第4章
CHUTA'S ARCHITECTURAL PILGRIMAGE to INDIA
(王国社刊『伊東忠太を知っていますか』2003年 への寄稿)
神谷武夫
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建築史家であり 建築家でもあった伊東忠太 (1867-1954) は、日本の 他の建築家や建築史家と違って、欧米の建築よりもアジアの建築の研究を志した。東京帝国大学の助教授であった 1903年(明治 36) から1906年(明治 38)にかけて、教授になるための文部省派遣の留学生として、それまでの慣例を破って アジアを主とする世界旅行をし、日本人で初めて 中国、インド、中東の建築調査をした。この章では 忠太とインドとの関わりをたどり、忠太がインド建築をどのように見ていたのかを考察する。
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インド へ
1903年(明治 36年)、伊東忠太は中国から陸路でビルマ(現・ミャンマー)北部のバーモに入り、2週間をかけてビルマを縦断すると、ラングーン(現・ヤンゴン)に落ち着いた。 ここに8日間滞在したあと、汽船バンガラ号でインドへ向けて出航する。
当時の英領インドの首都であるカルカッタ(現・コルカタ)に上陸したのは、7月2日のことであった。 この日より翌年の3月 19日まで、8ヵ月半の間 インド各地を旅したが、その中には現在の国名であるパキスタンおよびスリランカも含まれている。
これは日本人として最初のインド建築調査旅行であり、ビルマまで含めて3冊のフィールド・ノートと日誌、および大量の乾板写真を残していて、それらは 100年前の日本人建築史家によるインド建築への反応を今に伝えるものとして貴重である。
フィールド・ノ-トより (06231-2)
中国旅行に比べ、イギリスの植民地であったインドでは既にイギリス人による古建築の研究や遺跡の発掘が大いに進んでいたので、飛び入りの伊東忠太が 独自の発見をしたり新しい仮説を考案したりするということは なかった。また広大なインドの全体を当時の交通事情で旅してまわるには、これだけの月日でも ほとんど駆け足旅行にならざるをえなかった。
しかし、その旅程をどのように立て、何を見てくるかという点に関しては、すでにイギリスの建築史家ジェイムズ・ファーガスンによる『インドと東方の建築史』初版 (*1)が出版されていたし、ジョン・マリーのインド・ガイドブック (*2) も 1901年には改訂第4版となっていたから、これらを頼りにすれば、手探りの中国旅行に比して、ずっと楽に情報が得られたと言える。
それでもインド中をくまなく旅する余裕はなかったので、ファーガスンの本から取捨選択しつつ精力的に見てまわり、その記述が正しいかどうかの確認をしながらフィールド・ノートをとる、ということが主な作業となった。
カルカッタに着くといきなりマラリアにかかり、1週間入院するはめとなった。
ビルマを発つ数日前に港で会ったインド人がちょうど岡倉天心の率いる日本美術院に留学するために日本へ発つところで、彼から、カルカッタには堀至徳 (*3)という日本からの留学僧がいるので訪ねるとよい、というアドバイスを受けていた。
忠太が描いた 堀至徳 (08232)
病に倒れた忠太はその縁で大いに堀の世話になり、彼が寄宿していたタゴール家に滞在することになる。岡倉天心や横山大観の知己でもあった堀は、その後忠太の旅に常に同行することになるが、旅の半ば、ガンダーラ地方で突然事故により発病して死去してしまうので、インド旅行の後半は忠太の一人旅となった。
忠太が撮影した乾板写真
●以下のモノクロ写真は、伊東忠太が大旅行の折に乾板写真で撮影したもの。(ファーガスンは建築の調査に銀板写真(ダゲレオタイプ)を活用したが、忠太の大旅行時には、乾板写真が普及していたので、忠太はフィールド・ノートをとるのと併せて、大いに乾板写真で記録をとった。)
今回の展覧会のひとつの目玉は、東大の建築教室にしまいこまれていた大量の乾板写真を一般公開するということである。本稿の本来のテーマもそれらの写真をもとに忠太のインド旅行を再構成するということであった。しかし、私の手元にきた写真を見ると、たとえばスリランカの写真は 30枚のうち 20枚が『伊東忠太建築文献』第4巻の巻頭口絵に用いられている写真であり、特に新資料というものではない。
インドについては、誰によってか 30枚ぐらいごとに整理されて収納された各箱の表題に「インド」の字が含まれるものが 14箱ある内、わずか3箱分のみのプリントが私の手元にきたにすぎないので、これだけで旅の全体のストーリーを組むことはできない。
そこで、写真の写りのよさそうなものを、できるだけ地理的に広い範囲から 10枚ばかりを選んで挿図とし、キャプションを添えておくことにした。 結果的にその過半がイスラム建築となってしまったのは、プリント用に選ばれた箱の中味がたまたまそうであったに過ぎず、忠太がイスラム建築ばかりを見て歩いたというわけではない。 (東京大学建築学科蔵)
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図1. バールフトで発掘されたストゥーパの 欄楯彫刻、カルカッタ、インド国立博物館内 古代仏教におけるボーディガラ(菩提樹堂)が描かれている。
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図2. リンガラージャ寺院の境内の小堂群、ブバネーシュワル(東インド) 中世における北方型のヒンドゥ寺院のシカラ(聖室の上の高塔)の形態。
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図3. マハーボーディ寺院(大菩提寺)の南側欄楯の彫刻、ボードガヤー(東インド) 聖所を囲む木造の柵が石造に 「進化」 した形を示す。
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図4. ジャイナ教の マハーヴィーラ寺院と、修復工事中の キールティ・スタンバ(名誉の塔)、チトルガル(西インド)
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図5. プラーナ・キラー内のキラーイ・クナ・モスク、デリー(北インド) Elevation(立面)が very good だと忠太は記している。
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図6. 宮廷地区内のパンチ・マハル(五層閣)、ファテプル・シークリー(北インド) アクバル大帝がインドの伝統と融和させた、木造的なイスラム建築。
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図7. ムガル朝第4代皇帝、ジャハーンギール廟のファサード、ラホール(パキスタン)
赤砂岩に白大理石の象嵌細工で飾られた壁面。
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図8. 木造のジャーミ・マスジド(金曜モスク)、シュリーナガル(カシュミール) 全体の意匠がビルマ建築に似ている、と忠太は書いている。
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図9. ムハフィズ・ハーン・モスク(シェイキング・ミナレット)、アフマダーバード(西インド) 偶像を拒否したイスラム建築は表面がのっぺり しがちだが、アフマダーバードのモスク群にはヒンドゥの石造建築の伝統が融合していて、その肉付け豊かな造形を忠太は好んだ。
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図10. ゴル・グンバズ(ムハンマド・アーディル・シャー2世廟)、ビジャープル(南インド) 忠太はビジャープル様式の特性として、フィールド・ノートに次のように書いている。
「Bold の内に fine なる所あり、fine なる内に bold なる所あり。 Simple にして要領を得たるものなり。この点において、他の印度におけるイスラム建築中の上乗なるべし。Hindu Element は極めて少し。 Construction 方面は大いに発達せり。 この点において真の Architecture の価値を見る。」
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インドの旅程
見学旅行は数次に分けられ、何事にも便利な大都市を起点にしては、そのコースを組むこととした。長短はあるが、全部で5回の調査行となり、そのあいまの大都市滞在では 休養をとると共に次回の旅の準備をした。 カルカッタでは毎日のようにインド博物館に通って、彫刻(図1)を主とするインド美術の発展過程を撮影し、ノートをとった。
いよいよ出発した第1次調査行は、カルカッタを起点にする 南部のオリッサ地方への短期間の旅である。 ブバネーシュワル(図2)やプリ、コナーラクのヒンドゥ寺院、そして初めて見るインドの石窟寺院としてウダヤギリ、カンダギリの丘を訪ねた。これはジャイナ教の石窟なのだが、ファーガスンの本の初版には仏教窟としてあったので、忠太もこれを「蓋し純粋なる仏教建築にて ・・・」 と書いたように、インド建築行脚は 常にファーガスンを指針とするほかなかった。
第2次調査行は カルカッタからインド第2の都ボンベイ(現・ムンバイ)に至るまでの1ヵ月にわたる亜大陸横断旅行であり、ボードガヤー(ブッダガヤー)の大菩提寺(図3)、カジュラーホのヒンドゥとジャイナの寺院群、サーンチー(当時は近くの町の名のビルサーと呼ばれた)の仏教遺跡などを見てまわった。特にボードガヤーは ブッダが菩提樹の下で悟りを開いたという重要な聖地であり、樹の脇に石造寺院が残ることから、現地で見ることのできた ラージェンドラ・ラーラ・ミトラの本から何枚も図面を写しとっている。商都ボンベイでは、かねて面識のあった日本領事の林宅に滞在して 快適な生活を送ることができた。
第3次調査行は ここを起点に、カシュミールを含む西域への大旅行である。 アジャンターとエローラーなどの石窟寺院群を皮切りに、ウダイプル、チトルガル(図4)を経由してアジュメールへ。 次いでアーグラをベースにして デリー(図5)、ファテプル・シークリー(図6)など近世のムガル建築や、ジャイプル、グヮーリオルなどのラージプート建築を見てまわるが、興味深いのは アーグラのタージ・マハル廟に対する評価である。後に「世界最美の建築、タジ・マハール」という文章を何度も書くことになるにもかかわらず、現地でのフィールド・ノートには 次のように書いているのが意外である。
「Proportion の美なるは余も同意なり。 然れども Detail treatment および decoration に至っては感服しがたし ・・・ 要するに、一体に Grand と Sublime の気韻なし ・・・ 建築として上出来のものにあらず。」
フィ-ルドノ-ト より、タ-ジ・マハル廟についての感想 (07102-3)
現在のパキスタンに入ると ラホール(図7)に滞在したあと、はるばるとカシュミールまで足をのばす。主目的のマールタンドの寺院址などを訪ね、シュリーナガル(図8)では 国王に拝謁もした。ここからガンダーラ地方へと進むと、マルダーンをベースにタフティ・バーヒー、ジャマールガリなどの遺跡を訪ねるが、ここで 堀の急死によって、旅に出て2ヵ月間強にして 急遽ボンベイに戻ることになる。スワート地方へは行けなかった。
第 4次調査行は ボンベイから近場のグジャラート地方への旅である。 アフマダーバード(図9)で「趣味深き」イスラーム建築群を見たあと、アーブ山のデルワーラ寺院群や シャトルンジャヤ、ギルナール両山の山岳寺院都市など、ジャイナ教の寺院を訪ねた。
最後の第5次調査行が、残りの南インドおよびスリランカを周遊する2ヵ月間の旅である。まずはカールリーやバージャーなどの仏教石窟寺院を調査してから、汽車でグルバルガ、ハイダラーバードのイスラーム都市を訪ねる。 東海岸の都会マドラスに着くと 船でマハーバリプラムに往復し、これよりタンジャーヴールのブリハディーシュワラ寺院をはじめとするドラヴィダ寺院群を タミル地方に見てまわる。次いでチュティコリンから 船でセイロン(現・スリランカ)のコロンボに渡り、奥地のアヌラーダプラ、ポロンナルワその他の仏教遺跡を訪ねた。インドに戻って当時のマイソール国へ行くと、ハレビード周辺のホイサラ寺院群、ヴィジャヤナガラの広大な都市址を訪ね、さらにビジャープルのイスラムー建築(図10)を経由して ボンベイに戻った。
スリランカをあとにしてからの 最後の行程は、さすがにインド疲れをしたのか、日誌の記述が ほとんどメモのような 項目の列挙のみとなることが多く、やや義務的な調査行の色彩が濃いが、ボンベイに帰りつく前の最後のページには、「印度旅行 悉皆完了を告げたれば、心も自ら ・・・」 と満足感を記している。
忠太のスケッチ、南インドのドラヴィダ様式 (08151)
インド建築への評価
伊東忠太はインド建築をどのように見ていただろうか。
この大旅行の主要な目的は、日本建築の源流を求めて中国から西域、中東、ギリシアへと遡ることであった。そしてまた その途次、アジアの建築をできるだけ多く調査して将来の東洋建築研究の資料とすることだったろう。その中で 彼がインドの建築にどれだけ期待していたかというと、実は、西域と中国との結節点であったガンダーラ地方(現・パキスタン領)を別にすれば、当初 インドの建築には 大して求めるところがなかったのではないか と思われる (*4)。結果的に8ヵ月半もインドに費やしたのは予想外のことであって、そのために 西アジアから中東方面の旅行期間が圧縮されてしまったのではなかろうか。
そう考える根拠は、彼の大学時代の卒業論文「建築哲学」にある。そこでは世界の建築様式を体系的に並べて、そのエッセンスを記述しようとしたのだが、「派流各論」(つまり、様式各論)のところで、インド建築は完全に省略されている。そして「印度建築術」の章では、その結論として次のように書いている。
「以上論ずる所を総括して これを換言すれば、印度建築においては 未だもって美と名づけるに足るものなく、諧調と清爽とを具有せず、ただ一種 異常の特性を発揮せんことを務めたるのみ、これを美学の原理に訴えれば、吾人は 毫もその建築術たるの価値を発見する所なきなり」(*5)
このように書いて、インド建築の全体を バッサリと切って捨てているのである。若き忠太にとって、インド建築に期待するところは ほとんどなかったと言えよう。その考えが 180度転回するのは、実は この大旅行の途次、インドに入る直前のことであった。
ビルマを旅していた間に、次に訪れるインドの建築について勉強すべく、彼は旅の途中で手に入れた ファーガスンの『インドと東方の建築史』を毎夜熟読した。この本は ファーガスンの『世界建築史』 全2巻とともに 卒業論文の「引用文献」のリストに挙げているから (*6)、大学所蔵本を見てはいたのだが、しかし後者には熱心に取り組んだものの、前者を じっくりと読むことは なかったらしい。旅のフィールド・ノートのビルマ編には、ファーガスンのこの本を 初めて章ごとに熟読しては、その要約を延々 17ページにわたって書き記しているのである。その学習の結果として ビルマ編の最終ページには、 「印度建築の複雑は、ほとんど糾問的なるが、実に面白し」 と書くに至った。
フィ-ルドノ-
トより (06121-2)
伊東忠太は卒業論文を書くにあたって ヴィオレ・ル・デュクやファーガスンをはじめとする西洋の書物を読みふけり、頭脳で建築を理解しようと務め、理解しえた範囲のことがらを「建築哲学」としてまとめたのだった。 実際に外国の地を踏むことなく、世界の建築を頭脳で理解しようとした時、理知的なギリシア建築はきわめてすぐれたものと考えられたが、煩瑣な彫刻で飾り立てられたインド建築は 評価に値しなかった。
けれど、その後 実際の建物を設計する立場になり、また各地を旅して実地の建物を目の当たりにするにつれて、建築とは頭脳で理解するよりも、むしろ眼で、感覚で見るべきものだ ということが次第にわかってくる。ファーガスンの本には、まだ写真製版のなかった時代であったが、代わりに精密な木口木版による 大量の図版が挿入されていた。それを逐一見ながら 本を読んでいくにつれて、忠太は初めてインド建築に目覚めるのである。もともと 江戸時代の草双紙で育ち、魑魅魍魎を愛した忠太にとって、インド建築が面白くないわけがなかった。これは全く 自分のふるさとのような世界だと思ったはずである。彼は後に ファーガスンのことを絶えず悪く言うようになるのだが、この大旅行の時には もっぱらファーガスンの本によって眼を開かれ、インド建築にたいして 大いなる期待をもって、カルカッタへと渡ったのである。
3冊にわたるインドのフィールド・ノートには、ひたすら大量の建築作品を記録することに努めたので、感情的なことは ほとんど書いていない。しかし、かつて無価値なものと決めつけたインド建築を これほど詳しく記録し続けたのは、インド建築に深く魅せられたからだと言える。そうでなければ2〜3ヵ月で切り上げて、歩を先へ進めることもできたはずである。
そして後年に至っても 彼はインド建築を愛し、寺院などの設計に そのモチーフを用いたばかりでなく、それ以外の建物をも、まるでインド建築のごとくに設計した。それらの作品群は、かつて彼がインド建築を評して発した言葉、「諧調と清爽とを具有せず。ただ一種異常の特性を発揮せんことを務めたるのみ」と 逆に人から評されても おかしくないものであったと言えるが、若い時に称揚した ギリシア建築の澄明とはちがった、「ほとんど糾問的な」複雑さと細部を備えたところが、彼の建築の魅力だろう。この大旅行におけるインド建築行脚は、そんな転向をもたらすほどに、伊東忠太にとって 刺激的な体験だったのである。
忠太の彩色画(『伊東忠太建築作品』口絵)
< 註 >
James Fergusson: History of Indian and Eastern Architecture, 1st ed. London, John Murray, 1876。J・バージェスと R・スパイアズによる増補改定版・全2巻は、忠太の旅行の 5年後に出版された。
ドイツのベデカーと並んで最も早く世界の旅行ガイドブック・シリーズを出版したのはイギリスのジョン・マリー社で、英領時代のインドのガイドブックとしては最良の “A Handbook for Travelers in India” を 1859年に初版を出し、1975年の第 22版まで改訂し続けた。
堀至徳(1876〜1903) 1901年に岡倉天心のインド行に同行し、天心の帰国後もカルカッタにとどまり、インド仏教の研究をしていた。旅行の途次、指の怪我から破傷風となり、ガンダーラで死去。
伊東忠太は法隆寺に代表される推古時代の美術に、遠くギリシア美術の影響があるのではないかという仮説を立てていたが、ガンダーラ地方を除くインド亜大陸は地理的にギリシアと日本を結ぶ影響関係のルート上にはない。
また仏教寺院の発祥地がインドであるとはいっても、インドにおける仏教は 13世紀に滅んでしまったので、石窟寺院を別にすれば、古代の仏教建築はインドにほとんど残っていない。インドを長期間旅すれば、目にするのはほとんどがヒンドゥ建築とイスラム建築、それにジャイナ建築とコロニアル建築である。
また、ガンダーラを旅しての忠太の結論は、「推古式は西域と支那との和合なりとの Theory は破るべし」(フィールド・ノート第7冊「印度」)というものであった。
伊東忠太卒業論文「建築哲学」第3編「建築派流各論」、第2款「印度建築術」、第 4章「建築形式評論」p. 449、東京大学建築学科図書室蔵。引用者が現代仮名遣いに改めた(その他の引用も同じ)。
卒業論文の「引用書目次」 には、第1、2冊目にヴィオレ・ル・デュクの本が挙げられ、3冊目に「フェルガッソン」建築史、4冊目に「仝」印度及東土建築史、と書かれている。
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