『 東洋建築の研究 下 』 |
神谷武夫
『東洋建築の研究 下』龍吟社 1937年
(昭和12年)
私が 伊東忠太(1867-1954)について知ったのは、大学2年の頃でした。たしか 山本学治教授の「近代建築史」の授業のレポートを書くために読んだ 何冊かの本の一冊が、その数年前に出版されていた、神代雄一郎著『近代建築の黎明(明治・大正を建てた人々)』(1967年、美術出版社)でした。この本は、まだ明治・大正時代の建築が人々の関心の対象となるより だいぶ前の 1962年から翌年にかけて『新建築』誌に、小さな1ページ記事として連載されたものが、「美術選書」シリーズの一冊としてまとめられたものでした。 「ポスト・モダン」などという言葉のできるよりも ずっと以前、日本の建築界は 戦争による鎖国と荒廃から やっと立ち直って、欧米の「近代建築」(モダニズムの建築)を いかに吸収して咀嚼するかということに汲々としていた時代なので、ゴチックだとかルネサンスだとかいった 過去の「様式」に則って建築の設計が行われていた時代に対しては、まったく無関心、というよりは 蔑視、否定していたのでした。 そうした明治・大正の建築が見直されて、それもまた 近代日本の建築遺産、文化財だと評価されるようになるのは、いわゆる「明治百年」(1968年)の準備期間からだったでしょう。長谷川堯や、若き建築史家の鈴木博之や藤森照信らによる精力的な活動によって、明治・大正期の「様式建築」が、若い建築家や学生の関心を 惹きつけることとなります。神代雄一郎の『近代建築の黎明』は、その先駆的な書でした。そこでは、東京駅を設計した辰野金吾から始めて、妻木頼黄や片山東熊、伊東忠太や長野宇平治、岡田信一郎や後藤慶二ら 18名の、いわば「前近代の」(モダニズム以前の)日本の建築家の果たした役割が、それぞれ簡潔にスケッチされています。
私がこの本を読んで 最も興味を惹かれた建築家は、伊東忠太と後藤慶二でした。忠太に対する興味というのは、神代さんの次の記述が 端的に示しています。つまり、建築界に限りませんが、明治以降の日本の文化、芸術、思想は 絶えず欧米のそれの直接的な輸入であり 模倣であったのに対して、欧米ではなく、むしろアジアに 設計や思考の源泉を求めようとした姿勢にありました。
この本を読んだ頃に、将来 私自身が アジア建築探究の旅に出るなど 予想もしませんでしたが、伊東忠太の姿勢と業績には 大いに畏敬の念を抱いたのでした。私がアジアの建築を知るために、まずインドの地を 最初に踏んだのは、この 10年後のことでした。忠太が 1908年から3年間の世界旅行において インドに滞在したのは8ヵ月半の長きにわたりましたから、私が 10回以上インドを旅した期間の合計は それと同じくらいかもしれませんが、交通機関の発達によって、はるかに多くのインド建築遺産を訪ね、撮影をしてきました。
『伊東忠太建築文献』全6巻 龍吟社 1936-7年、全巻の重さ 7.8kg 伊東忠太の建築史研究 および建築論、そして随筆・旅行記が すべてこの6巻に きれいに整理されて収納されています。出版されたのは 1936年から翌年にかけてですから、忠太の 60代の終わりで、自ら編集に関わり、自分の業績の総決算として 内容を校訂し、あるいは加筆さえ したことでしょう。したがって、これは 彼の ほぼ完全な全集ということになりますが、この出版の後 87歳で逝去するまで、さらに20年近くを生きますので、その間に書かれた文章は、量は少ないでしょうが、収録されていないことになります。 全6巻のうち2巻が「日本建築史の研究」、2巻が「東洋建築史の研究」、そして1巻が「見学紀行」、最後の1巻が その他の「論叢・随筆・漫筆」に充てられています。各巻とも 600ページを超える大冊で、巻頭には 写真や図面も多く収録されています。「東洋建築史の研究」は 上巻(第3巻)が中国に充てられていて、私の領域に関する部分は 下巻(第4巻)において インドから中東に至る建築史関係論集となっているので、今回は この巻を中心に紹介していきます。ただ第5巻の「見学・紀行」には ビルマ、インド、シリア、トルコ、エジプトの旅行記が収められていますので、それを合わせて 全部の記事のタイトルとページの量を 以下に示しておきましょう。
『東洋建築の研究・下』巻頭の写真ページ
『 伊東忠太建築文献 』第4巻 『 東洋建築の研究 下 』の内容
「東洋建築の系統」 28 pp. ( 東・南アジア )
『 伊東忠太建築文献 』 第5巻 『 見學紀行 』の中の関連記事
「緬甸旅行茶話」 10 pp. ( ビルマ )
インド建築史についての伊東忠太の事績は、ジェイムズ・ファーガスンとの関係を軸として「インド建築史の黎明」というサイトにまとめたので、それを お読みいただくとして、私が当初から疑問に思っていたのは、彼が書いた論考のすべては この『建築文献』によって読めるものの、何故『インド建築史』や『日本建築史』、『中国建築史』といった 単行書としての通史を書かなかったのだろうか、ということでした。それについて 昔 書いたメモが本に挟んであるのが見つかったので、ここに再録しておきます。
さて 造本の観点から『伊東忠太建築文献』を見ると、なかなか立派な造りになっていて、本文用紙が やや黄ばんだことを除けば、今から 80年前の古書としては 印刷も製本も、また建築書としての図版の扱いも、まずまずの出来栄えと言えます。しかし、ここでもファーガスンと対比すると、『伊東忠太建築文献』よりも 60年も前に出版された ファーガスンの『インドと東方の建築史』などと比べて、日本では木口木版の技術が普及しなかったために、ファーガスンの本におけるような、全編に精巧な建築のドローイングが 挿絵として挿入されるということがないので、だいぶ見劣りがします。読者にとっても、いちいち巻頭の写真ページに図版を探すのは 面倒だったでしょう。本の大きさ、厚さはほとんど同じですが、ファーガスンの方が、活字が もっと ぎっしりと詰まっています。
『 伊東忠太建築文献 』第4巻『東 洋建築の研究・下 』龍吟社 1937年 『伊東忠太建築文献』は、奥付にも 下掲の「内容見本」パンフレットにも、値段が書いてありません。今でこそ 本の奥付に定価を書かなくなりましたが、昔は本の定価を知るには 奥付を見たものです。おそらくこの全集6巻は一括予約販売だったのでしょう。大正時代から昭和初年にかけて、日本の出版界では 全集本の予約出版が盛んでした。単行本を出し続けるよりも、経営のリスクが小さかったからです。それを推進したのは、(戦前の)国書刊行会や大日本文明協会でしたが、龍吟社というのは、それらの中心的関係者だった出版人・草村北星が興した出版社だったのです。龍吟社は戦災によって、昭和20年に消滅しました。 さて『伊東忠太建築文献』全6巻は、龍吟社から出た 45年後の 1982年(昭和57年)に 原書房から復刻され、『伊東忠太著作集』の題のもと、その第1期として出版されました。原書房は 偶然にも 私の最初の訳書『イスラムの建築文化』を出した出版社で、それを担当した編集者の 長岡さんが、それよりも ずっと早くに 伊東忠太を「発見」して、その著作の復刊に 奔走したようです。惜しむらくは、第3期として予定されていた『フィールドノート』全6巻(これは復刊ではなく、新規の編集)は 出版されずに 終わりました。現在、『伊東忠太建築文献』を古書店で入手するには、龍吟社版ではなく、原書房版となることでしょう。
伊東忠太は 建築史家であると同時に建築家でしたから、多くの建築作品を残しています。『建築文献』は 文章のみを集めていて、建築作品は掲載していませんので、忠太の業績の丸ごとの「全集」とは言えないわけです。そこで、『建築文献』の4年後の1941年に、『 伊東忠太 建築作品 』が 城南書院から出版されました。太平洋戦争が勃発する年です。 大日本帝国がアジアを侵略するにつれて、アジア諸国に関する情報が必要とされ、政治や経済ばかりでなく、美術・建築を含め 多くのアジア関係の書物が出版されていきましたが、忠太の おおよその本は それ以前に出版されていました。しかし 国粋主義者としての伊東忠太は 大政翼賛会の建築界において 指導的役割を演じることが多かったので、戦後は「戦犯」のように見られたものでした。忠太が亡くなって、自身の設計になる築地本願寺で葬儀が営まれたのは、敗戦後9年目の 1954年のことです。
( 2016 /07/ 01 )
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