「インド美術の理想」(古書の愉しみ 38. アーネスト・ビンフィールド・ハヴェル)| 神谷武夫 | 

ANTIQUE BOOKS on ARCHITECTURE - XXXVIII
アーネスト・ビンフィールド・ハヴェル

『 インド美術の理想 』

Ernest Binfield Havell :
" The Ideals of Indian Art "
1911, John Murray, London


神谷武夫
『インド美術の理想』
『インド美術の理想』版元装幀の布装本 1911年

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美術教育者にして美術史家 E.B. ハヴェル

 「古書の愉しみ」の第38回は、インド美術史で名高いアーネスト・ビンフィールド・ハヴェル (1861-1934) の著作を紹介します。彼は多くの著作を出版しましたが、ここでメインとするのは、日本で最もよく知られた『インド美術の理想』("The Ideals of Indian Art")で、今から100年以上前の1911年に出版された本です。ハヴェルの簡単な年代記および他の人物との相対的位置関係については、『インド建築史・人物年表』をご覧ください。彼は岡倉天心の1歳上で、伊東忠太よりは6歳上でした。ジェイムズ・ファーガスンは 53歳も上だったので、ハヴェルが度印する4年前に亡くなっていました。ハヴェルは 何よりもファーガスンを批判したことで知られていますが、直接、論争したわけではありません。

人物年表
インド建築史・人物年表

 E・B・ハヴェルは サウス・ケンジントン美術学校(South Kensington Design School 、後のロンドン王立美術学校)を卒業して1884年に来印し(23歳)、1890年にマドラス美術学校の校長となります。ちょうど ジョサイア・コンドルが その7年前の 1877年に 22歳で来日し、工部大学校で建築教育を始めたように、ハヴェルはインドで美術教育を始めたのです。しかしその教育は次第にコンドル的であるよりも フェノロサ・岡倉的となっていきました。すなわち、学生にヨーロッパ美術を学ばせること以上に、インドの土着の伝統美術を学ばせたのです。
 インドにはイギリスが 植民地インドを分割した3つの管区(プレジデンシー)に応じてカルカッタ、マドラス、ラホール(現・パキスタン)に美術学校が設けられました。それらに校長として赴任するのは、サウス・ケンジントン美術学校の卒業生が主流でした。ラホールへは、ケンジントンの卒業生ではありませんが、ジョン・ロックウッド・キプリングが赴任し、(「ラホール城とシャーラマール庭園」でも少し触れた)その息子が、『キム』や『ジャングルブック』を書いてノーベル文学賞を受賞することになる、ラディヤード・キプリングです。ジョサイア・コンドルもまた、サウス・ケンジントンの卒業生でした。

 ハヴェルは 1896年には首都カルカッタの美術学校の校長となり(35歳)、後のインドの国産品を奨励する「スワデシ」運動に近い立場となっていました。つまり、インド美術をギリシア・ローマ美術からの派生物ととらえるヨーロッパの美術史観に反旗をひるがえして、インド美術の固有性、独自な価値を認めさせ、インド人美術家に自尊の念を植えつけようとしたのでした。またカルカッタ美術館の館長となり、それまでのヨーロッパ美術の凡作の展示から、インド古来の美術作品の展示に切り替えていきました。

ハヴェル
アーネスト・ビンフィールド・ハヴェル(ウェブサイトより)

 ハヴェルは 1913年にノーベル文学賞を受賞するラビンドラナート・タゴールの一家と親しくなり、それを通じてインド社会に影響を及ぼすことができ、また、1901年にインドに旅してタゴール家に滞在した岡倉天心とも親しくなったようです。タゴールの甥、アバニンドラナート・タゴール (1871-1951) は岡倉や横山大観に学び、まるで日本画のような絵を描くようになり、ハヴェルはそれをたびたび著書で紹介しました。伊東忠太が3年におよぶ大旅行でインドに滞在するのは1903年で、ハヴェルと知り合うことはなかったようです。1905年に、ハヴェルは病をえてイギリスに帰国し(44歳)、以後 著作活動に専念しました。

 私は このHPの「インド建築史の黎明」の中の「ジェイムズ・ファーガスン」の章に、次のように書きました。

 その点、独創的というか、ファーガスンに対抗した人は、この<人物年表>の中でただ一人、忠太の左側二人目にいる美術史家、アーネスト・ビンフィールド・ハヴェル (1861-1934) という人物である。ハヴェルだけがファーガスンに対抗する論陣を張ったので、インド建築史というと、ファーガスンとハヴェルの名前が しばしば並べられる。何を対抗したかというと、ファーガスンが主に宗教別に、仏教建築、ジャイナ教建築、ヒンドゥ教建築、イスラーム建築という順に章を設けて書いていったのに対して、ハヴェルは そういう区別は無意味であるとした。インドの美術、インドの建築は万世一系である ということを主張した人で、インド人ではないのだが、インド人のナショナリズムを代弁した人だと言える。

 それまでのインド文化の研究は考古学主導であったので、カニンガムらによる 古代の仏教遺跡の発掘に力点がおかれたし、ガンダーラ美術にギリシアの影響が認められるがゆえに、インド美術全体がヨーロッパの亜流のように見なされ、中世のヒンドゥ美術や近世のイスラーム美術が際物(きわもの)的に扱われてしまうことに ハヴェルは異議を唱え、インドの美術は ヨーロッパとはまったく異なった価値をもった芸術であるということを、ヨーロッパ人のみならず、インド人自身にも認識させようとしたのである。その意味で、彼がインドで果たした役割は、明治の日本美術界における フェノロサと岡倉天心のそれに似ている(西洋画を排して、日本の伝統美術の復興を目ざしたこと)。




 E・B・ハヴェルの『インド美術の理想』の内容と意義を知るためには、彼の主要7著作を順に見ていく必要があります。(そのほかに2著作、"A HANDBOOK TO AGRA AND THE TAJ", 1904, Longmans, London と、"THE HIMALAYAS IN INDIAN ART", 1924, John Murray, London とがありますが、あまり重要でないので省略します。)

主要著柞

ハヴェルの 主要7著柞
右から、『聖都バナーラス』1905、『インドの彫刻と絵画』1908、
『インド美術の理想』1911、『インド建築、イスラームの到来から現代まで』1913、
『インド建築、古代と中世のアーリヤ文明』1915、『インド美術・ハンドブック』1920
『アーリヤ人によるインド統治の歴史』1918。 両端を除く5冊がジョン・マリー社の出版で、
同じ装幀の背表紙をしている。 両端の小さめの本がファーガスンの『インドと東方』
などと同じ大きさで、中の4冊は現代のB5判に相当する やや大きいサイズ。

マーク
ジョン・マリー社、ハヴェル・シリーズの背表紙の共通マーク
この意匠は、どこから採ってきたのだろうか。



 では、それら ハヴェルの主要7著作を年代順に見ていきましょう。1905年にイギリスに戻ったハヴェルは執筆活動に専念したようですが、最初の本『聖都バナーラス』("BENARES, THE SACRED CITY, Sketches of Hindu Life and Religion", Blackie & Son, Glasgow and London)は 帰国した年の 1905年の出版なので、帰国前にインドで執筆していたのでしょう。ブラッキー・アンド・サン社はインドにもオフィスを持って出版活動をしていました。著者 ハヴェルの肩書は、公立カルカッタ美術学校々長のままです。

『バナーラス』
ハヴェルの『聖都バナーラス 』1905年

 これはハヴェルの処女作というべきもので、美術・建築の書というよりは、「ヒンドゥの生活と宗教のスケッチ」という副題が示すように、インド文化のるつぼ、小宇宙としてのバナーラスの文化誌です。それまでの20年にわたるインド生活での知見と理解の蘊蓄(うんちく)を傾けています。第2版は1912年に出ました。




ジョン・マリー社による出版

 ジェイムズ・ファーガスンのほとんどの本を出版したのは、ロンドンのジョン・マリー社でした。社主の3代目ジョン・マリーについては、この「古書の愉しみ」の第4回、『図説・建築ハンドブック』のページに書きましたが、ハヴェルがインドから帰国したころには、ファーガスンもジョン・マリー3世も すでに亡くなっていました。それでもファーガスン没後の3部作の改訂版や、インドの名高いガイドブック("A Handbook for Travellers in India, Burma and Ceylon") を出し続けていたジョン・マリー社に、ハヴェルは著書の出版を依頼したようです。社主は、3代目の息子の4代目ジョン・マリーになっていました。

 ジョン・マリーから最初に出した本は、1908年の『インドの彫刻と絵画』です。(INDIAN SCULPTURE AND PAINTING, illustrated by Typical Masterpieces with an Explanation of Their Motives and Ideals, John Murray)これ以後、ハヴェルは、ほとんどの著作をジョン・マリーから出版することになります。
 『インドの彫刻と絵画』は前半で彫刻を、後半で絵画を、半々に扱っています。

『彫刻と絵画』
ハヴェルの『『インドの彫刻と絵画』1908年

 日本における最も早い時期のインド美術史の著作である『印度の佛教美術』(大正9年 (1920) 、丙午出版社)に、著者の松本文三郎(1869-1944)は 『インドの彫刻と絵画 (p.25) 』に基づいて、

「ハーヴェル氏は かつて印度美術の特質を論じ、唯心的、超越的、象徴的、及び神秘的(Idealistic, transcendent,symbolic, mystic)の四語を以て之を要約して居る。これは大体において正鵠を得て居ると思ふ。勿論印度の美術が常に此四種の特徴を表顕して居るとも限らぬが、本来印度の宗教、哲学の思想はウパニシャド以来 多少の例外はあるが、大体この特徴を有するのであるから、其芸術に於てもまたこの特徴を表顕するのは当然であり、又これを表顯し得るを以て優秀の作品と見做すのである。仏教芸術といへども大要此四種の特質を有し、特に大乗佛教の興るに至っては、其色彩また最も著しくなって来た。」

と、ハヴェルの著作を読み込んで、それを論の前提に据えています(p. 57)。伊東忠太がハヴェルを賞賛したこともあり、日本の美術史界では ハヴェルの名はよく知られました。

 ハヴェルは『インドの彫刻と絵画』の初版の 20年後の 1928年に第2版を出版しましたが、何と、全面的に書き改めています。全体の骨子は変わりませんが、20年の間のインドの状況変化と、ハヴェルの体験を盛り込んだのでした。ほとんど全ての図版も入れ替えているのには少々驚きましたが、初版のときの図版の版下が、もうなかったのでしょう。活字も 全部拾い直すのであれば、内容を アップ・トゥ・デイトなものに描き直した方がよいと考えたのに違いありません。




『インド美術の理想』

 岡倉覚三の最初の英文著作『東洋の理想』("THE IDEALS OF THE EAST")が ジョン・マリー社から出版されたのは、ハヴェルがイギリスに戻る2年前の1903年でした。 『インドの彫刻と絵画』の執筆を構想していたハヴェルは、10年ほど前にカルカッタのタゴール邸で 熱っぽく語りあったことを岡倉が書いた著書を読んで、大いに刺激を受けたにちがいありません。『インドの彫刻と絵画』の中で論述するはずだったインド美術の理想論を独立させて詳論し、インド美術に対する当時のヨーロッパの美術史家たちの偏見を打破すべく、インド美術の理想主義についての独立した書物にしたのでした。
 その題名『インド美術の理想』("THE IDEALS OF INDIAN ART")は、岡倉の『東洋の理想』の影響でしょう。第1章の最初のページにはこう書いています

「日本の高名な美術批評家で『東洋の理想』の著者 岡倉氏は、いみじくも こう主張している、美術思想の上では「アジアは一つなり」と。」

そして 11ページには、バナーラスのガートにおいては 男も女も子供も すべてのインド人が宗教や人種の区別を忘れて日々一緒になり、3,000年来アーリヤ人がしてきたのと同じ場所で 同一の方法で 神を礼拝していることを踏まえ、

「私たちに見る目があるなら、どんなに人種や信仰が異なっていようと「インドは一つなり」ということを見るだろう。」

と書いています。これが、ファーガスンによるインド建築の宗教別の分類や、人種(アーリヤ、ドラヴィダ)に基づく様式区分に対する、生涯をかけた反論、攻撃に結びついているのです。

 先ほどの「インド建築史の黎明」の中の「ジェイムズ・ファーガスン」の章の続き:

 そういう主張をハヴェルが最初に著作にまとめたのが、1911年の『インド美術の理想』(The Ideals of Indian Art) という本である。本来はその3年前に出版された『インドの彫刻と絵画』(Indian Sculpture and Painting) に収められるべき論考であったが、独立させて大部の単行本とした。この本のタイトルは、岡倉覚三(天心)がアジアの美術の理想を説いた『東洋の理想』 (The Ideals of the East) から影響を受けてつけられていて、本の冒頭には岡倉の名前を出している (The distinguished Japanese art-critic, Mr. Okakura, author of "The Ideals of the East") 。<人物年表>で伊東忠太の左隣の岡倉覚三は、忠太が大旅行に出る2年前にインドに渡り、カルカッタのタゴール家に滞在している間に ハヴェルとも親交を結んだという。当時、ハヴェルはカルカッタ美術学校の校長を務めていて、<人物年表>で見られるように ほとんど同年齢の2人は意気投合して、「アジアの覚醒」について語り合ったはずである。

 ところで、忠太がインド旅行をした時には ファーガスンとハヴェルの本を頼りにしたと書かれることがあるが、実際には そういうことはなくて、<人物年表>でわかるように、ハヴェルが著作活動を開始するのは 忠太の大旅行よりも 後である。それだから 忠太のインド旅行時には、ハヴェルの著作は一冊も見ていないし、その名前も知らなかったろう。ずっと後になって、帝大教授となった忠太は「印度建築と回教建築との交渉」という論文において、ファーガスンに反論するハヴェルの主張を 共感をもって紹介しているが、しかしその内容は おおむね 過度なインド主義に傾いていて、充分な裏づけに乏しい。忠太がそれを書いたのは、第3章で示すように、「反ファーガスン論」に喝采したからのようである。

『インド美術の理想』
ハヴェルの『インド美術の理想』1911年

 E・B・ハヴェルが『インド美術の理想』を書いた根本的動機は、ヨーロッパの美術史家や教育者たちの インド美術に対する偏見を打破することにありました。その偏見というのは、インドの美術家、特に画家や彫刻家には人体の解剖学的知識や透視図法の理解がないので幼稚であるということ、(言い換えれば、ヨーロッパがルネサンス時代に獲得し発展させた技術をもたないから、中世的段階にとどまっていること)、そして ある程度価値のあるインド美術は、ギリシア・ローマの美術がガンダーラを経由してインドにもたらされた結果に過ぎないから、二流、三流のものだという蔑視、そして 遅れたインド美術を矯正するためには ヨーロッパ式の美術教育を施さねばならない、というものです。
 ハヴェルは こうした偏見を打破すべく、インド美術はインド固有の理想のもとに作られてきたこと、そして これ以後もヨーロッパとは違った(ヨーロッパよりも優れた)独自の価値を発展させるべきであることを主張し、そのインドの美術・文化の根本、理想を 古代の神々や伝説、古来の伝統に見出そうとしたのでした。そしてこの『インド美術の理想』において、「ヴェーダ」に代表されるようなインドの神性や理念を インドの伝統美術、とくに彫像などと結びつけながら、論理的にというよりは 感覚的に、そして断定的に、インドの理想主義を解説、展開していきます。
 そして おもしろいことに 全巻にわたって、各ページの摘要を 上の欄外に「見出し」のように書いていますので、これを拾っていくことで、全編の内容がわかります。以下に列記すると、

第I部 「インド美術の理想」

第1章 「インド美術の起源 ―― ヴェーダ時代」(p.3-12)
     美術と思想
     ヴェーダの神性
     アジア美術の主調音
     ヴェーダ時代の美術
     インドの宗派性

第2章 「折衷的、あるいは過渡的な時代」(p.13-21)
     美術の主観性
     仏教美術
     バールフトのストゥーパ
     アショカ王柱
     アマラーヴァティの彫刻
     ガンダーラ派

第3章 「北インドの古代の大学と、アジア美術への影響」(p.22-46)
     西洋の美術教育
     インドの美術思想
     インドの超人
     佛教の聖なる理想
     インド美術とヨガ
     瞑想のブッダ
     中国美術と日本美術
     観音菩薩
     ヨギンの礼拝
     記憶と心霊の訓練
     中国美術とインド美術
     仕事による救済

第4章 「聖なる理想の発展」(p.47-65)
     ライオンのような形象
     霊気(アウラ)
     聖光(ウールマ)
     アーサナとムドラー(印契)
     禅定のブッダ
     仏教における専心
     ヒンドゥ教の聖なる理想
     美術の限界
     インドの象徴主義
     保存者ヴィシュヌ
     乳海の撹拌

第5章 「三位一体(トリムールティ)」(p.66-88)
     トリムールティ
     ヒンドゥ教の形而上学
     卍(スワスティカ)
     彫像の分類
     ブラフマー
     ヴィシュヌ
     シヴァ
     ヴィシュヌの化身
     シヴァの舞踊
     カールッティケーヤ
     ガネシャ
     シヴァとダクシャ
     ガネシャの彫刻
     幾何学的な象徴
     性的な象徴

『インド美術の理想』

『インド美術の理想』 第7章 114ページを開いたところ。
写真は 南インド、バクティのアッパルスワ-ミ像(ブロンズ)

第6章 「女性の理想」(p.89-104)
     カーリー
     性力(シャクティ)
     インドの女性
     女性の美
     女性における聖なる理想
     チャルキヤ朝の彫刻
     ウマー、あるいはパールヴァティ
     女性の美のしるし
     跳躍のアレゴリー
     南インドの主題
     シンボルの意味

第7章 「救済への三つの道」(p.105-121)
     三つの道
     バクティ(神への信愛)
     自然の尊重
     人類と動物
     自然の嘆き
     輪廻転生
     インドの象徴主義
     インド美術とバクティ
     美術と文学
     東西文化におけるバクティ
     近代生活におけるバクティ
     インドとイスラーム
     インド美術の再生

第8章 「インド美術の歴史的発展」(p.122-182)
     インド史の基盤
     東西の美術
     仏教美術
     ジャイナ教美術
     ジャイナ教の禁欲主義
     仏教美術
     インド美術の絶頂期
     インドの絵画
     シヴァ派の美術
     叙事詩(ラーマーヤナとマハーバーラタ)
     チトラ・シャーラー(王室絵画館)
     ヴィシュヌ派
     ムガル朝
     インドとペルシアの絵画
     インドの英国人の美術
     インド美術の将来

第 II 部は、20点のインド美術の柞例集(写真)と、それぞれの詳しい解説です。(p.147-182)

この本は1920年に第2版が出ました。




建築史(ファーガスン)への挑戦

 インドの美術(彫刻と絵画)の歴史と理想論について書き終わったハヴェルは、いよいよインド建築史の書物を執筆することとし、ここで激しくファーガスンの様式分類を批判します。本は時代的に古代、中世の巻と近世の巻の2冊にわかれますが、1913年に先に出たのが、下巻にあたる『インド建築、イスラームの到来から現代まで』("INDIAN ARCHITECTURE: Its Psycology, Structure, and History from the First Muhammadan Invasion to the Present Day", John Murray)です。(2nd, 1927)

『インド建築』
ハヴェルの『インド建築、イスラームの到来から現代まで』1913年

 その2年後の1915年に、本来上巻となるはずの『インド建築、古代と中世のアーリヤ文明』("THE ANCIENT AND MEDIEVAL ARCHITECTURE OF INDIA: A Study of Indo-Aryan Civilization", John Murray)が出ました。(2nd, 1930)

『古代と中世』
ハヴェルの『インド建築、古代と中世のアーリヤ文明』1915年

 ハヴェルによる 古代から中世のインド建築史で、いたる所でファーガスンの様式区分を徹底的に批判しています。
前著までは あまり使っていなかった「アーリヤ」という人種概念を、ここでは本の副題に用いて「古代と中世のアーリヤ文明」としました。これが後の著作『アーリヤ人によるインド統治の歴史』につながっていきます。

 これら「インド建築」2巻は近年インドで復刻され、2冊を合わせて "Encyclopaedia of Arch tecture in the Indian Subcontinent"(「インド亜大陸の建築百科事典」) という 妙な題名がつけられてしまいました。研究者は要注意です。



 1920年には 『インド美術・ハンドブック』("A HANDBOOK OF INDIAN ART", John Murray)を出版しました。『インドの彫刻と絵画』がすでに絶版になっているので、新しい概説書(ハンドブック)の必要を感じたから と序文に書いています。古代から近世までの 建築を中心とするインド美術の、簡にして要を得た概説書で、本文222ページの内、建築に70%、彫刻に20%、絵画に10%が充てられています。いまだ古代インダス文明の存在は知りませんでした。

『ハンドブック』
ハヴェルの『インド美術・ハンドブック』1920年

 彫刻・絵画を専門とするはずのハヴェルでしたが、インド美術全般を解説するとなると 建築を中心に据え、全ページの7割を充てざるを得ませんでした。インドの建築は「彫刻的建築」であったからだとも言えますが、ファーガスン批判はトーン・ダウンしているように見えます。また 絵画の章が ほんの つけたりのようにも見えるのは、インド人が彫刻的民族であって、絵画的民族ではないことの反映です。また美術学校で育てようとした伝統工芸は まだその途上だったので、ここでは 工芸はすべて省略です。晩年になって、かつての戦闘的精神が だいぶ失われてしまったかのようです。7年後には 第2版が出ました。



伊東忠太のハヴェル評

 ここで 伊東忠太によるハヴェルの紹介を見ておきましょう。忠太がハヴェルを喝采しているのは、美術研究誌『国華』に大正19年(1919)に書いた「印度建築と回教建築との交渉」という論文においてです。そこでは、まずファーガスンの著書がインド建築史研究の唯一の基礎となったことを述べたあと、

 「然るに最近に至り、カルカッタの美術学校校長たりしハヴェル(F.B. Havell)は新たに印度建築史一篇を著し、(引用者注:4年前に出版された『インド建築、古代と中世のアーリヤ文明』のこと、F.B. Havell は E.B.Havell の誤り)従来の説と全く異なりたる意見を提出した。それは殆どファーガッソンの説を根柢から打破したもので、往々辛辣にファーガッソンを罵倒している。」

 「ハヴェルの印度建築説は、旧来の印度建築史を根柢から覆すものである。彼は熱心なる印度研究者として兼ねて印度崇拝者である。彼は其の著 印度建築史に於いて印度藝術の為に万乗の気炎を吐いているが、言々皆熱あり、淳々悉く血あり、読者は為に魅せられずんば止まざるものがある。」

 「世人ややもすれば印度の文化は外国の感化に因って進化発達したかの如くに考えるが、印度の能力は外界の感化を受けざれば発達し得ざるが如き低級のものに非ず、よく自発的に進歩し来たり、却って東西諸国を感化指導したのであると力説し、其の回教建築(イスラーム建築)との交渉に論及しては、ファーガッソンの旧説を極力駁撃して完膚なからしめ、世の多数の学者はファーガッソンの僻説(へきせつ)に誤られて漫りにこれに雷同するものなりとし、いわゆる印度回教建築なる命名が既に重大なる過誤であると云い、印度後期のアフガン王朝の建築は厳然たる印度建築であって回教建築ではないと断言し、其の細部の手法に見ゆる 拱(アーチ)、球蓋(ドーム)、文様なども一見 印回相互に類似する如きも、子細に観察すれば、近代印度に於けるものは古代印度に行われた手法の発達したもので、回教圏に行われたものが伝来したのではないと論じ、さらに回教建築は印度建築より出たるものであると逆襲を試みている。勿論彼は印度回教式なるものを認めぬので、後半期の印度建築は前半期の継続と見て、年紀に従って分類しているのである。」

ファーガスン批判に わが意を得たりという満足感をもって、以下、ハヴェルの主張するところを書きつらねては、それに喝采して 賛意を表しています。タージ・マハル廟については、

「例えばタージに於けるものの如きは回教伝来でなくして、古代印度の球蓋(ドーム)が漸次に発達したものと認めることは誰も異存の無いことと思う。」

とまで書いています。まったくの謬見(びゅうけん)です。
 しかし 、こうした、ハヴェルに便乗した 反・ファーガスン論を延々と展開したあげくに、さすがに これだけではまずいと思ったか、最後のほうには 次のように書いて、ハヴェルの主張に疑問を呈しています。

「それはとにかく、印度回教建築(インドの イスラーム建築)の構造法がすべてエジプト、シリア等の回教の本場から伝来したということは 大なる謬見である。しかし又 印度回教建築に現れた種々なる構造の方法が全然インドの工匠によって工夫されたや否やということは大なる疑問である。ハヴェルの如く 凡てを印度の独創に帰せんとするのは甚だ危険である。」

「(ハヴェルは)回教は仏教から出て、従って回教芸術はヒンドゥ教芸術から出たと説くのであるが、これ等は すこぶる空漠たる議論と云わねばならぬ。」

以上の、忠太によるハヴェル評だけでも、(インド人ではないにもかかわらず)ハヴェルが のめりこんだ 過剰なインドのナショナリズムを よく示しています。彼の情熱と、インドのために尽くそうとする心意気はよくわかりますが、その主張(インドの万世一系説)の多くは、必ずしも人々を十分に説得しませんでした。ハヴェルは論理の人ではなく、感性の人であったと言えるでしょう。



『アーリヤ人によるインド統治の歴史』

 ジョン・マリー社が出版したハヴェル・シリーズの本を見てきましたが、最後の『インド美術・ハンドブック』よりも2年早い 1918年に、別の出版社(ジョージ・G・ハラップ社)から出した『アーリヤ人によるインド統治の歴史』は、それまでより小型の活字が密につまった、しかも 582ページもあるという大作で、ハヴェルがそれまでの仕事を集大成して出版した浩瀚な書です。本来の長い題名全体は『古代からアクバル帝の死に至るまでのインドにおける、アーリヤ人による統治の歴史』(THE HISTORY OF ARYAN RULE IN INDIA, From rthe Earliest Times to the Death of Akbar, George G. Harrap, London, Frederick A. Stokes, New York)といい、古代からムガル朝のアクバル時代までのインド文化史を記述した本で、インドを統治してきたのがアーリヤ人とその原理であることを主張した書物です。

『アーリヤ人』
ハヴェルの『アーリヤ人によるインド統治の歴史』1918年

 このHPの「ジェイムズ・ファーガスンとインドの建築」の末尾に書いた次の文を再録して、この項の結びにします。

 ファーガスンの分類と命名法を徹底的に批判したのは イギリスの美術史家、E・B・ハヴェル (Ernest Binfield Havell, 1861-1934) である。彼は岡倉天心と同世代人であり、カルカッタ美術学校の校長を勤めた時代に、天心の美術運動に近い立場でインドの伝統美術の復権をはかった。それはインド美術の万世一系説 ともいうべきもので、宗教別、人種別による建築様式のちがいを強調するのは まったく無意味であるとして ファーガスンを批判した。
 ところがハヴェルは 晩年の 1918年に、美術史を中心としたインド史、『アーリヤ人によるインド統治の歴史 (The History of Aryan Rule in India) 』を書く。そこでは インドを古代から現代まで統治したのが常にアーリヤ人と、そこから派生した原理であるとして、インド・アーリヤ人の来住からムガル朝のアクバル帝までの文化史を「アーリヤ史観」で記述し、それをもってアーリヤ人としてのイギリス人によるインド支配を肯定したのである。
 これもまた、ファーガスンがアーリヤ人を非芸術的民族として貶(おとし)めたことへの対抗であったとも言えるだろうが、ファーガスンのナイーブな人種論から ナチスの差別的人種論へと流れゆく 時代の推移の反映であった とも言える。

 ファーガスンは 民族学者ではなかった。彼の建築史研究に骨格を与えるために、当時の最新の民族誌、人種論を応用したにすぎなかった。そのようにして命名された様式名は、現在のインド建築史で正式に用いられることはほとんどない。しかし彼の著作の影響は あまりに大きかったので、それらは 今でもインドの一般社会に流通しているし、P・ブラウンが踏襲したこともあって、専門家たちも しばしば ファーガスンの分類でインド建築を見てしまうのである。

( 2017 /05/ 01 )


< 本の仕様 >
 "THE IDEALS OF INDIAN ART" by Ernest Binfield Havell
 アーネスト・ビンフィールド・ハヴェル著 『インド美術の理想』
  1911年、ロンドン、ジョン・マリー社
  26cmH x 18cmW x 4cmD、1.1kg、xx + 188ページ
  写真図版 32点+フロンティスピース(全て ページ大 片面印刷)
  版元による布製本(レザレット)青緑色 

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