほかありません。

 会員と書きましたが、それは武井の「刊本作品」を所有することを願う「愛書家」たち 約 300人のことで、武井は彼らを「親類」と呼びました。この親類と武井との結びつきを深めるための『親類通信』(全54冊)や、それぞれの本の作成経過や裏話などの『武井武雄刊本作品 ひとりごと』(全25冊)といった小冊子を作って頒布したり、毎年 会場を決めて親睦会を開いたりもしました。武井の刊本作品を入手するためには「親類」になるほかはないので、その欠員待ちの人たちをメンバーとする「我慢会」なるものも できました。「親類」の人たちは、その所有する刊本作品を手放すことは禁じられていましたので、これらはみな稀覯本になってしまいました。しかし彼らの多くが、また武井本人も 鬼籍にはいって、古書業界に少しずつ出回るようになったので、私も入手することができたわけです。

『 迅四郎の窓 』

迅四郎の窓
刊本作品 No.80『迅四郎の窓』の内容

 武井武雄の「刊本作品」は ほとんどが函に入っています。和綴じの本もあり、その場合は「帙(ちつ)」に入れて 爪で留めます。したがって彼は本に被せるような「ジャケット」を 作ったことがないようです。函の多くは「夫婦箱(めおとばこ)」といって、片面開きの二つの函が背でつながっていて、本を入れて片方の函をもう一方に被せるように閉じるものです。これだとホコリが中に入らないので、本の保存には一番よいわけです。したがって、これは函ではなく箱と言います。「差し込み函」よりも作るのに手間がかかりますが、武井はこれを最も好んだようで、大半の「刊本作品」が夫婦箱に入っています。
 『迅四郎の窓』の夫婦箱はミューズコットンの紙貼りで、題箋が貼り付けてあります。凝っているのは、箱の外側の紙と内側の紙を色違えにしていることです。奇妙に感じるのは、タイトルが背表紙ではなく底に貼られていることです。武井は、刊本の冊数がたまると、それらを収納するための、独特のデザインの木箱まで製作して 頒布しましたが、和本仕立てもあることから、本を立てずに 寝かせて 奥に差し込むように収納することを 原則にしました。そうすると、それぞれの夫婦箱の 底にタイトルがある方が、よく見えて便利なわけです。しかし 私は本棚に立てるので、パソコンで作ったタイトルを背に貼りました。

 『迅四郎の窓』は「刊本作品」の 第 80番目の巻で、武井が 75歳の 1969年の刊行ですから、今から 51年前の古書となります。その本体の表紙は背布装で、おもてに カラフルな絵があるので 華やかではありますが、まあ 通常の本のように見えます。ところが 内容は わずか 22ページしかありません。それも そのはず、紙の厚さが 1.5ミリもあるのです。これは厚い紙を2枚貼り合わせてあり、一枚は大きく繰り抜いて、そこにステンドグラスのような、黒枠にカラフルな樹脂板をモザイクのように入れ込んだ絵を嵌め込んでいるのです。本の常識を覆した本です。薄い紙に文字だけを印刷した本と、なんという違いでしょう。これは 「絵本」は絵本ですが、子供向きの絵本ではなく、大人の「愛書家」のための、大量生産はできない、といっても一冊だけの手作り本ともちがう、作者の構想と感性と才覚を総動員して、凝りに凝った、300部限定の「刊本」なのです。これ以外の すべての武井の「刊本」も、それぞれに新機軸を打ち出して 実験をした「創造的」な本となってい るわけです。

 『迅四郎の窓』には、ステンドグラスが6点、左ページに挿入されています。それぞれの右ページには 武井自身による本文(物語)が 枠の中に 手書き文字で書かれたのを印刷しているので、これで 12ページになります。ステンドグラスといっても、色ガラスを透過光で見るわけではないので、もちろん本当のステンドグラスではありません。武井の最初の企ては、ステンドグラスのような本を作りたい!という夢想だったのでしょう。どうすればステンドグラスのような本ができるのかを探求するうちに見出したのが、APR という、当時 旭化成が開発中の「合成樹脂」でした。
 APR というのは Asahi Photosensitive Resin の頭文字で、早い話がプラスチックの一種です。フォトセンシティヴ (Photosensitive) というのは 光照射によって硬化する素材であることを意味し、レズン(Resin)というのは樹脂のことで、ゴムのような天然樹脂よりも扱いやすく 高性能の人口樹脂を石油から精製し、印刷の製版や、精巧なゴム印、スタンプ等、種々の用途に用いようというわけです。これに着色すれば、紙や布と違って、不透明ではあっても 見た目がガラスに近いので、透過光でなくとも ステンドグラスのように見えるだろう、というのが 武井のもくろみでした。旭化成は、まだ開発中であるという理由から難色を示しましたが、武井のそれまでの「刊本作品」を見て、その熱意と芸術にうたれ、協力してくれたと言います。

表紙

『迅四郎の窓』 ステンドグラス-3の一部を 下から斜めに見る。
黒枠のモザイクのような 厚みのある絵が嵌め込まれている。
これらを 薄く作成するには、並々ならぬ苦労があったことだろう。

 こうして 素材の探求から始まって、物語の創作、作画、レイアウト、レタリング、造本、装幀など、すべてを武井一人で行うという、完璧な「芸術作品としての本」を、139巻も作り続けたのです。建築でいえば、フランク・ロイド・ライトが 建物ばかりでなく、家具や照明器具、窓のステンドグラスやカーペット、食器や小物、時には壁画や彫刻までデザインしてしまおうとしたのにも似ています。
 ステンドグラスというのはヨーロッパで発展した建築装飾、とりわけキリスト教の聖堂において用いられたので、『聖書』に題材を撮ったものが多かったわけですが、武井は 日本の江戸時代の物語を創作して『迅四郎の窓』と名付け、「日本のステンドグラス」を意図したのでした。その物語というのは、次のような冒頭の文で始まります。

「足並迅四郎は一介の中士だったが、欲望の鬼としては典型的な男で、その上実行力では一種のスーパーマンだった。」

 これが本文の第1ページの全文で、あとは5ページがあるだけですから、ごくごく 短い物語であって、迅四郎の活躍と成功、そして内省が 簡潔に語られます。ステンドグラスの絵柄は本文の内容を表現していますが、それより以上に、日本の題材とヨーロッパの装飾パターンやモチーフを合成して、和洋折衷の 新しい工芸絵画を創作したのだと言えます。
 イルフ童画館では、これら6点の絵を大きく拡大して 本物のステンドグラスを制作し、裏に光源をおいた透過光で展示しているそうです。

 この本は 限定 300部のほかに、旭化成の希望もあり、この巻だけ特別に、「我慢会」の会員のためも含めて 200部を増加制作したので、合計500部の限定出版になったということです。




『 小萩抄 』

迅四郎の窓
刊本作品 No.92『 小萩抄 上・下 』

 私の所有する もう一巻の 武井武雄の刊本作品『 小萩抄 』は、『 迅四郎の窓 』の4年後の1973年の刊行なので、今から 47年前の古書です。刊本作品の 第 92巻になる『 小萩抄』は、 印刷方法や材料の点では特別新しいことを実験した本ではありません。私が興味をもったのは「折本(おりほん)」形式です。折本というのは、文字や絵を描いた長い紙を 折り畳んで表紙をつけたものです。折っただけで 綴じてはいないので、厳密にいうと「本」ではないのかもしれません。「複数の紙片を片側で綴じて製本したもの」というのが本の定義だとすれば、長い一枚の紙は、むしろ「巻物」の一種だということになるのかもしれませんが、巻いてはいないものを「巻物」というのも奇妙な感じがします。そこで、長い紙を折り畳んだものは「折り本」と呼ばれますが、そうすると、これはやはり「本」だということになります。
 面白いことに中国語では、「本」というのは「書物」のことではなく(書物のことは単に「書(シュー)」と言う)書物を勘定する助数詞です。日本語の「冊」に当たります。「一冊の本」は、中国語では「一本書」で、「イーペン・シュー」と読みます。

 一方、ユネスコでは「本 (Book)」 の定義を、「表紙を別にして 49ページ以上の本文のある印刷物」としていますので、それ以下のページ数のものは 本ではなく「小冊子(パンフレット)」ということになります。『小萩抄』も『迅四郎の窓』も「本」ではないわけです。そうすると、武井の「刊本」という名称も成り立たなくなってしまいます。しかし『小萩抄』は 絵巻物のような一続きの絵ではなく、2ページごとに独立した絵を 折ったものなのであり、ページ数が少ないとはいえ、表紙も扉も、奥付も、函のような帙もあるという、ほぼ完全な本の体裁をとった印刷物なので、武井が呼ぶとおり、「折本」という名称にしておきましょう。

小萩抄
武井武雄『小萩抄』上下冊を広げたところ

 武井武夫の刊本作品の中には、「折本」が2点だけあります。最初は 第33巻の『六之助行状』で、『迅四郎の窓』よりも一回り小さく、後の「可憐判」に近いサイズでした。『小萩抄』は その16年後で、もっと小型の、上下2分冊としました。おそらく一冊とすると紙の長さが2メートルにもなり、扱いにくくなるせいでしょう。もちろん 継ぐという手もありますが、ここでは軽快な大きさの2分冊にして、手に持ちやすくしたのではないかと思います。各冊の大きさは 17 × 6.3 × 1cmで、左手で持って 右手でめくるのに、実に良い大きさです。
 また 139巻の刊本作品の中で、上下2冊になっているのは、この巻のみです。それぞれ畳まずに伸ばすと、長さが1メートルを超えます。それを8折りにして、見開きの挿絵を6点ずつ入れています。私にとって、武井の絵のなかでは 最も好感のもてる挿絵群です。しかも 全ページの上 1/3 に、手書きではなく活字印刷の本文がはいっているので、武井の「刊本作品」の中では 最も長い物語のひとつでしょう。「絵本」というよりは「挿絵本」です。普通なら誰か文学者の文をもってくるところでしょうが、そこは 童話作家でもあった武井武雄ですから、自分で創作しています。ただ、他の刊本と違って、手書き字ではなく 活字を用いているのは、これだけ小さい字をぎっしりと手書きするのは大変でもあり、あまり綺麗でなくなる恐れがあると判断したのでしょう。「挿絵本」としては、現在の形が 最良であったと思われます。

小萩抄
武井武雄『小萩抄』上冊の内容

小萩抄
武井武雄『小萩抄』下冊の内容

 どういう物語かというと、戦前の日本統治下の台湾で生まれた小萩という日本人少女が、数奇な運命をたどりつつ成長し、盗賊団の団長にまでなります(上冊)。捕縛されたあと、実の母親にひきとられて日本に帰国し、生来優秀な能力をもっていたので女学校に行き、恋もし、発明家にもなり、といった「女の一生」です。奇想天外でありながら 他愛のない物語に、武井の独特な挿絵が たっぷり添えられているのが魅力の折本です。




イルフ童画館(日本童画美術館)岡谷市(ウェブサイトより)

 イルフ童画館は、武井の出身地の長野県岡谷市にある 市立の美術館で、武井の童画、版画、刊本作品、ミニアチュールなど多数が収蔵・展示されています。2階の第1企画展示室では 内外の絵本作家の企画展などが行われ、3階に「武井武雄の作品展示室」、「武井武雄 刊本作品展示室」があります。正式名称は日本童画美術館で、武井以外の美術家の作品、童画も収集、展示しています。特にアメリカの絵本作家 モーリス・センダックのコレクションが充実しているといいます。岡谷市は、私の住む東京から遠いので、いまだに行ったことがありませんが、長野県のほうに旅行する方は、是非寄りましょう。イルフ童画館では、事前に依頼すれば、武井の刊本作品を 手にとって見ることが できるそうです。

(2020/ 11 /01)



< 本の仕様 >
 ● 『迅四郎の窓』 武井武雄 刊本作品 No.80、1969年(昭和44)刊行
   限定 500部、APR ステンドグラス仕立、17 x 14.5 x 2 cm、22ページ
    ハードカヴァー、背布装(クォーター・クロス)、350グラム、夫婦函入り

 ● 『小萩抄』 武井武雄 刊本作品 No.92、1973年(昭和48)刊行
   限定 300部、折帖仕立、2分冊、各 17 × 6.4 × 0.8 cm、上 13ページ、下 14ページ
   ハードカヴァー、帙(たとう)入り、帙とも 250グラム   


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