『 インド美術の理想 』 |
神谷武夫
『インド美術の理想』版元装幀の布装本 1911年
「古書の愉しみ」の第38回は、インド美術史で名高いアーネスト・ビンフィールド・ハヴェル (1861-1934) の著作を紹介します。彼は多くの著作を出版しましたが、ここでメインとするのは、日本で最もよく知られた『インド美術の理想』("The Ideals of Indian Art")で、今から100年以上前の1911年に出版された本です。ハヴェルの簡単な年代記および他の人物との相対的位置関係については、『インド建築史・人物年表』をご覧ください。彼は岡倉天心の1歳上で、伊東忠太よりは6歳上でした。ジェイムズ・ファーガスンは 53歳も上だったので、ハヴェルが度印する4年前に亡くなっていました。ハヴェルは 何よりもファーガスンを批判したことで知られていますが、直接、論争したわけではありません。
E・B・ハヴェルは サウス・ケンジントン美術学校(South Kensington Design School 、後のロンドン王立美術学校)を卒業して1884年に来印し(23歳)、1890年にマドラス美術学校の校長となります。ちょうど ジョサイア・コンドルが その7年前の 1877年に 22歳で来日し、工部大学校で建築教育を始めたように、ハヴェルはインドで美術教育を始めたのです。しかしその教育は次第にコンドル的であるよりも フェノロサ・岡倉的となっていきました。すなわち、学生にヨーロッパ美術を学ばせること以上に、インドの土着の伝統美術を学ばせたのです。 ハヴェルは 1896年には首都カルカッタの美術学校の校長となり(35歳)、後のインドの国産品を奨励する「スワデシ」運動に近い立場となっていました。つまり、インド美術をギリシア・ローマ美術からの派生物ととらえるヨーロッパの美術史観に反旗をひるがえして、インド美術の固有性、独自な価値を認めさせ、インド人美術家に自尊の念を植えつけようとしたのでした。またカルカッタ美術館の館長となり、それまでのヨーロッパ美術の凡作の展示から、インド古来の美術作品の展示に切り替えていきました。
ハヴェルは 1913年にノーベル文学賞を受賞するラビンドラナート・タゴールの一家と親しくなり、それを通じてインド社会に影響を及ぼすことができ、また、1901年にインドに旅してタゴール家に滞在した岡倉天心とも親しくなったようです。タゴールの甥、アバニンドラナート・タゴール (1871-1951) は岡倉や横山大観に学び、まるで日本画のような絵を描くようになり、ハヴェルはそれをたびたび著書で紹介しました。伊東忠太が3年におよぶ大旅行でインドに滞在するのは1903年で、ハヴェルと知り合うことはなかったようです。1905年に、ハヴェルは病をえてイギリスに帰国し(44歳)、以後 著作活動に専念しました。 私は このHPの「インド建築史の黎明」の中の「ジェイムズ・ファーガスン」の章に、次のように書きました。
E・B・ハヴェルの『インド美術の理想』の内容と意義を知るためには、彼の主要7著作を順に見ていく必要があります。(そのほかに2著作、"A HANDBOOK TO AGRA AND THE TAJ", 1904, Longmans, London と、"THE HIMALAYAS IN INDIAN ART", 1924, John Murray, London とがありますが、あまり重要でないので省略します。)
ハヴェルの 主要7著柞
では、それら ハヴェルの主要7著作を年代順に見ていきましょう。1905年にイギリスに戻ったハヴェルは執筆活動に専念したようですが、最初の本『聖都バナーラス』("BENARES, THE SACRED CITY, Sketches of Hindu Life and Religion", Blackie & Son, Glasgow and London)は 帰国した年の 1905年の出版なので、帰国前にインドで執筆していたのでしょう。ブラッキー・アンド・サン社はインドにもオフィスを持って出版活動をしていました。著者 ハヴェルの肩書は、公立カルカッタ美術学校々長のままです。
これはハヴェルの処女作というべきもので、美術・建築の書というよりは、「ヒンドゥの生活と宗教のスケッチ」という副題が示すように、インド文化のるつぼ、小宇宙としてのバナーラスの文化誌です。それまでの20年にわたるインド生活での知見と理解の蘊蓄(うんちく)を傾けています。第2版は1912年に出ました。
ジェイムズ・ファーガスンのほとんどの本を出版したのは、ロンドンのジョン・マリー社でした。社主の3代目ジョン・マリーについては、この「古書の愉しみ」の第4回、『図説・建築ハンドブック』のページに書きましたが、ハヴェルがインドから帰国したころには、ファーガスンもジョン・マリー3世も すでに亡くなっていました。それでもファーガスン没後の3部作の改訂版や、インドの名高いガイドブック("A Handbook for Travellers in India, Burma and Ceylon") を出し続けていたジョン・マリー社に、ハヴェルは著書の出版を依頼したようです。社主は、3代目の息子の4代目ジョン・マリーになっていました。
ジョン・マリーから最初に出した本は、1908年の『インドの彫刻と絵画』です。(INDIAN SCULPTURE AND PAINTING, illustrated by Typical Masterpieces with an Explanation of Their Motives and Ideals, John Murray)これ以後、ハヴェルは、ほとんどの著作をジョン・マリーから出版することになります。
日本における最も早い時期のインド美術史の著作である『印度の佛教美術』(大正9年 (1920) 、丙午出版社)に、著者の松本文三郎(1869-1944)は 『インドの彫刻と絵画 (p.25) 』に基づいて、
と、ハヴェルの著作を読み込んで、それを論の前提に据えています(p. 57)。伊東忠太がハヴェルを賞賛したこともあり、日本の美術史界では ハヴェルの名はよく知られました。 ハヴェルは『インドの彫刻と絵画』の初版の 20年後の 1928年に第2版を出版しましたが、何と、全面的に書き改めています。全体の骨子は変わりませんが、20年の間のインドの状況変化と、ハヴェルの体験を盛り込んだのでした。ほとんど全ての図版も入れ替えているのには少々驚きましたが、初版のときの図版の版下が、もうなかったのでしょう。活字も 全部拾い直すのであれば、内容を アップ・トゥ・デイトなものに描き直した方がよいと考えたのに違いありません。
岡倉覚三の最初の英文著作『東洋の理想』("THE IDEALS OF THE EAST")が ジョン・マリー社から出版されたのは、ハヴェルがイギリスに戻る2年前の1903年でした。 『インドの彫刻と絵画』の執筆を構想していたハヴェルは、10年ほど前にカルカッタのタゴール邸で 熱っぽく語りあったことを岡倉が書いた著書を読んで、大いに刺激を受けたにちがいありません。『インドの彫刻と絵画』の中で論述するはずだったインド美術の理想論を独立させて詳論し、インド美術に対する当時のヨーロッパの美術史家たちの偏見を打破すべく、インド美術の理想主義についての独立した書物にしたのでした。
そして 11ページには、バナーラスのガートにおいては 男も女も子供も すべてのインド人が宗教や人種の区別を忘れて日々一緒になり、3,000年来アーリヤ人がしてきたのと同じ場所で 同一の方法で 神を礼拝していることを踏まえ、
と書いています。これが、ファーガスンによるインド建築の宗教別の分類や、人種(アーリヤ、ドラヴィダ)に基づく様式区分に対する、生涯をかけた反論、攻撃に結びついているのです。 先ほどの「インド建築史の黎明」の中の「ジェイムズ・ファーガスン」の章の続き:
E・B・ハヴェルが『インド美術の理想』を書いた根本的動機は、ヨーロッパの美術史家や教育者たちの インド美術に対する偏見を打破することにありました。その偏見というのは、インドの美術家、特に画家や彫刻家には人体の解剖学的知識や透視図法の理解がないので幼稚であるということ、(言い換えれば、ヨーロッパがルネサンス時代に獲得し発展させた技術をもたないから、中世的段階にとどまっていること)、そして ある程度価値のあるインド美術は、ギリシア・ローマの美術がガンダーラを経由してインドにもたらされた結果に過ぎないから、二流、三流のものだという蔑視、そして 遅れたインド美術を矯正するためには ヨーロッパ式の美術教育を施さねばならない、というものです。 第I部 「インド美術の理想」
第1章 「インド美術の起源 ―― ヴェーダ時代」(p.3-12)
第2章 「折衷的、あるいは過渡的な時代」(p.13-21)
第3章 「北インドの古代の大学と、アジア美術への影響」(p.22-46)
第4章 「聖なる理想の発展」(p.47-65)
第5章 「三位一体(トリムールティ)」(p.66-88)
『インド美術の理想』 第7章 114ページを開いたところ。
第6章 「女性の理想」(p.89-104)
第7章 「救済への三つの道」(p.105-121)
第8章 「インド美術の歴史的発展」(p.122-182) 第 II 部は、20点のインド美術の柞例集(写真)と、それぞれの詳しい解説です。(p.147-182) この本は1920年に第2版が出ました。
インドの美術(彫刻と絵画)の歴史と理想論について書き終わったハヴェルは、いよいよインド建築史の書物を執筆することとし、ここで激しくファーガスンの様式分類を批判します。本は時代的に古代、中世の巻と近世の巻の2冊にわかれますが、1913年に先に出たのが、下巻にあたる『インド建築、イスラームの到来から現代まで』("INDIAN ARCHITECTURE: Its Psycology, Structure, and History from the First Muhammadan Invasion to the Present Day", John Murray)です。(2nd, 1927)
その2年後の1915年に、本来上巻となるはずの『インド建築、古代と中世のアーリヤ文明』("THE ANCIENT AND MEDIEVAL ARCHITECTURE OF INDIA: A Study of Indo-Aryan Civilization", John Murray)が出ました。(2nd, 1930)
ハヴェルによる 古代から中世のインド建築史で、いたる所でファーガスンの様式区分を徹底的に批判しています。
これら「インド建築」2巻は近年インドで復刻され、2冊を合わせて "Encyclopaedia of Arch
tecture in the Indian Subcontinent"(「インド亜大陸の建築百科事典」) という 妙な題名がつけられてしまいました。研究者は要注意です。 1920年には 『インド美術・ハンドブック』("A HANDBOOK OF INDIAN ART", John Murray)を出版しました。『インドの彫刻と絵画』がすでに絶版になっているので、新しい概説書(ハンドブック)の必要を感じたから と序文に書いています。古代から近世までの 建築を中心とするインド美術の、簡にして要を得た概説書で、本文222ページの内、建築に70%、彫刻に20%、絵画に10%が充てられています。いまだ古代インダス文明の存在は知りませんでした。
彫刻・絵画を専門とするはずのハヴェルでしたが、インド美術全般を解説するとなると 建築を中心に据え、全ページの7割を充てざるを得ませんでした。インドの建築は「彫刻的建築」であったからだとも言えますが、ファーガスン批判はトーン・ダウンしているように見えます。また 絵画の章が ほんの つけたりのようにも見えるのは、インド人が彫刻的民族であって、絵画的民族ではないことの反映です。また美術学校で育てようとした伝統工芸は まだその途上だったので、ここでは 工芸はすべて省略です。晩年になって、かつての戦闘的精神が だいぶ失われてしまったかのようです。7年後には 第2版が出ました。
ここで 伊東忠太によるハヴェルの紹介を見ておきましょう。忠太がハヴェルを喝采しているのは、美術研究誌『国華』に大正19年(1919)に書いた「印度建築と回教建築との交渉」という論文においてです。そこでは、まずファーガスンの著書がインド建築史研究の唯一の基礎となったことを述べたあと、
ファーガスン批判に わが意を得たりという満足感をもって、以下、ハヴェルの主張するところを書きつらねては、それに喝采して 賛意を表しています。タージ・マハル廟については、
とまで書いています。まったくの謬見(びゅうけん)です。
以上の、忠太によるハヴェル評だけでも、(インド人ではないにもかかわらず)ハヴェルが のめりこんだ 過剰なインドのナショナリズムを よく示しています。彼の情熱と、インドのために尽くそうとする心意気はよくわかりますが、その主張(インドの万世一系説)の多くは、必ずしも人々を十分に説得しませんでした。ハヴェルは論理の人ではなく、感性の人であったと言えるでしょう。
ジョン・マリー社が出版したハヴェル・シリーズの本を見てきましたが、最後の『インド美術・ハンドブック』よりも2年早い 1918年に、別の出版社(ジョージ・G・ハラップ社)から出した『アーリヤ人によるインド統治の歴史』は、それまでより小型の活字が密につまった、しかも 582ページもあるという大作で、ハヴェルがそれまでの仕事を集大成して出版した浩瀚な書です。本来の長い題名全体は『古代からアクバル帝の死に至るまでのインドにおける、アーリヤ人による統治の歴史』(THE HISTORY OF ARYAN RULE IN INDIA, From rthe Earliest Times to the Death of Akbar, George G. Harrap, London, Frederick A. Stokes, New York)といい、古代からムガル朝のアクバル時代までのインド文化史を記述した本で、インドを統治してきたのがアーリヤ人とその原理であることを主張した書物です。
このHPの「ジェイムズ・ファーガスンとインドの建築」の末尾に書いた次の文を再録して、この項の結びにします。
( 2017 /05/ 01 )
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